徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月… 徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。
1880年代生まれ:3,899人
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月… 徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。
永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 19… 永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 1978年8月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22… 服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22日 - 1924年(大正13年)11月22日)は、日本の医師。ハンセン病患者の治療に尽くしたことで知られる。歌人の服部躬治は兄、小説家の水野仙子は妹。 1884年、福島県岩瀬郡須賀川村(現在の須賀川市)で、商家を営む父直太郎、母せいの次女として生まれる。尋常小学校、高等小学校を経て裁縫専修学校を卒業した後、1901年に兄躬治を頼って上京するが、家族の病気が重なり2年ほどで須賀川に帰郷する。福島県内でも明治期の近代化が進む中、閉塞感に苛まれたケサであったが、病弱な家族を思い、医師を志すようになる。 1905年、東京女医学校に入学し、1909年に前期医術開業試験に合格。
中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7… 中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。合資会社中尾製材所代表社員。鳥取県八頭郡池田村会議員。若桜運送取締役。鳥取県木材連合会長。 鳥取県八東郡中原村(のち八頭郡池田村中原、現・若桜町)出身。中尾徳蔵の長男。若桜高等小学校を卒業後、家業の農業及び材木商に従事し、池田村収入役、池田信用組合専務理事等を歴任し後に製材所、運送会社、自動車会社等を設立経営する。 宗派は曹洞宗、龍徳寺。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)… 鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)7月19日 - 1935年(昭和10年)7月22日)は、日本の電気工学者である。 東京府(現在の東京都)東京市京橋の生まれ。東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)電気工学科に入学する。1907年(明治40年)の卒業後は、逓信省に入省し電気試験所の研究員として活動した。1908年(明治41年)には同試験所に勤務する傍ら、母校の東京帝国大学で鳳秀太郎の指導の下に助教授を経て、1912年(大正元年)に文部省より「電気工学研究」のため、満2か年間ドイツ、イギリス及びアメリカへ留学を命じられ、1915年(大正4年)に帰国する。1918年(大正7年)に工学博士の学位を取得された後、昇進して教授に就任した。
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971… 戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971年4月18日)は、日本の看護婦。福井赤十字病院看護婦監督。第11回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。 1884年7月16日 、福井県福井市清川上町5番地 (現・松本1丁目) に、士族の娘として生まれ、厳格な家庭に育った。遠州流の茶道、生け花を教え、宝生流の謡もたしなんだ。
石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月… 石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月15日 - 1930年〈昭和5年〉2月25日)は、日本の明治末期から昭和初期に活動した日本画家。画業の中期までは、石井天風と称する。本名は毅三郎。 千葉県山辺郡土気本郷町下大和田(現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家は豪農で、隣の家まで1町余り、東西南に他人の家が見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏に落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが林響のトレードマークとなる。土気尋常小学校、大網高等小学校、旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学。
小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13… 小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13日 - 1981年12月21日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、新潟市長、衆議院議員、参議院議員。幼名は畋之助。 新潟県北蒲原郡川東村大字上楠川(現:新発田市)に生まれる。新発田中学、第一高等学校を経て、1909年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り北海道属となり、1913年、北海道庁理事官に就任。 その後、青島守備軍民政部事務官、臨時震災救護事務局事務官兼総務課長、青森県内務部長、山口県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。1926年9月、青森県知事に就任。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月… 北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉8月20日)は、大正から昭和前期の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家第77代当主、貴族院男爵議員。 島根県簸川郡(現・出雲市大社町)で北島国造家76代当主・北島斉孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学史学科を修了した。1918年、父の死去後、神道出雲教会大教主に就任。1952年(昭和27年)、神道大教から離れ出雲教を設立して国造に就任した。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで出雲大社御造営御用掛を務めた。
赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8… 赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8日 - 昭和40年(1965年)8月11日)は、山梨県出身の郷土史家。 山梨県北巨摩郡若神子村二日市場(現在の北杜市)に、父「九十郎」、母「うめ」の長男として生まれる。明治37年(1904年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇学館本科(現在の皇學館大学)を明治43年(1910年)に卒業。 大正4年(1915年)には甲府商業会議所が赤岡を主任に「甲斐史」編纂会の設立を企図したがこれは頓挫し、同年11月には若尾財閥の当主・若尾謹之助がこれを引き継いで「山梨県志」編纂会を立ち上げ、赤岡は総裁に任用された。他の委員とともに5年間に渡って山梨県内の史料調査に当たっている。
守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12… 守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12月18日)は、日本の教育者、女性活動家で、社会事業家でもある。東京都出身。父は守屋一、母は守屋和佐。父は、旧福岡藩藩士で、長崎に遊学し医学を修めた。西南戦争の後、衛戍病院に勤務した。1893年(明治26年)、東が8歳の時に死去。以後、2人の妹と共に母に育てられる。1900年(明治33年)東京府立高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)を卒業。小説家の田村俊子と同期になる。その後、仏英和女学校でフランス語を東京音楽学校でバイオリンを習うが家庭の経済困窮から中退。
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7… 浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1947年〈昭和22年〉11月29日)は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある。
矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年… 矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年8月26日)は、福島県会津出身のキリスト教会の牧師。日露戦争の際、日本において良心的兵役拒否を初めて行った人物である(ただし、後に衛生兵として従軍している)。アメリカ留学から帰国後は、膳所同胞教会、大津同胞教会の牧師として働き、その生涯を全うした。 福島県耶麻郡木幡村(現・喜多方市)生まれ。会津中学(現・福島県立会津高等学校)在学中にプロテスタント入信。日露戦争開戦時、召集されたが兵役を拒否し禁固2か月の判決を受ける。その後、衛生兵として応召した。 日露戦争後はアメリカに留学。銀行のハウスボーイとして働きながら勉学に励むも、猩紅熱に感染。
太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年… 太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。 大阪府吉野郡下市村(現・奈良県吉野郡下市町)に生まれる。京都法政大学予科(現・立命館大学)を経て、1910年に神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立高等女学校教諭、内務省考証官補、同嘱託などを経て、1934年から西園寺家の「管見記」の編纂にたずさわる。同年、立命館大学法経学部講師。1937年に同専門部文学科教授。1941年に同法文学部教授となる。1943年同文学部長を兼ねた。1945年11月7日、「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で法学博士号取得。1949年、近畿大学商経学部教授。
高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7… 高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7月1日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、栃木県出身の政治家(衆議院議員)、海軍軍人(階級は海軍主計少将)。旧姓・矢口。相模運輸社長、三笠保存会顧問などを務めた。 矢口長右衛門の三男として栃木県塩谷郡北高根沢村(後の高根沢町)に生まれる。後に高松家の婿養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 海軍に入ると主計試補に任じられ、1912年(大正元年)主計大尉に任官。1918年(大正7年)に主計少監に進み、1932年(昭和7年)には主計少将に累進する。その間、磐手主計長兼分隊長、海軍省軍需局局員、横須賀海軍経理部第一課長、横須賀海軍工廠会計部長、軍需局第三課長、海軍経理学校教官、連合艦隊主計長、横須賀海軍軍需部長を歴任した。
高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 195… 高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 1953年1月9日)は、日本の仏教学者、僧侶である。哲学館(現・東洋大学)で井上円了から仏教学を学んだ後に、智山専門学校校長。大正大学教授。真言宗智山派管長。智積院55世能化。真言宗上品蓮台寺住職となる。仏教学の専門は密教学。
久保田 晴光(くぼた せいこう、1884年(明治17年)7月… 久保田 晴光(くぼた せいこう、1884年(明治17年)7月 - ?)は、日本の医学者。元日本スケート連盟会長。元満洲医科大学学長。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1910年(明治43年)に京都帝国大学を卒業。大学を卒業後は外科医となるがヨードアレルギーであることが判明し外科医を断念。1911年(明治44年)7月、第一生理学に入室し天谷千松教授の下につく。 1913年(大正2年)4月、南満医学堂(後の満洲医科大学)の教授に就任。その後、南満洲鉄道の派遣による欧米留学を経て、1921年(大正10年)10月に満洲医科大学の学長に就任。しかし、1923年(大正12年)11月に病気を理由に退職。在職中は蒙古巡回診療班と専門部の開設に当たった他、東亜医学研究所と附属薬学専門部の設置に尽力した。
佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - … 佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 北海道出身。士族・佐藤元永の三男。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。山形県警部・属、同警視、同飽海郡長、台南州警務部長、台北州警務部長、台湾総督府事務官、警務局保安課長、同警務課長、同衛生課長を歴任した。1927年(昭和2年)、台中州知事に就任した。 その後、台湾交通社長を務めた。
伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月2… 伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月28日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、アララギ派の歌人。短歌結社「美知思波(みちしば)」創立者。山梨県北巨摩郡(現・韮崎市)出身。本名は、伊藤基胤(もとつぐ)。妹の権藤はなよ(権藤花代)は、唱歌「たなばたさま」の作詞者で童謡詩人。 山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に父・友重、母・やよ、の長男として生まれる。1906年(明治39年)山梨師範学校(現・山梨大学)を卒業。母校の穴山尋常高等小学校、山梨師範学校附属小学校に勤める。浅川伯教(朝鮮古陶磁研究者)は、同僚で師範学校の学生時代からの親友。1908年(明治41年)に甲府市に転居。
田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 19… 田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 1969年10月27日)は、福岡県出身の日本の実業家。 福岡県京都郡仲津村(現・行橋市)で農業を営んでいた田淵市平の長男として生まれる。中学を中退し跡取りを次男に譲って北海道への移民団に加わって札幌へと移住。北海道庁に給仕として入庁、道庁勤務の傍ら夜間中学を卒業の後、1906年に北海法学校を卒業。 北海法学校卒業後に帝国鉄道庁入庁、書記を経て1907年に任官。1913年に釧路運輸事務所、その後旭川運輸事務所、鉄道省移行後に札幌鉄道局運輸課で貨物業務、小樽駅第13代駅長(1923年12月1日-1929年3月29日)、旭川駅16代駅長(1929年3月30日-1930年10月)、札幌鉄道局運輸課高等官を歴任した。
飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6… 飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6月26日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 3代飯田新七の長男として京都府に生まれる。 京一中、第四高等学校、東京帝国大学法科経済学科卒業後、1909年12月、髙島屋飯田合名会社に入社。 1919年8月、髙島屋呉服店(髙島屋の前身)が創設されると取締役に就任し、海外貿易事業に従事。1926年に専務に就任してからは、大阪・なんば、東京・日本橋の両店を開店して、百貨店の基礎を築き、髙島屋を百貨店として成長させた。1942年3月、4代飯田新七が健康上の理由から社長を辞任したため、第3代社長に就任した。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25… 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧氏名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)で誕生。
南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月2… 南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月25日 - 昭和5年(1930年)1月1日)は、戦前日本の華族。南部家第43代当主で、最後の盛岡藩主南部利恭の次男、先代当主南部利祥の弟。爵位は伯爵。 明治38年(1905年)、日露戦争で戦死した兄利祥の跡を継ぎ、南部家第43代当主となる。東京帝国大学在学中の明治40年(1907年)に旧鳥取藩主池田輝知侯爵の三女嚴子と結婚し、一男一女をもうける。 利淳夫妻は芸術に造詣が深く、利淳は彫刻や書道、嚴子は日本画や竹細工などをたしなんだ。また、夫婦で黒田清輝、五味清吉、石川寅治などの画家から洋画を習っている。大正3年(1914年)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
井野 英一(いの えいいち、1884年(明治17年)6月24… 井野 英一(いの えいいち、1884年(明治17年)6月24日 – 1944年(昭和19年)1月3日)は、日本の裁判官、満州国最高法院院長・満州国参議府参議。井野碩哉の兄。 東京府豊多摩郡代々幡町(現在の東京都渋谷区)出身。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補として東京地方裁判所に勤務した。1911年(明治44年)に東京地方裁判所判事となり、翌年よりヨーロッパに留学した。帰国後は東京区裁判所検事、同判事、東京地方裁判所部長、大審院判事を歴任した。 1935年(昭和10年)に退官した後は満州国に招かれて、審判官、最高法院次長、特任審判官、最高法院院長を歴任した。
笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22… 笠井 新也(かさい しんや、1884年(明治17年)6月22日 - 1956年(昭和31年)1月10日)は、日本の教育家・古代史家・郷土史家・考古学者。号は無何有郷人、神也。内藤湖南・高橋健自に続いて邪馬台国大和説を提唱し、他に倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼とする説や、箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説を提唱した。叙正六位、勲六等瑞宝章受章。 1884年6月22日、徳島県美馬郡脇町に笠井量平・アイ夫妻の長男として生まれる。 脇町尋常小学校、脇町高等小学校、徳島県立脇町中学校を経て、1902年9月に國學院大學に入学する。1905年に特待生に選ばれ、1906年7月、國學院大學高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業する。
大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - … 大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - 1965年6月26日) は 日本の生物学者 (動物学)。理学博士、農学博士。 シロアリの研究を行ったが、台湾勤務時代にスタンフォード大学に留学し、D.S.ジョーダンのもとで魚類研究を行った。特にサケ科の淡水魚類を中心に動物学の研究を行い、「サラマオマス」(サクラマスの亜種、現在はタイワンマスと呼ぶ) を命名した。2001年より台湾の2000元札にタイワンマスが印刷されている。台湾では、20数種類の淡水魚の新種を命名し、台湾淡水魚の父と呼ばれている。 妻・今子との間に8男2女に恵まれ、長男の大島正隆(1909年3月5日-1944年1月12日)は歴史学者として将来を嘱望されたが、1944年に34歳の若さで病死している。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)… 田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士。 岩手県二戸市出身。出生名は下斗米秀三。東京帝大を卒業した後に、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の父稲蔵の弟である下斗米与八郎の三男)の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った。 第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された。
水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10… 中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10日 – 1969年(昭和44年)3月19日)は、衆議院議員。台湾総督府官僚。 長崎県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、林務課長心得、庶務課長、糖務課長、商工課長、特産課長を歴任し、台中陳列館館長、茶検査所所長、台湾茶共同販売所理事長を兼ねた。その後、専売局長、台北州知事、殖産局長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後、公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。 アルコール輸送株式会社取締役、日本糖業連合会常務理事、全国産業団体連合会理事、食用糖蜜需給調整協議会会長、東亜経済懇談会参与を務め、さらに日研化工株式会社会長、第一醸造株式会社会長、知床鉱業株式会社社長となった。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日… 渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会、昭和会)。呉市長。弁護士。 広島県呉市出身。渡辺秀四郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し、弁護士を開業した。呉市会議員、同参事会員、広島県会議員、同参事会員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で再選され、また呉市長にも選出された。 その後、上海居留民団助役を務めた。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 … 羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 - 1957年〈昭和32年〉2月26日)は、日本の小説家、外科医。 本名は松橋 紋三(まつはし もんぞう)で、「羽志主水」の名は本名から「松」を除いた「橋紋三」をもじった筆名である。 小説家としての活動期間は短いが、雑誌「新青年」に掲載した、戦前の北海道の過酷な労働環境を題材とした作品『監獄部屋』で、高い評価を得た。 長野県長野町(後の長野市)出身。旧制第四高等学校(後の金沢大学)を経て、東京帝国大学(後の東京大学)医学部へ進学し、1908年(明治45年)に卒業した。医師として山形の済生病院を経て、妻の父が東京の日本橋に土地を持っていた縁で、1916年(大正4年)か1917年(大正6年)頃に、日本橋本石町で開業した。
米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)… 米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1976年(昭和51年)10月26日)は、日本で最初の無線通信士。関東大震災の際、被害状況を速やかに無線通信により海外に発信し、国際的な救援活動が行われるきっかけを作った。 石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。
瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月… 瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家、資産家、地主。瀬田不動産合資会社代表社員。鍋屋合資会社代表社員。板橋町大山出身。 東京市板橋区板橋町九丁目、瀬田吉兵衛の息子。東大林学科卒業。農業を営む。1915年に板橋町会議員に当選、以来1919年に至る1期間板橋町政に参画し、町利民福の為に大いに尽瘁したが、1919年に至って考える所があり政界を断念し、土地管理等の家業に努力する。 傍ら事業界に進出し、東洋計器会社、斎藤レンズ製作所、浦和商業銀行等に投資する。1926年、成子内親王に神代雛(上田直次作木彫)一対を献上する。
加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)… 加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1939年(昭和14年)1月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身。加藤久米治の四男。1907年(明治40年)、日本大学を卒業。卒業後、日本大学の幹事として経営に参加した。 水野錬太郎の知遇を得、寺内内閣で水野が内務大臣に就いたとき、大臣秘書官を務めた。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に政友会から出馬し、当選。議員就任後も加藤友三郎内閣と清浦内閣で内務大臣になった水野の秘書官を務めた。 その後、田中義一内閣で内務参与官、犬養内閣で拓務政務次官、第1次近衛内閣で陸軍政務次官を歴任した。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)… 宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1966年(昭和41年)11月6日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉。号・本郷子。 長野県諏訪郡小井川村(平野村を経て現岡谷市)で生まれた。後に健次郎を襲名。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し、家業の宮坂製糸所を承継。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた。 1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め、同議長にも在任した。
三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961… 三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961年11月19日)は、日本の経営者。阿波商業銀行(現在の阿波銀行)頭取を務めた。 徳島県出身。1909年に東京帝国大学政治学科を卒業。藤本ビルブローカー証券での勤務を経て、1934年に阿波商業銀行常務、1940年に専務、1948年に副頭取を経て、1949年10月には頭取に就任。 1961年11月19日、急性心不全のために在任時に死去。77歳没。