小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 197… 小坂 隆雄(こさか たかお、1901年8月11日 - 1979年8月20日)は、日本の生理学者、公衆衛生学者。 長野県岡谷市に生まれる。 長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1924年に満洲医科大学(現中国医科大学)を卒業後、同大学の生理学教室に入り、久野寧の発汗研究に従事する。 1929年、ロックフェラー財団のフェローシップをとり、北京協和医学院へ留学、林 可勝(ロバート・リム)(中国語版)の生理学教室へ入る。 1930年、林との協同研究により小腸由来の胃酸分泌抑制作用を発見し、作用を再現する物質をエンテロガストロンと命名する。その後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン へ留学し、Sir Charles Arthur Lovatt Evans、 アーチボルド・ヒルの指導を受け、インスリン放出や血糖利用等代謝に関する研究を行う。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月1… 松崎 一雄(まつざき かずお、1901年(明治34年)8月11日 - 2000年(平成12年)4月14日)は、日本の実業家。森永商事代表取締役社長、森永製菓代表取締役副社長、森永乳業取締役、学校法人立教学院理事長を務めた。子に松崎昭雄がいる。 1901年、松崎半三郎の長男として生まれる。 立教大学に入学。予科2年の時に、バスケットボール部に入る。部ではアメリカから帰ってきた志賀直哉の弟がコーチを務めた。1926年、立教大学商学部(現・経済学部、経営学部)卒業。 1927年、森永製菓に入社する。1942年、森永製菓取締役に就任し、1943年、森永製菓常務、1952年、森永製菓専務、1966年、森永製菓副社長と歴任。
山下 春江(やました はるえ、1901年(明治34年)8月9… 山下 春江(やました はるえ、1901年(明治34年)8月9日 – 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の政治家。日本初の女性国会議員の一人で、元自由民主党衆議院議員・参議院議員。 山口県阿武郡の出身。 1921年二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を卒業(1期生)。体操講習会で見た塾長・二階堂トクヨの脚が憧れのアンナ・パヴロワ(バレリーナ)のようにすんなりとしていたことが入塾理由である。柔道2段のほか、空手・薙刀術の心得もあった。広島県の呉高等女学校で教師となるが、当時の校長と不正入試問題で対立し辞職、大阪毎日新聞記者に転職する。その後山下悌三と結婚、病弱の夫に代わり東京で「富士アスベスト工業所」の経営にあたる。
杉本 栄一(すぎもと えいいち、1901年8月9日 - 19… 杉本 栄一(すぎもと えいいち、1901年8月9日 - 1952年9月24日)は、日本の経済学者。
寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月… 寺本 斎(齋、てらもと いつき、1901年(明治34年)8月9日 - 1981年(昭和56年)6月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。 熊本県出身。1937年(昭和12年)中央大学専門部法律科を卒業した。 熊本県属、台湾総督府属、中央食糧営団主事、逓信省事務官兼国務大臣秘書官、中央食糧営団総務部文書課長、全国食糧営団連合会庶務課長などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に熊本県第1区から民主党所属で出馬して当選。第24回総選挙でも当選し、自由党に所属して衆議院議員を連続2期務めた。この間、第3次吉田内閣・郵政政務次官、民主党政調会労働委員長、党会計監督などを務めた。
佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 … 佐薙 毅(さなぎ さだむ、1901年(明治34年)8月8日 - 1990年(平成2年)3月14日)は、日本の海軍軍人及び航空自衛官、第2代航空幕僚長。海兵50期・海大32期。帝国海軍での最終階級は海軍大佐。自衛隊での最終階級は航空幕僚長たる空将。 現在の愛媛県新居浜市で出生。父は教員・佐薙喜志太。1919年(大正8年)3月、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校卒業(50期。卒業席次は19位)。 1923年(大正12年)9月、海軍少尉に任官。1925年(大正14年)12月、海軍中尉。1926年(大正15年)3月、第4期偵察学生。
気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。
笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月… 笠原 貞造(かさはら ていぞう、1901年(明治34年)8月8日 - 1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の弁護士、農民運動家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県出身。1928年(昭和3年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 卒業後は東京市牛込区役所に勤務し、書記、社会課、福利課各主任となり、1935年(昭和10年)に退職し、弁護士の業務に従事。社会大衆党新潟県連合会執行委員、全国農民組合新潟県連合会執行委員、日本農民組合新潟県支部連合会書記長などを務めた。その他、新潟県地方通貨安定推進委員会長、新潟県地方労働委員会長、新潟市教育委員、新潟県弁護士会長、日本弁護士連合会理事、同副会長、新潟県市町村教育委員連合会長などを務めた。
本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 19… 本庄 季郎(ほんじょう きろう、1901年8月6日 - 1990年4月21日)は、日本の航空技術者。三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に所属し、一式陸上攻撃機をはじめ第二次世界大戦期の航空機設計に携わった。 戦後、GHQにより航空機の開発、製造を禁じられた三菱が航空機設計の技術を使用して民間用に販売した自転車、三菱十字号や、讀賣テレビの「鳥人間コンテスト選手権大会」第一回大会(1977年)で82.44mを飛んで優勝した岡良樹パイロット操縦のハンググライダーは、本庄の設計であった。1990年、前立腺癌のため死去。 2013年公開のアニメーション映画『風立ちぬ』においては、主人公である堀越二郎の帝大時代からの親友かつ三菱での同僚として描かれた(声:西島秀俊)。
5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治3… 5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治34年)8月6日 - 1971年(昭和46年)8月9日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。南国殖産、南国交通、長崎自動車などの創業者。 豪商・先代上野喜左衛門の長男として鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(のちの川内市(現薩摩川内市)向田町)に生まれ、父の死去に伴い1921年(大正10年)家督を相続し、前名次郎七を改め襲名する。 1920年(大正9年)東京商科大学(現一橋大学)予科に入学し、1927年(昭和2年)に同大学を卒業する。キッコーマンの茂木啓三郎とは大学時代からの親友。 1925年(大正14年)川内電気社長となる。
大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 197… 大森 久司(おおもり ひさじ、1901年8月5日 - 1976年8月13日)は、日本の政治家。位階は正四位。勲等は勲二等。参議院議員(2期)。奈良県議会議長。奈良県議会議員(6期)。奈良市議会議員(3期)。 奈良県桜井市初瀬町生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、関西学院大学卒業。 1930年、奈良市で大徳電気商会を設立。1944年、軍需省軍需監理部から発せられた「電気工事業整備要綱」に基づいて近畿地方の電気工事業者が統合し、設立された近畿電気工事株式会社の取締役に就任。 1961年、きんでん取締役社長。 1965年の第7回参議院議員通常選挙奈良地方区から自由民主党公認で立候補し、初当選。1971年、第9回参議院議員通常選挙再選。
宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月… 宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年〈明治34年〉8月4日 - 1995年〈平成7年〉5月24日)は、日本の東洋史家。京都大学名誉教授。 1901年、長野県下水内郡秋津村(現在の飯山市)静間で宮崎市蔵・悦の次男として生まれた。父の市蔵は、飯山小学校の教師であった。 その後、秋津小学校、県立飯山中学校(現:長野県飯山北高等学校)を卒業し、1919年に新設まもない松本高校(現:信州大学)文科甲類に入学する。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄と仁井田陞がいた。 1922年に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文は、南宋滅亡期の中国社会と北方民族との交渉の一場面を題目とした。
田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 199… 田村 道美(たむら みちよし、1901年8月4日 - 1990年代)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。戦前の無声映画時代に活躍し、当時の人気女優の入江たか子と結婚した。長女はおなじく女優の入江若葉である。 1901年8月4日、東京市京橋区新富町(現中央区新富)に生まれる。祖父の田村成義は、「田村将軍」の異名を持つ歌舞伎興行の大御所であった。 慶應義塾大学経済学部を卒業後、1931年、30歳にして京都の日活太秦撮影所に入社、同年11月13日公開の村田実監督の無声映画『白い姉 前篇』でデビューした。翌1932年、三枝源次郎監督の『海に散る花』では早くも主役の座を獲得する。 同年、当時人気絶頂、新興キネマと提携し映画製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立したばかりの入江たか子(1911年 - 1995年)と交際、自らの人気を考え籍を入れず別居結婚とする。
二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985… 二神 武(ふたがみ たけし、1901年8月2日 - 1985年11月27日)は、大正から昭和時代の野球選手、野球指導者。立教大学野球部の黎明期に活躍し、飛田穂洲の指導の下で野球部の四大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)への加入を提案し、実現した立役者。第1回都市対抗野球でも優勝チームのメンバーとして活躍した。東京出身。 1901年(明治34年)8月2日、二神駿吉(衆議院議員、実業家)の次男として生まれる。愛知県名古屋市の明倫中学校(現・愛知県立明和高等学校)出身。中学時代から俊足であった。 立教大学に入学し、野球部に所属。立教大学野球部は早稲田大学野球部監督だった飛田穂洲の指導を受けながらチーム力をつける。
横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 197… 横川 信夫(よこかわ のぶお、1901年8月1日 - 1975年11月10日)は、昭和期の農林官僚、政治家。参議院議員(1期)、栃木県知事(公選第4-7代)。 栃木県宇都宮市の出身。宇都宮中学校、第二高等学校理科甲類を経て、1925年東京帝国大学農学部卒業、農林省に入省。青森営林局の技手を振り出しに林野畑を歩き、1939年満洲国林野局計画課長、1944年同林野総局林産課長、1945年東満総省林政庁長となる。 同年、ソ連軍の侵攻によりシベリアに抑留される。1948年に帰国。林野庁に入り、1950年に林野庁長官になる。 退官後の1953年の第3回参議院議員通常選挙全国区に自由党から出馬して当選する。
甲野 勇(こうの いさむ、1901年(明治34年)7月31日… 甲野 勇(こうの いさむ、1901年(明治34年)7月31日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の考古学者。 東京都日本橋生まれ。宮内省侍医寮御用掛も務める医師・甲野棐(たすく)の四男として生まれる。母は乙骨太郎乙の姪。 1922年、東京帝国大学理学部の人類学選科に入学する。同教室には、山内清男が1919年、八幡一郎が1921年から選科生として学んでいた。1925年卒業。翌年軍人・公爵でありながらドイツで先史考古学を学んだ大山柏の設立した大山史前学研究所に入所する。また、1928年に甲野は、広義の人類学(人類学、考古学、民族学など)に関心をもつ若手研究者により結成された人文研究会にも参加している。
山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月3… 山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月30日 - 1978年〈昭和53年〉4月3日)は、日本の歌人・国文学者。愛知県立大学元学長、同大名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章受章。 東京出身。第八高等学校卒、1926年京都帝国大学文学部国文科卒。八高時代石井直三郎に師事し、歌誌「青樹」を経て「水甕」(尾上柴舟)所属。愛知県立第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身の一つ)校長などを経て、愛知県立女子大学教授、1964年学長、1966年愛知県立大学学長を務めた。1969年定年退官、名誉教授となり、椙山女学園大学短期大学部教授を務め、1977年退職。1972年勲二等瑞宝章受章。1978年死去。
谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 … 谷口 豊三郎(たにぐち とよさぶろう、1901年7月29日 - 1994年10月26日)は、昭和時代の日本の実業家。元東洋紡績社長。日本繊維産業連盟・初代会長。理論物理や数学などの研究に資金援助した谷口工業奨励会(後の谷口財団)の創設者。 1901年(明治34年)7月29日、大阪船場生まれ。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械学科、東京帝国大学法学部政治学科卒業。1928年(昭和3年)、父・谷口房蔵の経営する大阪合同紡績に入社。1931年(昭和6年)、東洋紡に吸収されるが取締役でのこる。公職追放となるが、解除後副社長として復帰。1947年(昭和22年)に社長、1966年(昭和41年)に会長を歴任する。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 198… 岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 1985年1月9日)は、日本の経営者。熊本県熊本市出身。 1915年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(現在の東レ)に入社。1947年に取締役に就任し、1948年に常務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には三井石油化学工業社長に昇格。1969年11月に会長に就任。 1965年に藍綬褒章を受章し、1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1985年1月9日急性心不全のために死去。83歳没。
市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月2… 市川 秀雄(いちかわ ひでお、1901年〈明治34年〉7月27日 - 1964年〈昭和39年〉10月31日)は、日本の法学者。刑法学者・労働法学者。1961年、博士(法学)(中央大学)題は「刑法における市民法思想と社会法思想」。専門はドイツ刑法。東京都生まれ。 明治天皇の侍医・市川賢亮の三男。1919年独逸学協会中学校(現・獨協中学校・高等学校)卒業。1925年第一高等学校卒業。1930年東京帝国大学法学部卒業。1932年東京帝国大学大学院(旧制)法学研究科修了。少年保護司。1942年中央大学法学部専任講師。1946年中央大学法学部教授。1964年10月30日中央大学在職中に逝去、63歳没。1964年中央大学名誉教授。
岩本 月洲(いわもと げっしゅう、1901年7月27日 - … 岩本 月洲(いわもと げっしゅう、1901年7月27日 - 1995年3月3日)は日本の宗教学者、随筆家、政治家、参議院議員(1期)。 京都府出身。龍谷大学研究科修了、京都女子専門学校(現京都女子大学)講師、宗教文化研究所所長を歴任。 1947年の第1回参議院議員通常選挙に広島県選挙区(自由党)から立候補し当選。参議院議員を1期務める(3年議員)。1950年の第2回参議院議員通常選挙には現職として出馬したが落選。その後、特例社団法人真人会理事などを務め、広島県呉市(旧豊田郡安浦町)野呂山の「真人会野呂山道場」の建立に携わる。同道場の親鸞堂では、青少年修道研修会、成人修道研修会などを開催した。 1981年11月の秋の叙勲で勲四等に叙され、旭日小綬章を受章する。
高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 194… 高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 1945年6月21日)は、日本の哲学者・大学講師。 1901年7月26日、石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に生まれる。父親は羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だった。母親は西田幾多郎の妹で、ふみは西田の姪にあたる。 地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学する。高等女学校卒業後も、女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学し、さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ぶ。
寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月2… 寺園 勝志(てらぞの かつし、1901年(明治34年)7月25日 - 1998年(平成10年)2月11日)は日本の政治家、元官僚。鹿児島県知事や南日本放送会長を務めた。 1901年(明治34年)、姶良郡栗野村(のちの栗野町、現在の湧水町栗野地域)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て東京帝國大学(現・東京大学)を卒業。 内務官僚となり 、厚生省部長、鹿児島県経済部長、同県副知事などを経て、1955年(昭和30年)から鹿児島県知事を3期12年務めた。在任中、戦後の混乱で厳しい財政の中で農業振興や交通・通信の整備に尽力し、大隅半島の広大なシラス台地である笠野原台地に大規模灌漑で農業用水を提供する土地改良事業をおこなった。
津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25… 津田 市正(つだ いちまさ、1901年(明治34年)7月25日 - 没年不明)は、鳥取県鳥取市出身の法学者。専攻分野は法哲学。法学博士。津田短期大学(1982年廃止)の学長・明治学院大学の教授も歴任した。著作も多数ある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7… 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。 中国廈門出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 清(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。
古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 196… 古賀 良彦(こが よしひこ、1901年7月24日 - 1967年6月29日)は、日本の医学者、教育者。 1901年(明治34年)、福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれる。福岡県立朝倉中学校には、実家(乳業家)の手伝いとして牛乳配達を続けながら通い、熊本市にあった第五高等学校、さらに九州帝国大学に進学した。1927年(昭和2年)に同大医学部を卒業。内科教室に入局後に医療分野における放射線研究を始め、博士号を取得。東北大学に異動した。 東北大学でも放射線研究を続け、1936年(昭和11年)には同大電気工学科教授の抜山平一と共同で、心臓の鼓動に合わせてX線撮影(単純X線撮影)を行う技術を開発。さらに1943年(昭和18年)には胸部X線間接撮影法を開発(同年ブラジルのde Abreuも独立して開発)、第1回技術院賞を受賞した。
下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月… 下山 定則(しもやま さだのり、1901年〈明治34年〉7月23日 - 1949年〈昭和24年〉7月6日、(死亡日時は不詳)は、日本の鉄道官僚。運輸次官、日本国有鉄道総裁(初代)などを歴任した。 兵庫県神戸市出身。司法官であった父の英五郎は、同県有馬郡高平村木器(こうづき)(現在の三田市木器)の出身であった。転勤に従い少年時代は転校を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の時刻表を暗記して人気者になっていたという。静岡中学、津中学、三高卒業。静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)でピッチャーを務めた。三高時代には稚内から[疑問点 – ノート]鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた。
柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - … 柴田 喜三郎(しばた きさぶろう、1901年7月23日 - 1998年1月5日)は、日本の経営者。大阪府大阪市出身。 1918年に関西商工学校を卒業。1929年に発動機製造(のちのダイハツ工業)に入社し、1943年に取締役に就任し、常務、専務を歴任。1966年に再び取締役に就任し、顧問、ダイハツディーゼル社長、会長、相談役を歴任した。 1969年に藍綬褒章を受章し、1975年に勲四等旭日小綬章を受章した。 1998年1月5日全身衰弱のために宝塚市の病院で死去。96歳没。
八木 一郎(やぎ いちろう、1901年7月23日 - 199… 八木 一郎(やぎ いちろう、1901年7月23日 - 1990年2月25日)は、日本の農林技官、政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(5期)。 愛知県渥美郡高師村藤並(現豊橋市藤並町)に八木用作の長男として生まれる 1923年(大正12年)3月東京高等蚕糸学校卒業。農林技官として東京府、愛知県、農林省、興亜院、大東亜省に勤め、1946年(昭和21年)退官。 1947年の第23回衆議院議員総選挙愛知5区に民主党から出馬し、初当選、5期務める。内閣委員長、1957年の第1次岸内閣農林政務次官を歴任。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。 1963年の参議院に鞍替え出馬して、杉浦武雄死去に伴う第6回参議院議員通常選挙愛知県選挙区補欠選挙で初当選。
申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月… 申 駿遠(シン・ジュヌォン、朝鮮語: 신준원、1901年7月23日 - 1966年6月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、政治家。第5代韓国国会議員。 慶尚北道善山郡(現・亀尾市)出身。日本大学文学部卒。故郷善山の三・一運動に参加したことや、大学在学中に朴烈や曺奉岩と共に黒涛会のアナキスト運動に参加したことにより投獄された。帰国後は朴相熙、金雨東らと共に亀尾消費組合を組織し、新聞社の支局長を務めた後、1960年の第5代総選挙で善山郡選挙区より無所属で出馬し当選、国会議員を1期務めた。
雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、190… 雲井 浪子(くもい なみこ、本名:坪内操、旧姓:高井、1901年(明治34年)7月23日 - 2003年(平成15年)8月20日)は、元宝塚少女歌劇団主演娘役で宝塚歌劇団卒業生。兵庫県津名郡洲本町出身。 夫は演劇評論家、早稲田大学教授の坪内士行。娘に女優の坪内ミキ子がいる。実姉は同じく宝塚歌劇団1期生で宝塚歌劇団卒業生の八十島揖子、実妹は宝塚歌劇団16期生で宝塚歌劇団卒業生の緒島なほ子(本名:高井秀子)。義理の叔父は坪内逍遥、逍遥の養女は飯塚くに。 芸名は小倉百人一首の第76番:法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)の より、宝塚歌劇団創設者の小林一三によって命名された。 1913年7月、湊山尋常高等小学校(後の神戸市立湊山小学校)を卒業した後、宝塚唱歌隊(同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改称。
倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月2… 倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月22日 - 1989年(平成元年)3月19日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、日本ソーダ工業会会長などを務めた。 福島県会津若松市で豪商倉田為実の家系に生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1925年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、旭硝子入社。三菱化成工業尼崎工場長在任中の1945年には尼崎工業会初代会長に就任した。1946年尼崎商工会議所副会頭。 1950年旭硝子常務取締役。1961年日本建鉄取締役、日本光学工業取締役。1963年旭硝子副社長。1967年から旭硝子社長を務めた。
蒲原 稔治(かもはら としじ 1901年7月22日 - 19… 蒲原 稔治(かもはら としじ 1901年7月22日 - 1972年3月26日)は、日本の生物学者。主に土佐湾を中心に魚類の研究を進めて多くの新種を発表。魚類の分類に大きな業績を残した。 1901年(明治34年)、高知県長岡郡五台山村に生まれる。1919年(大正8年)年、高知県立第一中学校(現、高知県立追手前高等学校)を卒業後、東京逓信官吏練習所に入学するも同年中に退学。1920年(大正9年)、松山高等学校理科甲類入学。1923年(大正12年)、東京帝国大学理学部動物学科入学。1926年(昭和元年)に同大学を卒業.同年、広島輜重兵第5大隊に入隊。翌1927年(昭和2年)に帰休し,旧制高知高等学校動物科講師嘱託となる。
古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - … 古田島 薫平(こだじま くんぺい、1901年7月22日 - 1989年8月23日)は、日本の政治家・実業家である。 元江別町議会議員・第7代江別町長・初代江別市長。関矢孫左衛門の孫。 1901年、新潟県北魚沼郡川口村(現・長岡市)で父の要次郎、母の田鶴の未子として生まれた。北海道帝国大学に入学し、農学を修め、1929年3月卒業と同時に、父の要次郎が1919年から社長を務めていた北越殖民社に入社し、東野幌の筋違に農場を開いた。 1934年には、冷水害対策の実現を国等に強く迫る地域の輿望を担って町議会議員に当選した。同年8月、薫平は殖民社の専務取締役に就任し、営農指導に力を注いだ。また、当時実用化の緒についていた町村敬貴創案の土管暗渠に着目し、社の渡辺楽治を介して教えを乞い、施工した。
磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日… 磯部 巌(いそべ いわお、1901年(明治34年)7月21日 - 1998年(平成10年)9月8日)は、日本の内務官僚。日本中央競馬会保健組合顧問。(株)山一土建相談役。弁護士磯部醇の長男。 愛知県名古屋市出身。1924年(大正13年)高等試験行政科試験合格。1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。内務省に入り警保局図書課勤務を経て1927年(昭和2年)島根県警防課長となり、山梨・滋賀・長崎各県事務官、行政裁判所評定官、大分県学務部長、厚生省社会保険局庶務課長、茨城・兵庫・福井・福島各県内政部長、秋田県知事を歴任。 1949年(昭和24年)、参議院労働委員会専門員に任ぜられる。
柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968… 柴田 正(しばた ただし、1901年7月21日 - 1968年3月13日)は日本の実業家。理化学ガラスの製造メーカー柴田科学株式会社の創業者。日本理化学硝子機器工業会会長、日本科学機器団体連合会理事などの要職を務め、業界の発展に貢献。 愛知県豊田市にて柴田鏡三郎とつる夫婦の長男として誕生する。祖父の柴田順平は挙母藩の郡奉行を務めていた。15歳の時、家族と共に東京へ上京し、浅草吉野町の小熊信蔵の経営する硝子工場へ弟子入りし、理化学硝子工業への第一歩を踏み出す。17歳の時、本郷弓町の村井友次郎のガス加工場へ引き抜かれて行く。大正十年(1921年)本郷金助町に柴田製作所を創業し、理化学硝子の加工品の製造販売を始めた。
谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939… 谷 幹一(たに かんいち、1901年7月18日 - 1939年9月12日)は、日本の俳優である。愛称は「タニカン」、本名は岡村 文雄(おかむら ふみお)である。第二次世界大戦後、同姓同名のコメディアン・俳優の谷幹一が登場したころにはすでに他界していた。 1901年(明治34年)7月18日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)に「岡村文雄」として生まれる。 神田区錦町(現在の千代田区神田錦町)にあった錦城学校尋常中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、美術学校に入学、日本画を専攻する。19歳になる1920年(大正9年)10月に設立された松竹キネマ研究所に入所、小山内薫に師事した。翌1921年(大正10年)8月には同研究所は解散した。
日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月1… 日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は、日本の俳人。東京都出身。本名は克修(よしのぶ)。 『ホトトギス』で学んだ後、『旗艦』を創刊、男性が眼差す女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は『青玄』を創刊・主宰し、一転して静謐な句を作った。 東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し、1918年、第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。歌俳をたしなんだ父の影響で、草城もその影響で10代から文学に親しんだ。
青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月1… 青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月16日 - 1957年〈昭和32年〉1月1日)は、福井県福井市出身の俳人。 講談社の月刊『現代』の編集記者を経て、新潮社に入社。『小説新潮』を創刊させる。1947年に独立し、近代出版社を創業。文芸書を中心とした書籍のほか月刊雑誌『文学の世界』を創刊、谷崎潤一郎、三島由紀夫らの作品を掲載した。 また俳人としては臼田亜浪の俳句結社「石楠」に参加、最高幹部となった。息子は、文化放送、フジテレビの元アナウンサーでジャーナリストの青柳森。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
重成 格(しげなり かく / ただす、1901年7月13日 … 重成 格(しげなり かく / ただす、1901年7月13日 - 1956年10月16日)は、日本の内務官僚、政治家。鹿児島県知事(官選第30代、公選初代-第2代)、参議院議員(1期)。 紡績会社に勤めていた岡山県岡山市の重成壽太郎の長男として生まれる。兵庫県武庫郡須磨村(現 神戸市の一部)の須磨尋常高等小学校(現 神戸市立西須磨小学校)尋常科卒業。兵庫県立第二神戸中学校(旧制神戸二中、現 兵庫県立兵庫高等学校)から第一高等学校(旧制)へ進学。須磨小、神戸二中では島田叡(内務官僚、官選沖縄県知事)と同期。また、神戸二中では島田叡、渡辺大陸(後にプロ野球監督)、有馬大五郎(音楽学者、国立音楽大学学長)らと野球部に所属。
小山 いと子(こやま いとこ、1901年7月13日 - 19… 小山 いと子(こやま いとこ、1901年7月13日 - 1989年7月25日)は日本の作家。高知県長岡郡大篠村(現・南国市)篠原出身。出生名は池本 イト、結婚後は小山 イト。綿密な調査に基づき社会問題を扱った作品が多く、清純なヒューマニズムと社会性が特徴である。「執行猶予」で第23回直木三十五賞を受賞した。『読売新聞』紙上の人生相談「人生案内」回答者を務め、皇太子妃美智子に関する小説連載中止騒動に巻き込まれたことでも知られる。 福岡女子師範学校(現・福岡教育大学)を卒業。在学中に歌人の橋田東聲の門下生となる。1920年(大正9年)、19歳で父親により結婚を強要されるが、相手を好きになれず、男性に対する反逆心を持ち始める。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。
小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12… 小枝 一雄(こえだ かずお、1901年(明治34年)7月12日 - 1975年(昭和50年)6月22日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)、岡山県久米郡加美町長。農林畑一筋に活動し「地下足袋の小枝」と呼ばれた。 岡山県久米郡打穴村(中央町を経て現美咲町)の農家に生まれる。打穴尋常高等小学校を卒業。その後、東洋大学経済学部で学んだ。農業のかたわら中国民報(現山陽新聞)通信員となる。打穴村役場書記に就任し、同助役を務めた。1936年(昭和11年)岡山県会議員補欠選挙で当選し、3期在任した。その後、加美町長を務めた。 国民協同党岡山県支部長となり、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から出馬して初当選。
川勝 傳(かわかつ でん、1901年(明治34年)7月12日… 川勝 傳(かわかつ でん、1901年(明治34年)7月12日 - 1988年(昭和63年)4月23日)は、昭和初期から末期(1930年代 - 1980年代)の日本の経済人・経営者。元・南海電気鉄道会長。南海中興の祖と呼ばれる。 京都府船井郡富本村(のち八木町、現・南丹市)出身。1928年(昭和3年)、立命館大学経済学科卒業。電通へ入社。後同盟通信に転じ経済記者となる。1937年、同盟通信社内国経済部長ついで大日本紡績連合会理事・東京出張所長。寺田合名理事となり、後日本スピンドル製造の社長に就任。 相次ぐ事故で経営が傾いていた南海電気鉄道会長兼社長をはじめ、南海ホークスオーナー、南海建設(現・南海辰村建設)、南海不動産各会長などの南海グループ企業の他、日本民営鉄道協会会長、毎日放送監査役、桃山学院理事長など多くの要職を歴任。
竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34… 竹脇 又一郎(たけわき またいちろう、1901年 <明治34年> 7月11日 - 1979年 <昭和54年> 6月29日)は、日本の物理学者。主な著書に「物理学」(三省堂)がある。大阪大学名誉教授。位階は正四位。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 19… 渡辺 大陸(わたなべ たいりく、1901年7月8日 - 1955年12月11日)は、兵庫県出身のプロ野球監督。 神戸二中を経て1920年(大正9年)に明治大学予科へ入学し、野球部の剛球投手として活躍。しかし大学生活4年目の1923年(大正12年)に学歴詐称が発覚して明大を退学する。 台北交通団ではエースとして1931年の第5回全日本都市対抗野球大会で準優勝に貢献。 戦後は1946年シーズン終了後、宇高産業社長の宇高勲から宇高レッドソックス監督として迎えられるが、チームは日本野球連盟に加盟を拒否された。その後は宇高が会長となった国民野球連盟の発足に尽力。1950年、大洋ホエールズの総監督(初代監督)に就任したが、総監督の立場にとどまり実際の指揮は中島治康に任せていたという。
円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7… 円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。 昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。 一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。