池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年… 岡田 正之(おかだ まさゆき、1864年10月5日(元治元年9月5日) - 1927年(昭和2年)7月28日)は、日本の漢文学者、教育者。 1864年、越中国新川郡清水村(現・富山県富山市)にて富山藩士、岡田信之(呉陽)の長男として生まれる。18歳の時に上京し、重野成斎らに学んだ後、帝国大学に入学。 卒業後は陸軍大学校教授、学習院教授、東京帝国大学教授などを勤める。漢文や中国の歴史に通じ、大学で講義をする傍ら多数の書籍の著作、編纂に携わった。1926年には、御講始で漢書の進講も行った。同年学習院名誉教授となった。 主なものに『支那歴史』、『新定十八史略鈔』、『新制漢文讀本』、『越中史料』などがある。
西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年1… 西 英太郎(にし えいたろう、元治元年9月3日(1864年10月3日) - 1930年(昭和5年)8月5日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 肥前国小城郡多久村(現在の佐賀県多久市)に、佐賀藩士西雅広の長男として生まれる。儒学者岡松甕谷に漢学を学んだ後、東京に出て中村正直の同人社で英学を学んだ。 小城郡会議員、佐賀県議会議員を経て、1914年(大正3年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。 その他、佐賀県農工銀行頭取、唐津鉄道取締役、肥前電気鉄道取締役、唐津製鋼所取締役、佐賀毎日新聞社社長などを歴任した。
中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元… 中山 伝蔵(なかやま でんぞう、1864年10月2日〈元治元年9月2日〉 - 1932年〈昭和7年〉5月2日)は、日本の剣道家である。 武蔵の坂浜(現在の東京都稲城市)生まれ。四谷の真貝忠篤の道場で田宮流の奥伝をうける。その後稲城で道場伝喜館を開き、1932年(昭和7年)に死去するまで剣道術を伝授した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJ:スポーツ人物伝)。
阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10… 阿部 彦吉(あべ ひこきち、元治元年9月2日(1864年10月2日) - 昭和6年(1931年)10月9日)は、日本の発明家である。 現在の山形市六日町生まれ。生家は草履表商だったが、類焼で経営が悪化。幼少期に苦労するも、時計に興味を持ち18歳で上京。京橋の小林時計店に勤務し、技術体得の後20歳で帰郷した。山形市七日町に自ら時計店を開業。そのかたわら電気時計の研究発明に志した。まず単独式電気時計から発電機付きの無電池式電気時計に進み、その後、有電池式連絡時計となって完成を見た。特許は内外12件に及ぶ。 1915年に自動発電無電池阿部式親子時計を開発し特許を取得。県庁舎(現・文翔館)新築に際し時計工事を請け負い、1918年、時計塔の大時計を親に、無電池で庁内50余りの子時計を完成した。
岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9… 岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日(1864年9月30日) - 大正14年(1925年)7月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)。 信濃国佐久郡春日村(現在の長野県佐久市)出身。岡部弥門の二男。上田中学校(現在の長野県上田高等学校)で学んだ後、東京の同人社で英学を学んだ。1885年高橋是清の渡米に従い、その後、ハワイに渡って、ハワイ王国・ハワイ共和国の顧問を務めた。その後、アメリカ本土に戻って、カリフォルニア大学を卒業、さらにシカゴ大学で修士号を得た。また、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ハイデルベルク大学、パリ大学にも遊学した。 1899年、帰国して外務省翻訳官となった。
麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9… 麓 純義(ふもと すみよし、元治3年8月28日(1864年9月28日) - 昭和10年(1935年)2月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、那覇市長。 大隅国大島郡笠利村(現在の鹿児島県奄美市)出身。東京法学院(現在の中央大学)に入学し、在学中の1889年(明治22年)に代言人試験に合格した。翌年に東京法学院を卒業し、弁護士を開業するが、1892年(明治25年)に那覇地方裁判所が開庁すると、那覇に移って弁護士業務に従事した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、第11回・第14回・第15回と4回当選を果たした。その間、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)まで、那覇市長を務め、初等教育や社会教育に力を入れた。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(18… 大谷 岩太郎(おおたに いわたろう、元治元年8月26日(1864年9月26日) - 昭和25年(1950年)10月10日)は、旭川市の実業家、政治家。#大谷酒造株式会社の創業者。新潟県出身。真宗大谷派旭川別院檀家総代。旭川村(現旭川市)への鉄道誘致、日本放送協会北海道放送局開設、百貨店丸井今井旭川支店にも深く携わった。1928年(昭和3年)6月紺綬褒章。 現在の旭川市6条6丁目にあった酒造会社。 明治42年下村正之助の酒造場を買収し創業、43年度から生産を始め、同年の造石高 672 石、44年 1,051 石を生産して千石蔵に仲間入りした。 代表的な銘柄は、旭正宗・旭自慢 昭和19年企業整備令により、旭川酒類工業会社に合併され、第四工場として稼働。
岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月2… 岡崎 正也(おかざき まさや、前名・源之助、1864年9月25日〈元治元年8月25日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月19日)は、明治時代から昭和初期の日本の弁護士、会社役員、資産家。族籍は三重県平民。 三重県河芸郡一身田村字上津部田(現・津市)出身。岡崎源十郎の長男。生家は代々農業を営む。1878年、新潟英語学校に入り、在学2年で4ヶ年の課程を終え学業が大に進む。1881年、大学予備門に入り、その後病気のため2年休学する。1883年、家督を相続し、前名・源之助を改める。 1886年、大学予備門の課程を終え1887年、高等中学法科を卒業する。1890年、帝国大学法科大学を卒業、法学士の称号を受く。
神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25… 神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25日(元治元年8月25日)- 1954年(昭和29年)3月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。号・鶉迫。 豊前国上毛郡四郎丸村(現福岡県豊前市山田)で、酒造家・神崎栄蔵の長男として生まれる。蔵春園で学んだ。家業の他、小倉酒精社長、角屋酒造社長、八尾貯蓄銀行取締役、築上銀行取締役、八尾銀行取締役、宇島銀行取締役、宇島鉄道専務取締役などを務めた。 1907年、福岡県会議員に当選し立憲政友会に所属。1910年から1923年まで県会議長を務めた。その他、福岡県結核予防協会長、同山林会副会長、同教育会長、同実業団体連合会長、同酒造業組合会顧問などを歴任。
中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864… 中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) - 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。 月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓・惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、月岡芳年の内弟子となった。 月岡芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は元治元年(1864年)に甲府道祖神祭礼における幕絵制作のため甲府を訪れており、1871年(明治4年)にも山梨県を訪れている。
伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年… 伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日… 稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日(元治元年8月17日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、現在の茨城県笠間市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小幡 栄次郎。169cm、98kg。最高位は西前頭筆頭。 1889年幕下格で初土俵、四股名は師匠の入間川清藏が一時名乗っていたものに因む。1897年5月十両昇進。1902年1月新入幕、1910年6月廃業した。1907年6月から1910年6月までは最年長力士。廃業後は男爵古河虎之助の家に召し抱えられ、身辺の世話や相撲の指導を行った。大正14年1月22日東京滝野川区西ヶ原の自宅で腎臓病の為60歳で没する。東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺に埋葬されている。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元… 芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。医学博士。レントゲン技術の日本への導入に貢献したほか、軍陣医学の発展に寄与した。 幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散したが、兄の直政は弁護士となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である。 帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される。
相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1… 相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 大正15年(1926年)2月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 加賀国江沼郡東谷口村(現在の石川県加賀市)に山口庄助の二男として生まれ、相川家の養子となった。東京で法律学を学び、弁護士試験に合格。法律事務所を開業した。また、石川県会議員に選出された。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第11回衆議院議員総選挙で再選された。 その他、石動電気株式会社取締役、能登電気株式会社監査役、飛越電気株式会社監査役を務めた。
森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元… 森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元年8月13日) - 1934年(昭和9年)4月7日)は、愛媛県会議員、余土村長、道後湯之町長を務めた政治家である。本名:森 恒太郎(もり つねたろう)。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治… 市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治元年8月9日) - 1947年(昭和22年)2月23日)は、日本の歴史学者。文学博士。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長。専門は東洋史、中国史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。日本の東洋史学の開拓者。 元治元年(1864年)、常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科を卒業。 翌1888年に学習院傭教師に就いた。1890年に同助教授、1892年に同教授昇格。学習院傭教師時代の1889年には、森鷗外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元… 木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日) - 1944年(昭和19年)11月22日)は、日本の司法官、教育者。 1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた。1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる。
大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月… 大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 明治33年〈1900年〉11月2日)は、日本の哲学者。郷里岡山の操山()にちなんで操山と号す。「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。 備前国岡山西田町(現・岡山県岡山市)で岡山藩士・木全(きまた)正脩の三男として生まれ、後に母方の実家・大西家の養子となる。1877年(明治10年)9月、同志社英学校普通科に入学。翌年新島襄より受洗。在学中は山崎為徳の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。15歳で、叔父大西定道の家をつぐ。1881年(明治14年)山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884年(明治17年)、同志社英学校神学科を卒業。
中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年… 中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。 三重県出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事試補、判事を務める。1892年(明治25年)、農商務省に転じ、鉱山監督官、農商務参事官・製鉄所事務官、農商務書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、東京鉱山監督署長、東京鉱務局長などを歴任した。 退官後は、東京帝国大学や秋田鉱山専門学校などで講師として鉱山法を講義した。1923年(大正12年)5月7日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈… 二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 昭和18年〈1943年〉1月9日)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した洋画家。 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市)で、神祇官白川殿免許の大工倉持正重の六男として生まれる。本名は子之吉、通称は芳雄。幼少から画を好み、5,6歳の頃、麦の穂を一日中その場を動かず丹念に写生し、家の人が覗いてみると、色・形から粒の並びまで実物そっくりだったという。1878年(明治11年)2月上京、五姓田義松の画塾に入る。同年、工部美術学校教師アントニオ・フォンタネージに通い、指導を受ける[要出典]。義松の日記では「明治十三年四月二日に倉持子之吉弟子となる」とあり、正式に弟子となったのはこの時だと考えられる。
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864… 明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月… 戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月1日〉 - 1915年〈大正4年〉4月15日)は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。 下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった。 父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する。
牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元… 牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元年8月1日)- 1928年(昭和3年)5月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山市長。 越中国新川郡富山風呂屋町(現富山県富山市堤町通り)で、町年寄・牧野正貫(まさつら)の長男として生まれる。漢学、数学を修めた。家業の呉服業を営む。その他、十二銀行取締役、北陸商業銀行取締役、第四十七国立銀行取締役、富山電灯取締役、中越鉄道取締役、北陸生命保険取締役、富山鉄道取締役、富山米穀肥料取引所監査役、富山商業会議所副会頭などを務めた。また、富山実業新聞を創刊した。 政界では、1892年5月、富山市会議員に選出され、18年間在職し、同議長、富山県会議員、同議長も務めた。
田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年… 田代 義徳(たしろ よしのり、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1938年(昭和13年)12月1日)は明治〜昭和期の医学博士、外科医、日本整形外科の命名者で基礎を築く。東京帝国大学教授、東京市会議員に当選し、東京府社会事業活動を通じて医事衛生問題に取り組む。栃木県出身。 1864年8月27日((旧暦)元治元年7月26日)、下野国足利郡田中村(現栃木県足利市田中町)で代々名主を務めた田部井家三男として誕生。父は田部井森平、幼名を又助と称した。1869年(明治2年)近村にある私塾清花堂で手習いを修め、八幡村(現足利市八幡町)の禅定院にある立教小学校から1877年(明治10年)栃木の中教院学校に入り漢詩を学び、1878年(明治11年)梁田郡掘込村宝勝寺の八幡村小学校の教師になる。
樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月… 樫野 恒太郎(かしの つねたろう、元治元年(1864年)8月27日 - 昭和23年(1948年)5月1日)は江戸時代末期(幕末)生まれで、明治・大正・昭和時代の実業家。 元治元年(1864年)8月27日、徳島県阿南市中林町に、徳島藩中老・海上方奉行で通称阿波水軍の長であった森甚五兵衛16代目村晟の家臣であった父・樫野藤蔵と母・ミツの間に生まれる。明治維新後、父が創業した石灰製造所を継ぎ、神戸・徳島など京阪神を始め、国内の石灰業界で活躍し事業を拡大した(第二次世界大戦前、徳島県南部は大理石及び石灰石の代表的産地であり、大正9年(1920年)着工、昭和11年(1936年)完成の現在の国会議事堂の3階天皇御休憩所の出入口や内部の内装及び彫刻その他の議事堂各所に使われている石材である時鳥(ほととぎす)答島(こたじま)加茂更紗(かもさらさ)などは徳島県産であり、山口県産と並んで国会議事堂の石材の主要な部分を占めている)。
古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月2… 古森 泰(こもり たい、1864年8月27日(元治元年7月26日) - 1937年(昭和12年)5月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 対馬国下県郡厳原(現在の長崎県対馬市)出身。長崎甲種医学校を卒業。厳原町で協立厳原病院を開業し、医療に従事した。日清戦争時には対馬警備隊医務嘱託を務めた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月2… 釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月24日(元治元年8月24日) - 1909年(明治42年)10月1日)は、明治時代の教育者。 岡倉天心(覚三)の腹心として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の運営や、日本美術院の創設に深く関わった。 武蔵国榛沢郡新会村(現・埼玉県深谷市)出身。1883年(明治10年)に陸軍に入隊、1885年(明治18年)9月に体操の研究のため陸軍戸山学校体操科に入学し、同年に卒業。近衛兵も務め[要出典]、1889年(明治22年)に退役。 1890年(明治23年)7月から1898年(明治31年)4月まで東京美術学校に勤務した。同校では体育を教授したほか、教務や助教授を務め、校長であった岡倉天心の秘書的役割も担った。
秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元… 秋山 文太郎(あきやま ふみたろう、1864年8月16日(元治元年7月15日)- 1934年(昭和9年)10月30日)は、日本の政治家。第4代八王子市長、牛込区長、八王子市議(2期)。俳号は佳森(かしん)。 1864年(元治元年)7月15日、農家の長男として多摩郡上川口村(南多摩郡川口村を経て、現在の八王子市)で生まれる。 1882年(明治15年)、五日市勧能学校勤務。自由民権運動に関わり始める。 1884年(明治17年)、自由党に入党。森久保作蔵の側近となる。1897年(明治30年)7月19日、八王子町助役となるものの失火の責任を取る。1899年(明治32年)8月19日に辞任。森久保作蔵により浅草区役所戸籍課長に就く。
羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7… 羽田 貞義(はた さだよし、1864年8月10日(元治元年7月9日) - 1933年(昭和8年)3月11日)は、日本の教育者、実業家。号は鷲峰。第80代内閣総理大臣を務めた羽田孜の祖父。 信濃国小県郡桜井村(現・長野県東御市)の寺島権左衛門の次男として生まれ、1880年に同郡和田村(現・長和町)の羽田三郎の養子となる。1883年長野県師範学校を卒業、1890年東京高等師範学校博物科を卒業後、長野師範教諭、1898年新潟師範学校教頭を務める。 1903年に群馬師範学校校長に就任、1912年より熊本師範学校校長、千葉師範学校校長、1919年より福島師範学校校長を歴任した。 1924年に定年後帰郷し、1927年にはバス会社「和田嶺自動車」を設立して社長となり、山間部の地方交通として貢献した。
太田 直次(おおた なおじ、1864年8月9日(元治元年7月… 太田 直次(おおた なおじ、1864年8月9日(元治元年7月8日) - 1918年(大正7年)1月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1890年、東京法学院卒。神田区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、神田商業銀行取締役となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1918年に死去した。
設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月… 設楽 貞雄(したら さだお、1864年8月4日(元治元年7月3日) - 1943年(昭和18年)12月15日)は、明治時代から昭和初期にかけて関西で活躍した民間建築家。工手学校(現・工学院大学)造家学科の第1期生である。 1912年(明治45年)、大阪市の「新世界」開発において、そのシンボルとなる初代通天閣および隣接する遊園地ルナパークの設計を一手に担ったことで知られる。民間建築家の先駆けとして、山陽鉄道の建築部門の確立や住友関連のプロジェクト、さらに聚楽館や神戸タワー、伏見桃山乃木神社の造営など、近代日本の都市形成とインフラ構築に多大な足跡を残した。 設楽建築工務所は、意匠設計から施工管理までを高度に分業化した近代的な組織体制を有していた。
井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864… 井上 八重吉(いのうえ やえきち、元治元年7月2日(1864年8月3日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→交友倶楽部)。弁護士。 相模国高座郡座間村(現在の神奈川県座間市)に内藤甚左衛門の三男として生まれ、井上利助の養子となった。1881年(明治14年)、神奈川県師範学校に入り、卒業後は小学校訓導を務めた。その後、東京法学院(現在の中央大学)に入り、1890年(明治23年)に卒業した。同年、高等文官試験に合格。司法官試補、横浜区裁判所検事代理、八王子区裁判所検事、同判事、高崎区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任した。1898年(明治31年)、退官して横浜市で弁護士を開業した。
坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年… 坂本 清俊(さかもと きよとし、1864年8月2日〈元治元年7月1日〉 - 1949年〈昭和24年〉12月29日)は、日本の篤農家、政治家(奈良県南葛城郡会議員)、社会運動家。部落解放運動家阪本清一郎の従兄弟。 奈良県南葛城郡掖上村柏原(現・御所市)の被差別部落出身。掖上村柏原北方区長を務める。 自由党に入って自由民権運動をおし進める。融和事業に取り組み、1912年、松井庄五郎の大和同志会結成に参加し、副会長となる。 柏原や奈良県内の自主的部落改善運動の中心を担った。 寺田蘇人著『部落の人豪』には、奈良県南葛城郡の部落の人豪として清俊の名前が挙げられている。 阪本清一郎は坂本清俊の影響を大きく受けている。
水島 銕也(みずしま てつや、元治元年6月29日(1864年… 水島 銕也(みずしま てつや、元治元年6月29日(1864年8月1日) - 昭和3年(1928年)11月2日)は、神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。雅号「愛庵」。 豊前国中津藩藩士の長男として生まれる。幼少期に両親が離婚。さらに14歳のときに叔父が西南戦争で西郷軍に味方し、鹿児島で戦死。そのことに衝撃を受けた父が急死する。そのため姫路の伯父の家に引き取られた。 城東小学校から旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)に入学。野口ゆからとともに姫路中学の1期生の1人だった。同校卒業後、工部大学(現東京大学工学部)への進学を希望していたが、伯父の「同郷の中津出身者が多い学校の方が良いだろう」という言葉に影響を受け、1881年に神戸商業講習所(現兵庫県立神戸商業高等学校)へ入学した。
高階 幸造(たかしな こうぞう、元治元年〈1864年〉8月 … 高階 幸造(たかしな こうぞう、元治元年〈1864年〉8月 - 大正10年〈1921年〉1月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の神職。 四條畷神社宮司、伊和神社宮司、廣田神社宮司を歴任したほか、草創期の全国神職会運営に携わり、「神社界の重鎮」と称されている。 元治元年(1864年)8月、但馬国豊岡町(現在の兵庫県豊岡市)に、豊岡藩士高階成章の三男として生まれた。 明治13年(1880年)、郷里の村社金刀比羅神社に奉職。 明治21年(1888年)、兵庫県皇典講究所理事兼教授となり、分所新築事業を担当し、これが明治31年(1898年)に竣工すると皇典講究所副総裁久我建通より『古史徴』一部を贈られた。
小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864… 小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864年7月26日) - 昭和2年(1927年)11月26日)は、柳川藩士の子で、福岡県出身の財界人。ジョン・レノンの妻・オノ・ヨーコの祖父である。 筑後柳川の藩士のもとに出生した。立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳である。 地元の柳河中学校を経て1880年(明治13年)、同志社英学校2年に入学する。同級生に安部磯雄や岸本能武太がいた。1883年(明治16年)、新島襄から洗礼を受ける。同年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図り退学する。
安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈… 安孫子 久太郎(あびこ きゅうたろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉 - 1936年〈昭和11年〉5月31日)は、アメリカ合衆国で活動した日本人起業家かつ新聞編集者である。日米新聞社長。 1864年(元治元年)に、のちの新潟県北蒲原郡水原町字外城(現阿賀野市)で、小林徳四郎、いし子の長男として生まれた。母が出産の際に死亡したため、母方の祖父(安孫子彦一郎)方に引き取られ、15歳年上の叔父安孫子石太郎の弟として養育される。家業の蝋燭、紙の販売を手伝わされ、荷車に品々を積んで、近隣の村々を売りに歩く。水原在町中に英人宣教師パームからキリスト教的薫陶を受けた。 1882年(明治15年)、宇尾野藤八、佐藤文二と新潟を出奔する。
大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6… 大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉- 1935年〈昭和10年〉2月11日)は、明治から大正期の陸軍軍人。陸士旧8期、陸大8期(優等)。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将。 現在の山口県青海島にて、長州藩士・大庭此面の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。以後、参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した。
田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6… 田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉- 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階・勲等・功級・爵位は正二位勲一等功三級男爵。 陸軍大臣(第14・16代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)、立憲政友会総裁(第5代)を歴任した。 元治元年6月22日(1864年7月25日)、萩藩士・田中信祐、みよの三男として、長門国阿武郡萩(現在の山口県萩市)に生まれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。
伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈… 伊集院 彦吉(いじゅういん ひこきち、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉- 1924年〈大正13年〉4月26日)は、明治・大正時代の日本の外交官。外務大臣。男爵。妻の芳子は大久保利通の長女。 1864年(元治元年)、薩摩藩鹿児島城下高麗町において、薩摩藩士・伊集院吉次の長男として生まれた。その後、上京して築地の立教学校(立教大学の前身の一つ)で学ぶ。1890年(明治23年)7月に帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年(明治25年)からは翻訳官となり、1893年(明治26年)には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った。
笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年… 笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。 静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。 1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。その後、警保局監獄課長、山形県参事官、岩手県警察部長、高知県書記官、台湾総督府事務官、台南県書記官、岐阜県書記官、新潟県書記官、同県第一部長、熊本県第一部長などを歴任。 1907年1月、岩手県知事に就任。1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。1914年6月、岡山県知事に転じた。
吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元… 吉武 栄之進(よしたけ えいのしん、1864年7月22日〈元治元年6月19日〉 - 1927年〈昭和2年〉1月3日)は日本の応用化学者。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・吉武樗の長男として生まれる。開智学校を経て東京大学予備門に入学。1884年東京大学卒業後、1887年から翌年にかけ東京府第一中学校教諭、さらに東京師範学校教諭を経て、第二高等学校教授、東京高等工業学校教授などに就任、理化学を講じていた。1932年、文部省から毛染及び毛織物捺染法、仕上法の研究を命じられ、イギリス、ドイツに3年間留学。帰国後、再び前職を務める傍ら、文部省視学官に任じられる。1920年東京高等工業学校校長、1923年東京高等工芸学校校長を兼任となる。
池田 蘆洲(いけだ ろしゅう、1864年7月22日(元治元年… 池田 蘆洲(いけだ ろしゅう、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1933年(昭和8年)1月24日)は、明治時代から昭和時代初期の漢学者。大坂の人。名は胤(いん)。通称は四郎次郎で蘆洲と号した。二松学舎専門学校、国学院大学教授。主著に『故事熟語大辞典』『日本芸林叢書』『定本史記補注』など。 大坂・道修町出身。坂本葵園、近藤元粋に師事し、東京に出て三島中洲にまなび陽明学を主とし、三島の創立した二松学舎専門学校で教授、理事をつとめ、のちに国学院大学の教授となる。編著には、未完に終わった『史記補注』130巻のほか、『日本詩話叢書(そうしょ)』10冊、『日本芸林叢書』12巻を編集し近世学芸の史料編集で知られる。
天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元… 天野 良太郎(あまの りょうたろう、1864年7月19日〈元治元年6月16日〉 - 没年不明)は、日本の医師。専門は内科。広島市医師会会長。族籍は広島県平民。 広島県・天野環の長男。広島藩校の流れをくむ私立浅野学校(現:修道中学校・高等学校)に学ぶ。広島中学校卒業。のちに医を志して上京し東京医科大学別課を1887年5月に卒業した。広島甲種医学校教諭に任じられ広島病院司療医を兼任した。1889年、尾道病院長に栄転し5年余在職し、監獄医を兼ねた。 1894年、家督を相続した。同年広島市西魚屋町で医院を開業した。天野医院長として名声を馳せたという。広島市医師会長を務めた。 『広島県紳士名鑑』では「性謹直、才気溌剌であり英智群れを抜いていた」と評価されている。
渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元… 渡邊 祐策(渡辺 祐策、わたなべ すけさく/ゆうさく、元治元年6月16日(1864年7月19日) - 昭和9年(1934年)7月20日)は、日本の実業家、政治家(立憲政友会)。UBE(旧・宇部興産)の前身である冲ノ山炭鉱組合の創業者。旧姓・國吉。 幕末の長門国厚狭郡船木宰判の小串村(現在の山口県宇部市)で國吉恭輔(その後、福原家家臣渡邊詠蔵の渡邊家を継いだため、渡邊姓となる)の次男として生まれる。國吉家は畔頭ながらも苗字帯刀を許された家柄であったが、祖父に当たる國吉藤輔が周辺集落一体を焼き尽くす火事を起こしたために財産を失い、また明治維新以降他の士族と同様に俸禄を失ったことにより生活は苦しかったという。