小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月1… 小林 一郎(こばやし いちろう、1916年〈大正5年〉9月10日 - 2009年〈平成11年〉4月11日)は、日本の国文学者。田山花袋研究の第一人者。東洋大学短期大学学長を務めた。 群馬県桐生市生まれ。旧制桐生中学校、二松学舎専門学校を経て、東洋大学文学部国文科卒業。 1975年、「田山花袋研究」で文学博士号取得(東洋大学)。伝記的、実証的研究によって田山花袋研究の基礎を作った。館林市田山花袋記念館顧問。花袋のほか、森鷗外・夏目漱石・川端康成・太宰治についての研究も行う。 2009年4月11日、心臓疾患のため92歳で死去。
岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 20… 岡野 良定(おかの よしさだ、1916年9月10日 - 2008年1月30日)は、実業家、元三菱自動車工業会長。サッカー選手、サッカー指導者、三菱重工業サッカー部(現:浦和レッズ)創設者、初代監督。選手時代のポジションはフォワード。 広島県広島市白島(現:中区白島)出身。広島一中(現:広島県立国泰寺高校)、広島高等学校卒業。一中時代からサッカー一筋で一中の2つ上の先輩にのちに東洋工業サッカー部を創設する山崎芳樹がいる。広高時代、1938年の第14回全国高等学校ア式蹴球大会では主将・フォワードとしてチームを優勝に導く。京都帝国大学経済学部進学後も蹴球部で活躍、1941年卒業。同年、三菱重工業入社。
山川 弘至(やまかわ ひろし、大正5年(1916年)9月10… 山川 弘至(やまかわ ひろし、大正5年(1916年)9月10日 - 昭和20年(1945年)8月11日)は、歌人、詩人、国文学者。 岐阜県奥美濃の郡上市生まれ。國學院大學文学部国文科卒。折口信夫に師事。林富士馬らと文芸同人誌を興す。田中京子(山川京子)と結婚後5日目に召集され、敗戦直前に台湾で爆撃のため28歳で死去。 . NCID BB08934063
国東 文麿(くにさき ふみまろ、1916年9月10日 - 2… 国東 文麿(くにさき ふみまろ、1916年9月10日 - 2012年11月3日)は、日本の国文学者。早稲田大学名誉教授。 早稲田大学卒、早稲田大学商学部教授、1987年定年、同名誉教授。『今昔物語集』が専門。 1990年、勲四等瑞宝章を受章。2012年11月3日、老衰のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993… 山本 博(やまもと ひろし、1916年9月9日 - 1993年)は、日本の柔道家(講道館9段)。 大阪府布施市域(現・東大阪市)出身で、生家7人姉弟のうち唯一の男児であった。逆七福神と言われ過保護の中で育ち、幼少時代からの病弱・泣き虫を見かねた父の取り計らいにより中学は大阪市内ではなく、勉学よりもスポーツを志して府下の旧制四條畷中学校(現・府立四條畷高校)に入学。50番目中32番目という小柄な体格であった山本が、いじめに遭わないようにと自らの意志で柔道部に入部したのが柔道との出会いであった。中学校の柔道教員は山本が生涯の師と仰ぐ事となる浜野正平(のち大阪府警師範)で、山本は浜野の元で“道場の虫”とあだ名されるほど稽古に打ち込んだ。
大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992… 大山 梓(おおやま あずさ、1916年9月9日 - 1992年3月2日)は、日本の歴史学者(日本近代政治史)、海軍軍人(短期現役士官)。軍人時代の最終階級は海軍主計大尉、学位は法学博士。広島大学法学部教授、帝京大学法学部教授。大山巌の孫(大山柏の長男)。長女に由美子。
奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日… 奥原 義人(おくはら よしと、1916年〈大正5年〉9月9日 - 2001年〈平成13年〉11月19日)は、日本の実業家、政治家。元広島県呉市市長。呉信用金庫理事長。寿工業相談役。 広島県呉市出身。1931年、阿賀高小卒、同年に広島海軍第十一航空廠に勤務。1935年、東亜航空工業に転じ、のち取締役。 1945年、寿組社長。1946年、寿農機具製作所社長。1947年、奥原商店取締役。寿工業取締役、常務顧問をつとめた。 1951年、呉市議会議員に当選。1952年、同市議会議長。1961年11月に呉市長に当選。1978年、呉信用金庫入庫、同理事長。 趣味は囲碁、読書、ゴルフ。住所は呉市西中央5丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年… 澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - 2008年9月7日)は、群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。
松村 明(まつむら あきら、1916年9月3日 - 2001… 松村 明(まつむら あきら、1916年9月3日 - 2001年11月22日)は、日本の国語学者。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。称号は文学士、東京大学名誉教授。『大辞林』の編纂者として知られる。
横田 健一(よこた けんいち、1916年(大正5年)9月3日… 横田 健一(よこた けんいち、1916年(大正5年)9月3日 - 2012年(平成24年)2月6日)は、日本の歴史学者。専門は日本古代史。関西大学名誉教授。 父貫次・母せつの長男として兵庫県神戸市生田区(現中央区)に出生。 神戸市立諏訪山尋常小学校、神戸市立山手尋常小学校(転入)、兵庫県立第一神戸中学校、第三高等学校文科(甲類入学)を経て、1937年4月、京都帝国大学文学部史学科に入学(国史学専攻)。 1940年3月、京都帝国大学文学部史学科卒業、1941年4月海軍機関学校教授。1946年6月 関西大学教授。1964年、関西大学文学部長(~1966年)。1972年、学校法人関西大学理事(~1977年)。
野村 耀昌(のむら ようしょう、1916年9月3日 - 19… 野村 耀昌(のむら ようしょう、1916年9月3日 - 1997年3月2日)は、日蓮宗の僧、刻字作家。 立正大学卒。1966年「周武法難の研究」で立正大学文学博士。立正大学仏教学部教授。87年定年退任、名誉教授。中国仏教史が専門。
吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2… 吉國 一郎(吉国 一郎、よしくに いちろう、1916年9月2日 - 2011年9月2日)は、日本の商工・法制官僚。位階は正三位。 内閣法制局長官。第9代プロ野球コミッショナー。神奈川県出身。 旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学卒業。 1940年、商工省入省。同期に熊谷典文、国井真、小島慶三、加藤悌次(鉱山局長)等。 戦後は新制通商産業省から出向で内務省解体後の総理府において、主に法令審査畑を歩む。法制局長官総務室主幹、法制局第三部長、内閣法制局第一部長、内閣法制次長等を歴任。 1972年、第1次田中角榮内閣の下において内閣法制局長官に就任。その後、田中角栄・三木武夫の2人の首相に合計4年半仕えた。
伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2… 伊庭 長之助(いば ちょうのすけ、1916年9月2日 - 2004年)は、日本の広告制作者。 東京都出身。慶應義塾大学文学部を卒業(昭和16年)。戦後、在日駐留軍中央購買局に勤め、昭和33年に日本天然色映画を設立し、社長に(1990年に東北新社に売却)。全日本CM協会理事や、JAC(日本テレビCM制作社連盟)会長なども務めた。平成16年に88歳で死去。 2007年に伊庭記念会が設立された。
馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 199… 馬瀬 清亮(ませ せいすけ、1916年8月31日 - 1993年12月18日 )は、日本の経営者。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。旧制富山高等学校を経て、1939年に東京帝国大学法学部を卒業。兵役を経て、1946年に北陸銀行に入行した。1961年5月に取締役に就任し、1964年11月に常務を経て、1970年3月に頭取に就任。1980年6月には会長に就任。 1978年11月には藍綬褒章を受章。 1993年12月18日、脳出血のために死去。77歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
牧本 利夫(まきもと としお、1916年8月30日 - 20… 牧本 利夫(まきもと としお、1916年8月30日 - 2004年1月29日)は、日本の工学者。大阪大学名誉教授、摂南大学名誉教授、元電子通信学会副会長。専門はマイクロ波工学。工学博士(東京工業大学)(1956年)。広島県出身。息子は元福山市長の牧本幹男。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
長谷川 達海(はせがわ たつみ、1916年〈大正5年〉8月3… 長谷川 達海(はせがわ たつみ、1916年〈大正5年〉8月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。チッソ興産(現:日祥)元代表取締役社長。チッソコーナーカーム コンサルタント元代表取締役社長。孫は元フジテレビアナウンサーの長谷川豊。次男は関西右翼の重鎮として活動してきた政治活動家(一日会主宰)の長谷川潤(中山嶺雄)。 現在の東京都出身。茨城県、長谷川信吉・ナミ夫妻の次男に生まれる。1939年(昭和14年)東京商科大学(現:一橋大学)附属商学専門部(高等商業学校に相当する課程、修業年限3年)を卒業。 同年3月日本窒素肥料(現:チッソ)に入社し、1945年(昭和20年)当時朝鮮半島最大の肥料工場であった興南工場(戦後北朝鮮政府に接収され、現在は興南肥料連合企業所として運営)に勤務。
塩谷 賛(しおたに さん、1916年8月28日 - 1977… 塩谷 賛(しおたに さん、1916年8月28日 - 1977年5月8日)は、編集者、幸田露伴研究家。本名は土橋利彦。 東京府生まれ。東京府立第三中学校を卒業後、1942年甲鳥書林に入社、44年幸田露伴の許を訪れ、そのまま助手となり『評釈芭蕉七部集』などの口述筆記にたずさわる。46年『中央公論』に「天皇」を発表。47年露伴の没後は、岩波書店「露伴全集」ほかの編纂に携わり、娘の「幸田文全集」中央公論社ほかの編纂にも関わった。 1960年失明。音声テープ等を用い約五年がかりで評伝『幸田露伴』を執筆、1968年に第20回読売文学賞を受賞。
内山 龍雄(うちやま りょうゆう、1916年(大正5年)8月… 内山 龍雄(うちやま りょうゆう、1916年(大正5年)8月28日 - 1990年(平成2年)8月30日)は、日本の物理学者(理論物理学)。重力場を含む一般ゲージ場の創設者。第14代大阪大学理学部長。大阪大学名誉教授。理学博士(大阪大学・論文博士・1951年)。 1954年ごろまでに、楊振寧、ロバート・ミルズとは別に重力と電磁力を結び付ける一般ゲージ理論(非可換ゲージ理論)の研究を完成させていた。同年京都大学基礎物理学研究所でのワークショップで発表したものの、反応は否定的で支持を得られなかった。( L O'Raifeartaigh"The Dawning of Gauge THeory"Princeton Univ.Press,p208-209, 『龍雄先生の冒険』窮理舎(痛恨の記))国外では、ヴォルフガング・パウリが1953年には、非可換ゲージ理論を完成させていたが、こちらもゲージボソンに質量を与える方法が分からないという理由で論文発表を控えていた。
清水 晶(しみず あきら、1916年8月27日 - 1997… 清水 晶(しみず あきら、1916年8月27日 - 1997年4月30日)は、日本の映画評論家、編集者である。『映画評論』編集長、フィルム・ライブラリー協議会(のちの川喜多記念映画財団)事務局長、川喜多記念映画財団常務理事、慶應義塾大学講師等を歴任した。 1916年(大正5年)、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。 東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科に入学、在学中の1938年(昭和13年)、映画評論を開始する。1941年(昭和16年)、同学を卒業、日本映画雑誌協会に勤務する。1942年(昭和17年)、中国の上海に渡り、中華電影公司に入社する。1943年(昭和18年)、帰国し、『映画評論』誌の編集長に就任する。
山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月… 山下 与志一(やました よしいち、1916年〈大正5年〉8月27日 - 1991年〈平成3年〉12月3日)は、日本の脚本家。本名は山下 義一。 台湾・台中の出身。早稲田大学文学部英文科(昭和15年)卒。文学座演出部員や東宝脚本部員を経て、シナリオライターとなった。日本放送作家組合の幹事も務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8… 北白川 祥子(きたしらかわ さちこ、1916年〈大正5年〉8月26日 - 2015年〈平成27年〉1月21日)は、日本の旧皇族、宮内庁女官長。北白川宮永久王の妃。旧名は、徳川 祥子(とくがわ さちこ)。皇族時代の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。 男爵徳川義恕と妻・寛子(津軽承昭伯爵令嬢)の二女として誕生した。姉は幼少期に夭折し、兄妹の唯一の女子として愛情を受けて育った。長兄の徳川義寛は昭和天皇の侍従長。次兄の津軽義孝は常陸宮妃華子の父に当たる。 東京女子高等師範学校を卒業後は、花嫁修業をする。1934年(昭和9年)6月19日、婚約が内定したことが、非公式に発表された。この際、祥子の人となりは「明朗な典型的近代女性」かつ「お茶の水時代にお伴もつれずにお獨りで毎日電車で通学されたほど平民的な方」と報じられた。
坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26… 坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名。
隅谷 三喜男(すみや みきお、1916年(大正5年)8月26… 隅谷 三喜男(すみや みきお、1916年(大正5年)8月26日 - 2003年(平成15年)2月22日)とは、日本の経済学者。専門は労働経済学。1982年日本学士院会員。東京大学名誉教授、北京大学名誉教授、遼寧大学名誉教授、東北師範大学名誉教授、中国社会科学院名誉高級研究員。昭和36年、東京大学経済学博士。博士論文は「日本賃労働史論」。キリスト教功労者。
宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年… 宮 栄二(みや えいじ、1916年8月26日 - 1986年11月27日)は、新潟県の地方史研究者。 新潟県長岡市出身。1939年東京帝国大学文学部国史学科卒。内務省、北方文化博物館、新潟県教育長などをへて、新潟大学講師。県文化財保護審議委員、良寛会常任委員長。
井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986… 井手 則雄(いで のりお、1916年8月25日 - 1986年1月3日)は、日本の彫刻家、美術評論家、詩人。別名は矢野 則雄。 朝鮮京城府生まれ、長崎県北松浦郡佐々村出身。1939年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業、1941年研究科修了。 在学中から二科展などに出品、1943年銀座で個展を開く。戦後、前衛美術会を結成。1972年12月宮城教育大学教授。1981年退官。『純粋詩』『造型文学』『新日本詩人』『列島』などに詩や評論を発表。 1986年1月3日、福島県双葉郡富岡町の小浜海岸を散歩中に転倒して、怪我によって起きられなくなったまま凍死した。墓所は多磨霊園。 元妻は、女性史研究家の井手文子。
三越 左千夫(みつこし さちお、1916年〈大正5年〉8月2… 三越 左千夫(みつこし さちお、1916年〈大正5年〉8月24日 - 1992年〈平成4年〉4月13日)は、日本の詩人、児童文学作家。本名は三津越幸助(みつこし こうすけ)。千葉県香取郡大倉村(現:香取市)出身。 昭和20年頃より神保光太郎、高橋新吉、山之口貘らと交流があり、戦後現代詩の書き手の1人として活動。1950年に江口榛一と童謡詩誌『キツツキ』を創刊。詩誌『薔薇科』などに同人として参加。また、NHKのプロデューサーであった三枝健剛(三枝嘉雄)と知り合い、ラジオ番組の台本の執筆の他、『音楽夢くらべ』という番組の詩の選と補選を十数年担当した。 主な詩集に『柘榴の花』『夜の鶴』、童話集に『あの町この町、日が暮れる』『ぼくはねこじゃない』『かあさんかあさん』などがある。
石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 19… 石川 悌二(いしかわ ていじ、1916年8月24日 - 1987年)は、日本の作家、文学・地理研究家。 台湾・台北生まれ、東京出身。1943年早稲田大学文学部国文科卒。1947年「魚紋」を発表して小説家を志し、1973年「近代作家の基礎的研究」を刊行。東京都公文書館主任調査員の傍ら、ライフワークとして「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆した。
海達公子(かいたつ きみこ、1916年8月23日 - 193… 海達公子(かいたつ きみこ、1916年8月23日 - 1933年3月26日)は、日本の詩人である。 1916年(大正5年)、長野県下伊那郡飯田町(現、飯田市)に生まれ、父親の仕事の関係で熊本県玉名郡荒尾町(現、荒尾市)で育つ。1923年(大正12年)、荒尾北尋常小学校に入学。1924年(大正13年)、海達が小学2年生のとき、文芸雑誌「赤い鳥」に詩を投稿。詩人北原白秋に称賛される。それ以後、詩人として全国に知られるようになる。1929年(昭和4年)、同校を卒業。1933年(昭和8年)、高瀬高等女学校(現、玉名高等学校)卒業式の日に腹膜炎で倒れ、同月26日に17歳で死去。
五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 … 五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 - 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭。五島慶太の長男。 東京府東京市神田区駿河台(現・東京都千代田区神田駿河台)に、五島慶太、万千代(旧姓久米)の長男として生まれる。学習院初等科、中等科 (旧制)、高等科 (旧制) を経て東京帝国大学経済学部を卒業。学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが、のちにゴルフ部へ転部。ゴルフがきっかけで知遇を得た東京芝浦電気副社長・津守豊治の紹介で同社に入社した。昇には父の跡を継ぐ気がなかった。 慶太には昇と進という二人の息子がいた。兄・昇は常日頃から父に反抗し「絶対に(父の)を跡を継がない」と放言していた。
早川 崇(はやかわ たかし、 1916年(大正5年)8月21… 早川 崇(はやかわ たかし、 1916年(大正5年)8月21日 - 1982年 (昭和57年)12月7日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。自治大臣、国家公安委員会委員長、労働大臣、厚生大臣を歴任した。 1916年(大正5年)8月21日、現在の和歌山県田辺市に生まれる。田辺市立田辺第一小学校、旧制和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校文科甲類を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。東大では矢部貞治の門下で、同期生には中曽根康弘(後の首相)、小沢辰男(後の厚相)がいる。高等文官試験に合格し東大卒業後、内務省に入省する。
橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )… 橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
渋谷 直蔵(しぶや なおぞう、旧字体: 澁谷 直藏、1916… 渋谷 直蔵(しぶや なおぞう、旧字体: 澁谷 直藏、1916年(大正5年)8月20日 - 1985年(昭和60年)12月16日)は、日本の政治家、労働官僚。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 福島県出身。旧制石川中学校、旧制第二高等学校(文科乙類)、1940年東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業後、内務省入省。東京府内務部地方課属。それから2ヶ月後に東京府議会副議長の長女と結婚。短期現役海軍主計科士官(5期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官。1941年1月、経理学校を卒業したが病のため療養。同年4月、横須賀海兵団付となる。1942年5月、主計大尉に進む。1943年、武山海兵団予備学生教官兼副官に転じた。
山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日… 山崎 正(やまざき ただし、1916年〈大正5年〉8月20日 - 1968年〈昭和43年〉1月19日)は、日本の作詞家。代表作の『お富さん』は春日八郎の歌唱により戦後日本の復興を代表するヒット曲のひとつとなった。 東京市亀戸町に生まれ、母親の再婚を機に群馬県高崎市に転居、旧制高崎中学卒業後、東京美術学校に入学、高橋掬太郎門下で作詞を学び、歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。 1937年、日中戦争による召集で高崎歩兵第15連隊に入隊、同年9月20日、傷病により現地の野戦病院に収容、翌10月4日に満州チチハル陸軍病院に転院。病院で作詞を続け『踊る支那兵』を「幌馬車」に発表。帰還後に前橋市の料亭「鳥辰」の長女ふみ子と結婚、1942年に作詞した『暁の門出』『茶作り次郎長』『軍歌千里」がレコード化されプロの作詞家としてデビューするも、1944年に再び召集、東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊(東部第38部隊)の兵長として内地で終戦を迎える。
大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月2… 大西 巨人(おおにし きょじん、1916年(大正5年)8月20日 - 2014年(平成26年)3月12日)日本の小説家・評論家。本名は同じく「巨人」と書いて「のりと」。マルクス主義の立場を堅持し、唯物論的観点から個人の尊厳を創作で追究した。小説・批評のいずれにおいても、常に主体を明確にした、論理性を重んじる文体を用いた。 戦後、「近代文学」などに小説・評論を発表。戦後文学・思想の方向性を巡る論争で積極的に発言する。1955年から25年間書き継いだ『神聖喜劇』のほか、『五里霧』(1997年)、『迷宮』(2004年)など。 福岡県福岡市出身。旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、旧制福岡高等学校卒業、九州帝国大学法文学部中退。
近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 198… 近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 1989年12月14日)は、日本の演出家、音楽評論家、NHKディレクター・プロデューサー、音楽部長。NHKテレビ草創期のディレクターで、『NHK紅白歌合戦』の創設を始め、『今週の明星』、『懐かしのメロディー』など多くの歌謡番組を手掛けた。 広島県出身。1940年日本大学卒業後、当時社団法人だったNHKに入局。 当初から音楽番組の担当で、終戦年の1945年、大晦日に放送するラジオの大型音楽番組の企画を担当。スポーツの対抗戦の形をとり男女が紅白に分かれて戦うという構想で『紅白音楽合戦』を立案した。こうした発想は当時としては非常に斬新なものだった。
水の也 清美(みずのや きよみ、1916年8月18日 - 没… 水の也 清美(みずのや きよみ、1916年8月18日 - 没年不詳)は、日本の女優である。兵庫県神戸市出身。本名は水谷 貞(みずたに さだ)(根沢 貞子とも)。宝塚歌劇団時代の芸名は左近 八重子(さこん やえこ)。愛称はサアちゃん。 兵庫生まれで兄三人姉一人妹一人がいた。水谷八重子は叔母で9歳のときに叔母とともに初舞台を踏む。幼少期は芸術座にいて芸術座童話劇部として活動していた。東京府立第五高等女学校(現在の東京都立富士高等学校・附属中学校)を三年で中退、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入る。1931年に宝塚少女歌劇団の21期生として入団。同期に轟夕起子、服部富子がいた。1932年4月、『フーピー・ガール』で初舞台を踏んだ。
阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 … 阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 - 2007年(平成19年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。最終階級は、海軍では海軍少佐、空自では一等空佐。ペンネームは阿部善朗(あべ ぜんろう)。 1916年(大正5年)8月18日、山口県に生まれる。1933年(昭和8年)3月、山口中学校を卒業し、海軍兵学校に第64期生として入校。1937年(昭和12年)3月23日、海軍兵学校(64期)を卒業し、任海軍少尉候補生。1937年(昭和12年)11月、熊野に乗組。1938年(昭和13年)3月10日、海軍少尉に任官。同年3月28日、卯月に乗組。同年7月28日、第31期飛行学生を拝命。
新島 正子(にいじま まさこ、1916年8月17日 - 20… 新島 正子(にいじま まさこ、1916年8月17日 - 2014年10月4日)は、沖縄県出身の教育家。料理研究家。沖縄調理師専門学校設立者。沖縄の郷土料理の体系化、テキスト化に尽力した。またテレビ、ラジオ、講演等で活躍し、沖縄料理の発展に貢献した。 1933年、沖縄県立第一高等女学校卒業。1936年、東京家政学院専門部卒業。1938年、結婚を機に満州に渡り、戦後大阪に引き揚げた。夫の急死に伴って帰郷し、1959年、沖縄県初の料理学校である新島料理学院を設立した。1962年、琉球料理研究会を主催し、その普及・指導に当たる。1974年、沖縄調理師専門学校創立し、校長に就任。2001年から2009年まで沖縄満州会の初代会長を務めた。
中尾 佐助(なかお さすけ、1916年8月16日 - 199… 中尾 佐助(なかお さすけ、1916年8月16日 - 1993年11月20日)は、日本の植物学者。大阪府立大学名誉教授。専門は遺伝育種学、栽培植物学。ヒマラヤ山麓から中国西南部を経て西日本に至る「照葉樹林帯」における文化的共通性に着目した「照葉樹林文化論」を提唱した。
松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 19… 福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である。別名船橋 一(ふなばし はじめ)。1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る。第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける。1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画(英語版)も手がけた。 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる。
田畑 英勝(たばた えいかつ、旧名:龍英勝、1916年8月1… 田畑 英勝(たばた えいかつ、旧名:龍英勝、1916年8月15日 - 1983年8月11日)は、日本の民俗学者。奄美群島の民俗調査、著作に功績がある。 奄美大島の旧家の長男として鹿児島県名瀬市で生まれる。名瀬尋常高等小学校(奄美市立名瀬小学校)、旧制鹿児島県立大島中学校(鹿児島県立大島高等学校の前身)を経て、國學院大學で折口信夫、柳田國男に師事する。旧制大島中では美術部と乗馬部、国学院大学では柔道部として活動。1939年に國學院大學本科国文科を卒業後、台湾での教職を経て、満洲国立新京法政大学(中国語版)教授。戦後は1947年に故郷奄美大島に帰り、旧制奄美高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身)および同専攻科の教員を務めながら、奄美の民俗研究に取り組む。
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1… 藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。
中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月… 中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月13日 - 1999年(平成11年)9月22日)は、日本の歌人、国文学者。北海道出身。 札幌一中を経て、國學院大學高等師範に入学後、北原白秋『桐の花』や、釈迢空の歌との出会いで作歌を始める。卒業後、1936年(昭和11年)に「歌と観照」に入会し、岡山巌に師事する。札幌商業学校に就職し結婚。12月に応召を受けて満州に渡るが、1941年(昭和16年)に帰国して、札幌商業学校に復職。その後、母校札幌一中や、札幌東高校で教職に就く。1946年(昭和21年)「原始林」創刊に参加し、後に山下秀之助に師事して共同で作歌を始めた。 1953年(昭和28年)からは田辺杜詩花没後の後継として同誌編集発行の代表となる。
川田 泰代(かわた やすよ、1916年8月12日 - 200… 川田 泰代(かわた やすよ、1916年8月12日 - 2001年5月5日)は、日本のジャーナリスト、平和運動家。『婦人画報』の編集者、編集長として活動した後、フリーランスの著述業に転じ、アムネスティ・インターナショナルの活動に参画し、もっぱら東アジアの政治犯、いわゆる「良心の囚人」の救援活動に携わった。 大阪府大阪市に生まれる。 1937年に東京女子大学を卒業して『婦人画報』の編集者となるが、1939年に退社して、結婚し、3児の母となる。 戦後、離婚して、1950年に『婦人画報』に復帰し、後に編集長となる。 1960年にはオーストリアで開催された第2回世界ジャーナリスト会議に参加した。またこの前後には、さらに中国、ソビエト連邦、東ドイツ、ハンガリー、チェコスロバキアといった当時の東側諸国から招待を受けて歴訪する。
原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 … 原田 要(はらだ かなめ、1916年(大正5年)8月11日 - 2016年(平成28年)5月3日)は、日本の海軍軍人、戦闘機操縦者、最終階級は海軍中尉。 長野県上水内郡浅川村(現長野市)の農家に生まれた。わんぱくで勉強は好きではないが、よく出来たほうで、1929年(昭和4年)、旧制長野中学(現長野県長野高等学校)に入学する。 1933年(昭和8年)、一般志願兵として海軍に入隊し、横須賀海兵団で新兵教育を終えた後、駆逐艦「潮」乗組みとなった。だが大砲や魚雷があまり好きになれず、やがて幼少時に見て以来ずっと憧れていた飛行機に乗りたいと志すようになったものの、上司や父の反対のため、たまには飛行機に乗せてもらえるということで、1935年(昭和10年)横須賀航空隊に航空兵器術練習生として入隊した。
石神 兼文(いしがみ かねふみ、1916年8月11日 - 2… 石神 兼文(いしがみ かねふみ、1916年8月11日 - 2011年4月27日)は、日本の法学者。鹿児島大学第6代学長・名誉教授。専門は民法、特に財産法。 鹿児島県日置郡東市来村長里(現・日置市東市来町長里)にて生まれる。鹿児島県立伊集院中学校 (旧制)を経て、1935年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科甲類を卒業。1940年3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業して、大日本航空に入社するが、翌年3月に軍に現役入隊となり休職。1946年3月、復員。1947年10月から1950年10月まで、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校とその学制改革後の鹿児島県甲南高等学校にて教諭を務め、社会科の一般社会の授業を担当。
渡辺 静子(わたなべ しずこ、1916年8月11日 - 20… 渡辺 静子(わたなべ しずこ、1916年8月11日 - 2011年5月2日)は、日本の国文学者・俳人。 東京生まれ。筆名・渡辺 しおり。1937年実践女子専門学校(現・実践女子大学)国文科卒、結婚するが夫を亡くしたあと、1966年東洋大学大学院博士課程満期退学、清和女子短期大学教授、1972年大東文化大学教授、87年名誉教授。1991年「中世日記文学論序説」で大東文化大学文学博士。専門は中世・中世日記文学。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
菊地 利夫(きくち としお、1916年8月10日 - 201… 菊地 利夫(きくち としお、1916年8月10日 - 2011年10月30日)は、日本の地理学者。 岩手県一関市生まれ。北海道名寄中学校卒、東京高等師範学校卒、1942年東京文理科大学理学部地理学科卒、海軍予備学生として入営、大尉で敗戦。46年市川市立国府台高等学校教諭、47年千葉師範学校助教授、1950年千葉大学教育学部助教授、57年教授、「新田開発の地理学的研究」で東北大学理学博士、1976年筑波大学教授、79年定年退官、名誉教授、流通経済大学教授。
宮武 康夫(みやたけ やすお、1916年8月10日 - 20… 宮武 康夫(みやたけ やすお、1916年8月10日 - 2006年12月26日)は、日本の経営者。安田火災海上保険社長、会長を務めた。 香川県出身。1937年に高松高等商業学校を卒業し、同年に安田火災海上保険に入社。 1971年6月に取締役に就任し、1974年6月に常務、1977年7月に専務を経て、1978年7月に副社長に就任し、1980年7月には社長に昇格。1983年2月から同年8月までに会長を務めた。 経済団体連合会常任理事、講道館理事、全日本柔道連盟顧問も務めた。 2006年12月26日肺炎のために死去。90歳没。