鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1… 鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1959年8月13日)は、岩手県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 1929年に旧制岩手県立福岡中学校(現在の岩手県立福岡高等学校)を卒業後、明治大学などを経て、1950年に発足したばかりの広島東洋カープへ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。 指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。
大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年… 大犮 柳太朗(おおとも りゅうたろう、1912年〈明治45年〉6月5日 - 1985年〈昭和60年〉9月27日)は、山口県出身の俳優。本名:中富 正三。 新国劇出身。戦後の東映時代劇映画で数多く主演を務めた剣劇スター。晩年はテレビの現代劇でも活躍した。 父親は山口県柱島(現岩国市)出身、母親は広島県能美島(現江田島市)の出身で、大犮は母親の実家に近い広島市中の棚(現在の同市中区立町付近)で生まれ、父親は出生届を柱島で出した。生後間もなく柱島で育ち、小学校3年から5年までは山口県屋代島(周防大島)(現同県大島郡)で育った。1935年(昭和10年)、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、大阪へ出て新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。
佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2… 佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2001年6月29日)は、日本の経営者。綜合警備保障社長を務めた。 宮城県出身。1936年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。 1960年6月に取締役、1963年に常務、1966年に専務、1971年6月に監査役を経て、同年8月に綜合警備保障常務に就任し、1980年11月には社長に昇格。1986年9月に相談役に就任。 1968年6月から1981年6月までに早稲田大学理事と1970年5月から1974年5月までに大東京興産社長を務め、巣鴨学園理事も務めた。 2001年6月29日、急性呼吸不全のために死去。89歳没。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日… 白勢 正衛(しろせ まさえ、1912年〈明治45年〉6月4日 - 没年不明)は、日本の農民、資産家、大地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢友彌の長男。白勢文三郎の甥。1915年、家督を相続した。農業を営み、新潟県下の大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年… 亀井 孝(かめい たかし、1912年6月3日 - 1995年1月7日)は、日本の国語学者、言語学者。一橋大学名誉教授。 東京府生まれ。ユーラシア史学者・亀井高孝の長男。哲学者・亀井裕は弟 慶應義塾幼稚舎、武蔵高等学校 (旧制)を経て、1935年東京帝国大学文学部卒業。1938年同大学大学院を中退し、同大助手に就任。東京商科大学(のちの一橋大学)予科非常勤講師、同教授を経て、戦後、一橋大学助教授を経て教授。1977年定年退官し、名誉教授になる。成城大学教授、1984年に東洋文庫研究員となる。 「国語学よ、死して生れよ」をテーゼとし、方法論それ自体に対する手厳しい批判精神に満ちていた。いわば「学問の在り方を問う立場の飽くなき提示」という知的運動こそが、亀井の学問の真骨頂であった。
板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月… 板倉 譲治(いたくら じょうじ、明治45年(1912年)6月3日 - 平成9年(1997年)4月8日)は、日本の財界人。三井銀行取締役社長、全国銀行協会連合会会長等を歴任。父親は貴族院勅選議員の板倉卓造。東京出身。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部卒業。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年… 槇村 浩(まきむら こう、1912年6月1日 - 1938年9月3日)は、日本のプロレタリア詩人。本名は吉田 豊道(よしだ ほうどう)。 高知県高知市生まれ。1931年、日本プロレタリア作家同盟高知支部を作り、その後、「槇村 浩(まきむら こう)」のペンネームで作家活動をした。反戦運動・労働運動にも参加し、反戦詩『間島パルチザンの歌』は代表作とされている。 槇村の作品は朝鮮人民との連帯、植民地解放を訴え、日本兵士に中国軍兵士と共同して日本軍への反乱を呼びかけるなど、当時のプロレタリア文学においても例のない国際連帯の視点に貫かれていた。これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去。
高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 … 高橋 幸八郎 (たかはし こうはちろう、1912年6月1日 - 1982年7月21日)は、日本の歴史学者。専門は西洋経済史・フランス史。 福井県今立郡河和田村(現在の鯖江市河和田町)の地主の家に生まれる。1929年、第一高等学校文科甲類に進学し、1932年に卒業。同年、東京帝国大学文学部西洋史学科入学。同期入学に林健太郎、秀村欣二らがいる。1935年に卒業し、大学院に進学する。東京市立上野中学校教諭等を経て、1941年に京城帝国大学助教授に任じられる。1947年東京大学社会科学研究所赴任。1950年5月に助教授、1952年6月に教授となる。その間、1952年から1953年にフランス政府招聘客員教授も務めた。
清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 -… 清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 - 2008年)は、日本海軍の軍人。 海兵60期。最終階級は海軍少佐。戦艦大和の沖縄特攻に従事した乗組員における生存者の一人だった。 広島県呉市出身。早くして両親を失い、兄弟と共に東京の親戚宅に身を寄せるが、関東大震災で被災し再び呉に戻る。 1925年、広島県立呉中学校(在学中に広島県立呉第一中学校へと改称、現広島県立呉三津田高等学校)に入学し、引き続き規定よりはやく飛び入学で4年から[要出典]海軍兵学校に60期生として入学。 卒業後練習艦隊の「八雲」で渡米したことを皮切りに、「高雄」「扶桑」「五十鈴」「妙高」「呉竹」「江風」「三日月」「追風」「朝雲」「大鯨」「龍田」「磐手」といった様々な艦に勤務した。
安津 素彦(あんづ もとひこ、1912年5月31日 - 19… 安津 素彦(あんづ もとひこ、1912年5月31日 - 1985年11月28日)は、神道学者。國學院大學名誉教授、信州豊南短期大学学長。専攻は神道思想史。 東京市下谷区(現・台東区東上野)生まれ。1930年開成中学校卒業。1935年國學院大學道義学科倫理科卒業。國學院大學道義研究室助手。1938年財団法人日本文化中央聯盟研究員。1940年國學院大學講師。1944年同大学に国学研究所が設置され、研究員に委嘱。1946年同大学に神道研究部が設置され、研究員に委嘱。1948年國學院大學文学部が発足し、宗教学科教授に就任。宗教学概論・教派神道概論を担当。1953年「神道研究序論」で文学博士(國學院大學)。
栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月2… 栗本 一夫(くりもと かずお、1912年(明治45年)5月27日 - 1992年(平成4年)11月27日)は、日本の裁判官。最高裁判事。「四畳半襖の下張事件」で裁判長を務めた。なお、長男に経済人類学者の栗本慎一郎がいる。 岐阜県稲葉郡則武村(現在の岐阜市)に栗本兵治郎の次男として生まれる。 旧制愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業。東京帝国大学在学中の1934年(昭和9年)11月、高等試験司法科に合格。1935年(昭和10年)3月、東京帝国大学法学部を卒業。同年5月から司法官試補となり、東京地裁、仙台地裁、浦和地裁などで裁判官生活を送り、陸軍司政官を務め、終戦後は終戦連絡中央事務局連絡管を務めた。
谷口 紀男(たにぐち のりお、1912年 <明治45年> 5… 谷口 紀男(たにぐち のりお、1912年 <明治45年> 5月27日 - 1999年 <平成11年> 11月15日)は、日本の材料科学者。山梨大学名誉教授。 大分県出身。「ナノテクノロジー」の命名者。位階は正四位。 1912年5月27日、大分県に生まれる。1936年3月、東京帝国大学工学部造兵学科卒業後、民間企業を経て、1940年3月、山梨大学工学部の前身山梨高等工業学校機械工学科に教授として着任。以後26年にわたって勤務し、1953年山梨大学工学部教授以後、山梨大学教授として工学部機械工学科、精密工学科(現機械システム工学科)に勤務。1961年第4代山梨大学工学部長に就任。山梨大学を退官後、理化学研究所主任研究員、東京理科大学理工学部機械工学科教授などを歴任。
齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 19… 齋藤 磯雄(さいとう いそお、1912年5月26日 - 1985年9月3日)は、日本の仏文学者。山形県庄内出身。 山形県東田川郡清川村(現:庄内町)生まれ。戸籍上は4月26日生まれ。実家は大庄屋格で、幼少時より漢籍と文語体聖書に親しんで育つ。 旧制酒田中学校在学中から仏文学を志す。辰野隆の教えを受けるつもりで、1929年、法政大学予科に入学。当時既に辰野は法政を退職していたために望みは果たせなかったが、戦後初対面した折にボードレール『悪の華』訳文を激賞された。法政で豊島与志雄や漢詩人阿藤伯海(あとう・はくみ)に師事。同級に安藤鶴夫と近藤光治がおり「三藤」と称して親しく交際した、在学時に次兄(筆名:西東徳之介)も加わり、文芸同人誌『秩序』(7号まで)を発行、プルースト短編やヴィリエ・ド・リラダンの翻訳を寄稿。
塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年… 塩田 卓爾(しおた たくじ、旧字体: 鹽田 卓爾、1912年(明治45年)5月26日 - 1996年(平成8年)4月17日 )は、日本の大蔵官僚でもあり、実業家である。国内セラミックス大手3社の一角であった九州耐火煉瓦(現:黒崎播磨)の代表取締役社長を務めた。その後、同社の会長、相談役となる。岡山県高梁市出身。 1912年(明治45年)現在の岡山県高梁市にて出生。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、陸上選手で研究者の柳井深造がいる。1930年(昭和5年)同校を卒業し、第六高等学校理科甲類へ進学するが、その後、途中で大病を患って退学。 3年後の1933年、塩田は理系から文転し、第六高等学校文科甲類へ再入学する。
松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972… 松井 清(まつい きよし、1912年5月26日 - 1972年9月6日)は、日本の経済学者。元京都大学大学院経済学研究科・経済学部教授。 岡山市生まれ。第三高等学校卒、1934年京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。副手をへて1936年同講師、1947年助教授、1949年教授、1950年「世界経済学批判」で、経済学博士(大阪商科大学)の学位を取得。1960-1961年京都大学経済学部長。60歳で教授在任中に死去。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹… 徳恵翁主(トクヘオンジュ、とくけいおうしゅ、韓国語: 덕혜옹주、1912年5月25日 - 1989年4月21日)は、朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。日本領朝鮮京畿道京城府出身。出生名は李 德惠(イ・トクヘ、り とくけい、韓国語: 이덕혜)。「翁主」は、大韓帝国皇帝の後宮所生の皇女の称号。ただし、徳恵は韓国併合後の出生かつ特例的に王族(王公族)として扱われ、徳恵姫(とくえひめ)となった。 結婚後の日本名は宗 徳恵(そう とくえ)、離婚後は梁 徳恵(ヤン・トクヘ、りょう とくけい、韓国語: 양덕혜)。 日韓併合から2年後の1912年(明治45年)5月25日、日本の王族・徳寿宮李太王となっていた高宗と側室の梁春基との間に誕生。
鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 199… 鳥尾 鶴代(とりお つるよ、1912年5月25日 - 1991年12月27日)は、日本の子爵・鳥尾敬光の妻。旧姓下條(げじょう)。のち鳥尾佳代、鳥尾多江と名乗った。美貌と社交術に長け、マダム鳥尾としてマスコミを賑わせた。下条正雄の孫。 日本画家で貴族院議員の祖父・下條桂谷(正雄)の末子・小四郎の娘として、祖父の持つ東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の豪邸で生まれ贅沢に育つ。母方祖父は津田出。1919年、女子学習院初等科に入学。平民出身のため華族の生徒からいじめられた。祖父が亡くなったことで麹町の家は嗣子の伯父のものとなり、1923年3月、鶴代一家は神奈川県大磯の祖父の別荘に転居。派手な都会暮らしに慣れた父は帝国ホテルにも部屋を借り、鶴代も1年ほどホテルから通学、その後一家は、麹町の伯父宅2階を借りるなど転居を繰り返し、最終的に隠田(現・原宿)に落ち着く。
磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2… 磯貝 正義(いそがい まさよし、1912年5月25日 - 2008年7月25日)は、日本の歴史学者。山梨大学名誉教授。山梨県立考古博物館初代館長、武田氏研究会会長、山梨県史編さん委員会委員長。専門は日本古代史。 岐阜県土岐郡時村(瑞浪市土岐町)に、父・磯貝謙造、母・操の長男として生まれる。磯貝家は岩村藩大給松平家家臣で、母方の実家伊東家は長百姓の家柄。磯貝家は祖父や叔父が製糸工場を経営しており、父の謙造は小学校校長。 岐阜県大垣中学校、第八高等学校を経て、1936年(昭和11年)に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院へ進む。大学時代は古代史学を専攻し坂本太郎に学び、卒業論文は「律令時代に於ける地方政治、特に郡司を中心として」。
中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月… 中村 久次(なかむら ひさつぐ、1912年(明治45年)5月23日 - 2002年(平成14年)10月21日)は、日本の実業家、音響技術者。 子爵加納久朗の次男として生まれる。男爵中村貫之の娘・妙子の婿になり中村姓を名乗った。1938年(昭和13年)に京都帝国大学理学部物理科を卒業して、日本ビクターに入社し、戦後は不二音響工業、サンウエーブ工業等の社長を歴任する。 戦前、陸軍兵技少佐として陸軍技術研究所に勤務したことがあった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月… 山岸 二郎(やまぎし じろう, 1912年〈明治45年〉5月23日 - 1997年〈平成9年〉1月30日)は、福岡県門司市(現在の北九州市門司区)出身の男子テニス選手。慶應義塾大学卒業。主に1930年代後半に活躍し、全日本テニス選手権でシングルス4勝、ダブルス5勝を挙げた。世界的な評価も高く、1938年に世界ランキング8位になった。 1937年全米選手権で4回戦に進出。これは71年後に錦織圭が進出するまで最後の日本人男子全米4回戦以上進出記録だった。 キリンビールの重役などを務めた山岸慶之助の次男として生まれる。兄の成一も三菱商事のテニス選手。慶應大学政治科卒業後、旭硝子勤務。妻の辰子(日比谷平左衛門孫)はスカル選手。
澤田 瑞穂(さわだ みずほ、1912年5月23日 - 200… 澤田 瑞穂(さわだ みずほ、1912年5月23日 - 2002年1月28日)は、日本の中国文学者。中国の怪異研究の第一人者。跡見学園女子大学助教授、天理大学教授、早稲田大学文学部教授を歴任した。娘婿は清末小説研究家の樽本照雄(大阪経済大学名誉教授)。 高知県幡多郡大方町(現・黒潮町)生まれ。小学校3年生の時に大阪へ転居。1934年國學院大學高等師範部卒。1940年、北京日本大使館嘱託として中国に渡り、1942年に帰国する。1944年5月東亜交通公社華北支社附属伝習所講師として再び中国に渡る。1946年3月に帰国。中学校や高校で教鞭を執った後、1957年天理大学に着任。1973年同大学を定年退職。
宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003… 宇山 厚(うやま あつし、1912年5月23日 - 2003年7月5日)は、日本の外交官。台湾断交時の駐中華民国特命全権大使を経て、駐ブラジル特命全権大使を務めた。正三位勲一等瑞宝章。 島根県出身。松江高等学校を経て、1937年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1949年外務省政務局経済課長。1950年在サンフランシスコ日本政府在外事務所所長。1952年外務省経済局第一課長。 在オーストラリア日本国大使館参事官を経て、1959年外務省アジア局兼大臣官房外務参事官。1962年外務省アジア局賠償部長。1963年在連合王国日本国大使館特命全権公使。1967年駐イラン特命全権大使。1968年初代在イラン日本国大使館付属日本人小学校校長。
豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月… 白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月23日 - 2007年〈平成19年〉6月15日)は、日本の画家。本名は白鳥 九寿男(くすお、九壽男)。長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)出身。日本画家の伊東深水に師事し、美人画を中心に制作。晩年、脳梗塞を患いながらも制作を続け、「不屈の画家」と呼ばれた。 1912年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)滝原で農業を営む一家の長男として生まれる。生後、間もなくして母を失う。このとき母は23歳の若さであり、生前の写真は1枚も残っていない。1919年(大正8年)、小学校入学。1920年(大正9年)、父をも失う。当時の大里村立大里尋常小学校、現在の小諸市立水明小学校で伊東深水の美人画を目にし、母親の面影を見出したことで画家を志す。
西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 … 西嶋 庄次郎(にしじま しょうじろう、1912年5月21日 - 2004年(平成16年)12月22日)は口腔解剖学者、大阪大学名誉教授。奈良県生駒郡出身。旧制・大阪府立高津中学校を経て大阪大学卒業。 1951年(昭和26年)に大阪大学に歯学部が設立された際、口腔解剖学講座として開設され、1951年(昭和26年)から1976年(昭和51年)まで初代主任教授を務めた。口腔解剖学講座は2000年(平成12年)の大学院部局化に伴い口腔分化発育情報学講座口腔解剖学第一教室となった。1985年(昭和60年)勲三等旭日中綬章受章。 1950年大阪大学医学博士、論文名は「歯牙硬組織缺損の法医学的研究 」。 2004年(平成16年)12月22日、老衰のため92歳で死去。
今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20… 今井 哲夫(いまい てつお、1912年(明治45年)5月20日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の政治家。新潟県柏崎市長を2期8年(1979年 - 1987年)務めた。 青年期には陸上競技選手(長距離走)として活躍し、慶應義塾大学在学中に箱根駅伝に出走したほか、3000メートル障害で当時の日本記録を更新した。1936年ベルリンオリンピックに3000メートル障害で出場。 新潟県刈羽郡比角村(現在は柏崎市の一部)出身。1922年(大正11年)、比角尋常高等小学校(現在の柏崎市立比角小学校)5年生の際に、新潟県少年オリンピック大会での総合優勝に貢献する。旧制新潟県立柏崎中学校(現在の新潟県立柏崎高等学校)に進学、近県中学校競技大会で4種目優勝を果たした。
鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月… 鍋島 直紹(なべしま なおつぐ、1912年(明治45年)5月19日 - 1981年(昭和56年)11月16日)は、日本の政治家。佐賀県知事・科学技術庁長官。旧肥前鹿島藩鍋島家の第15代当主にあたり、地元では親しみを込めて「トンさん」(=殿様)と呼ばれた。 1912年(明治45年)5月19日、旧鹿島藩鍋島家第14代当主で、内務政務次官を務めた鍋島直縄子爵の長男として佐賀県藤津郡(現・鹿島市)で生まれる。旧制学習院中等科・高等科を経て、1936年(昭和11年)九州帝国大学農学部農学科を卒業、農林省嘱託技師となる。1944年(昭和19年)同省を退職し、「鍋島農園」の経営に当たる。1947年(昭和22年)2月3日に爵位(子爵)を返上した。
和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉… 和泉 覚(和泉 覺、いずみ さとる、1912年〈明治44年〉5月18日 - 2005年〈平成17年〉5月7日)は、日本の宗教家、政治家。創価学会理事長(第4代)、参議院議員(1期)。 職業軍人として、1942年(昭和17年)暮れ、最前線のニューギニアに出兵。九死に一生を得て、1946年(昭和21年)6月復員。戦後、戸田城聖の下で、柏原ヤスらと共に、創価学会の再建に奔走。同会筆頭理事及び理事、小岩支部長、江東総支部長などを経て、日蓮正宗法華講大講頭となる。 1940年(昭和15年)、妻の和泉ミヨとともに東京・九段下の軍人会館で行われた創価教育学会第2回総会に出席、入会する。この総会では、後に和泉の前任者となる原島宏治や、学会理事長を経て東京都議会公明党の重鎮となる小泉隆ら、戦後の戸田城聖体制の下で創価学会を担う最高幹部が多数入会し、和泉もその一人となった。
西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月1… 西村 秀雄(にしむら ひでお、1912年(明治45年)5月17日 - 1995年(平成7年)10月17日)は、日本の解剖学者。 西村秀雄は1955年から1976年まで、京都大学医学部の解剖学教授として、《ヒトにおける奇形の発生率は初期胎児集団において高い》ことを報告した。この発見が《重度の奇形を持った胎児は自然流産につながりやすい》ことの根拠となった。 1948年、敗戦後の人口増加による窮乏を緩和するため、国会は社会的・経済的理由による妊娠中絶を合法化した。当時日本は米軍占領下にあり、GHQ公衆衛生福祉局は「避妊・家族計画」を推奨して中絶に反対したが、やがて賛同した。1960年から西村は22府県の1400人をこえる産科医の協力をとりつけ、妊娠初期に中絶のため医院を訪れる母親たちの同意を得て、摘出された胎児を研究標本として収集し、調査した。
甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 20… 甲斐 文比古(かい ふみひこ、1912年5月17日 - 2001年9月2日)は、日本の外交官。外務省経済協力局長、駐マレーシア特命全権大使、駐オーストラリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 日本統治時代の台湾の台北市生まれ。旧制台北高等学校を経て、外交官試験に合格し、1933年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。特別調達庁東京特別調達局契約部長等を経て、1952年在ジャカルタ日本国総領事館総領事。1955年在ベルリン日本国総領事館総領事。1961年外務省大臣官房審議官。同年外務省経済局経済協力部長。1962年外務省経済協力局長。1963年特命全権大使マレーシア国駐箚。1967年特命全権大使オーストラリア国駐箚。
蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 200… 蟹江 松雄(かにえ まつお、1912年5月12日 - 2001年2月14日)は、日本の農学者、農芸化学者。鹿児島大学第5代学長・名誉教授。農学博士。専門は発酵学(醸造学)、農産製造学。特に鹿児島の焼酎について長年研究した。 愛知県名古屋市出身。1930年、旧制愛知県立熱田中学校(愛知県立瑞陵高等学校の前身)卒業。1933年、旧制第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)理科乙類卒業。1940年に京都帝国大学農学部(現京都大学農学部)農林化学科を卒業し、同年4月から京都帝国大学副手。1941年4月、黒田製薬株式会社に入社。 1946年6月、旧制鹿児島農林専門学校教授に就任。鹿児島赴任以来、焼酎に関心を抱き、研究の一つの柱とする。
稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 19… 稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 1996年2月27日)は、日本の時代考証家・歴史小説家。稲垣一城(いながき かずき)の筆名も持つ。本名・稲垣秀忠(ひでただ)。 多くの映画やテレビドラマの時代考証を手掛けた江戸時代考証の第一人者。江戸趣味の好事家や時代小説好きにはよく知られた存在であった。司馬遼太郎は、稲垣の著書「時代考証事典」の帯に「唯一の先達の仕事」との推薦文を寄せるなど、江戸時代考証において自分よりも優れた知識を持つ稲垣には敬意を表していた。 富山県砺波市出身。早稲田大学文学部国文科を卒業。戦前は都新聞社会部記者、海軍省嘱託の報道班員、戦後にサンニュース・フォトス記者、歴史文学研究会事務局長、雑誌編集長などを経て、文筆業に入る。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
大束 元(おおつか げん 、1912年〈明治45年〉5月10… 大束 元(おおつか げん 、1912年〈明治45年〉5月10日 - 1992年〈平成4年〉12月4日)は、日本のカメラマン。吉岡専造、船山克とともに朝日新聞出版局写真部の三羽烏といわれ、戦後ジャーナリズム写真の代表的な写真家のひとりである。父は写真修正の先駆者、大束昌可。
伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 … 伊藤友司(いとう ともじ、1912年(明治45年)5月9日 - 1967年(昭和42年)8月6日)は、日本の女性宗教家。真如苑霊祖・初代苑主。 僧名は眞如。大僧正。遷化後の法号は摂受心院(しょうじゅしんいん)。夫は真如苑開祖の伊藤真乗。娘は伊藤真聰。 山梨県北巨摩郡高根村東井出(現:北杜市高根町)に内田家の長女として誕生。1915年12月23日、父・内田義平と死別。その後、1919年1月、母・もとよが大芝家に再嫁したので、祖母・内田きん(宝珠院)のもとで育つ。 1931年1月、甲府市の和裁学校に入学。1932年4月27日、伊藤文明(のちの真乗)と結婚。東京・立川に移住。1935年12月28日、運慶作と口伝される不動明王像を勧請。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年〈明治45年〉5月8日 - 2003年〈平成15年〉7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、外務大臣(第106代)、建設大臣(第41代)、国土庁長官(第6代)、農林大臣(第44代)、通産大臣(第23-24代)、自由民主党政務調査会長(第20・25代)、自由民主党幹事長(第21・22代)。日蓮宗全国檀信徒協議会会長。位階は従二位、勲等は勲一等。 商工大臣、農林大臣、大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄は父、中国電力会長を務めた櫻内乾雄は兄にあたる。 東京生まれ。幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒業、鐘紡に入社する。
古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 201… 古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 2011年8月22日)は、日本の倫理学者、歌人。東京大学名誉教授、国際武道大学名誉教授。日本弘道会元副会長。
櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月… 櫻内 義雄(さくらうち よしお、1912年(明治45年)5月8日 - 2003年(平成15年)7月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(18期)、衆議院議長(第67代)、通産大臣、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自由民主党幹事長などを歴任。元日蓮宗全国檀信徒協議会会長。従二位勲一等。
岡倉 古志郎(おかくら こしろう、1912年5月6日 - 2… 岡倉 古志郎(おかくら こしろう、1912年5月6日 - 2001年4月2日)は、日本の国際政治学者、経済学者。 同志社大学教授、大阪外国語大学教授、中央大学教授、日本学術会議副会長、原水爆禁止日本協議会専門委員、日本平和委員会及び日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の各常任理事などを歴任。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の孫に当たる。息子に岡倉徹志がいる。 朝日新聞記者で天心の伝記も編纂した岡倉一雄の子として、東京に生まれる。東京帝国大学を卒業後、東京電灯(現東京電力)に入社。その後、企画院を経て1938年には東亜研究所に入る。同年の企画院事件(企画院判任官グループ事件)にて治安維持法違反で検挙。
冨山 芳正(とみやま よしまさ、1912年5月6日 - 20… 冨山 芳正(とみやま よしまさ、1912年5月6日 - 2003年10月23日)は、ドイツ文学者、学習院大学名誉教授。 東京都生まれ。1935年東京帝国大学文学部独文科卒。学習院大学助教授、教授、83年定年、名誉教授。東洋学園理事。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991… 野間 三郎(のま さぶろう、1912年5月5日 - 1991年12月4日)は、日本の地理学者。兄は国文学者の野間光辰。 兵庫県神戸市生まれ。1930年に旧制大阪府立高津中学校卒業。1933年に旧制大阪高等学校卒業。1936年に京都帝国大学文学部史学科地理学専攻卒業。1941年に京都帝国大学講師。大東亜戦争中、室賀信夫、小牧実繁らと関係していたため、公職追放された。1946年に同大学を退職。 その後、第三高等学校講師、京都新聞社出版部、毎日新聞社調査部を経て、1952年に立命館大学教授。1959年、金沢大学教授。1962年に「近代地理学の潮流 十九世紀地理学史研究」で京都大学より文学博士の学位を取得。
中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5… 中沢 茂一(なかざわ もいち、1912年(明治45年)5月5日 - 2004年(平成16年)11月20日)は、衆議院議員(日本社会党)。 長野県上水内郡芋井村(現長野市)生まれ。昭和12年(1937年)日本大学政治学科卒。桜田製作所に入社し、保険組合常務となり、同19年(1944年)奥田製油所南方総局長兼シンガポール所長として現地に赴任、敗戦で帰国した。同22年(1947年)米倉龍也の秘書となり、長野県農協連合会嘱託、県農民連盟常任参与、信越林産工業協同組合理事長などを歴任した。 昭和27年(1952年)第25回衆議院議員総選挙に長野県第1区から初当選し、同47年(1972年)の第33回衆議院議員総選挙まで断続的に通算8回当選を果たし、主に農政問題に尽力した。
簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008… 簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008年9月14日)は、日本の国文学者、豊橋技術科学大学名誉教授。 東京生まれ。早稲田大学国文科卒業。1960年「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士。豊田工業高等専門学校教授、1978年豊橋技術科学大学教授、1982年定年退官、名誉教授。 愛知に在住していた1958年から1972年にかけ、著作研究および未刊古典の翻刻私家版「碧冲洞叢書」を謄写版で100冊発行した。歌集も多く刊行している この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、191… 清水 金一(しみず きんいち、本名雄三(のちに武雄)、1912年5月5日 - 1966年10月10日)は、日本のコメディアン、映画俳優である。浅草の軽演劇、およびトーキー初期を彩るミュージカル・コメディのスターとして知られる。愛称はシミキン。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」の流行語を生んだほか、「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」も有名なフレーズであった。 山梨県甲府市に生まれる。 上京し、1928年(昭和3年)、16歳のときに、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、清水金一を名乗る。このころ一座の女優嶺レイ子との間に1児をもうけている。
岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5… 岡村 俊昭(おかむら としあき、台湾名:葉天送、1912年5月4日 - 1996年1月25日)は、プロ野球選手。
林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7… 林 茂(はやし しげる、1912年5月4日 - 1987年7月3日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本政治史。 1912年、和歌山県で生まれた。1932年に第一高等学校文科乙類を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科に入学。1936年に卒業し、同大学大学院に進学した。1938年に東京帝国大学大学院を退学。 1942年、京城帝国大学法文学部助教授に就任。翌1943年、陸軍に臨時召集、終戦まで過ごした。 1948年、東京大学社会科学研究所助教授に就いた。1956年、同研究所教授に昇格。1973年、東京大学を退任し、名誉教授となった。その後は神奈川大学法学部教授として教鞭をとった。1976年、津田塾大学学芸学部教授に転じた。
細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治4… 細田 吉蔵(細田 吉藏、ほそだ きちぞう、1912年〈明治45年〉5月2日 - 2007年〈平成19年〉2月11日)は、日本の運輸官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。正三位勲一等。松江市名誉市民。 長男は衆議院議長、自由民主党幹事長、内閣官房長官、衆議院議員(11期)を歴任した細田博之。 島根県松江市西茶町に細田義一郎、千代乃の間に6人兄弟の4番目として生まれる。生家は、屋号を丸吉印「細田本店」、「細田油店」と称する油卸問屋。実父義一郎の弟・六助、つやの夫妻に子供がいなかったため、生まれてすぐに養子にだされ、養父母に育てられる。養母が薬屋を開いており、両方の店を手伝いながら少年時代を過ごす。
河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - … 河西 新太郎(かわにし しんたろう、1912年5月2日 - 1990年9月8日)は、昭和時代日本の詩人、作詞家。香川県出身。 1912年(明治45年)5月2日、弁護士・河西善太郎の長男として高松市に生まれる。旧制高松中学校を経て東洋大学在学時に東都大詩人連盟等を結成。機関紙「大学詩派」を主宰する他、新東京演劇映画協会文芸部長として多数の脚本を手がけた。その後大学を中退し、同郷の先輩である菊池寛を訪ね「文藝春秋社」への入社を希望するも「詩で飯は食えない」と断られる。1934年(昭和9年)四国民報社に入社。1937年(昭和12年)に東京朝日新聞が主催した「亜欧連絡記録大飛行応援歌」に応募した「行けよ「神風」空遠く」が応募総数約四万五千編の中から一等入選で採用された。
小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000… 小島 政夫(こじま まさお、1912年5月2日 - 2000年10月1日)は、日本の経営者。山之内製薬社長、会長を務めた。広島県出身。 1936年に熊本薬学専門学校を卒業し、同年に山之内製薬に入社した。1962年3月に取締役に就任し、1969年8月に常務、1974年8月に専務を経て、1977年3月に社長に就任。1980年3月に会長に就任し、1984年3月に相談役に就任した。 1984年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2000年10月1日肝不全のために死去。88歳没。