江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 19… 江川 為信(えがわ ためのぶ、1890年6月18日 - 1969年10月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、石川県議会議員(5期)、石川県農業会長。 1890年、石川県石川郡額村に生まれる。野々市小学校を卒業。1927年県議選に当選し、1944年に辞職するまでつとめる。その間、石川県名誉職参事会員に5回も選出され、政友会石川支部の幹事長にもなった。また、多年に渡って農政に尽くし、1935年に石川郡農会長に、1943年から1947年までは石川県農業会長も歴任した。
長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16… 長 基連(ちょう もとつら、1890年(明治23年)6月16日 - 1954年(昭和29年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・本多恭。 旧加賀藩家老・本多政以の二男として生まれる。男爵・本多政樹の弟。従兄の男爵・長克連の死去に伴い家督を継承し、1901年(明治34年)6月7日、男爵を襲爵した。その後、前名・恭を基連と改名した。 1915年(大正4年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年(大正6年)三井銀行に入行する。以後、龍王山金山取締役、第一機罐保険社長、東邦物産会頭などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 19… 永田 昌綽(ながた まさのぶ、1890年6月15日 - 1975年7月25日)は、日本の実業家。北海道拓殖銀行頭取を生え抜きとして初めて務めた。 島根県出身。1917年に東京帝国大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入行。取締役を経て、1941年から1947年までに頭取を務めた。 北海道曹達会長、北海道商工会議所顧問、北海道クラブ相談役などを歴任した。 1960年に藍綬褒章を受章し、1971年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1975年7月25日、腎不全のために死去。85歳没。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月… 天野 修一(あまの しゅういち、1890年(明治23年)6月15日 - 1976年(昭和51年)12月1日)は、日本の発明家・実業家。アマノ株式会社の創設者。子息に立命館大学名誉教授・学校法人立命館元総長の天野和夫。 三重県鈴鹿郡石薬師村(現在の三重県鈴鹿市石薬師町)出身。1911年(大正元年)、23歳の時に「A式綴紙器」を発明して特許を取得。1931年(昭和6年)、東京蒲田に天野製作所を設立してタイムレコーダー・気象用計器の製造を開始した。1938年(昭和13年)に海軍から雷道計の開発・製造を請け負い横浜菊名に新工場を建設し、1942年(昭和17年)には海軍管理工場に指定されて本社を菊名工場に移転したが、敗戦により工場閉鎖。
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉… 田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、実業家、政治家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生。 1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業。 千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井(現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 19… 辻村 太郎(つじむら たろう、1890年6月12日 - 1983年7月15日)は、日本の地理学者・地形学者。地形学を中心とした日本における地理学の確立に努め、長く日本の地理学をリードしてきた人物として知られ、日本の地理学の歴史には欠かせない人物である。 神奈川県小田原市の生まれ。13歳で神奈川県立第二中学校に入学。三年後に東京開成中学校に転校。18歳の時同校を卒業し、1908年(明治41年)19歳で第一高等学校理科に入学する。この頃、従兄の辻村伊助の影響もあって早くから山や登山に興味をもち、中学4年の頃山岳会に入会し会員となった。1911年(明治44年)、飛騨山脈の高峯で多数のカール(圏谷)や堆石(モレーン)を見つけ、それらが氷河作用によるものと考え、論文を発表した。
鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月… 鏑木 外岐雄(かぶらぎ ときお、1890年(明治23年)6月10日 - 1968年(昭和43年)2月21日)は、日本の動物学者である。 石川県に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学する。1915年(大正4年)に卒業後は母校に戻り、1917年(大正6年)には同大学の助手として活動した。1924年(大正13年)には農学部で講師として教鞭を執り理学博士を取得し、1926年(大正15年)には教授に昇格する。 その後は徳川生物学研究所の研究員としても活動しナミウズムシ等の渦虫類やヒモムシ研究に携わり、日本の応用生物学や応用昆虫学の研究や、植物防疫事業等にも携わった。第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)から1967年(昭和42年)まで國學院大學の教授も務め、1951年(昭和26年)に東京大学を定年退職する。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月… 国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月9日 – 1958年〈昭和33年〉2月15日)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡高近村(現在の宇和島市)に愛媛県会議員・参事会員を務めた国松磊奇智の長男として生まれた。宇和島中学校を卒業後、中央大学に学んだが、第三高等学校に転じた。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業。大阪市で弁護士を開業したが、翌1918年(大正7年)に宇和島市に移り、民事・商事事件を扱い、破産管財人にも選出された。1928年(昭和3年)、宇和島新聞社社長となり、『南予毎日新聞』と改題した。また宇和島市会議員、同議長、愛媛県会議員などを歴任した。
岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8… 岩城 隆徳(いわき たかのり、1890年(明治23年)6月8日 - 1979年(昭和54年)9月21日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・青山、旧名・幸徳。 子爵・青山幸宜の五男として生まれ、子爵・岩城隆邦の養子となる。養父の死去に伴い、1911年(明治44年)4月21日、子爵を襲爵し、同月、隆徳と改名した。 学習院を経て、1914年、東京帝国大学理科大学植物学科を卒業。さらに同大学院で学び、同大経済学部を修了した。 1916年(大正5年)帝室林野局技手に就任。以後、内務省社会局嘱託、日東印刷取締役、興亜産業取締役などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 19… 中村 直勝(なかむら なおかつ、1890年6月7日 - 1976年2月23日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。 滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)にある長等神社の社家の家に生まれる。膳所中学校・第三高等学校 を経て京都帝国大学に入る。三浦周行の門下で古文書学などを研究する。卒業論文「皇室制度」をまとめ、1915年7月に京都帝国大学文科大学卒業。さらに、古文書学の研究のため、大学院に進む。1919年9月より第三高等学校で歴史学を講じ、1920年に同校教授となる。1927年7月からは京都帝国大学助教授として古文書学を担当した他、南朝や荘園・皇室領・座・供御人などの研究を行った。1946年に「荘園の研究」を提出して京都大学から文学博士の学位を授与される。
石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日… 石田 憲次(いしだ けんじ、1890年〈明治23年〉6月7日 - 1979年〈昭和54年〉6月30日)は、日本の英米文学者。 山口県出身。東京外国語学校英語科を経て、1916年京都帝国大学英文科卒。同志社大学教授、1924年京都帝大文学部助教授、1934年教授、京都大学教授、1951年定年退官、大阪市立大学教授、1958年京都女子大学教授を務めた。18世紀およびヴィクトリア朝の英文学研究、またフランクリンなど初期アメリカ文学の研究を行い多数の著作を著した。特にキリスト教的傾向が強い。 1979年6月30日、脳溢血のため京都市北区の鞍馬口病院で死去。89歳。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月… 杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月5日 - 1979年(昭和54年)10月21日)は、日本の生化学者である。 アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターで癌の化学療法の分野で働いた。 愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父を癌で失い、徒弟奉公にでるが、1903年(明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。
橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日… 橋本 循(はしもと じゅん、1890年(明治23年)6月2日 - 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の中国文学者。 現在の福井県越前市生まれ。雅号・蘆北。京都帝国大学文科大学文学科修了。1928年立命館大学予科教授。1946年立大法文学部文学科部長。1949年「漢魏六朝文学思想論」で京大文学博士。立大文学部長・文学研究科長を数次務める。立命館理事。1959年特別任用教授。1969年名誉教授。白川静の師匠。記念して蘆北賞が設けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1… 亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。山口県下関市出身。[要出典]鏑木清方門下。[要出典]本名五郎。[要出典] 帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。 度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。
今井 邦子(いまい くにこ、1890年〈明治23年〉5月31… 今井 邦子(いまい くにこ、1890年〈明治23年〉5月31日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日、旧姓山田、本名くにえ)は、徳島市出身の「アララギ」の歌人、小説家。後に短歌誌「明日香」を創刊した。山田邦子名で新聞記者もしていた。夫は立憲政友会衆議院議員の今井健彦。通産省事務次官を務めた両角良彦は甥にあたる。 明治23年(1890年)、徳島市に生まれる。父山田邦彦(1857年 - 1909年)は官吏であり、また和歌も詠んだ。当時は徳島県学務課長の任にあった。明治25年、2歳(1892年)のとき父母と離れ、父の郷里である長野県下諏訪町の祖父母のもとに預けられた。少女期より、文才に長け、当時、文学少女の憧れの的であった「女子文壇」にしばしば詩を投稿し、度重なる入賞をし、文才の閃きを見せていた。
杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月3… 杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 - 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。 大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごす。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。
西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nis… 西岡 竹次郎(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka、1890年〈明治23年〉5月28日 - 1958年〈昭和33年〉1月14日)は、日本の政治家、実業家。西岡伊三次の養子。長崎県知事や戦前から戦後にかけ長崎民友新聞社長を務めた。位階は正四位。勲二等瑞宝章。 長崎市出身。1916年(大正5年)に早稲田大学法学部を卒業すると、普通選挙運動に関わり1921年(大正10年)からヨーロッパへ外遊。1924年(大正13年)に帰国すると同年5月の総選挙に中立候補として出馬し水産大学の誘致・総合大学の設置・国立博物館の建設等の6大政策を掲げたが、憲政会の対立候補だった本田恒之がそれを利益誘導として西岡を告訴したものの、結果的に本田・則元卯太郎(政友本党)と激戦の末に2,385票の最高点で初当選した。
多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28… 多賀 秀敏(たが ひでとし、1890年(明治23年)5月28日 - 1934年(昭和15年)7月14日)は、朝鮮総督府官僚。正五位勲六等。 大阪府大阪市出身。1918年(大正7年)、東京外国語学校英語学科を卒業。1921年(大正10年)には京都帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に高等試験行政科に合格した。朝鮮総督府属、道警視、咸鏡南道商工課長・審査課長、同水産課試験場長、忠清南道学務課長・土木課長、京畿道学務課長、忠清南道財務部長、慶尚北道財務部長、大邱府尹、光州税務監督局長などを歴任した。 1934年(昭和15年)7月14日、病気療養中に大阪市の大阪帝国大学医学部附属医院で死去、44歳。同年5月中旬より入院していた。
木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 198… 木下一雄(きのした かずお、1890年5月27日 - 1989年5月26日)は、日本の教育学者。儒教風道徳教育を是とし、日教組と対立した。
安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)… 安居院 経市(あごいん きょういち、1890年(明治23年)5月25日 - 1978年(昭和53年)10月6日)は、大正から昭和時代の銀行家。実業家。 安居院栄三郎の三男として兵庫県に生まれ、1914年(大正3年)叔父・音吉の家督を継ぐ。1917年(大正6年)京都帝国大学法科政治科を卒業し、三菱銀行に入社する。その後、日本橋支店副長、本店内国課副長、四谷・小樽・大森・横浜各支店長を経て参事となった。1944年(昭和19年)退職。後に興亜石油常務取締役を務め、1978年(昭和53年)に老衰により東京都大田区北千束の自宅にて死去した。 ほか、淡路産業相談役、東京銀座ライオンズクラブ会長、東興商会社長、同相談役などを歴任した。
森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 -… 森田 重次郎(もりた じゅうじろう、1890年5月25日 - 1988年5月12日)は、日本の政治家。位階は従三位。衆議院議員(7期)。 青森県上北郡上北町(現東北町)出身。幸次郎の長男。1911年、青森師範卒業。1937年、衆議院議員に当選。戦後、公職追放されたが、1952年の総選挙で当選して国政に復帰し、衆議院議員を通算7期務めた。 1973年4月の春の叙勲で勲四等から勲一等に叙され、瑞宝章を受章する。 1988年5月12日、死去。97歳没。同月17日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙された。
諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月… 諏訪 熊太郎(すわ くまたろう、1890年(明治23年)5月23日 - 1975年(昭和50年)1月26日)は、日本のキリスト教宣教家。
佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - … 佐成 謙太郎(さなり けんたろう、1890年5月23日 - 1966年3月4日)は、国文学者。 滋賀県出身。京都帝国大学文学部を卒業した。1924年、女子学習院教授に就任した。戦後は大東文化大学教授、学校法人鎌倉女学院理事長を務めた。中古・中世文学を専門とし『謡曲大観』全7巻、『対訳源氏物語』の業績がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> … 中原 延平(なかはら のぶへい、1890年 <明治23年> 5月23日 - 1977年 <昭和52年> 2月25日)は、日本の経営者。兵庫県三原郡神代村(現在の南あわじ市)出身。長男は日本銀行政策委員会審議委員の中原伸之。 1916年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業。富士製紙、小倉石油などでの勤務を経て、1939年に東亜燃料工業常務に就任し、1944年1月には社長に昇格。1962年2月には相談役に就任。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年に勲三等瑞宝章を受章。 19772月25日呼吸不全のために死去。86歳没。
三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月2… 三木 森彦(みき もりひこ、 1890年(明治23年)5月21日 - 1973年(昭和48年)7月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。東京都目黒区出身。
名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975… 名取 堯(なとり たかし、1890年5月21日 - 1975年)は、日本の思想史学者、芸術学者。 長野県諏訪郡落合村(現・富士見町)生まれ。旧制長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を卒業後、小学校に2年勤務後、1918年早稲田大学文学部卒業。 日本美術学校(後の日本美術専門学校)講師。1929年帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授。1934年同校校長 北昤吉に学校二分案を提示し、翌1935年、同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)が分離独立。1948年1月造型美術学園(現・武蔵野美術大学)経営顧問。1948年11月武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)校長。
金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - … 金子 彦二郎(かねこ ひこじろう、1889年6月20日 - 1958年5月27日)は、日本の国文学者。 新潟県西蒲原郡岩室村(現在の新潟市西蒲区)出身。東京高等師範学校卒。帝国女子専門学校(のち相模女子大学)国文科主任、1945年「平安時代文学と白氏文集 句題和歌千載佳句研究篇」で帝国学士院賞受賞。1946年「平安時代文学と白氏文集」で慶應義塾大学文学博士。女子学習院教授、東洋大学教授。女子教育の実践者として研究されている。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月1… 野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月18日 - 没)は、日本の実業家、政治家。旧姓稲田。洋食のレストラン“十字屋”経営主。元米子市会議員(議長)。 外交官、米子市長だった野坂康夫の祖父。弁護士・公証人雑賀愛造の実兄。戦後米子市長を務めた野坂寛治は姻戚関係にある。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれた。養父は野坂吉五郎。 米子中学校(現米子東高校)から大阪高等工業学校醸造科に進み、同校を明治45年(1912年)3月卒業。初めの10年程は家業に従事したが、海陸運送業、楽器販売、飲食業と、転々仕事を新たにして終戦時に及んだ。 その間昭和8年(1933年)米子商工会議所議員、昭和10年(1935年)米子市会議員に当選。
山口 光一郎(やまぐち こういちろう、1889年6月17日 … 山口 光一郎(やまぐち こういちろう、1889年6月17日 - 1948年7月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県三好村(のち田沼町、現・佐野市)に生まれる。1912年栃木県師範学校卒。卒業後は小学校訓導や校長となり、三好村会議員、同村長となった。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙において栃木県(全県1区)から日本進歩党公認で出馬して初当選した。しかし、翌年公職追放によりその座を追われた。追放後は石灰業に従事したが、追放中の1948年に死去した。
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 194… 大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、日本の陸軍軍人、作曲家、指揮者。最終階級は陸軍軍楽少佐。山形県米沢市出身。 1889年、小学校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、軍楽兵を目指し1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「恩賜の銀時計組」)。1912年に陸軍戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子軍楽隊長の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。
奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 19… 奥野 他見男(おくの たみお、1889年6月16日 - 1953年12月17日)は、日本の作家。本名・西川他見男。 金沢生まれ。金沢医学専門学校薬学科卒。学生時代「北國新聞」に「凸坊日記」を連載し、1915年『大学出の兵隊さん』で単行本デビュー、爆発的人気を得た。『婦女界』『主婦の友』などに連載し、流行語、新風俗を描きユーモア作家として大正から昭和初期に一世を風靡した。
村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月… 村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月16日 - 1948年(昭和23年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県喜連川町鷲宿(現:栃木県さくら市鷲宿)出身。農業・村上角次の四男として生れる。鷲宿小学校、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を優等で卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を優等で卒業した。 陸軍技術審査部付(軍事調査部)、歩兵第3連隊付(ロシア出張)、ロシア駐在、陸大教官、兼参謀本部員、参謀本部員、陸大教官、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第34連隊長、陸軍歩兵学校教導隊長、陸軍省兵務課長などを歴任し、二・二六事件当時は軍事課長であった。
橘 智恵子(たちばな ちえこ、1889年(明治22年)6月1… 橘 智恵子(たちばな ちえこ、1889年(明治22年)6月15日 - 1922年(大正11年)11月1日)は、日本の明治期から大正期にかけての女性。 北海道函館市の弥生尋常小学校の元教員で、歌人・石川啄木の同僚であった。啄木の数多くの短歌のモデルになったとされる。 北海道札幌郡札幌村14番地(現・札幌市東区北11条東12丁目)で、農園主・橘仁(富山県射水郡長慶寺村(現・高岡市)出身)とその妻イツ(三河国刈谷藩家老・矢野貞胤の三女)の長女として生まれる。六男一女の第三子(家族の詳しい来歴については「家族・親族」欄参照)。 智恵子は北海道庁立札幌高等女学校(現・北海道札幌北高等学校)を卒業後、同校補習科で初等教員の資格を得て、1906年(明治39年)に函館区立弥生尋常小学校の訓導(教諭)となる。
銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 19… 銅直 勇(どうちょく いさむ、1889年6月15日 - 1979年7月22日)は、日本の社会学者、教育者。 1889年、大分県宇佐郡長州町(現宇佐市)に生まれる。1912年、広島高等師範学校国語漢文部を卒業後、和歌山県立粉河中学校の教員を2年間務めた。その後、広島高等師範学校専攻科を経て、1914年に京都帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。1917年に卒業後は京都市役所、大原社会問題研究所、倉敷紡績株式会社に勤め、大学時代に研究した社会問題、労働問題などの実践を行った。1921年、京都帝国大学大学院に入学。西田幾多郎、米田庄太郎の指導を受ける。大学院在学中から佛教専門学校、龍谷大学で社会学関係の講師を務めており、1925年に大学院を退学。
賀集 益蔵(かしゅう えきぞう、1889年6月13日 - 1… 賀集 益蔵(かしゅう えきぞう、1889年6月13日 - 1974年11月5日)は、日本の経営者。三菱レイヨン社長を務めた。 兵庫県出身。1917年に東京帝国大学農学部農学実科を卒業。 1933年に新興人絹(のちの三菱レイヨン)常務に就任し、1939年に専務を経て、1950年6月には社長に就任した。1959年11月から1965年11月まで会長を務めた。 1974年11月5日、心不全で死去した。85歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6… 山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、工学者。北海道帝国大学教授。阜新製作所社長。満州炭鉱理事。衆議院議員山田喜之助の長男。 東京府の弁護士・山田喜之助の長男。1909年7月、石川県金沢の第四高等学校を卒業後、9月東京帝国大学工科大学機械工学科に進学。1912年7月、大学を卒業し、鉄道院に奉職。1913年、家督を相続した。 その後、官を辞して明治鉱業に入社した。欧米各国に留学した。1925年8月、北海道帝国大学に開設された工学部の教授(鉱山工学教室・鉱山機械学担当)に就任した。1938年3月、北海道帝国大学教授を退官して満州炭鉱株式会社の技師に転じた。
山森 利一(やまもり りいち、1889年(明治22年)6月1… 山森 利一(やまもり りいち、1889年(明治22年)6月11日 – 1971年(昭和46年)7月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 富山県婦負郡西呉羽村(現在の富山市)出身。1911年(明治44年)、早稲田大学商科を卒業。『富山日報』記者、参謀本部支那経済調査員、『報知新聞』記者、同政治部長、同論説委員、同相談役、講談社遊説部長を務めた。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から出馬して当選したが、同年12月10日、衆議院議員当選無効事件で大審院の判決確定により議員を退職した。 その他、北支那開発株式会社嘱託、早稲田大学商議員などを務めた。
河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月… 河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年(明治22年)6月9日 - 1967年(昭和42年)11月15日)は、日本の演劇学者。位階は従四位。学位は文学博士。文化功労者。旧姓は市村(いちむら)。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長を務め、歌舞伎史、比較演劇を中心に演劇史を研究した。 1889年、長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に市村保三郎の三男として生まれる。旧制飯田中学まで毎日10キロ程徒歩で通学。1911年、早稲田大学英文科卒業。在学中、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に入り、俳優・演出助手を務める。 同年、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。1920年、帝国劇場文芸部に嘱託として勤務し、のちに技芸学校主事を務める。
上野山 清貢(うえのやま きよつぐ、1889年6月9日 - … 上野山 清貢(うえのやま きよつぐ、1889年6月9日 - 1960年1月1日)は、日本の画家。俳優の上野山功一は長男。素木しづとの一人娘、茂登山櫻子の子に、茂登山東一郎(画家)、茂登山清文(視覚文化研究者、元放送大学客員教授/元名古屋芸術大学特任教授/元名古屋大学教授)がいる。 北海道札幌郡江別村(現・江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現北海道教育大学)修了。 小学校代用教員として図画などを教え、同志と「エルム画会」を結成。その後、画家を志して1911年(明治44年)に上京した。太平洋画会研究所に学び、黒田清輝、岡田三郎助に教えを受ける。1915年(大正4年)に作家・素木しづと結婚。1917年しづが死去し悲嘆に暮れる。
久松 真一(ひさまつ しんいち、1889年6月5日 - 19… 久松 真一(ひさまつ しんいち、1889年6月5日 - 1980年2月27日)は、日本の哲学者、仏教学者。旧姓は大野。号は抱石庵。
伊藤 謙二(いとう けんじ、1889年6月5日 - 1970… 伊藤 謙二(いとう けんじ、1889年6月5日 - 1970年1月27日)は、日本の銀行家。第9代日本興業銀行総裁や、初代復興金融金庫理事長を務めた。 新潟県北魚沼郡小出町(のちの魚沼市)出身。1915年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。日本興業銀行入行後、証券課長や大阪支店長、副総裁等を歴任した。日本の降伏後、1946年に第9代総裁に昇格すると、復興金融部の創設を行い復興特別融資を開始した。1947年には復興金融金庫の初代理事長に就任し、戦後復興期の日本再建にあたった。1949年日遭製鋼会長。
飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 19… 飯島 権蔵(いいじま ごんぞう、1889年6月3日 - 1974年9月6日)は、日本の教育者。川崎市立女子商業学校(後の川崎市立幸高等学校の前身のひとつ)校長、松本商業学校校長、松商学園短期大学(後の松本大学松商短期大学部)初代学長などを歴任した。 群馬県に生まれ、前橋中学校に学ぶ。1912年に神戸高等商業学校専攻部を卒業し、1914年には東京高等商業学校(後の一橋大学の前身のひとつ)専攻部銀行科を卒業して、商社に勤務した。 後に、教育界に転じ、大阪市立西区商業学校などを経て、1944年に川崎市立女子商業学校校長となった。その後、東京高商の同窓であった糸魚川祐三郎の要請を受け、1947年に松本商業学校第5代校長となり、戦後の混乱期における学制改革への対処と経営の立て直しにあたった。
小柏 丑二(おがしわ ちゅうに、1889年(明治22年)6月… 小柏 丑二(おがしわ ちゅうに、1889年(明治22年)6月3日 - 没年不明)は、東京市区長。教育者。 石川県金沢市出身。旧制第四高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学文科大学国文科を卒業。広陵中学校教諭を務めた後、1919年(大正8年)に島根県立杵築中学校教諭となった。1922年(大正11年)、福岡高等学校教授に就任。1923年(大正12年)、群馬県立沼田中学校校長に転じ、1930年(昭和5年)からは岐阜県岐阜中学校校長を務めた。 1934年(昭和9年)、東京市に入り、教育局視学課長、同学務課長を歴任した。1939年(昭和14年)から本所区長に転じ、東京市本所高等実践女学校の校長事務取扱などを務めた。
遠藤 新(えんどう あらた、1889年6月1日 - 1951… 遠藤 新(えんどう あらた、1889年6月1日 - 1951年6月29日)は、日本の建築家。フランク・ロイド・ライトに学び、そのデザイン・空間を自己のものとして設計活動を行った。 1889年、福島県宇多郡福田村(現:相馬郡新地町)に生まれる。相馬中学校、第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業。卒業の翌年には、建築界の大御所だった辰野金吾設計による東京駅建築の批判を発表した。明治神宮の建設に関わった後、1917年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤務。1919年にライトとともに渡米、翌年帰国、1921年までを帝国ホテル設計・監督中のライトの助手として働く。翌1922年、建築事務所を開設。
山谷 省吾(やまや せいご、1889年5月31日 - 198… 山谷 省吾(やまや せいご、1889年5月31日 - 1982年6月5日)は、日本の聖書学者。 岡山県出身。東京帝国大学卒業。第四高等学校教授、第三高等学校教授、京都帝国大学講師、1937年(昭和12年)「パウロの神学」で京大文学博士。 1945年(昭和20年)より1951年(昭和26年)まで日本基督教団信濃町教会の牧師を務める。1955年(昭和30年)東京神学大学教授、1975年(昭和40年)東北学院大学教授。1978年(昭和53年)にキリスト教功労者を受賞。新約聖書改訳委員として口語訳聖書の完成に努めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
前野 与三吉(まえの よそきち、1889年(明治22年)5月… 前野 与三吉(まえの よそきち、1889年(明治22年)5月31日 - 1975年(昭和50年)8月12日)は、日本の政治家。北海道旭川市長(3期)。 石川県石川郡松任町(のち松任市、現在の白山市)に生まれる。4歳の時に家族とともに北海道に渡る。20代で旭川で運送業を始める。その後、業界の中心人物となり、政治の道に進むことになる。1926年(大正15年)旭川市会議員に当選し、5期務める。また、北海道会議員に当選し、2期務める。 戦後の1947年(昭和22年)旭川市長の大塚守穂が公職追放により、辞職。同年6月旭川市長に就任する。4年後の1951年(昭和26年)の市長選挙では再選を目指したが、元衆議院議員の坂東幸太郎に敗れた。
矢島 杉造(やじま すぎぞう、1889年(明治22年)5月2… 矢島 杉造(やじま すぎぞう、1889年(明治22年)5月29日 - 1948年(昭和23年)5月9日[要出典])は、朝鮮総督府官僚。 新潟県長岡市出身。1913年(大正2年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。朝鮮総督府試補、内務部第二課長、内務局社会課長、地方課長、京畿道内務部長、全羅南道知事を歴任。1935年(昭和10年)には農林局長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、朝鮮林業開発株式会社社長となった。1939年(昭和14年)に退任した後は、朝鮮米穀市場株式会社社長を務めた。 1948年(昭和23年)5月9日、東京都練馬区にて死去[要出典]。