増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月… 増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月)は日本の現像技師、実業家である。PCL(現在のソニーPCL)創立社長、日本ポリドール社長等を歴任、「ソニー育ての親」として知られる。 福留繁海軍中将は自著『海軍生活四十年』の中で、増谷の厚い友情にふれている。 ソニー創業者井深大は増谷の葬儀のとき読んだ弔辞の中で次のように述べている。「今のソニーも、増谷さんには創立前から相談にのっていただき、山のものとも海のものとも分からない時に、多額の出資もお願いしました。爾来、名前は、相談役や監査役でしたが、いつも親身になって心配し、喜んでくださいました。…」。
山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月… 山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年(明治25年)8月6月 - 1987年(昭和62年)6月17日)は、大正から昭和期の山林地主、実業家、政治家。衆議院議員、大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民。 大分県宇佐郡麻生村大字山口(四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した。
魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 19… 魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 1954年12月10日)は、日本のプロテスタント神学者、同志社大学神学部および大学院神学研究科教授、文学博士。 愛媛県松山市三番町生まれ。松山夜学校(現・松山学院高等学校)に5年間通った後同校教師となり、西村清雄校長から人格と学業において大きな影響を受ける。1917年同志社大学神学部に入学。卒業後1922年から米国シカゴ大学、ユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツ・マールブルク大学神学部で学び、特にユニオン神学校ではA・C・マッギファート(英語版)の影響を受けた。帰国後の1927年に同志社大学文学部神学科講師、1930年に教授となる。
金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1… 金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1959年8月19日)は、日本の河川技術者、内務官僚。発明家、映画人でもあった。 土木の仕事を、「地球芸術」と称していた。 和歌山県有田郡出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、「煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究」(『土木学会誌』)で工学博士号を得ている。 1918年(大正7年)から1921年(大正10年)までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。
佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉7月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月19日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)。 栃木県河内郡豊郷村(現宇都宮市)出身。1909年(明治42年)栃木県立宇都宮農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)河内郡農会代議員に就任。その他、1929年(昭和4年)豊郷村会議員に選出され、同村消防組頭も務めた。1937年(昭和12年)満洲国に移り南満洲鉄道嘱託、軍人、官吏となる。 終戦後に帰国し、豊郷村農業会長、同農業協同組合長を務め、1947年(昭和22年)栃木県議会議員に選出され2期在任し、1951年(昭和26年)同議長となった。
北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月2… 北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月25日 - 1957年(昭和32年)1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県桃生郡鷹来村(現在の東松島市)出身。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学を卒業。大阪商船株式会社に入社し、上海、神戸、大阪の支店で勤務した。1923年(大正12年)、仙台市に弁護士事務所を開業し、仙台弁護士会副会長を務めた。1927年(昭和2年)からは宮城県会議員に選出された。 1939年(昭和14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月2… 大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月24日 - 没年不詳)は日本の実業家。 大正9年(1920年)東大経済学部卒。 人権擁護委員、出雲大社神社総代を歴任。 八田工業(株)取締役会長、出雲造船(株)取締役。 宗教は神道。住所は島根県簸川郡大社町(現出雲市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 三宅 周太郎(みやけ しゅうたろう、1892年(明治25年)7月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、演劇評論家。媚びぬ劇評に徹し、また、文楽の興隆に尽くした。 兵庫県加古川市寺家町の造酒屋に生まれた。6歳のとき父が建てた芝居小屋に、入りびたって育った。同志社中学校、慶應義塾大学予科、本科文学部と進んだ学生時代にも、歌舞伎や文楽を見続けた。 1917年(大正6年)(25歳)、三田文学に『新聞劇評家に質す』を寄せ、三木竹二、杉贋阿弥、岡鬼太郎らを称揚し、饗庭篁村、伊原青々園、七代目松本幸四郎らを批判して、劇壇・文壇に反響を呼び、小山内薫らに認められた。『演藝画報』誌にも書くようになった。
瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 193… 瀬戸 英一(せと えいいち、1892年7月21日 - 1934年4月11日)は、日本の劇作家。 大阪市曾根崎新地生まれ。父は文士の瀬戸半眠。英一は大倉商業学校、日本中学高等学部などに学んだが、生来、文学を好み、早くから新聞雑誌記者生活に入り、岡鬼太郎に師事し、閻太郎の筆名で劇評を書いた。 明治45年(1912年)11月、明治座の伊井蓉峰のもとに狂言作者として入り、「経国美談」の脚色を機に、新派劇の作者となり、のち松竹文芸部専属となり新派劇の脚本を数多く創作した。 その中でも「人来鳥」「夜の鳥」「わくら葉」「怪談小車双紙」「花の夜がたり」「二筋道」などが代表作とされる。凋落の新派の人気を一時盛り返させた。
大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月… 大西 新蔵(おおにし しんぞう、1892年(明治25年)7月17日 - 1988年(昭和63年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 東京府(現・東京都江戸川区)出身。東京府立第三中学校から海軍兵学校(42期)へ進む。席次は入校時120名中首席、卒業時は117名中3番。海軍砲術学校高等科学生に進み、砲術専攻士官となる。また東京帝国大学で教育学を学んでいる。海軍大学校甲種学生に進んだが、入試は不合格であった。航空関係者を入校させるため人数あわせで入校を許されている。 1928年(昭和3年)10月、42期首席であった三木繁二少佐が死去すると、大西がクラスヘッドになっている。海軍兵学校教官を経てドイツ駐在となった。
辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 19… 辰野 九紫(たつの きゅうし、1892年7月16日 - 1962年8月6日)は日本の小説家。鳥取県鳥取市出身。東京帝国大学法学部卒。本名、小堀竜二。別名に双竜子。 大学卒業後、十年以上のサラリーマン生活を経た後、1929年(昭和4年)懸賞小説として「青バスの女」を「新青年」に投稿、以後、作家となる。 その後は「モダン日本」「サンデー毎日」「スタイル」などに寄稿。主にユーモア小説の第一人者となった。1936年(昭和11年)には、佐々木邦らとともにユーモア作家倶楽部を結成、自ら世話人もつとめた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月1… 箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月16日 – 1961年(昭和36年)7月25日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 石川県金沢市出身。日本大学で学んだ後、『中外商業新報』政治部記者となり、ロンドン特派員を務めた。その後『萬朝報』に入社し、常務取締役営業局長・編集局長、専務取締役・主筆を歴任した。また平沼騏一郎日本大学総長の秘書や日本大学講師を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に石川県第1区から出馬し、初当選。合計で5期務めた。その間、平沼内閣で外務参与官に就任した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となった。
武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)… 武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)7月16日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員、金沢市長、石川県会議長。 石川県石川郡鶴来町(現白山市)で、武谷久太郎、イトの二男として生まれる。1914年(大正3年)早稲田大学に入学し政治経済科で学んだ。政治運動に参加して検束され、1917年(大正6年)12月に早大を中退した。 その後、太平洋通信記者となり、1918年(大正7年)6月、中国民報(現山陽新聞)記者、さらに1922年(大正11年)3月、帰郷して北陸毎日新聞(現北國新聞)主筆に就任し、編輯長、取締役を歴任した。
結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 197… 結城 鉄雄(ゆうき てつお、1892年7月15日 - 1971年6月18日)は、日本の経営者。大日本セルロイド社長を務めた。福岡県久留米市出身。 1915年に東京高等商業学校を卒業。三井物産での勤務を経て、大日本セルロイドに転じ、1937年に取締役に就任し、常務、専務を経て、1955年1月には社長に就任。1964年1月から1968年1月までに会長を務めた。富士写真フィルム監査役も務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1966年に勲三等旭日中綬章を受章。 1971年6月18日急性心不全のために死去。78歳没。
田辺 勝正(たなべ かつまさ、1892年7月15日 - 19… 田辺 勝正(たなべ かつまさ、1892年7月15日 - 1973年12月29日)は、日本の農学者、官僚。北海道拓殖短期大学初代学長。北海道拓殖短期大学名誉学長。「田邊勝正」とも表記される。 愛媛県出身。1920年(大正9年)北海道帝国大学農学部卒業。農商務省に入省し、同小作官を務める。1946年農林省農政局農地部長兼東京農地事務局長。1949年同農地局管理部長。1950年農林省を退官。財団法人農政調査会副会長。1951年東京大学経済学部講師。1952年東京教育大学農学部講師。1955年拓殖大学経済学部教授・同大学院経済学研究科教授(農業政策論を担当)。1966年北海道拓殖短期大学学長。1968年北海道拓殖短期大学退任。
田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8… 田万 清臣(たまん きよおみ、1892年(明治25年)7月8日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、昭和時代の政治家、弁護士。労働運動家。衆議院議員(3期)。配偶者は婦人活動家の田万明子。 香川県に生まれる。1919年(大正8年)京都帝国大学独法科を卒業する。大学では弁論部初代部長を務め、河上肇に傾倒した。 卒業後、弁護士を開業し労働運動に参加。大阪市会議員、同参事会員、同学務委員、借地借家調停委員、大日本興亜同盟理事を歴任した。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙では大阪府第1区から社会大衆党所属で出馬し当選。つづく第20回、第21回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた。
8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月… 8代式守与太夫(はちだい しきもり よだゆう、1892年7月6日 - ? )は、大相撲の元三役格行司。三役格としての在位期間は1939年1月~1959年11月。本名、伊藤喜三郎。 東京生まれで本所の銭湯要湯の三男。伊勢ノ海部屋→錦島部屋所属。式守要人で初土俵。1902年1月番付行司欄に載る。のち式守喜三郎と改める。1913年春場所から1915年春場所まで兵役のためか番付から消える。1915年時点では青白房(十両格)であった。1918年夏場所2日目に本足袋(幕内格)に昇格。1919年春場所、式守要人に改名。1929年春場所、式守喜三郎と改める。1936年5月式守与太夫を襲名。 1939年1月三役格に昇進。
中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 19… 中井 汲泉(なかい きゅうせん、1892年7月1日 - 1970年8月24日)は、京都府出身の美術家、図画教師である。本名は中井 政治郎。 1892年(明治25年)7月1日、京都市上京区に生まれる。京都市立絵画専門学校に進み、竹内栖鳳らから日本画を学ぶ。2年生の時に文展の初入選を果たしたが、教師の目を通さずに出品したことから逆に叱責を受けた。翌年、教師に提出したものの、修正の指導に納得できず、それ以降は官展公募展を問わず出品することはなかった。 岩手県の旧制岩手県立盛岡中学校(現 岩手県立盛岡第一高等学校)から図画教員の勧誘がある。一度は固辞したものの、盛岡から訪ねて来た使いの者の「雪景色も、また良うござんすよ」の一言で赴任を決めた。
草間 平作(くさま へいさく、1892年7月 - 1985年… 草間 平作(くさま へいさく、1892年7月 - 1985年)は、翻訳家、作家。 長崎県平戸出身。本名・牧山 正彦。北九州の東筑中学校卒、鹿児島の第七高等学校造士館をへて、1919年東京帝国大学法学部卒、この間海老名弾正によってキリスト教に出会う。その後有島武郎の援助で京都帝国大学哲学科に学ぶが、父の病気のため両親を京都に引き取り、22-23年同志社大学予科講師を務めていたが、二番目の妻が重度の神経症となり三重県各地を療養のため転々とし、その間女中に子を産ませる。敗戦直前に長崎県田平町に帰る。1958年妻が死去し再婚するがこれも三年目に病死し、女中だった女と四度目の結婚をする(『夢と燕』)。兎を飼って生活の資とした。
宮井 親造(みやい しんぞう、1892年7月 - 没年不詳)… 宮井 親造(みやい しんぞう、1892年7月 - 没年不詳)は、日本、朝鮮の検察官。 宮井紋太郎の長男として福岡県に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館、1915年7月第五高等学校英語法律科を経て、1918年7月東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後ただちに任官し、横浜、函館、札幌、京都、高知、舞鶴、豊岡の各裁判所の検事を歴任した後、1936年に朝鮮に渡り、京城覆審法院、光州地方法院、木浦支庁、大邱覆審法院の各検事を経て、大田地方法院検事正、新義州地方法院検事正、光州地方法院検事正、咸興地方法院検事正を歴任する。咸興の検事正時代に終戦を迎え、ソビエト連邦に抑留され、点々と各地を引き回された。
柿内 青葉(かきうち せいよう、1892年(明治25年)7月… 柿内 青葉(かきうち せいよう、1892年(明治25年)7月 - 1982年(昭和57年))は、明治時代から昭和時代にかけての女性日本画家。 鏑木清方の門人。東京生まれ。本名は慶子。青葉と号す。女子美術学校(現・女子美術大学)で日本画を学び、1908年(明治41年)に高等科に進み、1910年(明治43年)に同校の日本画高等科を修了、同年から清方に師事するとともに巽画会に作品を出品している。1911年(明治44年)開催の第22回烏合会展に「文よむ女」を出品、1913年(大正2年)の巽画会展に「三ヶ日の終」という作品を出品し褒状3等を受けている。また、同年から婦人雑誌の口絵の仕事にも断続的に関わる。
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)… 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。 父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。
坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6… 坂東 舜一(ばんどう しゅんいち、明治25年(1892年)6月30日 - 昭和52年(1977年)11月3日)は、日本の航空実業家。日本航空株式会社創立者。 兵庫県津名郡五色町(現・洲本市)生まれ。大正5年(1916年)慶應義塾大学部理財科を卒業したのち、日本郵船に入社。大正7年(1918年)同社を退社し、中島飛行機の前身である合資会社日本飛行機製作所の創設に関わり、事務長に就任。大正9年(1920年)から川西機械製作所飛行機部支配人を務めた後、大正12年(1923年)には日本航空株式会社を創立し、取締役支配人となる。 以後、昭和3年(1928年)川西航空機械株式会社取締役常務、昭和12年(1937年)日本航空工業株式会社専務取締役などを歴任。
飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月… 飯塚 知信(いいづか とものぶ、1892年(明治25年)6月29日 - 1965年(昭和40年)3月12日)は、昭和時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡日高村新道(高田村新道を経て現柏崎市新道)で、素封家、実業家、政治家・飯塚弥一郎の二男として生まれる。1918年(大正7年)早稲田大学政治経済科を卒業し、1921年(大正10年)欧米を視察する。1924年(大正13年)柏崎銀行頭取、ついで柏崎瓦斯取締役、第四銀行監査役、柏崎農業倉庫組合長、早稲田大学評議員、新潟県山林会顧問、新潟地方裁判所陪審委員長、高田村長、百三十九銀行取締役、上条郷農業振興会長、柏崎販売購買利用組合長、新潟県農会特別議員、刈羽郡乾繭組合長、高田村農協組合長などを歴任した。
二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 19… 二木 保幾(ふたつぎ やすき、1892年6月29日 - 1934年9月21日)は、日本の経済学者。 長野県南安曇郡明盛村(現安曇野市)生まれ。旧制順天堂中学校を経て、明治43年(1910年)早稲田大学高等科に入学し、大正3年(1914年)早稲田大学政治経済学部卒業。同年朝日新聞社に入社し、政治経済部の記者を経て、外務省担当記者を担当した。同4年(1915年)第2次大隈内閣が全国遊説を試みた際には後援会遊説部を組織し、その会長となった。同8年(1919年)、早稲田大学第2代総長塩澤昌貞から、母校留学生としてアメリカ、ドイツ、フランスへの留学を命じられ、帰国後は、同12年(1923年)同大学政治経済学部教授、同13年(1924年)教務主任等を勤め、日本の経済学界の重鎮と謳われたが、昭和9年(1934年)に病没した。
金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月2… 金島 桂華(かなしま けいか、1892年〈明治25年〉6月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月14日)は、日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民。 広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。 絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門である。橋本とは1917年、共に揚子江を旅している。 私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意とした。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得る。
木内克(きのうち よし、1892年6月27日 - 1977年… 木内克(きのうち よし、1892年6月27日 - 1977年3月8日)は、茨城県水戸市出身の彫刻家である。 渡仏し、アントワーヌ・ブールデルの指導を受けた。二科展などに多数出品し、テラコッタの作品を多く残した。妻の木内てるも彫刻家。
那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942… 那須 弓雄(なす ゆみお、1892年6月27日 - 1942年10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍栃木県。旧黒羽藩士・官吏、那須均の長男として東京で生まれる。京華中学校、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第59連隊付となる。1923年11月、陸軍大学校(35期)を卒業。 参謀本部付勤務、台湾軍幕僚付、歩兵第19連隊大隊長、上海派遣軍司令部付、鎮海湾要塞参謀、歩兵第78連隊付、関東軍司令部付(満州国軍顧問・第3軍管区付)、歩兵第59連隊長などを歴任。1940年3月、陸軍少将に進級。 歩兵第3旅団長を経て、第2歩兵団長としてジャワ島攻略作戦に参加。
高橋 貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 -… 高橋 貞太郎(たかはし ていたろう、1892年6月26日 - 1970年10月1日)は大正・昭和期に活躍した日本の建築家。前田侯爵邸や服部邸など豪華な邸宅建築のほか、上高地ホテル、川奈ホテルなどホテル建築に秀作が多い。 滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)生まれ。旧制第三高等学校(京都)を経て1916年に東京帝国大学工科大学建築学科で佐野利器(としかた)に学んだ。卒業時(1916年)には成績優秀につき恩賜の銀時計を授与された。 卒業後、滝川鉄筋コンクリート工務所を経て、1917年に内務省明治神宮造営局技師となり、佐野利器の指導のもと、聖徳記念絵画館(明治神宮外苑所在)の実施設計に従事した。アメリカ・ヨーロッパを外遊。
柳町 政之助(やなぎまち まさのすけ、1892年6月26日 … 柳町 政之助(やなぎまち まさのすけ、1892年6月26日 - 1985年2月21日)は、日本の経営者。高砂熱学工業社長を務めた。 東京都出身。1913年に東京高等工業学校機械科を卒業。高田商会での勤務を経て、1920年9月に高砂熱学工業に転じ、1948年8月から1955年7月までに社長を務めた。 1955年に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲五等瑞宝章を受章した。 1985年2月21日、脳内出血のために死去。92歳没。
石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 195… 石井 四郎(いしい しろう、1892年6月25日 - 1959年10月9日)は、日本の陸軍軍人、軍医。関東軍防疫給水部長、第1軍軍医部長を歴任する。最終階級は陸軍軍医中将。功四級、医学博士。731部隊の創設者として防疫活動や細菌戦の研究・実戦、人体実験を中国で行った。
牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6… 牧島 如鳩(まきしま にょきゅう、明治25年(1892年)6月25日 - 昭和50年1975年)12月31日)は、栃木県出身の画家で、日本ハリストス正教会の自給伝道者。本名は省三(せいぞう)、聖名はパウェル・ペートロイチ。若いころの号は朝陽、1926年(昭和元年)頃から如鳩、1962年(昭和37年)からは如九と名乗った。伝道の傍らイコンも手がける一方、観音や達磨など仏画や日本の八百万神のみならず、両者を習合した仏耶一如とも言える独特の絵を描いた。 1892年、栃木県梁田郡御厨村字上渋垂(現在の足利市上渋垂町)に、南画家で正教徒の牧島百祿の長男として生まれる。百祿は地元の日本画家・田崎草雲の弟子でもあった。
岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - … 岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - 1976年4月28日)は、日本の動物学者。学位は、理学博士(東京大学)。三重県立大学(現三重大学)教授、東海大学教授を歴任。 石川県加賀市出身。水産講習所(現東京海洋大学)卒業、東京帝国大学助手、1929年、理学博士(東京大学)(学位論文:「六枚海綿ファレア・ソラシーの發生に就て」)取得。東京高等師範学校教授、三重水産専門学校校長、戦後三重県立大学(現三重大学)教授、水産学部長。定年後、東海大学教授、日本魚類学会初代会長などを歴任。 動物学者としては、魚類、爬虫類や両生類などの分類学の分野において貢献している。 死後半世紀近くたったため、2020年代には岡田の著作はその殆どが国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化され、インターネット上で公開されている。
関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日… 関 義長(せき よしなが、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1970年〈昭和45年〉7月12日)は、日本の技術者、実業家。三菱電機会長を務めた。 徳島県知事、山形県知事等を務めた関義臣男爵の次男(庶子)として生まれる。貴族院議員関義寿男爵は異母兄。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1… 16代 式守 伊之助(じゅうろくだい しきもり いのすけ、1892年〈明治25年〉6月20日 - 1948年〈昭和23年〉12月3日)は、大相撲の立行司。本名は刀根亀吉、山形県山形市出身。 伊勢ノ海部屋所属、のち出羽海部屋。9代式守伊之助の弟子(のち養子)。わずか6歳で初土俵。松翁20代木村庄之助、21代木村庄之助の弟弟子。 出世は兄弟子の21代庄之助よりも早かったが、行司引退も45歳と早かった。その後、年寄・立田川を襲名して理事まで昇進した。1948年胃癌のため56歳で死去。 22代木村庄之助著『二十二代庄之助一代記』によれば、頭脳明晰で事務能力が素晴らしく、話のわかる人物だったが、太っていて行司にはやや不向きであったようである。
赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6… 赤柴 八重蔵(あかしば やえぞう、1892年(明治25年)6月18日 - 1977年(昭和52年)1月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺田。 本籍新潟県。寺田弥蔵の二男として生まれ、赤柴幾太郎陸軍大佐の養子となる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、歩兵第40連隊付となる。朝鮮臨時派遣歩兵第2大隊付などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。 歩兵第80連隊中隊長、陸士教官、第1師団参謀、陸軍省人事局付、人事局課員、欧州出張などを経て、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し陸士付となる。
三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 19… 三谷 隆信(みたに たかのぶ 1892年6月17日 - 1985年1月13日)は、日本の官僚、外交官、教育者。
高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月1… 高山 義三(たかやま ぎぞう、1892年(明治25年)6月15日 - 1974年(昭和49年)12月6日)は、日本の弁護士、政治家。京都市長(第19代)。国立京都国際会館初代館長。京都自由人権協会理事長。初代京都市会議長で第1回衆議院議員を務めた中村栄助の三男。 中村栄助の三男として京都市に生まれる。京都府立二中では野球部で小西作太郎とバッテリーを組んでいた。第五高等学校を経て1918年に京都帝国大学法科大学法律学科を卒業。学生時代は河上肇を顧問とする労学会に所属、キリスト教社会主義運動に参加。1917年、友愛会の初代京都支部長に選ばれた。賀川豊彦の影響により普選運動に携わった。 京大助手、同志社大学講師を経て、神戸で弁護士を開業した。
粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)… 粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)6月15日 - 不明 )は、日本の新聞記者であり、政治家である。岡山新聞(現:山陽新聞)の常務取締役、岡山交通取締役、岡山県議会議長を務めた。岡山県岡山市出身。 1892年(明治25年)岡山県御津郡大野村野田(現:岡山市)に粕山治三郎の次男として出生。その後、1905年(明治18年)に旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には、映画監督となる中川紫郎がいた。1910年(明治43年)に同校を卒業し、17歳で山陽新報(現:山陽新聞)へ入社する。 山陽新報へ入社してから2年後の1912年(明治45年)、大日本帝国海軍に志願し入隊。
小山田 正直(おやまだ まさなお、1892年〈明治25年〉6… 小山田 正直(おやまだ まさなお、1892年〈明治25年〉6月15日 - 没年不明)は、大正から昭和時代の政治家。公吏。静岡県沼津市長。 福島県出身。小山田直三の四男として生まれ、のち小山田重四郎の養子となり、1922年(大正11年)分家し一家を創立する。1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学商業科を卒業し、東京火災保険会社に入り、1918年(大正7年)大阪基督教青年会主事となり、1919年(大正8年)東京市に奉職し電気局電車課勤務、同局労働課長、同経理課長を経て、1931年(昭和6年)沼津市助役となった。その後、1933年(昭和8年)10月に同市長に就任した。1935年(昭和10年)7月まで務めた。
大森光彦(おおもりみつひこ、1892年〈明治25年〉6月13… 大森光彦(おおもりみつひこ、1892年〈明治25年〉6月13日 - 1954年〈昭和29年〉5月19日)は、日本の陶芸家。長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。愛知県立瀬戸窯業学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)卒業。 長野県庁に勤務する傍ら善光寺焼を手伝う。上京し川崎市で働いた後、1924年(大正13年)東京府中野町に東野窯を開き陶磁器制作に専念し、松屋銀座や日本橋白木屋で個展を開く。1933年からは日本美術協会の審査員。その後東京工芸学校の講師を務め、興亜院、大東亜省、文部省の委嘱で中国大陸に渡った。 真紅の鶏血釉や青磁に傾倒した。 弟子に辻輝子などがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
平沼 弥太郎(彌太郎、ひらぬま やたろう、1892年(明治2… 平沼 弥太郎(彌太郎、ひらぬま やたろう、1892年(明治25年)6月12日 - 1985年(昭和60年)8月12日)は、日本の林業家、実業家、政治家。参議院議員(1期)、埼玉県入間郡名栗村長。 埼玉県秩父郡名栗村(のち入間郡名栗村、現:飯能市)で、山林地主・平沼源一郎の長男として生まれる。1912年、京華中学学校を卒業し、その後、山林業を継承した。 合資会社平沼材木店代表社員、埼玉県木材社長(戦時統制会社)、埼玉県山林会副会長、全国山林会連合会常任幹事、埼玉県森林組合連合会会長、中央林業協会理事などを務めた。 その他、実業界では、飯能銀行会長、埼玉銀行頭取、全国銀行協会理事、名栗水電社長、経済団体連合会理事などを務めた。
岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8… 岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8日 - 1978年(昭和53年)4月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 福島県に生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後内務省に奉職し、1920年(大正9年)まで信濃川の分水工事に従事する。1921年(大正10年)横浜港拡張工事のため横浜土木出張所に赴任したが、工事中に関東大震災に見舞われ、同港の復旧工事に当たった。1924年(大正13年)には大阪市の顧問に転じ、堂島川、土佐堀川、道頓堀川などの可動堰や日本初の沈埋式の安治川河底トンネルの設計に当たった。 1927年(昭和2年)官職を辞し東京市土木局橋梁課長となり、吾妻橋、厩橋、両国橋など多くの橋の修理と架設に当たった。
大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 19… 大塚 博紀(おおつか ひろのり、1892年6月1日 - 1982年1月29日)は、日本の空手家。昭和期を代表する空手家の一人であり、和道流空手道の開祖。また、自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。 1892年(明治25年)、医師・大塚徳次郎の嫡男として茨城県真壁郡下館町(後の下館市、現在の筑西市)に生まれた。本名は大塚孝(こう)。1897年(明治30年)、江橋長次郎から為我流柔術の手ほどきを受けた。1905年(明治38年)、大塚は茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学、剣術師範でもあった中山辰三郎(神道揚心流第3代目師範)に師事して、神道揚心流柔術と為我流柔術を学んだ。
阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 -… 阿部 清(あべ きよし、1892年(明治25年)6月1日 - 1979年(昭和54年)5月24日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。工学博士。京都大学名誉教授。 徳島県徳島市蔵本元町に生まれる。徳島県立徳島中学校(現:徳島県立城南高等学校)、第六高等学校を経て京都帝国大学工科大学電気工学科に入学。1918年(大正7年)同校を卒業後、財団法人青柳研究所(現:公益財団法人応用科学研究所)に入る。のち京都大学講師、助教授を経て1940年(昭和15年)教授となった。この間の1935年(昭和10年)に学位論文「特別高圧回路自働遮断器」により 工学博士 (京都帝国大学)の学位を取得している。1955年(昭和30年)退官後は、同志社大学工学部教授、日本放送協会経営委員会委員などを歴任した。
堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - … 堀 潮(ほり うしお、1892年(明治25年)6月1日 - 1966年(昭和41年)4月18日)は、日本の思想史家。専門はイギリス政治思想、経済思想。一橋大学名誉教授。 熊本県玉名郡長洲町出身。熊本商業学校 (現・熊本県立熊本商業高等学校)在学中、のちに同僚となる村瀬玄に師事。1911年朝鮮銀行入行。1918年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。外交官を志して、1920年に同校専攻部領事科専攻卒業。東京ではのちに尺八演奏家となった同郷の吉田晴風及びその母とともに、筑土八幡町の長屋の一隅を借りて生活した。 1920年堀光亀教授に請われ文部省在外研究員となるため、法政大学教授及び明治学院教授に就任。
永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)… 永川 俊美(ながかわ としみ、1892年6月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト。 永川越太郎の長男として福岡県に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1916年早稲田大学政治経済学科を卒業。 1916年東京朝日新聞(現・朝日新聞東京本社)政治部に入社し、1923年同次長に進み、政治経済部次長を経て、1930年連絡部長に就任。その後、朝日新聞名古屋支社(現・朝日新聞名古屋本社)編集局長に転じ、1939年同支社長も兼任、1940年に名古屋支社が中部本社となるとその社長兼編集局長となる。
中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月… 中村 寿一(なかむら じゅいち、1892年〈明治25年〉5月29日 - 1956年〈昭和31年〉1月6日)は、日本の政治家。愛知県挙母市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)、挙母町長、愛知県会議員などを歴任した。 挙母町長在職中、トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の工場誘致、土地買収に尽力したことで知られる。 愛知県八名郡下条村(現・豊橋市)出身。農業を営む中村桂次郎の長男として生まれる。下川村第一尋常高等小学校卒業。父の死をきっかけとして1906年(明治39年)、14歳のときに家を出て農業試験場養蚕部に入る。養蚕教師として西三河の農家の指導にあたった。 1912年(明治45年)、第15師団に入隊。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年(明治25年)5月27日 - 1929年(昭和4年)3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長をつとめ、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。
澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1… 澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年〈明治25年〉5月27日 - 1929年〈昭和4年〉3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長を務め、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。 澤田正弘・寿々子の第3子として、滋賀県大津市の三井寺の近くに生まれる。父は土佐藩士で維新後は収税吏を務めていたが、2歳のときに没してしまった。その後一家は上京し、1898年(明治31年)、車坂(現:東京都台東区上野七丁目)にあった下谷小学校(1990年に台東区立上野小学校へ統合)へ入学した。 1903年(明治36年)、開成中学校へ進み、翌年の陸軍中央幼年学校の受験は、近視により失敗した。