飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10… 飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10日 - 2007年(平成19年)2月25日)は、山梨県出身の俳人。飯田蛇笏の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。
蟹座:10,068人
飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10… 飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10日 - 2007年(平成19年)2月25日)は、山梨県出身の俳人。飯田蛇笏の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。
的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 … 的場 徹(まとば とおる、1920年〈大正9年〉7月10日 - 1992年〈平成4年〉)は、日本の特撮監督、撮影技師、ドキュメンタリー監督。東京市(現・東京都)麹町区有楽町出身。 1920年(大正9年)7月10日、東京の有楽町に生まれる。幼少時より映画に憧れを持つ。 1937年(昭和12年)、旧制中学時代にP.C.Lのエノケン物の映画を観て、「数十人に分身したエノケンの孫悟空」などといった、トリック撮影の魅力にはまる。父親、兄ともに絵描きで、母親は別方面への進学を望んだが、結局、東京美術学校 (現:東京芸術大学)に進む。 1938年(昭和13年)、東京美術学校を卒業。撮影助手募集の新聞公募を見て、日活多摩川撮影所の「技術部」に姫田真佐久と共に入社。
松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月1… 松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月10日 - 1945年(昭和20年))は、昭和時代の競泳選手。 山口県吉敷郡大歳村矢原高畑(現山口市矢原町高畑)の医師松村章の二女として生まれる。1927年(昭和2年)大歳小学校に入学し、椹野川の八光面(石津橋の下)で泳ぎを覚えた。 山口高等女学校在学中、100m自由形で1936年ベルリンオリンピック競泳日本代表に選出されたが、本大会では出場しなかった。
肥田野 直(ひだの ただし、1920年7月9日 - )は、東… 肥田野 直(ひだの ただし、1920年7月9日 - )は、東京出身の日本の教育心理学者。東京大学・大学入試センター名誉教授、学校法人旭出学園理事長。
伊夫伎 一雄(いぶき かずお、1920年〈大正9年〉7月8日… 伊夫伎 一雄(いぶき かずお、1920年〈大正9年〉7月8日 - 2009年〈平成21年〉9月2日 )は、日本の銀行家。三菱銀行頭取を務めた。 伊夫伎準一の長男として滋賀県で生まれ、東京で育つ。伊夫伎家は滋賀・伊夫伎神社の神官の家柄である。 1943年(昭和18年)に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学。1944年(昭和19年)3月、経理学校を卒業し海軍主計中尉に任官。第二工作部会計係官を務め、1945年(昭和20年)3月に主計大尉に進み終戦を迎えた。 戦後は三菱銀行に復帰。熱田支店長、調査部副部長、新橋支店長、大阪支店次長、調査部長を歴任。
松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月… 松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月7日 - 2009年(平成21年)8月15日)は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。法名、釈 宗惠(しゃく しゅうえ)。 島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学して2年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し、広島市へ出た。1938年(昭和13年)に卒業した後には京都へ進み、1941年(昭和16年)に龍谷大学専門部を卒業。日本大学芸術学部に移り、在学中の1942年(昭和17年)には映画に仏心を注入したいと考え、東宝演出助監部に入る。
松島 博(まつしま ひろし、1920年7月7日 - 2002… 松島 博(まつしま ひろし、1920年7月7日 - 2002年2月17日)は、日本の工学者。工学博士(早稲田大学)。元国士舘大学・国士舘短期大学学長、学校法人国士舘理事長。 長崎県出身。1940年(昭和15年)陸軍士官学校(54期)を卒業し、終戦時は陸軍船舶練習部研究部主事・陸軍大尉であった。 1968年(昭和43年)国士舘大学工学部土木工学科卒業。1973年(昭和48年)早稲田大学大学院理工学研究所博士課程修了。1975年(昭和50年)工学博士取得。 1969年(昭和44年)国士舘大学工学部助手。1970年(昭和45年)講師。1974年(昭和49年)助教授。1977年(昭和52年)教授。 1973年(昭和48年)土木学会吉田賞受賞。
佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年… 佐藤 恕(さとう ひろし、1920年7月6日 - 2001年2月26日)は、日本の実業家。東京近鉄百貨店社長、京都近鉄百貨店社長・取締役相談役などを歴任した。 兵庫県神戸市東灘区出身。 1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学経済学部を卒業した後、兵役に出た。復員後、1945年(昭和20年)11月に近畿日本鉄道へ入社。同社百貨店部に勤め、1969年(昭和44年)5月に近鉄百貨店上本町店の店長になった。1972年(昭和47年)の百貨店部の分離独立に当たって取締役に就任し、2年後には常務取締役に就いた。1976年(昭和51年)、東京都武蔵野市吉祥寺に三越と共同出資で「東京近鉄百貨店」の出店が決まり、佐藤は社長として、店長の髙田多喜男と共に店の立ち上げに奔走した。
内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2… 内山 尚三(うちやま しょうぞう、1920年7月5日 - 2002年12月14日)は、日本の法学者。専門は、民法・労働法。法学博士(1960年)。法政大学名誉教授、札幌大学名誉教授。建設業の労働関係、請負契約などに関する国の各種審議会の役員を歴任。栄典は、正五位勲三等瑞宝章。 妻・章子は政治家・鶴見祐輔の次女。政治家の後藤新平は義祖父(章子の祖父)、社会学者の鶴見和子は義姉(章子の姉)、哲学者の鶴見俊輔は義兄(章子の兄)。新潟県柏崎市出身。
今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 … 今井 金吾(いまい きんご、大正9年(1920年)7月5日 - 平成22年(2010年)5月2日)は、日本のジャーナリスト、文筆家、江戸・街道研究家。日本経済新聞社記者。街道歩きの第一人者[要出典]。『半七捕物帳』の研究でも知られる。 大正9年(1920年)7月5日、東京府東京市神田区に生まれ育つ。後に品川区大井に移る。先祖は群馬県碓氷郡坂本町(現安中市松井田町坂本)という。 戦後間もない昭和21年(1946年)、早稲田大学を卒業して日本経済新聞社に入社、社会部に配属され、帝銀事件・下山事件・三鷹事件等の取材に関わった。警視庁キャップ、婦人家庭部長、大阪本社社会部長、東京本社地方部長、札幌支社長等を歴て、昭和49年(1974年)定年退職した。
長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000… 長島 進(ながしま すすむ、1920年7月4日 - 2000年?)は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 関東中学校、日本大学を経て、簡易保険局でプレー。1938年途中に名古屋金鯱軍に入団すると、1938年秋季シーズンはこれまでの正捕手であった松元三彦に代わって起用されるようになり、1939年と1940年は正捕手を務めた。 戦後は、1947年に国民野球連盟が設立されると大塚アスレチックスの選手として参加。のち、社会人野球の豊岡産業を経て、1950年のセ・パ両リーグ分立に伴って毎日オリオンズが結成されるとこれに入団し、10年ぶりにプロ野球界に復帰する。毎日では阪神タイガースから移籍してきた土井垣武がいたため出場機会に恵まれなかった。
坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 … 坪野 米男(つぼの よねお、1920年(大正9年)7月4日 – 2008年(平成20年)8月16日)は、昭和から平成期の弁護士、政治家。衆議院議員。 大阪府大阪市出身。第三高等学校を経て、1943年(昭和18年)東京帝国大学法学部を卒業。厚生省に入省し大臣官房属となる。同年7月、高等試験行政科試験に合格。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1948年(昭和23)に退官して、弁護士、税理士を開業。京都市人権擁護委員、国民救援会京都府連副会長を務めた。
久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 20… 久保 虎二郎(くぼ とらじろう、1920年7月4日 - 2011年8月29日)は、日本の実業家、日動火災保険(現・東京海上日動火災保険)元代表取締役社長、元名誉相談役、学校法人立教学院元理事長。 1920年生まれ、東京都出身。1943年、立教大学商学部(現・経営学部)卒業。 日動火災保険株式会社(現・東京海上日動火災)常務取締役などを歴任したのち、代表取締役社長を務めた。社長退任後は、名誉相談役に就任。 1991年7月から1995年6月まで学校法人立教学院理事長を務めた。1981年6月から1983年6月まで立教経済人クラブの初代会長も務めた。 1980年に藍綬褒章、1990年に勲三等瑞宝章を受章。
富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日… 富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉11月13日)は、日本の警察官僚。第3代宮内庁長官。位階は正三位。北海道出身。 函館中学、旧制二高を経て、昭和18年(1943年)東京帝国大学法学部を卒業後、海軍を志願し、同年9月30日海軍三校のひとつ海軍経理学校に入学。 1944年2月、同校を卒業し海軍主計科士官(主計科短期現役第10期)となる。最終階級は海軍主計大尉。 戦後、内務省に入省。大臣官房属。その後は警察庁に入り警視庁交通部長、警察庁長官官房長、警察庁警備局長を歴任する。警備局長時代の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件などを担当した。その後、警視庁副総監、内閣調査室長を経て、1974年(昭和49年)11月26日 宮内庁次長、1978年(昭和53年)宮内庁長官に就任した。
石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7… 石本 正(いしもと しょう(本名読み:ただし)、1920年7月3日 - 2015年9月26日)は、日本画家。創画会会員、京都市立芸術大学名誉教授、京都造形芸術大学教授。 島根県那賀郡岡見村(現浜田市三隅町)出身。島根県立浜田中学(現:島根県立浜田高等学校)卒業。京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学したが在学中に徴兵され中国に渡る。復員後、人物や風景を描く。1944年(昭和19年)9月、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)日本画科卒業。1947年(昭和22年)第3回日展で「三人の少女」が初入選。1950年(昭和25年)より創造美術、新制作展に出品し、1951年(昭和26年)「旅へのいざない」など四度新作家賞を受賞。
竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004… 竹内 均(たけうち ひとし、1920年7月2日 - 2004年4月20日)は、日本の物理学者(地球物理学)。東京大学名誉教授。理学博士(1949年)。科学啓蒙家。科学雑誌『Newton』初代編集長。代々木ゼミナール札幌校元校長。 独特のふちの厚いメガネがトレードマークの、科学者でありながら質実剛健を地で行く人物で、自分に厳しく他人(特に子供)に優しい性格であった。科学者として偉ぶらず、時にユーモアを交えながら落ち着いた話しぶりで、その独特の口調はタモリに「歩くヨーデル」と評された。 彼が科学者を目指したのは寺田寅彦に憧れてのことであった。大学に東京大学を選んだのも、「地球物理学」が東京大学以外では学べなかったことと、何より寺田寅彦の弟子筋にあたる人物がいた(坪井忠二と思われる)ということをテレビ番組の対談で述べていた。
武石 勇(たけいし いさむ、1920年7月1日 - 1995… 武石 勇(たけいし いさむ、1920年7月1日 - 1995年)は日本の漆芸家、漆絵作家。漆を用いた様々な作品を残した。 1920年(大正9年)大阪府に生まれる。1933年(昭和8年)大阪市立天王寺尋常高等小学校卒業後、大阪市立工芸学校へ進み木材工芸技術を習得。第二次世界大戦後に復員し、茨木市で創作活動を始める。日展に入選したほか、第17回日ソ展にも入選し、入選作はソビエト連邦政府買い上げとなった。1965年(昭和40年)茨木市より文化功労者表彰、1971年(昭和46年)大阪府工芸功労賞。1995年(平成7年)茨木市にて死去。75歳。 2021年(令和3年)、茨木市の茨木市立川端康成文学館にて企画展「生誕100年 武石勇 漆の世界」が開催された。
三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明… 三村 正(みむら ただし、1920年6月30日 - 没年不明)は香川県出身のプロ野球選手(捕手)。 志度商(現・香川県立志度高等学校)卒業。後にイーグルスでプレーした小野寺洋は1年後輩に当たる。1939年より全京城でプレー。当時の全京城は強豪として知られ、三村の在籍時に2回(1940年、1942年)優勝。三村も正捕手として大きく貢献した。都市対抗野球でバッテリーを組んだ投手に、野村清がいる。 終戦後の1948年、南海に入団。しかし28歳での高齢の入団だったことや、正捕手・筒井敬三が活躍したこともあり、僅か10試合の出場(スタメンに名を連ねた事は一度もなかった)にとどまり、同年末に1年間のプロ野球生活をもって、引退した。
佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011… 佐野 圭司(さの けいじ、1920年6月30日 - 2011年1月6日)は、日本の医学者。
熊崎 俊二郎(くまざき しゅんじろう、1920年(大正9年)… 熊崎 俊二郎(くまざき しゅんじろう、1920年(大正9年)6月30日 - )は、日本の銀行家。元北日本銀行会長、頭取。 愛媛県出身。 1982年、当時の北日本相互銀行社長である田中正一郎が入院しているさなか、見舞いを口実にある大蔵官僚が病室を訪れ、こう切り出したという。「徳陽(徳陽相互銀行)と合併して頂けませんか。」と。しかし、自主独立路線を堅持する方針であった田中は、申し出を拒絶。話はその場限りとなったという。 この折に大蔵官僚を病室まで案内したのが、同行専務取締役であった熊崎俊二郎その人であった。 熊崎は、熱心な金融再編論者として知られ、平成銀行構想があきらかにされた際には日本銀行、大蔵省間のパイプ役を自任し、同行の大株主であった企業を訪れ、合併に対する根回しを行っていたとされる。
伊藤 冨雄(いとう とみお、1920年6月27日 - 200… 伊藤 冨雄(いとう とみお、1920年6月27日 - 2003年11月25日)は、日本の土木工学者。工学博士(京都大学)。大阪大学名誉教授。大阪工業大学名誉教授・第8代学長。土木学会名誉会員。地盤工学会関西支部元支部長。日本地下水理化学研究所元理事長。日本学術会議元会員。勲二等旭日重光章受章。 専門は、地盤工学・土質工学、建設工学(特にトンネル工学)。 1920年神奈川県横浜市生まれ。1943年京都帝国大学工学部土木工学科卒業。のちに、工学博士(京都大学)。1947年大阪大学工学部講師となり、助教授を経て、1962年教授。1984年に大阪大学名誉教授。 同年、大阪工業大学工学部土木工学科教授。1987年から1994年まで大阪工業大学第8代学長を務めた。
上田 祖峯(うえだ そほう、1920年(大正9年)6月27日… 上田 祖峯(うえだ そほう、1920年(大正9年)6月27日 - 1996年(平成8年)8月18日)は、日本の仏教学者。第2代駒沢女子短期大学学長。駒澤学園理事長・学園長。 熊本県生まれ。1944年、駒澤大学仏教学部仏教学科卒業。1971年、駒沢女子短期大学教授。 1974年、駒沢女子短期大学学長に就任(小川弘貫の後任)。駒澤学園理事長・学園長を歴任。1996年8月18日、肺炎のため死去。 著書に『修証義入門: 道元禅師の教え』『新釈修証義:「正法眼蔵」の教え・仏たちの生きざま』『新釈典座教訓: 調理と禅の心』『禅と食事』『禅と心』など。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年>… 鴻池 十郎(こうのいけ じゅうろう、1920年 <大正9年> 6月26日 - 2004年 <平成16年> 2月22日)は、日本の経営者。鴻池運輸社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1943年に日本大学商経済学部を卒業し、同年に鴻池組に入社。1970年11月に鴻池運輸社長に就任し、1989年12月には会長に就任。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1997年4月に勲四等瑞宝章を受章。 2004年2月22日に肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
内山 喜久雄(うちやま きくお、1920年〈大正9年〉6月2… 内山 喜久雄(うちやま きくお、1920年〈大正9年〉6月25日 - 2012年〈平成24年〉12月20日)は、日本の臨床心理学者。筑波大学名誉教授、医学博士。正四位勲三等瑞宝章受章。 群馬県佐波郡境町(現・伊勢崎市)生まれ。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、東京高等師範学校文科第3部を経て、1944年(昭和19年)東京文理科大学心理学科卒業。海軍予備少尉となる。 1945年(昭和20年)10月、群馬師範学校助教授となる。1951年(昭和26年)群馬大学助教授。1959年(昭和34年)「小児緘黙症に関する研究」で群馬大学より医学博士の学位を取得。1964年(昭和39年)東京教育大学助教授、1970年(昭和45年)同教授。
定永 両一(さだなが りょういち、1920年6月25日 - … 定永 両一(さだなが りょういち、1920年6月25日 - 2002年1月27日)は、日本の鉱物学者・結晶学者。専門は、結晶学・鉱物学。大阪生まれ。 日本鉱物科学会、日本結晶学会などに所属。1972年−1974年に日本鉱物学会会長、1976年−1977年に日本結晶学会会長を歴任。 1984年に島崎英彦らによって、愛媛県上島町の弓削島からシリカに乏しい角閃石の一種である新鉱物が発見され、定永両一に因んでカリ(第一鉄)定永閃石(Potassic-(ferro-)sadanagaite)と命名された。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 20… 中野 尊正(なかの たかまさ、1920年6月25日 - 2010年6月24日)は、日本の地理学者(地形学・地図学)。(旧)東京都立大学名誉教授。正四位勲三等旭日中綬章。 台湾にて生まれる。台北高等学校を卒業後、上京する。1942年東京帝国大学地理学科卒業後、地理調査所技官に任官。 1962年10月、(旧)東京都立大学教授就任。1984年3月定年退職。 第四紀学の諸分野のうち、地形とくに平野の地形学を発展させ、さらに災害・土地保全研究を行った。 1984年6月 東京都立大学名誉教授。 1994年11月 勲三等旭日中綬章受章。 平成22年6月24日没。享年90。墓所は青山の梅窓院。
津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015… 津田 清子(つだ きよこ、1920年6月25日 - 2015年5月5日)は、俳人。奈良県生。奈良女子師範(現在の奈良教育大学)卒。卒業後は小学校教師として勤務。当初は前川佐美雄のもとで短歌を学んでいたが、1948年、橋本多佳子の七曜句会に出席したことをきっかけに俳句に転向。多佳子に師事し「七曜」同人となるとともに、多佳子の師である山口誓子にも師事し誓子の「天狼」に投句。1951年に天狼賞を受賞、1955年「天狼」同人。1971年「沙羅」を創刊、主宰。1986年同誌を「圭」に改称。2000年、第六句集『無方』で第34回蛇笏賞受賞。2012年、「圭」を8月号で終刊。 代表句に「虹二重神も恋愛したまへり」など。
谷川 寛三(たにがわ かんぞう、1920年6月24日 - 2… 谷川 寛三(たにがわ かんぞう、1920年6月24日 - 2015年11月30日)は、日本の官僚、政治家。元自由民主党参議院議員・衆議院議員。元科学技術庁長官。
国枝 利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - 2… 国枝 利通(くにえだ としみち、1920年6月23日 - 2011年3月8日)は、岐阜県岐阜市出身のプロ野球選手(内野手)、野球解説者、実業家。
3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日… 3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 - 1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。 3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。 父の公職追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など。
佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 20… 佐藤 文生(さとう ぶんせい、1919年7月21日 - 2000年4月25日)は、日本の政治家。明治大学専門部卒業。別府市名誉市民。ジェラルド・カーティスの著書『代議士の誕生』のモデルとして知られた。 大分県別府市西部の温泉旅館主佐藤倉八の長男として出生。 地元の初等・旧制中学校を経て、明治大学専門部政治経済科に入学。1939年の卒業後、まもなく第二次世界大戦が勃発。陸軍大尉として従軍する。終戦後別府に戻り自動車セールスマンとして働きながら、「日本の伝統の良さを守りたい」という思いから政治に関心を持ち始めた。 佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を大分県議会議長の荒金啓治の子息に嫁がせた。
今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998… 今井 勇(いまい いさむ、1919年7月21日 - 1998年11月6日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。厚生大臣(第66代)、衆議院議員(7期、自由民主党)。 長野県長野市出身。第一高等学校を経て、1944年東京帝国大学第一工学部土木工学科を卒業。戦後の1949年建設省に入省。秋田工事事務所長、東北地方建設局道路部長、計画局地域計画課長、計画局技術調査官などを経て、1970年四国地方建設局長。退官後に1972年の第33回衆議院議員総選挙で旧愛媛3区から無所属で立候補し初当選。その後、自由民主党に入党、宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)所属。農水・厚生政務次官、党社会部会長、衆院農水委員長などを歴任した後、1985年第2次中曽根内閣の厚生大臣として初入閣した。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990… 津田 鉄夫(つだ てつお、1919年7月19日 - 1990年11月24日)は、日本の経営者。中山製鋼所社長、会長を務めた。岡山県出身。 1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に八幡製鉄に入社。1973年5月に新日本製鐵取締役に就任し、1975年6月に中山製鋼所副社長を経て、1976年6月には社長に就任。1983年3月には会長に就任。 1990年11月24日急性肺炎のために死去。71歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2… 山下 俊彦(やました としひこ、1919年7月18日 ‐ 2012年2月28日)は、日本の実業家。松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)の3代目社長。大阪府出身。大阪市立泉尾工業学校卒業。実業学校卒の叩き上げで、創業者松下幸之助による異例の大抜擢を受けて取締役26名中序列25番目から社長に就任した[4][5]。この抜擢人事は、体操選手の山下治広が披露した跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた[6]。
鈴木正和(すずき まさかず、1919年7月16日-1994年… 鈴木正和(すずき まさかず、1919年7月16日-1994年9月27日)は、日本の法学者。 愛知県出身で、中央大学法学部を卒業。全国銀行協会連合会事務局、法政大学講師。金融実務、特に貸金回収を専門とした。
藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16… 藤森 鉄雄(ふじもり てつお、藤森 鐵雄、1919年7月16日 - 2011年11月7日)は、日本の銀行家。第一勧業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)会長、東京商工会議所副会頭、東京メトロポリタンテレビジョン初代代表取締役社長を務めた。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東北帝国大学(現・東北大学)法学部卒業。戦時中は学徒出陣を経験しており、1945年3月の東京大空襲の際は、当時の陸軍糧秣本廠所属の少尉として部下たちを防空壕に避難させていたが、結果防空壕が満員となり入ることができず、隅田川に飛び込んで一晩をやり過ごした。翌朝になって防空壕に戻ってみると、中の部下たちは全員窒息死しており、結果として九死に一生を得たという。
黒住 忠行(くろずみ ただゆき、1919年7月16日 - 1… 黒住 忠行(くろずみ ただゆき、1919年7月16日 - 1988年9月29日)は、日本の官僚、政治家。運輸省自動車局長、参議院議員(1期)、通商産業政務次官、日本自動車ターミナル社長等を歴任した。正四位勲二等瑞宝章。 岡山県岡山市矢坂本町出身。1942年に東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し鉄道省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。 東京陸運局長、運輸省自動車局長を経て1971年の第9回参議院議員通常選挙に全国区から当選。1期務めた。
鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日… 鈴木 泰治(すずき たいじ、1919年(大正8年)7月14日 - 2015年(平成27年)4月15日)は、昭和から平成時代の政治家。埼玉県八潮市長。位階は正五位。 埼玉県出身。1937年(昭和12年)、埼玉県立粕壁中学校(現在の埼玉県立春日部高等学校)を卒業する。1947年(昭和22年)南埼玉郡八条村収入役、1956年(昭和31年)合併により八潮村収入役となり、1964年(昭和39年)町制、1972年(昭和47年)市制施行後も連続7期務める。同年助役を経て、1973年(昭和48年)八潮市長に当選し、4期務めた。2015年死去。死没日付をもって正五位に叙された。
小嶋 太門(こじま たもん、1919年7月13日 - 200… 小嶋 太門(こじま たもん、1919年7月13日 - 2008年2月7日)は、民間史家。後藤又兵衛研究のパイオニア。 出生名は東野一雄。大阪府中河内郡岩田町(現東大阪市)で生まれ育つ。1938年、天王高等商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)を経て1941年、関西大学法学部を繰り上げ卒業。学徒動員により1942年、第四師団輜重兵第4聯隊に応召。7月に中支派遣軍輜重兵34聯隊に配属し、以後中南支に転戦。いわゆる一号作戦に従軍する。 1946年に帰還し、大阪中央電気局(現、NTT)の通信事務員となる。1949年に小嶋十三子と養子縁組し、小嶋姓に改名。「太門」は敬愛する曽祖父からヒントを得た雅号ながら、終生この名前を自称した。
檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 201… 檪木 茂男(いちき しげお、1919年7月13日 - 2010年11月25日)は、日本の経営者。バンドー化学社長を務めた。山口県出身。 1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、1942年1月に日本興業銀行に入行。 1971年1月にトリオ商事副社長、1976年6月にバンドー化学副社長を経て、1977年6月には社長を就任。1988年6月に会長、1992年6月に取締役相談役を経て、1994年6月には相談役に就任。 1993年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2010年11月25日肺炎のために死去。91歳没。
松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 200… 松山 納(まつやま おさむ、1919年7月13日 - 2002年10月2日)は、日本のタイ語学研究者。東京外国語大学名誉教授。 1919年、広島県広島市生まれ。東京帝国大学を卒業。 太平洋戦争後の1950年、東京外国語大学インドシナ語学科助教授に就任。後に教授昇進。1983年に定年退官し、名誉教授となった。門下に岩城雄次郎がいる。 2002年10月2日、急性肺炎のため死去。
小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 201… 小松 雅雄(こまつ まさお、1919年7月11日 - 2010年10月16日)は、日本の経済学者。専門は、経済政策。 長野県諏訪市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1945年早稲田大学政治経済学部卒業。1949年同大学院修了。同大学助手、政治経済学部助教授を経て、1955年教授、1978年学部長。麗澤大学初代国際経済学部(現・経済学部)長、同大学名誉教授。民主社会主義研究会議第4代議長(1983~1994)、日本経済政策学会名誉会員、学校法人廣池学園顧問、サンリツ服部美術館理事、諏訪郷友会評議員・長善館館長などを務めた。晩年は、郷里近くの長野県茅野市で過ごした。1997年勲三等旭日中綬章受勲。
中川 鶴太郎(なかがわ つるたろう、1919年7月11日-1… 中川 鶴太郎(なかがわ つるたろう、1919年7月11日-1992年10月9日)は、日本の化学者。 岐阜生まれ。1942年東京帝国大学理学部化学科卒業。赤松秀雄に師事。1952年理学博士。東京大学理学部化学科助教授、北海道大学理学部助教授、教授、1983年定年退官、名誉教授、札幌学院大学教授。富士通国際社会情報科学研究所主任研究員。
改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 … 改井 秀雄(かい ひでお、1919年(大正8年)7月10日 - 1983年(昭和58年)3月31日)は、昭和期の地方公務員、労働運動家、政治家。1971年から1983年まで富山県富山市長(4期)を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 富山県出身。1943年(昭和18年)拓殖大学商学部卒業後、富山県庁に入庁し、同県職組委員長、全日本自治団体労働組合富山県本部委員長などを歴任。富山県議会議員(日本社会党公認、1963年から2期)をへて、1969年(昭和44年)の県知事選に挑戦するも落選(当選は自民党公認で新人の中田幸吉)。 その後、1971年(昭和46年)2月に行われた富山市長選挙にて、社共統一候補として立候補し初当選。
緒方 太郎(おがた たろう、1919年 <大正8年> 7月1… 緒方 太郎(おがた たろう、1919年 <大正8年> 7月10日 - 2003年 <平成15年> 12月8日)は、日本の銀行家。千葉銀行頭取を務めた。位階は正四位。 東京都出身。父は陸軍大将の緒方勝一。1943年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年(昭和20年)3月、主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 戦後、日銀に復帰し、1974年4月から1975年4月までに理事を務めた。 1975年5月に千葉銀行副頭取に就任し、1976年4月には頭取に昇格。1987年6月に会長に就任し、1991年6月に取締役相談役を経て、1997年6月には相談役に就任。
橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年〈大正8年〉7月9… 橋本 公亘(はしもと きみのぶ、1919年〈大正8年〉7月9日 - 1998年〈平成10年〉2月6日)は、日本の法学者。専門は憲法、行政法。 1990年まで中央大学法学部教授(法学部長等を歴任)。中央大出身者としての初の日本学士院会員(1992年12月14日から)。1962年から1964年まで第一次臨時行政調査会の臨時委員を務めた。正五位勲二等瑞宝章。 橋本は、高等文官試験司法科・行政科をそれぞれ4番の成績で合格した秀才である。大学卒業後内務省に入ったが、第二次大戦中、短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、1942年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。
辻 英雄(つじ ひでお、1919年7月8日 - 2005年1… 辻 英雄(つじ ひでお、1919年7月8日 - 2005年11月29日)は、日本の官僚、政治家。自由民主党衆議院議員。
安東 次男(あんどう つぐお、1919年(大正8年)7月7日… 安東 次男(あんどう つぐお、1919年(大正8年)7月7日 - 2002年(平成14年)4月9日)は、日本の俳人、詩人、評論家、翻訳家。俳号は流火艸堂。 1919年(大正8年)岡山県苫田郡東苫田村(現在の津山市)生まれ。小学5年時に一家で神戸に移住。第二神戸中学校卒業後、1937年、旧制第三高等学校文科丙類(フランス語)に入学。1941年(昭和16年)頃より「寒雷」に投句、加藤楸邨に俳句を学ぶ。1942年(昭和17年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校。1943年(昭和18年)1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業。1944年(昭和19年)5月に海軍主計大尉に進み終戦を迎えた。
五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 201… 五月 一朗(さつき いちろう、1919年7月7日 - 2014年9月4日)は浪曲師。日本浪曲協会元会長。本名は岩野 久米一(いわの くめいち)。最初の妻で曲師は、初代京山小圓嬢の娘・五月雅子。2007年、長年相三味線を務めた加藤(五月)歌恵(林伯猿の娘)と再婚した。 香川県大川郡志度町(現・さぬき市)出身。香川県立志度中学校(後の香川県立志度高等学校)卒業。その後に大阪で行われた浪曲大会で初代京山小円嬢に激励され1936年に初代広沢駒蔵に弟子入り。6ヵ月後、大阪松島の広沢館で初舞台。芸名を広沢 駒月とする。1940年5月1日、タイヘイレコードの吹き込みのときに、会社では広沢駒月では古いからと改名することとなり、会社の発案で5月1日に吹き込むのだからと五月一朗と改名した。