藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月1… 藤田 雄蔵(ふじた ゆうぞう、1898年(明治31年)2月19日 - 1939年(昭和14年)2月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。1938年の飛行によって、距離と1万キロ速度において、当時の世界新記録を達成した。 本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。 1924年(大正13年)10月、砲兵中尉に昇進。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任官し所沢陸軍飛行学校付となる。1926年(大正15年)1月、第21期操縦学生となり操縦訓練を受ける。
河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月… 河野 百錬(こうの ひゃくれん、1898年〈明治31年〉2月19日 - 1974年〈昭和49年〉5月20日)は、日本の居合道家、剣道家、武道家。無双直伝英信流第20代宗家。段位称号は全日本居合道連盟範士、名人位。旧大日本武徳会剣道錬士。現大日本武徳会剣道九段。百錬は号で、本名は稔。 無双直伝英信流第18代宗家、穂岐山波雄ならびに第19代宗家、福井春政に師事し、その後第20代宗家を継いだ。居合に関する書籍を多数出版しており、中でも『大日本居合道図譜(1943年)』、『無雙直傳英信流居合兵法叢書(1955年)』、『居合道真諦(1962年)』などは名著であり、半世紀以上経った現在でもこれをバイブルとする居合道家は少なくない。
石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 -… 石橋 幸太郎(いしばし こうたろう、1898年2月18日 - 1979年8月22日)は、日本の英語学者。学位は、文学博士(日本大学・論文博士・1965年)(学位論文「英文法論」)。東京教育大学名誉教授。 福岡県福岡市出身。東京高等師範学校卒。旧制埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)教諭をへて東京教育大学教授、1959年定年退官、名誉教授、日本大学教授、1968年大妻女子大学文学部長。1965年「英文法論」で日本大学より文学博士の学位を取得。 1979年8月22日、肝硬変のため東京女子医科大学病院で死去。81歳。
中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 19… 中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。 旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。 1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 197… 本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 1978年4月10日)は、日本の教育者。官僚。 1898年、熊本県に生まれる。1916年、第五高等学校一部甲類に進学、1922年、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年に大学院に進学、同時に龍谷大学講師となった。1926年、福岡県女子専門学校教授、1928年に旧制静岡高等学校教授に就任。1936年に文部書記官、専門学務局学芸課長を務めた後、1945年7月、京都帝国大学事務監に転出。1949年に日本学術振興会事務局長となる。 1964年から1965年に熊本大学学長、文化財保護審議会委員、日本学術会議理事などを経て、1974年から1978年3月まで中九州短期大学の初代学長を務める。
戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月1… 戸波 宗道(となみ むねみち、1898年(明治31年)2月17日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 福岡県出身。福岡県立中学修猷館を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校第32期卒業。その後、東京帝国大学造兵学科を卒業する。 1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進級と同時に陸軍航空技術研究所哈爾濱支所員を発令される。1944年(昭和19年)5月、南方軍航空技術部員を経て、同年7月より第3陸軍技術研究所員を兼ねた。その後、1945年(昭和20年)6月10日、陸軍少将に進んだ。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1… 宗藤 圭三(むねとう けいぞう、1898年2月16日 - 1989年9月29日)は、日本の統計学者。 広島県賀茂郡寺西町(現東広島市)出身。1921年同志社大学法学部経済科卒、同助手、1922年講師、1927年教授、1933年法学部長、1937年「統計学原理」で京都帝国大学経済学博士。1949年同志社大学経済学部長、教授、1968年定年、名誉教授となる。
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15… 井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1993年〈平成5年〉7月10日)は、日本の小説家。本名:井伏 滿壽二(いぶし ますじ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身。筆名は釣り好きだったことによる。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。福山市名誉市民、広島県名誉県民、名誉都民。 1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年(嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ土居(土地の言葉でナカンデエ)」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。 1905年、加茂小学校入学。
佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日… 佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1999年〈平成11年〉9月26日)は、大正時代から昭和時代の北海道の経営者・教育者。位階は正四位。 北海道興農公社の設立に関わり、後身の雪印乳業の初代社長を務めた。また、長らく学校法人酪農学園の理事長を務めた。 札幌市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校・ 北海道帝國大學農学部卒業。アメリカのオハイオ州立大学農科大学で細菌学と乳業を学び、1922年(大正11年)に帰国。家業である農業を継ぐ。 1925年(大正14年)、父・善七が設立者の一人であった有限会社北海道製酪販売組合の技師となり、雪印の名で「北海道バター」を製造販売。1940年(昭和15年)から有限会社北海道興農公社の専務を務め、1946年(昭和21年)には経済安定本部勤務。
青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月1… 青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1976年〈昭和51年〉8月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の実業家、財界人。品川白煉瓦社長、東京電力社長・会長として会社経営に当たり、公職では日本経営者団体連盟(日経連)理事、国家公安委員会委員長などを務めた。著書も残している。 父母は東京で世帯をもっていたが、母だけが父の実家に帰ってお産したため静岡県静岡市で生まれた。青木儀助の長男。仔細あって母は父と別れた。父は日本統治時代の朝鮮に行ってしまい、祖母と一番末の叔母との三人暮らしだった。小石川の富坂の近くで育つ。父と別れたのは四ツのときで、おぼろげに印象が残っているだけである。
山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治… 山階宮武彦王(やましなのみや たけひこおう、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月10日)は、日本の旧皇族。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第一王子。海軍軍人で、最終階級は海軍少佐。皇族で初めて海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。 実母の範子は、貞明皇后の実姉であるため、武彦王は昭和天皇といとこ同士にあたる。 1898年(明治31年)2月13日、山階宮菊麿王と同妃範子の第1男子として誕生。誕生間もなく2月17日に、祖父山階宮晃親王が薨去しており、御七夜を待たず2月16日に「武彦」と命名された。 1908年(明治41年)5月、父菊麿王の薨去を受け、葬儀では喪主を務めた。
安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月… 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日)は、日本の易学者、陽明学者、思想家。私塾「金鶏学院」の設立、右翼政治団体「国維会」や学術団体「師友協会」の創立など、日本の伝統的な哲学・思想の「日本主義」の立場から保守派の長老として戦前から戦後に亘って活躍した。吉田茂(元内閣総理大臣)などの大物政治家とも深い交流があった。 1898年(明治31年)に現在の大阪府大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。 1904年(明治37年)に大阪市芝尋常小学校入学。
伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12… 伊能 芳雄(いよく よしお、1898年〈明治31年〉2月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月2日)は、日本の内務官僚、政治家。長野県知事(官選第31代)、群馬県知事(公選第2代)、参議院議員(1期)。 1898年(明治31年)、群馬県吾妻郡中之条町に、伊能八平の三男として生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業後、東北帝国大学農科大学予科へ進学。1923年(大正12年)東北帝国大学理学部地質学科を卒業。1924年(大正13年)高等文官試験行政科に合格、1925年(大正14年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省入省。警視庁警部補からキャリアを積み、警視庁警衛課長を務めた。
小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月1… 小林 利一(こばやし りいち、1898年(明治31年)2月12日 - 没年不明)は、大正から昭和にかけての満鉄職員、鉄道官僚。朝鮮総督府交通局長を務めた。 大分県速見郡別府町で小林豊蔵の次男として生まれる。1922年11月大学の卒業を待たずして高等文官試験行政科に合格し、1923年3月東京帝国大学政治学科を卒業。満鉄に入り、経理課勤務、京城鉄道学校講師を務めたのち、1925年、朝鮮総督府鉄道局に転じて書記になった。1926年3月には鉄道局副参事、1927年5月には鉄道局参事、1932年6月には鉄道局経理課長に就任。その後、鉄道局理事、京城地方鉄道局長を経て、1942年11月に鉄道局総務課長に就任。
坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月1… 坂間 訓一(さかま くんいち、1898年(明治31年)2月11日 - 1984年(昭和59年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 神奈川県出身。農業・坂間重次郎の長男として生まれる。厚木中学校(現神奈川県立厚木高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)までシベリアに派遣された(ロシア語研究)。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した。 1929年(昭和4年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となり、1930年(昭和5年)12月、ポグラニチナヤ特務機関長に転じた。
斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1… 斎藤 憲三(さいとう けんぞう、1898年2月11日 - 1970年10月31日)は、日本の実業家・政治家。TDKの創業者で衆議院議員・科学技術政務次官を務めた。 1898年(明治31年)斎藤宇一郎とミネの三男として、秋田県由利郡平沢村(現にかほ市)に生まれた。父の宇一郎は秋田の農業の発展に尽力し、代議士にもなった人である。憲三は地元の平沢小学校を卒業した後、本荘中学(現:秋田県立本荘高等学校)への進学を希望していたが、父の勧めにより大阪の私立学校である桃山中学(現:桃山学院高等学校)に入学した。 1922年(大正11年)早稲田大学商学部を卒業後、農家の副業奨励のため炭焼きや養豚などの事業に取り組むが、いずれも失敗する。
泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984… 泉 守紀(いずみ しゅき、1898年2月11日 - 1984年10月21日)は、第二次世界大戦中の官選沖縄県・香川県知事。沖縄県知事として、沖縄戦前の住民保護や防衛態勢構築に携わったが、連合国軍上陸前に転任した。 山梨県北都留郡大原村(現・大月市)に教育者泉文作の三男として生まれる。旧制第七高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、青森県庁への赴任を皮切りに、全国各地の警察畑を歩む。この間に妻となる女性との交際を深めるが、親族の反対で入籍はできず、内縁関係として結婚生活を始めた。 1943年7月、北海道庁内政部長を務めていた泉に、沖縄県知事の辞令が下り、7月26日に赴任した。
島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月1… 島田 芳文(しまだ よしふみ、1898年(明治31年)2月11日 - 1973年(昭和48年)5月3日)は昭和期の作詞家。本名は島田義文。 福岡県豊前市黒土生まれ。島田芳文の実家は黒土の大地主の家であった。早稲田大学出身。中学時代に島田青峰、若山牧水に短歌を学ぶ。1927年(昭和2年)、処女詩集「農土思慕」刊行。 1929年(昭和4年)、コロムビアレコードの専属作詞家になる。1931年(昭和6年)には、古賀政男と組んだ一連の作品「キャンプ小唄」、「丘を越えて」、「スキーの唄」が大ヒット。藤山一郎の歌声でたくさんの人々に愛唱された。 1941年(昭和16年)に「雪の満州里」を発表後、しばらくの間作詞家としての活動を休業。
森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年… 森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年不詳)は、日本の医学者、医師。専門は内科、物理学。 熊本県玉名市出身。熊本県立玉名中学校卒業、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を1923年(大正12年)に卒業。卒業後、東京帝国大学医学部病理学教室の助手となり、1932年(昭和7年)に医学博士号を授与された。 東京帝国大学医学部が外来医長制度を敷くに当たり、1935年(昭和10年)に初代の内科の外来医長となり、1938年(昭和13年)まで勤めた。1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)まで京橋病院の内科医長を勤め、辞任後は東京都で開業した。
八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 192… 八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は、日本の詩人、英語科教師。戦後にクリスチャン詩人としての評価が高まった。
宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9… 宮之原 謙(みやのはら けん、1898年(明治31年)2月9日 - 1977年(昭和52年)8月23日)は日本の陶芸家。日展理事・参与、光風会理事などを歴任。東京教育大学窯業科講師を務めた。 1898年(明治31年)鹿児島市鷹師町生まれ。麹町小学校、旧制麻布中学校卒業。早稲田大学建築科中退。1924年(大正13年)頃に川端画学校へ通い、山之内高門に日本画、宮川香山に陶芸を学んだ。また、板谷波山にも師事し、1927年(昭和2年)「東陶会」創立に参加。1929年(昭和4年)第10回帝展に「鉄砂釉竹又陶製花器」で初入選し、岡倉由三郎にインド哲学を学ぶ。1931年(昭和6年)第12回帝展に壁面照明「銀河」、翌年の第13回には釉薬象嵌「十字文花瓶」で連続して特選を受賞し、1933年(昭和8年)帝展無鑑査となった。
塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1… 塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1980年1月30日)は、浄土宗僧侶・仏教史学者。中国仏教研究の世界的権威。京都大学名誉教授。元日本学士院会員。 1898年、愛知県海部郡七宝村(現・あま市)で生まれた。15歳の時に仏門に入った。佛教専門学校(現・佛教大学)で学び、1918年に卒業。その後は東京に出て宗教大学(現・大正大学)研究科に進み、1920年に卒業。博士課程は京都帝国大学文学部哲学科インド哲学専科で修め、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡に師事。1923年に修了し、その後は京都帝国大学文学部史学科東洋史専科で学んだ。東洋史学は桑原隲蔵、羽田亨に師事し、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡の下で学び、仏教学・史学を併修した独自の学風であった。
藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 19… 藤田 俊訓(ふじた しゅんくん、1898年2月8日 - 1975年2月25日)は、日本の僧侶(曹洞宗)、大学経営者。佐賀県杵島郡大町町出身。 賢崇寺第29代住職、駒沢女子学園学監、駒澤大学学監などを歴任。「駒大中興の祖」と呼ばれる。 佐賀県神埼郡城田村の光円寺住職の父・亮雄と母センの長男として生まれる。1925年、曹洞宗大学(今の駒澤大学)卒業。大学在学中、学内誌「第一義」の編集に携わる(1922年から卒業迄)。1923年、夏休みを早めに切り上げて上京したため、関東大震災に遇う。広川弘禅や安藤文雄らと共に曹洞宗大学の単科大学昇格運動に積極的に関わった。 苦学して大学卒業後、曹洞宗総務院に務めるが程なく帰郷し宗侶として活動。
柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2… 柳谷 保一(やなぎたに やすいち、明治31年(1898年)2月8日 - ?)は日本の教育者、実業家、政治家。元鳥取県議会議員、米子市議会議員。 元鳥取県議会議員の柳谷中は長男。 鳥取県出身。丈四郎の長男。 大正12年(1923年)早稲田大学商学部卒業。 倉吉中学校・米子高等女学校各教諭の後、昭和16年(1941年)日本海新聞に入社、米子支社長、取締役総務局長を歴任。 其間米子市議、米子市国民健康保険組合常務理事となり、昭和30年(1955年)8月米子自動車学校理事長・校長に就任。 趣味は釣、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市皆生・米子市角盤町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月… 茨木 杉風(いばらき さんぷう、明治31年(1898年)2月8日 - 昭和51年(1976年)8月12日)は、近藤浩一路に師事した水墨画家。日本美術院院友を辞し『新興美術院』を創設した。 滋賀県野洲市小篠原出身の茨木家。移り住んだ近江八幡市博労町の初代から数えて五代目の芳蔵こと茨木杉風。菩提寺の近江八幡市東漸寺から長男陽介の意志により大先祖の菩提寺で、本堂に近江八景の襖絵を残す養専寺の墓地に移し眠る。 茨木杉風は、明治31年(1898年)2月8日に滋賀県蒲生郡八幡町(現滋賀県近江八幡市)の商家 梅田屋に生まれた。嫡男として家業である海産物商を継ぐところ、幼少時より絵が好きで大林千万樹に入門、後に大林より近藤浩一路を紹介され、大正9年(1920年)同人に師事した。
朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983… 朝長正男(ともなが まさお、1898年2月7日 - 1983年4月11日)は、日本の実業家。長崎県大村市出身で鎮西学院、関西学院高商を卒業、江商(現兼松)株式会社副社長、相談役を経て、母校である関西学院大学理事、千刈cc理事長、(社)関西ゴルフ連盟常務理事、茨木CC理事・鳴尾GC理事とし関西学院大学、関西ゴルフ界の発展に寄与した人物である。大正11年(1922年)関西学院高商卒業。 関西学院体育会のモットーである「Noble Stubbornness(ノーブル スタボネス)品位ある不撓不屈の精神」は、大正9年に関西学院高商庭球部主将であった朝長が、ライバルの神戸高商(神戸大学)庭球部に完敗した時に庭球部部長であった畑歓三教授に、この悔しさを忘れない為に依頼して作られたモットー、標語である。
笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月… 笹沢 美明(ささざわ よしあき、1898年〈明治31年〉2月6日 - 1984年〈昭和59年〉3月29日)は、日本の詩人。 横浜市の富裕な商人の家庭に生まれ育つ。東京外国語学校(現東京外国語大学)ドイツ語科を卒業後、1週間で勤めを辞し、遊民となる。ハイネによって詩に目覚め、リルケを始めとするドイツ語圏の詩と詩論を日本に紹介。新即物主義の先駆者。親の遺産を使い果たした後は貧困の中で暮らしていたが、戦後、昭和女子大学教授や工学院大学教授を歴任した。 詩集に『蜜蜂の道』『海市帖』『美しき山賊』『おるがん調』『冬の炎』『仮設のクリスタル』など。 三男は小説家の笹沢左保。自伝小説『詩人の家』に父の姿が描かれている。
古市 進(ふるいち すすむ、1898年(明治31年)2月6日… 古市 進(ふるいち すすむ、1898年(明治31年)2月6日 - 1963年(昭和38年)11月1日)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。大邱府尹、京城府尹。 石川県金沢市に生まれる。1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、朝鮮総督府に出仕。咸鏡南道属、京畿道警視、朝鮮総督府警察官講習所教授を経て、江原道理事官に発令される。 ついで事務官に転じ、同府警務局附となり、官房外事課に勤務する。哈爾濱および上海駐在を経て、忠清南道事務官に任官する。のち全羅北道警察部長を経て、同内務部長となり、1937年(昭和12年)4月1日付けで大邱府尹に発令される。府尹を辞したのち、黄海道、京畿道各内務部長を経て、1942年(昭和17年)5月、京城府尹となった。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。
尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日… 尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった。 愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれる。尾崎が生まれた年に父の嘉三郎は自宅で三等郵便局を開業した。1904年(明治37年)8月、神奈川県横浜市野毛町(現・中区野毛町)で耳鼻咽喉科医院を営む田島藤一郎(母の兄)の養子となる。1905年(明治38年)、心臓疾患とホームシックを理由に離籍、生家に戻った。 1910年(明治43年)、横須賀尋常高等小学校(現・西尾市立横須賀小学校)卒業。同年、愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に進学した。
大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、18… 大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年(明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年(昭和37年)7月18日)は、日本の映画俳優。本名:大邊 男(おおべ ますお)。 戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴()感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得た。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4… 伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名伊東一。娘に女優の朝丘雪路がいる。 歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。 1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる。
遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3… 遠藤 直人(えんどう なおと、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1986年〈昭和61年〉4月6日)は、日本の内務官僚。メナド州知事などを務め、兵庫県最後の官選知事であった。戦後は帰農した一方で、福島県公安委員長などの公職を務めた。 福島県耶麻郡熱塩加納村(現喜多方市)出身。遠藤直美の長男。会津中学、二高を経て、1923年(大正13年)東京帝国大学を卒業。在学中に高等試験に合格しており、内務省に入省した。官歴は大阪府警部に始まる。山梨、長崎での勤務を経て、福岡の社会課、商工課兼水産課の各課長、富山、長崎の書記官、学務部長を歴任。1938年(昭和13年)、厚生省書記官として中央勤務となり、失業対策部総務課長として失業者対策を行った。
成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979… 成瀬 政男(なるせ まさお、1898年2月3日 - 1979年7月12日)は、日本の機械工学者、東北大学名誉教授。初代職業訓練大学校校長。歯車の権威として知られる。位階および勲等は正三位・勲二等。 千葉県安房郡北条町(現館山市)八幡生まれ。白浜村(現南房総市)育ち。祖父の藤蔵は長尾藩士。父の作蔵は白浜尋常小学校代用教員で家は貧しく、1910年に尋常高等小学校卒業後、畑仕事をしながら進学し、1916年に千葉県安房中学校(現千葉県立安房高等学校)卒業後、尋常高等小学校代用教員となる。小学校の恩師に勧められて進学した東北帝国大学工学専門部機械工学科では銀時計を授かり1920年に卒業後、宮城県立工業学校教諭となる。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1… 間宮 成吉(まみや せいきち、1898年(明治31年)2月1日 - 1981年(昭和56年)6月16日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、岐阜県加茂郡田原村長。旧姓・日比野。 岐阜県加茂郡古井村(現美濃加茂市)で、日比野重一の二男として生まれ、8歳で間宮直四郎の養子となる。岐阜県立農林学校を経て、1920年、上田蚕糸専門学校を卒業。 卒業後横浜に出て矢野上甲商会に勤務。二年後、一年志願兵として名古屋野砲兵第3連隊に入隊し、1924年7月、砲兵少尉に任官して退役。その後、名古屋の帝国生繭乾燥器製作所に勤務した。 1926年に帰郷し田原村信用組合専務理事に就任。1932年、田原村助役に転じた。
福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年… 福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年5月3日)は、日本の外交官。元南西方面海軍民政府司政長官。 神奈川県生まれ。1923年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒。 1921年高等文官試験外交科試験合格、1922年高等試験行政科試験合格、1923年外務省入省、在上海領事官補。1925年在アメリカ合衆国外交官補。1928年在カナダ外交官補兼在オタワ領事官補。1929年在カナダ公使館三等書記官兼在オタワ副領事。1932年外務省条約局第一課外務事務官。1936年同課長代理。同年在上海領事。1937年在中華民国日本大使館二等書記官兼南京総領事代理。同年南京事件のため引揚。1938年在中華民国日本大使館二等書記官。
藤本 万次郎(ふじもと まんじろう、1898年2月 - 19… 藤本 万次郎(ふじもと まんじろう、1898年2月 - 1984年)は、日本の実業家、政治家、思想家。 山口県熊毛郡上関町祝島生まれ。旧制広島県立広島商業高校卒業。山口県公安委員長、(社)日本水産物輸入協議会会長、大日本水産会理事、日本海難審判協会(現:公益財団法人海難審判・船舶事故調査協会)理事、日韓親善協会会長、(社)下関水産振興協会会長、下関市社会福祉協議会会長、下関市公平委員会委員、下関都市計画審議会委員、下関市総合政策審議委員などの公職や衆議院議員・安倍晋太郎後援会連合会会長、衆議院議員・周東英雄後援会会長、参議院議員江島淳後援会会長、下関市長・井川克己後援会会長などの政治家後援会の要職を多数務めた。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月… 桂田 徳勝(かつらだ のりかつ、1898年〈明治31年〉1月30日 - 1987年〈昭和62年〉8月19日)は、日本の電気工学者。工学博士(京都大学)。大阪府立大学名誉教授。大阪工業大学工学部電気工学科元教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気工学・電力工学、電気鉄道工学。 1932年京都帝国大学工学部電気工学科卒業。外地の台南高等工業学校教授などを経て、1947年旧制摂南工業専門学校(旧:関西高等工業学校)教授。1949年大阪工業大学工学部電気工学科教授、電気工学教室を担当。その後、大阪府立大学に転任し、京都大学大学院にて工学博士号を取得(京都大学電気工学教室洛友会に所属)。大阪府立大学工短部教授、同大学評議員・審議員などを経て、1963年大阪府立大学名誉教授。
森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 … 森 敏治(もり びんじ、1898年〈明治31年〉1月29日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の映画俳優。本名は森 敏治(もり としはる)とするものと花川戸 勇(はなかわど いさむ)とするものがある。 1898年(明治31年)群馬県多野郡鬼石町(現・藤岡市)の生まれ。関西大学に学ぶが中退。 倉橋仙太郎の新民衆劇学校で演技を学び、新民衆劇一派(のちに第二新国劇に改称)で活躍。同劇団には原健策、大河内傳次郎らがいた。第二新国劇解散後、日活太秦撮影所に入社。1933年、松竹下加茂撮影所に移籍。1936年、大都映画に移ると、本名の花川戸勇に改名。1939年に東宝へ移り、それから岡譲司劇団に加わる。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - … 池田 正之輔(いけだ まさのすけ、1898年1月28日 - 1986年3月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)、社団法人内外事情研究所理事長。 山形県飽海郡観音寺村芹田(現酒田市観音寺)出身。1922年日本大学新聞創刊。1926年日本大学政治学科を卒業後、読売新聞記者となる。論説委員を経て三木武吉の知遇を得て報知新聞に入社。常務などを歴任後、同盟通信社理事となる。 1942年の翼賛選挙に非推薦候補として初当選。戦争末期には護国同志会に参加。思想検事の大御所である塩野季彦の司法大臣時代には秘書官も務めた。 戦後、護国同志会のメンバーとともに日本協同党の結成に参加。
周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 198… 周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 1981年8月8日)は、日本の政治家・官僚。農林大臣や自治大臣などを歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 山口県大津郡三隅村(現・長門市)生まれ。少年時代より京都で過ごし、京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。農商務省に入省する。後に農林大臣を務めた井野碩哉の懐刀として、農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年、帝国油糧統制会社初代社長となる。 戦後の1946年、第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。
工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - … 工藤 好美(くどう よしみ、男性、1898年1月26日 - 1992年2月22日)は、日本の英文学者。 1898年、大分県佐伯生まれ。第五高等学校で種田山頭火を知る。1924年、早稲田大学英文科を卒業。 卒業後は、千葉県立佐倉中学校(現:千葉県立佐倉高等学校)などで教えたのち、1926年に富山高等学校(現:富山大学文理学部)教授に就いた。土居光知の知遇を得て『享楽主義者マリウス』を訳した。1928年、台北帝国大学助教授となった。1930年から1931年まで、英米文学研究のためオックスフォード大学に留学を命じられ、帰国後教授となった。 敗戦後本土へ帰国し、1948年に名古屋大学文学部教授となった。
三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月2… 三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月25日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。柔道7段。 富山県上新川郡新庄町(現富山市)で生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1919年(大正8年)武道専門学校を卒業し、1921年(大正10年)同校研究科を修業した。 富山県立神通中学校(現富山県立富山中部高等学校)教諭に就任して1945年(昭和20年)まで在任し、柔道、野球の指導に努めた。その後、町立滑川薬業学校(現富山県立滑川高等学校)長、和合中学校長、呉羽中学校長を歴任。労働運動に加わり、呉羽中学校長在任中の1949年(昭和24年)に富山県教職員組合執行委員長に就任し、県全官公庁労働組合協議会議長も務めた。
八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉… 八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉1月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の実業家。八馬汽船社長。多聞酒造取締役。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の三男。1920年、慶應義塾大学部理財科卒業。1925年、分家した。 桐花興業監査役、多聞土地社員、西宮信組理事を歴務。宝梅園農場相談役、芦屋市公安委員を兼務。1931年から1966年まで八馬汽船の社長を務めた。 兵庫県西宮市久保町、八馬汽船相談役・三代八馬兼介の弟。八馬駒雄、八馬眞治の兄。 宗教は真宗。住所は芦屋市平田町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月… 原口 純允(はらぐち すみちか、1898年(明治31年)1月24日 - 1980年(昭和55年)3月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県伊佐郡大口町長。 鹿児島県伊佐郡菱刈村(菱刈町を経て現伊佐市)で生まれた。旧制鹿児島県立加治木中学校(現 鹿児島県立加治木高等学校)を経て、1918年(大正7年)旧制第七高等学校造士館卒業。1921年(大正10年)東京帝国大学経済学部商業学科を卒業。 1921年(大正10年)5月、南満州鉄道(満鉄)に入社し、電気作業所に配属された。1926年(大正15年)6月、電気作業所が満鉄から独立し南満洲電気 (株) (のち大連都市交通)に改組し同社員となり、奉天支店長、長春支店長、新京支店長を歴任。
吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月2… 吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月24日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長や、愛知県経営者協会会長を務めた。 山口県下松市出身。1919年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。1948年日本碍子社長。1950年初代昭和法人会会長、名古屋地方国有鉄道調停委員会委員。1955年化学工学会東海支部長、経済審議会委員。1958年愛知県経営者協会会長。1959年急逝、正五位勲三等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。