板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年… 板垣 鷹穂(いたがき たかお/たかほ、1894年(明治27年)10月15日 - 1966年(昭和41年)7月3日)は、美術評論家。西洋美術史の研究者として、その業績を著作に残す。また、明治以降から同11年代までの日本近代建築についての論評をはじめ、映画、写真など新たな美術領成をメディア論として論じた草分け的存在でもあった。 モダニズム研究で文芸、美術、建築、文学にまで射程は広い。終戦後に早稲田大学文学部教授となり、最晩年まで教鞭を取った。ほか明治大学教授、東京写真大学教授を歴任した。 東京神田生まれ。文芸評論家の平山直子(板垣直子)と結婚。 1915(大正4)年、第一高等学校第二部退学後、東京帝国大学文科大学哲学科の選科生として西洋美術史を学ぶ。
岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13… 岸 一郎(きし いちろう、1894年(明治27年)10月13日 - 1969年(昭和44年)4月3日)は、日本の野球選手、監督。 福井県敦賀市松原出身。旧制早稲田中学(現・早稲田中学・高校)、早稲田大学、満鉄(満州倶楽部)で一貫してエースを務め、極東選手権競技大会でも活躍した。早大時代のチームメイトである市岡忠男は「早大時代は沢村栄治に匹敵する投手であり、満洲の野球が強くなったことにも岸君の力は大きく貢献している」と戦前の大選手であることを証言している。1918年に満鉄が、当時日本一と言われた一高と二試合して二度とも破ったとき、どちらの試合でも岸は好投し、対戦した内村祐之から投手として高い評価を受けている。
田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月1… 田中 冬二(たなか ふゆじ、1894年〈明治27年〉10月13日 - 1980年〈昭和55年〉4月9日)は、日本の詩人である。本名は吉之助。 銀行員として働きつつ、郷愁をテーマに多くの詩作を行う。専ら旅を題材とした詩を作り、山国や北国の自然、日常生活を初々しい感覚で表現した叙情詩集「青い夜道」(昭和4年)を発刊。多作ではなくマイナーポエットとも評されるが、一貫して日本の自然や生活に根ざした詩を作り続け、吉行淳之介は象徴的に「青い夜道の詩人」と評している。詩作のほか散文や俳句も手がけている。堀口大學らと交友関係があった。 銀行員だった父吉次郎と、母やゑの長男として福島県福島市栄町に生まれた。1901年(明治34年)に父が、1906年(明治39年)には母が相次いで亡くなったため、上京して叔父・安田善助のもとで養育される。
平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月1… 平岡 梓(ひらおか あずさ、1894年〈明治27年〉10月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月16日)は、日本の農商務・農林官僚。内務官僚・平岡定太郎の長男。作家・三島由紀夫の父。少年時代の三島の執筆活動に大反対し、あえて悪役を買って出たことで、三島の反骨精神を目覚めさせて作家としての成長を間接的に助けた。息子・三島の死後は、その毒舌的なシニカルさや、ブラック・ユーモアの入り交ざった回想録『伜・三島由紀夫』を著し、貴重な三島資料を残したことで知られる。 1894年(明治27年)10月12日、東京府東京市赤坂区の日枝神社参道入口付近の家で、父・平岡定太郎(内務官僚)と母・永井なつ(東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女)との間の長男として誕生。
矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1… 矢追 秀武(やおい ひでたけ、1894年10月11日 - 1970年9月23日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の細菌・ウイルス学者。東京帝国大学教授、国立予防衛生研究所部長、横浜医科大学(現:横浜市立大学)細菌学教授(1951年-1961年)、神奈川歯科大学教授を歴任。精製痘苗の精製(矢追抗原、PVL, Purified vaccine lymph)、溶連菌毒素のトキソイド化の研究で知られる。 1894年(明治27年)、奈良県高畑町番外1番地(菩提町1番地)で生まれた。1920年12月、東京帝国大学医学部を卒業。 同大学衛生学教室に研究生として入室。翌年、副手、助手になった。酸類の細菌に及ぼす影響を研究した。
由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん… 由比 忠之進(ゆい(正しくは、ゆび[要出典]) ちゅうのしん、1894年(明治27年)10月11日 - 1967年(昭和42年)11月12日)は、日本の弁理士、日本エスペラント学会会員のエスペランティスト、反戦運動家。福岡県志摩郡前原村(現・糸島市)生まれ。 1919年(大正8年)、当時蔵前にあった東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 労働運動に共感し学歴を隠して沖電気の職工として就職するが、入営に前後して学歴が判明したため失業、1920年(大正9年)小学校教諭と結婚し、特許事務所で外国の特許の翻訳に従事した。1921年(大正10年)頃からエスペラント語を学び始める。 1924年(大正13年)に東京職業補導所に入り木工技術を習得し、同級生の資金援助で家具屋を開業したが、身体の不調から家具屋をやめ、その後名古屋放送局に勤務した。
小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10… 小沢 愍昌(おざわ みんしょう、1894年(明治27年)10月11日 - 2004年(平成16年)7月12日)は、日本の僧。山梨県出身。2004年5月20日より死去するまで男性としての日本国内最高齢者だった。 山梨県御坂町生まれ。1917年に山梨市の浄土宗光雲寺の住職となり、1978年まで務めた。 2004年7月、肺炎のため山梨市の病院で死去。109歳と275日。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - … 上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - 1991年10月29日)は、染織文化研究者。 新潟県刈羽郡生まれ。号は元人(げんじん、もとんど)。京都高等工芸学校染色学卒。京都帝国大学工学部工業化学科卒、同大助手。関西学院大学理工科講師、武庫川女子大学教授、1950年大阪学芸大学教授。58年定年退官、同年「上代文学に現れた色名・色彩並に染色の研究」で京都大学理学博士。県立新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学初代学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を兼任。旭川市の優佳良織(ゆうからおり)工芸館内国際染織美術館館長。 日本の古代染織を研究し、宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たる。
古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)… 古茂田 甲午郎(こもだ こうごろう、1894年(明治27年)10月9日 - 1982年(昭和57年)6月27日)は、日本の建築家。 大正8年(1919年)に文部省入省後、営繕技師として勤務していたが、関東大震災後の大正13年(1924年)に大学時代の恩師である佐野利器に請われて東京市に転じた。その後は東京市の学校建築に関する責任者として勤務し、特に復興小学校の実務により「当時の学校建築の権威」と評された。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、文部省に入省した。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月… 金 庚培(キム・ギョンベ、朝鮮語: 김경배、1894年10月5日または1895年 - 1965年4月17日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲、2代韓国国会議員。 李氏朝鮮黄海道延白郡(現・朝鮮民主主義人民共和国黄海南道)または黄海北道生まれ。平壌大城中学校卒業、駒澤大学専門部政治科修了。駒澤大学在学中に三・一運動に参加したため、後は投獄された。1927年、満州で大韓独立党に加入し、義成団副団長を務めた後、朝鮮に潜入し地下活動を行ったが、九月山事件で再び逮捕され、2年間服役した。解放後は延白面長、延白郡守、延白水利組合長を務めた。1948年の初代総選挙と1950年の第2代総選挙では延白郡甲選挙区から出馬し当選したほか、憲法起草委員、反民族行為特別調査委員会委員長を歴任した。
鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 197… 鮎沢 巌(あゆさわ いわお、1894年10月5日 - 1972年11月30日)は、元・国際労働機関(ILO)職員。国際基督教大学名誉教授。 茨城県久慈郡太田町(現・常陸太田市)で元水戸藩士の次男として生まれた。芝中学校在学中に安部磯雄のユニテリアン教会や社会主義協会に足を運び、その社会改良思想に影響を受けた。1911年芝中学校を卒業。フレンド平和奨学会(Friend Peace Scholarships)の奨学生としてアメリカ合衆国に留学。ハワイの中央太平洋学院(ハイスクール)、ホイットマンカレッジを経て、1915年ハバフォード大学に入学。社会学と社会事業(特に社会問題と労働問題)を学ぶ。1917年ハバフォード大学を卒業。
田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日… 田村 秢(たむら みのる、1894年〈明治27年〉10月3日 - 1991年〈平成3年〉11月19日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。ZTV代表取締役社長田村憲司、衆議院議長田村元の父。自由民主党衆議院議員田村憲久の祖父。TBSテレビアナウンサーの田村真子は曽孫にあたる。 三重県宇治山田市岩淵町(現・伊勢市)出身。 宇治山田中学(旧三重県立第四中学校)を1912年に卒業し、金沢の第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学に入学。1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。 松阪市で弁護士を開業した。後に三重県弁護士会会長を3期務め、日本弁護士会連合会理事を務めた。 三重県会議員、同議長を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で三重2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する(いわゆる「翼賛候補」)。
上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27… 上条 愛一(上條、かみじょう あいいち、1894年(明治27年)10月2日 - 1969年(昭和44年)2月18日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 長野県東筑摩郡今井村(現:松本市)で生まれた。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)卒業後、代用教員を経て、1920年、早稲田大学政治経済科を卒業。同年、読売新聞社に記者として入社した。 1920年、大日本労働総同盟友愛会東京連合会書記に就任。1925年、第7回国際労働総会に日本労働代表随員として渡欧した。その後、日本労農党、日本労働組合同盟の結成に参画し、1936年、日本労働組合会議書記長に就任した。 戦後、日本社会党に入党し、日本労働組合総同盟(総同盟)全繊同盟総主事、総同盟副会長、中央労働委員会労働者側委員、全繊同盟政治顧問などを歴任した。
大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1… 大野 竹二(おおの たけじ、1894年(明治27年)10月1日 - 1976年(昭和51年)12月18日)は、日本海軍の軍人。戦艦「大和」第4代艦長。最終階級は海軍少将。 伊集院五郎海軍大将の二男として東京で生まれ、大野義方海軍大佐の養子となる。 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を1912年に卒業後、1916年11月、海軍兵学校(44期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。英国私費留学(オックスフォード大学)、「秋風」「高崎」の各航海長などを経て、1928年12月、海軍大学校(甲種26期)を卒業。 「神通」航海長、第2遣外艦隊参謀、軍令部第2班第3課・第1班第1課の各参謀、第3艦隊参謀、第1遣外艦隊参謀、第11戦隊参謀、軍令部第1部第2課・第3部第7課・第3部第8課の各部員、支那方面艦隊司令部付などを歴任し、1938年11月、海軍大佐に進級。
酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 19… 酒井 朝彦(さかい あさひこ、1894年10月1日 - 1969年5月25日)は、日本の児童文学作家。本名・酒井 源一。教師、編集者をへて創作に専念。1961から1962年、第5代日本児童文学者協会会長。 長野県下伊那郡竜丘村(現飯田市)の母の実家に生まれ、1900年、5歳の時に父に死別し木曽の定勝寺に預けられた。小学校卒業後上京し、旧制東京中学を経て早稲田大学英文科に進む。1920年に卒業。その後、働きながら小川未明のネオ・ロマンチィズムに傾倒し童話を書き始める。1924年、未明の推薦により東京朝日新聞に「天に登った蛍」を発表。同年、同人誌『童話時代』を創刊。同誌休刊後、1928年に千葉省三、伊藤貴麿らと同人誌『童話文学』を創刊。
伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10… 伊藤 與八(いとう よはち、1894年 <明治27年> 10月1日 - 1979年 <昭和54年> 4月30日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1924年に慶應義塾大学法学部を卒業。第九十八国立銀行支配人、千葉銀行取締役、常務、千葉興業銀行専務、副頭取を経て、1963年5月には頭取に就任。1969年4月には会長に就任。 1965年に黄綬褒章を受章し、1968年に勲四等瑞宝章を受章。 1979年4月30日に急性肺炎のために死去。84歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 -… 光風 貞太郎(てるかぜ さだたろう、1894年10月1日 - 1941年11月24日)は、秋田県由利郡子吉村(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は小番 貞藏。身長178cm、体重94kg。最高位は西小結(1926年1月場所)。得意技は突っ張り、押し、寄り。引退後は年寄待乳山として後進の指導につとめた。四股名の命名者は須藤善一郎。 横綱大砲の待乳山部屋に入門。1914年1月場所に初土俵をふんだ。その後、師匠の死のために出羽海部屋に移籍した。1919年1月に新十両、1922年1月場所に入幕した。突き押し得意であったが、幕内中堅力士として腰を据えていた。1925年が最盛期で、1月場所は8勝2敗、5月場所には大関太刀光を引き落としに破る殊勲の星も含めて7勝3敗1分と連続して勝ち越し、1926年1月場所に小結に昇進した。
波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923… 波多野 秋子(はたの あきこ、1894年10月 - 1923年6月9日)は、中央公論社の『婦人公論』記者、有島武郎の愛人で心中相手。 出自は不明ながら、当時の新聞報道によれば、実業家の林謙吉郞が新橋の芸者に生ませた庶子であるとされる。父親が用意した麻布の別宅に実母と暮らし、月の7日間と夏冬の休暇を父親宅で過ごす生活の中で育つ。実践女学校に入学後、その美貌から父親は秋子を園遊会などさまざまな会に同伴者として連れ回した。大正元年(1912年)実践女学校を卒業。卒論にルターの宗教改革を選び、その参考書を探しに友人の紹介で、米国帰りの英語塾経営者であった波多野春房(烏峰)の家を訪ね、知り合う。 波多野は前妻の安子を離縁して18歳の秋子と同棲し、秋子の母が亡くなった翌1913年に結婚。
佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治… 佐々木 芳遠(ささき よしお / よしとお、1894年(明治27年)10月 - 1949年(昭和24年)10月20日)は、日本の内務・警察・厚生官僚。官選県知事。 宮城県出身。佐々木茂三郎の三男として生まれる。第二高等学校を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し埼玉県属となる。 以後、岐阜県加茂郡長、徳島県理事官、神奈川県警視、復興局事務官、岩手県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、東京府書記官・経済部長、同総務部長などを歴任。 1938年6月、秋田県知事に就任。戦時下の体制整備、田沢疏水開墾事業、秋田飛行場建設工事などを推進。
山口 重彦(やまぐち しげひこ、1894年(明治27年)9月… 山口 重彦(やまぐち しげひこ、1894年(明治27年)9月30日 - 1965年(昭和40年)10月19日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)、山口自転車社長。 鹿児島県で山口林五郎の長男として生まれる。鹿児島県姶良郡国分村(現霧島市)出身。東京府立工芸学校(現東京都立工芸高等学校)精密機械科を卒業。ダット自動車製造(快進社)に技師として入社。1914年(大正3年)に独立して東京府南葛飾郡吾嬬町(向島区を経て現葛飾区)に山口自転車工場を設立し、同社取締役社長に就任。その他、東京自転車工業組合理事、東京市少年職業委員、全国自転車業組合連合会評議員、東京市工業指導所評議員、協調会中小企業講座講師、厚生省労務管理調査委員、日本自転車工業会顧問などを務めた。
日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9… 日下 晃次郎(くさか こうじろう、1894年〈明治27年〉9月30日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。廣島證券商事社長。斎藤商店取締役。 広島県賀茂郡三津町(現・東広島市安芸津町三津)出身。酒造業・日下賛三の二男。広島県立広島第一中学校卒業。1921年、慶應義塾大学部理財科卒業。広島産業銀行員となる。1925年、家督を相続した。農業を営んだ。三津酒造専務取締役に就任した。 1930年、加奈陀サン生命保険に入り、広島支部長を務めた。廣島證券商事取締役、同社長を務めた。住友生命保険会社に勤務した。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。処世の信条は協力一致。趣味はスポーツ、読書、運動。
後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月3… 後藤 耕造(ごとう こうぞう、1894年(明治27年)9月30日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。住宅営団理事。 愛知県出身。1919年(大正8年)、高等試験に合格し、翌年に京都帝国大学法学部英法科を卒業した。千葉県属、同警視、和歌山県理事官、同事務官、新潟県事務官、石川県書記官・学務部長、北海道庁学務部長、佐賀県書記官・警察部長を歴任。1939年(昭和14年)より三重県書記官・総務部長、広島県書記官・総務部長、北海道庁総務部長を務めた。 1941年(昭和16年)に退官した後は、住宅営団理事・大阪支所長となった。 戦後は京都市助役を務めた。
三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治2… 三代目 市川 莚升(いちかわ えんしょう、1894年(明治27年)9月29日 - 1947年(昭和22年)5月10日)は、明治・大正・昭和時代の歌舞伎役者。屋号は高島屋。本名は高橋 道之助(たかはし みちのすけ)。 東京新富町生まれ。初代市川左團次の次男。長男の二代目市川左團次の異母弟。1898年(明治31年)二代目市川ぼたんとして初舞台をふみ、1915年(大正4年)に三代目市川莚升を襲名した。実兄二代目市川左團次につき、脇役を務め、女形の義兄二代目市川松蔦と共に、二代目左團次の演劇革新運動を援けた。当たり役は「太功記」十段目の十次郎、「吃又」の修理之助など。 近年、書籍、インターネットなどで、二代目市川左團次を初代市川左團次の一人息子とし、三代目市川莚升を初代左團次の養子とする記録が多々散見されるが、高橋家の戸籍原簿に拠れば、これは全くの誤謬である。
衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月… 衛藤 速(衞藤、えとう はやし、1894年(明治27年)9月27日 - 1964年(昭和39年)12月21日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。 大分県宇佐郡竜王村野山(深見村、安心院町を経て現宇佐市)で生まれる。小学校を卒業。若年で中国に渡り、その後、沖縄、京阪神を遍歴した。福岡県田川郡川崎村(現川崎町)で炭鉱夫として働く。昭和の初めに川崎町で東豊炭鉱を経営。以後、田川商工会議所副会頭、大進鉱業代表取締役、耶彦新聞名誉社長、衛藤商事社長、衛藤鉱業社長、文珠岳炭礦社長(佐世保市)、東豊商事社長などを務めた。戦後の復興と朝鮮特需で1951年(昭和26年)には長者番付1位となった。 政界では川崎町会議員を務めた。
大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月2… 大江 俊明(おおえ としあき、1894年〈明治27年〉9月27日 - 1954年〈昭和29年〉4月10日)は、日本の実業家、政治家。昭和前期の福岡県築上郡八屋町(現在の豊前市)の名士。築上新聞および築上産業新聞の創刊者。株式会社大江印刷所社長。 父は美濃派俳諧の流れを汲む逸茂庵派四世の大江壽太郎。子供は1男2女あり、長男は大江俊信。曾孫が元テレビ東京アナウンサーの大江麻理子である。 「社会の先駆者」(築上新聞発刊の辞より)たる気概で築上新聞および築上産業新聞を創刊し、20数年にわたり自ら健筆を振るった。また、25歳頃より求菩提山の研究と復興開発を志し、そのため自ら将棋、囲碁、観劇を禁じて生涯尽力した。
大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月… 大亦 観風(おおまた かんぷう、1894年(明治27年)9月27日 - 1947年(昭和22年)10月22日)は、日本画家、南画家、歌人。本名は新治郎(しんじろう)。和歌山県和歌山市出身。はじめ洋画を学び、のち日本画に転向。寺崎広業、のちに小室翠雲に師事。大東南宗院の設立に参加。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明… 高橋 円三郎(圓三郎、たかはし えんざぶろう、1894年(明治27年)9月26日 - 1956年(昭和31年)6月4日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県神門郡今市町(簸川郡今市町を経て現:出雲市)に父・徳助の長男として生まれる。1920年(大正9年)早稲田大学大学部政治経済学科を卒業後、山下汽船に入社。その後、報知新聞記者、東京朝日新聞記者を務めた。 政界を志し法制局事務嘱託に就任。1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補し当選。農林大臣秘書官、日本大豆統制常任監査役を務めた。1940年(昭和15年)帝国油糧統制筆頭理事、太陽商社取締役となる。1946年(昭和21年)山陰日日新聞社長に就任。
冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 -… 冨永 格五郎(とみなが かくごろう、1894年9月23日 - 1954年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 北海道出身。1915年旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)卒。函館市議、北海道議を経て、北海商報社代表取締役、函館水産物、巴冷蔵各(株)社長などを務める。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で北海道1区(大選挙区制)から立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道3区から立候補して初当選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して当選した。この間衆議院水産委員長や民主自由党総務を歴任した。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。
中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明… 中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明治27年)9月23日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。位階は従五位。 高知県高岡郡西津野村越知面(檮原村を経て現檮原町)で、中越義隆、光子の二男として生まれる。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業。1921年(大正10年)家督を相続した。農業を営む。 檮原村農会技手に就任。その後青年学校教員となる。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた。
中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 19… 中島 慶次(なかじま けいじ、1894年9月20日 - 1973年10月16日)は、王子製紙(現・王子ホールディングス)元社長、紙の博物館初代理事長。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校を経て東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業後、初代王子製紙へ入社。1946年、足立正の後任として社長に就任。1949年の初代王子製紙の解体後は、後継会社の苫小牧製紙(現・王子ホールディングス)の社長に就任。1967年に会長に異動するまで社長職に就いた。出身校の一橋大学の組織に当る如水会第14・15代会長も務めた(1961年 - 1966年)。 1973年10月16日、栗山町の王子製紙の林木育種研究所の訪問中に倒れ死去。
荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 19… 荻原 豊次(おぎわら とよじ、1894年9月20日 - 1978年2月10日)は、日本の篤農家。 長野県北佐久郡東長倉村(現軽井沢町)生まれ。尋常小学校卒業後、農業に従事し、軽井沢町会議員などを務める。昭和7年(1932年)、野菜の温床苗代に伸びていたイネ苗を発見し、これをきっけに高冷地のイネの育苗法や冷害対策研究に没頭し、水苗代の改良に取り組み、委託苗代や、温床苗代、水陸折衷苗代等の試作を重ねた末、イネを早植をすることで冷温による障害やイモチ病への抵抗力が高まることを発見し、昭和17年(1942年)には、種を撒いた苗代の上に油紙を置いて地温を上昇させ、発芽時期を早める「保温折衷苗代」を考案し、同年農林大臣より食糧増産功労者として顕彰された。
高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 196… 高木 作太(たかぎ さくた、1894年9月19日 - 1966年1月31日)は日本の実業家。 現在の熊本県玉名市に生まれる。熊本県立玉名中学校(1913年卒業)を経て、[要出典]1917年に神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業した。 1917年、三菱合資会社に入社して炭鉱部に所属し、翌年三菱鉱業が設立されると移籍した。1950年に社長に就任する。武甲セメントでも社長を務めた。 社外では日本石炭協会会長のほか、経済団体連合会や日本経営者団体連盟(いずれも日本経済団体連合会の前身)の理事などを歴任した。
浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月… 浅野 三千三(あさの みちぞう、1894年(明治27年)9月18日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の薬学者、化学者である。 千葉県の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、同大学の教授だった朝比奈泰彦に師事し薬学の研究に携わった。卒業後は金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)の薬学専攻の教授となり、後に薬学の研究及び留学のためドイツに移住し、フライブルク大学に入り同大学の教授だったハインリッヒ・ヴィーラントから学ぶ。帰国後は主に生化学の研究について学び、1938年(昭和13年)に母校の帝大の伝染病研究所における化学部長及び教授となった。 その後は薬学博士を取得し、結核菌等の感染症の化学療法剤や脂肪酸の合成及び5型の分離、ベンゾキノン等の植物色素、地衣成分等の多くの研究に携わり、特にジフテリア菌の脂肪酸やピルビン酸系地の色素の研究に関してはこの業績により後に受賞している。
中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894… 中村 三之丞(中村 三之烝、なかむら さんのじょう、1894年〈明治27年〉9月18日 - 1979年〈昭和54年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、衆議院議員を歴任。 京都府出身。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業。大蔵大臣秘書官等を経て、1932年(昭和7年)立憲民政党公認で第18回衆議院議員総選挙に立候補し当選した。以後通算当選8回。1937年(昭和12年)第1次近衛内閣の大蔵参与官となる。戦前は永井柳太郎に近く、1940年(昭和15年)の新体制運動に際しては民政党が解党する前に永井らと民政党を離党、大政翼賛会に合流した。政党解消後は翼賛議員同盟には参加せず中間派の議員倶楽部に所属したが、1942年(昭和17年)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選した。
鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - … 鈴木 栄太郎(すずき えいたろう、1894年9月17日 - 1966年9月20日)は日本の社会学者。農村社会学・都市社会学の泰斗。自然村対行政村の概念を提示。
山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16… 山崎 巌(やまざき いわお、1894年〈明治27年〉9月16日 - 1968年〈昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚、政治家。内務三役(警保局長、警視総監、内務次官)を経て政界入りし、内務大臣、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任した。正三位。勲一等。農林大臣・逓信大臣の山崎達之輔は実兄。 福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。 同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。
井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 197… 井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 1974年2月6日)は、日本の経済学者。専門は財政学。経済学博士。正三位勲一等瑞宝章。 海軍経理学校教授、一橋大学学長、日本学士院会員、自治庁参与、大蔵省税制特別調査会会長、日本ホッケー協会理事、大学基準協会常任理事などを歴任した。 京都市出身。京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1918年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1920年同校専攻部貿易科卒業。福田徳三教授に師事。1920年東京商科大学(現一橋大学)助手、1910年東京商科大学附属商学専門部講師。1922年から財政学の内池廉吉教授に師事。1935年東京商科大学より経済学博士の学位を取得。
小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 19… 小倉 ミチヨ(おぐら みちよ、1894年9月14日 - 1967年7月10日)は、日本の性文化研究者。夫の小倉清三郎とともに性の研究雑誌『相対』を発行し、自らも記事を多数執筆した。猥褻文書出版販売違反で逮捕された際、阿部定の隣室になり、『阿部定隣室観察十日間』を執筆。晩年は精神異常者とみなされて収監され、精神病院で亡くなった。旧姓坂本、本名は道代。弟に作家の坂本石創がいる。 1894年に愛媛県西宇和郡川之石町(現・八幡浜市)の農家に生まれる。小学校を卒業すると従兄と結婚させられたが、5年後に離婚し、松山技芸女学校(現・済美高等学校)へ進学。1917年に小学校教員になる。翌年上京し、東京女子専門学校(現・東京家政大学)へ入学。
岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 -… 岩瀬 英一郎(いわせ えいいちろう、1894年9月13日 - 1963年3月22日)は、日本の経営者。三越社長を務めた。 神奈川県出身。1918年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に三井銀行に入行。 1938年に東京電燈常務に就任し、1942年に関東配電理事を経て、1943年6月に三越社長に就任。 1963年3月22日、死去。68歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月… 徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年〈明治27年〉9月12日 - 1953年〈昭和28年〉10月14日)は、日本の政治運動家、共産主義者、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代から戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。 沖縄県国頭方名護間切(現:沖縄県名護市)で、鹿児島の豪商の庶子であった父とウチナーンチュの母の間に生まれる。家は沖縄の中にあっては裕福で、「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。母方の祖母は高利貸しと泥藍売りを営み、徳田もこの稼業を手伝っていたが、強欲な祖母に反発して「お金を借りてはだめだ」と借りに来た者に対して注意するなど、正義感が強い子供であった。
奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)… 奥 主一郎(奧、おく しゅいちろう、1894年(明治27年)9月12日 - 1976年(昭和51年)11月22日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。 京都府出身。政治家・奥繁三郎の長男として生まれる。1919年(大正8年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。同年、三井銀行に入行した。 以後、京都倉庫社長、京都瓦斯副社長、愛宕山鉄道監査役、渡良瀬水電監査役、帝国瓦斯協会(現日本ガス協会)参事、丸物百貨店取締役、山城八幡銀行取締役、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン)取締役、大日本政治会京都支部幹事長などを務めた。 1942年(昭和17年)京都府多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年5月19日に就任し、交友倶楽部に属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - … 渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - 1972年2月26日)は、大正・昭和期の歌人。 富山県富山市に生まれる。士族の家柄で、祖父は富山藩砲術指南である。しかし家は維新後に没落。父は小学校の校長を勤めたが、精神病を患い順三が12歳のときに亡くなった。姉夫婦の援助で富山中学校に進学するが、他人の世話になることを好まない母の方針により三ヶ月で中退し、母とともに上京して、神田の家具店に住み込みで働き始めた。母は東京控訴院検事長河村善益の家の住み込み女中となった。 1910年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、その後遺症で左耳の聴覚を失う。1913年頃から「時事新報」の窪田空穂選歌欄へ投稿を始め、「国民文学」創刊にも参加し、空穂に師事する。
島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月… 島村 一郎(しまむら いちろう、1894年(明治27年)9月7日 - 1977年(昭和52年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員。正三位勲一等。 自由民主党元衆議院議員島村宜伸は六男。 東京府南葛飾郡小松川町平井(現在の東京都江戸川区平井)に生まれる。 中央大学中退。小松川町会議員、小松川町長、東京府議、江戸川区会議長、東京市議、同都議などを経て大蔵大臣秘書官となった。 昭和21年(1946年)東京1区(のち東京6区→10区)から立候補し、次点となるが、鳩山一郎の公職追放による繰上当選となり、衆院議員となる。以来連続当選12回。 1955年(昭和30年)第2次鳩山内閣の通商産業政務次官。衆院大蔵、商工、懲罰、東京オリンピック大会準備促進特別委員長を歴任。
笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月… 笹川 久吾(ささがわ きゅうご、1894年〈明治27年〉9月5日 - 1968年〈昭和43年〉5月16日)は、日本の生理学者、医師。医学博士。京都大学名誉教授、日本生理学会特別会員、日本体力医学会名誉会員。日本鍼灸学会初代会長。 新潟県西蒲原郡金巻村大字大野町(現 新潟市西区大野町)出身。1914年(大正3年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第四高等学校を卒業、1923年(大正12年)6月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。 1925年(大正14年)6月に京都帝国大学医学部生理学第二講座(担任:石川日出鶴丸教授)助手に就任、1928年(昭和3年)11月に大阪高等医学専門学校教授に就任、1929年(昭和4年)6月に京都帝国大学から医学博士号を取得。
小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年… 小石 雄治(こいし ゆうじ、1894年9月5日- 1984年1月28日 )は、日本の経営者。ダイハツ工業社長、会長を務めた。島根県浜田市出身。 1912年3月、旧制浜田中学(現在 島根県立浜田高等学校)卒業、1917年に大阪高等工業学校機械科(現在、大阪大学)を卒業し、同年にダイハツ工業の前身である発動機製造に入社。1939年2月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1950年12月にダイハツ工業社長に就任し、軽三輪車や電気自動車の開発に着手し、1967年にトヨタ自動車との業務提携を結ぶなど同社発展の礎を築いていた。1968年に会長を務め、1971年12月から相談役を務めた。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等旭日重光章を受章した。
末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989… 末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の社会保障学者、商学博士。生命保険修士会名誉会長ならびに生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。 上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。 松平信生(長州征伐に旗頭として参加した松平左金吾の十一男)の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父である信生(のぶなり)が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父、信生は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営むが、チフスで急逝した。
大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9… 大泉 寛三(おおいずみ かんぞう、1894年(明治27年)9月4日 - 1981年(昭和56年)2月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。参議院議員(1期)。 山形県北村山郡玉野村(尾花沢町を経て現尾花沢市)出身。 独学し、1917年(大正6年)川口町(現川口市)に大泉工場(機械鉄鋼場)を創業。1921年(大正10年)立憲政友会に入党し、その後、川口町会議員、同町会議長、同町助役、川口市会議員、同市参事会員、同市助役などを務めた。 1940年(昭和15年)10月、埼玉県立川口工業高等学校設備拡充費として1万円寄付により1941年(昭和16年)9月13日紺綬褒章受章。1941年12月、川口市役所備品として乗用車1台寄付により1942年(昭和17年)4月28日紺綬褒章受章(飾版)。
石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 … 石川 愛(いしかわ あい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1990年〈平成2年〉7月7日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 埼玉県出身。旧制熊谷中学を経て、1915年(大正4年)、陸軍士官学校第27期卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)、陸軍大学校第39期卒業。 1937年(昭和12年)8月に陸軍士官学校航空兵科教官を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍航空兵大佐に進級。支那事変が勃発すると同年10月に第4飛行団参謀および1939年(昭和14年)1月に第21軍参謀を兼職し、ついで同年5月に第21独立飛行隊長を務めた。翌年、1940年(昭和15年)8月に陸軍航空士官学校教授部長を経て、1941年(昭和16年)10月に陸軍少将に進級。
正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3… 正田 卯平(しょうだ うへい、1894年〈明治27年〉9月3日 - 1979年〈昭和54年〉)は、日本の実業家、政治家。前名は茂三郎。群馬県購連理事。群馬県自動車合同副社長。群馬県石油配給、館林航器各取締役。前橋日産モーター取締役会長。町会議員。正田卯平商店。雑貨商。米屋、荒物商。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。卯平の二男。前名・茂三郎を改め襲名した。早大商科修業。父業に従事した。町学務委員、館林信組理事であった。1949年(昭和24年)館林商工会議所会頭に就任。館林交通安全協会会長も務めた。 宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、柔道。住所は館林谷越。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。