北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月… 北村 一郎(きたむら いちろう、1884年(明治17年)1月12日 - 1968年(昭和43年)9月18日)は、日本の大正・昭和期における歯科医。名古屋大学教授・愛知県歯科医師会長。長崎県出身。 1884年(明治17年)、本籍は父親の郷里である長崎県で幼少時も長崎で暮らすが、検事であった父の勤務先東京で生まれた。1911年(明治44年)第三高等学校を経て東京帝国大学医科大学を卒業する。 卒業後「ただ歯科をやりたかった」と言う理由で当時唯一の官制歯科学教室であった石原久の教室に入局した。しかし、「歯科医学専門学校は内容を整備して着々と国家的に其存在の根を固め、帝国大学に歯科医学科の無きに係らず歯科医学士の称号を獲得し、其学会は漸次形式内容を整えて学会に加えんとするに至った。
折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11… 折竹 錫(おりたけ たまう、1884年(明治17年)1月11日 - 1950年(昭和25年)1月13日)は、大正から昭和時代の日本の翻訳家、フランス語学者。号に蓼峰、多音祐、R.T.O。 旧信濃国松本藩士・折竹嘉鋭の長男として長野県諏訪郡にて生まれる。1908年(明治41年)東京帝国大学文学部仏文科を卒業後、陸軍教授を経て、第三高等学校教授となり、河盛好蔵、桑原武夫らに教えた。フランス・ドイツ留学を経て、旧制福岡高等学校長に任ぜられ、その後は、関西日仏学館(現:アンスティチュ・フランセ日本の前身の一つ)教授などを歴任する。
今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月… 今宿 次雄(いましゅく つぐお、1884年(明治17年)1月10日 - 1971年(昭和46年)9月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、八日市市長。旧姓・三浦。 京都府京都市下京区綾小路通出身。三浦寛一の二男として生まれ、今宿家の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省。内務省に転じ滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同理事官、熊本県理事官、福岡県事務官、千葉県警察部長、埼玉県書記官・内務部長などを歴任。 1926年9月、沖縄県知事に就任。第1次若槻内閣総辞職に伴い1927年5月に辞任。1929年9月、佐賀県知事に就任。
石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月… 石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年(明治17年)1月9日 - 1960年(昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。位階は従二位、勲等は勲一等、勲章は旭日大綬章。 「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。 この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。
龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1… 龍居 松之助(たつい まつのすけ、1884年1月9日 - 1961年2月16日)は、日本の造園史家、造園家、教育者、文筆家。日本文化史及び造園史の教育にすごした。造園家の龍居竹之介は子息。 1884年(明治17年)、東京市京橋区に生まれる。父は龍居頼三(1856 - 1935)。東京府立第四中学校、学習院高等科を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業する。1917年(大正6年)同大学大学院へ進学し、当初住宅史の研究に従事した。恩師である文学博士の三上参次に加え、建築学者(工学博士)の伊東忠太と関野貞にも師事し、後年の日本造園史家として名を馳せる基礎をつくる[要出典]。
坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8… 坪井 勧吉(つぼい かんきち、1884年(明治17年)1月8日 - 1970年(昭和45年)5月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 愛知県出身。坪井政兵衛の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し神奈川県属となる。 以後、神奈川県警視、同理事官、秋田県警察部長、岡山県警察部長、香川県書記官・内務部長、山口県書記官・内務部長、山形県書記官・内務部長などを歴任。 1929年7月、香川県知事に就任。塩江温泉鉄道の開通に尽力。1931年6月、高知県知事に転任。同年12月18日に知事を依願免本官となり退官。
長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)… 長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)1月7日 - 1945年(昭和20年)8月25日)は、日本の内務官僚。 東京府知事や警視総監を歴任。 旧唐津藩士・長谷川芳之助(一刀流の使い手である長谷川善兵衛久徴の子)の長男として岡山県で生まれる。第一高等学校を卒業。 1907年(明治40年)、東京帝国大学法科政治科を卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入る。内務書記官、内務参事官、三重県警察部長、千葉県警察部長、警視庁第二部長、警視庁保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、内務省土木局長を歴任。 1923年(大正12年)10月25日、1924年(大正13年)6月24日、石川県知事を務める。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、188… 小平 権一(旧字体: 小平 權一、こだいら ごんいち、1884年1月6日 - 1976年8月1日)は、日本の政治家、農林官僚。衆議院議員。農本主義者。 長野県諏訪郡米沢村(現茅野市)に小学校教員の小平邦之助の長男として生まれる。旧制諏訪実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、旧制第一高等学校工科を途中休学。1910年に東京帝国大学農科大学を卒業し、さらに同法科大学政治科に入学。在学中の1913年に高等文官試験に合格し、翌年に卒業した。 農商務省に入り、農政課に配属。農政課小作分室長として石黒忠篤農政課長とともに小作立法に取り組む。1922年に産業組合の主管課である農務課長に就任、産業組合中央金庫の設立に中心的役割を果たした。
高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 19… 高橋 信美(たかはし のぶよし、1884年1月5日 - 1958年2月24日)は、日本の医師・医学者。妻・ふく子は大沢岳太郎の次女。 長野県小県郡武石村(現上田市)生まれ。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、第四高等学校を経て、1910年東京帝国大学医学部卒業。同大助手を経て、1917年千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)の第一外科主任教授となる。1919年から2年間欧米諸国に留学、1923年、千葉医科大学(同)教授となり、1929年には学長に就任した。1938年勲二等瑞宝章、1940年従三位に叙された。 その後、千葉県医師会会長、千葉県済生会長、日本外科学会会長、国際外科学会名誉会員などを歴任した。
潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年… 潮崎 喜八郎(しおざき きはちろう、1884年 <明治17年> 1月5日 - 1969年 <昭和44年> 9月1日)は、日本の経営者。兵庫県津名郡一宮町(現:淡路市)出身。位階は正五位。 1904年に大阪高等商業学校を卒業し、同年に日本綿花に入社。1939年に専務に就任し、1941年には社長に昇格した。1947年から会長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等旭日中綬章を受章。 1969年9月1日脳軟化症のために死去。85歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5… 今井 昌治(いまい まさはる、1884年(明治17年)1月5日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。高雄市尹、花蓮港庁長。 新潟県中頚城郡高田城下に生まれる。1899年(明治32年)台湾に渡り、1908年(明治41年)6月に台北庁警部、1920年(大正9年)9月に台北州保安課長を経て、1922年(大正11年)5月、台湾総督府地方警視に進み、台北南警察署長に就任する。 1924年(大正13年)12月、地方理事官に進み、台中州新高郡守となり、ついで1926年(大正15年)1月に新竹州苗栗郡守、1927年(昭和2年)8月に台中州彰化郡守を経て、1929年(昭和4年)5月に高雄市尹に就任した。
関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年… 関 桂三(せき けいぞう 1884年1月3日 - 1963年5月2日)は、昭和期の実業家。東洋紡績元会長。大阪商工会議所会頭、関西経済連合会会長を歴任。 奈良県山辺郡出身。旧姓森田。旧制奈良県郡山中学校、第四高等学校を経て、1908年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業後、東洋紡の前身である大阪紡績入社。常務、専務、副社長をそれぞれ歴任し、1943年に退職。1950年に東洋紡へ復帰し、会長を務め、1957年より相談役を務めた。この間、経済団体の役員にも推され1943年から1946年まで大阪商工会議所会頭を務めた。同時に繊維統制会会長にも就く。1946年から1947年まで関西経済連合会初代会長を務め、1951年には再度第4代会長を務めるほか 、日本商工会議所会頭代理、大蔵省・商工省両顧問、朝日放送取締役、東京大学講師などをそれぞれ務めた。
神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1… 神戸 伊三郎(かんべ いさぶろう、1884年(明治17年)1月3日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は日本の理科教師、科学教育研究者。栃木県生まれ。大正期のもっとも指導的な理科教育研究者の一人である。 大正から昭和にかけて、主に奈良女子高等師範学校の教師を務め、第二次世界大戦前の国定教科書時代の、もっとも指導的な教育研究者の一人である。児童・生徒用の科学読みものや教科書を多数執筆。1922年(大正11年)に『学習本位理科の新指導法』を出版し、千葉命吉の影響を受けた児童中心の創造教育の立場に立ち、当時主流だった、「事実から法則を引き出し実験で確認する」ヘバルト派の帰納法ではなく、デューイ・及川平治の仮説実験的認識論の教育法を採り入れ、「実験前の予想の必要性」を重視した「新学習過程」を提唱した。
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - … 中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日)は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授、元臨時帝室編修官補)。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月… 横山 助成(よこやま すけなり、1884年(明治17年)1月1日 - 1963年(昭和38年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。東北興業総裁。 以下、「横山 助成 (よこやますけなり)東京都知事も務めた 内務省高級官僚」(秋田高等学校同窓会、2014年3月21日更新)参照。 「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。 石田八弥の女婿。義弟は文化人類学者の石田英一郎、姪の子に阿部牧郎がいる。
沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉… 沢村 専太郎(さわむら せんたろう、1884年〈明治17年〉1月1日 - 1930年〈昭和5年〉5月23日)は、日本の東洋美術・美術史研究家、詩人。京都帝国大学文学部教授。第三高等学校寮歌を作詞し、詩人としては沢村 胡夷(さわむら こい)と号した。 明治17年(1884年)1月1日、滋賀県犬上郡彦根町京町(現彦根市京町)に、鉄道技師沢村伝次郎と定夫妻の長男として誕生した。父母が台湾に移住したため、祖父母により養育された。明治31年(1898年)滋賀県立第一中学(現彦根東高等学校)に入学し、明治36年(1903年)9月第三高等学校第一部に入学、明治39年(1906年)9月京都帝国大学文科大学哲学科に入り美学美術史を専攻、明治42年(1909年)7月『日本詩律論』を論文提出し卒業した。
中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年… 中島 鉄平(鐵平、なかじま てっぺい、1884年(明治17年)1月1日 - 1936年(昭和11年)11月1日 )は、熊本県上益城郡大山町出身の大正・昭和期の大蔵官僚。 中島又平の二男として生まれた。旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、旧制第五高等学校を卒業。1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年7月、大蔵省に入省して専売局書記に任官し専売局製造部に配属された。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、京都税務監督局経理部長、東税務署長、神戸税関監査課長兼徴収課長、同総務課長などを経て、1920年(大正9年)5月、主税局に転じ、長年にわたり関税課長として関税行政事務を率いた。
中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1… 中島 知久平(なかじま ちくへい、1884年〈明治17年)1月1日 - 1949年〈昭和24年〉10月29日)は、日本の海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。 1884年(明治17年)1月1日、群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町、2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。1898年(明治31年)3月、尾島尋常高等小学校卒業。1903年(明治36年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。1907年(明治40年)4月25日、海軍機関学校卒業。
小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 -… 小ノヶ嵜 金藏(おのがさき きんぞう、1884年1月1日 - 1967年4月2日)は、現在の青森県黒石市出身で熊ヶ谷部屋に所属した大相撲力士。本名は佐藤 金作(旧姓工藤)。170cm、86kg。最高位は西前頭5枚目。 左四つからの押しと寄りを得意とし、地味であったが力が強かった。1906年5月初土俵、1911年6月十両昇進。1913年1月入幕を果たし、華々しい活躍こそなかったが、前頭5枚目まで躍進する。しかし地方巡業中に足を骨折する怪我で全休が続き、1916年5月十両陥落となり、そのまま1917年1月廃業した。その後は旧両国国技館内で「天金」という天ぷら屋を経営し、後に「大金」という料亭を経営して繁盛した。
山田 醇(やまだ じゅん、1884年 - 1969年)は、日… 山田 醇(やまだ じゅん、1884年 - 1969年)は、日本の建築家。独立後は住宅作家としての道を歩み、和洋折衷住宅を発展させる。子息の病をきっかけに、健康住宅を研究し提唱した。設計した住宅は現在でも各地に現存している。埼玉県秩父市金崎生まれ。 実家は信用組合を経営。旧制熊谷中学校、学習院を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学造船学科入学。1年後に転科。1912年(明治45年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業。同窓の竹腰健造、西村好時、山下寿郎、吉田享二、渡辺仁らで、苺会を結成。辰野葛西事務所に入り、第一相互館(1921年)の設計に加わる。直営実費積算法を開発、これにより川崎芳太郎の知遇を得、1917年(大正6年)11月に神戸で独立。
塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) … 塩崎 逸陵(しおざき いつりょう、1884年(明治17年) – 1974年(昭和49年))は、大正時代から昭和時代にかけての日本画家。 富山県高岡市に生まれる。富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を卒業後、東京美術学校に学び、川端玉章、寺崎広業に師事する。1915年第9回文展に「蟲の音」で初入選。以後、同展および帝展に出品。東京で制作に励み、花鳥図や風景画を描いた。
荒木 茂(あらき しげる、1884年〈明治17年〉 - 19… 荒木 茂(あらき しげる、1884年〈明治17年〉 - 1932年〈昭和7年〉)は、日本の言語学者、日本におけるペルシア学の先駆者である。 福井県足羽郡酒生村(現・福井市荒木新保町)生まれ。平民・村田弥三太郎の次男として生まれ、3歳で実母と死に別れ、10歳で近所の士族・荒木伊太郎の養嫡子となる。酒生村立小学校、福井県立福井中学校を卒業後、1904年に東京高等師範学校入学。1905年に語学研究のため渡米し、1907年ロサンゼルス市公立高等学校に入り、1910年に同校ペルシャ語科を卒業、カリフォルニア州立大学文科に進学するも病気のため休学。1914年にコロンビア大学に入学。ゾロアスター教研究の権威であるインド・イラン語学者アブラハム・ヴァレンタイン・ウィリアムズ・ジャクソンに6年間師事、文学修士の学位を取得した。
牛山 傳造(うしやま でんぞう、1884年 - 1943年1… 牛山 傳造(うしやま でんぞう、1884年 - 1943年11月)は、日本の教育者、生物学者。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京高等師範学校(現・筑波大学)卒業。山口県での教諭を経て、1914年母校長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭時、夜間に諏訪湖でプランクトンの採集中に、湖中に光るエビを発見した。これは、淡水域で発光するホタルエビが最初に確認されたものである。牛山は1921年に千葉県香取郡佐原町(現・香取市)でホタルエビが発見された後の1925年に、諏訪湖でのホタルエビについて母校東京高等師範学校博物雑誌に発表しており、当時、淡水域でホタル以外に発光生物が存在したことは驚きをもって迎えられた。
菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21… 菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21年))は、日本の医師、政治家。新字体にて菅 実(かん みのる)と表記されることもある。菅納家重の子。第94代内閣総理大臣菅直人の祖父。 久米郡医師会会長、久米郡会議員などを歴任した。 岡山県出身。生家は江戸時代には村の庄屋を務めており、元は豪族であった。 旧制岡山県津山中学校(現・岡山県立津山高等学校)を経て岡山医学専門学校を卒業し、医師となる。岡山県病院で研修の後、1911年(明治44年)に津山市内で開業。1913年(大正2年)に郷里に戻って医業を続け、久米郡医師会長、郡会議員などを歴任。囲碁、俳諧の趣味も楽しみ、1946年(昭和21年)に62歳で死去。
濱田 苔花(はまだ たいか、1884年 - 1962年)は、… 濱田 苔花(はまだ たいか、1884年 - 1962年)は、岡山県出身で鹿児島県初の女性記者。男尊女卑の気風が強かったとされる明治時代の鹿児島県にあって、他に先駆けて女性ジャーナリストとして活動した。本名は濱田亀鶴(はまだ かつ)。岡崎理七郎の二女。
木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kim… 木村 百木(きむら ひゃくぼく、 Hyakuboku Kimura、明治17年(1884年) - 昭和52年(1977年))は、日本の名古屋市に生まれ、制作活動をした画家、芸術家。本名は、木村春三。 京都帝国大学時代、学生の時に禅の講演を聴いて、学校を辞め、修行の道に入る。大正7年より東京(瀧野川)に移転。 昭和元年に故郷の名古屋で初の個展を開く。昭和9年、小金井で坐禅と画の道場を開き、同地にて居を構え、終生小金井で暮らした。作品傾向として水墨画、版画で木を題材とする作品がよく見られる。その他に山を題材にする作品もみられる。人物画の作品にみられる題材は仙人、仏様、達磨大師などを生涯に制作している。
高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は… 高橋 甚也(たかはし じんや、1884年 - 1975年)は、台湾総督府や東京市上下水道、戦後の仙台市復興などで活躍した都市計画家、土木技術者。 1912年に京都帝国大学工学部を卒業後すぐに台湾総督府に就職するが、1913年に帝都復興事業を担うため東京市役所に移籍。1939年まで在籍しその間に下水道課長や土木局技師長、水道局長や下水道局長を歴任。東京オリンピック開催のための給水対策などに参画。1946年以降は岡崎栄松に招かれ仙台市助役として市の戦災復興事業や上下水道網整備に関わる。当初の復興計画にあった5千坪ほどの公園内を国道が貫通する計画を曲げさせて変則的な交差をつくったり、復興事業での街路計画変更で電力や電話局との関係者移転補償協議で、電柱を無くさせて30から50メートルの広幅員道路がケヤキ並木の大樹林帯となって建設大臣表彰をもたらした。
椎原 兵市(しいはら ひょういち 1884年 - 1966年… 椎原 兵市(しいはら ひょういち 1884年 - 1966年)は、日本の造園家。作庭家。宮内の宮廷庭園技師、また関一市長率いる大阪市の緑化事業、公園設計で活躍した。 1884年(明治17年)大分市に生まれる。1907年(明治40年)に京都高等工芸学校(後の京都工芸繊維大学)図案科を卒業、1909年(明治42年)から宮内省内苑寮園芸課に奉職、上司市川之雄の薫陶を受ける。1920年(大正9年)まで、この時期主な担当作品は東宮御所(明治42年)、武庫離宮(大正3年)などがあり、宮廷庭園の設計や施工に従事したほか、国会議事堂本建築設計競技(大正7,8年)参加や京都御所、伊勢神宮、出雲大社等の外苑設計に携わった。
尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - … 尾畑 義純(おばた よしのり、1884年〈明治17年〉 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の海軍法務官。最終階級は海軍法務中将。 東京府出身。東京帝国大学法科大学法律学科卒業。 海軍主理試補、海軍中主計、海軍主理、海軍主計中尉、海軍司法事務官兼海軍法務官を経て、海軍省法務局長。墓所は多磨霊園。
名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968… 名原 広三郎(なはら ひろさぶろう、1884年 - 1968年)は、日本の英文学者。 島根県生まれ。東京帝国大学英文科卒。法政大学教授を務め、森田草平のもとで岩波文庫『ユリシーズ』の翻訳を行った。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の… 和田 光石 (わだ こうせき、1884年 – ?)は、日本の彫刻家。 兄、和田信二郎(文部省図書監修官)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - … 周徳鴻(しゅう とくほう/チャオ・デーホン、1884年 - ?)は、清末民初の技術者、官僚。字は伯彬。四川省巴県(現重慶市巴南区)出身。東京高等工業学校機械科卒業。 航空技師として北洋政府軍に加わり、奉天派に属する。国民政府でも空軍軍属として参加。 成都より官費生として日本に留学。1911年(宣統三年)9月、学部(中国語版)(文部省に相当)の試験を受け最優等となり、工科進士の賞給を受ける。 辛亥革命後の1913年(民國二年)の間、四川公立工業專門学校(現四川大学)教員として機械工学や製図を教えていた。1921年(民國十年)5月、北洋政府に加わり、郭世綰、盛紹章、黄耀栄らとともに北京航空署(署長:丁錦)附技師。
方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、… 村上 静人(むらかみ せいじん、1884年-1960年)は、日本の作家・翻訳家。 静岡県の代々医師の家に生まれ、上京して医師となろうとするが、長田秀雄、木下杢太郎らと知り合い文学の道を進み、明治大学文学部で学ぶ。赤城正蔵の「アカギ叢書」の創刊に手を貸し、西洋文学の再話、人情本の注釈などの仕事をし、のちには釣りの本を書いた。
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年… 蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。字は子平。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。 清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。
原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏… 原 輝美(はら てるみ、1884年- 1966年)は長野県諏訪市出身の画家。 諏訪市湖南の製糸業を営む家に生まれる。 長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、1902年に医学を学ぶため単身渡米。親の希望で医学を学ぶも、美術に志向していく。 1905年 画家になる事を決め美術学校に入学。 1907年 美術学校で優秀な成績を修めイギリスに留学。ロンドンのPolytechnic School of Artに入学。高村光太郎と交流をもつ。 1908年 アメリカに戻る。10月よりニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ、翌年より帰国までナショナル・アカデミー・オブ・デザインにて学ぶ。
山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)… 山口 菅三(やまぐち すがぞう、1884年 - 1971年)は、日本の実業家。滋賀県東浅井郡小谷村大字河毛の造り酒屋、山口嘉左衛門の次男として生まれた。 「元イマン居留民会長 服部富造君」西川太治郎編纂(昭和13年)、「世界史の中の一億人の昭和史 ロシア革命・大正デモクラシー」毎日新聞社刊によれば、1900年服部富造は親戚の山口家次男・山口菅三を預かり服部商店内で、菅三を含めた5人の日本の若者への「海外版 松下村塾」とも言える教育が始まった。この時菅三は16歳であった。日中は「服部商店」で仕事を通じて貿易と商売を学び、夜は夕食後8時から深夜12時まで連日主人服部富造が直々に菅三等5人の若者にロシア語とロシア情勢について教育を行った。
宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)… 宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)は、中国学者、拓殖大学教授、学監。佐賀県現多久市出身。拓殖大学校歌の作詞者である。長男は北海道大学教授の宮原将平。
小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11… 小倉 伸吉(おぐら しんきち、1884年 - 1936年11月1日)は、日本の海洋学者、潮汐学者。
郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、18… 郁 華(いく か、チェコ語: YU Hua(ユ フア)、1884年 - 1939年11月23日)は、中華民国の司法官、法学者。江蘇高等法院第二分院刑事庭庭長、東呉大学教授。郁風(zh:郁風)の父、郁達夫の兄でもある。字は曼陀。 1884年、清国浙江省富陽県生まれ。1904年に日本に官費留学し、早稲田大学清国留学生部師範科、法政大学専門部法律科を卒業。1910年に帰国し、挙人となり七品小京官に任じられた。清国滅亡後、1912年に法官資格を取得し京師高等審判庁推事、北京政府大理院推事に就任する。 1913年に日本の司法制度を視察するため日本に派遣される。この視察に弟の郁達夫も同行し日本に留学している。
饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: … 饒 漢祥(ぎょう かんしょう、繁体字: 饒漢祥; 簡体字: 饶汉祥; 拼音: Ráo Hànxiáng; ウェード式: Jao Han-hsiang、1884年 - 1927年6月17日)は、清末民初の政治家。字は宓僧。別の署名に珀玕。 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学して法政大学を卒業した。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると武昌に向かい、武昌都督府で書記となる。後に黎元洪から抜擢され、秘書や秘書長に昇進した。 中華民国成立後、1912年(民国元年)11月に夏寿康の後任として湖北省内務司司長に任ぜられる。翌年、湖北省民政長署理となった。1914年(民国3年)、副総統黎元洪の秘書長となり、政治会議委員も務めた。
陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 –… 陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家。別号は矩亭。冀東防共自治政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任し、特に河北省公署(河北省政府)で長い官歴を持つ。最後は河北省省長代理や華北政務委員会農務総署督弁にまで昇進した。 清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)に明治大学政治科を卒業した。1910年(宣統2年)3月、湖北省清丈局専弁となる。中華民国成立後は、呉興県知事、中東鉄路路警処秘書主任、灤県県長などを歴任している。 1935年(民国24年)12月に冀東防共自治政府が成立すると、陳曽栻は自治政府秘書処処長に任命された。
田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1… 田中 早苗(たなか さなえ、1884年(明治17年) - 1945年(昭和20年)5月25日)は日本の翻訳家。男性。本名は田中 豊松(たなか とよまつ)で、この名義での著訳書もある。 英語とフランス語を解し、博文館の雑誌『新青年』などで、モーリス・ルヴェル(フランス語版、英語版)、ウィルキー・コリンズ、エミール・ガボリオ、ガストン・ルルーなどの作品の翻訳紹介につとめた。 1884年(明治17年)、秋田県秋田市に生まれる。 1907年(明治40年)、早稲田大学高等師範部英語科卒業。 雑誌『海外之日本』(海外之日本社)記者、雑誌『太陽』(博文館)嘱託記者を歴任した。 1937年(昭和12年)4月より東京市赤坂区史編纂事務嘱託として『赤坂区史』の編纂に従事する。
朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 19… 朝日枩 清治郎(あさひまつ せいじろう、1884年 - 1939年11月25日)は、現在の大阪府岸和田市出身で井筒部屋、猪名川部屋(大坂相撲)に所属した力士。本名は広瀬 伊之助(旧姓熊取谷)。身長167 cm、体重158 kg。 はじめ大阪の猪名川部屋に入門。しばらくして東京に出て井筒部屋から朝日枩の四股名で取り三段目まで進む。1905年1月大阪に戻り1910年1月に入幕。その場所初日に28連勝中の新横綱大木戸を破る殊勲を上げた。1912年5月関脇で8勝1敗で優勝相当成績を残したが脱走して東京に移った。 1913年1月前頭筆頭格番付外付出。翌5月場所の初日に控え力士として物言いを付けたところ、受け容れられずそのまま退場してしまった。
大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - … 大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - 1939年〈昭和14年〉4月25日)は、将棋棋士。贈九段。当初は関根金次郎十三世名人門下であったが、後に井上義雄八段門下に転じる。高知県高知市出身。本名は大崎熊吉。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 若い頃には坂本龍馬を尊敬し、政治家を志したこともあるという。 日露戦争に従軍し旅順包囲軍に参加。奉天での戦いで負傷に依り右腕の自由を失う。この負傷で伍長となり金鵄勲章を受ける。 帰還した後に関根金次郎十三世名人門下として将棋界に入り、その後井上義雄八段門下に「師匠替え」する。のちに井上の名から「雄」の字を貰い「熊雄」と改名することになる。
山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 194… 山下 十治郎(やました じゅうじろう、1884年 - 1945年4月16日)は、日本の料理人。北海道苫小牧市で第一洋食店を開業した。 「苫小牧に洋食文化の礎を築いた人物」とされる。 1884年(明治17年)に山梨県東山梨郡平等村(現・山梨市)に伊藤金治郎の子として生まれ、山梨県の山下家と養子縁組する。 横浜グランドホテルでフランス料理の修行を行う。横浜市在住中の1908年に長男・誠一を授かる。 年代は不明だが札幌市豊平館にて勤務の後、1910年には札幌市で長女・すみ子を授かると共に、王子製紙苫小牧工場の落成パーティーの料理担当として迎賓館として先行開館していた「王子倶楽部」(苫小牧)に派遣される。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)1… 大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)12月31日 - 1961年(昭和36年)2月20日)は、日本の雅楽家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府で伯爵・大原重朝の三男として生まれる。学習院を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学文科大学国文科を卒業した。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月28日、伯爵を襲爵した。 郢曲を綾小路有良に、箏・琵琶を豊原喜秋に、篳篥を安倍季節にそれぞれ師事した。1909年(明治42年)宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。 1922年(大正11年)5月11日、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し、研究会に属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した。
増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1… 増田 惟茂(ますだ これしげ、1883年12月29日 - 1933年8月6日)は、日本の心理学者。 愛媛県松山市出身。旧制松山中学、旧制四高、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業。元良勇次郎、松本亦太郎に師事。欧米留学を経て、1922年東京帝大助教授。1933年「心理学ノ研究法-殊ニ数量的研究ニツイテ」で東京帝国大学文学博士。51歳で死去した。