スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
八代 尚宏(やしろ なおひろ、1946年2月22日 - )は… 八代 尚宏(やしろ なおひろ、1946年2月22日 - )は、日本の経済学者。国際基督教大学教養学部社会科学科教授を経て昭和女子大学特命教授。専門は労働経済学、法と経済学、経済政策。内閣府経済財政諮問会議委員、内閣府規制改革会議委員、内閣府規制改革推進会議委員を経る。 同志社高等学校を経て、国際基督教大学教養学部理学科に入学。翌年、社会科学科に編入し、山本草二(国際法)・中内恒夫(経済学)の下で指導を受ける。ICU卒業後は東京大学経済学部に学士入学し、小宮隆太郎(国際貿易)のゼミで学ぶ。東大卒業後、経済企画庁に入庁。在職中の1981年にメリーランド大学大学院(アメリカ合衆国)にて経済学博士の学位を取得。
髙橋 昌明(たかはし まさあき、1945年1月27日 - )… 髙橋 昌明(たかはし まさあき、1945年1月27日 - )は、日本の歴史学者、神戸大学名誉教授。日本中世史専攻。 高知県高知市生まれ。1969年同志社大学大学院文学研究科修士課程修了。同志社高等学校教諭、滋賀大学教育学部教授、神戸大学大学院人文学研究科教授を歴任する。2002年「武士の成立 武士像の創出」で大阪大学より博士(文学)の学位を受ける。2008年定年退職、神戸大学名誉教授となる。 2007年、平氏政権を最初の武家政権とする論を発表し、「六波羅幕府」と呼び、上横手雅敬と論争になった。2011年8月5日、日本史研究会代表委員としての立場で、大阪府議会における「日の丸」常時掲揚・「君が代」斉唱時起立条例の強行可決に抗議する声明を連名で出した。
はしだ のりひこ(本名:端田 宣彦〈読み同じ〉、1945年1… はしだ のりひこ(本名:端田 宣彦〈読み同じ〉、1945年1月7日 - 2017年12月2日)は、日本のシンガーソングライター、フォークシンガーである。身長163cm。愛称はのりちゃん。長男は、元長野大学准教授の端田篤人(故人)、娘は舞台女優の端田新菜。 京都府京都市生まれ。4人兄弟の長男。同志社高等学校を経て、同志社大学神学部に進学。8年と2年の休学で10年在籍し、退学。 高校2年の文化祭でギターを始める。1964年にドゥーディ・ランブラーズの一員としてデビューした後、加藤和彦に請われて1967年にザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の1年限定のメジャー活動の一員として参加する。フォークルは予定通り1年で解散。
田原 睦夫(たはら むつお、1943年4月23日 - 201… 田原 睦夫(たはら むつお、1943年4月23日 - 2016年2月19日)は、弁護士、元最高裁判所判事(2006年11月1日 - 2013年4月22日)。京都府京都市伏見区出身。 主に倒産法関係で著名。伊方原発事件原告代理人。
夏目 久子(なつめ ひさこ、1942年9月 -)は、日本のメ… 夏目 久子(なつめ ひさこ、1942年9月 -)は、日本のメゾソプラノ歌手。 京都府京都市出身。1961年に同志社高等学校を卒業し、1965年に同志社女子大学学芸学部音楽科声楽専攻を卒業した。文化庁主催オペラ、二期会オペレッタ事業団ミュージカルなど、オペラ、オペレッタ、ミュージカルに出演し、ドイツ、オーストリア、ロシアなど海外でも公演した。2010年、革新・愛知の会主催の「音楽と講演の夕べ」に出演した。平成19年度文化庁「文化芸術による創造のまち」支援事業[要検証 – ノート]。
横井 軍平(よこい ぐんぺい、1941年〈昭和16年〉9月1… 横井 軍平(よこい ぐんぺい、1941年〈昭和16年〉9月10日 - 1997年〈平成9年〉10月4日)は、日本の技術者、ゲームクリエイター。ゲーム業界に多大な貢献を行ったことから「ゲームの父」や「携帯ゲームの父」の異名で知られる。 京都府京都市出身。同志社大学工学部電気工学科卒。 任天堂開発第一部部長として『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わり、宮本茂と並んで任天堂を世界的大企業へと押し上げる原動力となった。 趣味は鉄道模型で、小学3年生でOゲージを買ってもらい、中学2年生でHOゲージに転向、高校時代に完成させたレイアウト「SPライン(Sはsilk=絹、Pはparasol=傘、絹傘→きぬかさ→衣笠、当時の住所から使ったとのこと)」を専門誌『鉄道模型趣味』に投稿し、1958年1月号に掲載されている。
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2… 津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2日 - 2018年〈平成30年〉8月4日)は、日本の俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。 芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。位階は従五位。 俳優としては1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演。1980年代以降は『マルサの女』や『スーパーの女』など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示した。1999年には『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
立石 義雄(たていし よしお、1939年(昭和14年)11月… 立石 義雄(たていし よしお、1939年(昭和14年)11月1日 - 2020年(令和2年)4月21日)は、日本の実業家。オムロン創業者立石一真の三男で、同社代表取締役社長や、同社代表取締役会長、京都商工会議所会頭、日本商工会議所副会頭等を歴任した。 大阪府大阪市西淀川区野里出身で、立石一真の三男である。1958年に同志社高等学校を卒業し、1962年には同志社大学経済学部を卒業した。 1963年、立石電機(現:オムロン)に入社し、徐々にキャリアを積み重ねた。1987年、兄の立石孝雄の後任として、同社代表取締役社長に就任した。「会社は創業家のものではない」との考えから、1990年に創業者の苗字を冠した「立石電機」という社名を「オムロン」へと改称した。
民秋 史也(たみあき ふみや、1938年6月10日 - 20… 民秋 史也(たみあき ふみや、1938年6月10日 - 2010年8月17日)は、京都府出身の実業家。元・株式会社モルテン代表取締役社長。クリスチャン。 同志社高校、東京大学文学部および教育学部を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。1970年にアメリカ子会社マツダ・モータース・オブ・アメリカに出向。その間、南カリフォルニア大学大学院で経営学を専攻した。 帰国後の1976年、義父の弟でありモルテンゴム工業(現モルテン)創業者の増田秀雄が体調不良により退いたため、同年より同社代表取締役社長に就任した。1979年、アディダスと技術提携したことにより、モルテンを世界的メーカーに育て上げた。 モルテン社長職ともに様々な役職を歴任、広島経済大学および広島修道大学の特別客員教授や、1986年から1994年まで広島県教育委員会委員、1990年3月から1997年11月まで広島商工会議所副会頭、広島キリスト教青年会(YMCA)理事長などを務めた。
立石 信雄(たていし のぶお、1936年6月6日 - 202… 立石 信雄(たていし のぶお、1936年6月6日 - 2022年4月12日)は、日本の実業家。オムロンの会長などを務めた。 1936年、立石電機(現・オムロン)創業者の立石一真の二男として大阪市に生まれる。第二次世界大戦中の小学校時代には山でマムシや食用ガエルを捕まえるなど、活発な少年だった。1945年6月の大阪大空襲で立石電機の工場が焼けたため、会社とともに京都市に転居した。この頃に姉に連れられて日曜学校に行き、聖歌隊に入った事がきっかけで英語に興味を持ったという。 市立中学に入ったものの、自身の希望で英語教育が充実していた同志社中学校の編入試験を受け、中学1年の2学期から同校に編入した。英語への関心は根強く、同志社高校を経て、1955年に同志社大学文学部英文科に進学した。
麻田 貞雄(あさだ さだお、1936年1月29日 - 201… 麻田 貞雄(あさだ さだお、1936年1月29日 - 2019年2月4日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。専門はアメリカ外交史・日米関係史。 京都市に生まれる。同志社中学校・高等学校を経て、1958年にカールトン・カレッジを歴史学専攻で卒業した。1960年にイェール大学大学院修士課程、1963年に同大学院博士課程を修了、Ph.D(歴史学)の学位を取得した。 同志社大学アメリカ研究所研究員(1963-64年)、同講師(1964-67年)、同助教授(1967-72年)を経て、1972年より同志社大学法学部助教授、教授を歴任し、2006年に定年退官した。 『両大戦間の日米関係』で1994年度・第12回吉野作造賞を受賞。
倉戸 ヨシヤ(くらと ヨシヤ、1936年 - )は臨床心理学… 倉戸 ヨシヤ(くらと ヨシヤ、1936年 - )は臨床心理学者。クリスチャンの家系に生まれ、名前の「ヨシヤ」も聖書からとったものである。妻は倉戸由紀子であり、夫婦共に人間性心理学やゲシュタルト療法の研究に従事している。大阪市立大学名誉教授。 同志社高等学校を経て、1959年同志社大学文学部心理学専攻卒業、大阪社会事業短期大学助手。 "マサチューセッツ大学アマースト校"大学院教育学部カウンセリング専攻博士課程修了M.Ed.、Ed.D.サンフランシスコ州立大学専任講師・カウンセラー 日本心理臨床学会理事、同編集委員、同倫理委員、現在名誉会員、日本人間性心理学会理事長、大阪府臨床心理士会会長などを歴任した。
宮原 賢次(みやはら けんじ、1935年〈昭和10年〉11月… 宮原 賢次(みやはら けんじ、1935年〈昭和10年〉11月5日 - 2026年〈令和8年〉1月5日)は、日本の実業家。第7代住友商事社長・現相談役、日本電気取締役、日立製作所社外取締役。社団法人日本貿易会会長。元日本経団連副会長。21世紀政策研究所理事長。日本機械輸出組合理事長。財団法人国際民商事法センター会長。 ニューヨークに通算9年間(1966年 - 1972年、1990年 - 1993年)駐在した米国通。在米期間中の米国の金融機関との付き合いから学んだ、リスク・リターンをベースにした「改革パッケージ」のモデルを1998年に作成。全社のビジネスラインを約250に分解し、徹底した不採算事業の整理と、不良債権処理によって、財務体質を改善した。
村田 純一(むらた じゅんいち、1935年10月19日 - … 村田 純一(むらた じゅんいち、1935年10月19日 - )は、日本の実業家。村田機械会長、京都商工会議所名誉会頭、京都文化交流コンベンションビューロー理事長、国立京都国際会館副理事長を務めている。 京都府京都市出身。1958年に慶應義塾大学法学部を卒業し、アメリカのバブソン大学大学院での修了を経て、1960年に村田機械に入社した。 1970年に社長に就任し、2003年から会長に就任した。この間、1999年から2004年まで日本繊維機械協会会長を務めた。 2001年から2007年までに京都商工会議所会頭や日本商工会議所副会頭を務め、「古典の日」の制定を宣言するなど古典の普及にも力を入れ、退任後、京都商工会議所名誉会頭。
巽 悟朗(たつみ ごろう、1935年7月18日 - 2003… 巽 悟朗(たつみ ごろう、1935年7月18日 - 2003年12月23日)は、元大阪証券取引所社長、光世証券創業者。北浜の風雲児の異名を取った。 大阪市船場生まれ。同志社高等学校、同志社大学経済学部卒。アメリカンフットボール選手や応援団長を経験。卒業後、山源証券(後のヤマゲン証券、現・マディソン証券)に入社。1961年、25歳にして光世証券を創業、一代で東証一部上場企業に育て上げた。 2000年、大阪証券取引所理事長に就任。2001年、大阪証券取引所初代社長に就任。ナスダック・ジャパン市場(現・新ジャスダック市場)を創設。 長男である大介は現・光世証券社長。
井上 礼之(いのうえ のりゆき、1935年3月17日 - )… 井上 礼之(いのうえ のりゆき、1935年3月17日 - )は、日本の実業家。ダイキン工業代表取締役会長兼社長を経て、同社取締役会長兼グローバルグループ代表執行役員、関西フィルハーモニー管弦楽団理事長。ダイキン工業で1994年の社長就任時に3千億円台だった売上高を4兆円超に育てた。 京都市生まれ。同志社中学校・高等学校を経て、1957年同志社大学経済学部卒業、大阪金属工業(現ダイキン工業)入社、淀川製作所総務部配属。人事部長等を経て、1979年取締役に昇格。1985年常務取締役。1989年専務取締役。 1994年から代表取締役社長を務め、経営危機にあったダイキン工業を世界トップクラスの空調機メーカーに成長させ、同社中興の祖とされる。
浅沼 萬里(あさぬま ばんり、1935年 - 1996年3月… 浅沼 萬里(あさぬま ばんり、1935年 - 1996年3月23日)は、日本の経済学者。専門は取引費用の経済学と契約理論。京都大学教授である。位階は正四位。浅沼万里とも書く。 母親が出産のために一時帰国していたため京都で生まれるが、幼少期を中国で過ごしており、名前は万里の長城にちなむ。浅沼が小学校4年時に終戦となり、翌年の8月に日本に戻る。 同志社中学校・高等学校で学び、生徒会長とテニス部のキャプテンを務める。このとき、アメリカのキリスト教会からの奨学金の支援を受けており、そのことを生涯感謝していた。高校3年時に病気になり、病院で1年、自宅で2年療養し、1956年、21歳のときに同志社高校3年に復学する。
嶋 雅二(しま まさじ、1934年12月29日 - 2014… 嶋 雅二(しま まさじ、1934年12月29日 - 2014年11月11日)は日本の実業家。ホーネンコーポレーション代表取締役会長兼CEO、J-オイルミルズ代表取締役社長、日本植物油協会会長などを務めた。 大阪府出身。京都市立川岡国民学校(現在の京都市立川岡小学校)、同志社中学校・高等学校を経て、同志社大学経済学部卒業後、豊年製油(のちのホーネンコーポレーション)に入社。1989年からホーネンコーポレーション代表取締役社長を務めた。その後、ホーネンコーポレーション代表取締役会長兼CEOとして、味の素代表取締役社長・江頭邦雄との交渉などにあたり味の素製油との経営統合を行い、2002年に持株会社として設立された豊年味の素製油(現在のJ-オイルミルズ)の初代代表取締役社長に就任した。
宇宿 允人(うすき まさと、1934年11月8日 - 201… 宇宿 允人(うすき まさと、1934年11月8日 - 2011年3月5日)は、京都府出身の指揮者、トロンボーン奏者。旧名は山口 治だが、のちに婚家の姓を名乗り、宇宿 治となり、のち宇宿 允人と改名した。 京都市西陣で表具師の家庭に生まれ育つ。京都市立西陣小学校から京都市立上京中学校を経て同志社高等学校に入学するが経済的理由で中退し、京都市立堀川高等学校普通科に転校。同音楽科への転科を経て、1957年に東京芸術大学器楽科卒業後、ABC管弦楽団に入団。翌1958年、トロンボーンの師である嶋昇の誘いでNHK交響楽団に移籍。1960年から1968年までN響の首席トロンボーン奏者として活動。傍ら、フルトヴェングラーの指揮する音楽と彼の人柄に感銘を受けて指揮者を志し、管弦楽法と指揮法を近衛秀麿に師事し、指揮者として東京佼成ウインドオーケストラを指導した。
加藤 充(かとう みつる、1934年3月3日 - )は 東京… 加藤 充(かとう みつる、1934年3月3日 - )は 東京都生まれ、京都府育ちのベーシスト。通称「カッペちゃん」。サンズ・オブ・ウェストやザ・スパイダースのメンバーとして活動を行った。 マンドリンを嗜む母の影響でギター教室に通うも単調な練習に耐えられず挫折、その後独学で古賀メロディーなどを習得する。 その後ウェスタンミュージックに憧れて、同志社高校時代には同志社大学のカントリーバンド「ゲーリー石黒&サンズ・オブ・ウェスト」に欠員要員として参加、ギター・ベース・アコーディオンを担当し、米軍キャンプ廻りなどで鍛えられる。同志社で賛美歌に慣れ親しんでいたため、曲の構成やコードが似ているウェスタンミュージックの習得は容易だったという。
古川 哲雄(ふるかわ てつお、1934年 - )は、日本の医… 古川 哲雄(ふるかわ てつお、1934年 - )は、日本の医師、医学者。専門は神経内科学。 1934年、兵庫県伊丹市に生まれる。滋賀県日野町立小、中学校卒、京都同志社高校卒。 1961年、東京大学医学部医学科を卒業する。1962年、東京大学医学部第3内科に入る。1967年、医学博士号を取得する。1968年、東京大学医学部脳研神経内科に入る。1969年から1971年、および1977年、ロサンゼルスのカリフォルニア大学に留学する。1975年から80年にかけて東京女子医科大学神経内科非常勤講師を併任していた。1978年、日本赤十字社医療センター神経内科部長となる。1980年から2002年まで、東京医科歯科大学医学部神経内科助教授、保健衛生学科教授を務める。
岩山 太次郎(いわやま たじろう、1933年(昭和8年)1月… 岩山 太次郎(いわやま たじろう、1933年(昭和8年)1月10日 - )は、日本のアメリカ文学者、同志社大学名誉教授。元学長。 京都府出身。同志社中学校、高校卒、1955年同志社大学文学部英文科卒、58年同大学院修士課程修了、助手。 1960年代初頭にケニオン大学とアイオワ州立大学に留学。 1962年アイオワ大学英文科Master of Fine Arts(修士)修了、63年同志社大学文学部専任講師、65年助教授、71年文学部教授、86年文学部長、92年学長。2003年退任、名誉教授。 専門は19世紀アメリカ・リアリズム文学論、モダニズム以降のアメリカ詩、ユダヤ系作家の小説群。 修士論文の対象としてヘンリー・ジェイムズを選択。
須田 寬(すだ ひろし、1931年1月28日 - 2024年… 須田 寬(すだ ひろし、1931年1月28日 - 2024年12月13日)は、日本の実業家。東海旅客鉄道株式会社(JR東海)参与。同社初代代表取締役社長。第7代鉄道友の会会長。名は寛と表記されることが多いが、正表記は寬(儿部の右側に点が入る)。 職責以上に鉄道営業制度に精通し、フルムーン夫婦グリーンパス、自由席、青春18きっぷ、ホームライナーの生みの親と言われる。エル特急の誕生にも関与した。 京都市中京区で洋画家の須田国太郎の長男として生まれる。国太郎は写生旅行のため時刻表を毎月のように購入しており、読み方を教えられて幼稚園の頃から読み出した。少年時代は体が弱く、時刻表を見ながら病床で遠方への旅行を想像していたという。
須田 寬(すだ ひろし、1931年1月28日 - )は、東海… 須田 寬(すだ ひろし、1931年1月28日 - )は、東海旅客鉄道(JR東海)の初代代表取締役社長である。名は寛と表記されることが多いが、正式な名前の表記は寬(儿部の右側に点が入る)である。
中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年〈昭和4年〉8月2… 中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年〈昭和4年〉8月2日 - 2013年〈平成25年〉5月3日)は、日本の弁護士(大阪弁護士会)。法学士(京都大学)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)特別顧問。 森永ヒ素ミルク中毒事件や豊田商事事件の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構の初代社長を務めた。 1999年に設置された司法制度改革審議会において委員として参加し、法科大学院や裁判員制度の導入に尽力した。戦後日本を代表する弁護士であり、「平成の鬼平」とマスコミ各社に名付けられ呼ばれた。 京都府京都市で、父・中坊忠治、母・富の次男として生まれる。
中瀬 寿一(なかせ としかず、1928年3月23日 - 20… 中瀬 寿一(なかせ としかず、1928年3月23日 - 2001年8月26日)は、日本史・経営史学者。 大阪府出身。同志社中学校卒、旧制大阪高等学校卒、1954年大阪市立大学経済学部卒、年表編纂委員となる。関西国民文化会議、大阪総評十年史代表編纂委員。1969年「日本広告産業発達史研究」で中央大学商学博士。大阪産業大学助教授、教授、1972-1973年、1978年経営学部長、1998年定年、名誉教授。
谷村 友一(たにむら ともいち、1927年8月22日 - 2… 谷村 友一(たにむら ともいち、1927年8月22日 - 2022年7月31日)は、日本のプロ野球審判員。所属はセントラル・リーグ。京都府出身(出生地はアメリカ・ニューヨーク)。 1927年、父親の駐在先であるニューヨークで生まれる。5歳で帰国した。 旧制同志社中学(現:同志社高校)、同志社大学から極東商事(現:三菱商事入社。選手時代は二塁手で、甲子園出場は無いが、大学では4年生時に主将を務め、1950年秋のリーグ優勝に貢献し、最高殊勲選手賞を受賞している。また、1952年に社会人野球チーム・京都クラブで第23回都市対抗野球大会への出場経験がある。 大学卒業後、24歳から旧関西六大学野球と高校野球で審判員を務め、1955年から甲子園大会も担当。
櫟 信平(いちい しんぺい、1925年6月22日 - 200… 櫟 信平(いちい しんぺい、1925年6月22日 - 2008年6月10日)は京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
榎本 保郎(えのもと やすろう、1925年5月5日 - 19… 榎本 保郎(えのもと やすろう、1925年5月5日 - 1977年7月27日)は、日本の牧師。アシュラム運動の普及に貢献した。「ちいろば牧師」の愛称で知られる。三浦綾子の「ちいろば先生物語」で広く知られるようになった。 配偶者はアシュラムセンター主事の榎本和子(1925-2023)。榎本栄次牧師は実弟。後宮俊夫牧師は義弟。娘は実践神学者の榎本てる子(関西学院大学准教授、1962-2018)。 1925年、兵庫県三原郡神代村(現南あわじ市神代)に生まれる。1938年に旧制洲本中学校に入学する。少年時代は軍国少年だった。1944年に徴兵検査を受け、満州に出征する。1945年満州で敗戦を迎える。帰国後、敗戦の喪失の中で虚無感に陥っていた。
江崎 玲於奈(えさき れおな、1925年〈大正14年〉3月1… 江崎 玲於奈(えさき れおな、1925年〈大正14年〉3月12日 - )は、日本の物理学者。日本国外においてはレオ・エサキ(Leo Esaki)の名で知られる。 1973年(昭和48年)、トンネル効果の研究に関連して、アイヴァー・ジェーバー、ブライアン・ジョゼフソンとともにノーベル物理学賞を受賞し、日本人としては4人目となるノーベル賞受賞者となった。 文化勲章受章者、勲一等旭日大綬章受章者。学位は理学博士(東京大学・1959年)。学位論文は「薄いp-n接合における新現象」。 大阪府中河内郡高井田村(後の同郡布施町、さらに布施市、現在の東大阪市布施地区)で生まれ、1947年に東京帝国大学を卒業し、川西機械製作所(後の神戸工業株式会社、現在のデンソーテン)に入社、真空管の陰極からの熱電子放出の研究を行った。
隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9… 隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9月30日 - 1989年〈平成元年〉11月4日)は、日本の脚本家、小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で脚本、隆慶一郎のペンネームで小説を執筆していた。 東京市赤坂区生まれ。旧制同志社中学、第三高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒。 戦時中は学徒出陣で出征、陸軍士官として中国大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復学して1948年 東京大学卒業、大学時代に師事していた小林秀雄が参画していた創元社(のちの東京創元社)に入社する。
千 玄室(せん げんしつ、1923年〈大正12年〉4月19日… 千 玄室(せん げんしつ、1923年〈大正12年〉4月19日 - 2025年〈令和7年〉8月14日)は、茶人。茶道裏千家15代家元汎叟宗室。斎号は鵬雲斎、若宗匠時代は宗興。家元譲座後は大宗匠を務めた。位階は従三位。 「玄室」の名は、裏千家4代目の仙叟宗室が宗室を襲名する以前の名で、12代直叟宗室が隠居した際にも「玄室」を名乗っていた。最初の「宗室」への改名前の本名は千 政興。 青年時代には大日本帝国海軍に特攻隊員として入隊した経験を持ち、メディアなどを通し、戦争体験者の1人として実体験を語り継いでいた。終戦直前には松山海軍航空基地で航空隊分隊士教官として甲飛第15期の訓練にあたった。後に特秘命令として南方戦線に居る高官を陸軍の大型輸送機を使用して連れて帰るように命ぜられた。
柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラ… 柯 子彰(か ししょう 1910年 - 2001年)は、元ラグビー選手、指導者。
マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月… マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1… 新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1990年(平成2年)6月15日)は、日本の競泳選手。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。旧制同志社中学、早稲田大学専門部政治経済科卒業。京都武徳会所属。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで米山弘、佐田徳平、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年1… 桝 嘉一(ます かいち、1908年3月8日 - 1981年12月18日[要出典])は、京都府京都市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。 元はテニス選手で旧制同志社中学校、同志社高等商業学校を経て、明治大学に進む。東京六大学リーグ通算88試合出場、296打数70安打、打率.236、0本塁打、34打点。1936年に名古屋軍に入団。 1937年と1943年には監督 、1941年から1942年までは助監督も務めた(すべて選手兼任)。1944年は監督業を三宅大輔に譲って選手専任となるが、出場機会は無く、同年限りで現役引退。戦後、一時期審判員を務め、その後、社会人日本鋼管の野球部監督に就任(プロ野球人名事典1999)し、1981年12月18日、死去。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 199… 今西 正雄(いまにし まさお、1905年5月4日 - 1990年6月13日)は、日本の歴史学者。同志社大学名誉教授。 1905年5月4日、京都市の西陣に織問屋を営む今西家の長男に生まれる。1928年、同志社大学法学部経済学科卒業。アメリカ合衆国やドイツに留学。1949年より同志社大学経済学部教授。専攻はドイツ経済史。1965年ころから「低開発」問題に関心をもち、ブラジル経済史、特にポピュリスト的指導者ヴァルガスの計画経済の研究にとりくむ。1976年の退職後は、同志社大学や他大学で後進の指導にあたった。1990年6月13日、ブラジルで逝去。享年85。
林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年… 林 寛(はやし ひろし、1905年1月31日 - 1971年12月22日)は、日本の俳優である。本名稲垣 三郎(いながき さぶろう)。音読みが同一の俳優林幹、極東映画の俳優、林寛(はやし かん)とは別人である。 1905年(明治38年)1月31日、京都府京都市に「稲垣三郎」として生まれる。 旧制・同志社中学校(現在の同志社高等学校)を中途退学し、東京に移る。「東京オペラ座」、石井漠主宰の「石井漠一座」、松旭斎天華主宰の「松旭斎天華一座」等、舞台の実演畑を渡り歩く。1926年(大正15年)ころに島幹雄が設立した「日本少女歌劇団」に参加し、地方巡業に関わる。 1940年(昭和15年)、竹田モト(1915年 - 2006年)と結婚、その後2児をもうける。
中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日… 中村 要(なかむら かなめ、1904年(明治37年)4月8日 - 1932年(昭和7年)9月24日)は、日本の天文学者、京都帝国大学天文台の職員。滋賀県出身。 1904年(明治37年)4月8日、滋賀県滋賀郡真野村(現大津市真野)に生まれる。父は真野村長などを勤めた中村与、6人兄弟の次男として誕生した。1910年(明治43年)4月、真野小学校に入学し、1916年(大正5年)3月同校を卒業、同年4月同志社中学に入学した。1920年(大正9年)に京都帝国大学理学部教授山本一清により天文同好会(略称・OAA)が発会すると、同会同志社支部に入会した。1921年(大正10年)同志社中学卒業後、第三高等学校を受験するが、天体観測に身を入れ過ぎて失敗。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉… 北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉4月23日 - 1989年〈平成元年〉2月27日)は、昭和時代の華族(子爵)、歌人。母は歌人として知られる柳原白蓮(柳原燁子)。昭和天皇とは又従兄弟にあたり、自身の誕生から6日後に誕生している。 1901年(明治34年)、北小路資武の長男として東京で生まれる。一家は困窮のため、北小路家縁の京都鞍馬口へ転居する。功光が5歳のときに両親が離婚したため、祖母・久子によって育てられた。 同志社中学から学習院を経て、東京帝国大学文学部中退。学習院時代には霊南坂教会に通っていた。1942年(昭和17年)2月28日に父子爵の資武が亡くなると、7月15日に子爵を襲爵した。
笹井 末三郎(ささい すえさぶろう、1901年2月10日 -… 笹井 末三郎(ささい すえさぶろう、1901年2月10日 - 1969年1月12日)は、日本のアナキスト、任侠、映画人である。マキノトーキー製作所理事、荒虎千本組三代目組長を歴任した。 1901年(明治34年)2月10日、京都府京都市右京区で材木運送業の千本組荒虎親分こと笹井三左衛門の三男として生まれる。笹井家は大日本国粋会西京支部の看板を掲げる家であった。 幼いころから文学を志し、旧制・同志社中学校(現在の同志社高等学校)在学中に雑誌投稿を重ねるうちに、中村還一と知り合い、アナキズムに触れる。1920年(大正9年)、大杉栄の「東京労働同盟会」機関紙『労働運動』第6号に活動家として名が挙げられる。
大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1983年11月26日)は、京都を中心として活躍した建築家。京都工芸繊維大学学長、西日本工業大学学長などを務めた。
中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月… 中西 其十(なかにし きじゅう、1899年(明治32年)4月21日 - 1922年(大正11年)1月18日)は、京都府出身の俳人。京大三高俳句会設立会員、「京鹿子」創刊同人。本名、喜重郎。 京都府船井郡檜山村(ひのきやまむら)字八田第三番戸(現・船井郡京丹波町八田)に生まれる。父母の名は現在のところ不明。 1916年(大正5年)、同志社中学3年に中途編入。中学では小西米太という親友を得、島崎藤村の詩や古人の俳句について語り合い、また、芝居や浄瑠璃へも共に行った。 1919年(大正8年)3月、同志社中学校卒業。米太と共に、本格的に俳句を書き始める。当初の俳号は喜郎や西郎、坡十など。三高入学後に其十と名乗った。
山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7… 山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7月25日 - 1976年12月1日)は、法律家、詩吟家。 本業は弁護士であったが、己の修養のため若いころから培ってきた詩吟が有識者の耳にとまり、ラジオで放送されたりレコード化されたりで著名となる。その声量と独特な高音の節まわしによる「修養のための詩吟」が知られるようになり、本業の弁護士の傍ら「包容会」を創設、会誌発行とともに後進の指導にも当たった。 積善は、詩吟は余興や芸能ではなく “祈りであり行(ぎょう)である” として「吟行(ぎんぎょう)」という言葉を用いて指導した。つまり、詩吟は心ある日本人の祈りであり、己を磨き強固な精神を養う修行として吟ぜよ、ということである。
竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9… 竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9日 - 1980年(昭和55年)2月18日)は、日本の社会学者・社会福祉学者。日本における社会福祉学の構築に寄与した研究者で、ソーシャル・ケースワーク研究の黎明期を支えた第一人者。日本ソーシャルワーカー協会の初代会長。 京都府京都市生まれ。父は同志社神学科にて学び、愛二が生まれてのち長崎県を中心に九州伝道を行った牧師であり、母も伝道の道にいた人物であるとされる。幼少期の愛二も両親の伝道の旅に付き添ったため、書類によってはその道程の地域を出身地としたものも散見される。 1913年に旧制同志社中学校を卒業し、神戸三菱造船所に就職。1924年に学問への志、断ち難く三菱造船を辞して米国への私費留学へと赴く。
湯浅 十郎(ゆあさ じゅうろう、1895年(明治28年)1月… 湯浅 十郎(ゆあさ じゅうろう、1895年(明治28年)1月24日 - 1981年(昭和56年)6月26日)は、ブラジル・ホーリネス教団の牧師である。 湯浅治郎、湯浅初子の子供として生まれる。同志社中学に学び、1910年(明治43年)に原田助から洗礼を受ける。1913年に第三高等学校に入学する。また、東京神学社で学ぶ。 1915年(大正4年)、日本ホーリネス教会の田辻敏子の指導を受けて、同教会に転入する。1919年(大正8年)に辻静子と結婚する。純、敬が生まれる。 1929年(昭和4年)に中田重治監督と共に、ブラジル伝道に行き、先に派遣されていた物部赳夫に会う。湯浅は一家でブラジルに永住することになる。
梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月1… 梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月13日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。東洋考古学の基礎を築いた。文学博士(京都帝国大学・1939年)(学位論文「支那青銅器時代の研究」)。 大阪府南河内郡古市村(現:羽曳野市)に生まれる。1913年同志社普通学校(現:同志社中学校・高等学校)卒業。1914年(大正3年)京都帝国大学文科大学陳列館助手。1921年(大正10年)朝鮮総督府古跡調査委員[要出典]。1929年(昭和4年)、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)所員、京都帝国大学文学部講師。1933年(昭和8年)6月、同助教授(考古学講座)。