加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日… 加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月12日)は、日本の看護師。 宮城県登米郡佐沼町(現・登米市)に生まれる。1911年(明治44年)に日本赤十字社宮城県支部救護看護婦養成所に入学。1914年(大正3年)に卒業して、日本赤十字社中央病院の看護師(当時は「看護婦」)となる。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)から1年間、遣仏救護班看護婦としてフランス赤十字社に派遣され、救護活動に従事し、その後はシベリア出兵の際にも傷病者の看護に当たった。 日中戦争中は、看護婦長として赤十字病院船に乗り込み、中国の上海・南京・九江などに合わせて10回派遣された。
加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9… 加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9日 - 昭和11年(1936年)9月18日)は、日本の官吏および政治家である。第8代大阪市長。従五位。
務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974… 務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。東京教育大学名誉教授。位階は従三位。 台北帝国大学教授、東京文理科大学(後の東京教育大学)教授、同大学長。学長と桐朋学園理事長・校長を兼務、その後慶應義塾大学教授などを歴任。 京都帝国大学在学中に西田幾多郎に師事し、留学中にはフッサールからも哲学を学んだ。西田門下ではあるが、京都学派とも西田左派とも一線を画し、独自のヒューマニズム哲学を展開する。一方、京都大学教授・上原麻有子が代表を務めるサイト「京都学派アーカイブ」では、「西田・田辺に学びながら独自の思想を育み、時には師に影響を与えることもあった」ことから、務台は京都学派の一員として紹介されている。
3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、… 3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、1890年〈明治23年〉8月8日 - 1949年〈昭和24年〉9月11日)は、日本の実業家、政治家、群馬県多額納税者。貴族院議員。群馬県新田郡太田町会議員。従五位勲二等。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。 1926年、家督を相続し前名・直一から名を改め、三代目澁澤金蔵を襲名した。太田町会議員となる。 1937年、鉄道大臣秘書官に任ぜられた。金融業を営み、金山図書館長、太田織布、新田銀行、上毛実業銀行、群馬中央銀行、太田建物、同電気館、同合同運送等諸会社重役であった。また富士産業取締役を務めた。
清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年… 清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年)8月7日 - 1980年(昭和55年)10月16日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 新潟県古志郡長岡町渡里町(現長岡市)で浄土真宗大谷派妙宗寺に生まれた。1908年(明治41年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)長岡労働向上会を組織し日本労農党新潟県連合会常任執行委員に就任。日本労農党、日本大衆党、社会大衆党、全国農民組合、日本農民組合などの中央委員を務めた。1936年(昭和11年)三宅正一に次いで無産政党員として長岡市会議員に当選。その他、全国労働組合新潟県委員長、日本漁民組合中央委員も務めた。
川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治… 立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治23年)8月7日 - 1942年(昭和17年)7月28日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岐阜県吉城郡出身。第七高等学校造士館を卒業。1916年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、逓信省に入省。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に転じ鳥取県属となる。 1919年、香川県警察部刑務課長に就任。以後、神奈川県警視、内務事務官、徳島県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長などを歴任。1929年、朝鮮総督府に転じ同事務官・警務局図書課長、同保安課長を務める。1933年、山梨県内務部長に転じ、1935年1月、宮城県書記官・総務部長に就任。
松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治… 松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治23年)8月7日 - 1959年(昭和34年)12月17日)は、大正から昭和期の内務官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・松平正存の長男として生まれる。祖父松平正直の死去に伴い、1915年(大正4年)5月21日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、1915年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。同年、内務省に入省し岐阜県属となる。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格した。埼玉県警視、栃木県理事官、京都府理事官、同府地方事務官、滋賀県書記官、宮崎県書記官、鳥取県書記官、埼玉県書記官・学務部長などを務め、1932年(昭和7年)に退官した。
佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日… 佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日 - 昭和5年(1930年)12月14日)は日本の小説家。ペンネームは江外(こうがい)。旧姓は江村、大田。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の茶屋・江村家に生まれ、幼くして母を亡くし福定村の大田家に引き取られて成長する。1912年、佐近たみよと結婚して「佐近」姓となる。1913年に鳥取師範学校(現・鳥取大学)を卒業し境小学校、中浜小学校の教師となる。1919年、「大阪朝日新聞」の懸賞小説に応募、選外佳作となる。1920年には報知新聞社学芸部に入社し、名記者として知られ文化部長に昇進する。1930年10月、『文学時代』の「新鋭作家総出勤号」に川端康成、平林たい子、井伏鱒二、高見順ら四十六人の一人として名を連ね第一線作家としての地位を得たが、急性肺炎のため40歳で死去した。
髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 … 和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 - 1952年(昭和27年)6月11日)は、日本の工学者。長距離飛行の世界記録を打ち立てた航研機の開発など、東京帝国大学航空研究所長として日本の航空工学の発展に貢献した。東京工業大学学長、東京帝国大学教授、千葉工業大学3代目顧問などを務めた。 父は木戸孝正で、木戸孝允は義理の祖父に当たる。妻は吉川重吉の娘で、獅子文六の妻の妹。長女・正子の夫は都留重人、次女・綾子の夫は新日本電気会長肥後一郎。長男・和田昭允は東京大学名誉教授で東京大学理学部長、日本学術会議第4部長、理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長を務めた。 1890年(明治23年)8月5日、木戸孝正・壽栄子夫妻の次男として東京府で生まれた。
松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 194… 松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 1946年5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。室蘭市長。 北海道出身。1917年日本大学法律科卒。内務省警保局に勤め、夕張警察署長を最後に1928年退官。同年夕張町長に就任した。1932年の第18回衆議院議員総選挙で無所属で立候補して当選。当選後は立憲政友会に入った。その後2回立候補して落選、1937年の第20回衆議院議員総選挙後に繰り上げ当選した。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して落選した。 戦後の1945年11月24日、室蘭市長に就任したが、病のため1946年5月25日に死去した。
殖田 俊吉(うえだ しゅんきち、1890年(明治23年)8月… 殖田 俊吉(うえだ しゅんきち、1890年(明治23年)8月4日 - 1960年(昭和35年)5月23日)とは、日本の大蔵官僚、政治家。行政管理庁長官、法務総裁。 地主・殖田直太郎の長男として現在の大分県宇佐市に生まれる。宇佐中学、第五高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。税務監督局属となり、東京税務監督局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1915年(大正4年)2月、兼大蔵属・理財局勤務となり、以後、広島税務署長、司税官、門司税関監視部長、長崎税関長心得、大阪税関監視部長兼総務課長などを歴任。1922年(大正11年)8月、欧州に出張した。1924年(大正13年)3月、大蔵事務官となり、銀行局勤務となる。
山本 直文(やまもと なおよし、1890年8月4日 - 19… 山本 直文(やまもと なおよし、1890年8月4日 - 1982年9月27日)は、フランス文学者・翻訳者。東京都出身。フランス料理書に関する著書が多くエスコフィエ協会日本支部の発足にも尽力、日本の料理人のフランス研修も援助して日本のフランス料理界の恩人と言われている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
福羽 発三(ふくば のぶぞう、1890年(明治23年)8月3… 福羽 発三(ふくば のぶぞう、1890年(明治23年)8月3日 - 1961年(昭和36年))は、日本の園芸家、造園家。 東京で農学者、福羽逸人の三男として生まれた。1916年(大正5年)、東北帝国大学農学部第一部(現・北海道大学農学部)卒業。卒業後農商務省に出仕。 1918年(大正7年)から翌年にかけて静岡県興津町にある農事試験場園芸部において疏菜の促成栽培法の研究を行う。 1924年(大正13年)に宮内技手として宮内省内匠寮勤務となり、新宿御苑詰となる。1934年(昭和9年)には主膳監兼任となる。1937年(昭和12年)に園芸施設および技術の研究のため、イギリス、フランス、ドイツヘ出張した。
那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日… 那波 利貞(なば としさだ、1890年〈明治23年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉10月20日)は、日本の東洋史学者、文学博士、京都大学名誉教授。誠軒と号す。 1890年、徳島県徳島市生まれ。生家は江戸初期以来の藩儒の家柄。11代前の那波道円(号は活所、1595年-1648年)は紀州藩に仕え、道円の子の那波元成(号は木庵、1614年-1683年)には『老圃堂詩集』の著書がある。5代前の那波師曾(字は孝卿、号は魯堂、1727年-1789年)は春秋の学を修め、『左伝標例』の著書があり、阿波藩に使えた。以後、那波家は、利貞の父、那波韋(字は緩卿、号は蜆北)まで、代々阿波藩に藩儒として仕えた。 1898年(明治31年)、利貞が8歳の時、父の韋が亡くなり、利貞は母の旧姓多賀氏より経学の教えを受けた。
林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年… 林 路一(はやし ろいち、1890年8月1日 - 1938年6月27日)は、日本の政治家。正五位勲四等、衆議院議員。 1890年(明治23年)8月1日、山口県にて、明治政府の地価調査事業に際し賀見畑村地主総代人として官命を果たした先代・福蔵の長男として生まれる。 2歳の時に福蔵の破産と、福蔵の弟である清輔一家の屯田兵家族としての移住に伴い父母に伴われて北海道上川郡当麻村(現 当麻町)に移住。1907年(明治40年)、17歳の時に日給45銭の同村役場臨時雇となり、後昇任して、1919年(大正8年)に28歳にして同村の村長となった。その後8年にわたり村長を務め、役場職員の時代を含めると20年にわたり村政に携わったこととなる。
一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 -… 一湊 政五郎(いちみなと まさごろう、1890年8月1日 - 1945年12月14日)は、秋田県北秋田郡森吉町(現・北秋田市)出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は久住 政五郎。174cm、92kg。最高位は東前頭4枚目。 1909年1月初土俵、入門時は仙台地方の草相撲の大関で、上京して横綱常陸山の門弟となる。地道に昇進して1916年1月十両昇進。2場所連続で勝ち越して1917年1月入幕。右四つからの上手投げを得意技とする相撲巧者で、堅実な取り口には定評があった。1918年5月場所には自己最高位の東前頭4枚目まで進んだ。しかし以降は振るわず、1920年5月場所十両に陥落し、翌1921年1月場所で廃業した。
三保 幹太郎(みほ かんたろう、1890年8月 - 1947… 三保 幹太郎(みほ かんたろう、1890年8月 - 1947年12月12日)は、日本の実業家。広島県安芸郡仁保島村(現在の広島市南区仁保)出身。神戸第一中学校を経て神戸高等商業学校を卒業。ジャズミュージシャンでカーレーサーの三保敬太郎の父親。 日産コンツェルンの創始者鮎川義介の懐刀として、満州重工業開発理事や日本コロムビア社長、日産自動車専務などを歴任した。 1941年に建築された品川区西大井の私邸は志高荘と呼ばれ戦後は東芝会館として使われた。戦後に公職追放を受け、脳溢血で死去。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
鶴岡 和修(つるおか かずのぶ、旧名・和文、1890年(明治… 鶴岡 和修(つるおか かずのぶ、旧名・和文、1890年(明治23年)8月 - 1968年(昭和43年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(東京府第6区選出、当選1回)。 東京府出身。鶴岡英文の長男。1916年7月、東京帝国大学文科大学支那文学科を卒業する。1923年、家督を相続する。授産業を営む。 亀戸町長、東京府会議員、亀戸町会議員に挙げられる。1928年、東京府より推されて、衆議院議員に当選。立憲民政党に所属。財団法人光塵授産場を設立し、理事長となる。罐詰製造工場、千葉食料社を経営する。 東京帝国大学卒業後、社会事業に尽くし、授産所を経営し、失業者の相談相手となる。 鶴岡について、『日労研資料 第12巻第21号 450』によると「鶴岡和文はルイ・ナポレオンのような顎ひげをつけた文学士で、社会主義かぶれの噂があったが、なかなかの人気で親譲りの地盤を擁していた。
永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7… 永田 亀之助(ながた かめのすけ、1890年(明治23年)7月30日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、日本の政治家。元山形県議会議員、元上山市議会議長。
細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月… 細川 興治(ほそかわ おきはる、1890年(明治23年)7月30日 - 1977年(昭和52年)8月16日)は、明治末から昭和期の宮内官、華族(子爵)。貴族院議員。 清和源氏義季流谷田部細川家、細川興嗣(子爵)の長男として出生する。父の隠居に伴い1909年(明治42年)7月27日、家督を相続して子爵を襲爵した。1914年(大正3年)明治大学法学部を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学で学んだ。1924年(大正13年)宮内省に出仕。宮内属、陵墓監、宮内事務官などを歴任した。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月2… 古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市有明町)で、古賀健蔵の息子として生まれる。1909年(明治42年)久留米市立商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)を卒業した。 1919年(大正8年)12月、円仏古賀商店取締役に就任。1932年(昭和7年)大牟田商工会議所議員、1934年(昭和9年)同副会頭に就任した。その他、大牟田信用組合(現大牟田柳川信用金庫)監事、福岡県陸上小運搬業組合大牟田支部長、旭セメント取締役、三池製氷取締役などを務めた。 1921年(大正10年)大牟田市会議員に選出され、同副議長、大牟田市所得調査委員などを務め、福岡県会議員にも在任した。
松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1… 松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 松内則定の三男として、東京市本所区(現:東京都墨田区)で生まれる(兵庫県士族の家系であったため、兵庫県出身と書かれた資料もある)。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学部理財科(現:慶應義塾大学経済学部)を経て日本電燈へ入社するが、1925年にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した。
丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日… 丹羽 五郎(にわ ごろう、1890年(明治23年)7月28日 - 1958年(昭和33年)11月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 三重県飯高郡(現松阪市)で丹羽雨斉の五男として生まれる。岩手水産学校(現岩手県立宮古水産高等学校)漁撈科を修了。漁撈の研究を行う。 1915年(大正4年)丹羽船舶漁業部を開設。1919年(大正8年)大阪海事を設立し取締役社長に就任。その他、泰和洋行船舶部長、東明銀行取締役、日本索道常務取締役、丹羽船舶部社長、大阪機帆船海運組合理事、日本海獣取締役、大阪機帆船運送取締役、日本近海汽船取締役、日本海運協会小型船委員会委員、丸三商店取締役、尼崎船渠社長、中央産業社長、海上交通社(大阪)社長、近畿造船連合会副会長などを務めた。
伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月2… 伊藤 整一(いとう せいいち、1890年〈明治23年〉7月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。 1890年(明治23年)7月26日、福岡県三池郡高田町(現・みやま市)に父・梅太郎の長男として生まれる。1911年(明治44年)7月海軍兵学校39期を15番で卒業。海軍兵学校同期に遠藤喜一、高木武雄、山県正郷、岡敬純、角田覚治、原忠一などがいる。 1927年(昭和2年)5月、少佐でアメリカに派遣。アメリカに滞在していた時、レイモンド・スプルーアンスと深い親交を結んだ。伊藤が戦死した坊ノ岬沖海戦の際、米指揮官として攻撃命令を下したのはスプルーアンスであった。
小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月2… 小池 勇助(こいけ ゆうすけ、1890年(明治23年)7月25日 - 1945年(昭和20年)6月26日)は、日本の陸軍軍人、軍医。最終階級は中佐。 長野県南佐久郡野沢村(現佐久市)に男5人、女1人の兄弟の次男として生まれる。野沢中学を経て、1914年金沢医学専門学校を卒業し、同年11月金沢歩兵第七連隊に入営、その後陸軍軍医学校で眼科を専攻。1925年(大正14年)予備役。帝国大学眼科教室で研究生活の後、千葉県銚子町(現銚子市)石津眼科病院勤務を経て、1928年(昭和3年)佐久鉄道(現JR小海線)中込駅前に小池眼科医院を開業。 1937年(昭和12年)日中戦争に軍医として出征、1941年(昭和16年)から満州、1944年(昭和19年)8月沖縄へ。
川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)… 川村 貞四郎(かわむら ていしろう、1890年(明治23年)7月23日 - 1987年(昭和62年)6月18日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選山形県知事、東洋インキ製造 (株) 社長。旧姓・古橋。 愛知県北設楽郡出身。大地主・古橋源六郎の三男として生まれ、川村秀豊の養子となる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)、日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年(大正4年)5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年6月、内務省に入省し警視庁警部兼内務属となる。 1917年(大正6年)9月、本所太平警察署長に就任。以後、防疫官兼内務書記官・衛生局勤務、内務事務官・警保局保安課勤務、欧米出張(1924年1月)、警視庁書記官・衛生部長、山形県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長などを歴任。
山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月2… 山本 飼山(やまもと しざん、1890年(明治23年)7月23日 - 1913年(大正2年)11月5日)は、思想家、社会運動家。本名は山本 一蔵。 1890年(明治23年)、東京に生まれる。8歳の時自由民権運動の壮士であった父を失い、母とともに長野県松本市にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。 小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、旧制長野県松本中学に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ木下尚江の思想に関心を示した。15歳の頃、日露戦争の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、早稲田大学文学部に入り、石川三四郎・渡辺政太郎を介して、大杉栄・荒畑寒村・幸徳秋水らの知遇を得、『近代思想』に評論を寄せるようになる。
千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 19… 千田 貞敏(せんだ さだとし、1890年7月22日 - 1944年12月25日戦死認定)は、日本海軍の軍人。ビアク島の戦いにて戦死。戦死後、一階級進級し海軍中将。正四位勲二等旭日重光章。
佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月1… 佐竹 義春(さたけ よしはる、1890年〈明治23年〉7月17日 - 1944年〈昭和19年〉4月13日)は、大正から昭和期の華族。佐竹宗家34代当主。貴族院侯爵議員。位階は従二位。勲等は勲二等。 侯爵・佐竹義生、祚子夫妻の長男として生まれる。父の死去に伴い1915年(大正4年)3月30日、侯爵を襲爵。同年、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。同年7月16日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した。1928年(昭和3年)火曜会に入会して死去するまで在任した。 明治以来、佐竹侯爵家の財政は逼迫しており、1917年(大正6年)11月、家令の大縄久雄が義春同意のもと、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人とした美術品の売立て「佐竹侯爵家御蔵器入札」を東京美術倶楽部で行った。
楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年… 楠本 実隆(實隆、くすもと さねたか、1890年(明治23年)7月17日 - 1979年(昭和54年)10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、楠本右之助の長男として生まれる。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第33連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員を務め、1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第3連隊付となる。1929年(昭和4年)3月、近衛歩兵第3連隊大隊長に就任し、中国出張(支那政府応聘、北京陸軍大学教官)、歩兵第42連隊付、参謀本部付を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進み参謀本部付(上海駐在)となる。
岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 -… 岡 新(おか あらた、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1958年〈昭和33年〉3月23日)は、日本の海軍軍人。第3代総力戦研究所所長。海兵40期首席、海大甲種22期首席、砲術校高等科18期首席。最終階級は海軍中将。 東京府麻布区、現在の東京都港区出身。旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第40期入校。入校時成績順位は150名中第38位、卒業時成績順位は144名中首席。海軍大学校も首席卒業。 太平洋戦争勃発直前に於ける総力戦研究所での活躍が知られている。 「スピード、スピード、これからの歴史は、今までの何倍、何十倍のスピードで進む。起ち上がるのも、亡び去るのも。」「若いときのひらめきには概して間違いがない。
上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16… 上野 正雄(うえの まさお、1890年〈明治23年〉7月16日 - 1965年〈昭和40年〉2月16日)は、日本の華族、海軍軍人。北白川宮能久親王の六男。爵位は伯爵、最終階級は海軍少将。旧姓は永田。 → 詳細は「北白川宮能久親王」項の「落胤」節を参照 東京府出身。母は福井県士族前波某の娘の栄。北白川宮能久親王の第六男であると判明したため、1897年(明治30年)7月1日、伯爵を授けられ華族に列した。 1912年(明治45年)7月17日、海軍兵学校を卒業(40期)。翌年12月、海軍少尉任官し「金剛」乗組となる。1918年(大正7年)12月から1年間、海軍水雷学校高等科で学んだ。 1919年(大正8年)12月、「扶桑」分隊長となり、「龍田」分隊長、「浦風」水雷長兼水雷学校教官、「汐風」水雷長などを経て、1923年(大正12年)3月、海軍大学校選科学生となった。
川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 -… 川村 音次郎(かわむら おとじろう、1890年7月15日 - 1973年2月12日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務め、在任中ビール業界トップシェアを実現した。 東京・深川(現在の東京都江東区深川)生まれ。東京府第三中学校(現東京都立両国高等学校)を経て、1915年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部卒業。剣道部出身。 卒業後三菱合資会社入社。1935年三菱商事ロンドン支店長。1942年三菱商事産業部長。 1943年岩崎小弥太の意向による人事で、キリンビール専務取締役に転じる。1951年からはキリンビールで取締役社長を務め、1954年には朝日麦酒、日本麦酒を抜きビール業界トップシェアを実現。
神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月1… 神林 浩(かんばやし ひろし、1890年(明治23年)7月14日 - 1966年(昭和41年)4月12日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は陸軍軍医中将。旧姓・小岩井。 長野県出身。小岩井永次郎の二男として生まれ、神林玄進の養子となる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1917年(大正6年)6月に東京帝国大学医科大学を卒業し、二等軍医に任官し歩兵第56連隊付となる。1918年(大正7年)6月、久留米衛戍病院付となる。1920年(大正9年)8月、陸軍軍医学校に専攻学生として入学。1921年(大正10年)4月、一等軍医に昇進。その後、東京陸軍幼年学校付、陸軍省医務局課員を務め、1925年(大正14年)3月、医学博士の学位を受けた。
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月… 澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、1890年〈明治23年〉7月12日 - 1968年〈昭和43年〉10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。京都大学名誉教授。学位は、文学博士。 1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現:三重県伊勢市)で生まれた。三重県立第四中学校(現:三重県立宇治山田高等学校)・第三高等学校を経て、京都帝国大学文科大学に進学。文学科国文学専攻で学び、1915年に卒業。 第五高等学校教授を経て、1922年に京都帝国大学文学部助教授に就いた。1935年、学位論文『上代歌謡ノ作者及ビ時代考』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。翌1936年に教授昇格。1951年、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となった。
犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1… 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。 陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。 蒲池氏庶流犬塚氏出身。本籍佐賀県。佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生まれる。 新明きよ子(1910年(明治43年)生まれ)は、毎日新聞婦人記者、帝都日日新聞記者を経て、1939年(昭和14年)春、政府が正式に河豚計画を承認すると同時に、讀賣新聞上海特派員となり、上海で犬塚と初対面し、間もなく、犬塚の妻となった。 早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。
川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年… 川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年〈明治23年〉7月10日 - 1970年〈昭和45年〉11月9日)は日本の政治家。旧姓柳原。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。衆議院議員当選14回、自治庁長官、行政管理庁長官等を歴任した。 自治庁長官、行政管理庁長官、北海道開発庁長官、第18回オリンピック東京大会担当国務大臣、自民党幹事長、自民党副総裁を歴任。 閣僚としては軽量級ポストしか経験しなかったが、党の幹部としては重職を得た。川島派(交友クラブ)領袖であり、長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。当選14回。 専修大学総長、千葉工業大学理事長・会長、成田山奉賛会初代会長を歴任。
土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月1… 土方 成美(ひじかた せいび、明治23年(1890年)7月10日 - 昭和50年(1975年)2月15日)は、日本の経済学者。東京帝国大学教授、経済学部長。統制経済の第一人者。専攻は理論経済学、財政学。結婚前の旧姓は、「町田 成美」(まちだ せいび)。 1890年、兵庫県姫路市に生まれる。父は姫路市会議長を経て1903年に衆議院議員となった町田猛郎(たけし)。祖先は代々酒井家に仕える武士であったという。兵庫県立姫路中学校を卒業後、父の意向で旧制高等学校の中では姫路に一番近い岡山の第六高等学校に進学する。東京帝国大学法科大学経済学科を首席で卒業。 在学中に高等文官試験に合格していたが、大学に残る。
霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973… 霜田 静志(しもだ せいし、1890年7月9日 - 1973年1月28日)は、日本の物理学者・教育者・教育学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員の霜田光一は息子。 埼玉県出身。本名・利平。1912年東京美術学校卒。小・中学校教師を経て、1920年東京帝国大学で美学・心理学の研究をする。1928年英国へ留学、教育家A・S・ニイルに師事。帰国後、主婦之友社で児童相談を担当。のち、井荻児童研究所を設立し所長となる。多摩美術大学教授、長野女子短期大学教授も務めた。1968年『ニイル著作集』で第5回日本翻訳文化賞受賞。堀真一郎、國分康孝が門下にいる。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8… 山田 忠次(やまだ ちゅうじ、1890年〈明治23年〉7月8日 - 1986年〈昭和61年〉3月22日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 山形県出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。逓信局書記、同属、通信事務官補、秋田郵便局長、福島郵便局長、朝鮮総督府逓信事務官、京城貯金管理所長、通信事務官、京都郵便局長、逓信局事務官、広島逓信局規画課長、大阪逓信局規画課長、同用品課長、逓信書記官、郵務局規画課長、経理局需品課長、大臣官房保健課長、同秘書課長を経て、1936年(昭和11年)に仙台逓信局長に就任した。同年7月、朝鮮総督府逓信局長に移り、高等海員審判所長を兼ねた。
峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 196… 峰地 光重(みねじ みつしげ、1890年7月8日 - 1968年12月28日)は、日本の教育者、評論家。 鳥取県西伯郡大山町出身。鳥取師範学校卒。東京の私立池袋児童の村小学校などで小砂丘忠義、野村芳兵衛らとともに生活綴方教育を行う。1927年鳥取県上灘小学校校長。42年綴方運動弾圧により退職。戦後52年教職に復帰。57-61年岐阜県多治見市立池田小学校つづ原分校教諭。65年ペスタロッチ賞受賞。著作集18巻がある。
山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)… 山中 辰四郎(やまなか たつしろう、1890年(明治23年)7月7日 - 1971年(昭和46年)12月11日)は、昭和期の日本の政治家で、公選2人目の佐世保市長である。 佐世保市出身。戦前に佐世保市議会議員を1期(1933年~1937年)務めた後、市役所職員となり、総務課長、助役を経て、1955年4月の市長選挙で現職の中田正輔を破って第15代佐世保市長に就任、2期8年間に及び市長を務めた。 在職中には佐世保工業高等専門学校、海上自衛隊教育隊の誘致を実現したほか、石岳動植物園の開園、鹿子前への観光道路整備など、観光都市としての基盤整備に努めた。 1963年4月の市長選に3選を目指し出馬したが、元市議会議長の辻一三に阻まれ落選、4年後の1967年4月の市長選にも再度挑戦したが再び辻に敗れた。
ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Muker… ダーン・ゴパル・ムカージー(Dhan Gopal Mukerji, 1890年7月6日 - 1936年7月14日)は、インド出身の英語で書いた児童文学作家。 米国で初めて成功を収めたインド出身の作家。1928年にニューベリー賞を受賞している。カルカッタ大学、東京帝国大学、カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学で学んだ。 カルカッタ近郊の村に生まれた。父は弁護士だが音楽家を諦めていた。1910年にダーン・ゴパルは機械工学と織機を学ぶため東京へ留学に出されたが、東京で工場労働者の劣悪な環境にショックを受け、船でサンフランシスコへ渡った。アナキストとしての思想を持ち始めていたムカージーは1914年にスタンフォード大学で哲学の学士号をとる。
鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年… 鮫島 実三郎(さめじま じつさぶろう、1890年(明治23年)7月3日 - 1973年(昭和48年)4月30日)は、日本の物理化学者である。 大阪市の生まれ。東京帝国大学理科大学(現在の東京大学大学院理学系研究科・理学部)に入学し、1914年(大正3年)に卒業後は後に義理の父となる池田菊苗に師事した。1918年(大正7年)離日し、アメリカ合衆国ではノーベル化学賞を受賞したセオドア・リチャーズに師事しイギリスではアイルランド出身のフレデリック・ドナン、フランスではジャン・ペランに師事する等欧米の津々浦々で学ぶ。その後帰国し1921年(大正11年)には東北帝国大学(現在の東北大学)の助教授となり、翌1922年(大正12年)には同大学の教授に昇格した。
多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日… 多田 等観(ただ とうかん、1890年(明治23年)7月1日 - 1967年(昭和42年)2月18日)は、日本の僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を修行。日本への帰国に際して多数の仏典、文献を持ち帰り、斯界の学識経験者として活躍した。 南秋田郡土崎港町旭町(現在の秋田市土崎港)の西船寺の住職の3男として生まれる。家庭が6男2女の子だくさんであまり豊かではなかったため、小学校卒業時から檀家回りをして家計を助ける。秋田県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)卒業後、勉学のため京都にのぼり西本願寺に入籍、法要を手伝うようになる。第二十二世法主の大谷光瑞にその才覚を認められ、ダライ・ラマ13世が派遣したチベットの高僧ら留学生3人の世話役と日本語教師を任される。
高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月… 高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月2日)は、日本の鋳金家。金沢美術工芸大学名誉教授。日本芸術院会員。 高村光雲の三男、高村光太郎の弟として東京下谷区に生まれる。津田信夫に入門、1915年(大正4年)に東京美術学校鋳造科本科を卒業する。 1919年(大正8年)、岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会を設立。1926年(大正15年)、東京美術学校助教授。同年、工芸団体・无型(むけい)を組織し、1935年(昭和10年)、実在工藝美術会結成に参加する。その間、1934年(昭和9年)には帝展審査員に就任。その後も新文展、日展審査員を務める。
鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。