二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年… 二宮 哲三(にのみや てつぞう、1870年5月7日〈明治3年4月7日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月27日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。福島県福島市長。 二宮直躬の長男として、のちの福島市柳町に生まれる。福島小学校に入学し、途中教育改革を経て、1884年(明治17年)福島高等小学校高等科を卒業。上京し、私立大学予備学校に入り、1887年(明治20年)5月、獨逸学協会学校に入学した。同普通科を卒業し、1890年(明治23年)9月、専修科に入学し、政治経済学を学び、1893年(明治26年)7月に卒業した。同年12月、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊第7中隊に入り、1894年(明治27年)日清戦争が勃発すると同年12月に臨時召集を受け、翌年8月に陸軍歩兵少尉に進み、12月に召集解除となった。
野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈… 野沢 悌吾(野澤 悌吾、のざわ ていご、1870年5月6日〈明治3年4月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉8月5日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県平民・野澤瀧右衛門の長男として生まれ、1901年(明治34年)2月に家督を相続した。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。1899年(明治32年)陸軍大学校第13期卒業。 1904年(明治37年)3月、袁世凱に招聘され清に渡る。1910年(明治43年)11月に陸軍歩兵大佐・歩兵第30連隊長、1912年(大正元年)11月に第2師団参謀長を経て、1916年(大正5年)4月に陸軍少将・歩兵第14旅団長に任官。
川口 木七郎(かわぐち きしちろう、1870年5月5日(明治… 川口 木七郎(かわぐち きしちろう、1870年5月5日(明治3年4月5日)- 1937年(昭和12年)10月17日)は、明治から昭和前期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 播磨国飾西郡書写村(兵庫県飾西郡曽左村、飾磨郡曽左村を経て現姫路市)で、大地主で代々里正を務めた醤油醸造業、川口家先代当主・川口木七郎、つた の長男として生れ、1881年(明治14年)8月、家督を相続し木七郎を襲名した。漢学を修め、のち神戸で外国人教師から英語、フランス語を学んだ。 家業の醤油醸造業を営み、山陽醤油社長、神戸信託取締役、姫路三十八銀行取締役、姫路銀行取締役、飾磨銀行取締役、神栄生糸取締役、飾磨郡素麺製造販売組合長などを務めた。
安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治… 安川 雄之助(やすかわ ゆうのすけ、1870年5月4日(明治3年4月4日) - 1944年(昭和19年)2月13日)は日本の実業家。東洋拓殖総裁、三井合名会社理事。 1870年(明治3年)4月4日、京都府南桑田郡篠村(現・亀岡市)に生まれる。第三高等学校に入学するも、大阪商業学校(大阪市立天王寺商業高等学校および大阪市立大学の前身)に転じ、1890年(明治23年)に卒業する。卒業後、三井物産に入社し、天津支店長、満洲営業部長、大連支店長を経て、1914年(大正3年)に本店営業部長となる。1918年(大正7年)に取締役、同年さらに南条金雄、武村貞一郎とともに常務取締役となり、1924年(大正13年)に筆頭常務に就任する。
降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5… 降矢 芳郎(ふるや よしろう、明治3年4月2日(1870年5月2日) - 昭和12年(1937年)10月11日)は、日本の電気工学者。工学博士(1907年)。旧姓は増田。 信濃国小県郡泉田村(現長野県上田市)生まれ。明治27年(1894年)旧制第一高等中学校卒業、東京帝国大学電気工学科に進学し、明治31年(1898年)7月に卒業。逓信省鉄道作業局に就職するがすぐに退職し、明治32年から同35年にかけて故郷長野県において松本・諏訪・上田の電灯敷設に従事した。明治36年(1903年)から3年間文部省留学生として欧米に派遣され、スイスのチューリッヒ大学のウェーバー教授主宰の電気研究所で約1年間蓄電池に関する研究を行った。
湯地 幸平(ゆち こうへい、1870年5月2日(明治3年4月… 湯地 幸平(ゆち こうへい、1870年5月2日(明治3年4月2日)- 1931年(昭和6年)8月10日)は、日本の文部・内務官僚、政治家。福井県知事、貴族院議員。 日向国出身。湯地貞吉の長男として生まれる。東京師範学校、日本法律学校を経て、1902年、明治法律学校を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。文部省に入り普通学務局属となる。 以後、茨城県視学官、同県第二部長、鹿児島県事務官・第四部長、福岡県事務官、三重県内務部長、警視庁警視、同官房主事、愛知県内務部長などを歴任。 1915年12月、台湾総督府警視総長に就任。1919年4月、福井県知事に転じ、敦賀港改修計画を推進した。1921年5月、内務省警保局長に就任。
濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4… 濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁(初代)などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。大日本帝国憲法下で、衆議院から総理大臣となった3人のうちの1人である。 1870年5月1日(明治3年4月1日)、土佐国長岡郡池村唐谷(のちの五台山村を経て現:高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。 1889年(明治22年)、高知県安芸郡田野村(現:田野町)の素封家・濱口義立の16歳の長女・夏と結婚し、濱口家の養嗣子となる。
野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年… 野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年4月30日) - 大正8年(1919年)8月28日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 丹波国氷上郡和田村(現在の兵庫県丹波市)出身。1896年(明治29年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業すると、司法官試補として神戸区裁判所に配属された。1898年(明治31年)に検事となり、1900年(明治33年)には判事となった。1901年(明治34年)に退官すると、神戸市で弁護士事務所を開き、神戸弁護士会会長も務めた。 神戸市会議員を経て、1910年(明治43年)の衆議院議員補欠選挙に当選。以後、4回の当選回数を数えた。
川合 貞一(かわい ていいち、1870年4月29日〈明治3年… 川合 貞一(かわい ていいち、1870年4月29日〈明治3年旧暦3月29日〉 - 1955年〈昭和30年〉6月19日)は、日本の哲学者、心理学者。文学博士。慶應義塾大学名誉教授。初代慶應義塾大学文学部長、第2代原理日本社会長。実験心理学者ヴィルヘルム・ヴントの弟子。 美濃国安八郡(現・岐阜県大垣市)に、源十郎の長男として生まれる。明治25年(1892年)に第一回卒業生として慶應義塾大学部文学科を卒業する。 新潟県尋常師範学校教授を経て明治29年(1896年)より慶應義塾大学部文学科の教授となる。明治31年(1898年)に慶應義塾が行った第1回のドイツ留学生として選抜され、ドイツのフリードリヒ・シラー大学イェーナ、ライプツィヒ大学で研究生となる。
渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(18… 渋谷 徳三郎(しぶや とくさぶろう、明治3年3月20日(1870年4月20日) - 昭和25年(1950年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。東京市の各区長や、仙台市長などを歴任した。 教育行政への造詣が深かったことから、仙台市長時代には「教育市長」、また町村合併や産業振興などから、「仙台中興の祖」とも呼ばれた。 宮城県黒川郡大松沢村(現・大郷町)生まれ。渋谷吉三郎の長男。 宮城師範学校(現在の宮城教育大学)を卒業後、宮城県内で教員を務めたのち上京、1906年に日本大学(法科)を卒業した。大学卒業後は文部省に入省、普通学務局第一課長、東京市教育課長職を経て、小石川区(現在の文京区)、麹町区(現在の千代田区)、京橋区(現在の中央区)の、それぞれ区長を歴任した。
白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870… 白石 大蔵(しらいし だいぞう、明治3年3月19日(1870年4月19日) - 1941年(昭和16年)9月9日)は、明治から昭和時代前期の政治家。愛媛県温泉郡素鵞村長、松山市長。愛媛県議会議員。 愛媛県温泉郡枝松村(現・松山市枝松)で生まれる。1891年(明治24年)素鵞村収入役、1907年(明治40年)同村長を経て、1915年(大正4年)9月、県会議員に当選。1期在職した。1931年(昭和6年)1月に松山市収入役を経て、1933年(昭和8年)5月11日に同市長に就任したが、同年11月に病気を理由に退任した。
園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3… 園部 秀雄(そのべ ひでお、1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)は、女性武道家。直心影流薙刀術第15代宗家。大日本武徳会薙刀術範士。 93歳で死去するまでの生涯で敗北した試合は2回のみといわれる。近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。 仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として現在の宮城県大崎市に誕生する。幼名は「たりた」。これは跡継ぎの誕生を望んでいた父親が、「もう女は足りた」という嘆きから名づけたという。幼い頃から父親の馬を勝手に乗り回すほど活発な少女であったという。 1886年(明治19年)、直心影流剣術の榊原鍵吉門人であった佐竹鑑柳斎(観柳齋)がたりたの住む町で撃剣興行を行う。
鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(187… 鵜崎 庚午郎(うざき こうごろう、明治3年3月17日(1870年4月17日) - 昭和5年(1930年)4月3日)は、明治時代から昭和時代初期の日本の牧師である。 1870年に播磨国飾磨郡姫路町元町(現・兵庫県姫路市)に、姫路藩士で漢学者の鵜崎久平の子として生まれる。1887年、アメリカ南メソヂスト監督教会宣教師のウォルター・R・ランバスから洗礼をうける。献身して関西学院に入学してJ.C.C.ニュートン宣教師に育てられる。メソジストの神戸・広島・大阪・京都で伝道をする。 第三高等学校教授、関西学院教授になり、1912年に日本メソジスト教会機関誌『護教』主筆。1914年には鎮西学院の院長に就任して。
東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870… 東川 徳治(ひがしかわ とくじ、明治3年3月16日(1870年4月16日) - 1938年(昭和13年))は戦前日本の中国法制史学者。臨時台湾旧慣調査会補助委員、法政大学講師、東北帝国大学附属図書館事務嘱託。大町桂月と親交があった。 明治3年(1870年)3月16日土佐国(高知県)に生まれた。1881年(明治14年)小学校を卒業して佐川村に移り、佐川中学分校に入学した。1883年(明治16年)廃校後、伊藤蘭林・山本迂斎に漢学を学んだ。1886年(明治19年)高知に出て、奥宮暁峰・松下武重に経学を学んだ。 1888年(明治21年)大坂に出て、梅清処塾で山本梅崖に古文辞学・英学・数学を学び、1889年(明治22年)塾長となった。
橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1… 橋口 信助(はしぐち しんすけ、1870年4月16日 - 1928年2月16日)は、日本の実業家である。住宅メーカーである「あめりか屋」の創業者。 1870年4月16日(明治3年3月16日)、宮崎県南那珂郡飫肥町大字板敷で、橋口善吉と妻・トメの間に生まれる。1885年(明治18年)9月に東京商業学校に入学するも、半年後の1886年(明治19年)2月に中退し、郷里に戻り父を助けて鉱山業に従事する。橋口は石炭採掘業のほか、木材伐採業などにも手を出していたようであるが、いずれも失敗し、義理の従兄弟にあたる小村寿太郎を頼り、再び上京する。明治20年代に、妻・マツと結婚する。マツとの間には4人の子どもを設けた。
崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(18… 崎川 才四郎(さきかわ さいしろう、明治3年3月15日(1870年4月15日) - 昭和31年(1956年)12月4日)は、日本の農商務官僚、商工官僚。 肥前国小城郡岩松村(現在の佐賀県小城市)出身。崎川幸親の長男。第二高等学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務属、同参事官、同書記官、山林局書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、特許局長、鉱山局長を歴任した。1923年(大正12年)に特許局長官に就任し、1930年(昭和5年)5月には親任官待遇を受けた。 同年7月に退官した後は、北樺太石油株式会社取締役、東洋窒素工業株式会社顧問を務めた。
川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日… 川嶋 庄一郎(かわしま しょういちろう、1870年4月14日 - 1947年2月12日)は、日本の教育者。学習院教授兼初等学科長、佐賀県師範学校校長、奈良県師範学校校長、和歌山市視学などの職を歴任した。位階勲等は正五位勲五等。文仁親王妃紀子の曾祖父である。 姓の表記に関しては、文書においては「川島」とされる例が多いが、戸籍では「川嶋」である。 1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)の農業・松浦平吉(? - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は かつ(1838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - ?)である。
鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1… 鹿又 武三郎(かのまた たけさぶろう、明治3年3月13日(1870年4月13日) - 1933年(昭和8年))は、仙台市長。検事。弁護士。 仙台出身。1895年(明治28年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格した。1898年(明治30年)、湯沢区裁判所検事となり、奈良地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事、名古屋地方裁判所検事、富山地方裁判所検事正、名古屋控訴院検事、旭川地方裁判所検事正などを歴任した。 1919年(大正8年)、仙台市長に就任し、2期8年務めた。3期目を目指した1927年(昭和2年)8月の仙台市長選挙では、市会(市議会)投票において13票を獲得するも、15票を獲得した山口龍之助に及ばず落選した(当時の市長は公選ではなかった)。
庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3… 庄 晋太郎(しょう しんたろう、1870年4月11日(明治3年3月11日) - 1939年(昭和14年)9月14日)は、日本の清酒醸造家、政治家。衆議院議員(山口県第一区選出、当選回数は4回)。沖ノ山炭鉱相談役。山口県水産会長。宇部商工会議所副会頭。族籍は山口県士族。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。庄俊輔の長男。家は代々毛利家の宿老福原家の臣で、父は維新の際勤王の志士であった。 1891年(明治24年)、明治法律学校(現・明治大学)卒業。酒造業を営む。山陽採炭常務取締役、長陽炭鉱、神原炭鉱、沖ノ山炭鉱、宇部銀行、宇部鉄道、宇部セメント製造各重役である。 宇部村会議員、宇部市会議員、同参事会員、山口県会議員、同議長となる。
山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870… 山崎 直方(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。専門は地形学であるが、人文地理学でも功績がある。
松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3… 松崎 壽三(まつざき としぞう、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1960年(昭和35年)11月25日)は、明治後期から昭和前期の官僚、実業家。初代日本水産社長。 山口県出身。松崎源左衛門の長男として生まれた。旧制山口高等学校卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学(現:東京大学法学部)政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、同年農商務省に入省し農務局属に任官。以後、水産講習所技師兼農商務省参事官、農商務書記官兼特許局審判官兼樺太庁事務官、農商務書記官・水産局漁政課長、水産局長などを歴任。1917年(大正6年)に退官した。 1919年(大正8年)9月27日、「共同漁業株式会社」(現・日本水産)の社長として就任。
杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3… 杉 贋阿弥(すぎ がんあみ、1870年4月10日(明治3年3月10日) - 1917年(大正6年)5月13日)は、日本の明治・大正期の劇評家。本名は諦一郎。 備中国阿哲郡野馳村(現、岡山県新見市哲西町)に生まれた。幼少期から漢文を学ぶ一方で、芝居に親しんだ。 1886年(明治19年)(16歳)、上京して明治法律学校に入学し、中退した。郷土の先輩犬養毅の手配で、犬養がいた朝野新聞に入社し、郵便報知新聞に移り、1894年から歌舞伎の劇評を書いた。 演劇雑誌が少なく、新聞紙上の劇評が読まれる時代だった。贋阿弥の評は媚びなくて、松居松葉・岡鬼太郎と共に『三暴れ』と称され、興行側から脅される事もあったと言う。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年… 塩川 賢三(しおかわ けんぞう、1870年4月5日〈明治3年3月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家。深志倉庫社長。六十三銀行常務取締役。軽井沢ホテル、東西商事各取締役。佐久貯蓄銀行監査役。族籍は長野県平民。 長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)出身。長野県平民・塩川仁助の二男。塩川幸太の弟。塩川三四郎の兄。後分家して一家を創立する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡三岡村(現・小諸市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月… 若名 英治(わかな えいじ、1870年4月4日(明治3年3月4日) - 1907年(明治40年)3月18日)は、日本の園芸家、アサガオ研究家。 上総国武射郡椎崎村(現在の千葉県山武市)の農家出身。東京専門学校(現・早稲田大学)卒業。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月… 加藤 本四郎(かとう もとしろう、1870年(明治3年)4月 - 1908年(明治41年)11月22日)は、明治時代の外交官。 豊後国玖珠郡森町(現在の大分県玖珠町)に生まれる。当地は明治に至るまで森藩の陣屋町であった。共立学校、第五高等学校を経て1895年7月、東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験に合格し、外務省に入省。領事館補となった。ロンドンの公使館に勤務していた際に南方熊楠と親しく交わった。その後蘇州、香港の各領事、1904年の日露戦争中には仁川領事を歴任した。1906年に天津総領事に就任し、1907年に奉天総領事となり、部下に吉田茂がいた。しかし在職中、病のため明治41年11月22日に39歳にて卒去。
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1… 正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、明治3年2月28日〈1870年3月29日〉 - 1961年〈昭和36年〉11月9日)は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。 日清製粉株式会社社長、東武鉄道株式会社会長、社団法人如水会理事長、貴族院議員などを歴任した。 上皇后美智子の祖父。今上天皇の曽祖父。 生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、館林の祖父・3代正田文右衛門の下で育てられた。 館林小学校を卒業。1884年(明治17年)上京し、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学。
伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明… 伊藤 恭之助(いとう きょうのすけ、1870年3月29日(明治3年2月28日)- 1938年(昭和13年)12月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、農業経営者、政治家。衆議院議員、第13代伊藤家当主。 出羽国仙北郡南楢岡村及位(秋田県仙北郡南楢岡村、南外村を経て現大仙市南外及位)で、肝煎、酒造業・伊藤重四郎の長男として生れた。神官・高橋村司の私塾で学び、その後、旧久保田藩士・半田忠蔵などに師事した。父の死去に伴い1888年(明治21年)4月に家督を相続した。当主となったため進学が不可能となり、書物によって独学した。 1894年(明治27年)南楢岡村会議員に選出され32年間在任。1897年(明治30年)8月、秋田県会議員に就任し連続7期在任し、同参事会員、仙北郡会議員も務めた。
吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2… 吉田 信太(よしだ しんた、1870年3月27日(明治3年2月26日) - 1954年12月24日)は、日本の音楽教師、作曲家。宮城県仙台市出身。1894年に東京音楽学校本科師範部卒業。横浜在住時にルドルフ・ディットリヒに師事。 東京音楽学校分教場、広島高等師範学校(1902年 - 1913年)、神奈川県立第一中学校、神奈川県立第三中学校、神奈川県立高等女学校、東京女子高等師範学校などで教鞭を執る。後に、神奈川県視学。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治… 堀江 覚治(覺治、ほりえ かくじ、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1930年(昭和5年)4月23日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・志賀。 陸奥国磐前郡、のちの福島県磐前郡鹿島村(石城郡鹿島村、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町)の志賀家に生まれる。1895年(明治28年)8月、伊達郡梁川村(梁川町を経て現伊達市梁川町)の堀江里の養子となり、1898年(明治31年)10月、家督を相続した。1890年(明治23年)慶應義塾大学部文科を卒業。 郷里の石川義塾(現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校)講師に就任。岐阜日日新聞(現岐阜新聞)から招聘され主筆となる。
田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年… 田中 定吉(たなか さだきち、1870年3月26日(明治3年2月25日)- 1929年(昭和4年)1月5日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・虚堂、俳号・笑蛙。 讃岐国香川郡高松紺屋町(現香川県高松市紺屋町)で、富豪・田中仁八郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、1892年(明治25年)専修学校理財科を卒業した。1893年(明治26年)3月、家督相続した。 帰郷して、高松銀行取締役を務めた。その他、高松商業会議所会頭、讃紙取締役、高松煉瓦取締役社長、第百十四銀行監査役、高松土地建物監査役、東京郊外土地監査役などに在任。また、讃岐実業新聞社の2代社長に就任し、讃岐日報社に改称して香川新報との競争を繰り広げた。
山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3… 山本 直良(やまもと なおよし、1870年3月26日(明治3年2月25日) - 1945年)は、日本の実業家。公爵岩倉具視家の元家扶、日本郵船など多くの企業の役員を務め、三笠ホテルを創業した。 小浜藩士で岩倉具視の側近だった山本直成の二男として生まれる。東京帝国大学農学部卒業後、千歳海上火災再保険に入社。日本郵船監査、明治製菓役員などの要職を歴任。1897年(明治30年)丁酉銀行創立に伴い頭取に就任した。 長野県北佐久郡軽井沢町に三笠ホテルを建設している。大正11年には、南米企業組合代表者として、山科礼蔵を団長とする南米実業視察団に参加、翌年帰国。 妻の山本愛は有島武郎の妹。息子のひとりが指揮者の山本直忠。
本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治… 本多 光太郎(ほんだ こうたろう、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1954年(昭和29年)2月12日)は、日本の物理学者、金属工学者(冶金学者)。鉄鋼及び金属に関する冶金学・材料物性学の研究を、日本はもとより世界に先駆けて創始した。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られる。文化勲章受章者。文化功労者。 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。長岡半太郎、鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。 KS鋼、新KS鋼はいずれもその発明当時世界最強の永久磁石であった。当時は磁石も特殊鋼の一種工具鋼(1913年に島根県の安来鉄鋼合資会社の伊部喜作らが国産初の合金化に成功)の一種である磁石鋼という名称になっており、工具鋼が鉄鋼材料で最も硬い部類に属するので、これが現代の硬質磁性材料と呼ばれる由縁である。
落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明… 落合 謙太郎(おちあい けんたろう、1870年3月22日(明治3年2月21日) - 1926年(大正15年)6月4日)は、明治期から大正期の日本の外交官。ポーツマス会議・パリ講和会議に随員として、またローザンヌ近東和平会議やローマでの移民国際会議には首席全権となるなど、重要な国際会議に日本を代表し出席した。奉天総領事館の総領事や、イタリア国特命全権大使等も歴任し、ローマからの帰国途上船中で病没した。 落合謙太郎は、1870年3月22日(明治3年2月21日)、近江国浅井郡川道村(後の滋賀県東浅井郡大郷村、現・長浜市川道町)に落合孝平と母といの長男として生まれた。父は京都で岩垣月洲に学んでおり、学友には坂下門外の変を起こした河本正安がいた。
松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3… 松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日) - 1933年(昭和8年)7月14日)は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。 父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。 1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城県尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。 1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び、1889年卒業した。
野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(… 野村 勘左衛門(のむら かんざえもん、1870年3月13日(明治3年2月12日) - 1951年(昭和31年)8月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福井県出身。1890年、東京専門学校政治科卒。日清、日露の両戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉となる。農業を営み、坂井郡会議員、福井県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、坂井郡教育会長、福井県教育会副会長、同県救済改良協会副会長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井3区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して落選した。1951年に死去した。
佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明… 佐藤 庄太郎(さとう しょうたろう、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1954年(昭和29年)4月29日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、福島県石城郡神谷村長。旧姓・渡辺、横山。 陸奥国磐城郡泉崎村(福島県石城郡草野村泉崎、平市を経て現いわき市平泉崎)で、庄屋・渡辺市重郎の三男として生まれる。同郡大野村の横山家の養子となるが、事情により1884年(明治17年)同郡神谷村大字中神谷(平市を経て現いわき市平中神谷)の農業、酒造業・佐藤昌三郎の養子となる。大野小学校を経て神谷小学校を卒業。平中学校に進むが、同校が郡山中学校と合併して廃校となり中退。同郡平窪村、室直養の培根塾に入り漢学を学んだ。
吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2… 吉國 マツ(よしくに マツ、1870年3月11日(明治3年2月10日)- 1979年4月11日)は長寿日本一であった女性。晩年は大分県に居住していた。 現在の山口市に生まれる。広島市に移って呉服商の一人娘として育つ。結婚するも離婚し、2度目の夫とは死別した。子供はなく、1945年に広島で被爆し、1948年から大分県別府市の別府老人ホームに入所していた。好き嫌いはなく果物を好み、酒もたしなんだ。106歳時点でもトイレも入浴も介助なしで行っていた。 1976年9月発表の全国高齢者名簿では8位であった。 1977年8月、大阪府の川平小梅の死去により、107歳で長寿日本一の女性となり、1978年、新潟県の佐藤増太郎の死去により長寿日本一となる。
中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月… 中馬 庚(ちゅうまん かなえ/ちゅうま かのえ、明治3年2月9日(1870年3月10日) - 昭和7年(1932年)3月21日)は、日本の教育者、元野球選手。
国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(187… 国富 友次郎(くにとみ ともじろう、明治3年2月3日(1870年3月4日) - 昭和28年(1953年)12月1日)は、日本の教育者。岡山市長。 備中国浅口郡鴨方(現在の岡山県浅口市)の高戸家に生まれ、岡山市の国富大三郎の養子となった。岡山県師範学校卒業後、岡山県下の小学校で校長を務めた。1904年(明治37年)に岡山実科女学校校長に就任し、1908年(明治41年)には岡山実科高等女学校(のち就実高等女学校に改称)を設立し、両校の校長を兼ねた。岡山県教育副会長、岡山市教育会長、帝国教育会理事を歴任。また県会議員、市会議員、同参事会員、同議長に選出された。 1941年(昭和16年)、岡山市長に就任し、1944年(昭和19年)まで務めた。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3… 血脇 守之助(ちわき もりのすけ、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 1947年(昭和22年)2月24日)は、日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世のパトロンとして知られる。
梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2… 梶原 熊雄(かじわら くまお、1870年3月2日(明治3年2月1日) - 没年不明)は、日本の発明家。旭光学工業(後のPENTAX)の創業者。 福岡県福岡薬研町(現・福岡市中央区天神)出身。旧制福岡中学校、京都画学校卒業。1894年(明治27年)から1906年(明治39年)まで宮崎県師範学校兼宮崎県立宮崎中学校教諭、佐賀県立第一中学校兼小城中学校教諭を歴任した。1906年に中国政府から招聘され蘇州高等師範学堂教習となり、1909年(明治42年)に南京高等学堂教習となり、1912年(明治45年)に辛亥革命が起きたため辞職し帰国した。 1919年(大正8年)に旭光学工業を創業した。
坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月… 坂 仲輔(さか なかすけ、明治3年1月29日(1870年3月1日) - 大正14年(1925年)8月14日)は、日本の内務官僚、実業家。茨城県知事、石川県知事、新潟県知事。 長州藩一門家老吉敷毛利家の家臣である坂新一の子として周防山口に生まれ、高等商業学校(のちの一橋大学)を矢野二郎排斥事件により中退し、会計検査院入庁。検査官補を務める。 内務省参事官、神奈川県事務官・第一部長兼第三部長などを経て、1908年10月、茨城県知事、1912年12月、石川県知事、1914年4月、新潟県知事を歴任。 1916年、藤田組常務理事、同年同社総務理事。1918年、小坂鉱山事務所長兼務。藤田銀行設立を決定。1916年に社長に進言し柵原鉱山の買収を決断させる。
五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日… 五所車 菊太郎(ごしょぐるま きくたろう、1870年3月1日(明治3年1月29日) - 1925年4月3日)は、千葉県夷隅郡江場土村(現在のいすみ市)出身で宮城野部屋、勝ノ浦部屋に所属した力士。6代宮城野。世話人。本名は佐久間 菊太郎。最高位は東前頭8枚目。 京都相撲に在籍経験がある。1896年1月初土俵、1906年1月十両昇進。1907年1月には高見山酉之助らとともに入幕を果たした。この時37歳。しかし、在位はわずかに4場所で、現役晩年は番付が次第に下がり、最終的には三段目にまで陥落してしまい、1913年5月に引退して親方業に専念(すでに二枚鑑札だった)。1916年1月には廃業し、世話人に転じた。
松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3… 松本 孝次郎(まつもと こうじろう、明治3年(1870年)3月 - 昭和7年(1932年)6月9日)は、日本の教育心理学者。 東京府東京市神田区で松本孝八の子として生まれる。1888年(明治21年)、第一高等中学校に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。同年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学し、1896年(明治29年)に卒業。同大学院で心理学を専攻し、元良勇次郎の指導を受けた。1899年(明治32年)、東京高等師範学校の講師となり、翌年には教授に就任した。また高島平三郎とともに雑誌『児童研究』を発行した。 1906年(明治39年)に両江師範学堂に総教習として招かれるが、辛亥革命後に帰国した。
月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(18… 月田 藤三郎(つきだ とうざぶろう、明治3年1月26日(1870年2月26日) - 昭和14年(1939年)1月7日)は、日本の農商務官僚。産業組合中央会会頭。農学博士。 上野国甘楽郡黒岩村(現在の群馬県富岡市)出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学農科大学農学科を卒業。農商務属・蚕業講習所技手となり、農事試験場技師・農商務技師、農政局耕地整理課長、農政課長、畜産課長・緬羊課長等を歴任。1924年(大正13年)に東京市区画整理局長に転じ、1926年(大正15年)まで在任した。 その後、産業組合中央会副会頭、同会頭、中央畜産会副会頭、大日本生糸販売組合連合会会長、購買組合共同会理事長、帝国耕地協会副会頭など多くの役職に就いた。
岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2… 岩村 透(いわむら とおる、明治3年1月25日〈1870年2月25日〉 - 大正6年〈1917年〉8月17日)は、明治後期から大正期の日本の美術批評家。東京美術学校教授。 東京小石川区生まれ。岩村家は土佐藩家老(宿毛領主)伊賀家の家臣で、父・岩村高俊は後に、愛媛県令、愛知県知事、貴族院議員などを務め、男爵となった。母・音瀬。 透は慶應義塾幼稚舎、同人社(中村正直の塾)、東京英和学校(後の青山学院)と進むが中途退学。1888年にアメリカに渡り、キングストンのワイオミング・セミナリー(英語版)およびニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインで、絵画と美術批評を学んだ。この頃アメリカに本多庸一もいてお互いに親交を深めた。
野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年… 野村 洋三(のむら ようぞう、1870年2月20日〈明治3年1月20日 〉 - 1965年〈昭和40年〉3月24日 )は、日本の実業家。元横浜商工会議所会頭。幼名は梅太郎。妻は社会活動家の野村ミチ。 1870年(明治3年)に岐阜県揖斐郡公郷村(現在の大野町)で、父平作、母きくの長男として生まれた。野村家は関ヶ原の合戦の落武者だったといわれ、農家だったが名字帯刀を許されていた。 1881年(明治14年)に岐阜中学校へ入学。外国への興味が高まり、中学をやめて外国へ留学するため東京で勉強したいと両親に願い出たが父親はそれを認めず、1884年(明治17年)に14歳で大阪へ出奔した。様々な職に就いて機会を窺っていたが、外国人と接する機会が多い古美術商に目をつけて京都に移り、池田清助が経営する池田商店に入った。
三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年… 三浦 逸平(みうら いっぺい、1870年2月18日(明治3年1月18日)- 1936年(昭和11年)11月12日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。 愛知県碧海郡刈谷町大字熊字元屋敷(現在の刈谷市)出身。材木商の三浦桂助の長男。いったんは三浦家の家業を継ぎ、1887年(明治20年)頃に家業を整理して上京。日本橋にある株屋の社員となり、株式仲買店を経営して財を成した。1909年(明治42年)9月5日には第10回衆議院議員総選挙の補欠選挙に出馬して当選。1913年(大正2年)1月には第11回衆議院議員総選挙に出馬して2選。三浦は豊田自動織機の工場を刈谷町に誘致するなどした。 1910年(明治43年)には三浦と才賀藤吉が主たる発起者となり、碧海軽便鉄道会社(軌間762mmで動力蒸気による鉄道)を設立。
清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15… 清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1943年〈昭和18年〉1月8日)は、日蓮宗の僧、立正大学の学長を務めた。 越前国(現・福井県越前市高木町)生まれ。幼名・才助、幼くして父母に死別、7歳の時鯖江一乗庵山本智光尼に引きとられ、武生市(現在の越前市)の聞法寺・藤岡日尊について得度した。和歌山感応寺南紀学林学頭・上木日令に師事。中山檀林、日蓮宗大檀林、祖山学院に入り、第1回の内地留学生として比叡山で天台を学ぶ。1904年東京大崎に日蓮宗大学林(現・立正大学)が移転すると教授に就任。本山日本寺晋山。1929年立正大学学長、1935年から1941年まで学長。