岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年… 岡 儀平(おか ぎへい、1883年1月30日 - 1991年9月28日)は、かつて男性長寿日本一だった栃木県小山市の人物。 小山市生まれ。20代で小山駅前に下駄屋を開店。その後靴店に衣替えし、70代まで現役として働いた。子供4人、孫13人、ひ孫17人に恵まれた。108歳になっても「高下駄づくりは難しい」と当時の思い出を話すこともあった。 108歳の誕生日時点では、朝食を介助を受けながらもしっかり食べ、新聞を30分ほどかけて読む生活であった。「お茶か水がほしい。年寄りの冷や水というからな」と冗談を飛ばす程であった。 誕生日には孫・ひ孫のうち15人が参加し、ロウソクをしっかり吹き消した。そして孫たちの励ましにもと笑顔でこたえた。
菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 195… 菊池 秋雄(きくち あきお、1883年1月28日 - 1951年)は、青森県出身の園芸学者。京都大学名誉教授。専門は果樹園芸学。
古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28… 古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28日 - 1944年(昭和19年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士17期卒。最終階級は大佐、死後少将。 佐賀県田代村(現・鳥栖市)出身。兄の古賀真一も少将。熊本陸軍地方幼年学校3期生より陸軍士官学校を17期生として卒業。歩兵第13連隊第3中隊長、台湾歩兵第2連隊配属将校を経て、鯖江連隊区司令部部員。1933年8月30日に大佐で予備役編入。1944年、大正5年~9年生まれの九州北部各地の応召兵2000名からなる「南方総軍緊急補充要員久留米師団第161部隊」(通称マルコ部隊、コは古賀の頭文字)の輸送指揮官として10月13日博多港を発し、26日ボルネオ島に到着したが間もなく同地にて病死。
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月… 宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。税関吏・宇佐美潤屋の長男として生まれる。東京府立第一中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校を卒業(14期)し、1903年(明治36年)、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。 佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長、東京警備参謀長などを歴任。 1930年(昭和5年)3月、騎兵監部付の時に陸軍少将に進級。
魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月2… 魚住 折蘆(うおずみ せつろ、1883年〈明治16年〉1月27日 - 1910年〈明治43年〉12月9日)は、明治時代の日本の文芸評論家。 本名は影雄(かげお)。 兵庫県加古郡母里村(現・稲美町母里)出身。兵庫県姫路尋常中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)入学後、内村鑑三の『東京独立雑誌』に影響を受ける。1901年(明治34年)受洗。1903年(明治36年)5月、友人の藤村操が日光華厳滝で投身自殺し、衝撃を受ける。同年9月、第一高等学校に入学。翌年『一高校友会雑誌』に「自殺論」を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。 1906年(明治39年)9月、東京帝国大学文科大学独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科した。
松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16… 松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16年)1月27日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・源次郎。 旧西尾藩主家当主、子爵・松平乗承の二男として生まれる。1912年、乗統に改名。父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)6月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学文科大学史学科(国史学)を卒業し、同学史料編纂係嘱託となる。1908年(明治41年)宮内省皇孫御用掛に就任。以後、皇子御用掛兼東宮職御用掛、皇子傅育官、式部官兼御歌所主事、大礼使典儀官兼主猟官、兼李王職典紀などを務めた。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 196… 上村 進(かみむら すすむ、1883年1月23日 - 1969年5月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(日本共産党公認)。自由法曹団設立に関わり、同団体の団長も務めた。 日本共産党機関誌「アカハタ」を印刷していたアカツキ印刷所の社長だった。 新潟県南魚沼郡塩沢町(現在の南魚沼市)出身。早稲田大学専門部法律科及び中央大学卒業。日露戦争に従軍し、退役後上京、二六新報社に入社した。1915年、弁護士試験に合格、弁護士となった。1920年には普選演説会で首相や両院議長に対して、普選反対議員へ天誅を行う旨の決議文を提出したこと(天誅事件)で起訴される(後に無罪判決)。翌年布施辰治や山崎今朝弥らと自由法曹団を結成し、労働運動、農民争議への支援を精力的に行った。
海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 19… 海老沢 亮(えびさわ あきら、1883年1月23日 - 1959年1月6日)は、日本組合基督教会の牧師であり、戦前は日本基督教連盟総主事として神の国運動を推し進め、戦後は日本基督教協議会(NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。 水戸藩士海老沢知成の3男として、茨城県西茨城郡笠間町に生まれる。立志学館を卒業した後、札幌農学校土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師のA・M・ドーデ―の英語教室でキリスト教に触れて, 1900年(明治33年) 田中兎毛牧師から洗礼を受ける。 1902年 (明治35年) に農学校を卒業後、日本鉄道会社に入社し、鉄道技手に任命される. 1904年(明治37年) 日露戦争が始まると陸軍少尉として、歩兵第25連隊に加わり、旅順に出征するが帰隊命令を受けて旅順攻囲戦には参加していない。
西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月2… 西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月21日 - 1951年(昭和26年)12月17日)は、日本の文部官僚。 高知県高岡郡越知町出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。長崎高等商業学校教授となり、1920年(大正9年)から民法・商法研究のためイギリス・アメリカ合衆国・ドイツに留学した。帰国後、東京帝国大学書記官・学生監、同庶務課長、文部書記官・大臣官房会計課長、専門学務局長を歴任し、1929年(昭和4年)に宗教局長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、同年から1935年(昭和10年)まで満州国文教部総務司長を務めた。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - … 鈴木 善太郎(すずき ぜんたろう、1883年1月19日 - 1950年5月19日)は、日本の小説家、劇作家、翻訳家。雅号は秋風。 福島県郡山市大町生まれ。旧制安積中学校を中退、旧制海城学校に転校し卒業。早稲田大学文学部英文学科卒業。卒業後は、国民新聞、朝日新聞社の記者として活躍し、大正7年に短篇小説『幻想』を発表して作家としての地位を確立する。『文章倶楽部』にて、菊池寛や野村愛正と並んで三大新進作家に数えられた。新劇運動にも参加し、日本近代演劇界に多大な貢献をした。 大正10年欧米各国を歴訪、帰国後、松竹顧問、コロムビア文芸部顧問となる。フェレンツ・モルナールの紹介に貢献した。
國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1… 國分 勘兵衛(こくぶ かんべえ、1883年1月19日 - 1975年2月23日)は、日本の実業家。養子として入った國分家の家業を株式會社國分商店(のちの国分グループ本社株式会社)とし、カルピス食品工業株式會社代表取締役社長なども務めた。旧名山本 秀次郎。 現在の三重県松阪市で生まれた。1905年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、國分商店に入った。國分家の養子となり、1924年には國分勘兵衛を襲名した。1938年大日本洋酒食料品商組合の初代会長に就任した。 日本の降伏後、1950年に合名会社国分商店と国分漬物株式会社を合併して国分株式会社(のちの国分グループ本社株式会社)を設立し、同社社長に就任。
安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18… 安居 喜八(やすい きはち、1883年〈明治16年〉1月18日 - 没年不詳)は、日本の実業家。近江貯蓄銀行・百三十三銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家、滋賀県多額納税者。公選初代・彦根市長。家督相続前は、喜三郎を名乗る。 1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。安居家は滋賀県犬上郡彦根町における資産家として知られる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた。 近江貯蓄銀行・百三十三銀行・川北電氣企業・黒部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。
島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17… 島田 七郎右衛門(しまだ しちろうえもん、1883年1月17日 - 1962年7月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県出身。1901年、富山県立富山中学校(現・富山県立富山高等学校)卒。日露戦争に従軍、陸軍歩兵中尉となる。三等郵便局長、福岡町(現・高岡市)議、同町長、富山県議、西砺波郡農会長、富山県農会長、同山林会副会長、福岡信用組合理事長、北陸製絹、高岡新報、中越土木、笹川窯業、高岡電燈、岡吉商事、大岩電気、飛越電気、戸出物産各(株)重役を務める。 1930年の第17回衆議院議員総選挙で富山2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙で初当選。
人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月1… 人見 東明(ひとみ とうめい、1883年(明治16年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月4日)は、日本の詩人、教育者。本名は圓吉(えんきち)。昭和女子大学(日本女子高等学院)の創設者。 東京に生まれ、岡山県で育つ。早稲田大学高等師範部英語科を卒業後、讀賣新聞社に記者として勤務する。早大在学時より詩作に励み、1907年(明治40年)5月に相馬御風・三木露風・加藤介春・野口雨情らと早稲田詩社を起こす。1909年(明治42年)に加藤介春、三富朽葉、福田夕咲らとともに自由詩社を結成、口語自由詩運動の基礎を作り、新体詩の普及に努めた。また、1920年(大正9年)に日本女子高等学院(後の昭和女子大学)を創立し、教育者としての功績も残している。
古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)… 古山 春司郎(ふるやま はるしろう、1883年(明治16年)1月16日 - 1953年(昭和28年)5月11日)は、日本の検事。弓道家。 千葉県上埴生郡豊栄村(現在の長生郡長南町)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補となる。鹿児島地方裁判所予備判事、大分地方裁判所・大分区裁判所判事を経て、1916年(大正5年)に検事に転じ、名古屋地方裁判所・名古屋区裁判所検事、岐阜地方裁判所・岐阜区裁判所検事、甲府地方裁判所・甲府区裁判所検事、東京地方裁判所・東京区裁判所検事、横浜地方裁判所検事、東京控訴院検事、長崎控訴院検事を歴任した。 その後、台湾総督府法院検事となり、台北地方法院検察官長、高等法院検察官長を務めた。
松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1… 松井 貴太郎(まつい きたろう、1883年1月16日 - 1962年11月2日)は、大正時代から昭和時代にかけて三井系の建物の設計を多く手がけた建築家。東京銀行集会所(後に東京銀行協会)や、三信ビルディングなどの設計などで知られる。 *現況欄の✕は現存せず
大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月1… 大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月12日 - 1972年(昭和47年)10月19日)は、日本の陸軍法務官、政治家。最終階級は陸軍法務中将。陸軍省法務局長、初代岡山県井原市長。 岡山県後月郡西江原村(西江原町を経て現井原市)で、後に井原町長を務めた大山邦一、房与夫妻の長男として生まれる。西江原村立尋常義之小学校を経て、岡山県立商業学校に入学したが中退。郡役所書記を経て、1904年7月、日本大学専門部正科を卒業。同年12月、判事検事登用試験に合格。同年12月、司法官試補となり第5師団法官部員として修習し、陸軍を志願して1905年3月、陸軍理事試補に任官し留守第11師団法官部員に就任した。
小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉… 小泉 多三郎(こいずみ たさぶろう、1883年〈明治16年〉1月10日 - 1952年〈昭和27年〉8月12日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 岩手県東和賀郡十二鏑村(のち和賀郡土沢町→東和町現・花巻市)出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、1906年、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒。樺太民政署に入り、東京営林局などに勤務した。その後、1908年に母校の盛岡高等農林学校の助教授となり、1918年に教授となった。同年に退職後、岩手林業に入り、常務取締役となった。 1929年、盛岡市会議員となり、18年務めた。 盛岡市長選挙に立候補して、社会党の新人を破って初当選を果たした。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1883年(明治16年)1月10日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外科医。東京医学専門学校教授、順天堂医学専門学校教授を歴任し、日本外科学会会長。東京府日本橋区出身。 1883年(明治16年)1月、日本橋区の樋口家に生まれる。 1905年(明治38年)7月、第一高等学校を卒業し、京都帝国大学福岡医科大学に進学して、順天堂副医院長で順天堂医院第2代医院長佐藤進の養子である佐藤恒久の養子になる。1907年(明治40年)義父恒久が死去する。1909年(明治42年)12月、福岡医科大学を卒業し、卒業後は福岡医科大学外科(三宅速教授)に入局。1912年(大正元年)よりドイツ・イギリス・ベルギー・オランダに留学しゲッティンゲン大学やベルリン大学で病理学・肺外科の研究に従事し、第一次世界大戦勃発により1914年(大正3年)帰国した。
森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日… 森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日 - 1958年(昭和33年)7月12日)は、大正から昭和時代前期の政治家、大日本帝国海軍軍人。岐阜県高山市長。岐阜県多額納税者。 森七左衛門の二男として高山に生まれる。京都帝国大学法科卒業後、海軍に入り海軍主計少佐に昇ったのち退役する。ついで教育界に転じ、岐阜県立高山高等女学校(現岐阜県立高山高等学校)長となったのち、宮野省三知事の推薦および市会一致の推挙により1938年(昭和13年)8月、高山市長に就任した。 1945年(昭和20年)4月、高山市長を退任。戦後、公職追放となる。
浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1… 浮田 茂太郎(うきた しげたろう、1883年〈明治16年〉1月8日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。山口県下関市長、防府市長。 浮田芳平の長男として香川県に生まれ、1913年(大正2年)家督を相続する。1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、東京鉄道会社に入社する。1911年(明治44年)8月、東京市事務員となり、1919年(大正8年)6月、同市主事となる。1923年(大正12年)2月、下関市助役となり、1927年(昭和2年)1月、同市長に就任し、1931年(昭和6年)1月、満期退職した。ついで京都市主事、同市理事、香川県育英会学監兼監事を経て、1938年(昭和13年)3月5日、防府市長に就任した。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月… 近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の登山家・貿易商。 登山家としては、剱岳別山尾根の初下降、辻村伊助とともに行ったヨーロッパ遠征、黒部峡谷初横断などで名を残し、日本山岳会名誉会員に選ばれた。また、大日本体育協会設立に参画し、バスケットボールの普及にも貢献している。 1883年(明治16年)、千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)に生まれる。実家は醸造家。 東京・音羽の豊山中学校(のちに大正大学となる学校)を卒業後、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけてウイスキー研究のためにイギリス・スコットランドのグラスゴー大学に留学。
黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日… 黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和18年(1943年)11月10日)は、日本の内務官僚、政治家。第26代山梨県知事、第7代神戸市長(在任:1925年8月17日 - 1933年)。熊本県出身。 熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)に生まれる。明治42年(1909年)6月に東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業、同年11月に文官高等試験に合格、同年12月に警視庁警部となり、明治43年(1910年)12月に警視庁警視となり高輪警察署長、堀留警察署長、警視庁監察官、警視庁特別高等課長を歴任後、大正6年(1917年)1月に岡山県警察部長、大正9年(1920年)に福岡県警察部長、大正11年(1922年)1月に山口県内務部長、同年11月に兵庫県書記官・内務部長を歴任。
坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月… 坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1947年〈昭和22年〉9月18日)は、内務官僚、函館市長。 下谷区(現在の台東区)の谷中墓地にある茶店おもだかやの店主坂本勝太郎の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に文官高等試験に合格。1911年(明治44年)より群馬県警部、利根郡長、佐波郡長、群馬県理事官を務めた。さらに岐阜県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、愛知県内務部長を歴任し、1924年(大正13年)には台湾総督府警務局長に就任した。 1929年(昭和4年)、函館市長に選出され、市の長年の懸案であった函館水電買収問題に取り組んだが、最終的な解決には至らなかった。
武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7… 武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和56年(1981年)1月13日)は、日本の実業家。朝鮮電気協会元副会長。京城電気元社長。族籍は京都府士族。 土木技師である武者満歌の長男として、神戸市に生まれる。 明治29年(1896年)に京都府尋常中学校(現・京都府立洛北高等学校)、同38年(1905年)に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。尚、東京高商の同期には、三井物産の田島繁二(後同社常務取締役)、内田信也、芳川寛治がいる。 卒業と同時に第一銀行へ入行し、間もなく釜山支店副支配人に挙げられ、朝鮮へ渡る。渡鮮後、朝鮮における電気事業を有望視し、親友の芳川寛治らとともに渋沢栄一が後援する日韓瓦斯(ガス)株式会社の経営に当たったが、明治30年代当時の朝鮮では、一般の需要は少なく、会社の業績は上がらなかった。
見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月… 見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年〈明治16年〉1月6日 - 1955年〈昭和30年〉1月20日)は日本の政治家。岩手県盛岡市長。 盛岡市出身。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒。岩手県庁に入り、岩手郡書記となる。内務省警保局書記を経て、青森県北津軽郡長、福島県相馬郡長を歴任した。1927年に満州に渡り、遼陽、鞍山の各事務所長を経て、関東州果樹組合専務理事に就任した。1936年に退職し帰国した。 1939年に盛岡市長に就任。盛岡市は厨川、中野、本宮、浅岸と合併。太平洋戦争が始まり、戦時体制下の市政運営となり、困難を極めた。市長は1943年に辞職した。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1955年に死去した。
畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治… 畑 七右衛門(七右衞門、はた しちうえもん、1883年(明治16年)1月6日 - 1958年(昭和33年)5月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・長沢、前名・留治郎。和孝に改名。 京都府天田郡、のちの細見村(三和村、三和町を経て現福知山市)に長沢又三郎の六男として生まれる。兵庫県在住の先代畑七右衛門の養子となる。兵庫県立柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業し、その後日露戦争に従軍する。1916年に家督を相続して七右衛門を襲名する。春日部村収入役、同村長を務め、兵庫県議、同議長、県農会特別議員に選ばれる。ほか多利信用購買組合長、春日部村信用組合長、同農会長、黒井銀行、葛野銀行各取締役などを務める。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日… 関水 武(せきみず たけし、1883年(明治16年)1月5日 - 1939年(昭和14年)7月8日)は、朝鮮総督府官僚。 神奈川県高座郡渋谷村(現在の藤沢市から大和市にかけての地域)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、高等文官試験に合格した。茨城県属、同警部、同理事官、同西茨城郡長、同那珂郡長を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清南道警察部長、朝鮮総督府監察官、警務局衛生課長、平安南道内務部長、慶尚南道内務部長、京畿道内務部長、京城府尹を歴任。1930年(昭和5年)、咸鏡南道知事となり、1933年(昭和8年)に慶尚南道知事に転じた。 1935年(昭和10年)に退官した後は、朝鮮石油株式会社常務取締役を務めた。
南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - … 南波 杢三郎(なんば もくさぶろう 1883年1月4日 - 1967年12月17日)は、日本の検察官。 東京中学、三高を経て、1908年10月に東京帝国大学法学部法律学科独法科卒業。同年11月に司法官試補。石巻区裁判所・古川区裁判所各判事、前橋区裁判所検事などを経て、1916年に東京区裁判所兼東京地方裁判所検事に就任。以後、栃木県警察部長、福井県内務部長を経て、1924年12月に退官。1927年、時の内相・鈴木喜三郎により、内務省警保局長・山岡萬之助(のちの日本大学総長)とともに、警保局保安課長に任ぜられる。またこの件にて保安課長は奏任官から勅任官となる。特別高等警察の拡充、治安維持法の強化を図り、内務省の権限と影響力を強化した。
吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4… 吉田 真策(よしだ しんさく、1883年(明治16年)1月4日 - 1927年(昭和2年)9月29日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県山県郡吉坂村(現在の北広島町)出身。1909年、京都帝国大学法科大学卒業。統監府検事、朝鮮総督府大邱地方裁判所検事を務めた。退官後、京都で弁護士を開業し、1911年(明治44年)に広島に転じた。また広陵中学校理事も務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4… 池田 輝方(いけだ てるかた、1883年(明治16年)1月4日 - 1921年(大正10年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。 1883年(明治16年)1月4日、東京府京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。1895年(明治28年)に水野年方に内弟子として入門。1899年(明治32年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。1902年(明治35年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌1903年(明治36年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日… 江部 順治(えべ じゅんじ、1883年(明治16年)1月3日 - 1976年(昭和51年)2月16日)は、大正から昭和期の政治家。衆議院議員、栃木県下都賀郡小山町長。旧姓・高堂。 秋田県南秋田郡、のちの秋田市で高堂兵右衛門の五男として生まれ、江部惣四郎の養子となる。1906年(明治39年)東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業した。 一時大蔵省に入省したが退職し、下野酒造(のち一徳酒造)専務、栃木県酒類販売社長、下野醤油社長、同県商工経済会小山出張所長、小山商工会長、那須商業銀行監査役などを務めた。 政界では、小山町会議員、所得税調査委員、栃木県都賀地方事務所参与などを務め、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)まで小山町長に在任した。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1… 高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉5月6日)は、日本の内務官僚である。警視総監。 熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男。 済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する。 その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月… 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。位階勲等は正二位大勲位。
後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年… 後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1938年〈昭和13年〉6月9日)は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民。 島根県人・後藤彦三郎の長男。1898年、家督を相続し、後に前名・寛一郎を改め襲名する。1906年、専修大学経済科を卒業。鉱業を営む。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役、同社社長などをつとめる。 1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄付したため1934年3月5日に褒状が下賜される。 米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される。
四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1… 四海波 太郎(しかいなみ たろう、1883年1月1日 - 1933年12月10日)は、現在の兵庫県洲本市出身で小野川部屋(大阪)出羽海部屋(東京)に所属した力士。本名は佐渡 太郎市。4代君ヶ濱。171cm、90kg。最高位は大阪では東関脇、東京では東小結。 大阪相撲の小野川部屋に入門。1908年6月西昇の四股名で入幕。1910年1月関脇に進み番付発表後に師名を継ぎ八陣と改名。1912年1月東京に移り四海波の名で前頭5枚目格に付出され、1915年1月小結。右四つからの寄りが得意で、横綱梅ヶ谷と3度引分になったことがある。1917年1月に引退、4代君ヶ濱を襲名したが、1921年5月に廃業した。
小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明… 小谷野 伝蔵(小谷野 傳藏、こやの でんぞう、1883年(明治16年)1月1日 - 1963年(昭和38年)12月)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。埼玉県浦和市長。埼玉県多額納税者。 栃木県栃木町生まれ。栃木中学校卒業。坂倉重平の三男として生まれ、小谷野やさの養子となり、1912年(大正元年)家督を相続する。1915年(大正4年)、浦和商業銀行に入行した。同年、浦和町会議員となる。1919年(大正8年)、北足立郡会議員となる。1921年(大正10年)、浦和商業銀行頭取となった。1922年(大正11年)2月6日、浦和町長兼浦和町会議長となった。1923年(大正12年)8月20日に退任した。
浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)… 浅井 一郎(淺井、あさい いちろう、1883年(明治16年)1月 - 1968年(昭和43年)6月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員、千葉県君津郡大貫町長。 千葉県天羽郡、のちの大貫村(君津郡大貫町、大佐和町、富津町を経て現富津市)で生まれる。日本法律学校(現日本大学)を修了。アメリカに留学し、コロンビア大学で法律学を学んだ。 インターナショナル活動会社副社長、ヴァキュームオイル・レファイニング会社重役を歴任。帰国後、大貫町長に就任。その他、千葉新聞社顧問、新千葉新聞社顧問、日本製塩顧問、日本国民食糧顧問、木更津自動車顧問、木更津ホテル顧問、木更津合同タクシー顧問、木更津木工顧問、木更津印刷顧問などを務めた。
宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 -… 宇土 照蔵(うど てるぞう、1883年(明治16年)1月 - 1912年(明治45年)7月15日)は、日本の大陸浪人である。 大分県宇佐郡豊川村(現在の宇佐市)に生まれる。明治大学卒業後、朝鮮人の行動を調査するため李氏朝鮮(のち大韓帝国)に渡る。1910年の韓国併合後、清国に移住。 その後は同地で活動していた川島浪速らとともに満蒙独立運動や満洲に亡命していた朝鮮人の行動等に携わった。しかし、この頃奉天省の海龍(現在の遼寧省朝陽市龍城区)付近にて中国軍からの砲撃により死去した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、… 榛葉 太生(しんは ふとお、1883年 - 1962年)は、日本の医師。「安曇節」の初代家元。号は出原処士。 長野県北安曇郡松川村生まれ。長野県師範学校第二種講習を経て地元の小学校教員を務めた後、旧制松本中学校(長野県松本深志高等学校)を卒業して上京。医師免許を取得し、地元で開業する。 その傍ら、郷土史研究にも取り組み、有明山の開山記録や、県内に分布する道祖神の調査研究に携わる。1923年(大正12年)、安曇野に古くから伝わる民謡を集めて編曲した新民謡「安曇節」を完成させ、1925年(大正14年)には『正調安曇節』を発表し、その普及に努めた。
岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年)… 岡田 信吉朗(おかだ しんきちろう、明治16年(1883年) - 昭和19年(1944年))は日本の実業家。岡田回漕店・岡田海運各(株)代表取締役。海運業。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした岡田庄作(鳥取県平民、海運業、鳥取県多額納税者)の弟。 鳥取県西伯郡境町(現在の境港市)出身。 米子中学(現米子東高校)卒業。境港出身の米中第一回生である。 長兄と共に海運業に従い後岡田海運、岡田回漕店両社を設立する 昭和8年(1933年)の米中同窓会名簿には、彼の職務は「大阪市北区大阪ビル、岡田海運商会主」となっている。
君野 順三(きみの じゅんぞう、明治16年(1883年) -… 君野 順三(きみの じゅんぞう、明治16年(1883年) - 昭和29年(1954年))は日本の弁護士、政治家。元鳥取市会議員(議長)、鳥取県会議員。元鳥取弁護士会会長。 元若桜町町長君野秀三の兄。弁護士君野駿平の父。長女は弁護士上原準三の妻。 鳥取県八頭郡若桜町若桜に生まれた。君野良平の長男。 明治34年(1901年)東京法学院(現中央大学)卒業。弁護士試験に合格し鳥取市で弁護士を開業。明治41年(1908年)に判事となり松江地方裁判所に勤務したが、再び鳥取市に戻って弁護士生活を始めた。 大正6年(1917年)鳥取市会議員となって電灯市営論が政治・社会問題化すると愛市団に参加。 大正8年(1919年)に再選され市会議長に推され、鳥取弁護士会副会長にもなった。