熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 19… 熊岡 美彦(くまおか よしひこ、1889年3月9日 - 1944年10月1日)は茨城県出身の洋画家。 石岡市生まれ。実家は製糸業を営む素封家。石岡第一尋常小学校在学中に地元の南画家・鬼沢小蘭に日本画を学ぶ。土浦中学校を経て、1909年東京美術学校西洋画科に入学し和田英作、藤島武二に師事する。同期の首席は萬鉄五郎。1913年同校卒。1926年、第1回帝国美術院賞を受賞する。同年フランスへ遊学。1929年帰国。1932年、斎藤与里らとともに東光会を結成。 1939年(昭和14年)4月、陸軍美術協会が発足するに当たり発起人の一人として名を連ねた。同年『珠江口掃海』『虎門要塞攻撃』を第5回海洋美術展に出品。
田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8… 田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8日 - 昭和35年(1960年)4月11日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)。旧姓下田。信儀と表記される場合がある。 衆議院議員下田勘次、鳥取大学長下田光造の弟。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現・鳥取市河原町和奈見)に生まれた。下田弥平の三男。 旧制鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て1907年、東京帝国大学農科大学に入学。卒業後帰郷し、八頭郡国英村三谷の田中嘉十郎の養子となる。農業を営む。 早くから郡会議員、郡農会長、県会議員を歴任し、1941年には県会議長に就任するなど地方政界において民政系に属して活躍した。
森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月… 森川 葵村(もりかわ きそん、 1889年(明治22年)3月8日 - 1979年(昭和54年)8月1日)は、大正・昭和期の日本の詩人、実業家。本名は森川 勝次。 東京市下谷区入谷町(現・東京都台東区)に生まれる。旧制京北中学校在学中、同窓の飯田蛇笏らと交流を深める。1910年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科を卒業し、引き続いて在籍した同専攻部計理科を1912年に卒業した。 在学中、三木露風一派の詩人として活躍し、三井物産に入社後、朝鮮火薬銃砲常務取締役、同社専務取締役、帝国火薬工業営業部長、日本油脂営業部長等を歴任した。 57歳で秋田県の寒村に疎開後詩作を再開し、第二次世界大戦後は北洋火薬(のちの日本化薬)社長などを務めた。
堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7… 堀内 干城(ほりうち たてき、1889年(明治22年)3月7日 - 1951年(昭和26年)5月28日)は、日本の外交官。駐中華民国公使。 奈良県生駒郡筒井村(現在の大和郡山市)出身。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業した。1918年(大正7年)、高等試験外交科に合格。領事官補、外務事務官、イギリス大使館二等書記官、上海領事、中華民国公使館二等書記官、同一等書記官、天津総領事、中華民国大使館参事官、北平総領事などを歴任した。1939年(昭和14年)、外務省東亜局長に就任。1940年(昭和15年)、中華民国大使館参事官を経て、特命全権公使兼上海総領事に就任した。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙に全国区から自由党公認で立候補したが落選した。
堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年〈明治22年〉3月… 堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年〈明治22年〉3月7日 - 1964年〈昭和39年〉4月26日)は、日本の実業家、財界人、政治家。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者で、第44代衆議院議長を務めた。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民。正三位勲一等。 「ピストル堤」の異名を持つ。 滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち秦荘町を経て、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。4歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。 1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し滋賀県立第一中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。
鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 198… 鈴木 雅次(すずき まさつぐ、1889年3月6日 - 1987年5月28日)は、日本の土木工学者、内務官僚。元日本大学教授。土木工学・港湾工学の研究に業績を上げる。1927年工学博士(九州帝国大学)。 長野県松本市生まれ。1908年旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)卒業、1911年第八高等学校卒業、1914年九州帝国大学土木工学科卒業。1914年内務省に入り、鉄道技師、土木局技術課長、内務技監を務める。 1930年日本大学旧工学部教授、1944年土木学会会長。1945年内務省を退官し、日本発送電の技術顧問となる。1947年から東京大学講師を兼任、1952年日本大学国土総合開発研究所長。1964年港湾審議会長、チリ津波対策審議会長、1968年日本港湾協会長などを歴任。
龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6… 龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6日 - 1986年(昭和61年)7月29日)は、日本の教育者。鹿児島県立大島中学校(旧制)校長、全国公民館協議会会長などを歴任。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民。 1989年、鹿児島県大島郡亀津村(現・徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)、広島高等師範学校卒業。広島高師を卒業後は、福岡県、鹿児島県、広島県、京都府で教職に就く。1924年、35歳で旧制鹿児島県立大島中学校(現・鹿児島県立大島高等学校)の第4代校長となる。学力低下および生徒指導上の問題を抱えていた旧制大島中を、後述の教育方針で再建。
近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月… 近藤 荒樹 (こんどう あらき、明治22年(1889年)3月6日 - 昭和61年(1986年)6月11日)は日本の実業家、相場師。元近藤商事会長。「丸ビル将軍」、「金融王」などと呼ばれた。
松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)… 松浦 永次郎(まつうら えいじろう、1889年(明治22年)3月5日 - 1976年(昭和51年)11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。静岡県小笠郡掛川町(現掛川市)出身。漫画家の所十三は曾孫(ひ孫)。 1936年、戦艦金剛艦長に抜擢され、1937年まで務めた。 その後川棚海軍工廠長・佐世保軍工廠長などの要職を歴任し、1943年12月20日に予備役に編入される。予備役編入後は大谷重工業副社長に就任した。 終戦後の1947年11月、公職追放の仮指定を受けた。
菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5… 菊山 嘉男(きくやま よしお、1889年(明治22年)3月5日 - 1977年(昭和52年)2月23日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。勲二等旭日重光章。 三重県出身。菊山末造の長男として生まれる。第七高等学校造士館を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、大分県警察部長、朝鮮総督府事務官、同専売局長などを歴任。 1933年8月、山口県知事に就任。県会と協調して県政を行う。農山漁村経済更生計画を推進した。1936年6月、宮城県知事に転任。1939年4月、知事を退任。同年に退官した。1939年、京都市助役。
須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月… 須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年〈明治22年〉3月4日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位勲二等。三重県飯南郡松阪町(現・松阪市)出身。 旧制三重県立松阪中学校を経て海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中4番、卒業時成績順位は149名中54番。津田静枝、佐藤脩に続き、日本海軍が養成した中国関係の専門家である。尉官時代は水雷屋で「葦」駆逐艦長在職中は美保関事件に遭遇。部下28名が殉職した。 河川砲艦「堅田」艦長着任後は殆ど中国関係の勤務に限定された。情報活動に携わったが、中国人協力者の信頼が厚く、国民党政権が重慶に移ってからも、須賀のもとには重慶からの情報が絶えずもたらされていた。
後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 196… 後藤 格次 (ごとう かくじ、1889年3月4日 - 1969年11月29日)は、日本の農芸化学者。東京大学農学部教授。日本学士院会員。
平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫… 岡本 かの子(おかもと かのこ、本名:岡本 カノ、旧姓:大貫(おおぬき)、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1939年〈昭和14年〉2月18日)は、日本の大正・昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。 東京府東京市赤坂区青山南町(現東京都港区青山)生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。 若年期は歌人として活動しており、その後は仏教研究家として知られた。小説家として実質的にデビューしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。 代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大和屋大貫家の別邸で誕生。
永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月… 永津 佐比重(ながつ さひしげ、1889年(明治22年)3月1日 - 1979年(昭和54年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県西春日井郡師勝村[要出典](現在は北名古屋市)出身。 愛知一中(現愛知県立旭丘高等学校)を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第18連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 歩兵第18連隊中隊長、参謀本部付勤務、支那駐屯軍司令部付、同軍参謀、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)2月から1927年(昭和2年)12月まで、アメリカに駐在。帰国後、陸大教官、参謀本部員、歩兵第68連隊大隊長、支那公使館付武官補佐官、歩兵第49連隊付、関東軍参謀などを歴任。
横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日… 横山 勇(よこやま いさみ、1889年(明治22年)3月1日 - 1952年(昭和27年)4月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 歩兵第51連隊長を務めた陸軍大佐横山新治の長男として東京市牛込区で生まれる。母ヨシは山路一善の妹。祖父は会津藩士の横山直助であるため、福島県若松市出身という説もある。 姫路中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。卒業成績は8番/418名。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1919年(大正8年)4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員(鉄道班)、陸軍省軍務局課員を経て、1924年(大正13年)8月、歩兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付となる。
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1… 和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年〈明治22年〉3月1日 - 1960年〈昭和35年〉12月26日)は、日本の哲学者・倫理学者・文化史家・日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。法政大学教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授を歴任。日本倫理学会会員。文化勲章受章。 兵庫県出身。東大哲学科卒。ニーチェなど西洋哲学を研究。奈良の寺院建築や仏像の美を再発見し、『古寺巡礼』(1919年)も人気を博す。『人間の学としての倫理学』(1934年)で新しい倫理学の体系を構築。『風土』(1935年)、『面とペルソナ』(1937年)も名高い。 日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。
高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は… 高津 致道(たかつ ちどう、1889年3月 - 没年不詳)は、日本の実業家、株式会社にんべん第3代社長。 1889年(明治22年)3月、高津龍五郞(八代高津伊兵衛の長男)の三男として生まれる。家業は、1699年(元禄12年)の創業の鰹節問屋・伊勢屋から興ったにんべん(旧・高津商店)を営む水産加工品メーカー。 1914年(大正3年)、立教大学商科(現・経済学部、経営学部)を卒業。 卒業後、家業の高津商店に入り、取締役および監査役を務める。 1920年(大正9年)に分家して一家を創立。 1951年(昭和26年)、株式会社にんべん第3代社長に就任し、社長職を1955年(昭和30年)まで務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
浅野 安吉(あさの やすきち、1889年(明治22年)3月 … 浅野 安吉(あさの やすきち、1889年(明治22年)3月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 京都府京都市上京区出身。第三高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、同年10月に高等文官試験に合格した。台湾総督府警部、同警視、営林局事務官、殖産局営林所営林課長、殖産局庶務課長を歴任。1924年(大正13年)、欧米諸国に出張した。帰国後、殖産局商工課長を経て、1929年(昭和4年)に高雄州内務部長となった。1931年(昭和6年)、台北州内務部長に転じ、さらに花蓮港庁長に転じた。 1932年(昭和7年)に退官した後は、高雄州青果同業組合副組長、高雄青果株式会社社長、高雄州会議員などを務めた。
保利 信明(ほり のぶあき、明治22年(1889年)3月 -… 保利 信明(ほり のぶあき、明治22年(1889年)3月 - 昭和42年(1967年)11月22日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。海軍医学校校長、海軍省医務局長を務めた。長崎県出身。 明治22年(1889年)に長崎県で出生する。大正元年(1912年)長崎医学専門学校を卒業し、直ぐに海軍省へ入省する。海軍医として、連合艦隊軍医長、別府海軍病院、呉海軍病院、横須賀海軍病院の医院長を経て、海軍軍医中将となり、昭和16年(1941年)10月15日に海軍軍医学校長になる。 第二次世界大戦後に東京にて開業医となり、厚生省援護審査会委員長などを務めた。昭和42年(1967年)11月22日に78歳で死去。
田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日… 田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日 - 1941年(昭和16年)9月1日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 高知県長岡郡、のちの新改村(香美郡土佐山田町を経て現香美市)で、田村勇吉の長男として生まれる。1907年(明治40年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業した。 1916年(大正5年)土陽新聞社(現高知新聞)の東京支局記者に就任。1919年(大正8年)高知市会議員に選出され3期在任。その後、高知県会議員も務めた。その他、地方森林会議員、高知県水産会長、高知県織物同業組合長などを務めた。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙で高知県第1区から立憲政友会所属で出馬して当選。
竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月2… 竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月28日 - 1948年(昭和23年)12月29日)は、日本の商工官僚。商工次官、企画院総裁、貴族院勅選議員。鹿児島県出身。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島第一中学校、第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学経済科を卒業して、農商務属となり、翌年に高等文官試験に合格した。以後、事務官、書記官、商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。
伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 19… 伊藤 明瑞(いとう めいずい、1889年2月28日 - 1948年11月23日)は日本の書家。本名は宮本 正雄門(みやもと まさおと)。 和歌山県和歌山市に生まれる。 1891年(明治24年)、2歳で漢学者南海鐵山に入門し、1892年(明治25年)、3歳で元堺県知事に揮毫を披露する。早くから神童・天才書家と呼ばれ、幼くして古典を暗記するなど博覧強記な人物であったという。 1894年(明治27年)、5歳で王羲之の書法を体得し、免許皆伝書を授与される。 1895年(明治28年)2月13日、5歳の時明治天皇の御前で腕前を披露し、「日本明瑞」(明治の明と瑞祥の瑞)の名を賜る。後に伊藤博文の書生となり、「伊藤明瑞」を名乗るようになった。
田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 19… 田辺 盛武(たなべ もりたけ、1889年2月26日 - 1949年7月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男として生まれる。松山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第49連隊付となる。1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 参謀本部付勤務、参謀本部員、第16師団参謀、参謀本部員、陸大教官、フランス出張、歩兵第61連隊大隊長、参謀本部員、陸軍省整備局課員、陸軍歩兵学校教官、整備局動員課長、歩兵第34連隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍少将に進級し陸士幹事となる。
薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、188… 薬師神 岩太郎(やくしじん / やくしじ いわたろう、1889年(明治22年)2月26日 ‐ 1953年(昭和28年)8月27日) は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県北宇和郡来村長。 愛媛県北宇和郡、のちの来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事した。森岡天涯の雑誌『南予之青年』の編集に従事。 来村会議員を経て、1925年(大正14年)宇和島市会議員に当選し1930年(昭和5年)まで在任。1931年(昭和6年)5月から1934年(昭和9年)5月まで来村長に在任。その後、宇和島市会議員に再選され1947(昭和22年)まで在任し、1942年(昭和17年)市会議長に就任。
本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉… 本間 憲一郎(ほんま けんいちろう、1889年〈明治22年〉2月24日 - 1959年〈昭和34年〉9月19日)は、昭和期の国家主義者。頭山満の高弟。号は紫山。 古河町(現在の茨城県古河市)出身。父秋田代吉は古河藩士秋田重柔の二男、母本間まさ(お正とも記述する)は水戸藩主徳川斉昭の侍医であった本間玄調の孫(玄調の長男・高佐=たかすけの二女)。 明治24年(1891年)1月に父が死去し、同年2月27日に母ともども本間家に復籍。翌明治25年(1892年)に母が再婚し東京へ行くものの、憲一郎は水戸市藤坂町(現在の水戸市泉町三丁目、五軒町三丁目のあたり)の伯父本間包三(かねみつ)方に預けられた。 憲一郎は水戸市五軒小学校、水戸市三の丸高等小学校、茨城県水戸中学校を経て、明治44年(1911年)に東洋協会専門学校(現在の拓殖大学)支那語科へ入学。
深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1… 深浦 正文(ふかうら せいぶん、1889年2月23日 - 1968年7月31日)は、浄土真宗の僧、仏教学者。 奈良県出身。佛教大学(のち龍谷大学)卒、浄土真宗本願寺派。インド留学ののち、1920年仏教大教授。1940年西本願寺勧学。1950年「唯識思想の起源及び発達」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。1955年から米国、カナダ、ハワイの開教区特命布教師。
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1… 池内たけし(いけのうち たけし、1889年2月21日 - 1974年12月25日)は、愛媛県出身の俳人。高浜虚子の兄池内信嘉の長男として松山市に生まれる。能楽の新興に務めた家風にならい当初は能楽師を志したが断念、1913年頃より虚子門に入り、「ホトトギス」発行所に務めながら虚子の指導を受けた。1932年「欅」を創刊・主宰。代表句に「仰向きに椿の下を通りけり」。大正中~後期の「ホトトギス」沈滞期に活躍した作家で、虚子の客観写生を忠実に実践。虚子は「平淡にして滋味がある」とその句風を評した。句集に『たけし句集』『赤のまんま』『その後』『父から聴いた話』『叔父虚子』などの著書がある。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月… 及川 マツノ(おいかわ マツノ、1889年〈明治22年〉2月20日 - 2002年〈平成14年〉1月3日)は、長寿日本一であった岩手県の女性。 1889年、岩手県大船渡市に生まれる。 1918年から大船渡市内の自宅で旅館業を始める。夫利三郎との間には1男2女をもうけた。利三郎の死後は女手一つで子供たちを育てた。 1999年に110歳を迎えた。東北地方では最高齢となり、全国でも4番目の長寿者になった。同年9月には自宅に親族や増田知事などが集い、鶴があしらわれた銀杯などが贈られた。 109歳頃に風邪を引いたがその後も元気で、朝7時に起床し、夜9時に就寝の生活であった。2000年12月には入れ歯が喉に詰まり、一時呼吸停止するなど入院もしたが回復。
浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日… 浦ノ濱 栄治郎(うらのはま えいじろう、1889年2月20日 - 1945年10月30日)は、新潟県三島郡(現在の小千谷市)出身で浦風部屋に所属した大相撲力士。本名は滑川 丑五郎(なめりかわ うしごろう)、旧姓は丸山。身長171cm、体重101kg。得意手は左四つ、吊り。最高位は関脇。 新潟県出身。板前修業に上京するも県人の財閥より体格より勧められ、相撲界へ浦風部屋へ入門。1906年5月序ノ口。1911年2月十両に昇進、1913年1月新入幕。6勝2敗1分1預で優勝旗手となる。均整の取れた体格で、吊りをはじめとする派手な取り口は「浦さま」と呼ばれた美貌とあわせ、女性に人気が有った。大物食いとしても鳴らして花形力士。
永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 19… 永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。 1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝、寺崎広業、結城素明に師事。1913年に東京美術学校(現:東京藝術大学)日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。1924年の日華連合展では国賓として北京に招かれ、出品作は袁世凱中華民国大統領が買い上げた。第6回帝展出品作「花柘榴・立葵」はフィラデルフィア万博に出品され、同地美術館に収蔵。
渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 19… 渋沢 青花(しぶさわ せいか、1889年2月18日 - 1983年5月19日)は、日本の編集者、児童文学作家、児童文学研究者。本名・寿三郎。別名・孤星、素風。 1889年(明治22年)、東京八丁堀に生まれ、まもなく浅草千束町に移る。浅草尋常高等小学校に入学、小学校時代、友人であった小宮山豊作や久保田万太郎の影響で文学に関心を持つ。東京府立第三中学校を経て早稲田大学英文科に入学し、片上伸に師事する。 1912年(明治45年)早稲田大学文学部英文学科を卒業。島村抱月の紹介で実業之日本社に入社する。はじめ、1913年(大正2年)に大隈重信、渋沢栄一らによって創刊された『実業講習録』編集部に勤務するが、同社の雑誌『少女の友』に少女小説「悲しき海へ」を寄稿したのがきっかけで、1914年(大正4年)同誌へ配属された。
田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月1… 田村 憲造(たむら けんぞう、1889年(明治22年)2月18日 - 1953年(昭和28年)8月19日)は、日本の医学者、薬理学者。医学博士、東京帝国大学名誉教授。 1889年(明治22年)2月18日、愛知県渥美郡二川村(現豊橋市)で米穀商「駒屋」を営む旧家に生まれる。小学校を卒業後は上京して獨逸学協会学校、旧制第一高等学校へ進む。東京帝国大学医科大学医学科へ入学し、第3年以降は特待生となるが、卒業は1年遅れた。1941年(昭和16年)1月に軽い脳卒中発作を起こし、疎開がてら郷里に戻って療養生活を送った。1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが田村は欠席した。
林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 19… 林 豊洲(はやし ほうしゅう、1889年2月18日 - 1935年12月20日)は日本の実業家・新聞記者。本名:林 茂(はやし しげる、旧姓:板井)。十勝毎日新聞の創業者として知られる。 大分県臼杵にて板井増次・コトの次男として生まれる。海外への憧れを抱いて海軍・陸軍士官学校を受験するも慢性結膜炎の既往症があり不合格、軍人以外での海外渡航の道を模索して東京の英語学校へ入学し英語学習に打ち込む。 1908年に板井家と同じく臼杵の名家である林家の長女・林波津女と養子縁組をし、林家の援助で中央大学法科へ進学。当初北海道帯広へ移住した林家の家業を継ぐことに戸惑いを感じるも「十勝の開発に身を投じる事が海外移住に勝る使命」と考えを変え、1910年に大学を中退し波津女と義父が住む帯広へ移住。
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月… 奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日 - 1990年〈平成2年〉9月25日)は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。 刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。 没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。
天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 -… 天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日 - 1977年3月6日)は、内務官僚。第6・7代茨城県土浦市長。 茨城県出身。茨城県立土浦中学校、第二高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、愛媛県属、同警視、同周桑郡長、同理事官、宮崎県理事官、福岡県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、秋田県内務部長、群馬県内務部長、福井県内務部長を歴任し、勅任官待遇となった。1932年(昭和7年)、退官。 その後、高松宮家嘱託、大正大学講師を務めた。 戦後は茨城県監査委員を務め、1951年(昭和26年)、土浦市長に初当選し1959年(昭和34年)まで2期務めた。
藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17… 藤井 清水(ふじい きよみ、1889年〈明治22年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。 医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。 焼山尋常小学校(現・呉市立昭和西小学校)、呉高等小学校をへて福山中学校で学んだ。音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。
多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 19… 多田 健蔵 (ただ けんぞう、1889年2月17日 - 1976年) は、日本のオートバイレーサー。神奈川県秦野市出身。アジア人として初めてマン島TTレースに参加した。 オートバイを始める前は自転車レースに参戦していた。1907年(明治40年)に横浜貿易新報(現・神奈川新聞)主催の「自転車長距離競走」で、250マイル(実際の走行距離は約390kmだったとされる)を16時間53分で走破、優勝している。 東京市日本橋でオートバイの輸入販売を行う多田健蔵商店を営む。1921年からオートバイレースを始める。当時日本のオートバイレーサーは20名しかいなかった。彼は日本におけるモータースポーツイベント主催の中心的な役割を果たすようになった。
中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年… 中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年〉2月16日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)に群馬県群馬郡六郷村(現・高崎市)で生まれた。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)1月20日に歩兵第28連隊長に就任し、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)に陸軍歩兵学校教導連隊長に転じた。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級し、第37歩兵団長(第1軍・第37師団)に就任し、日中戦争に出動。運城に駐屯し、警備・討伐戦に当たった。
谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月1… 谷口 腆二(たにぐち てんじ、1889年〈明治22年〉2月15日 ‐ 1961年〈昭和36年〉2月12日)は、日本の医師、細菌学者。 新潟県長岡市出身。旧姓、藤田。医学博士(1923年) 大阪大学微生物研究所の設立に尽力し、第3代所長となった。設立においては、関西を代表する実業家、山口玄洞(やまぐち げんどう)の支援を受けた。「喧嘩谷口」というあだ名で呼ばれた大阪大学医学部の昭和初期の「名物」研究者で、微生物病研究所の設立など大阪大学の研究機関としての地位向上に貢献した。山村雄一元大阪大学総長もその免疫学の授業について「体が震えるくらい興奮した」「斬新で魅力的であった」と記している。 1906年に新潟県立長岡中学校(旧制)を卒業。
千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年… 千田 憲(せんだ けん、1889年2月15日 - 1974年12月23日)は、日本の国文学者(上代文学)。元京都女子大学教授。 芳賀矢一の学統をつぎ、とくに万葉集の校訂などに成果をあげた。歌人として短歌・俳句も嗜んだ。 1889年、徳島県に生まれる。第五高等学校を経て、1912年に東京帝国大学文科大学国文学科を卒業、大学院に進学し、芳賀矢一の指導のもと万葉集を研究、本文校訂事業に没頭する。1914年、大学院修了。同年に芳賀矢一の推薦で東京府立第三中学校教諭、1917年には芳賀および上田万年の推挙で神宮皇學館教授に就任。1942年、勲三等・瑞宝章。 戦後は本務校が廃校となり、1942年から講師をしていた京都女子専門学校(のち新制の京都女子大学に移行)において五高時代の同級である松信定雄校長の勧めにより専任の教授となる。
山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2… 山田 儀三郎(やまだ ぎさぶろう、1889年(明治22年)2月13日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。青年時代から村政に関わり、1920年(大正9年)第1回国勢調査員となる。1925年(大正14年)富谷村会議員に当選する。1937年(昭和12年)富谷村長に就任した。この間、学務委員、農会議員兼評議員、家屋税調査員、耕地整理組合副理事長、在郷軍人分会顧問、小作調査委員、警防団副団長などを歴任した。 一度目の村長は1941年(昭和16年)まで務め、戦後は公職追放となったが、公民館副館長、富谷商工会会長などに就任した。
野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 19… 野島 康三(のじま やすぞう、1889年2月12日 - 1964年8月14日)は、日本の戦前期を代表する写真家のひとり。埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちにストレートな表現に移行した。 1889年2月12日に埼玉県浦和宿(のち浦和市)の銀行家の家系に生まれる。慶應義塾大学卒業。戦前の1929年(昭和4年)に、国画会に「裸婦作品」などを出品した。岸田劉生、梅原龍三郎、万鉄五郎、富本健吉らの後援者だった。また、岸田劉生、梅原龍三郎らの美術コレクターでもあり、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、美術家たちへの資金的な援助も行った。
藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月1… 藤江 崹一(ふじえ ていいち、1889年(明治22年)2月12日 - 没年不明)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。馬山府尹。 静岡県磐田郡見付町(磐田町を経て現磐田市)出身。1916年(大正5年)法政大学法科を卒業し税務所属となる。ついで大蔵省属、大阪府属を経て、朝鮮総督府属となり、1929年(昭和4年)12月、平安南道大同郡守に就任する。1934年(昭和9年)6月、京城府学務課長に転じ、1936年(昭和11年)7月30日、馬山府尹となった。1942年(昭和17年)10月、退官し、大日本婦人会朝鮮本部総務部長兼厚生部長に就任した。
上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月… 上村 利道(うえむら としみち、1889年(明治22年)2月10日 - 1947年(昭和22年)9月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。中学済々黌中退、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第48連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第13連隊大隊長、第9師団参謀、臨時上海派遣軍参謀、台湾軍参謀などを歴任し、1934年(昭和9年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵第24連隊長となった。 1936年(昭和11年)8月、参謀本部庶務課長となり、日中戦争に上海派遣軍参謀副長として出征。
今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 197… 今井 時郎(いまい ときお、1889年2月10日 - 1972年4月11日)は、日本の社会学者。東京帝国大学教授。 1913年東京帝大哲学科社会学専修卒。1917年ロシアのペトログラードに留学し、米国を経て1920年帰国。同年9月東京帝大助教授として社会学を講じる。1941年より東京市の教育局長などの要職に就くも、終戦後1948年から3年半余りの間、公職追放となる。東京学芸大学、大正大学、淑徳大学にて教鞭を執る。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1… 蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1974年12月8日)は、日本の実業家。石川県動橋村(現・加賀市)出身。東日本フェリーをはじめとした蔦井グループの創始者として、海運・陸運・倉庫・不動産業等多方面で活躍した。家族は息子に蔦井政信(東日本フェリー2代目社長)、孫に蔦井孝典(ハートランドフェリー、アイビー・システム社長)。 1889年(明治22年)、石川県動橋で宿屋を営む蔦井庄五郎の、12人兄弟の5男として生まれる。6歳で北海道へ移り、函館で生花店を営むおじ・勝次郎の家へ養子に出され、行商や新聞配達で家計を支えるも、函館の養父母の死去に伴い1900年(明治33年)に歌志内村赤平の弟夫婦の養子となり、先に団体移住していた親や兄弟とともに開拓作業を手伝う。
高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889… 高木 憲次(たかぎ のりつぐ(けんじ)、明治22年(1889年)2月9日 - 昭和38年(1963年)4月8日)は、大正から昭和後期にかけて活動した医学者、整形外科医。 1926年(大正13年)、東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授を歴任した。日本の肢体不自由児教育の創始者といわれている。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説いた。クリュッペルハイムの概念を日本へと持ち込み、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園(現:心身障害児総合医療療育センター整肢療護園)の創設者で初代理事長。
谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 … 谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日 - 1962年(昭和37年)10月26日)は、日本の外交官、外務大臣。妻・澄子は島津長丸の娘。 熊本県上益城郡島田村櫛島(飯野村を経て現・益城町)出身。熊本中学、第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科政治学科卒業。同年 外務省に入る。1930年(昭和5年)アジア局長。1933年(昭和8年)満州国大使館参事官。1936年(昭和11年)オーストリア兼ハンガリー公使。 1939年(昭和14年) 外務次官。 1942年(昭和17年) 東条内閣の外務大臣兼情報局総裁。 1943年(昭和18年) 駐中華民国大使(終戦時まで)。 1945年(昭和20年)12月2日 連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)。