苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28… 苧阪 良二(おさか りょうじ、1918年〈大正7年〉6月28日 - 2018年〈平成30年〉8月12日)は、日本の心理学者。京都大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。視空間構造の成立に係わる心理学的研究、眼球運動計測に関する研究などで知られる。長男は苧阪直行、長男の妻は苧阪満里子。 京都市左京区吉田に生まれる。旧制京都府立京都第一中学校、旧制第三高等学校理科甲類を経て、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学文学部心理学科を卒業(卒業論文は「視空間の異方向性 - 月の錯視について」)後、海軍予備学生として応召され海軍兵学校舞鶴分校教官として電測術および心理学を担当する。終戦後、復員し1945年(昭和20年)11月より京都帝国大学大学院文学研究科部哲学専攻にて学ぶ。
陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28… 陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28日 - 2000年(平成12年)1月13日)は、日本の国際政治評論家である。『ハリウッドとマッカーシズム』などの著作で知られる。 東京出身。1940年、青山学院(のちの青山学院大学)高等商学部を卒業。第二次世界大戦中は太平洋協会、戦後は世界経済研究所に勤務し、アメリカ研究所長(1966年 - 1973年)、アジア・アフリカ研究所員(1961年 - 2000年)、「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」事務局長(1966年 - 1975年)を歴任した。1967年、ベトナム戦争における米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)に参加し、調査や証言を行った。
明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 19… 明道 博(みょうどう ひろし、1918年6月28日 - 1988年)は、日本の園芸学者。専門は環境保全学花卉・造園学。北海道大学では農学部長,農学部附属農場長,本学評議員を歴任。 昭和38年に園芸学会賞学術賞受賞。1986年第9回日本公園緑地協会北村賞受賞。 著書に『朝日園芸百科』(編集、朝日新聞社、1984年)『花卉・造園学とともに歩んで』(北大農学部,明道博先生退官記念事業会、1982年)『百合(ユリ)入門』(共著、池田書店、1976年)『北国の鉢植え』(監修、北海道協同組合通信社、1976年)『楽しい北国の庭と花づくり』(北海道農業改良普及協会、1972年)『草花』(朝倉書店、1958年)など。
塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月2… 塩川 優一(しおかわ ゆういち、1918年(大正7年)6月27日 - 2016年(平成28年)4月28日)は、日本の内科学者である。 兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学医学部(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)卒業後は、第二次世界大戦により従軍しビルマ等で軍医として活動した。戦後の1946年(昭和21年)に帰国し、その後は母校附属の第2内科に勤務した。1955年(昭和30年)には順天堂大学の助教授として活動し、1964年(昭和39年)には教授に昇格する。1969年(昭和44年)には同大学に膠原病を専門とした内科の開業に携わり、1979年(昭和54年)には順天堂大学医学部附属順天堂病院の院長も務めた。
村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 20… 村上 正名(むらかみ まさな、1918年6月26日 - 2002年2月9日)は、日本の教育学者、郷土史家。元広島大学附属福山中学校・高等学校教諭。勲四等旭日小綬章受章。後に従四位に叙せられた。 「東洋のポンペイ」と呼ばれる草戸千軒遺跡の発掘に尽力した。個人的な調査と資料をもとに草戸千軒集落の発掘と保存を粘り強く行政に訴えつづけ、1961年に福山市が行った発掘調査に続き、1973年に広島県により調査所が、1976年調査研究所を発足させるに至った。これ以降、1990年までに行われた全面的な調査と研究が継続され、草戸千軒遺跡の全貌が明らかになり、広島県立歴史博物館の創設をもたらすことにもなった。 また、姫谷焼について、日本陶磁協会誌『陶説』を場として、当時まだ地方窯(じかたよう)としか見られていなかった色絵姫谷焼の貴重性を広く世に広めた。
岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 … 岩永 健吉郎(いわなが けんきちろう、1918年6月26日 - 1998年11月22日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。 福岡市に生まれる。1936年福岡県中学修猷館、1938年第一高等学校文科甲類を経て、戦争による非常時を理由に高等教育の修業年限が短縮されたことにより、1941年12月東京帝国大学法学部政治学科を3か月繰り上げて卒業。東大在学中は、戦時色が高まる中で欧米における民主政の発展過程を学ぶことに心の救いを求め、高木八尺教授のアメリカ政治史や岡義武教授のヨーロッパ政治史を熱心に聴講した。また、両教授の勧めにより、アレクシ・ド・トクヴィルやアルトゥル・ローゼンベルクの著作を熟読している。
桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 200… 桂 英澄(かつら ひでずみ、1918年6月26日 - 2001年1月28日)は、日本の小説家。父は東京帝国大学教授(金属工学)の桂弁三。姉は洋画家・桂ゆき。 東京市本郷区生まれ。1943年京都帝国大学文学部哲学科卒。在学中から太宰治に師事。卒業後NHKに入社、戦後放浪生活に入り八年ほど療養生活をしたのち、同人誌に創作を発表。1971年『早稲田文学』に「寂光」を連載、72年同作で直木賞候補となる。
染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 20… 染野 義信(そめの よしのぶ、1918年6月26日 - 2007年)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・裁判法。日本大学法文学部卒業。日本大学名誉教授。茨城県出身。 明治期以降の司法制度の研究で知られ、『講座 日本近代法発達史』(有斐閣)に収められた「司法制度」「裁判制度」は珠玉の業績として影響力をもった。染野の近代司法制度に関する研究業績は、東京大学より法学博士の学位が授与されている。また、日本学術会議会員に選出され、同会議第二部(法学・政治学部門)部長の要職も務めた。『民事訴訟法講義』『破産法講義』(ともに勁草書房)などの著作があり、『口語民事訴訟法』(自由国民社)の監修者でもある。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。
塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1… 塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1991年3月20日)は日本の政治家。日本社会党(以下、社会党)における炭鉱労組出身政治家として北海道議会議員(4期)や道議会副議長、衆議院議員(4期)を歴任した。 1918年(大正7年)6月25日、北海道浦河郡浦河町に生まれる。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業後、北海道炭礦汽船(北炭)に入社した。その後水戸航空通信学校に入校。戦後は北炭職員組合連合会(北炭職連)委員長、全日本石炭労働組合(全石炭)副委員長を務めた。北炭職連委員長在任中の1950年(昭和25年)6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に民主戦線候補として立候補したが、15名中9位で落選した。
許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月2… 許 南麒(허남기、ホ・ナムギ、きょ・なんき、1918年6月24日 - 1988年11月)は、在日韓国・朝鮮人の詩人。朝鮮語と日本語の両方で作品を発表。日本語で書いた叙事詩「火縄銃のうた」で有名。在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長、朝鮮総聯中央副議長、朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員。
原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012… 原 亨吉(はら こうきち、1918年6月21日 - 2012年3月20日)は、日本の数学史家、フランス文学者、翻訳家。大阪大学名誉教授。 フランス科学思想史、近世ヨーロッパ数学史を専攻し、ルネ・デカルト、ケプラー、ホイヘンス、ロベルヴァル、ライプニッツを軸に研究論文・翻訳を行い、フランス語教育にも長くたずさわった。若き日はスタンダール、アラン、ヴァレリーらの翻訳も行った。 京都市出身。姫路市に育つ。第一高等学校理科乙類を経て、1938年京都帝国大学哲学科入学、1940年退学し1942年東京帝国大学仏文科卒業。1942年入営し少尉で敗戦、1945年8月20日中尉(いわゆるポツダム中尉)で除隊、1947年同志社女子専門学校教授、1949年関東学院大学経済学部助教授。
田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21… 田村 耕一(たむら こういち 1918年(大正7年)6月21日 - 1987年(昭和62年)1月3日)は、日本の陶芸家。1986年(昭和61年)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。 栃木県佐野市富岡町出身。昭和16年(1941年)東京美術学校工芸科図案部を卒業し、大阪府下で楽焼を学ぶが翌年応召する。戦後の昭和20年(1945年)京都市の松風工業株式会社松風研究所に入所して陶磁器の本格的研究を開始し、富本憲吉に師事した。昭和23年(1948年)栃木県佐野市へ帰り、赤見窯の築窯に加わる。翌年新匠工芸会展に出品、昭和25年(1950年)には濱田庄司の勧めで「栃木県窯業指導所」(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。
高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2… 高橋 晄正(たかはし こうせい、1918年6月20日 - 2004年11月3日)は、日本の医師。 秋田県仙北郡西木村(現仙北市)生まれ。1936年(昭和11年)旧制秋田県立角舘中學校を卒業し1941年(昭和16年)東京帝國大學医学部を卒業する。その後物療内科に入局し増山元三郎に推計学を紹介される。 漢方医学(鍼、経絡など伝統中国医学全般)を研究し、1966年(昭和41年)『漢方の認識』(NHKブックス)を出版。その後 論文「西洋医学と東洋医学-科学論の立場から-」(『保健の科学』 37(1):4-、1995年(平成7年))や著作『漢方薬Q&A』(1990年、『漢方薬は危ない』、『漢方薬は効かない』などで伝統中国医学及び漢方薬(副作用)を批判した。
迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010… 迫 幸一(さこ こういち、1918年6月20日 - 2010年10月29日)は、日本の写真家。 1918年(大正7年)、広島県呉市吉浦町に生まれる。1938年(昭和13年)、広島県立広島工業学校(現・広島県立広島工業高等学校)機械科を卒業した。1945年(昭和20年)、東洋工業勤務当時に広島市内で入市被爆する。 1952年(昭和27年)、『アサヒカメラ』に年間初入選する。1954年(昭和29年)には二科展に初めて入選し、以降も連続して入選した。1955年(昭和30年)、西ドイツの「国際主観写真展」に出品。 1957年(昭和32年)、オランダ美術館の「世界写真展」に出品する。1959年(昭和34年)にはニューヨーク近代美術館に出品後、5点が同館の永久保存対象となった。
大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 200… 大内 力(おおうち つとむ、1918年6月19日 - 2009年4月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済理論・経済政策。学位は、経済学博士(東京大学・1961年)。東京大学名誉教授、信州大学名誉教授。日本学士院会員。勲等は勲二等。 財団法人日本農業研究所研究員、東京大学社会科学研究所助教授、東京大学経済学部教授、東京大学経済学部学部長、東京大学総長特別補佐、信州大学教授、大東文化大学教授、全国大学生活協同組合連合会会長などを歴任。 東京府出身の経済学者である。マルクス経済学の経済理論、経済政策を専攻し、宇野弘蔵理論の立場から日本の農業問題を研究。また近代経済学の成果を柔軟に取り入れ、1970年の『国家独占資本主義』では、宇野理論における現状分析として、管理通貨体制下における金融政策(インフレ政策)による賃金上昇抑制と、それによる恐慌への対処を現代国家の本質的機能であるとした。
浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 201… 神田 慶也(かんだ よしや、1918年6月18日 - 2011年3月3日)は、日本の化学者。専門は分子分光学。九州大学総長や九州産業大学学長を務めた。 第五高等学校理科甲類を経て(1939年(昭和14年)卒業)、九州帝国大学理学部を卒業する。 1942年(昭和17年)より、母校の九州帝国大学理学部助手となり、助教授を経て教授に昇進、理学部長などを歴任後、1978年11月から3年間九州大学総長を務めた。その後、九州産業大学で学長を務めていた。 1994年、勲二等旭日重光章を受章。2011年3月3日、肺炎のため死去。 門下生に島田良一がいる。
村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2… 村松 定孝(むらまつ さだたか、1918年6月17日 - 2007年10月5日)は、日本の国文学者。上智大学名誉教授。専門は近代文学。長男は名城大学人間学部教授の村松定史。 山梨県西八代郡市川大門町(現在の市川三郷町)生まれ。1941年、早稲田大学国文科卒。泉鏡花に心酔し、卒業論文の段階から鏡花本人を訪ね、親しく話を聞いた。戦争をはさんで、1949年、早稲田大学大学院博士課程修了、獨協学園高校教諭、1957年昭和女子大学講師、1960年助教授、教授を経て、1968年、上智大学教授、1989年に定年退職。 鏡花研究の権威で、その著書『泉鏡花』は何度も改訂再版されている。ほかに樋口一葉など女性作家も扱い、実証的な手法での研究で知られる。
河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 19… 河嶋 勝二(かわしま かつじ、1918年6月15日 - 1995年4月8日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長、会長を務めた。石川県出身。 1939年に大分高等商業学校を卒業し、1946年10月にブラザーミシン販売に入社。 1954年6月にブラザー工業に転じ、1969年7月に取締役に就任し、1975年1月に常務、1977年2月に専務を経て、1981年2月には社長に就任。1989年2月に会長に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。。 1995年4月8日腎不全のために死去。76歳没。
津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992… 津田 秀夫(つだ ひでお、1918年6月15日 - 1992年11月15日)は、日本の歴史学者。東京教育大学名誉教授。専攻は近世史で、社会経済史、教育史などの分野にもとりくんだ。 1918年、大阪府西成郡今宮町(現・大阪市西成区)で生まれた。1942年、東京文理科大学を卒業。 卒業後は、岐阜県中津農林学校教諭となったが、入営・召集のため休職し、1946年に復員。 戦後は大阪第一師範学校勤務した。1949年の学制改革で師範学校が大阪学芸大学となると同校講師となった。東京教育大学講師を経て、1953年より東京教育大学助教授。1962年、学位論文『封建経済政策の展開と市場構造』を東京教育大学に提出して文学博士号を取得。
戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1… 戸井田 三郎(といだ さぶろう、1918年6月12日 - 1996年10月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。長男は元衆議院議員の戸井田徹。東京都出身。従三位勲一等瑞宝章。
山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、… 山本 進(やまもと すすむ、1918年6月12日 - )は、日本のジャーナリスト、国際政治学者。 横浜市生まれ。1942年東京帝国大学経済学部卒、毎日新聞社に入り北米、南米特派員をへて経済部副部長を務めた。武蔵大学講師。
篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12… 篠崎 年子(しのざき としこ、旧姓:村田、1918年6月12日 - 2017年10月6日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。元長崎県議会議員(1期)。 長崎県佐世保市生まれ。1931年(昭和6年)、佐世保市立大久保小学校卒業、1935年(昭和10年)、佐世保高等女学校卒業後、教職をめざし、長崎県女子師範学校入学。1937年(昭和12年)に卒業後、佐世保市立吉井南小学校、佐世保市立白南風小学校、佐世保市立光園小学校(現在の佐世保市立祇園小学校)、佐世保市立大久保小学校などで勤務。1941年(昭和16年)、教師と結婚。夫の校長就任と同時に退職。その後、夫が49歳で死去したため、1963年(昭和38年)、復職した。
荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月1… 荒川 久壽男(あらかわ くすお、1918年〈大正7年〉6月11日 - 1986年〈昭和61年〉12月31日)は、日本の歴史学者。元皇學館大学教授。 大正7年(1918年)6月、茨城県に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)、水戸高等学校を経て、昭和16年(1941年)3月に東京帝国大学文学部国史学科を卒業する。直ちに同大学の副手となる。1942年1月、海軍教授となり、土浦市地域と三重県内の海軍航空隊で教鞭をとった。 戦後は1947年(昭和22年)4月より茨城県日立市立中学校(現在の茨城県立日立工業高等学校)教諭、1948年7月より茨城県立水海道第一高等学校教諭、1958年4月より茨城県立水戸第二高等学校教諭、1964年4月より皇學館大学助教授、1968年より同大学教授にそれぞれ就任した。
河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 20… 河崎 晃夫(かわさき てるお、1918年6月11日 - 2000年7月7日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本化成工業に入社。1971年11月に三菱レイヨン取締役に就任し、1975年5月に常務、1979年6月に専務を経て、1982年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に就任。1988年6月に会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2000年7月7日肝不全のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 200… 西野 一夫(にしの かずお、1918年6月10日 - 2005年2月24日)は、元・東宝代表取締役副社長、芸苑社、東宝映像美術初代代表取締役社長。岡山県生まれの熊本県熊本市育ち。東京都港区南青山在住。 1936年4月から東京芦田工業所勤務。1938年に中央大学専門部経済学科中退と同時に東宝に入社。1948年11月、撮影所製作会計課長、1955年9月20日、撮影所製作部長、1960年7月、東京映画出向、撮影所支配人。 1969年3月25日に東宝撮影所支配人・東宝取締役に昇進し、1970年3月31日には馬渕威雄副社長の命で東宝美術代表取締役社長となる。その後、1974年8月22日に東宝常務取締役、1977年5月25日に東宝専務取締役を経て、1987年10月に亡くなった佐藤一郎に代わって芸苑社代表取締役社長となり、1988年には東宝映像、東宝美術が合併し東宝映像美術初代代表取締役社長となる。
鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日… 鶴見 和子(つるみ かずこ、1918年(大正7年)6月10日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、日本の社会学者、環境思想家。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学。南方熊楠や柳田國男の研究などでも知られる。 1918年6月10日、東京府麻布区で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの1番目(長女)として生まれる。 牛込成城小学校から1927年4月に砧の成城学園に移り、1929年4月に女子学習院5年へ転校。1934年頃から、父と親交のあった河合栄治郎の「国家権力に対する言論闘争」に共感、影響を受ける。1936年3月、女子学習院を卒業し、同年4月、津田英学塾へ進学。
川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 196… 川端 佳夫(かわばた よしお、1918年6月8日 - 1968年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県出身。1940年青山学院文学部卒。卒業後は読売新聞記者となり、厚生省嘱託、農相秘書官となる。岩崎澱粉化学工業、内外自動車各(株)取締役、東海養魚(株)社長を務める。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では愛媛1区から民主自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。この間、民主自由党情報部副部長、自由党人事、遊説の各副部長となった。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して落選。1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。 このほか東京馬主協会会長にもなった。
小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年… 小畑 実(おばた みのる、1918年6月7日 - 1986年5月1日)は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者。広島県出身。慶應義塾大学卒。 元日本代表FW。元東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)監督、元同チーム総監督。 1936年(昭和11年)、広島一中(現広島国泰寺高校)が全国中等学校蹴球選手権大会(現全国高校サッカー選手権)で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。1937年(昭和12年)卒業。同年度卒に、久保道正(第一産業創業者)、藤田一暁(フジタ社長)、頼實正弘(広島大学学長)などがいる。 二宮洋一、津田幸男らとともに、戦前の慶應義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとして活躍した。
林 知己夫(はやし ちきお、1918年6月7日 - 2002… 林 知己夫(はやし ちきお、1918年6月7日 - 2002年8月6日)は、日本の統計学者。正四位勲二等理学博士。
金子 正且(かねこ まさかつ、1918年6月7日 - 200… 金子 正且(かねこ まさかつ、1918年6月7日 - 2007年11月21日)は、日本の映画プロデューサー。群馬県出身。 1946年に京都帝国大学卒業と同時に東宝撮影所へ入社。戦争中は一度退社し、宇部興産(現・UBE)に勤務する。戦後再び東宝に入社するが、東宝争議で藤本真澄とともに再び退社し、藤本プロを経て1957年に東宝へ契約者として三たび入社し、並木透の名前で原作や脚本を手掛けた。しかし藤本の死で独立し、銀座の名画座「並木座」の代表取締役、ヨコハマ映画祭の審査委員長を務めた。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 200… 犀川 一夫(さいかわ かずお、1918年6月7日 - 2007年7月30日)はハンセン病治療に貢献した日本の医師。プロミンを日本で最初に使用した医師の一人。ハンセン病が治る時代になり、通院治療を主張し、恩師光田健輔に反抗し、台湾で活躍した。後、沖縄愛楽園園長、沖縄県ハンセン病予防協会理事長、らい予防法裁判でも活躍した。 1918年、東京に生まれる。1944年6月、長島愛生園医療事務取扱となり、同年9月、東京慈恵会医科大学卒。召集され東部第24部隊に入営し、1944年12月、陸軍軍医中尉に任官し、日中戦争に従軍。1946年6月、復員し、愛生園に復帰して技官・外科医長を務めた。愛生園では、らいの病理学、プロミンの治験に従事。
朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7… 朴 基玎(パク・キジョン、朝鮮語: 박기정、1918年6月7日 - 1993年5月9日)は、大韓民国の教員、政治家。第2代慶尚南道議会(朝鮮語版)議員、第5代韓国国会議員を歴任した。 東萊公立高等普通学校(現・東萊高等学校(朝鮮語版))、明治大学専門部法科卒。国民学校(現・初等学校)教員、昌寧公立初級中学校及び改編後の霊山中学校(朝鮮語版)教員、醸造業経営を経て、第2代慶尚南道議会議員を務めた。1960年の第5代総選挙では昌寧郡選挙区から民主党所属で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。なお、開票中盤には対立候補の自由党の辛泳柱(朝鮮語版)の先行を許さない昌寧郡民が投票箱に火をつけ、辛陣営の運動員と乱闘した末、辛候補を捕まって「郡民裁判」を行ったという前代未聞の騒乱事件が発生した。
尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 198… 尾崎 盛光(おざき もりてる、1918年6月6日 - 1980年6月3日)は、日本の文筆家。東京大学文学部事務長を務めた。 尾崎三良の五男尾崎繁盛の子として東京府三鷹に生まれる。 1930年、横浜市立商業学校へ入学するも同年中途退学。1931年、旧制鎌倉中学二年へ編入学。1939年、松本高等学校文科甲類在学中に治安維持法違反の疑いで拘留される。1942年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業する。 池貝自動車(現在の小松製作所)労務課に勤務するが、1947年に肺結核で退職する。胸部形成手術を受け、農耕、養鶏、子供の受験指導などで生計を立てる。 1955年、日高六郎の推薦で東京大学文学部事務室に勤務、1961年に事務長。
山脇 百合子(やまわき ゆりこ、1918年6月5日 - 20… 山脇 百合子(やまわき ゆりこ、1918年6月5日 - 2019年1月31日)は、英文学者、実践女子大学名誉教授。 東京で童話作家・横山寿篤、横山美智子の長女として生まれる。1936年3月に女子学院卒業、1940年3月に東京女子大学英文科卒業、1942年3月に早稲田大学英文科業卒。早稲田大学文学部大学院に1年間在籍。1944年4月に啓明学園女学校で英語教師になった後の同年10月から1947年4月まで朝日新聞東京本社に勤める。英国文化振興会の奨学金を利用して1952年7月から1953年10月までリヴァプール大学大学院に留学。 1954年4月、東京女子大学講師。 1957年4月、女子美術大学講師。 1958年4月、実践女子学園短期大学講師。
吉川 悦次(よしかわ えつじ、1918年(大正7年)6月5日… 吉川 悦次(よしかわ えつじ、1918年(大正7年)6月5日 - 1993年7月21日)は、日本の政治家。大阪府大阪狭山市長(8期)。 大阪府南河内郡狭山村(のち狭山町、現・大阪狭山市)出身。1935年(昭和10年)狭山高等小学校卒業。1951年(昭和26年)狭山村役場に入り、土木建設、厚生衛生、水道の各課長などを経て、1962年(昭和37年)9月、狭山町長に当選する。 町長在任中に役場新庁舎、町立公民館・図書館・総合体育館などが完成し、町の人口は増えて、6期目の1985年(昭和60年)には5万人を突破した。7期目の1987年(昭和62年)に狭山町は市制施行し、「大阪狭山市」となり、初代市長に就任した。
田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 200… 田川 誠一(たがわ せいいち、1918年6月4日 - 2009年8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)。新自由クラブ代表(2代)、進歩党代表。元神奈川県議会議員田川誠治の長男。リベラル派、進歩主義派の代表的な政治家だった。 神奈川県横須賀市出身。田川家は大地主の家系。横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)を経て、1941年12月慶應義塾大学法学部政治学科卒業。朝日新聞社に入社したが、翌年に陸軍・近衛歩兵第5連隊補充隊(東部第8連隊)に入営した。復員後は朝日新聞社に復職し、通信部及び政経部記者、同社労組委員長等を務める。退社後、松村謙三衆議院議員(元文部大臣)秘書を経て、1960年の第29回衆議院議員総選挙に初当選。
奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 19… 奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 1988年10月20日)は、日本の考古学者。 子爵奥田直久の長男として生まれる。1931年、 学習院初等科を卒業し、東京高等学校に進学。山内清男らから考古学を学ぶようになる。満洲帝国国務院大陸科学院ハルビン分院に勤務。戦後は、根津美術館に勤務しつつ、学習院大学輔仁会史学部で後進の指導に当たる。1957年に江ヶ崎城跡の発掘調査に携わったことをきっかけに、中世考古学、城郭史研究を主とした研究テーマにするようになる。
渡辺 晶一郎(わたなべ しょういちろう、1918年6月3日 … 渡辺 晶一郎(わたなべ しょういちろう、1918年6月3日 - )は、日本のアマチュアレスリング選手、指導者。拓殖大学レスリング部創設者。 広島県高田郡向原町(現安芸高田市)出身。拓殖大学在学中の1938年、レスリング部を同好会として創部。1940年、同レスリング部は正式に部に昇格した。戦後は郷里・向原中学教諭に奉職。自ら現役選手として毎年国体の広島県チームの一員として活躍。また向原中学を始め、教え子たちが創部した広島県立向原高校や広島県立白木高校などを指導した。特に向原高校レスリング部は戦後の広島高校レスリングをリード、他校にレスリング部創設を促した。グレコローマン・ライトヘビー級で1964年東京オリンピックに出場した中浦章らが教え子。
井上 康弘(いのうえ やすひろ、1918年6月2日 - 没年… 井上 康弘(いのうえ やすひろ、1918年6月2日 - 没年不明)は、熊本県出身のプロ野球選手。
相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014… 相見 志郎(あいみ しろう、1918年6月1日 - 2014年6月26日)は、日本の経済学者。同志社大学経済学部名誉教授。夫人は作家の相見とし子(1925 - 2005年)。プロ写真家であった長男、相見明は1981年にアメリカで不慮の事故死。 作詞家もず唱平の目にとまり、作曲家の山上敏が演歌に仕上げた。 相見志郎は島倉千代子の大ファンの一人である。
李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1… 李 政烋(イ・ジョンヒュ、朝鮮語: 이정휴、1918年6月1日 - 1996年9月6日または1999年9月6日)は、大韓民国の実業家、政治家。第3・4代韓国国会議員。 漢字表記は李正烋とも。号は鳳剛(ポンガン、봉강)。 日本統治時代の全羅南道光山郡(現・光州広域市)出身。法政大学専門部法科卒。大韓青年団全羅南道組織部長・総務部長、国民会光山郡支部長・光山郡支部委員長、光州産業株式会社常務取締役、自由党光山甲区党委員長・中央委員、国会国防分科委員を務めた。 1996年9月6日に死去。享年78。 1955年11月の第3代国会議員在任中、同年春に10万ファンの無取引小切手を発行した疑いで「詐欺罪」の被告として告訴された。
松本 美樹(まつもと みき、1918年5月30日 - 200… 松本 美樹(まつもと みき、1918年5月30日 - 2001年)は、日本の元プロデューサー、元作家。宣弘社に所属していた。愛媛県出身。本名は松本 美喜男。長男は、フジテレビで外信部記者、解説委員、ニュースキャスターを務めた松本方哉。 アニメ『サザエさん』の初代プロデューサーなどを務めた。 旧制中学校卒業後に作家を目指し、両親に勘当同然の扱いを受けるも叔父を頼り上京した。日本大学芸術学部卒業後は、作家の横光利一に弟子入りした。 第二次世界大戦時は召集され、シベリアに抑留される。 終戦後は帰国し、大正製薬の宣伝課長に就任した。その後、宣伝で携わった縁から宣弘社に転職した。 宣弘社入社後は東芝の専任部門「東芝分室」を立ち上げ、同社が提供する特撮番組『光速エスパー』やアニメ『忍風カムイ外伝』のプロデューサーを務めた。
鬼塚 喜八郎(おにつか きはちろう、1918年〈大正7年〉5… 鬼塚 喜八郎(おにつか きはちろう、1918年〈大正7年〉5月29日 - 2007年〈平成19年〉9月29日)は、日本の実業家で、アシックスの前身のひとつである鬼塚商会の創業者、アシックス社長。 鳥取県気高郡明治村大字松上(現・鳥取市松上)に農業・坂口伝太郎 かめの3男2女の末子として生まれた。喜八郎の名は、大倉財閥を興した大倉喜八郎にちなむという。 坂口家は、もとは小作人だったが祖父・伝十郎の代に地主となった。祖父は農業の傍ら和紙、因幡紙の仲買人なども行っていたという。長兄の坂口伝三郎は後に明治村村長を務めている。 1936年(昭和11年)に鳥取県立鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。
門前 貢(もんぜん みつぐ、1918年5月29日- 2000… 門前 貢(もんぜん みつぐ、1918年5月29日- 2000年11月12日 )は、日本の経営者。 鹿児島県出身。1940年に麻布獣医専門学校を卒業し、同年に森永乳業に入社。1968年に取締役に就任し、1972年に常務、1976年6月に専務を経て、1979年6月に社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1989年6月から取締役相談役を務めた。 2000年11月12日、急性心筋梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1… 中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位菊花章頸飾。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第32・33代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長などを歴任。
玉井 栄(たまい さかえ、1918年5月26日 - 1953… 玉井 栄(たまい さかえ、1918年5月26日 - 1953年6月)は福岡県出身のプロ野球選手。
松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月2… 松本 安市(まつもと やすいち、1918年(大正7年)5月25日 - 1996年(平成8年)3月6日)は、日本の柔道家。段位は講道館8段。 昭和天覧試合(1940年)準優勝者、第1回全日本選手権大会(1948年)優勝者であり、後に天理大学等で柔道師範や1964年東京オリンピック日本代表の監督を務めた。 福岡県久留米市で洋品雑貨の卸売業を営む家の長男として生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。 1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる。
大森 創造(おおもり そうぞう、1918年(大正7年)5月2… 大森 創造(おおもり そうぞう、1918年(大正7年)5月25日 - 1999年(平成11年)11月14日)は、昭和期の政治家。参議院議員、茨城県東茨城郡圷村長。 茨城県東茨城郡、のちの桂村(現城里町)で生まれる。九州大学中国文学科を卒業。又一貿易上海支店に勤めた。 1956年(昭和31年)日本社会党に入党。圷村民主同盟を結成した。圷村長に就任し2期在任。茨城県議会議員に選出され3期在任した。また、社会党茨城県連書記長、同党基地対策委員長などを務めた。 1959年(昭和34年)6月の第5回参議院議員通常選挙に茨城県地方区から社会党公認で出馬して初当選。1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙でも再選され、参議院議員に連続2期在任した。
服部 一男(はっとり かずお、1918年5月23日 - 20… 服部 一男(はっとり かずお、1918年5月23日 - 2000年10月31日)は、愛知県出身のプロ野球選手。 惟信中学校から1936年に名古屋軍へ入団。 1938年春季リーグ後に退団。