上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月… 上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月30日)は、日本の教育者、文部官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業。農商務省嘱託、文部属、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任し、その間東京高等師範学校教授を兼ねた。1921年(大正10年)、三重高等農林学校校長に就任し、1939年(昭和14年)には東京農業教育専門学校校長となった。戦後の1946年(昭和21年)から霞ヶ浦農科大学学長を務めた。 その他、日本農業教育会会長、大日本教育会副会長、全国学農連盟副会長、実業教育振興会理事長、日本青年館理事などを務めた。
永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 197… 永田 寛定(ながた ひろさだ、1885年1月1日 - 1973年8月2日)は、日本のスペイン文学者、翻訳家。 東京生まれ。1909年東京外国語学校西斑牙語科卒業、戦後、東京外国語大学教授を務めた。スペイン文学の翻訳、教育に尽くした。 岩波文庫で、セルバンデス『ドン・キホーテ』完訳に挑んだが、徹底的に直す翻訳作業で、行の頭にこの字が来てはいけない、といった直し方を続けたため、続編の翻訳半ばで死去、弟子の高橋正武が継いで、最終巻を刊行した。なお『ドン・キホーテ』は、弟子の会田由が先に完訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治1… 栗原 大島太郎(くりはら おおしまたろう、1885年(明治18年)1月23月 - 1975年(昭和50年)5月10日)は、大正から昭和期の医師、実業家、政治家。衆議院議員、長崎県南高来郡加津佐町長。 長崎県南高来郡加津佐村(加津佐町を経て現南島原市)で、栗原一角の五男として生まれ、1916年(大正5年)10月に家督を相続した。1913年(大正2年)熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)を卒業した。 医師を開業(回生医院)した。長崎県医師会代議員、美加登製糸所長、加津佐繭市場 (株) 取締役、信用組合顧問理事、加津佐町漁業組合長などを務めた。 政界では、加津佐町会議員、同町長、南高来郡会議員、長崎県会議員、同副議長、消防組頭、方面委員などを務めた。
茅原 基治(かやはら もとじ、1885年 - 1942年)は… 茅原 基治(かやはら もとじ、1885年 - 1942年)は、日本の航海士・船長。 岡山県小田郡北川村(現在の岡山県笠岡市)出身。旧制金光中学校卒業。 ロシア革命時、800名程の子供がサンクトペテルブルクからウラル地方を経てウラジオストクへ逃れ難民状態にあった。その子供たちを太平洋から大西洋を横断してフィンランドまで茅原が船長を務める陽明丸で送り届けた。 墓は岡山県笠岡市にあり、岡山県に親戚がいる。 難民の子孫に出会った篆刻家の北室南苑の尽力により、茅原基治の親戚と難民の子孫とを結ぶことができ、墓参りが実現されるとともに茅原基治らの功績が広く知られるようになった。
清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、… 清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、高知県土佐郡河内街北門筋(現在の高知市永国寺町)出身で高知市役所に勤務した行政職員。 昭和初期から戦後復興期まで高知市役所で、高知市の都市計画、土木工事に対し都市計画創成期から戦後復興期まで20数年間携わった人物。高知市の土木部長や建設局長を務め、昭和の百々越前と呼ばれた。そして日本最初の沈下橋とされる柳原沈下橋の架橋を推進。 高知県立海南中学校を卒業して高知大林区署に勤務。4年後高知県庁に移り、土木課配属。高知公園の整備と五台山公園設立に携わり、技術を体得。1919年の都市計画法公布後、高知市にも都市計画調査委員会が設置された。以降適用指定で行政を進めるため、1924年1月に高知市土木課長に就任。
小玉 新太郎(こだま しんたろう、1885年 - 1923年… 小玉 新太郎(こだま しんたろう、1885年 - 1923年)は、日本の化学者。1913年に鰹節のうまみ成分がイノシン酸であることを発見した。 1903年(明治36年)に愛媛県立松山中学校を卒業した。1907年(明治40年)3月に東京高等師範学校の数物化学部を卒業した。1910年(明治43年)12月に京都帝国大学理学部純正化学科を卒業した。京都帝国大学時代は久原躬弦門下であった。 その後、鈴木製薬所(現在の味の素)に入り、池田菊苗の指導の下で東京帝国大学で研究に従事した。このとき、鰹節のうまみ成分がイノシン酸であることを発見した。 1923年に死去した。
可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、… 可知 貫一(かち かんいち、1885年 - 1956年)は、日本の農業土木技術者、研究者。岐阜県出身。円筒分水工の発明者。 岐阜県恵那郡阿木村(現在の中津川市阿木)出身。父の与一は東野村小学校初代校長や阿木村村長を務め、自由民権活動家。母方の祖父の鷹見豊次郎も巌邑尋常高等小学校の校長で、貫一は同校の高等科に通った。 岐阜中学校を経て明治40年(1907年)に第六高等学校 (旧制)卒業、東京帝国大学農科大学農学科へ進み明治43年(1910年)卒業して東京高等農林学校で教鞭を執る。 明治45年(1911年)に岐阜県へ技師として赴任。円筒分水工を考案し、大正3年(1914年)に可児郡小泉村に第1号が設置された。
服部 健三(はっとり けんぞう、1885年 <明治18年> … 服部 健三(はっとり けんぞう、1885年 <明治18年> - 1942年 <昭和17年>)は、日本の薬学者。東京帝国大学医科薬学科卒、薬学博士、東京帝国大学教授、勲三等瑞宝章。専門は、ビタミン、コレステロールなど。 服部貞の二男として大阪に生まれる。東京帝国大学医科薬学科出身。丹波敬三の下で衛生裁判化学を研究し、第一次世界大戦中の薬品欠乏の危機に際しては優良薬品製造に寄与した。戦後、留学先のアメリカのハーバード大学からフランクフルトのコロイド化学研究所に留学し、所長ベッヒホルドHeinrich J. Bechhold(1866―1937)に師事し最先端のコロイド化学を学んだ。東京帝大助教授を経て、1924年衛生裁判化学講座担当教授となり、酵素・コロイド化学の新分野を導入。
阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は… 阿南 常一(あなみ つねいち、1885年 - 1958年)は日本のジャーナリスト。後藤新平の秘書役的立場で都市計画法令の制定、都市計画機構の創設などに努力を傾注した。都市計画の啓蒙普及に40年にわたって献身した。 大分県山香町に生まれる。若くして大阪に出て、次いで同郷の政治家元田肇を頼って上京し、その下で修業を積む。 1909年、明治大学卒業。1912年、東京市水道課(現在の東京都水道局)に就職し、村山貯水池の土地買収では地元民との折衝に尽力する。その後、東京通信社を経て、1916年1月に報知新聞社の記者となる。 日本の近代都市計画が制度化されるのは、1918年(大正7年)、内務大臣後藤新平が都市計画調査の予算を付け、内務省に都市計画課が誕生、都市計画調査会が設置され、翌1919年に旧都市計画法と市街地建築物法が公布されてからである。
南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1… 南 新助(みなみ しんすけ、1885年(明治18年) - 1972年(昭和47年))は、日本最初の旅行会社の創業者。日本の団体旅行、企画旅行の草分け。 滋賀県栗太郡草津町(現 草津市)生まれ。東海道本線敷設の際、路線と草津駅建設の用地を無償提供するなど尽力した父が1889年(明治22年)、草津駅構内でただ一人国鉄立売営業権を与えられていたため、うばがもちや弁当の販売を家業としていた。その傍らそれに飽き足らず、「何か汽車を使って新しいことができないか」と日々考え続けていた。 南はある時、400人以上であれば汽車賃が半額になるということを知り、1905年(明治38年)旅行斡旋業の日本旅行会(今の日本旅行)を創業し、高野山参拝、伊勢神宮参拝を企画し実行した。
相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、… 相馬 其一(そうま きいち、1885年 - 1966年)は、新潟県出身の洋画家。浦和画家。 新潟県新発田市に生まれる。1905年(昭和38年)に上京し、白馬会研究所に入り黒田清輝に師事した。1919年(大正8年)、帝展に「信濃路」出品し特選を受賞。光風会会員。埼玉県の浦和転居後は高田誠を指導した。
岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉… 岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。 5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉。イオンの社史など史料で詳しい経歴が公開されていないため家柄などの出自が判明していない人物である。前田末吉は、貿易関係者であった。貿易商人として朝鮮半島と関係があり、四日市西町の紙商店である鍵忠の奉公人として修業し、勤勉に働いていた男性だった。
増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は… 増田 正宗(ますだ せいそう、1885年 - 1966年)は、明治から昭和にかけての日本画家、本名は久太郎。実業家の増田通二の父。
櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - … 國府 尽平(こうの じんぺい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)4月30日)は、日本の海軍軍人、医師。海軍中佐で予備役となったのち、医学博士号を取得した。 海軍兵学校35期。福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)出身。 國府は二度改名しており、旧名は横倉房吉と穴澤房吉である。会津中学から府立一中に転校し、海兵の席次は172中名123番であった。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦などがいる。海兵35期の遠洋航海は「松島」が火災沈没事故を起こし、乗組んでいた國府は救助されたが、同期生30名以上が犠牲となっている。海軍将校として装甲巡洋艦・常磐、戦艦・富士、特務艦・朝日、呉海兵団、横須賀防備隊などで勤務した。
山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年1… 山脇 正治(やまわき まさはる、1885年 - 1959年12月24日)は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督。 旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部。捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国。 早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う。
荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年)… 荻田 常三郎(おぎた つねさぶろう、明治18年(1885年) - 大正4年(1915年)1月3日)は、滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者。 滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現愛知郡愛荘町島川)に呉服商・善三郎の嫡子として生まれた。明倫小学校を経て同志社中学を中退後、陸軍歩兵第9連隊に一年志願兵として入営、少尉となった。当初は自転車に関心があり、各地で競技会に参加していたが、陸軍在職中に深草練兵場で武石浩玻の事故死を目撃したことで飛行機に興味を持ち、除隊後家業を手伝う傍らで手に入る限りの飛行書を集め、飛行学校に入学するため大正2年(1913年)9月フランスに留学し、パリ郊外のヴェリジー=ヴィラクブレー飛行場(フランス語版)(現ヴィラクブレー空軍基地)にあるモラーヌ・ソルニエ飛行学校(L'école de pilotage Morane-Saulnier à Villacoublay )に入学した。
佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937… 佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937年3月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。 高知県香美郡田村(現在の南国市)に生まれる。共立学校、海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、陸軍騎兵少尉に任官。 陸軍騎兵学校教導隊長、陸軍士官学校馬術部教官、朝鮮龍山騎兵第28連隊長、豊橋陸軍教導学校騎兵隊長などを歴任。1936年(昭和11年)満洲に派遣され佐竹部隊長として活躍中に公傷を負い、翌年3月16日没。
石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - … 石黒 魯平(いしぐろ ろへい、1885年(明治18年) - 1956年(昭和31年)7月21日)は、日本の言語学者。学位は、文学博士。駒澤大学教授。「標準語の父」と言われる。 愛知県知多郡小鈴谷村の石黒重郎平の二男として生まれる。常滑市「鈴渓義塾」出身。東京帝国大学言語科卒業。東京高等師範学校附属中学校教諭ののち駒澤大学教授に就任。 文理大学講師、台北高校教諭を経て、1948年、法政大学石岡予科教授就任。 1956年『「標準語」原論 』で駒澤大学より文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: … 周 竜光(しゅう りゅうこう、繁体字: 周龍光; 簡体字: 周龙光; 拼音: Zhōu Lóngguāng; ウェード式: Chou Lung-kuang、1885年(清光緒11年) - ?)は、中華民国の政治家。字は二為。 日本に留学し、東京帝国大学を卒業した。帰国後は北京大学教授、督弁魯案事宜公署秘書を歴任している。1925年(民国14年)からは、北京政府で司法部参事や特別関税会議専門委員を務めた。1928年(民国17年)、中国大学副校長となっている。 しかし同年6月、周竜光は国民政府に転じて外交部第二司司長に抜擢され、翌1929年(民国18年)1月には外交部亜洲司司長となった。その後、北平市政府参事に移り、1931年(民国20年)12月10日に天津市長代理に就任した(病気を理由に辞任した張学銘の後任)。
山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月… 山本 安曇(やまもと あずみ、1885年 - 1945年3月4日)は日本の鋳金美術家、本名は山本 菊一。 長野県南安曇郡有明村(現・安曇野市)に生まれる。旧制京北中学卒業後、郷里の小学校で教鞭をとり、研成義塾で井口喜源治の薫陶を受け、明治40年(1907年)東京美術学校(現東京藝術大学)鋳金科に入学。成績優秀で香取秀真の信望を受け、また在学中から同郷の荻原守衛(碌山)と親交を深め、その作品の鋳造に着手する。同45年(1912年)卒業。大正2年(1913年)青壺会、同7年(1918年)金人会、同13年(1924年)光爐会、同14年(1925年)工芸済々会などの結成に参加した。 昭和2年(1927年)第8回帝国美術院展(帝展)に出品した「三光(朧銀燭台)」で初入選し、同7年(1932年)帝展に「盤(果物盛器)」を出品し、審査員となる。
横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) -… 横河 一郎(よこがわ いちろう、1885年(明治18年) - 1938年(昭和13年)6月2日)は、日本の通信事業経営者、株式会社横河電機製作所(現・横河電機)初代取締役社長。 日本を代表する建築家である横河グループ創業者・横河民輔の甥。父の横河震八郎は横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)の取締役を務めた。 1885年(明治18年)生まれ。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、逓信省電気試験所に入所。当時、建築の設計監督を行っていた叔父である横河民輔から電気が民間にも行渡る時代が到来することを予見した話を聞き、将来日本では電気計測器が必要であると考えた。 1912年(明治45年)民輔の勧めによりドイツに留学。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福… 木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福岡県出身の実業家。山一證券の会長をはじめ、多くの企業で要職を歴任した。 1885年(明治18年)5月28日、福岡県八女郡上広川村で西村武助の三男として出生。長崎市・木下キチの養子となり、1912年(明治45年)その家督を相続した。翌1913年(大正2年)に早稲田大学商学部を卒業すると三菱合資会社に入社。長崎支店で勤めた後、1915年に小池合資会社へ転じた。1917年(大正6年)4月、小池合資は山一合資へと改組。1926年(大正15年)には山一證券株式会社となる。茂は同社大阪支店長を経て専務となり、社長の太田収が急逝した1938年(昭和13年)の12月に社長に選任される。
三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、… 三田 光一(みた こういち、1885年 - 1943年)は、日本の自称透視能力者。御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らとともに福来友吉によって発掘された「超能力者」の一人。 宮城県気仙沼市生まれ。1933年に、福来友吉の発案により岐阜市で行なった、月の裏側の念写で知られる。 1931年6月24日と1933年11月12日に当時見ることのできなかった月の裏側の念写に成功したとされたが、これは長年検証できなかった。 アポロ計画の際アメリカ航空宇宙局(NASA)が発表した、実際に撮影された月の裏側の写真と三田が念写した写真を比較すると、三田の写真には実際の月の裏側にはほとんど存在しない「海」を思わせる黒い部分が写し出されている点や、月よりはるかに暗く見える星が月と同じ明るさで写っていたり、星の配置がランダムでなく人間の手で描いた特徴があるなど、似ても似つかないほど異なっている。
関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は… 関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は、高知県長岡郡大篠村(現 南国市)の社会教育家。 社会教育家。明治18年10月29日長岡郡大篠村 大そね乙1746(南国市)に生まれる。父可通、母喜代。県立第一中学校をへて、第一高等学校3年を中退する。高知市に無料施療所を開設し、大正6年頃には高知県連合青年団を結成して副会長 となり、長岡郡連合会長を兼任した。処女団を創設、部落解放運動として部落内青年団、処女団運動を起こす。からわら貧しい優秀な青年には学資を提供した。大正8年県会議員に当選。また大篠村長 や修養団高知県連合会 理事を務め希望社や生長の家にも関係する。こうした運動に 30町歩ほどの所有地を投入した。
岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12… 岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県伊丹町(現在の伊丹市)町長。 兵庫県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。群馬県属、同佐波郡長、同商工課長、香川県商工課長、同水産課長、同学務課長、広島県学務課長、同農務課長、新潟県学務部長、樺太庁警察部長、北海道庁学務部長を歴任した。 その後、共盛無尽取締役、尼崎市助役を経て、伊丹町長に就任した。
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12… 東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の40代内閣総理大臣、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。戦後、A級戦犯として死刑判決を受け処刑された。 陸軍次官(第25代)、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)、関東軍参謀長(第10代)を歴任した。 父は岩手県(盛岡市)出身である東條英教(陸軍中将)、妻は東條かつ子。次男は東條輝雄(三菱自動車工業社長・会長)、三男は東條敏夫(空将補)。
田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月… 田阪 千助(たさか せんすけ、1884年(明治17年)12月26日 - 1945年(昭和20年)9月)は、台湾総督府官僚。名古屋市長。 山口県出身。1904年(明治37年)、早稲田大学邦語法律科(現・法学部)を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計となる。台湾総督府事務官、殖産局商工課長・庶務課長、勅任参事官、台北州内務部長を歴任した。 退官後、名古屋市助役を経て、1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで名古屋市長を務めた。 その後、東北電気株式会社取締役、東邦瓦斯証券株式会社顧問、東邦電力株式会社顧問となった。 戦時中は新潟県内に疎開し、1945年(昭和20年)9月に亡くなった。
宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12… 宮沢 文作(みやざわ ぶんさく、1884年(明治17年)12月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の警察官。東京市赤坂区長、芝区長。 宮沢今朝吉の長男として長野県に生まれる。中央大学を卒業後、警視庁に奉職し、丸の内、築地、神田錦町、両国、象潟各警察署勤務、上野、芝、愛宕各警察署長を歴任した。 1936年(昭和11年)9月、赤坂区長に就任し、1938年(昭和13年)10月、芝区長に転じた。1943年(昭和18年)1月、退官し、日本医療団参事となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月… 太田 三郎(おおた さぶろう、1884年(明治17年)12月24日 - 1969年(昭和44年)5月1日)は、愛知県出身の洋画家・挿絵画家。挿絵画家としては君島柳三の名を用いた。日本画の号は本名をもじった沙夢楼である。光風会所属。 1884年(明治17年)12月24日、愛知県西春日井郡下小田井村(現・清須市西枇杷島町)に生まれた。父の太田仙草は青物問屋を営む傍らで、日本画の土佐派を学んだ文人でもあった。 17歳の時に上京し、まずは日本画を、その後洋画を学んでいる。日本画は寺崎広業に師事した。洋画は黒田清輝に学び、さらに白馬会洋画研究所にも通っている。 1913年(大正2年)の第7回文展で「カッフェの女」が受賞した。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月… 松田 正一(まつだ まさかず、1884年(明治17年)12月23日 - 1972年(昭和47年)7月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 和歌山県名草郡、のちの海草郡貴志村(現和歌山市)で生まれた。関西法律学校を経て、1906年京都法政大学(現在の立命館大学)法律科卒。卒業後は古河鉱業から大阪市役所に勤務する。津市共融合資会社の法律顧問となり津市に来住。 その後、津市議、同副議長、三重県議などを経て、1930年の第17回衆議院議員総選挙では三重1区(当時)から立憲民政党非公認で立候補して最下位で初当選し、同選挙区で民政党4人目の当選者となった。以来連続7回当選。米内内閣大蔵参与官、第1次吉田内閣運輸政務次官などを歴任した。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 19… 眞崎 勝次(まさき かつじ、1884年12月22日 - 1966年10月15日)は、日本海軍の軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。
山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1… 山脇 正次(やまわき まさじ、1884年12月22日 - 1970年9月24日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1907年に兵庫県立工業専門学校を卒業。1927年に東邦ガス取締役に就任し、1934年2月に西部ガス社長に就任し、1960年2月には会長に就任。RKB毎日放送取締役、九州電力取締役、福岡商工会議所会頭なども歴任。 1961年11月に藍綬褒章と紺綬褒章を受章。 1970年9月24日福岡市の病院で死去。85歳没。
黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月2… 黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月21日 - 昭和19年(1944年)9月30日)は、日本の華族。貴族院議員・帝都復興院参与・司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位・勲三等・伯爵。 第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高で内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年)東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年)2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12… 曄道 文芸(てるみち ぶんげい、1884年(明治17年)12月20日 - 1966年(昭和41年)8月11日)は、日本の法学者。専門は民法。実業家。学位は、法学博士。元京都帝国大学教授。 明治17年(1884年)、石川県能美郡川北町で、静泉寺住職・曄道大圓の長男として生まれる。第四高等学校を経て、明治42年(1909年)、京都帝国大学法学部を首席で卒業。曄道の卒業と同年に東京帝国大学を卒業した鳩山秀夫が、曄道が高等文官試験を受けると聞き付け、首席を取られることを恐れて、自身の高等文官試験受験を取り止めたとの逸話がある。 後に、京都帝国大学助教授、次いで教授を務め、京大民法学の基礎を固めたが、大正9年(1920年)、京大教授を退官、実業界に入った。
富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月… 富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月20日 - 1930年(昭和5年)10月24日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 福島県出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省理財局銀行課勤務、司税官、亀戸税務署長、広島税務監督局事務官、大蔵事務官、専売局副参事を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府に転じて財務局主計課長となり、1926年(大正15年)に財務局長に就任した。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月… 有馬 頼寧(ありま よりやす、明治17年(1884年)12月17日 - 昭和32年(1957年)1月9日)は、日本の政治家。農政研究者。農林大臣。日本中央競馬会第2代理事長。プロ野球オーナー。旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主。伯爵。
北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12… 北村 西望(きたむら せいぼう、1884年(明治17年)12月16日 - 1987年(昭和62年)3月4日)は、長崎県出身の日本の彫刻家。本名は北村 西望(きたむら にしも)。 昭和を代表する彫刻家の一人。代表作に長崎平和公園設置の巨大像「長崎平和祈念像」、国会議事堂内設置の「板垣退助翁」などがある。文化勲章・紺綬褒章受章者、文化功労者。日本彫刻会では西望の功績を称え、同会展覧会における最優秀作品に贈られる賞の名称を「北村西望賞」(西望賞)としている。 また、個人寄付により小中学生の教育美術振興を目的とした「北村西望賞基金」を設け、これは2016年12月 (2016-12)現在[update]、「北村西望賞教育美術展」として公募展の形で継続している。
小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月… 小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月14日 - 1966年〈昭和41年〉2月3日)は、明治 - 昭和期の日本の作曲家・教育家・評論家。秋田県由利郡舘合村(後の玉米村→東由利村→東由利町舘合、現在の由利本荘市東由利舘合)出身。東京音楽学校卒業。号は玉巌(ぎょくがん)。 1901年に上京して東京音楽学校選科に入学。1903年に同校本科に進み、ヴァイオリンを幸田延、ピアノと作曲をヘルマン・ハイドリヒ、和声法をノエル・ペリーに師事。1906年に東京キリスト教青年会会館で歌劇「羽衣」を初演。同年、同校を卒業し、研究科でアウグスト・ユンケルに声楽を師事。学習院講師。1920年に渡仏。
東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1… 東条 操(とうじょう みさお、1884年12月14日 - 1966年12月19日)は、日本の国語学者。旧制静岡高等学校・広島高等師範学校・学習院・東洋大学の教授。東京大学講師。日本全国を回り、日本の方言研究の土台を築いた。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)1… 須川 政太郎(すがわ せいたろう、1884年(明治17年)12月13日 - 1955年(昭和30年)7月28日)は明治から大正期の作曲家。 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)谷王子出身。和歌山中学卒業の後、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)甲種師範科入学。途中2年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員を務めたのち、復学し、明治44年に卒業した。翌年、竹久夢二作詞の『宵待草』のモデルとなった長谷川カタ(賢)と結婚し、東京市十思小学校で訓導をつとめた。 音楽教諭として、鹿児島師範学校、旧制鹿児島一中、京都師範学校、同女子師範、桃山高女、滋賀女子師範、大津高女 彦根高等女学校に赴任。戦中は一時、中島飛行機半田製作所に勤務し、戦後、半田高等女学校(のち半田高校)で音楽を教えた。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - … 西原 清顕(さいばら きよあき、1884年12月12日 - 1972年10月18日)はアメリカで農場経営者となった人物。 1884年(明治17年)12月12日、高知県高知市新田淵(現在の桜井町)で元同志社社長で衆議院議員の西原清東の長男として生まれた。1902年(明治35年)東京築地立教中学卒業、第七高等学校に合格したが父親に呼ばれ渡米。父と一緒に米作りをする。戦前は東南テキサス日本人会長をしていたため開戦時拘束されたが、「米は武器、その専門家を捕まえて米を腐らせるのか」との名言を残し釈放される。1957年(昭和32年)母方のはとこの婚姻に合わせ一時帰国、日本からの移民に対する後援の功により勲五等瑞宝章を受ける。