石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日… 石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日 - 1940年(昭和15年)5月31日)は、日本の医学者、精神科医。呉秀三門下生のひとり。 代々仙台藩の藩医を務めた家に生まれる。第二高等中学校在学中から短歌や小説に熱中。第五高等学校 (旧制)を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に入学、1903年に卒業後、巣鴨病院(後の松沢病院)内にあった東京帝国大学精神病学教室の助手となり、29歳で『新撰精神病学』を執筆。これが呉秀三に認められ、1907年(明治40年)に31歳で長崎医学専門学校(後の長崎大学医学部)精神病学科の初代教授に就任。教授在任中には『新撰催眠療法』『健全なる精神』を執筆するなど、日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍した。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日… 磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日 - 1935年(昭和10年)11月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。磯部四郎の娘婿。 福井県福井市で士族の日比登の二男として生まれる。1887年、私立長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)卒。京都帝国大学教授で工学博士の日比忠彦は実兄。第一高等学校を経て、1898年に東京帝国大学法科大学を卒業。卒業後、直ちに弁護士を開業した。弁護士・貴族院議員の磯部四郎の長女艶子と結婚し、姓を改めた。 本所区会議員、東京市会議員を経て、1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で司法参与官を務めた。
加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 19… 加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 1957年5月28日)は、日本の歯学者。日本歯科医師会会長を務めた。 長野県上伊那郡宮田村出身。明治43年(1901年)日本歯科医学校卒業。大正4年(1915年)ノースウェスタン大学歯学部卒業。日本歯科医学専門学校口腔外科教授。同5年(1916年)同付属病院院長、同10年(1921年)宮内省侍医療御用掛、昭和11年(1936年)同専門学校長に就任した。同21年(1946年)日本歯科医師会会長、同22年(1947年)6月同専門学校の大学昇格に伴い学長事務取扱となったが、同年12月辞任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16… 町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。
宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日… 宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日 - 昭和49年(1974年)2月19日)は、日本の儒学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京大学名誉教授。 1875年、熊本県熊本市出身。熊本藩士・宇野丈九郎の四男。済々黌、東京帝国大学漢学科卒業。卒業時には成績優秀者として恩賜の銀時計を明治天皇から賜る。 1907年(明治40年)前後、東京帝大助教授として、清朝末期の中国大陸に留学。同世代の東洋史学者桑原隲蔵と共に旅行している。次いで帝政期のドイツ留学、知見を得た西洋哲学の手法で中国哲学を読み解き講義著述した。東京帝国大学文学部支那哲学講座教授を務めた。この頃、渋沢栄一に頼まれて孫の渋沢敬三の家庭教師として月に1回『論語』の講義をした。
松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8… 松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8年〉11月15日 - 1949年〈昭和24年〉6月5日)は、明治から昭和時代前期の統監府警視、朝鮮総督府尹、大邱府尹、平壌府尹、政治家。山口県下関市長。下関商工会議所顧問。 山口県阿武郡奈古村(現・阿武町奈古)出身。大山忠左衛門の三男、大山彦五郎の弟で、松井豊吉の養子となり後分家する。1903年(明治36年)6月、山口県警部。1906年(明治39年)8月、朝鮮釜山理事庁警部。 1909年(明治42年)、朝鮮統監府警視。朝鮮木浦警察署長、北部警察署長、京城鐘路警察署長などを務める。1918年(大正7年)8月、朝鮮総督府尹、大邱府尹。 ついで、1924年(大正13年)12月に平壌府尹。
神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11… 神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11月15日 - 1944年(昭和19年)6月17日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡谷口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市谷口)で、神谷長吉の長男として生まれる。農業を営む。 彦成村会議員、同村長、北葛飾郡会議員、同議長、埼玉県会議員などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から憲政会所属で出馬して当選。第15回総選挙で再選され、衆議院議員を連続二期務めた。 その他、彦成信用組合長、埼玉県産業組合連合会理事、北葛飾郡農会副会長などを務め、宮内省主猟局から鳥類保護事務を嘱託された。
梅村 大(うめむら だい、1875年(明治8年)11月14日… 梅村 大(うめむら だい、1875年(明治8年)11月14日 - 1951年(昭和26年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 秋田県秋田郡扇田村(北秋田郡扇田村、扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)出身。 1901年(明治34年)東京法学院(現在の中央大学)を卒業。青森市で弁護士を開業し、青森弁護士会長に選ばれた。青森市会議員、青森県会議員、同参事会員に選出された。 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し、当選を果たした。
金成 マツ(かんなり まつ、1875年〈明治8年〉11月10… 金成 マツ(かんなり まつ、1875年〈明治8年〉11月10日 - 1961年〈昭和36年〉4月6日)は、アイヌの口承文芸・ユカㇻの伝承者、キリスト教伝道師。アイヌ名はイメカヌ/Imekanu、戸籍名は金成 广知、洗礼名はマリア。 北海道幌別郡幌別村(現:登別市本町)出身のアイヌ女性で、母はアイヌの口承文芸の名手と称された金成モナㇱノウㇰ、姪で養女に『アイヌ神謡集』を編訳した知里幸恵、甥にアイヌ語研究者の知里真志保。母から受け継いだアイヌ文学を大学ノート約2万ページに記録し、アイヌ文学研究者のインフォーマントとなった。1956年に無形文化財の技術保持者に認定され、紫綬褒章を受章。 1875年11月10日、父・ハエリレと母・モナㇱノウㇰの長女として誕生。
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 19… 福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 1959年7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
金城 紀光(かなぐすく / きんじょう きこう、1875年(… 金城 紀光(かなぐすく / きんじょう きこう、1875年(明治8年)11月4日 - 1967年(昭和42年)8月10日)は、沖縄県出身の医師、政治家。衆議院議員、那覇市長。
下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日… 下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日 - 1939年(昭和14年)7月3日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。大正鳥取銀行監査役。鳥取新報社長。鳥取県平民。 元鳥取大学長下田光造、元参議院議員田中信義の兄。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現鳥取市河原町)出身。下田弥平の長男。 鳥取一中(現鳥取西高)に学び、また漢籍を林良造に学んだ。 1904年(明治37年)村会議員、1907年(明治40年)に八頭郡会議員、1911年(明治44年)鳥取県会議員となり、引き続き1920年(大正9年)まで3期当選した。この間佐貫村長も務めた。 1920年(大正9年)5月、原内閣のときの第14回衆議院議員総選挙では、憲政会に推されて鳥取県第2区から立候補して当選し、1期在任した。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3… 寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。 元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという。1888年、番町小学校から県立松山中学校に入った。1893年(明治26年)(18歳)、三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10… 高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10月31日 - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 島根県神門郡稗原村(簸川郡稗原村を経て現出雲市)で大地主・高橋守衛の長男として生まれる。松江修道館を修了した。1906年(明治39年)3月に家督を相続した。 1904年(明治37年)稗原三等郵便局を開設して同局長に就任。稗原村会議員、同村区会議員、同村農会長、同村学務委員、島根県地方森林会議員、簸川郡教育会長などを務めた。 実業界では、1906年、簸川銀行取締役に就任。その他、簸上鉄道取締役、出雲電気取締役社長、島根県農工銀行頭取などを務めた。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 195… 肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 1955年6月5日)は、日本の逓信官僚、実業家。逓信省初代電気課長、初代電気局監理課長、第3代電気局長を歴任して電気行政に貢献し、退官後は住友合資(住友本社)理事や住友の関連会社の各役員を務めた。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町生まれ。鹿児島県士族肥後宗右衛門の二男。1895年7月、鹿児島高等中学造士館予科を卒業。1897年7月、第五高等学校大学予科第一部を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務省入省。同年の文官高等試験に合格。1902年3月、静岡県参事官に任じられる。1903年2月、分家。1903年11月、逓信省参事官兼逓信書記官に転じる。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月1… 三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1952年〈昭和27年〉4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北巨摩郡清春村で三井泉林の長男として生まれる。漢学を修める。1893年(明治26年)、帯広に移り銅鉄金物店を開業。その後、野付牛町の開拓に関わり、農業、鉱山業も手掛ける。北海林産取締役、北海農産工業取締役、北海道造営取締役、北海道拓殖監査役などを務めた。 政界では、帯広町会議員、相続税審査員、所得調査委員を歴任。また、河西支庁選出の北海道会議員を1904年(明治37年)から1916年(大正5年)まで連続4期務めた。その間1910年(明治43年)11月から1913年(大正2年)11月まで第7代同副議長を務めた。
大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)1… 大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)10月11日 – 1955年(昭和30年)2月28日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。内科医。 福岡県穂波郡飯塚町(現在の飯塚市)に福間嘉七郎の四男として生まれ、大里文龍の養子となった。1898年(明治21年)に第五高等学校医学部を卒業し、東京帝国大学医科大学に学んだ。福岡県立病院医員、嘉穂郡郡医となり、大阪病院を開業した。さらに飯塚保健組合病院長を務め、嘉穂郡医師会長、福岡県医師会長、九州連合医師会長を歴任した。また教育者としても飯塚高等女学校長、嘉穂看護婦学校長、九州医学専門学校理事・評議員となった。その他、九州自動車株式会社取締役を務めた。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9… 近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 福島県安達郡二本松町(現二本松市)に旧二本松藩典医近藤玄貞の二男として生まれる。京華中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。在学中の1906年(明治39年)に大日本輸出羽二重株式会社を設立して常務取締役に就任し、また渋川起業株式会社取締役にも就いていた。しかし卒業した後は職を辞して、1910年(明治43年)に弁護士を開業し、また大学院で会社法を研究した。 日本橋区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10… 竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10月7日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は幸太郎。 茨城県久慈郡、のちの太田町(現常陸太田市)出身。先代権兵衛の長男として生まれ、1913年(大正2年)家督を相続と共に幼名を改める。 1914年(大正3年)以降、茨城県農工銀行監査役、日本製鋼取締役、日本赤十字社茨城支部商会議員などを歴任した。ほか、水浜電車社長、茨城土木工業、鹿島軌道、日立電気各取締役を務めた。 1918年(大正7年)9月29日には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1921年(大正10年)5月17日に除名されるまで務めた。
松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日… 松田 源治(まつだ げんじ、1875年〈明治8年〉10月4日 - 1936年〈昭和11年〉2月1日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選9回)。族籍は大分県平民。拓務大臣、文部大臣、衆議院副議長を務めた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村出身。松田録兵衛の二男。家は貧しく学資はなく、郷里で小学代用教員や電信技手をつとめた。1894年(明治27年)、上京した。苦学しながら、東京法学院(現:中央大学)や日本法律学校(現:日本大学)で学んだ。 法学博士、岡村輝彦の玄関番として住み込みをしながら1896年(明治29年)に、日本法律学校を卒業した。1897年(明治30年)、文官高等試験並びに判検事登用試験に合格。
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 … 多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧、宗教家。愛知県出身。大谷派伝道講究院初代院長を務めた。院号及び法名は、「信斯院釋慶悟」。 愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる。 1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される) 1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる。 また、浩々洞の機関誌『精神界』の刊行を1901年(明治34年)に始める。 1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。
竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月… 竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年)10月3日 - 昭和21年(1946年)11月18日)は、日本の弁護士、教育者、政治活動家。法政大学総長、第二東京弁護士会会長、国本社専務理事。学位は法学博士。 岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。明治30年(1897年)に二等軍曹となり、歩兵第21連隊(広島)に配属。翌年陸軍士官学校に入学する(11期) 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学の体操教師をしながら和仏法律学校夜間部に通う。 明治37年(1904年)日露戦争に出征、砲兵少尉として能美島砲台に配属され、翌年大連に上陸するも病により内地送還、召集解除となる。
中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月… 中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月 - 没年不明)は日本の農民、政治家。元鳥取県八頭郡佐治村会議員、八頭郡会議員。農業。 医師中谷隼男の父。孫恭子は精神医学者下田光造の養女。 鳥取県八頭郡佐治村高山・中谷貞次郎の二男。 因幡高等小学校に学び明治33年(1900年)中佐治村会議員に挙げられ三佐治合併以来今日迄引続き村会議員及学務委員に就任。 明治43年(1910年)八頭郡会議員となり八頭郡宅地地価修正委員等となり一期間就職し退職した。
益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月… 益田太郎冠者(ますだたろうかじゃ、1875年(明治8年)9月25日 - 1953年(昭和28年)5月18日)は、日本の実業家・劇作家・音楽家。貴族院議員。男爵。東京都出身。本名、太郎。
伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日… 伊丹 松雄(いたみ まつお、1875年(明治8年)9月22日 - 1958年(昭和33年)6月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県岡山市桶屋町出身。鹿児島県士族の伊丹親恒の長男として生れる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第20連隊付となる。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第20連隊中隊長に就任。参謀本部出仕、参謀本部員を経て、1904年(明治37年)4月、第10師団参謀に発令され日露戦争に出征した。
奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 -… 奥村 信太郎(おくむら しんたろう、1875年9月22日 - 1951年3月4日)は、日本のジャーナリスト、元毎日新聞社社長。 東京府荏原郡品川村大字北品川宿(現東京都品川区北品川)で父奥平昌邁、母岡見りきの間に生まれ、奥平家の菩提寺である清光院住職奥村成岳の長男として入籍。慶應義塾幼稚舎を経て1896年12月慶應義塾大学文学部を卒業。在学中に森鷗外から美学を学んだ。1897年1月博文館編集局に入社。1899年に退社して真宗日報(後に広島日報)主筆として広島に赴任したが、翌1900年、道楽が原因で夜逃げし、東京に戻る。1901年4月、慶應義塾長鎌田栄吉の紹介で大阪毎日新聞社に入社、通信部員となる。
杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9… 杉山 金太郎(すぎやま きんたろう、明治8年(1875年)9月19日 - 昭和48年(1973年)3月10日)は、日本の実業家。豊年製油(現J-オイルミルズ)会長。
青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日… 青山 寛(あおやま ひろし、1875年(明治8年)9月19日 - 1946年(昭和21年))は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛知県愛知郡長湫村(現長久手市)で、青山甚兵衛の長男として生まれる。1896年(明治29年)陸軍士官学校第8期卒業。日露戦争に出征。 1917年(大正6年)8月に大阪連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐、1920年(大正9年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1924年(大正13年)2月に陸軍少将・第10師団司令部附となる。その後、1925年(大正14年)4月に歩兵第22旅団長を経て、1928年(昭和3年)3月8日に待命、同月29日に予備役に編入した。
伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉… 伊藤 長右衛門(いとう ちょうえもん、1875年〈明治8年〉9月13日 - 1939年〈昭和14年〉8月30日)は、日本の土木技術者。「港湾工学の父」と呼ばれる広井勇の小樽港建設における後継者であり、小樽港をはじめとする北海道の港湾建設に生涯を捧げた。「小樽港の生みの親」といわれる広井と共に「小樽港の育ての親」ともいわれる。出生名は伊藤 長市(いとう ちょういち)。福井県大野郡富田村(後の大野市)出身。 江戸時代は庄屋、明治時代には戸長や村長として地域のために尽くした伊藤家の長男として誕生。少年時代は勉強に励み、学業では地元で右に出る者なしとまでいわれた。 一家の長男が家を継ぐのが当然の時代ではあったが、近代化の進む当時の日本にあって、父は旧来の慣習には囚われず、長男である伊藤に、自分の好きな道へ進むよう告げていた。
尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月… 尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治8年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は、日本の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村 鶴三(なかむら かくぞう)。 日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信 源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の2社で1,000本以上の映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。
大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 -… 大江 スミ(おおえ すみ、明治8年(1875年)9月7日 - 昭和23年(1948年)1月6日)は、明治から昭和にかけて活躍した教育家。女子教育の先覚者。東京家政学院(現・東京家政学院大学)創立者で、日本における家政学の先駆者。旧姓・宮川。東洋英和女学院中学部・高等部、お茶の水女子大学卒業。文部省の国費にてロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校に留学。 1875年(明治8年)9月7日、宮川盛太郎とカネの二女として長崎県十善寺(現在の長崎市)に生まれた。1880年、父が宮内省大膳職へ転じたことにより一家は長崎より上京し、芝の栄町(現在の港区芝公園三丁目)に構えた家に住んだ。1891年、芝鞆絵小学校に入学。
奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7… 奥澤 勘一(おくざわ かんいち、1875年(明治8年)9月7日 - 没年不明)は、日本の柔術家。柔道師範、戸田流(気楽流)17世、天神真楊流、戸田流(気楽流)の柔術家、柔道整復師として知られた。 戸田流(気楽流)の奥澤七事斎良重の孫。戸田流、天神真楊流の柔術家であり、ほねつぎを営んでいた父、奥澤敬太郎より、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)湯島天神下同朋町の修心館を引き継いだ後、大正7年7月に浅草仲町24番地に道場を移し柔道を教授。 1921年(大正10年)駒込妙義坂下町に整骨院を開院、後に駒込富士前町に移転した。父、奥澤敬太郎とともに、柔道整復師の法制化に尽力。 昭和9年に古武道振興会主催の古武道型奉納大会で井上縫太郎と共に天神真楊流柔術の極意上段を演武した。
永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日… 永田 亀作(ながた かめさく、1875年(明治9年)9月6日 – 没年不詳)は、日本の内務官僚。神戸市助役。 静岡県榛原郡菅山村(現在の牧之原市)出身。第一高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大学院に進んだ。翌年11月、文官高等試験行政科試験に合格。千葉県立千葉中学校教諭、青森県視学官、同事務官、同警察部長、福岡県事務官、沖縄県事務官、同内務部長、岩手県内務部長を歴任し、1919年(大正8年)に休職となった。 その後、1921年(大正10年)から神戸市助役を務めた。
木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月… 木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月5日 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の会社役員、地主、銀行家、政治家。 鳥取県八頭郡若桜村大字若桜(現・若桜町)出身。木島嘉七郎の長男。因幡高等小学校に学ぶ。貨物運送業、倉庫業、木材製造販売業を営む。1902年、若桜赤松組合村会議員となり、以来継続して若桜町会議員となる。 1911年4月に若桜町助役、1912年5月に辞任する。八頭郡所得税調査委員を4年つとめる。八頭郡会議員に6年在職し、副議長を1年つとめる。 合資会社若桜銀行業務担当社員、木島合名会社社員、因幡木材合資会社有限責任社員となる。1918年4月、同志と共に若桜運送を創立し、その監査役となる。
板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - … 板谷 勘右衛門(いたや かんえもん 1875年9月4日 - 1941年5月1日)は日本の政治家。 1875年地元の地主である板谷助右衛門の長男として生まれる。新潟商業学校を卒業後農業に従事していたが、1913年剱地村会議員選挙に出馬し当選、さらに鳳至郡会議員、1919年には立憲政友会に属して石川県会議員に当選。その後長らく剱地村長をつとめたのち、長年地方自治に尽くした功績で1939年8月1日紺綬褒章を受章した。1941年5月1日に76歳で死去。きく夫人との間に3男2女がある。 『石川県議会史 第2巻』1968年
高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 19… 高橋 偵造(たかはし ていぞう、1875年9月2日 - 1952年9月26日)は、日本の農芸化学者。 長野県水内郡常盤村(現飯山市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第一高等学校を経て、1900年東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。1907年農学博士となる。 大蔵省醸造試験所勤務を経て、1922年(大正11年)母校教授となり、農学部長をつとめ、発酵学、醸造学の講義を担当した。清酒や醤油、味噌などの自然純粋培養による菌学的研究を確立させた。日本農芸化学会会長、学士院会員を歴任。 1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。新会員一同は、昭和天皇から皇居に招かれたが高橋は欠席した。
平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 … 平塚 広義(ひらつか ひろよし、旧字体 : 平塚 廣義、1875年9月2日 - 1948年1月26日)は、日本の内務官僚。1府3県の知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員などをつとめた。正三位勲二等、山形県士族。父は新庄藩士の平塚榮次郎、弟は蚕糸学者で文化功労者の平塚英吉、長男は俳優・著述家の九重京司(本名・平塚広雄)である。
林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 … 林 七六(はやし しちろく、1875年〈明治8年〉9月2日 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は、大正から昭和時代前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員、岡谷市会議長、長野県岡谷市長。 林新一郎の長男として長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)に生まれる。1890年(明治23年)岡谷学校中等科を卒業。家業の醸造業を継ぎ、1928年(昭和3年)南信塩元売捌代表社員、長野県酒造組合連合会代議員、1935年(昭和10年)全国醤油醸造組合連合会理事、1939年(昭和14年)全国酒造組合中央会常任評議員、1940年(昭和15年)長野県石油配給会社社長など要職を歴任した。 この間、政治家としては、諏訪郡会議員、平野村会議員、長野県会議員(2期)を経て、1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(長野県第3区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任。
阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 … 阿部 亀彦(あべ かめひこ、1875年(明治8年)9月1日 - 1928年(昭和3年)7月26日)は、日本の内務官僚。官選県知事。板垣伯銅像記念碑建設同志会会長。 大分県出身。藩士・阿部寛平の四男として生まれ、伯父・阿部富太郎の養子となる。第五高等学校を卒業。1904年、東京帝国大学法科大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し静岡県属となる。 以後、宮崎県事務官、栃木県事務官・第二部長、福島県事務官・警察部長、埼玉県内務部長、宮城県内務部長、兵庫県内務部長などを歴任。 大正8年(1919年)4月、高知県知事に就任。1922年10月、広島県知事に転任。1923年10月、知事を辞任し退官した。
森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - … 森 賢吾(もり けんご、1875年(明治8年)9月1日 - 1934年(昭和9年)1月19日)は、日本の大蔵官僚、貴族院勅選議員。 佐賀県出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学卒業。同年7月に大蔵省に入り、11月に文科高等試験に合格した。司税官・大蔵書記官・大臣秘書官・参事官・馬政局書記官・専売局主事・日本銀行監理官などを歴任した。その後、財務官となりイギリス・フランス駐在を命じられた。 1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員に任命され、翌年には国際経済会議委員や第一次世界大戦の賠償に関するジュネーヴ会議政府代表に任命された。1922年(大正11年)、ジュネーヴ経済財政会議全権委員。