北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月2… 山本 宣治(やまもと せんじ、1889年(明治22年)5月28日 - 1929年(昭和4年)3月5日)は、日本の戦前の政治家、生物学者。京都府出身。山本宣治を略して山宣(やません)と呼ぶこともある。 1889年、京都府京都市の新京極で、花かんざし屋のワンプライスショップ(今でいうアクセサリー店)を営む山本亀松、多年の一人息子として生まれた。両親は熱心なクリスチャンだった。宣治の名は宣教師の「宣」に因んだ。宣治は厳粛な耶蘇教主義の下に薫陶された。 1901年、神戸中学校に入学したが、身体虚弱のため中退した。両親が彼の養育のために建てた宇治川畔の別荘(後に料理旅館「花やしき浮舟園」に発展)で花づくりをして育った。
山本 一清(やまもと いっせい、1889年(明治22年)5月… 山本 一清(やまもと いっせい、1889年(明治22年)5月27日 - 1959年(昭和34年)1月16日)は、滋賀県出身の天文学者。滋賀県出身者として最初の天文学者・理学博士(博士登録番号227番、天文学専攻としては国内8人目の理学博士)。 山本一清は1889年(明治22年)5月27日、滋賀県栗太郡上田上村桐生(現:大津市桐生1丁目)に生まれる。山本家は代々医療を生業とし名字帯刀を許されていた。父美清(祖父清之進の名を継ぐ。また、山本椋亭とも称した)は野洲郡津田家から養嗣子として山本家に入り、教師として児童教育に尽力した。山本一清の命名は祖父山本清之進が行い、橘良基治世之要の「難有百術、不如一清」より二字が用いられた。
生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1… 生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1976年5月3日)は、日本の歌人、小説家。本名・調介。雑誌に初めて短歌欄を設けた人物である。 山口県豊浦郡長府町(現在の下関市)の田嶋家に生まれる。13歳で京都の叔父の養子となり、生田姓となる。早稲田大学英文科に入学。 1909年、博文館の社員となり、『講談雑誌』を出版した。この雑誌は、日本で初めて雑誌に短歌欄を設けたものだった。1916年、歌集『長旅』を刊行。 1924年には歌誌『吾妹(わぎも)』を創刊する。『聖火燃ゆ』などの小説や批評も発表した。 1976年5月3日没。行年88歳。戒名は皐月院芙氿泉光蝶歌聖禅居士。墓所は青山霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 19… 吉田 三郎(よしだ さぶろう、1889年5月25日 - 1962年3月16日)は、彫刻家、日本芸術院会員。 石川県出身。1907年(明治40年)、石川県工業学校の師である板谷波山を慕い上京。1912年(明治45年)東京美術学校彫塑科卒、1918年(大正7年)文展特選、1919年(大正8年)帝展特選、1922年(大正11年)帝展審査員、1931年(昭和6年)文部省の命により古代彫刻研究のため一年間フランス、イタリア、北アメリカに留学。1935年(昭和10年)多摩美術短期大学彫刻科教授、1943年(昭和18年)日本美術及工芸会理事。 戦後は、1950年(昭和25年)日本芸術院賞受賞、日展運営会参事、1955年(昭和30年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。
五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月2… 五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月24日 - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の海軍軍人。美保関事件で殉職した「蕨」駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐。 新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学、長岡中学を経て、1908年(明治41年)に海軍兵学校へ進んだ。五十嵐は海兵39期で、伊藤整一、角田覚治、和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一。山口多聞、福留繁、草鹿龍之介ら総勢20名であった。
中村 安次郎(なかむら やすじろう、1889年〈明治22年〉… 中村 安次郎(なかむら やすじろう、1889年〈明治22年〉5月23日 - 1939年〈昭和14年〉8月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 東京府東京市小石川区竹早町(現・東京都文京区小石川)出身。中村清一の三男として生まれた。第一高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。三井銀行を経て内務省に入省し京都府属となる。 以後、京都府警視、同理事官、内務省警保局事務官、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、秋田県書記官・内務部長、高知県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、京都府書記官・総務部長などを歴任。
瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月2… 瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年〈明治22年〉5月22日 - 1972年〈昭和47年〉7月27日)は、大正、昭和時代の囲碁棋士。広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身。方円社、日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した"日本棋院の父"。 父は県会議員も務めた家で次男として生まれた。育った能美島は昔から囲碁が盛んな土地柄。祖父が本因坊秀元から初段を受けるほどの碁好きで、5歳の時に眼病と耳を患っていた間に、祖父から碁の手ほどきを受け、中学校に入学した頃には、二、三段くらいの人とは互角に戦えるようになっていた。広島一中(現・広島県立国泰寺高校)では賀屋興宣らと同級だった。
野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月2… 野口 敏治(のぐち としはる、1889年(明治22年)5月21日 - 1944年(昭和19年)1月14日)は、台湾総督府官僚。 神奈川県横浜市出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年に高等文官試験に合格し、台湾総督府属、新竹州属、台湾総督府視学官、台中州警務部長、文教局学務課長・附属博物館長、同社会課長を歴任した。1931年(昭和6年)、新竹州知事となり、高雄州知事を経て、1933年(昭和8年)には台北州知事に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、台湾電力株式会社理事・経理部長となり、1940年(昭和15年)に退任した。他に福大公司監査役を務めた。
物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 19… 物部 長穂(もののべ ながほ、1888年6月19日 - 1941年9月9日)は日本の土木学者。工学博士。日本の水理学、土木耐震学の第一人者。 秋田県仙北郡(現在の大仙市域)出身。出羽物部氏の家系である唐松神社の生まれで、弟に帝国陸軍中将の物部長鉾がいる。 大正時代から昭和初期に掛けて土木工学の第一人者として当時の日本に多大な影響を与えたが、特に影響を与えたのは河川工学・ダム工学である。ダムの耐震構造に関する基礎を形成し(これを初めて採用したのが庄川水系の小牧ダム)、バットレスダムや重力式コンクリートダムの工法理論を構築した。そして最も影響を与えたのは河川開発であり、彼の発案した「河水統制計画」論は以後の河川開発に革命をもたらし、河川総合開発事業とその根幹である多目的ダムは彼の案より実現された。
松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 19… 松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 1986年11月28日)は日本の牧師、新約聖書学者である。 1888年(明治21年)岩手県盛岡市にメソジスト派の牧師松本総吾の三男として生まれる。 鎮西学院高等部卒業後、1912年に関西学院神学部を卒業する。1913年(大正2年)に渡米し、オハイオ・ウェスレアン大学、ドルー神学大学、ペンシルベニア大学院、ユニオン神学校大学院で学び、1919年に帰国する。 1919年(大正8年)より青山学院神学部の教授に就任する。東京女子大学、津田塾大学講師も兼任する。 1923年(大正12年)に日本メソヂスト教会の按手礼を受けて、牧師になる。 1941年(昭和16年)より広島女学院院長、広島女学院大学学長を兼任する。
佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月1… 佐藤 垢石(さとう こうせき、1888年〈明治21年〉6月18日 - 1956年〈昭和31年〉7月4日)は、日本の新聞記者、エッセイスト、釣り師。本名は佐藤 亀吉(さとう かめきち)。号の「垢石」は、アユが好むとされる水垢のついた石に由来する。 1888年(明治21年)、群馬県群馬郡東村大字上新田村(現・前橋市上新田町)に生まれる。佐藤栄三郎・ハツの三男として出生するが、同村の佐藤孝次郎・ケイの養嗣子となる。 桃井尋常高等小学校卒業後、前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)に進学。4年生の時に校長排斥のストライキ(同盟休校)を行い退学処分となり、上京して郁文館中学で学んだ。その後早稲田大学英文科に進学するも中退。
増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 194… 増井 幸雄(ますい ゆきお、1888年6月18日 - 1944年3月18日)は、日本の経済学者。 静岡県浜名郡生まれ。1912年慶應義塾大学部理財科卒、同助手、1913年慶大予科教授、1917年から1920年まで欧米に留学、慶大経済学部教授、1938年学部長。1944年、肺壊疽のため56歳で死去。交通経済学を開拓した。息子の増井健一も慶大教授、経済学者。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月1… 安場 保健(やすば やすたけ、1888年(明治21年)6月18日 - 1944年(昭和19年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、電気技術者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 実業家・安場末喜の長男として生まれた。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)4月15日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。同年、芝浦製作所に入社。その後、東洋電気製作所取締役、東京金鋼技術顧問、東京港運社長、芝浦運輸社長、東亜印刷監査役などを務めた。 1934年(昭和9年)2月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して死去するまで2期在任した。その他、逓信省委員、運輸通信省委員などを務めた。
間崎 万里(まざき まさと、1888年6月17日 - 196… 間崎 万里(まざき まさと、1888年6月17日 - 1964年9月15日)は、日本の西洋史学者。慶應義塾大学名誉教授。西洋古代史からイギリス自治領民族主義まで幅広く研究し、日本の西洋史学界に大きな貢献をした。松本芳夫、松本信廣とともに「三田史学科の三羽烏」と賞された。 高知県幡多郡西土佐村(現・四万十市)出身。1914年慶應義塾大学文学部史学科卒業。慶應義塾普通部教員、同大学予科教員を経て、1925年ヨーロッパに留学。1929年慶應義塾大学文学部教授。1945年「英国自治領民族国の成立に就て」で文学博士。1946年から1948年の間は文学部長を務めた。1962年定年退職、名誉教授となる。この間、1952年日本西洋史学会創立に尽力。
金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月1… 金森 太郎(かなもり たろう、1888年〈明治21年〉6月16日 - 1958年〈昭和33年〉6月12日)は、日本の農商務・内務官僚。東京府(のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町、現東京都渋谷区)出身。勲三等旭日中綬章。 宗教家の金森通倫の長男。第102・103代内閣総理大臣・石破茂の外祖父。 1888年、熊本県人の牧師・金森通倫の長男として誕生。1909年、第二高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。 農商務属となり、兵庫県朝来・明石各郡長、島根県理事官産業課長、茨城・静岡各県警察部長、福島・長野各県内務部長等を経て、1931年、大阪府警察部長に就任。1932年、東京府内務部長に就任。
曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月… 曽和 義弌(曾和、そわ ぎいち、1888年(明治21年)6月16日 - 1968年(昭和43年)1月21日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、大阪府南河内郡高向村長。 大阪府錦部郡、のちの高向村(南河内郡高向村を経て現河内長野市)で生まれる。 小学校代用教員となる。以後、同訓導、市立堺女子手芸学校教諭、府立大阪医科大学書記、滝畑尋常高等小学校長などを歴任。 大阪府会議員に選出され、高向村長も務めた。河陽新報を創刊し経営を行った。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(大阪府第5区、立憲政友会公認)で当選し、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に1期在任した。戦後に公職追放となった。
道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)… 道家 斉一郎(どうけ せいいちろう、1888年(明治21年)6月13日 - 1942年(昭和17年)3月28日)は、経済学者、専修大学総長、衆議院議員。 貴族院議員・農商務官僚道家斉の長男として東京市に生まれる。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。1922年(大正11年)より久原鉱業株式会社参事を務め、また専修大学・日本大学・中央大学で講師として統計学・経済学・労働問題などを講義した。1923年(大正12年)、久原鉱業を退社して、帝都復興院参事に任命された。翌年には東京市の主事となり、1929年(昭和4年)に辞職するまでの間、統計課長、文書課長、電気局労働課長を歴任した。 1928年(昭和5年)に専修大学の評議員となり、翌年には教授・常務理事となった。
黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月1… 黒土 四郎(くろつち しろう、1888年〈明治21年〉6月12日 - 1967年〈昭和42年〉2月9日)は、日本の教育者。横浜中学校・高等学校創立者。青森県今別町名誉町民。位階は従四位。 青森県東津軽郡一本木村(現今別町)奥平部で旧弘前藩士の黒土形衛の二男として生まれた。父は維新後に始めた商売に失敗し、津軽半島北端の地に移り海藻を採るなどして生計を立てた。12歳で父と死別し、翌年に青森地方裁判所の給仕となった。その後、進学するために弘前にある寺の住職を務めていた伯父の養子となり、東奥義塾に入学した。1908年(明治41年)に東奥義塾を卒業して東京高等師範学校博物学科に進み、1912年(明治45年)に卒業した。
岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 19… 岡本 帰一(おかもと きいち、1888年6月12日 - 1930年12月29日)は、童画家。兵庫県洲本に新聞社勤務の父・岡本甚吉と母・もとの長男として生まれ、東京で育った。1906年、東京市立第一中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所で油絵を学ぶ。1912年に岸田劉生や木村荘八らによって設立されたフュウザン会に創設メンバーとして参加。その後、童話雑誌「金の船(のちに「金の星」に改題)」、「コドモノクニ」に挿絵を描き始めた。1930年12月、腸チフスにより死去。弟子にまつやまふみお、岩岡とも枝、川島はるよらがいる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年… 那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年3月29日)は、大正・昭和期の農学者(農学博士)。専攻は農業経済学及び農政研究。 1888年、東京市本郷区(のち東京都文京区)生まれ。府立四中、一高を経て、1911年に東京帝国大学農科大学(のち東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。
一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1… 一氏 義良(いちうじ よしなが、1888年6月11日 - 1952年2月21日)は、日本の美術評論家。 島根県八束郡東出雲町(現・松江市)揖屋に生まれる。1913年早稲田大学英文科を卒業。1921年ヨーロッパに遊学、1926年再留学。イギリスの大英博物館図書室で読んだ本に感銘を受ける。帰国後は、海外の美術や現在の動向、とくに古代エジプト美術の紹介に努めた。1928年帝国美術学校、1941年北京芸術大学教授。 雑誌『中央美術』を創刊して編集に携わり、また、平凡社の百科事典や世界美術全集の編集にも関わった。中国に赴いて研究を深め、『支那美術史』を著した。教授の末田利一や石塚太喜治の下で中華民国国立北京芸術専科学校(現中国中央美術学院)の講師をしていた。
真野 毅(まの つよし、1888年6月9日 - 1986年8… 真野 毅(まの つよし、1888年6月9日 - 1986年8月28日)は、1947年8月4日の最高裁判所発足と同時に最高裁判所判事に就任した日本の裁判官。愛知県生まれ。第二東京弁護士会会長。
千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8… 千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年〈明治21年〉6月8日 - 1948年〈昭和23年〉3月14日)は、日本の詩人。人道派的な詩人として知られる。新しき村の関係者。 出雲国造家当主の千家尊福の長男(庶子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区)三番町の父の別邸に生まれる。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。浦和、静岡、麻布六本木の小学校を転じたのちに、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に入り、寄宿舎に入ったが1年で退学し、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に転校して、校長の自宅に預けられた。1904年(明治37年)学業に興味を失い実家に戻る。さらに家出事件を起こし、仙台に預けられるも半年ほどで東京に帰る。
松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日… 松井 卓治(まつい たくじ、1888年(明治21年)6月6日 - 1978年(昭和53年)11月12日)は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。位階は正六位。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊。東京江東病院小児科医局に勤務する。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した。
神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年… 神近 市子(かみちか いちこ、出生名:神近 イチ、1888年6月6日 - 1981年8月1日)は、日本のジャーナリスト、婦人運動家、作家、翻訳家、評論家。ペンネームは榊 纓(さかき おう/えい)。1916年の日蔭茶屋事件で一躍著名になり、大杉栄に対する殺人未遂罪で2年間服役した。戦後に政治家になり、左派社会党および再統一後の日本社会党から出馬して衆議院議員を5期務めた。 長崎県北松浦郡佐々村(現在の佐々町)生まれ。漢方医の神近養斉とハナ夫妻の子で、出生当時父は47歳、母は43歳になっていた。夫妻はすでに二男二女をもうけていて、彼女は末の子であった。 父は幼い末娘を「チコ」と呼んで可愛がっていたが、1891年、彼女が3歳のときに死去した。
岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月… 岩垂 亨(いわだれ とおる、1888年 <明治21年> 6月3日 - 1974年 <昭和49年> 6月16日)は日本の化学者、実業家。梅毒治療薬サルバルサンの国内製造を行い、また万有製薬を創設し初代社長を務めた。位階は正五位。 1888年(明治21年)、宇田作太郎の次男として三重県宇治山田町(現在の伊勢市二俣町)で誕生。愛知県立第一中学校に入学するも中退し、神戸病院などで働いたのち、東京に住む叔父の勧めで東京に移転し再び勉学に取り組むことになった。 1906年(明治39年)、東京高等師範学校に入学。1910年(明治43年)3月には本科数物化学部を卒業し物理および化学の教員免状を得た。私立名古屋中学校に就職するが、ほどなく退職し同年10月には東京帝国大学理科大学化学科に入学。
小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6… 小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6月3日 - 1982年〈昭和57年〉6月3日)は、日本の昭和時代の最高裁判所判事、弁護士(第二東京弁護士会所属)。 東京出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、いったん会社員になったが、1年10ヶ月で退社して弁護士となる。1941年(昭和16年)、ゾルゲ事件の尾崎秀実の官選弁護人を務めた。太平洋戦争における日本の降伏に伴う極東国際軍事裁判(東京裁判)では松岡洋右の弁護人を務めた。「検事、弁護士をした後に裁判官になるのが最も望ましい」と主張する法曹一元化論者であった。 1947年(昭和22年)10月に東京高等裁判所長官に就任。
小笠原 八十美(おがさわら やそみ、1888年〈明治21年〉… 小笠原 八十美(おがさわら やそみ、1888年〈明治21年〉6月2日 - 1956年〈昭和31年〉12月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。厚生政務次官、日本馬事会評議員、十和田観光社長、全国畜産販売農業協同組合連合会長、中央畜産会長などを歴任した。位階は正四位、勲等は勲二等。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
森本 貫一(もりもと かんいち、1888年(明治21年)6月… 森本 貫一(もりもと かんいち、1888年(明治21年)6月1日 - 1979年(昭和54年)9月26日)は、日本の技術者、実業家。三菱化成工業(現三菱ケミカル)社長や、旭硝子(現AGC)社長、電気化学協会会長を務めた。正四位勲二等瑞宝章。 熊本県宇土市生まれ。第五高等学校を経て、1915年九州帝国大学工科大学応用化学科卒業、旭硝子入社。1940年尼崎工場長。1944年三菱化成工業常務取締役、日本板硝子取締役。1946年に三菱化成工業社長に就任したが同年公職追放となった。1951年旭硝子会長、旭化学工業奨励会理事長。 1952年から旭硝子社長を務め、高度経済成長期に、ブラウン管用ガラスや、自動車用ガラスの製造を進めた。
加藤 鯛一(かとう ちょういち、1888年(明治21年)6月… 加藤 鯛一(かとう ちょういち、1888年(明治21年)6月1日 - 1943年(昭和18年)10月5日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)、ジャーナリスト。衆議院議員・労働大臣を務めた加藤勘十は実弟。 愛知県丹羽郡岩倉町(現在の岩倉市)出身。雑誌「実業帝国」を創刊し、社長兼主筆となる。また東京政治通信社社長も務めた。他に社団法人大日本国防義会の創設にも加わり、評議員となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選回数を重ねた。その間、阿部内閣で内務政務次官を務めた。 1943年(昭和18年)、翼賛政治会、農林省、内務省共同の満鮮食糧事情調査団に一員として参加することとなり、助川啓四郎代議士や随行者とともに満州へ向けて出発。
吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977… 吉井義次(よしい よしじ、1888年5月28日 - 1977年2月4日)は、日本の植物学者。 1888年(明治21年)5月28日、生まれる。東京帝国大学卒。1911年(明治44年)、井上禧之助らと共に帝国議会貴族院に「史蹟及天然記念物保存ニ関スル建議」を提出、採択された。 1919年(大正8年)、内務省史蹟名勝天然記念物考査員になる。 1922年(大正11年)、東京帝国大学の講師になり、1926年(大正15年)、欧米へ留学する。 1928年(昭和3年)、東北帝国大学教授になるも、1950年(昭和25年)退官。教授としての活動中、野外実験所の設置や、八甲田山高山植物実験所の設置を行った。他、機関紙「生態学研究」の発行にも携わる。
若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1… 若山 喜志子(わかやま きしこ、1888年5月28日 - 1968年8月19日)は、明治期から昭和期の歌人。若山牧水の妻。旧姓は太田、本名は喜志。妹の潮みどりも歌人。 1888年(明治21年)、長野県東筑摩郡広丘村吉田(現・塩尻市)生まれ。松本高等女学校への進学を希望したが、母が病弱だったため断念した。高等小学校から補習科を終えて、島木赤彦が校長を務める広丘尋常高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)に裁縫教師として奉職。しかし赤彦からの影響は特に受けていない。「女子文壇」に投稿するようになったことで今井邦子や生田花世らを知り、横瀬夜雨から高い評価を受ける。22歳の頃、信濃毎日新聞歌壇に投稿し、選者の太田水穂に認められる。
原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 19… 原田 雪松(はらだ ゆきまつ、1888年5月27日 - 1960年9月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。獣医師。 熊本県出身。1913年日本獣医学校本科卒。熊本県衛生技手、御領村(のち五和町、現・天草市)議、同村長、熊本県議となる。 御領村農業会技師、熊本県獣医師会副会長、日本獣医師会理事、天草郡家畜商組合理事長、同畜産農業協同組合理事長、熊本畜産販売農業協同組合会長、全国畜産販売農業協同組合連合会理事など務めた。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では熊本2区から民主自由党公認で立候補し、当選した。日本民主党の与党残留派を吸収合併して結党した自由党への参加を経て同党公認で再選を目指した1952年の第25回衆議院議員総選挙では落選してしまった。
月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - … 月輪 賢隆(つきのわ けんりゅう、1888年5月25日 - 1969年8月25日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者。秋田県仙北郡美郷町の浄土真宗本願寺派圓徳寺の住職、西本願寺(京都市下京区)の勧学。 明治21年(1888年)5月25日、秋田県仙北郡金沢村米ノ口生まれ。旧制横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を卒業後、京都の佛教大学攻究院に進んでここを修了した。その後、金沢町米ノ口の正流山圓徳寺(浄土真宗本願寺派)の15世住職となった。 大正15年(1926年)9月、高野山大学教授となり、のち龍谷大学教授、西山専門学校教授などを務め、昭和10年(1935年)西本願寺司教となった。大学ではサンスクリット語・チベット語による文献研究にもとづいて原始仏教を教授した。
洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888… 洪 命熹(ホン・ミョンヒ、朝鮮語: 홍명희/洪命憙、1888年5月23日 - 1968年3月5日)は、朝鮮の独立運動家、作家。本貫は豊山洪氏。忠清北道槐山出身。号は碧初。 1905年日本の東京に留学するが、1910年の日韓併合時、錦山郡守であった父・洪範植の自決により、中国に亡命し、申采浩らと交友し、独立運動に参加する。1919年の三・一独立運動では故郷の槐山でデモ活動を指導する。『東亜日報』の主筆を務める。後に東亜日報の主筆、時代日報社の社長、五山学校校長などを務める。小説『林巨正』を執筆する。1927年からは、民族統一戦線組織新幹会運動の中心となったが、1929年に検挙され、投獄された。 1945年の光復後は、南朝鮮で政治運動を展開する。
岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治2… 岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治20年)6月18日 - 1956年(昭和31年)9月17日)は、日本の実業家。日本における鉄道趣味の先駆者である。 岩崎弥之助・早苗夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 1899年(明治32年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1905年(明治38年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業。 三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたこともあって大学卒業後は実業界に進んだ。 輝弥は実業家としては酪農業に従事しており、立川養豚場や吉屋信子の代表作『安宅家の人々』のモデルとなったことで知られる子安農園を経営したことで知られている。
古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉… 古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月9日)は、日本の計理士、政治家。衆議院議員(兵庫県第四区選出、当選2回)。 1887年、兵庫県生まれ。古河弥太郎の長男。1902年、家督を相続する。関西大学専門部法律科で学び、中退した。 税務署に務めた後、一ノ宮商業銀行大阪支店長に就任する。同銀行退職後は、大阪北浜で株仲買店を経営する。1927年、計理士を開業し、計理士会理事、大阪市、大阪府各計理士会長を務める。その他、日本連管工業社理事長を務めた。 1928年の第16回衆議院議員総選挙から1932年の第18回総選挙まで兵庫県第4区から立候補し続けたが落選続きで、1936年の第19回総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選した。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月1… 福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月14日 - 1971年(昭和46年)11月13日)は、日本の明治から昭和にかけての社会運動家。大正末から昭和初年にかけての島根の社会主義運動の担い手の多くを育てる。別名福田素顕。 島根県簸川郡久多美村東福(現・出雲市)に生まれる。父・蓮之助は県会議員・県会議長を務めた県政界の有力者であった。1903年(明治36年)、上京して成城中学に入学。1904年(明治37年)11月、普通選挙実現や治安警察法改正を求める平民懇親会(於錦輝館)に参加する。1905年(明治38年)、早稲田大学政治科に入学。清国からの留学生と交流する中で社会主義を受容し、同大学を中退して社会運動に身を投じる。
木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月1… 木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月13日 - 1974年〈昭和49年〉12月5日)は、昭和天皇の侍従。 東京生まれ。1912年(明治45年)東京帝国大学法学部卒。1913年(大正2年)岡山県警部。1917年(大正6年)岡山県和気郡郡長、内閣書記官。1924年(大正13年)東宮事務官・宮内書記官・東宮侍従。1927年(昭和2年)皇后宮事務官。1930年(昭和5年)宮内大臣官房秘書課長、1931年(昭和6年)同官房総務課長、1933年(昭和8年)内匠頭。1936年(昭和11年)帝室会計審査局長官、1945年(昭和20年)10月皇后宮大夫・侍従次長。1946年(昭和21年)依願免官。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月1… 石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月11日 - 1970年〈昭和45年〉10月24日)は、日本の実業家、農業協同運動指導者、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡金生村(のち鞍手郡若宮町、現:宮若市大字金生)で、醸造家「富久鶴」石井房次の長男として生まれる。1908年(明治41年)、大阪高等工業学校醸造科を卒業後に家業を継承。 シベリア出兵に陸軍輜重兵少尉として従軍。その後、若宮村会議員、福岡県会議員、同参事会員、郡教育会長、同育英会長などを務めた。また、農業協同運動にも尽力し、福岡県信用組合連合会長、帝国農会議員、福岡県農会長、福岡県購買販売組合連合会長などを歴任した。 また、1933年(昭和8年)11月から1935年(昭和10年)10月まで第25代福岡県会副議長を務めた。
小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月1… 小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月11日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、福島町長。旧姓・宮下。 長野県西筑摩郡福島村(現木曽郡木曽町福島)で、宮下喜久市の長男として生まれ、小野広助の養子となる。1909年、慶應義塾大学部法律科を卒業。帰郷して、福澤桃介の木曽川水系電源開発事業に協力。木曽銀行重役、木曽川電力常務取締役、大同製鋼(現・大同特殊鋼)取締役、奥羽電灯取締役、長谷川鋳鋼取締役などを務めた。 政界では、福島町会議員、西筑摩郡会議員、長野県会議員、同参事会員、同議長などを歴任し、廃娼運動に取り組んだ。1940年、福島町長に当選。
大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月… 大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月11日 – 1950年(昭和25年)1月21日)は、戦前日本の内務官僚。第11代横浜市長を務めた。 香川県香川郡川東村(現在の高松市)で、大西三千児の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1912年(明治45年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、北海道庁属となった。北海道庁警視、同理事官拓殖課長、同勧業課長、岩手県学務課長、兵庫県視学官・知事官房主事・学務課長、香川県警察部長、朝鮮総督府事務官兼参事官、慶尚北道内務部長、復興局土木部庶務課長、東京第一出張所長を歴任した。
長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月1… 長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月11日 – 1971年(昭和46年)4月12日)は、日本の弁護士。第3代日本弁護士連合会会長。 1887年、現在の愛媛県今治市生まれ。1912年、明治大学を卒業。1918年、弁護士登録。1921年、自由法曹団の結成に参加。1952年、第3代日本弁護士連合会会長に就任。1964年、学校法人明治大学理事長に就任。 全国人権擁護委員連合会会長も務めるなど、人権擁護活動においても功績を残す。また、裁判官任命諮問委員会委員、国際弁護士団の首席弁護士、日本国際法律家連絡協会会長、日ソ交流協会理事長、日朝協会会長なども務めた。1971年、死去。83歳。
岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉… 岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉6月10日 - 1937年〈昭和12年〉2月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 大分県大分市出身。大分中学校より海軍兵学校第37期入校。入校成績順位は180名中第17位、卒業成績順位は179名中第3位。 妻は山屋他人海軍大将の長女ハツ。長女・春子は中村亀三郎海軍中将の長男・元夫の妻。 岩下は軍令部第1部在勤中に次期新型艦建造に関して、中村良三や中澤佑、富岡定俊などと共に、高速戦艦型ではなく巡洋戦艦型を主張したが、大艦巨砲主義に支配された首脳部に受け入れられず、少数意見として否定された。しかし太平洋戦争における戦闘の推移を概観すれば、巡洋戦艦ならば重巡洋艦や航空母艦との洋上機動作戦行動が可能であったことから、結果的には岩下側の主張が正しかった事になる。
大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月1… 大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月10日 - 1946年(昭和21年)5月24日)は、日本の司法官僚、判事、検事。
梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日… 梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日 - 1926年4月5日)は、現在の福井県福井市出身で雷部屋に所属した力士。本名は山田 市五郎(五郎とも)。164cm、105kg。最高位は東前頭4枚目。 1903年5月初土俵、1908年5月十両昇進。1909年6月新入幕。色白で端正な顔立ちが女性に人気があったが、前頭4枚目に躍進したあとは幕内下位に低迷。病を得て十両に陥落した。1915年1月廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。