藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998… 藤井 清(ふじい きよし、1909年4月17日 - 1998年10月6日)は、日本の歌人・国文学者。 福井県鯖江市生まれ。1939年広島文理科大学史学科卒。仙台の宮城県立第一高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)をふりだしに、宇都宮、福井など各地の高校、大学で教え、1969年退職。 1932年『国民文学』に入会し、松村英一に師事する。のち編集委員・選者。1978年「高樹会」会員となり、合同歌集「高樹」に参加。千代國一編集の歌誌「国民文学」の選者を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月… 杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月16日 - 1995年5月28日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。東京都出身。 1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に小西六写真工業に入社。 1941年に社長に就任し、1968年4月までに務めた。 1955年に紺綬褒章を受章。 1995年5月28日肺炎のために死去。86歳没。
中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月… 中村 實(なかむら みのる、1909年 <明治42年> 4月16日 - 1978年 <昭和53年> 10月20日)は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 静岡県浜松市出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業し、同年に三十五銀行(のちの静岡銀行)に入行。 1958年10月に取締役に就任し、1961年に常務、1970年4月に専務を経て、1973年11月から1978年6月までに頭取を務めた。 1978年10月20日内臓障害のために死去。69歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された。
森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 -… 森 はな(もり はな、1909年(明治42年)4月16日 - 1989年(平成元年)6月14日)は、兵庫県出身の児童文学作家・教育者。代表作は知的障害のある青年と地域との交流を描いた『じろはったん』。 1909年(明治42年)、兵庫県養父郡大蔵村宮田(現・朝来市和田山町)で、酒類販売業を営む父の次女として生まれた。1924年(大正13年)に大蔵尋常高等小学校高等科から兵庫県明石女子師範学校(神戸大学国際人間科学部の前身のひとつ)に進学し、1928年(昭和3年)に明石女子師範学校を卒業した後、南谷尋常小学校の教員となり、その後養父尋常小学校に転任となった。 この頃に兄の友人であり後に結婚する森種樹との文通が始まり、1932年(昭和7年)に結婚した。
千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1… 千葉 皓(ちば こう、1909年4月15日 - 1984年1月20日)は、昭和時代(戦前から戦後)の日本の外交官。位階は正三位。 米国サンフランシスコに生まれ、1922年に帰国する。第二高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格し、同年11月に外務省へ入省する。英国勤務を経て、東亞局に勤務する。1942年中国在勤。戦後、一時大蔵省に勤務するが、1947年終戦連絡中央事務局連絡官、1948年会計課長に復帰した。1952年メキシコ在外事務所所長、同年4月同国大使館参事官。1954年2月サンパウロ総領事。 1955年4月欧米局長、1957年4月欧米局長を経て、同年12月メキシコ大使に任ぜられる。
上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月… 上原 小枝(うえはら さえ、1909年 <明治42年> 4月13日 - 1996年 <平成8年> 8月20日)は、日本の経営者。大正製薬社長、会長を務めた。静岡県下田市出身。位階は従五位。 夫は大正製薬社長、参議院議員などを歴任した上原正吉。正吉との間には実子は無く、そのため実兄の次男である上原昭二を養子に迎えている。 1955年7月に大正製薬取締役に就任し、1962年9月に副社長を経て、1965年6月には社長に就任。1966年9月に副社長、1973年5月に副会長、1981年6月に会長。当時は政治活動等で多忙な正吉に代わり、大正製薬の経営を実質的に采配しており、一部では「ゴッドマザー」とも称された。
吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 20… 吉田 幸一(よしだ こういち、1909年4月12日 - 2003年1月9日)は、日本の国文学者、書誌学者、出版人、古典籍蒐集家。東洋大学名誉教授。 学位は、文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)(学位論文『和泉式部日記の基礎研究』)。日本古典文学の叢書「古典文庫」を個人事業として編纂・発行したことなどで知られる。 1909年(明治42年)4月12日、静岡県静岡市に生まれる。1930年(昭和5年)4月東洋大学文学部国文学科入学、1933年(昭和8年)7月卒業。並行して東京外国語学校支那語専修科(夜間)で中国語を学ぶ。吉田は恩師として藤村作と久松潜一の名を挙げている。 会社勤務、小学校代用教員を経て、1939年(昭和14年)4月、静岡県立浜松商業学校・同工業学校嘱託(中国語担当)。
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月… 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。 兵庫県神戸市(兵庫区)西柳原町にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。
三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月… 三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1999年〈平成11年〉5月2日)は、日本の東洋史学者。位階は従四位。 東京出身。慶應義塾大学文学部東洋史学科卒。外務省調査部嘱託、明治大学助教授を経て、千葉大学文理学部助教授、教授となる。1975年定年退官、名誉教授となる。トルコ史が専門。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9… 村田 重治(むらた しげはる、1909年〈明治42年〉4月9日 - 1942年〈昭和17年〉10月26日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。南太平洋海戦で米空母「ホーネット」攻撃後に戦死した。二階級特進により最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)4月9日、長崎県南高来郡島原村新馬場に父円の次男として生まれる。村田家は士族で、祖父・重太郎は戊辰の役に兵士として参加している。重治の幼少時代は、成績は小学校、中学校ともに優秀だが、控えめで口数も少なくどちらかと言うと目立たなかったが、相撲と剣道は強かった。中学時代の渾名は「ガジ」であり、当時の級友によれば「決してガジガジの性格から来たものではなく、背が低くてがっしりしていたので、その感じから自然と“ガジ”という渾名が付いたものと思う」という。
信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - … 信夫 清三郎(しのぶ せいざぶろう、1909年4月8日 - 1992年10月10日)は、日本の政治学者・歴史学者。日本政治学会理事長。名古屋大学名誉教授。 外交官で国際法学者の信夫淳平の三男として、父の任地である韓国の仁川で生まれる。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞社代表取締役専務)は兄。1934年、九州帝国大学を卒業し、マルクス主義的な立場から在野で日本近代史の研究を行う。唯物論研究会に所属し、1938年には治安維持法違反容疑で、特別高等警察に逮捕されたこともある。 1943年9月に出版した『ラッフルズ――イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(日本評論社)は、発売一週間で内務省により敵国のイギリスを褒めているという理由で発売禁止の処分を受けた。
伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004… 伊沢元美(いざわ もとよし、1909年4月8日 - 2004年10月31日)は、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1933年東京帝国大学文学部国文科卒。36年同大学院修了(旧制)。島根大学法文学部助教授、教授、1974年定年退官、名誉教授、鶴見大学女子短期大学部教授。主として俳句を研究した。
渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)… 渡辺 一太郎(わたなべ いちたろう、1909年(明治42年)4月6日 – 1991年(平成3年)1月22日)は、昭和期の内務・警察官僚、政治家。参議院議員、千葉県副知事。 東京府出身。日本大学専門部を経て、1934年(昭和9年)同大学法文学部を卒業した。1936年(昭和11年)長野県巡査に任官。1938年(昭和13年)10月、高等試験行政科試験に合格し、厚生省に入省。以後、徳島県農務課長、鹿児島県庶務課長、神奈川県商工課長、鳥取県警察部長、警察庁参事官、千葉県警察本部長、臨時行政調査会専門委員などを歴任。1963年(昭和38年)千葉県副知事に就任した。また、戦時中は陸軍司政官に転出した。 1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に千葉県地方区から自由民主党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979… 上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日 - 1979年2月13日)は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。 1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる。 1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する。 1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する。 1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝。 1946年、調教師免許を取得。 1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇。
佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 19… 佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年4月3日 - 1986年12月13日)は、日本の政治家、官僚。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(9期)、科学技術庁長官・通商産業大臣を歴任した。 秋田県河辺郡河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年東京帝国大学経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。 戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。
岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1… 岡原 昌男(おかはら まさお、1909年〈明治42年〉4月1日 - 1994年〈平成6年〉7月14日)は、日本の検察官、裁判官。第8代最高裁判所長官を務めた。位階は従二位。 最高裁長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったことは、衆目の認めるところであったが、大阪空港訴訟、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり、重要な役割を果たした。1979年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。好きな言葉は「則天去私」(夏目漱石の言葉。小さい自分の心を超越して、宇宙の大きな道に従うこと)。 岡原が最高裁入りする少し前の八幡製鉄事件で政治献金を合法とした最高裁判所大法廷判決については、「企業献金は法律的には理屈が通らない。
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1… 筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。 千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。
新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994… 新山 滋(にいやま しげる、1909年4月1日 - 1994年7月18日)は、日本の経営者。 和歌山県和歌山市出身。1927年に海草中学校を卒業し、同年に南海鉄道(南海電気鉄道の前身)に入社し、1959年6月に総務部長に就任した。その一方で、1964年10月から1974年10月までに南海ホークス球団社長を務め、1972年にはパ・リーグ理事長に就任した。 1994年7月18日、急性肺炎のために堺市の病院で死去。85歳没。
安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995… 安井 琢磨(やすい たくま、1909年4月1日 - 1995年12月17日)は、日本の経済学者、大阪大学名誉教授、東北大学名誉教授。経済学博士(1953年)。大阪府大阪市生まれ。
檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42… 檜山 義夫(桧山 義夫、ひやま よしお、1909年(明治42年)4月1日 - 1988年(昭和63年)7月21日)は、日本の水産学者。 東京出身。父は檜山鉄三郎、祖父は檜山金平。東京帝国大学農学部卒。1948年(昭和23年)「硬骨魚の新生殖法」で東大農学博士。1949年(昭和24年)東大農学部教授。1969年(昭和44年)定年退官、名誉教授。魚類生態学、漁業学、水産資源学。核実験による水産生物の放射能汚染を調査した。釣りや外国旅行に関する著作、子供向けの著作もある。 1951年(昭和26年)4月6日には、皇居に招かれ科学委員会合に出席。昭和天皇及び出席した委員を前に水産学概論、漁労論を進講する。
浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1… 浦辺鎮太郎(うらべ しずたろう、1909年3月31日 - 1991年6月8日)は、日本の建築家。 岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)出身。岡山県第一岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校の一つ)、旧制第六高等学校を経て、1934年京都帝国大学工学部建築学科卒業後、倉敷レイヨン(現:クラレ)に入社し営繕関連部門に勤務。1962年、倉敷レイヨン内に同社社長で同郷の実業家大原総一郎の庇護のもとに倉敷建築研究所(現:浦辺設計の前身)を設立した。1964年に倉敷レイヨンを退社し倉敷建築事務所として独立、1966年に浦辺建築設計事務所と改称した。倉敷レイヨン時代から大原総一郎の構想する倉敷のまちづくりを建築家として支え、1968年の総一郎死去後も大原家や倉敷に関連する建築をはじめ多くの作品を残している。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 19… 本林 譲(もとばやし ゆずる、1909年3月31日 - 1992年4月17日)は最高裁判所判事。弁護士。東京府出身。 松本高等学校文科乙類、京都帝国大学法学部卒業。1933年、父と同じ弁護士になった後、司法官試補として仙台地裁で勤務するも、1年後に父親が死去したことで再び弁護士に。 戦後、「食えないため」明大の講師をしたこともある。日弁連事務総長や法制審議会国際私法部会委員などを務めた。 1975年8月に最高裁判事に就任。就任時には「36年間、庶民の相談相手として養った感覚については、いささかの自負をもっています」「弁護士出身の裁判官として責任を感じます」と挨拶。 1979年3月に定年退官。 長男も弁護士で三代続く法曹一家。
西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 198… 西田 長男(にしだ ながお、1909年3月31日 - 1981年3月28日)は、日本の神道学者、國學院大學名誉教授。 三重県出身。國學院大學卒。宮地直一に師事。戦前は大倉精神文化研究所研究員、東京帝国大学講師、戦後は國學院大學教授。1955年「日本宗教の発生に関する一試論」で國學院大文学博士。
鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 199… 鳥居 保治(とりい やすじ、1909年3月31日 - 1996年3月9日)は、日本の実業家。三井石油化学工業(現在の三井化学)社長および会長を務めた。愛知県宝飯郡御津町出身。孫は植物学者の鳥居啓子。 旧制愛知県豊橋中学校、旧制第八高等学校を経て、1932年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、三井鉱山に入社した。1941年に三井化学工業に転じ、1954年に取締役に就任し、1969年に三井石油化学工業社長に就任。1977年に会長に就任し、1982年から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1996年3月9日狭心症のために東京都府中市の病院で死去。
貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 193… 貴志 康一(きし こういち、1909年3月31日 - 1937年11月17日)は、大阪府吹田市、大阪市都島区、兵庫県芦屋市出身の作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。 母の実家である大阪府三島郡吹田町(現:吹田市)の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後にメリヤス業で成功した裕福な大商家である貴志彌右衛門(松花堂弁当の考案者)という環境で育つ。小学校5年生の時に、芦屋市に転居。14歳より、神戸市の深江文化村でミハイル・ヴェクスラーに直接ヴァイオリンを師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨーゼフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。
村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月… 村上 信彦(むらかみ のぶひこ、1909年(明治42年)3月30日 - 1983年(昭和58年)10月31日)は、日本の作家、女性史研究家、医事評論家。 大衆作家村上浪六の三男として東京市下谷に生れる。「父浪六が手をつけようとした女中を救い出して父と義絶、その少女と結婚」したとされているが、このエピソードは彼の小説『音高く流れぬ』に登場するフィクションである。本小説は確かに村上本人とその周辺人物がモデルとなっており、村上の妻は女中として村上家に勤めていたが、エピソード自体は創作である。作中では女中に手を付けようとしたのも父ではなく叔父であり、主人公に父母はいない。村上が後年、彼の日記をもとに執筆したドキュメント小説『黒助の日記』にもこのエピソードはない。
星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30… 星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30日 ‐ 1992年(平成4年)5月31日) は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(1期)。 東京府東京市小石川区(現文京区小石川)で、牧師星野光多の三男として生まれた。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を経て、静岡高等学校文科(現静岡大学)に進んだ。左翼運動に加わり、1931年(昭和6年)日本共産党に入党。1933年(昭和8年)検挙されて入獄し静岡高校を中退、1940年(昭和15年)恩赦で出獄した。同年、上海に渡り上海自然科学研究所員に就任。1941年(昭和16年)容海語学校を設立。さらに容海小学校、容海忠学校を設立し、在留日本人の指導的存在となった。
木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30… 木原 通雄(きはら みちお、1909年〈明治42年〉3月30日 - 没年不明)は、日本の銀行役員、会社役員。みずほフィナンシャルグループ取締役兼執行役社長木原正裕、衆議院議員木原誠二は孫。 長崎県北高来郡諫早村(現・諫早市)出身。木原中三の長男。1933年、東京商大卒業。第一銀行に入る。1947年4月、安本に派遣され、長官高瀬荘太郎秘書となり同年6月同行に復帰し、丸ノ内支店長代理に就任、同支店次長、京都支店次長、一宮支店開設準備委員長、一宮支店長、外国部次長、有楽町丸ノ内各支店長を歴任する。 1956年11月、厚生部長に転じ、1958年3月、宇都宮支店長。1960年11月、人事部長。1962年4月、福岡支店長、同年5月取締役に就任。
関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年… 関 四郎(せき しろう、1909年3月29日 - 1990年12月12日)は日本の電気技師。国鉄常務理事、明電舎社長、鉄道技術協会会長、電気学会会長などを務めた。ペンネーム芝山 倉平(しばやま くらへい)による探偵小説「電気機関車殺人事件」の作者としても知られる。 北海道札幌市生まれ。北海道帝国大学工学部卒。国鉄で技師を務めていた。1943年(昭和18年)に「国有鉄道1万キロ電化の提唱」を発表するなど国鉄の電化の必要性を強く訴えたが、戦時下にあって鉄道電化は遅々として進まなかった。終戦間もない1945年9月には上越線電化に向けて活動を開始。人材、食料、資材、資金が極度に不足する中で、1947年(昭和22年)4月には上越南線(高崎~水上間)、同10月には上越北線(石打~長岡間)の電化を完成させた。
花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月2… 花田 清輝(はなだ きよてる、1909年〈明治42年〉3月29日 - 1974年〈昭和49年〉9月23日)は、作家・文芸評論家。巧みなレトリックを駆使した文体を特徴とし、映画や演劇の評論も多く手がけ、日本のアヴァンギャルド芸術論の先駆的存在であった。 1909年3月29日、福岡県福岡市東公園に生まれ、一人っ子として育つ。先祖は毛利輝元であり、清輝の曽祖父は黒田藩の右筆で、名前には代々「輝」の字を付ける習いだった。旧制福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)時代は柔道に熱中し、また父ともに短歌を新聞等に投稿していた。 1926年4月、鹿児島の第七高等学校甲類に入学、西田哲学に没入、また寮誌『白光』を創刊し長編詩「樹下石上」などを発表。
坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1… 坂口 敏之(さかぐち としゆき、1909年3月29日 - 1999年)は、日本の医師、軍医。 熊本県玉名郡梅林村(現・玉名市)に生まれる。熊本県立玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校、1927年卒業)を経て、熊本医科大学を卒業した。 1937年7月には上海に派遣され患者輸送部隊の医師として、負傷した兵士を野戦病院から後方へ送る仕事に従事した。太平洋戦争開戦後は軍医として徴兵され、マレー作戦に従軍し、1942年秋まで占領地を移った。 戦後は福岡県大牟田市の三井三池鉱業所病院に勤め、定年退職後に開業医となった。1952年に熊本大学より医学博士号を取得している。1975年には『肥後の子供歳時記』を刊行した。
石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)… 石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。 代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月… 金 柄淳(キム・ビョンスン、朝鮮語: 김병순、1909年3月26日または1910年3月26日 - 1973年3月5日)は、大韓民国の畜産官僚、政治家。元大韓獣医師会会長、第3・4・6・7代韓国国会議員。 漢字表記は金炳淳とも。 全羅南道海南郡出身。麻布獣医畜産専門学校卒。京畿道・忠清北道産業技手、雑誌『畜産農村』発刊人を経て、1945年から慶尚南道農産局畜産課技師、朝鮮農会事業部長・畜産部長、大韓農会畜産部長、農林部農林委員、大韓畜産同業組合連合会副会長・会長、大韓農民会常務委員、大韓獣医師会会長、畜産農村社社長、自由党中央委員・海南甲区委員長、民主共和党中央常任委員・中央政策審議会委員・全南第14地区党委員長・政策審議委員会副議長、大韓畜産振興会会長を務めた。
平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1… 平林 忠雄(ひらばやし ただお、1909年3月26日 - 1979年3月4日)は、日本の経営者。田辺製薬(現在の田辺ファーマ)社長を務めた。長野県出身。 1934年に大阪商科大学を卒業し、大倉高等商業学校で講師を務め、大日本油脂での勤務を経て、1940年10月に田辺製薬に入社し、同時に監査役にも就任。 1948年1月に取締役、1955年9月に代表取締役、1956年6月に専務を経て、1963年8月には社長に就任。 1971年10月に藍綬褒章を受章。 1979年3月4日肺炎のために死去。69歳没。
小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25… 小山 五郎(こやま ごろう、1909年〈明治42年〉3月25日 - 2006年〈平成18年〉3月2日)は、日本の銀行家。三井銀行(現:三井住友銀行)の社長、会長を歴任した。位階は従三位。 群馬県新田郡鳥之郷村(現・太田市)に、大島戸一の五男として生まれる。旧制太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、旧制静岡高等学校を経て、1932年(昭和7年)に東京帝国大学経済学部卒業。三井銀行に入行。 三井銀行では数寄屋橋丸の内支店長などを経て1955年(昭和30年)総務部長、さらに1959年(昭和34年)取締役となり東京支店長に就任。1961年(昭和36年)大阪支店長を兼任して大阪事務所長委嘱、1963年(昭和38年)常務取締役となる。
戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1… 戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1988年3月24日)は、日本の評論家、能・狂言の評論家。 東京生まれ。旧制早稲田中学を経て早稲田大学国文科卒。 1933年、中央公論社に入社するが、その年のうちに退社。1948年、天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。『戸井田道三の本』4冊がある。「きものの思想」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日… 江川 昇(えがわ のぼる、1909年(明治42年)3月25日 - 2013年(平成25年)1月20日)は、日本の政治家。金沢市長を3期12年務めた。 石川県金沢市出身、石川県農学校(現・石川県立翠星高等学校)卒業後石川県庁に入庁。金沢市助役を15年務めた後、1978年12月1日、岡良一の病気辞任に伴う金沢市長選挙に当時の主要全政党(自民・社会・公明・民社・共産・新自由クラブ・社民連)の推薦を受けて立候補、無投票で初当選。1982年11月21日、自民・社会・公明・民社の推薦、共産の支持を受け、再選を果たす。1986年11月16日、自民・社会・公明・民社の推薦を受け、共産推薦候補を破り三選。1990年8月14日、3期限りで引退することを表明した。
岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - … 岡本 経一(おかもと きょういち、1909年3月25日 - 2010年11月15日)は、日本の出版人。岡本綺堂の養子。青蛙堂書房創業者。 岡山県勝田郡勝間田町出身、旧姓は森部。 13歳で上京。1924年に額田六福の紹介で作家・岡本綺堂の書生となり、専検(専門学校入学資格検定試験)をとって法政大学の夜学に通う。1930年、法政大学高等師範科(国漢)卒業。 就職できず、綺堂監修の戯曲誌『舞台』の編集手伝いののち、三上於菟吉と改造社の編集者・塩谷晴如が興した出版社「サイレン社」に入り、三上の妻である長谷川時雨の編集担当として時雨の『草魚』や『近代美人伝』を手掛けた。同社は三上が経営から退いたことから経営難となり、塩谷が大衆本出版に手を出したが失敗、健一はその後始末に追われた。
栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月… 栃沢 助造(とちざわ すけぞう、1909年(明治42年)3月25日 - 1989年(平成元年)11月10日)は元日本放送協会(以後NHK)専務理事。 1909年(明治42年)3月25日富山県黒部市で生まれる。1933年(昭和8年)に法政大学を卒業する。 逓信省の勤務を経て、NHKに入局する。NHK名古屋中央放送局長、NHK経理局長などを経て、1963年(昭和38年)からNHK専務理事に就任する( - 1965年(昭和40年))。 1989年(平成元年)11月10日に死去、80歳。 1975年(昭和50年)に藍綬褒章を受章し、1980年(昭和55年)に勲三等瑞宝章を受章する。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
戸田 義郎(とだ よしろう、1909年3月24日 - 199… 戸田 義郎(とだ よしろう、1909年3月24日 - 1999年11月21日)は、日本の経営学者。第6代神戸大学学長。初代日本簿記学会顧問。 大阪市西区新町通の商家の二男として生まれる。大阪市立西六尋常小学校(のちの大阪市立堀江小学校)を経て、1927年大阪大倉高等商業学校(のちの関西大倉高等学校)首席卒業。4年先輩にはのちに神戸大学で同僚となった保険論の白杉三郎がいた。 1930年神戸高等商業学校第3学年修了。1933年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。平井泰太郎ゼミ出身。また在学中古林喜楽の指導も受けた。丹波康太郎は平井ゼミの同期。 同年東亜同文書院講師。同年同教授。1939年東亜同文書院大学予科教授。
平林 愛国(ひらばやし あいこく、1909年3月24日 - … 平林 愛国(ひらばやし あいこく、1909年3月24日 - 1968年10月8日)は、日本のボクサー。 明治大学在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックの男子ウエルター級に出場し、1回戦でドイツのエーリッヒ・カンペ(ドイツ語版)に敗れた。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月2… 末吉 利雄(すえよし としお、1909年(明治42年)3月23日 - 1995年(平成7年)12月31日)は、日本の政治家。第17代鹿児島市長。 鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業学校(現:鹿児島県立鹿児島工業高等学校)を卒業し、日本専売公社に勤務する。1951年から鹿児島県議を連続4期務める。また、1960年には日本社会党鹿児島県本部委員長となり、7期務める。 1967年鹿児島市は谷山市を合併し、新鹿児島市が発足した。合併直後の市長選に革新系から立候補し、保守系の現職の三ッ井卯三男と一騎討ちとなった。末吉は「市民との対話」を訴え、選挙戦を進め、現職を破って当選、平瀬實武以来の革新市長の誕生となった。
坪井 与(與)(つぼい あたえ、1909年3月23日 - 1… 坪井 与(與)(つぼい あたえ、1909年3月23日 - 1992年3月31日)は、日本の映画プロデューサー。満映娯民映画所長、東映専務取締役、東映化学工業社長。
氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月2… 氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月22日 - 没年不明)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(4期)。 新潟県出身。1923年、加茂村(のち両津市、現・佐渡市)立尋常高等小学校卒。1933年、加茂村役場書記となり、のちに白瀬水電(株)に入り、会計課長となった。戦後の1947年、加茂村議会議員に当選、議長を務めた。1951年、加茂村長となる。1954年、加茂村は合併により、両津市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、当選する。1958年に再選し、1962年は出馬しなかった。この間、新潟東観光(株)取締役、佐渡汽船(株)監査役を歴任した。4年後の1966年に両津市長に復帰、1970年に再選し、市長を1974年まで務めた。
小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993… 小松醇郎(こまつ あつお、1909年3月21日 - 1993年6月11日)は、日本の数学者。 東京府生まれ、長野県育ち。父は教育者の小松武平、兄は哲学者の小松摂郎。長野県立諏訪中学校(現:長野県諏訪清陵高等学校)卒、旧制松本高等学校(現:信州大学人文学部・理学部)卒、1932年東京帝国大学理学部数学科卒、1941年「複体の変換論」で大阪帝大理学博士。大阪帝国大学助教授をへて、京都大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授となる。専門は位相幾何学。
佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 -… 佐賀 潜(さが せん、1909年〈明治42年〉3月21日 - 1970年〈昭和45年〉8月31日)は日本の小説家、推理作家、検察官、弁護士。本名は松下幸徳。 東京生まれ。筆名の由来は、父親を含め先祖代々佐賀鍋島藩の出身であることと、「探せん」の意味を懸けたもの。 中央大学法学部在学中、司法試験に合格。大学を卒業し司法修習を終え、各地の地方検察庁(当時は地方裁判所検事局)で検事を務める(1946年11月までの約10年間)。なお、著書である『刑法入門』の中で、検事時代の1944年に長崎刑務所浦上支所で死刑が執行された際に、担当でもないのに興味本位で立ち会った体験を明かしている。 その後は弁護士事務所を開業。