八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - … 八谷 泰造(やたがい たいぞう、1906年12月14日 - 1970年3月23日)は、日本の技術者、実業家。日本触媒化学工業(現・日本触媒)第2代社長(実質の創業者)。高杉良の経済小説『炎の経営者』の主人公として実名で登場する日本の石油化学工業のパイオニア。 広島県比婆郡山内東村(現・庄原市)出身。三次中学(現三次高等学校)卒業。代用教員を経験した後、大阪高等工業学校を経て一旦就職し、働きながら苦学して1932年、大阪帝国大学工学部応用化学科を卒業。由良染料を経て。1935年にヲサメ硫酸工業事務所へ入社。研究責任者としてバナジウム触媒の開発を行う。 1941年にヲサメ硫酸工業事務所から、大阪桃谷(現在の大阪市生野区桃谷)の長屋の2階にヲサメ合成化學工業株式會社が設立。
松尾 信資(まつお のぶすけ、1906年12月14日 - 1… 松尾 信資(まつお のぶすけ、1906年12月14日 - 1991年10月28日)は、日本の内務官僚。愛知県副知事を務めた。新潟県出身。 1925年に加茂農林専門学校を卒業し、1932年から1940年までに旧制中学校で教諭として勤務し、1940年に内務省に入省。1947年に愛知県庁に転じ、1963年から1970年までに副知事を務め、桑原幹根知事の下で、県政の企画、立案に携わった。 県文化会館館長、名古屋高速道路公社理事長、名城大学理事長なども務めた。1983年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年10月28日心不全のために死去。84歳没。
平井 富三郎(ひらい とみさぶろう、1906年12月13日 … 平井 富三郎(ひらい とみさぶろう、1906年12月13日 - 2003年5月20日)は、日本の商工官僚。経済審議庁次長や通商産業事務次官を経て、退官後新日本製鐵(現日本製鉄)社長。東京府(現東京都)出身。1973年に藍綬褒章、1979年に勲一等瑞宝章を受章。2003年、脳梗塞のため死亡。 旧制東京高校(現東京大学教育学部附属中等教育学校)を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1931年に商工省(現 経済産業省)へ入省。製鉄所書記。同期には、長村貞一(ジェトロ副理事長、経済審議庁次長、特許庁長官)、山地八郎など。 第二次世界大戦後の1949年、石炭庁管理局長から商工省化学局長(1949年2月12日 - 同年5月24日)に。
重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1… 重澤 俊郎(しげさわ としお、1906年12月13日 - 1990年5月21日)は、日本の中国哲学者。京都大学名誉教授。 1906年、東京で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、支那哲学科で小島祐馬に師事した。1932年に卒業 卒業後は第三高等学校教授に就いた。1942年、母校の京都帝国大学文学部助教授に任じられた。 戦後の1950年、学位論文『経学研究』を京都大学に提出して文学博士号を取得。同1950年、教授に昇格。1970年に定年退官し、名誉教授となった。 学風は小島祐馬や侯外廬に近く、マルクス主義歴史学的手法をとった。戦後の京大の学内政治に左翼的立場から関与した。指導学生には戸川芳郎や加地伸行がいる。
澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1… 澤山宗海(さわやま むねおみ、1906年12月12日 - 1977年9月27日)は、奈良県出身の武道家。日本拳法の開祖。本名は勝(まさる)。 澤山宗海は1906年に奈良県に生まれ、幼くして養子となり、山陰地方の名門として知られる、豪族・山名氏の門流である澤山家の人となる。生来病弱であったうえに養父母が溺愛し、少しでも危険と見れば、わずかな運動すらさせなかったゆえに、小学生の頃は通学するだけで疲れるほどひ弱だったという。 自分の体力のなさに一念発起し、大正8年(1919)、偕行社小学校の尋常科を終え、日進商業学校に進学したときにボディービルと柔道を始め、のちに五段の腕前になる。しかし、柔道において一般に当身の攻防の練習が軽視されていたことに失望し、のちに糸東流を創始する摩文仁賢和との出会いを機に彼に師事して空手(当時は「唐手」と呼ばれていた)を学び、昭和5年(1930)6月、通っていた関西大学に「唐手研究会」を立ち上げる。
石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 198… 石島 渉(いしじま わたる、1906年12月12日- 1980年7月19日)は日本の地質学者、古生物学者である。石灰藻の研究者。 東京出身。1931年東北帝国大学理学部地質古生物学科卒。1942年 - 1945年台北帝国大学地質学科、1945年立教大学助教授、教授。1975年定年、名誉教授。1954年「Cenozoic coralline algae from the western pacific(西部太平洋地域の新生代珊瑚藻)」 で東北大学理学博士。 総計で139タクサの化石石灰藻類の記載を行っており (Iryu, 2004)、この中には少なくとも114種のサンゴモ目(Corallinales)の種が含まれ、45報以上の石灰藻の分類に関する論文を発表している。
叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 -… 叶沢 清介(かのうざわ せいすけ、1906年12月12日 - 2000年6月26日)は、福島県出身の図書館員。第3代県立長野図書館長(1949年-1965年)。 1929年(昭和4年)に文部省図書館講習所を卒業し、同年に県立長野図書館の司書となる。乙部泉三郎のもとで開館の準備にあたり、県立長野図書館は同年9月に開館している。1934年(昭和9年)には栃木県教育会図書館の司書となり、1935年(昭和10年)の新館の開館準備にあたったが、新館の開館3か月前に日本赤十字社図書館の主任となっている。1938年(昭和13年)には日本大学高等師範部国語漢文科を卒業している。1942年(昭和17年)には内閣技術院科学資料課参技官となった。
寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月… 寺内 石夫(てらうち いしお、1906年〈明治39年〉12月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月10日)は、日本の実業家。「ファンビ寺内」の寺内株式会社創業者。元参議院議員で、衆議院議員・学校法人近畿大学理事長の世耕弘成は孫。 兵庫県洲本市出身。銀蔵、ゑつの四男。1921年に学校を卒業し、15歳で東京の海渡商店(現・エトワール海渡)に商売の修業として丁稚奉公にでる。1932年に海渡大阪支店を設立する。 1947年に寺内株式会社を設立、社長に就任する。1951年に寺内通商、1958年にバイオレット産業、1964年にテリカ工芸を夫々設立、社長に推される。1966年に近畿大学短期大学部通信教育学科を卒業する。
伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月1… 伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。京大の友人と同人雑誌『呂』を創刊し、毎号、詩を発表した。保田與重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。 長崎県北高来郡諫早町(現 長崎県諫早市)出身。魚屋の丁稚の子として生まれる。父の惣吉は、魚屋の後に家畜仲買業で成功し、木綿商に転業した。四男の静雄は、兄たちの早世により嗣子として裕福に育った。 長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て、京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 199… 田中 晃(たなか あきら、1906年12月10日 - 1998年5月17日)は、日本の教育者、哲学者。山口大学第2代目学長。同大名誉教授。文学博士(1944年、九州大学にて取得)。雅号は周陽。 1906年山口県防府市の生まれ。旧制山口高等学校を経て、1930年九州帝国大学哲学科を卒業。1938年に広島高等学校教授兼九州帝国大学助教授、1944年より九州帝国大学専任となる。1952年より山口大学文理学部西洋哲学科教授。1944年8月、九州大学にて、「プラトンとアリストテレス」で文学博士。1958年山口大学第2代目学長に就任(1962年まで)。同大名誉教授、1970年より山口女子大学(現・山口県立大学)学長・名誉教授。
音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 19… 音丸(おとまる、1906年〈明治39年〉12月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月18日)は、大正、昭和時代に活躍した日本の歌手。本名:永井 満津子。東京市麻布区(現在の東京都港区)麻布箪笥町生まれ。 1906年(明治39年)12月8日、麻布の老舗履物屋の店主永井幾吉の一人娘として生まれる。常磐津の名取りだった祖母は彼女が6歳になった6月6日から常磐津と舞踊を習わせた。13歳の時に美声を買われて橘流筑前琵琶を修行、旭翁派の名手としても知られるようになる。17歳のときには春日派の小唄を始めている。 しかし1930年、25歳のときに溺愛していた弟の幸太郎が亡くなり、重いノイローゼになる。その頃近所の民謡マニアの家に時々尺八の菊池淡水が指導に来ていて、いつしか聴き覚えた民謡を歌っているうちに病気が快方に向かい、心が晴れてくるのに気付いた。
金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月… 金 省三(キム・ソンサム、朝鮮語: 김성삼、1906年12月7日または1907年 - 1960年7月30日)は、大韓民国の海軍軍人(海軍少将)、政治家、弁護士。大韓民国海軍創設の功労者で第3代韓国国会議員。キリスト教徒。 咸鏡北道明川郡出身、本籍は慶尚南道昌原郡。間島永信中学校を経て日本大学専門部法科卒、満州国司法要員養成所修了。弁護士試験合格。満州国法院書記官、高等保護審判官を経て、解放後は軍に投身し、軍法務官、海軍参謀長、鎮海特設基地司令官、海軍鎮海統制府司令官、海軍本部行政参謀副長を歴任した。海軍少将として予備役編入後、自由党所属の民議員、第3代国会国防委員会委員を務めた。 1960年7月30日に死去し、1984年6月27日に国立ソウル顕忠院へ改葬された(将軍第1墓域141号)。
安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年… 安 益泰(アン・イクテ、1906年12月6日 - 1965年9月16日)は、大韓帝国出身の作曲家、指揮者。本貫は順興安氏。 平壌出身。崇実中学校を修了後、1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。 1930年渡米し、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学、その後シンシナティー音楽学校でチェロと作曲を専攻した。1936年渡欧してウィーンへ留学し、アジア人で唯一リヒャルト・シュトラウスに学び、現在の大韓民国の国歌である愛国歌を作曲した。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。
岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12… 岡村 俊彦(おかむら としひこ、1906年(明治39年)12月6日 - 1954年(昭和29年)11月23日)は、日本の物理学者である。 岡村輝彦の七男として東京に生まれる。1930年(昭和5年)に東北帝国大学(現在の東北大学)卒業後、同大学の金属材料研究所に勤務する。同研究所の所長だった本多光太郎に師事し、主に磁気研究に携わり1937年(昭和12年)に理学博士を取得した。1938年(昭和13年)には助教授となり同大学で教鞭を執り、5年後の1943年(昭和18年)には教授に昇格する。 1948年(昭和23年)から1954年に死去するまで東北大学の教授の傍ら同大学の科学計測研究所の所長を務め、磁気のよって熱による変化を主とした強磁性体を研究し「岡村・エルウーフ効果」と呼ばれる磁気効果を発見した。
西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一… 西沢 権一郎(にしざわ ごんいちろう、古い文書では「西澤權一郎」 1906年12月5日 - 1980年12月31日)は、長野県上水内郡小川村生まれの官僚で、元長野県知事。
池田 浩三(いけだ こうぞう、1906年(明治39年)12月… 池田 浩三(いけだ こうぞう、1906年(明治39年)12月5日 - 2003年(平成15年)2月20日)は、日本の検察官、弁護士。最高検察庁検事などを務めた。
梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 19… 梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 1991年1月5日)は、日本の教育心理学者。東京大学文学部名誉教授。 岩手県花巻市生まれ。1931年東京帝国大学文学部心理学科卒。1952年盲聾教育研究会を設立、東大教養学部助教授、教授、1955年東大文学部心理学教授。1958年『心理学事典』の編纂で毎日出版文化賞受賞、1961年「盲ろう二重障害者の言語行動形成についての心理学的研究」で文学博士。1967年定年退官、関西大学教授、1971年国際基督教大学教授、1977年重複障害教育研究所理事長、勲三等旭日中綬章受章、1981年日本学士院会員。実験心理学を応用した障害者教育法を確立、山梨県立盲学校などで実践した。
大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 -… 大谷 藤之助(おおたに とうのすけ、1906年12月3日 - 1989年2月8日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は勲一等。元参議院議員(4期),大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦にて戦艦「大和」の副砲長として乗艦していた深井俊之助が、栗田艦隊がレイテ湾に突入せずに反転したのは当時、栗田司令部の作戦参謀を務めていた大谷による電報の捏造が原因だったと主張しているが、当時通信士として栗田らの板第一艦橋に配属されていた都竹卓郎は、月刊「歴史街道」2015年1月号において、深井氏のレイテ沖海戦での数々の証言を否定しており、他の生存者の証言でも深井の主張と辻褄が合わない点が多くあり、現在は否定的に考えられている
三淵 乾太郎(みぶち けんたろう、1906年〈明治39年〉1… 三淵 乾太郎(みぶち けんたろう、1906年〈明治39年〉12月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月22日)は、日本の裁判官。初代最高裁長官三淵忠彦の長男であり、千代田生命保険社長の兄であり、初期の女性法曹であった三淵嘉子の後夫であった。正六位。 1906年12月3日、後の初代最高裁長官・三淵忠彦の長男として生まれる。1930年、高等試験司法科に合格した。1931年に東京帝国大学法学部を卒業して司法省に入省した(司法官試補)。1932年、東京地方裁判所の予審判事となる。1935年、東京民事地方裁判所判事に転じる。1941年、総力戦研究所第一期研究生として司法官では唯一選抜され入所、第1回総力戦机上演習模擬内閣において司法大臣兼法制局長官を務めた。
金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月… 金 銕洙(キム・チョルス、朝鮮語: 김철수、1906年12月2日 - 1973年7月3日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。制憲国会議員。 忠清南道扶余郡出身。京城徽文高等普通学校中退。東京正則英語学校、早稲田大学専門部政経科卒。ジャーナリストとして中国の華中地域で歴遊した後、京城評論社社長、忠南興業株式会社専務取締役を経て、朝鮮建国準備委員会扶余郡副委員長、大韓独立促成国民会扶余郡支部副委員長を歴任した。 1973年7月3日、ソウル市城北区の自宅で死去。享年67。
星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994… 星野 力(ほしの つとむ、1906年12月2日 - 1994年3月11日)は日本のジャーナリスト、政治家。元日本共産党参議院議員(1期)。同党中央委員会委員などを歴任。
有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 19… 有永 弘人(ありなが ひろと、1906年12月1日 - 1992年4月8日)は、日本のフランス文学者。東北大学名誉教授、文学博士。 鹿児島県鹿児島市生まれ、福岡県築上郡千束村(後の豊前市)野田出身。1924年3月、旧制福岡県立築上中学校(福岡県立築上中部高等学校および福岡県立青豊高等学校の前身)卒業。1927年3月、旧制福岡高等学校(九州大学教養部の前身)文科丙類卒業。1930年3月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科卒業。1931年4月から1932年3月まで東京帝国大学大学院に在籍。1932年4月から1933年8月まで広島文理科大学・広島高等師範学校(現広島大学)講師。1933年9月、東京帝国大学文学部副手となる。
河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 200… 河西 静夫(かさい しずお、1906年12月1日 - 2003年11月13日 )は、日本の実業家。元帝国ホテル代表取締役副社長、元 帝国商事 取締役社長、元 帝国ホテルハイヤー取締役社長、元 帝国ホテル列車食堂 取締役、元 ニューフジヤホテル代表取締役会長、元 監査役、元 芝パークホテル取締役、元 熱海富士屋ホテル取締役。 1906年生まれ。1932年旧制巣鴨高等商業学校(現・千葉商科大学)卒業。1933年株式会社帝国ホテル入社。1948年社団法人日本ホテル協会(現・一般社団法人日本ホテル協会)常務理事、および社団法人日本観光通訳協会(現・一般社団法人日本観光通訳協会)理事、1950年株式会社帝国ホテル副支配人、1951年取締役、1955年株式会社芝パークホテル取締役、1957年株式会社帝国ホテ常務取締役、1961年帝国商事株式会社取締役、1963年財団法人日本船舶振興会(現・公益財団法人日本財団)専門委員会委員、1967年内閣観光政策審議会委員、1968年株式会社帝国ホテル専務取締役、1969年財団法人観光資源保護財団(現・公益社団法人日本ナショナルトラスト)理事、1970年帝国ホテル代表取締役副社長、1971年帝国商事株式会社 取締役社長、および学校法人千葉学園 (千葉県)評議員、1973年帝国ホテルハイヤー取締役社長、1974年株式会社ニューフジヤホテル監査役、1976年代表取締役会長、および株式会社熱海富士屋ホテル取締役就任。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 -… 浅香 新八郎(あさか しんぱちろう、1906年12月1日 - 1944年12月27日)は、日本の俳優である。本名は金谷 幸太郎(かなや こうたろう)。 1906年(明治39年)12月1日、北海道函館区に「金谷幸太郎」として生まれる。 1927年(昭和2年)、日活太秦撮影所に入社する。翌1928年(昭和3年)、デビュー作である志波西果監督の『無念丸橋忠弥』に主演した。同作以降、脇を固める役が多くなる。1932年(昭和7年)には日活を退社し、フリーランスの役者として、日活太秦作品にも日活と配給提携をしていた片岡千恵蔵プロダクション作品にも出演した。1935年(昭和10年)、第一映画設立に参加、高島達之助・溝口健二共同監督によるトーキー『お嬢お吉』に出演する。
中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年… 中村外二(なかむら そとじ、1906年12月 - 1997年5月17日)は、京都の数奇屋大工棟梁。裏千家御家元御用達の作事方大工。富山県小矢部市(旧石動町)出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月… 八馬 駒雄(はちうま こまお、1906年〈明治39年〉11月30日 - 1963年)は、日本の商人(米穀商)、実業家。西宮酒精社長。 兵庫県西宮市出身。八馬永蔵の五男。三代八馬兼介、八馬安二良の弟。八馬眞治の兄。 1928年、同志社専門高商部卒業。1929年、分家した。米穀商を営んだ。兵庫県武庫郡良元村小林字ハクサリ(現宝塚市)で果樹園を経営した。宝梅園土地建物代表社員、多聞土地代表社員を務めた。 1949年、新朝日自動車取締役、西宮酒精社長に就任した。1950年、宝梅園農場社長を兼任した。八馬汽船取締役、同監査役を務めた。 趣味は、乗馬・読書・謡曲・運動。宗教は真宗。住所は兵庫県宝塚市小林字ハクサリ。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11… 高橋 赫一(たかはし かくいち、1906年(明治39年)11月29日 - 1942年(昭和17年)5月8日)は、日本の海軍軍人。海兵56期。珊瑚海海戦に空母「翔鶴」艦上爆撃機搭乗員として参加し、米空母「レキシントン」攻撃後に戦死。最終階級は海軍大佐。 徳島県出身。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)より海軍兵学校56期で入校。 あだ名は「親分」。妻マツエの妹の夫は真珠湾攻撃の第二次攻撃隊長嶋崎重和少佐(海軍兵学校57期)。海兵での同期に久住忠男、田辺弥八、前田実穂、唐島辰男、白相定男、橋口喬らがいる。 1931年(昭和6年)12月、第22期飛行学生となり1932年(昭和7年)11月に修了。
清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1… 清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1988年5月22日)は、日本の映画字幕翻訳家、映画評論家、翻訳家。東京帝国大学経済学部卒業。
14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明… 14代 渡辺 甚吉(渡邊、わたなべ じんきち、1906年(明治39年)11月26日 - 1972年(昭和47年)5月25日)は、昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。旧名は村吉。12代渡辺甚吉の孫。 岐阜県岐阜市松屋町で、岐阜貯蓄銀行(現十六銀行)頭取で実業家の13代渡辺甚吉、八重の長男として生まれた。 暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)を経て、1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、同年3月から1931年(昭和6年)1月まで欧米各国を視察した。大学在学中に父が死去し家督を相続して14代甚吉を襲名した。 帰国後、有隣生命保険社長、浩栄社社長、北海興業社長、築地電気社長、明徳自動車代表、岐阜信託取締役、岐阜貯蓄銀行取締役などに就任した。
小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11… 小林 信明(こばやし しんめい、1906年(明治39年)11月25日 - 2003年(平成15年)3月5日)は、日本の漢文学・中国哲学者。東京教育大学名誉教授。 愛知県出身。東京文理科大学文学部漢文学科卒業。1955年(昭和30年)「古文尚書伝流考」で京都大学文学博士。東京都立北野高等学校教諭、東京教育大学助教授を経て、教授。1970年(昭和45年)定年退官、名誉教授となる。
鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日… 鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日 - 2003年3月14日)は、昭和期の俳人。本名はまさ。娘は女優の本山可久子。 千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)の三女として生まれる。日本女子商業学校(現・嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚して一女を出産するが、夫の失踪により実家に戻る。1935年9月から句作を始める。 28歳の時に長姉が急死し、旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚する。大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事した。30歳の時に旅館に宿泊した年下で妻帯者の海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こす。
江山 正美(えやま まさみ、1906年11月24日 - 19… 江山 正美(えやま まさみ、1906年11月24日 - 1978年6月20日)は、日本の造園家。造園研究者。農学博士。東京農業大学名誉教授。山口県出身。 東京農業大学農学部造園学科で学科長を長年務め、育成にあたってきた。また「国立公園」や「自然保護」といった協会雑誌で自然と人間の共存環境の哲学を語り、造園の計画論を展開した。自然公園における収容力(Carrying capacity)に関する研究や、庭園構成論、プロポーション諭、直角格子論を展開した。保護地域の収容力を大きく「施設収容力」と「入れ込み収容力」に区分して「施設収容力」を「保護地域内にどのくらいの施設を立地させることができるかという限界を示すもので、地形と植生から決めることができる」とした。
鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月2… 鈴木 喜政(すずき きせい、1906年〈明治39年〉11月23日 - 1984年〈昭和59年〉11月28日)は、福島県内郷市(現・いわき市)長。福島県議会議員。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 福島県石城郡夏井村出身。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)に入り、陸上部で活躍する。1930年日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒。内郷村(のち内郷町→内郷市、現・いわき市)で歯科医を開業する。1942年4月内郷村議となり、同年7月町制施行により内郷町議となる。 戦後は内郷町商工会長の傍ら、福島県陸上競技会会長・東北陸上競技会長を歴任。1955年に石城郡選挙区から福島県議会議員に立候補して当選、県議会土木委員長を務めた。
石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月… 石井 照久(いしい てるひさ、1906年(明治39年)11月23日 - 1973年(昭和48年)7月16日 )は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)(学位論文「労働法総論」)。東京大学名誉教授。成蹊大学長。田中耕太郎門下。弟子に鴻常夫、谷川久、佐藤庸、保原喜志夫、花見忠など。 佐賀県小城市出身。生家の石井家は佐賀藩の重臣の家柄で、初代藩主鍋島勝茂の従兄石井忠明(石井賢次の長男)の次男忠正(小城藩士)の子孫とされる。父は台湾総督府法務部長をつとめた石井為吉。兄に石井悟一陸軍中佐がいる。 戦後はGHQの占領行政下の法制審議会商法部会委員として、アメリカ会社法の制度を大幅に導入した商法改正を主導した。
永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11… 永岡 俊一(ながおか としかず、1906年〈明治39年〉11月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。南房総エンタープライズ社長。横浜ゴム元専務。講道館元評議員。全日本柔道少年団元理事長。父は柔道家で講道館10段の永岡秀一。 永岡秀一・久代の長男に生まれる。1930年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、横浜護謨製造(現・横浜ゴム)に入社。1938年仙台出張所主任となり上海出張所主任、興亜ゴム工業取締役支配人、横浜護謨営業部次長兼東京支店長、総部・人事各部長を経て、1955年8月取締役に就任。1957年8月常務に推され、翌年8月に専務就任。 柔道は六段の腕前。趣味は謡曲・仕舞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1… 長沼 弘毅(ながぬま こうき、1906年11月21日 - 1977年4月27日)は、日本の大蔵官僚、実業家、文芸評論家である。東京出身。経済学博士であり、柔道家(講道館七段)であった。孫に俳優の平沼成基など。
檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月… 檜貝 襄治(ひがい じょうじ、1906年(明治39年)11月20日 - 1943年(昭和18年)1月29日)は、日本の海軍軍人。海兵57期。太平洋戦争(大東亜戦争)時における爆撃機の名パイロットで霞空飛行隊長、七〇一空飛行長を歴任。檜貝式爆撃法を生み出し、ガダルカナル島夜間爆撃等を指揮、多大な戦果をもたらした。七〇五空飛行長の三原元一少佐とともに陸攻隊の双璧といわれた。レンネル島沖海戦において被弾後、敵艦へ突撃。戦死による二階級特進で最終階級は海軍大佐。 1906年(明治39年)11月20日、千葉県佐倉町(現・佐倉市)に、海軍機関大佐・檜貝秀次郎(海軍機関学校4期)の、三男三女の二男として生まれる。
土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)… 土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)11月20日 - 1997年(平成9年)5月3日)は、日本の医学者、皮膚科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。東京慈恵会医科大学附属青戸病院・東京慈恵会医科大学附属病院院長を歴任し、私学として初の日本皮膚科学会会頭を務めた。医学博士(1937年、東京帝国大学)。 皮膚科学の権威で日本皮膚科学会創立者土肥慶蔵は大叔(伯)父、父は元国立金沢病院院長で日本皮膚科学会名誉会頭土肥章司。 妻・多喜子は陸軍大将本郷房太郎の次女。子の土肥孝夫は、麻布中学校在学中の1954年に内郷丸遭難事件で犠牲となった。
倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39… 倉増 新八郎(くらます しんぱちろう、1906年 <明治39年> 11月20日 - 1985年 <昭和60年> 9月22日)は、日本の実業家・政治家だった人物。位階は正五位。 北海道岩見沢市出身。岩見沢尋常高等小学校(現・岩見沢市立岩見沢小学校)卒業。合資会社を起業して社長業を営む。1942年岩見沢町議会議員に初当選。1943年岩見沢市に移行したのに伴い岩見沢市議会議員。以後、岩見沢市消防団長、岩見沢市議会議長や1973年北海道消防協会5代会長(~1982年)、1974年空知管内体育協会連絡協議会初代会長などを経て、1963年まで5期務めた。1963年北海道議会議員選挙に岩見沢市選出の無所属として初当選。
森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月… 森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月19日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本のヴァイオリニスト。九州交響楽団専務理事。勲五等瑞宝章を1978年(昭和53年)に受賞。父は陸軍少将の森部静夫。 鈴木章に師事していた。 福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、早稲田高等学院商科に進むも1928年(昭和3年)に中退。1930年(昭和5年)、東邦電力に入社。1935年(昭和10年)、九州鉄道(現・西日本鉄道)に入社。1961年(昭和36年)スポーツセンター常務に就任し、1967年(昭和42年)に退任。 学生時代からヴァイオリンを始め、戦前はヴァイオリニストとしてNHKに出演。戦後の1953年(昭和28年)九州交響楽団設立にあたり、懇意であった石丸寛と行動をともにする。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - … 上島 治忠(うえしま はるただ、1906年11月16日 - 1989年6月5日)は、日本の実業家。上島コーヒーグループの創業者。奈良県磯城郡田原本町出身。上島忠雄は弟。 1925年に畝傍中学校を卒業。翌年に上島商店(のちのウエシマコーヒーフーズ)を創業。1950年に社長に就任し、1970年に会長に就任した。 1989年6月5日急性腎不全のために神戸市の病院で死去。82歳没。
岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 -… 岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 - 1980年1月30日)は、日本の小説家。本名:八田秀吉。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。 旧福岡県立小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科卒業。1928年から1961年まで八幡製鉄所に勤務した。1938年、同郷の芥川賞作家・火野葦平や劉寒吉らと共に同人誌「九州文学(第二期)」に参加し、代表作となる『富島松五郎伝』(「九州文学」1939年10月号。「オール讀物」1940年6月号)で、1939年下半期・第10回直木賞候補、翌1940年上半期・第11回直木賞候補に挙げられるも受賞ならず。さらに、「辰次と由松」で同年下半期・第12回直木賞候補、「西域記」で1943年上半期・第17回直木賞候補となったが、いずれも受賞できなかった。
佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 198… 佐木 秋夫(さき あきお、1906年11月16日 - 1988年8月20日)は、日本の宗教学者。 左派の立場から宗教問題について研究した。 東京府東京市麹町区生まれ。1922年、旧制東京府立第四中学校を(1923年卒)4年修了。4年修了同期に末吉俊雄(元三井東圧化学社長)らがいる。旧制第一高等学校を経て、1930年に東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業。 巣鴨学園、英語塾高田女塾で英語を教えながら日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす。 軍国主義の圧迫を受け、1938年青江舜二郎らと教育紙芝居協会を設立。 戦後の極東国際軍事裁判で検事側にたって軍部の「紙芝居統制」を証言した。
根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 197… 根本 誠(ねもと まこと、1906年11月16日 - 1976年1月2日)は、東洋史学者。中国法制史が専門だった。 東京生まれ。1933年早稲田大学文学部卒業。1934年安田商工業学校教員、1942年早稲田大学文学部講師、1946年助教授、1951年教授。その後、創価大学教授を務めた。 1976年1月2日、心不全のため東京都練馬区の小山病院にて死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月… 小林 勝馬(こばやし かつま、1906年(明治39年)11月16日 - 1987年(昭和62年)12月23日)は、日本の政治家、実業家、鍼灸師。参議院議員(1期)。 佐賀県佐賀郡鍋島村(現佐賀市)で小林鹿三郎の四男として生まれた。1927年 (昭和2年)鍼灸術営業免許所得[要出典]。熊本逓信講習所を卒業し、さらに1928年(昭和3年)無線電信講習所を卒業した。 1922年(大正11年)通信事務員となり、以後、警視庁技手、国際汽船事務長、無線電信技士、山王工業社長、日本光学兵器社長、自家用自動車組合理事、官立無線同窓会会長などを務めた。 1946年(昭和21年)東京都鍼灸按マッサージ師会理事長及び日本鍼灸按マッサージ師会副会長、全国鍼灸按マッサージ医法制定実行委員会書記長に就任[要出典]。
久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月1… 久保 為義(くぼ ためよし、明治39年(1906年)11月15日 - 昭和17年(1942年)2月5日)は、日本の映画監督、脚本家である。宝塚キネマ時代は久保 文憲(くぼ ふみのり)を名乗る。 1906年(明治39年)11月15日、京都市下京区に生まれる。 1925年(大正14年)、旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。第一銀行に就職。 1926年(大正15年)、2年後輩の山中貞雄とともに、友人ですでに俳優や助監督をしていた2歳下のマキノ正博のもとを訪ね、正博の父・牧野省三の会社「マキノ・プロダクション」に入社、助監督となった。 この年、現代劇『青い眼の人形』で正博が18歳で監督でデビューするが、このときに正博のオリジナルストーリーをもとに脚本を書いたのが19歳の久保であった。