藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3… 藤井 顕孝(ふじい けんこう、1897年〈明治30年〉3月3日 - 1979年〈昭和54年〉10月21日)は、日本の地方政治家。初代東久留米市長。 1924年(大正13年)早稲田大学文学部卒。浄牧院住職、鉄道教習所講師、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)教員、久留米町教育委員長を歴任した。 1959年(昭和34年)の久留米町長選挙に立候補したが、この時は前職の番場憲隆に敗れた。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1963年(昭和38年)の町長選挙で、社会党の新人を破って、初当選を果たした。 ※当日有権者数:-人 最終投票率:-%(前回比:-pts) 1967年(昭和42年)の町長選挙では、別の社会党新人との争いとなったが、これを破って再選を果たした。
加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明… 加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明治30年〉3月2日 - 2001年〈平成13年〉12月22日)は、日本の政治家。元華族。婦人解放運動家・産児制限活動家。称号は東京都名誉都民。位階は従三位。 1897年(明治30年)3月2日、東京府東京市本郷区西片町(現・東京都文京区西片)に生まれる。父の廣田理太郎は、英語に堪能で、イギリスやアメリカと手広く貿易を行う実業家であり、廣田家は非常に裕福な家庭であった。母の敏子(鶴見良憲長女)もカナダのミッションスクールで進歩的な教育を受けていた。そんな東京都心の裕福なブルジョア家庭に生まれたシヅエは、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ。
北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1… 北村 春吉(きたむら はるきち、旧姓:藤井、1897年3月1日 - 1996年12月19日)は、滋賀県野洲市出身の数学者、旧制専門学校校長、予備校講師、サッカー選手。 1897年、滋賀県野洲郡野洲町(現:野洲市)富波甲に生まれた。滋賀師範学校(現・滋賀大学)在籍時に恩師の落合秀保と出会い、サッカーを始めた。1916年3月、滋賀師範学校卒業。 その後、東京高等師範学校に入学し、蹴球部(現:筑波大学蹴球部)に所属。在学中の1917年に第3回極東選手権大会の日本代表に佐々木等や武井群嗣らと共に選出され、2戦目のフィリピン代表戦で2得点を決めた。なお、この得点が日本代表の初得点となった(試合は2-15で敗れ、日本代表の最大差敗戦試合となっている)。
大橋 博(おおはし ひろし、1897年3月 - 1965年1… 大橋 博(おおはし ひろし、1897年3月 - 1965年12月1日)は、日本の政治家。長崎市長(1期)。 長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)卒業後、三菱長崎造船所に入り、その後、三菱製鋼長崎製鋼所副長となった。 1947年4月、第1回長崎市長選挙に長崎地区労や民主党の推薦を得て立候補し、選挙の結果、前助役らを破り、当選した。 当選後の最大の課題は食糧不足の解消で、食糧確保のため市外の住民の市内への転入制限や飲食店の休業が相次いだ。市民への食糧は米軍の援助もあり、まず確保された。 長崎市は原爆による戦災からの復興が進み、市民生活も徐々に安定を保ち、原爆投下から3年後の1948年8月9日初の市主催による原爆犠牲者の慰霊祭が行われ、大橋は市長として挨拶を述べ、市議会議長が「平和宣言」を行った。
鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28… 鈴木 一司(すずき いちじ、1897年(明治30年)2月28日 - 1997年(平成9年)3月24日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(1期)。 茨城県多賀郡高萩村(松原町、高萩町大字高萩を経て現高萩市)で生まれる。1916年(大正5年)青森県畜産学校(現青森県立三本木農業高等学校)を卒業した。 高萩町会議員、茨城県獣医師協会長などを務めた。1947年(昭和22年)茨城県会議員に選出され5期在任。県議会では、農地委員長、議会運営委員長、副議長、議長(2期)、行政機構調査特別委員長、農業基本問題調査特別委員長、原子力開発特別委員長を歴任した。その他、茨城県教育委員、県監査委員なども務めた。
京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2… 京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2月28日 - 1967年(昭和42年)9月3日)は、日本の日本史学者。 兵庫県姫路市出身。朝鮮で小学校教師ののち早稲田高等学院卒。1926年早稲田大学文学部史学科卒。学生時代は尾崎一雄らと同人誌をやっていた。1929年早大附属高等学院講師、1933年教授、1940年早稲田大学文学部助教授。この間明治文化研究会で活動。 警視庁から「反軍国的なマルキスト」「自由主義的」であると問題視され、1941年3月11日付で大学を引責辞職する。1946年2月1日付で文学部講師として復職する。同年5月から助教授となる。1947年教授、1967年定年退職。
森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 -… 森田 恵三郎(もりた けいざぶろう、1897年2月28日 - 1972年5月21日)は、日本の経営者。日鉄鉱業社長を務めた。 群馬県出身。1919年に高文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に三井物産に入社。1923年に八幡製鉄所、1934年に日本製鉄を経て、1946年6月に日鉄鉱業社長に就任し、1963年11月には会長に退いた。 1972年5月21日、心衰弱のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
浅原 健三(あさはら けんぞう、1897年〈明治30年〉2月… 浅原 健三(あさはら けんぞう、1897年〈明治30年〉2月28日 - 1967年〈昭和42年〉7月19日)は、大正・昭和時代の日本の労働運動家、政治家。 福岡県嘉穂郡穂波村(穂波町を経て現飯塚市)の小さな炭鉱主の家に生まれる。父の経営失敗により、炭鉱倒産後は渡り鉱夫となりクズ石炭・クズ鉄拾いなどをして生活を送った。 1919年、川瀬徳太郎らと日本労友会を設立し、翌1920年、八幡製鉄所の大労働争議を指導。争議自体は成功に終わったが、浅原自身は治安警察法違反で逮捕された。出獄後上京し、新聞の印刷工をしながら日本大学専門部法科の夜学に通い学んだ。無政府主義者の大杉栄としばしば会ってその弟子和田久太郎の影響も受けた。
大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月… 大島 秀一(おおしま ひでいち、1897年〈明治30年〉2月28日 - 1965年〈昭和40年〉4月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)、主婦と生活社創業者。 新潟県西蒲原郡峰岡村(巻町を経て現新潟市西蒲区)で生まれる。1922年(大正11年)信愛学院を卒業した。 1921年(大正10年)太陽印刷を設立。太陽印刷工業取締役社長に就任。1946年(昭和21年)太陽印刷を新元社に変更し『主婦と生活』を創刊。1948年(昭和23年)新元社を主婦と生活社に改名し社長に就任。1957年(昭和32年)河出書房(現河出書房新社)から『週刊女性』を引き継いだ。その他、主婦と生活文化学園長、日本出版販売取締役、日本出版協会会長などを務めた。
栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - … 栗原 光沢吉(くりはら つやきち、1897年2月28日 - 1996年3月)は、日本の盲目の盲学校教師で、大正から昭和にかけての盲教育事情についての著作を多く著した。 1897年(明治30年)2月28日に、群馬県南橘村(現前橋市)で生まれた。両親は従兄妹どうしの結婚だったが、婚家の小姑が多かったりして、早期に離婚にいたる。その離婚時の条件として、光沢吉は最初の1年間を母親に養育されたが、その後は父親の家で育つ。1900年に群馬県北橘村の小学校教師栗原又一とハツ夫妻の養子になる。小学校入学前から夜にはよく見えない状態となり、小学生のころには、弱視がしだいに進む。高等小学校を卒業した後は、小さな字が読めないため旧制中学への進学もできず、職業訓練もできず、悶々と過ごす。
蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1… 蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、日本の政治家、経済学者、統計学者。初代中小企業庁長官。元京都府知事(1950年 - 1978年)。 東京府東京市深川区深川入船町(現在の東京都江東区木場一丁目)の材木商の家に生まれた。旧制東京府立第三中学(現:東京都立両国高等学校・附属中学校、同学年に正木ひろし(弁護士)がおり、英語教諭だった北昤吉(北一輝の弟)の授業を受ける)、農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学、1923年に卒業。1927年、同助教授となる。当初はマルクス経済学者の河上肇に私淑し、漁業水産経済学を研究していたが、ドイツに留学後、『統計利用に於ける基本問題』で経済学博士号を取得するも教授に昇格するのはずっと遅く1942年(昭和17年)だった。
長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 19… 長沢信寿(ながさわ のぶひさ、1897年2月24日 - 1972年11月12日)は、日本の哲学者・宗教学者、九州大学名誉教授。 新潟県出身。京都帝国大学哲学科卒。龍谷大学教授、京都帝大講師、九州大学教授。1961年「アウグスティーヌス哲学の研究」で日本学士院賞受賞。同年定年退官、名誉教授。関西学院大学教授。
重松 信弘(しげまつ のぶひろ、1897年2月24日 - 1… 重松 信弘(しげまつ のぶひろ、1897年2月24日 - 1983年11月13日)は、日本の国文学者。愛媛大学名誉教授。 源氏物語の思想研究における第一人者。没後出版された『源氏物語のこころ』(1990年5月、佼成出版社)には、膨大な重松源氏のエッセンスが凝縮されている。妻の重松みよの著した『藍と紫とえのころ草』は、学者として一生を終えた重松の生涯を細やかな筆致で描いている。 専門の源氏研究以外にも造詣が深く、国学、国語学、仏教思想、近代評論に通じ、多くの弟子を育てた。宮城女子専門学校の教え子たちによる「源氏物語を読む会」は、晩年まで継続された。機関誌『藝文』第16号(1984年10月)は「重松信弘追悼号」として特集を組み、国語学研究の白方勝、近代文学研究の半田美永らが追悼文を寄せている。
川嶋 孝彦(かわしま たかひこ、1897年〈明治30年〉2月… 川嶋 孝彦(かわしま たかひこ、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1958年〈昭和33年〉2月23日)は、日本の官僚。内閣統計局長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。 太平洋戦争前から戦中にかけて政府上層部に統計制度の刷新を建議した。戦後の1945年11月には人口調査を実施するほか、統計制度改革案を政府および連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に提出し、戦後の統計制度改革の端緒を開いた。 1897年(明治30年)2月23日、当時富山県師範学校訓導であった父・川嶋庄一郎と母・志まの長男として富山市に生まれる。本籍地は和歌山市。 旧制佐賀中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に進み、在学中の1922年(大正11年)に文官高等試験に合格。
堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23… 堀江 尚志(ほりえ なおし、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1935年〈昭和10年〉6月5日)は、日本の彫刻家。 岩手県盛岡市で鉄道員の堀江磐男の長男として生まれる。1922年、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒。朝倉文夫に学び、第2回帝展、第3回帝展に出展し特選。 1928年(昭和3年)10月、朝倉が帝展に制度改革を建議した上で審査員を辞任。堀江は朝倉を批判し、袂を分つこととなった。1931年(昭和6年)、同じく朝倉塾を脱退した安藤照と塊人社を創立。1934年(昭和9年)、帝展の審査員に選ばれる。1935年(昭和10年)6月5日、結核のため死去。38歳没。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
金 雨東(キム・ウドン、朝鮮語: 김우동、1897年2月22… 金 雨東(キム・ウドン、朝鮮語: 김우동、1897年2月22日または2月23日 - 1966年11月29日)は、日本統治時代の朝鮮の銀行員、大韓民国の実業家、教育者、政治家。慶尚北道議会議員、第3・4代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。大邱協成商高、日本大学法科卒。大邱銀行(朝鮮語版)銀行員、慶尚北道議会議員、善山中学校・高等学校理事長、善山中高等学校財団理事長、慶北糧榖市場重役、国会財経委員を務めた。 1966年11月29日、前日の夜にソウル市太平路で発生した交通事故により治療中に死去。69歳没。 典型的な慶尚道気質に剛直な性格を持つ。理論家というよりも実践力の強い人物であった。
武藤 嘉一(むとう かいち、1897年(明治30年)2月20… 武藤 嘉一(むとう かいち、1897年(明治30年)2月20日 - 1968年(昭和43年)7月23日)は、日本の政治家・教育者。衆議院議員。慶應義塾大学教授。武藤醸造所社長。 岐阜県出身。武藤嘉門の息子。慶應義塾大学部理財科卒業。慶大卒業後、アメリカに留学。帰国後は慶應義塾大学教授、菊川酒蔵社長、旭紡績社長などを歴任。 1946年(昭和21年)4月、戦後初の総選挙にて初当選。1952年(昭和27年)8月の解散までの約6年衆議院議員を務める(当選3回)。 1963年(昭和38年)4月、各務原市長選に立候補し当選。初代各務原市長となる。1967年5月の春の叙勲で勲三等に叙され、旭日中綬章を受章する。
佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 19… 佐藤秀三(さとう ひでぞう、1897年2月20日 - 1978年9月8日)は日本の建築家。旧住友家俣野別邸、日光プリンスホテルなどを手掛ける。 秋田県生まれ。1914年、山形県工業学校(現在の山形県立米沢工業高等学校)建築科卒業後、住友総本店営繕課に入社し、上司であった建築家・長谷部鋭吉(日建設計創業者)の薫陶を受ける。1929年、佐藤秀三建築工務所(現在の株式会社佐藤秀)を創業。16代住友吉左衞門をはじめ、住友系列企業・経営首脳の後援を足掛かりに、設計施工会社としての基盤を固めた。日本の木造住宅に西洋建築の作風を取り入れ、主に木造住宅、別荘、保養所などを設計施工した。また建築をトータルデザインするため、家具や建具、照明、装飾金物なども製作。
金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 19… 金関 丈夫(かなせき たけお、1897年2月18日 - 1983年2月27日)は、日本の解剖学者、人類学者。 1897年、香川県仲多度郡榎井村(現:琴平町)に生まれた。幼少期を四国で過ごしたが、小学6年の時に岡山に移った。松江中学校を経て、第三高等学校に進んだ。西洋文学や日本の古典文学に関心を持っていたが、父の反対もあり文系ではなく医学部進学を目指すようになった。1919年7月に卒業し、京都帝国大学医学部解剖学科に入学。1923年7月に卒業した。 卒業後は、足立文太郎教授が率いる解剖学教室助手に採用された。足立は日本における軟部人類学の先駆け的な存在であり、その助手を務めつつ、足立の勧めにより同大学の病理学者清野謙次や文学部考古学教室の濱田耕作の指導も受けた。
猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月1… 猪原 大華(いのはら たいか、1897年(明治30年)2月17日 - 1980年(昭和55年)2月5日)は日本画家。広島県深安郡(現・福山市)出身。本名は寿(ひさし)。花鳥草木を得意とした。 自然観照に基づいた穏健な画風と枯淡な色彩で知られており、写実を越えた現代花鳥画の方向性を導く物として期待され、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した。 1897年(明治30年)2月17日、広島県深安郡八尋村(現・福山市)にて地主農家の生家に生まれる。 1915年、18歳のとき画家を志し広陵中学校(現・私立広陵高校)を中退。伯父を頼って大阪に出た折に金島桂華を知る。1918年京都市立絵画専門学校別科(現・京都市立芸術大学)入学。
平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957… 平井 昌平(1897年〈明治30年〉2月16日 - 1957年〈昭和29年〉4月3日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校46期生。最終階級は海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。 1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる。 真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年(大正7年)に46期生として卒業する。 1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる。 1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する。
片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - … 片山 金章(かたやま きんしょう、1897年2月15日 - 1983年12月29日)は、日本の法学者(商法・民法・英米法)。学位は、法学博士(中央大学)。中央大学学長を務めた。 学部時代は兼任講師として教えに来てたローマ法の春木一郎の薫陶を受け、助手時代に学外指導教授として松本烝治及び田中耕太郎に民法、商法の薫陶を受けた。
稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15… 稲垣 巌(いながき いわお、1897年(明治30年)2月15日 - 1937年(昭和12年)8月15日)は、日本の教育者。元京都府立桃山中学校(現:京都府立桃山高等学校)の英語科教員。 明治の文豪小泉八雲の次男。
大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 197… 大神 一(おおがみ はじめ、1897年2月15日 - 1970年10月12日)は、日本の経営者。 長崎県長崎市出身。1921年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一合資(のちの山一證券)に入社。1935年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1954年11月に社長に就任。1964年から1965年までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章。 1970年10月12日慢性腎炎と腸狭窄で死去。73歳没。
野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月… 野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月15日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。 生家は三菱長崎造船所御用達の洋服商。外交官を目指し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、当時活況にあった貿易業に興味を持ち進路を転換。1918年の卒業とともに三井物産に入社。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。 1922年、現地の弁護士の娘で米国の三井物産でタイピストをしていたアリス・カリタ・コーストン(愛称はカリタ)と結婚するが、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、これが原因となって翌年三井物産を退社する。
松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月… 松本 健一(まつもと けんいち、1897年(明治30年)2月15日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。功四級。 1897年(明治30年)に長崎県で生まれた。陸軍経理学校第12期主計候補生として1918年(大正7年)5月20日に卒業した。1934年(昭和9年)4月から1936年(昭和12年)3月まで東京帝国大学経済学部で陸軍派遣員外学生として聴講し、大学院にも進んだ。1939年(昭和14年)8月に北支那方面軍参謀部附となり日中戦争に出動した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍主計大佐進級と同時に関東軍司令部附となった。1941年(昭和16年)11月に陸軍経理学校附となり、1943年(昭和18年)2月に大阪陸軍糧秣支廠長に就任した。
氏家 彦太郎(うじいえ ひこたろう、明治30年(1897年)… 氏家 彦太郎(うじいえ ひこたろう、明治30年(1897年)2月14日- 昭和57年(1982年)11月30日)は、日本の刀剣鑑定家、(株)松ヶ岡製作所社長、致道博物館理事、日本美術刀剣保存協会評議員、山形県銃砲刀剣登録審査員。栄典は勲五等・瑞宝章。
水田 直昌(みずた なおまさ、1897年(明治30年)2月1… 水田 直昌(みずた なおまさ、1897年(明治30年)2月14日 - 1985年)は、大正から昭和にかけての大蔵・朝鮮総督府官僚。 愛知県愛知郡鳴海町で水田直温の長男として生まれ、1921年に東京帝国大学卒業。大蔵省に入り、理財局に勤めたのち、1922年7月司税官に任じられて福岡税務署長、大阪南税務署長を歴任した。これまでに、高等文官試験行政科に合格している。1925年、朝鮮総督府に移って朝鮮総督府事務官に任じられた。1928年4月に朝鮮総督府財務局司計課長、1937年10月30日に朝鮮総督府財務局長に就任。1945年9月の日本による朝鮮統治終了まで務めた。 敗戦直後から、京城にあった日本資本の民間銀行で日本人預金者による取り付け騒ぎが発生したが、8月16日から月末までに朝鮮書籍株式会社の印刷工場で千円札高額紙幣70億円分、近澤印刷株式会社で百円札紙幣21億円分の朝鮮銀行券を発行し、また同月17日には「朝鮮内通帳を日本にもっていけば、毎月500円の限度内で預金を引き出すことができ、日本に本店がある銀行の送金小切手は日本でも有効」とする談話を発表することで、金融モラトリアム発生に備えた。
北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月… 北村 初雄(きたむら はつお、 1897年〈明治30年〉2月13日 - 1922年〈大正11年〉12月2日)は、大正期の日本の詩人。 東京市麹町区飯田町(現・東京都千代田区飯田橋)で、北村七郎の長男として生まれる。 横浜市南太田町(現・南区内)で育ち、1903年に横浜市老松小学校(現・横浜市立本町小学校)に入学した。 1912年に神奈川県立第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ケ丘高等学校)に進む。中学校在学中から三木露風に師事した。 1917年に中学校を卒業し、東京高等商業学校(現・一橋大学)予科に入学した。1921年に同校本科を卒業して、三井物産に入社したが、1922年に結核のため鵠沼の旅館東屋に転地療養し、同年死去した。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月… 大石 ヨシエ(おおいし ヨシエ、1897年〈明治30年〉2月12日 – 1971年〈昭和46年〉6月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(5期)。日本初の女性代議士の一人。 京都府出身。1915年(大正4年)、私立信愛高等女学校(現大阪信愛学院高等学校)卒業。卒業後、故郷の舞鶴市で参政権獲得など婦人運動に加わった。のちに国民同志会に入り、1931年(昭和6年)から2年間渡米した。帰国後に満洲国へ渡り、新聞社の顧問などをしたが、間もなく日本に戻った。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では京都府から無所属で立候補し当選し、日本初の女性代議士の一人となった。当選後は日本社会党に入り、社会革新党を経て右派社会党で活動した。
板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1… 板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1923年1月17日)は、東京出身の登山家。日本登山界草創期に活躍、山岳地におけるスキー利用の先駆者にもなったが、25歳で遭難死した。子爵板倉勝弼の庶子。 1897年(明治30年)2月12日、備中松山藩最後の藩主板倉勝弼(前年10月に死去)の七男(庶子)として生まれる。学習院初等科、中等科を経て学習院高等科を卒業(松方三郎と同級生)。中等科より登山を始めた。1919年に北海道帝国大学農学部に入学、大学時代にはスキー部に所属した。在学中の1921(大正10)年に、加納一郎らと日本最初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊。 1922年に佐幌岳にスキー登山、大雪山系の旭岳に初登頂したほか、槍ヶ岳北鎌尾根を松方三郎らと登攀、新聞には初登頂(実際の初登頂はウォルター・ウェストン)と報道され、新進気鋭の登山家として知られるところとなった。
徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年… 徐 相国(ソ・サングク、朝鮮語: 서상국/徐相國、1897年2月11日または3月11日 - 1977年1月4日)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 現在の全羅南道咸平郡出身。早稲田大学専門部政経科卒。1925年には長城郡の精米所で約5か月間勤めていた。中央中学校、中央大学校の教員を務めた後、1950年の第2代総選挙に咸平選挙区から民主国民党所属で出馬し、国会議員を務めた。政界では民主国民党中央執行委員を務めた。
吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 19… 吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 1982年5月1日)は、日本の舞台美術家・舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家である。 1897年(明治30年)2月10日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。京橋小学校では同級生に歌舞伎役者の坂東三津之丞、先輩に松竹社長の城戸四郎、後輩に築地小劇場系の劇作家久保栄らがいた。1909年(明治42年)、府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退。1911年(明治44年)、府立工芸学校金属科鋳金科に入学。1915年(大正4年)に卒業後、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善麿に師事し生活歌を学ぶ。
除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉… 除村 吉太郎(よけむら よしたろう、1897年〈明治30年〉2月10日 - 1975年〈昭和50年〉11月3日)は、ロシア・ソビエト文学者。東京外国語学校教授、早稲田大学文学部客員教授。 1897年(明治30年)、群馬県多野郡美土里村(現・藤岡市)に生まれる。旧制藤岡中学校(群馬県立藤岡高等学校、現・群馬県立藤岡中央高等学校)を経て、1918年(大正7年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)ロシア語科を卒業。 深井英五の紹介により、一時日本銀行調査部に勤務するが退職。駐日ロシア大使館に勤務した後、1922年(大正11年)にハルビンの日露協会学校助教授となった。1924年(大正13年)、母校である東京外国語学校助教授に就任し、1930年(昭和5年)教授に昇任。
松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - … 松平 斉光(まつだいら なりみつ、1897年2月10日 - 1979年5月14日)は、政治思想史学者。
二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9… 二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9日 - 1957年(昭和32年)3月23日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、東京銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。京都府立一中、三高を経て、1921年に東京帝国大学法科を卒業。同年に日本銀行に入行。 計算局を振り出しに、ニューヨーク監督官付、審査部、大阪支店、営業局次長を歴任後、再び海外に出て、ロンドン代理店監督役となり、国際決済銀行理事を兼任し、ロンドンとジュネーブの間を往復した。帰国後の1941年、日銀参事となり、資金調整局調査役を経て、故郷の京都支店長、神戸、名古屋の各支店長を歴任した。その後、本店に戻り考査局長、統制局長をやっているうちに終戦を迎える。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年… 由良 哲次(ゆら てつじ、1897年2月7日 - 1979年3月28日)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 1897年、奈良県添上郡柳生村(現・奈良市)にて、丹生神社の神官の家系に生まれた。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に進学。教員となり、大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学した。 東京高等師範学校では、三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修めた。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。
大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 19… 大脇 義一(おおわき よしかず、1897年2月7日 - 1976年1月23日)は、日本の心理学者。 1897年、京都府生まれ。1920年京都帝国大学文学部心理学科を卒業。1940年に「表象体験ノ研究」を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得。京都帝大助手、東北帝国大学法文学部助教授を経て、1941年に教授となった。 戦後は東北大学教授となる。1960年に定年退官し、名誉教授となった。その後は和光大学教授、関西大学教授を務めた。心理学の研究者として、日本心理学会理事を務めた。
向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 19… 向坂 逸郎(さきさか いつろう、1897年2月6日 - 1985年1月22日)は、日本のマルクス経済学者・社会主義思想家。九州大学教授・社会主義協会代表を歴任。 福岡県大牟田市に会社員の息子として生まれる。弟に向坂正男、山崎八郎がいる。福岡県立八女中学校(1年夏から3年夏までは北海道庁立小樽中学校に転校。)、同県立小倉中学校、第五高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業すると、同学部の助手となった。五高在学中、ドイツ語の勉強のために、カール・マルクスの著作を読んだことからマルクス主義に傾倒するようになったという。 1922年11月より1925年5月までドイツ・ベルリンに留学。
鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日… 鈴木 敬司(すずき けいじ、1897年〈明治30年〉2月6日 - 1967年〈昭和42年〉9月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。1941年から1942年にかけて存在したビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とする日本軍の特務機関「南機関」の機関長。この経歴から「日本版アラビアのロレンス」と称される。 静岡県出身。鈴木房蔵の長男として生まれる。浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、翌月、近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。
平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979… 平山 孝(ひらやま たかし、1897年2月6日 - 1979年7月8日)は、日本の鉄道官僚。東京急行電鉄社長。 東京府出身。1920年高等文官試験に合格。翌年東京帝国大学法学部独法科を卒業する。卒業後は鉄道省に入り、欧米に出張、帰国後は仙台鉄道局経理、庶務の各課長、鉄道書記官、監督局業務課長、鉄道大臣書記官、文書課長、名古屋鉄道局長、東京鉄道局長、鉄道局経理局長を経て、1945年東京急行電鉄社長に就任する。同年、運輸次官となる。運輸次官は1947年まで務め、その後は「東京急行社長」のため公職追放となった。 追放解除後は交通道徳協会会長に就任した。戦後は観光事業に注力して、1951年(昭和26年)6月に株式会社国際観光会館を設立、1954年(昭和29年)に東京駅八重洲口に「国際観光会館」を建設した。
高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)… 高橋 新次郎(たかはし しんじろう、1897年(明治30年)2月4日 - 1973年(昭和48年)10月5日)は、日本の歯学者、歯科医師、矯正歯科医。埼玉県出身。 東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)矯正歯科学教室教授、東京医科歯科大学教授、東京医科歯科大学歯学部長、東京医科歯科大学附属病院院長、東京医科歯科大学附属歯科技工士学校長を歴任。日本矯正歯科学会会長、国際歯科研究学会日本部会会長も務めた。 息子は植物学者の高橋信孝、孫は内分泌学者の高橋伸一郎。
金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月… 金光 邦三(かねみつ くにぞう、1897年〈明治30年〉2月4日 - 2001年〈平成13年〉11月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代魚津市長(1期)。弁護士。 富山県下新川郡魚津町(現魚津市)で生まれた。1918年立命館大学法律科卒。弁護士となり、神戸市議、兵庫県議を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で兵庫1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。 戦後の1946年(昭和21年)1月19日に魚津町長に就任するが、推薦議員のため、公職追放となったため、同年10月2日に町長職を退いた。その後は富山県下新川郡下野方村(現:魚津市)で弁護士を営んでいた。
坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2… 坊城 俊賢(ぼうじょう としよし、1897年(明治30年)2月2日 - 1984年(昭和59年)6月5日)は、大正末から昭和期の農林技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府で伯爵・坊城俊章の五男として生まれ、はとこの男爵・坊城俊延の養子となる。養父の死去に伴い1910年(明治43年)6月4日、男爵を襲爵。学習院高等科を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学農学部を卒業。1924年(大正13年)以降、東京市技手、埼玉県技手、農林技手、富山県農林技師などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月… 栗盛 吉蔵(くりもり きちぞう、1897年(明治30年)2月 - 1974年(昭和49年))は、昭和時代に活躍した日本画家、美術教師。号は大地。 奈良県奈良市高畑町にウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の自宅兼アトリエを構え、志賀直哉の高畑サロンに参加した。後に故郷の秋田県大館市で美術教師として教育に従事し、同地の美術界に大きな影響を与えた。 1897年(明治30年)2月、秋田県大館町に、父栗盛倉松、母ヤエの三男として生まれる。生家の栗盛家は、曾祖父栗盛吉右衛門が一代で財を築いた北秋田郡有数の資産家で、吉右衛門は奨学金の貸し付けなどの育英事業を行う栗盛教育団を設立している。 大正年間に京都市立芸術大学の前身である京都市立美術工芸学校本科を卒業した。
德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月… 德川 喜翰(とくがわ のぶもと、1897年〈明治30年〉1月31日 - 1938年〈昭和13年〉5月10日)は、日本の政治家・華族(男爵)。貴族院男爵議員。新字体で徳川 喜翰とも表記される。 男爵・徳川厚の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した。 1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1925年、宮内省図書寮嘱託となる。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた。 1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し死去するまで1期在任した。墓所は谷中霊園の寛永寺墓地。