矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。
1884年(明治17年)生まれ:422人
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。
安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8… 安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、日本の逓信官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛知県名古屋市出身。安達知道の二男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。逓信属、逓信管理局事務官、逓信書記官、高等海員審判所理事官などを歴任。1920年(大正9年)、国際労働機関事務局職員となる。1923年(大正12年)に帰国後は、帝都復興院物資供給課長を務めた後、朝鮮総督府土地改良部長に転じ、さらに咸鏡北道知事に就いた。 1930年(昭和5年)に退官した後は、台湾電力株式会社副社長、台湾電化株式会社取締役、日本アルミニウム株式会社監査役、朝鮮蛍石株式会社社長、日本鉱業株式会社取締役、帝国石油資源開発株式会社取締役、朝鮮日産化学株式会社社長などを務めた。
矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年… 矢野 真(やの まこと、1884年8月19日 - 1962年2月4日)は、日本の外交官。 矢野真三郎の三男として、福岡県朝倉郡(後の朝倉市)に生まれる。炭鉱経営者の篤志家佐藤慶太郎の無条件の奨学金支援によって、福岡県立中学修猷館、東京府立第一中学校を経て、1907年(明治40年)、第一高等学校英法科を首席で卒業し、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する(銀時計)。 1911年(明治44年)、高等文官試験行政科を首席合格して東京府試補となり、翌1912年、オックスフォード大学に留学。1913年(大正2年)に帰国して高等文官試験外交科を首席合格し、1914年(大正3年)、外交官補としてイギリスに在勤する。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月1… 川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 長野県臼田町(現:佐久市)に川村兵次郎・せむの三男として生まれる。遠縁である水彩画家・丸山晩霞などの影響により芸術家を志し、明治37年(1904年)渡米して彫刻の勉強をする。明治42年(1910年)フランスへ渡り、仏国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ入学。成績優秀で特待生となる。この間、オーギュスト・ロダンに助手の勧誘を受けるが、考え方の相違でこれを断りアメリカ人彫刻家フレデリック・マクモニスの助手となる。
渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日… 渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日 - 1973年〈昭和48年〉12月13日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長(第6代)。宮中顧問官。貴族院勅選議員。文献によっては渡辺 信あるいは渡邊 信と表記される。位階・勲等は、正三位勲一等。 下野国壬生藩(栃木県下都賀郡壬生町)出身で日光二荒山神社や三嶋大社の宮司を務めた渡邊邁の二男として生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業。逓信書記官、東京帝国大学法科大学講師を経て、宮内省式部官となり、内務参事官や外務書記官を兼ねた。さらに宮内省参事官、内大臣府御用掛、大臣官房文書課長、 宗秩寮審議官、図書頭・諸陵頭、帝室博物館総長(現東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館の総称)、宮中顧問官、日仏協会理事を歴任した。
三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日… 三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日 - 1956年(昭和31年)7月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。 鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。1917年に衆議院議員となり、一時疑獄事件で失脚するも復帰。1945年に鳩山一郎らと日本自由党を結成するが公職追放。1952年政界に復帰。1954年反吉田勢力をまとめて日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現させる。さらに1955年の保守合同、自民党成立に尽力した。 寝業師型、調整型の代表的な政治家として知られる。 同姓で名前も似ている三木武夫とは縁戚関係にはない。
今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)… 今井 茂右衛門 (いまい もえもん、明治17年(1884年)8月13日 - 昭和44年(1969年)2月18日)は、山梨県出身の実業家。官選第19代・民選初代甲府市長。 山梨県甲府市魚町(現在の甲府市中央三丁目)に、父「茂右衛門」、母「ゆき」の長男として生まれる。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、家業の魚問屋に従事した。 大正13年(1924年)2月11日に市政刷新を目指して甲府革新党の結党が企図され、今井は高野孫左衛門(高野毅)、牛山儀助ら同志とともに参加する。大正15年(1926年)5月28日の選挙で甲府市議会議員(在任期間:大正15年(1926年)5月28日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に当選し、昭和5年(1930年)6月には甲府市議会議長(議長在任期間:昭和5年(1930年)6月7日 - 昭和9年(1934年)5月27日)に就任している。
穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8… 穂積 律之助(ほずみ りつのすけ、1884年(明治17年)8月13日 – 1959年(昭和34年)2月23日)は、日本の工学者、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍造船少将。
神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 19… 神崎 驥一(かんざき きいち、1884年8月10日 - 1959年4月16日)は、日本の教育者。関西学院大学商経学部教授、関西学院大学第4代学長、同学院院長(第5代、1940年〜1950年)などを歴任した。 1884年8月10日、東京麹町に生まれる。1901年、関西学院普通学部を卒業。カリフォルニア大学に留学し、同大学院に進学する。歴史学と政治学を学んだ後、在米日本人会書記長に就任。吉岡美國第2代院長の娘婿となり、1921年、高等商業学部長就任のために帰国。大学開設に伴い、大学商経学部長を兼任、高等商業学部、大学の教授でもあった。ベーツ院長の離日後、1940年から1950年の10年間、第5代院長を務めた。
松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10… 松下 元(まつした はじめ、1884年〈明治17年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉12月1日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。「五省」の考案者。 福岡県出身。松下丈吉の長男として生れる。中学明善校を経て、1903年12月、海軍兵学校(31期)を卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。日露戦争では「松島」乗組として出征し、日本海海戦では「八雲」乗組であった。1910年5月、海軍砲術学校高等科を卒業。「高雄」砲術長、「薩摩」分隊長、第1艦隊参謀などを歴任し、1914年5月、海軍大学校(甲種12期)を卒業した。 「阿蘇」砲術長、艦政局局員、イギリス出張、第4戦隊参謀などを経て、1921年1月、海相秘書官兼副官となり、加藤友三郎大臣に仕えた。
島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 19… 島村 盛助(しまむら もりすけ、1884年8月9日 - 1952年4月22日)は、日本の英文学者、翻訳家、小説家、辞書編集者、教育者。号は苳三(とうぞう)。『岩波英和辞典』を刊行した。 1884年(明治17年)、埼玉県南埼玉郡百間中村(現:宮代町字中)村長の島村繁と、越谷の能楽師の家系の出身である津ねの夫妻の長男として生まれる。弟が2人、妹が4人いたという。 生家は江戸時代初期から百問中村の名主を務めた武士の家であった。盛助の曽祖父の貴英は1817年(天保8年)に俳諧結社多少庵の第4代庵主となり(号は鬼吉)、祖父の梅年、父の繁もその庵主を引き継いだ。父の繁は直心影流の免許皆伝を得て剣術道場を開いた剣術家でもあり、1906年(明治36年)には百間村の村長となった。
横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日-… 横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日- 1950年(昭和25年))は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の長男として生れる。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷は長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4… 田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年〈明治17年〉8月4日 - 1972年〈昭和47年〉9月22日)は、日本の英文学者・登山家。 富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ。田部家と養子縁組したが旧姓は南日で、長兄の英語教育者南日恒太郎、次兄の英文学者田部隆次、と共に南日三兄弟と呼ばれる。玄孫に建築家の永山祐子がいる。 1897年富山中学校入学(14回生)、1902年には四高(現金沢大)入学を経て、1905年9月に東京帝国大学英文科入学。在学中に夏目漱石や上田敏らに師事し、中勘助らと級友となります。大学卒業後、海軍経理学校、東洋大学、法政大学などで講義をする。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイター、ウィリアム・ワーズワースなどを研究した。
浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月… 浅川 伯教(あさかわ のりたか、1884年(明治17年)8月4日 - 1964年(昭和39年)1月14日)は、朝鮮古陶磁研究者。山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現在の北杜市高根町五町田)出身。浅川巧は弟。 山梨県師範学校に学び、県内で小学校教諭となった。甲府キリスト教会での小宮山清三との出会いから朝鮮王朝の美術に憧れ、1913年(大正2年)、韓国併合3年目の朝鮮半島に渡る。当初は朝鮮陶磁の「青磁」に惹かれていたが、偶然目にした日常の器「白磁」に魅了され、柳宗悦(思想家、民藝運動創始者)に紹介。これが朝鮮王朝時代の白磁が日本で注目されるきっかけとなる。 1924年(大正13年)、日本統治下の京城(現ソウル)に、柳宗悦や弟の巧とともに、文化擁護と継承のため「朝鮮民族美術館」を設立。
八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 -… 八甲山 純司(はっこうざん じゅんじ、1884年8月3日 - 1951年1月10日)は、青森県東津軽郡横内村(※現役当時、現・同県青森市)出身で湊川部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は、清藤 純司(せいどう じゅんじ)。引退後は8代高島を襲名して高島部屋を創設、大関をはじめとする多くの幕内力士を育てた。 1884年8月3日に、当時の青森県東津軽郡横内村で生まれる。子供の頃から怪力で、19歳で土地相撲での活躍を見た若松から勧誘されたが、自身は長男だったために両親から反対された。それでも3年後に角界入りを決意し、兵役終了後に家出して若松部屋へ入門した。1908年1月場所において幕下付出で初土俵を踏むと順調に出世していき、1910年6月場所で新十両昇進、その十両も1場所で通過して1911年2月場所では新入幕を果たすというスピード出世だった。
近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)… 近藤 由太郎(こんどう よしたろう、1884年(明治17年)8月1日 - 1965年(昭和40年)2月17日)は、日本の政治家、実業家、福井県大野町長、呉服店店主。 福井県南条郡武生町(現:越前市)の老舗呉服屋とがのや呉服店店主・古市幸助の三男として生まれた。1910年(明治43年1月)、大野町のこちらも老舗呉服屋あらごろ呉服店の店主で後に福井県会議員となる近藤金次郎の婿養子となり、店舗を一任される。 他に北陸絹布株式会社取締役、大越木材工業社長、大野町商工会議所の会頭を歴任し、1947年(昭和22年)4月に戦後初の市町村選挙にて大野町長に就任する。戦後の復興に力を注ぎ、1952年(昭和27年)10月に引退。
井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973… 井下 清(いのした きよし、1884年8月1日 - 1973年8月8日)は、日本の造園家。長く東京市の公園課長をつとめ、東京内の公園緑地を多く生み出し、東京の公園行政の基礎を築いた。また、東京高等造園学校およびその後身である東京農業大学を通じて多くの造園人材者を養成した。 京都府愛宕郡聖護院村(現・京都市左京区)に、陸軍軍医・井下気一の子として生まれる。母親は京都の旧家の出。 1905年(明治38年)7月に東京高等農学校(後の東京農業大学)本科を卒業した。農学校に入学する前は高等工業学校の選科生をしていたが、母方のつてで農学校に入学。縁戚に灘の酒造家がいて、自身も醸造を志していたが、夜学で通っていた英語学校がメソジスト系だったため禁酒論をたたき込まれたのと、同級に内村鑑三の内弟子であった長崎渉(後に月寒牧羊場長)がいて親しかったことから、「酒造りは悪魔の業」という考えになり、子供時代から好きな途であった園芸に転向した。
神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉… 神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。常石グループの創始者。神原汽船、常石造船創業者。 広島県沼隈郡千年村字常石(現・福山市沼隈町常石)出身。神原嘉平次の三男。1903年、帆船を3隻購入し石炭輸送を開始する。海運事業を展開するうち、勝太郎は「船の製造や修理を自前でできるようになればコストダウンができる」と考え、常石の地で造船事業を開始した。 1908年、分家する。瀬戸内海運送社長、同専務、村会議員、学務委員をつとめた。 傾いた家運を挽回しようと努力を怠らなかった。村内屈指の資産家として数十万の富を得て、名門の誉を高くした。高額所得者である。
田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952… 田中 八百八(たなか やおはち、1884年8月 – 1952年1月10日[要出典])は、日本の林学者、農林技官。 信州大学初代農学部長を務めた。学者としての専門分野は林業政策、治山治水。 現在の福井県小浜市竹原[要出典]で生まれる。 旧制小浜中学校を経て、[要出典]1909年に東京帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)を卒業した。 1917年、岩手県庁山林課長に就任する[要出典]。山梨県庁でも勤務した。 1925年に農林省山林局兼内務省土木局技師となる。1926年にイタリアのローマで開催された第1回万国森林会議(英語版)に日本代表の1人として出席し、副議長(6人の1人)を務めた。会議からの帰途にはヨーロッパ各国の林業事業を視察した。
斎藤 守圀(さいとう もりくに、1884年(明治17年)8月… 斎藤 守圀(さいとう もりくに、1884年(明治17年)8月 - 1945年(昭和20年)9月18日)は、日本の内務官僚。官選県知事。
下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月… 下村 寿一(しもむら じゅいち、1884年(明治17年)7月31日 - 1965年(昭和40年)1月9日)は、日本の文部官僚。東京女子高等師範学校校長。女子学習院長。
福田 虎亀(ふくだ とらかめ / とらき、1884年(明治1… 福田 虎亀(ふくだ とらかめ / とらき、1884年(明治17年)7月27日 - 1970年(昭和45年)2月15日)は、日本の内務官僚、政治家。熊本市長、官選山梨県知事、衆議院議員。俳句を嗜み「石馬」と号した。 熊本県玉名郡伊倉村(現在・玉名市)出身。福田恭敬の長男として生まれる。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1912年7月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)内務省に入省し同年4月に熊本県属となる。 以後、熊本県警部、同葦北・阿蘇・飽託の各郡長、愛知県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、警察講習所教授兼内務事務官、富山県書記官・内務部長、福岡県若松市長、京都府内務部長などを歴任。
安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25… 安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25日 - 1946年(昭和21年)6月15日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県長狭郡大山村(現在の鴨川市)出身。衆議院議員安田勲の二男。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。名古屋電灯株式会社に入社し、庶務課長、福澤桃介社長秘書を歴任した。大同電力株式会社創立事務主任、天竜川電力株式会社創立事務主任を務め、事業完成後は弁護士となって、岩田宙造の事務所に勤務した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。小泉又次郎逓信大臣の秘書官を務めた。 その他、東邦電力株式会社顧問、球磨川電気株式会社顧問などを務めた。
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月… 徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。
永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 19… 永持 源次(ながもち げんじ、1884年7月23日 - 1978年8月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍砲工学校長。最終階級は陸軍中将。
長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年… 長野 新十郎(ながの しんじゅうろう、1884年(明治17年)7月22日 - 1958年(昭和33年))は、教育者であり、実業家でもある。大阪高等商業学校(現:大阪公立大学)教授を経て、大阪無線電気学校の初代校長。岡山県高梁市出身。 1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)で生まれる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には山発産業社長になる山本発次郎、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事になる横屋潤がいた。1904年(明治37年)同校を卒業する。 第六高等学校へ進学し第二部(工理農コース)理科乙類(医薬農学部進学コース)でドイツ語を学ぶ。
服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22… 服部 ケサ(はっとり けさ、1884年(明治17年)7月22日 - 1924年(大正13年)11月22日)は、日本の医師。ハンセン病患者の治療に尽くしたことで知られる。歌人の服部躬治は兄、小説家の水野仙子は妹。 1884年、福島県岩瀬郡須賀川村(現在の須賀川市)で、商家を営む父直太郎、母せいの次女として生まれる。尋常小学校、高等小学校を経て裁縫専修学校を卒業した後、1901年に兄躬治を頼って上京するが、家族の病気が重なり2年ほどで須賀川に帰郷する。福島県内でも明治期の近代化が進む中、閉塞感に苛まれたケサであったが、病弱な家族を思い、医師を志すようになる。 1905年、東京女医学校に入学し、1909年に前期医術開業試験に合格。
中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7… 中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。合資会社中尾製材所代表社員。鳥取県八頭郡池田村会議員。若桜運送取締役。鳥取県木材連合会長。 鳥取県八東郡中原村(のち八頭郡池田村中原、現・若桜町)出身。中尾徳蔵の長男。若桜高等小学校を卒業後、家業の農業及び材木商に従事し、池田村収入役、池田信用組合専務理事等を歴任し後に製材所、運送会社、自動車会社等を設立経営する。 宗派は曹洞宗、龍徳寺。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)… 鯨井 恒太郎(くじらい つねたろう、1884年(明治17年)7月19日 - 1935年(昭和10年)7月22日)は、日本の電気工学者である。 東京府(現在の東京都)東京市京橋の生まれ。東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)電気工学科に入学する。1907年(明治40年)の卒業後は、逓信省に入省し電気試験所の研究員として活動した。1908年(明治41年)には同試験所に勤務する傍ら、母校の東京帝国大学で鳳秀太郎の指導の下に助教授を経て、1912年(大正元年)に文部省より「電気工学研究」のため、満2か年間ドイツ、イギリス及びアメリカへ留学を命じられ、1915年(大正4年)に帰国する。1918年(大正7年)に工学博士の学位を取得された後、昇進して教授に就任した。
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971… 戸村よしを(とむらよしお、1884年7月16日 – 1971年4月18日)は、日本の看護婦。福井赤十字病院看護婦監督。第11回フローレンス・ナイチンゲール記章受章。 1884年7月16日 、福井県福井市清川上町5番地 (現・松本1丁目) に、士族の娘として生まれ、厳格な家庭に育った。遠州流の茶道、生け花を教え、宝生流の謡もたしなんだ。
石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月… 石井 林響(いしい りんきょう、1884年〈明治17年〉7月15日 - 1930年〈昭和5年〉2月25日)は、日本の明治末期から昭和初期に活動した日本画家。画業の中期までは、石井天風と称する。本名は毅三郎。 千葉県山辺郡土気本郷町下大和田(現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家は豪農で、隣の家まで1町余り、東西南に他人の家が見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏に落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが林響のトレードマークとなる。土気尋常小学校、大網高等小学校、旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学。
小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13… 小柳 牧衛(小柳 牧衞、こやなぎ まきえ、1884年7月13日 - 1981年12月21日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、新潟市長、衆議院議員、参議院議員。幼名は畋之助。 新潟県北蒲原郡川東村大字上楠川(現:新発田市)に生まれる。新発田中学、第一高等学校を経て、1909年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り北海道属となり、1913年、北海道庁理事官に就任。 その後、青島守備軍民政部事務官、臨時震災救護事務局事務官兼総務課長、青森県内務部長、山口県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。1926年9月、青森県知事に就任。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月… 北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉8月20日)は、大正から昭和前期の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家第77代当主、貴族院男爵議員。 島根県簸川郡(現・出雲市大社町)で北島国造家76代当主・北島斉孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学史学科を修了した。1918年、父の死去後、神道出雲教会大教主に就任。1952年(昭和27年)、神道大教から離れ出雲教を設立して国造に就任した。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで出雲大社御造営御用掛を務めた。
赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8… 赤岡 重樹(あかおか しげき、明治17年(1884年)7月8日 - 昭和40年(1965年)8月11日)は、山梨県出身の郷土史家。 山梨県北巨摩郡若神子村二日市場(現在の北杜市)に、父「九十郎」、母「うめ」の長男として生まれる。明治37年(1904年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、神宮皇学館本科(現在の皇學館大学)を明治43年(1910年)に卒業。 大正4年(1915年)には甲府商業会議所が赤岡を主任に「甲斐史」編纂会の設立を企図したがこれは頓挫し、同年11月には若尾財閥の当主・若尾謹之助がこれを引き継いで「山梨県志」編纂会を立ち上げ、赤岡は総裁に任用された。他の委員とともに5年間に渡って山梨県内の史料調査に当たっている。
守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12… 守屋東(もりやあずま、1884年7月7日 - 1975年12月18日)は、日本の教育者、女性活動家で、社会事業家でもある。東京都出身。父は守屋一、母は守屋和佐。父は、旧福岡藩藩士で、長崎に遊学し医学を修めた。西南戦争の後、衛戍病院に勤務した。1893年(明治26年)、東が8歳の時に死去。以後、2人の妹と共に母に育てられる。1900年(明治33年)東京府立高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)を卒業。小説家の田村俊子と同期になる。その後、仏英和女学校でフランス語を東京音楽学校でバイオリンを習うが家庭の経済困窮から中退。
清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5… 清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月27日)は、大正、昭和時代の日本の弁護士、法学者、政治家。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。 兵庫県飾磨郡夢前町(現・姫路市)出身。弁護士としては小作争議裁判や思想事件等の他、特許事件を多く手掛けて著作物も多く、工業所有権法(知的財産法)の分野においては実務・学問の両面において草分け的な存在であった。 政界入りしてからは普通選挙運動の推進や台湾議会設置運動への支援、治安維持法への反対などリベラルな政治家として知られてきた。
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7… 浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日 - 1947年〈昭和22年〉11月29日)は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある。
矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年… 矢部 喜好(やべ きよし、1884年7月4日 - 1935年8月26日)は、福島県会津出身のキリスト教会の牧師。日露戦争の際、日本において良心的兵役拒否を初めて行った人物である(ただし、後に衛生兵として従軍している)。アメリカ留学から帰国後は、膳所同胞教会、大津同胞教会の牧師として働き、その生涯を全うした。 福島県耶麻郡木幡村(現・喜多方市)生まれ。会津中学(現・福島県立会津高等学校)在学中にプロテスタント入信。日露戦争開戦時、召集されたが兵役を拒否し禁固2か月の判決を受ける。その後、衛生兵として応召した。 日露戦争後はアメリカに留学。銀行のハウスボーイとして働きながら勉学に励むも、猩紅熱に感染。
太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年… 太田 亮(おおた あきら、1884年7月1日 - 1956年5月27日)は、日本の歴史学者。氏族制度の研究で知られる。 大阪府吉野郡下市村(現・奈良県吉野郡下市町)に生まれる。京都法政大学予科(現・立命館大学)を経て、1910年に神宮皇學館(現・皇學館大学)を卒業。山梨県立高等女学校教諭、内務省考証官補、同嘱託などを経て、1934年から西園寺家の「管見記」の編纂にたずさわる。同年、立命館大学法経学部講師。1937年に同専門部文学科教授。1941年に同法文学部教授となる。1943年同文学部長を兼ねた。1945年11月7日、「日本上代ニ於ケル社会組織ノ研究」で法学博士号取得。1949年、近畿大学商経学部教授。
高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7… 高松 長三(たかまつ ちょうぞう、1884年〈明治17年〉7月1日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、栃木県出身の政治家(衆議院議員)、海軍軍人(階級は海軍主計少将)。旧姓・矢口。相模運輸社長、三笠保存会顧問などを務めた。 矢口長右衛門の三男として栃木県塩谷郡北高根沢村(後の高根沢町)に生まれる。後に高松家の婿養子となった。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。 海軍に入ると主計試補に任じられ、1912年(大正元年)主計大尉に任官。1918年(大正7年)に主計少監に進み、1932年(昭和7年)には主計少将に累進する。その間、磐手主計長兼分隊長、海軍省軍需局局員、横須賀海軍経理部第一課長、横須賀海軍工廠会計部長、軍需局第三課長、海軍経理学校教官、連合艦隊主計長、横須賀海軍軍需部長を歴任した。
高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 195… 高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 1953年1月9日)は、日本の仏教学者、僧侶である。哲学館(現・東洋大学)で井上円了から仏教学を学んだ後に、智山専門学校校長。大正大学教授。真言宗智山派管長。智積院55世能化。真言宗上品蓮台寺住職となる。仏教学の専門は密教学。
久保田 晴光(くぼた せいこう、1884年(明治17年)7月… 久保田 晴光(くぼた せいこう、1884年(明治17年)7月 - ?)は、日本の医学者。元日本スケート連盟会長。元満洲医科大学学長。岩手県出身。 盛岡中学を経て、1910年(明治43年)に京都帝国大学を卒業。大学を卒業後は外科医となるがヨードアレルギーであることが判明し外科医を断念。1911年(明治44年)7月、第一生理学に入室し天谷千松教授の下につく。 1913年(大正2年)4月、南満医学堂(後の満洲医科大学)の教授に就任。その後、南満洲鉄道の派遣による欧米留学を経て、1921年(大正10年)10月に満洲医科大学の学長に就任。しかし、1923年(大正12年)11月に病気を理由に退職。在職中は蒙古巡回診療班と専門部の開設に当たった他、東亜医学研究所と附属薬学専門部の設置に尽力した。
佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - … 佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 北海道出身。士族・佐藤元永の三男。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。山形県警部・属、同警視、同飽海郡長、台南州警務部長、台北州警務部長、台湾総督府事務官、警務局保安課長、同警務課長、同衛生課長を歴任した。1927年(昭和2年)、台中州知事に就任した。 その後、台湾交通社長を務めた。
伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月2… 伊藤 生更(いとう せいこう、1884年(明治17年)6月28日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、アララギ派の歌人。短歌結社「美知思波(みちしば)」創立者。山梨県北巨摩郡(現・韮崎市)出身。本名は、伊藤基胤(もとつぐ)。妹の権藤はなよ(権藤花代)は、唱歌「たなばたさま」の作詞者で童謡詩人。 山梨県北巨摩郡穴山村(現・韮崎市穴山町)に父・友重、母・やよ、の長男として生まれる。1906年(明治39年)山梨師範学校(現・山梨大学)を卒業。母校の穴山尋常高等小学校、山梨師範学校附属小学校に勤める。浅川伯教(朝鮮古陶磁研究者)は、同僚で師範学校の学生時代からの親友。1908年(明治41年)に甲府市に転居。
田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 19… 田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 1969年10月27日)は、福岡県出身の日本の実業家。 福岡県京都郡仲津村(現・行橋市)で農業を営んでいた田淵市平の長男として生まれる。中学を中退し跡取りを次男に譲って北海道への移民団に加わって札幌へと移住。北海道庁に給仕として入庁、道庁勤務の傍ら夜間中学を卒業の後、1906年に北海法学校を卒業。 北海法学校卒業後に帝国鉄道庁入庁、書記を経て1907年に任官。1913年に釧路運輸事務所、その後旭川運輸事務所、鉄道省移行後に札幌鉄道局運輸課で貨物業務、小樽駅第13代駅長(1923年12月1日-1929年3月29日)、旭川駅16代駅長(1929年3月30日-1930年10月)、札幌鉄道局運輸課高等官を歴任した。
飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6… 飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6月26日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 3代飯田新七の長男として京都府に生まれる。 京一中、第四高等学校、東京帝国大学法科経済学科卒業後、1909年12月、髙島屋飯田合名会社に入社。 1919年8月、髙島屋呉服店(髙島屋の前身)が創設されると取締役に就任し、海外貿易事業に従事。1926年に専務に就任してからは、大阪・なんば、東京・日本橋の両店を開店して、百貨店の基礎を築き、髙島屋を百貨店として成長させた。1942年3月、4代飯田新七が健康上の理由から社長を辞任したため、第3代社長に就任した。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25… 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧氏名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)で誕生。