小笠原 勁一(おがさわら けいいち、1886年(明治19年)… 小笠原 勁一(おがさわら けいいち、1886年(明治19年)5月31日 - 1919年(大正8年)11月3日)は、大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・小笠原長育の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)3月14日、子爵を襲爵した。 1910年(明治43年)早稲田大学政治経済科を卒業。1914年(大正3年)帝室林野管理局属に就任。 1917年(大正6年)3月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。 1919年11月、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町の自邸で療養中に死去した。 長清 - 長経 - 長忠 - 長政 - 長氏 - 宗長 貞宗 - 政長 - 長基 - 長将 - 長秀 - 持長 - 清宗 - 長朝 - 貞朝 - 長棟 - 長時 - 貞慶 秀政 - 忠脩 - 忠真 - 忠雄 - 忠基 - 忠総 - 忠苗 - 忠固 - 忠徴 - 忠嘉 - 忠幹 - 忠忱 長幹 - 忠春 - 忠統 - 長雅 光康 - 家長 - 定基 - 貞忠 - 信貴 - 信嶺 - 信之 - 政信 - 貞信 - 信辰 - 信成 - 信胤 - 信房 - 長教 - 長貴 - 長守 - 長育 - 勁一 - 牧四郎 - 長定
松本 昇(まつもと のぼる、1886年(明治19年)5月27… 松本 昇(まつもと のぼる、1886年(明治19年)5月27日 – 1954年(昭和29年)6月9日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、資生堂社長。 香川県阿野郡、のちの端岡村(綾歌郡端岡村、国分寺町端岡、現高松市)で、松本彦三郎の二男として生まれた。生家は代々、香川郡、阿野郡、鵜足郡の三郡で地頭を務めた旧家。高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)を経て早稲田大学商科で学んだ。同大を中退して1905年(明治38年)アメリカに留学し、アスベリパーク・ハイスクールを経て、ニューヨーク市の百貨店シンプソン・クロフォード商会で昼に勤務し、夜はニューヨーク大学商科に通学して1909年(明治42年)に同大を卒業。
泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月2… 泥谷 帯刀(ひじや たてわき、1886年(明治19年)5月23日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 泥谷嘉之吉の長男として、宮崎県児湯郡高鍋町に生まれる。宮崎中学校を卒業後、1907年(明治40年)拓殖大学を卒業。同年渡台し、台湾総督府内務局に奉職する。1914年(大正3年)台南庁属を拝命し、翌年法務課勤務に転じ、1922年(大正11年)台中州竹山郡守に任じた。のち台北州文山郡守に就任した。
舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月2… 舞 伝男(傳男、まい でんお、1885年(明治18年)6月20日 - 1974年(昭和49年)10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 大分県出身。農業・舞多十郎の息子として生まれる。竹田中学校(現大分県立竹田高等学校)を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第47連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業し歩兵第47連隊中隊長に就任。 以後、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、イギリス出張などを経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に昇進し陸大教官に就任。 1933年(昭和8年)3月、歩兵第9連隊長に就任し、第1師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月、陸軍少将に進級し第1師団司令部付となる。
山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19… 山根 新次(やまね しんじ、1885年〈明治18年〉6月19日 - 1962年〈昭和37年〉2月9日)は、日本の地質学者(理学博士)。商工省地質調査所長(第6代)、島根大学学長(初代)。 島根県出雲市に生まれる。1910年、東京帝国大学理科大学地質学科、卒業。1915年、京都帝国大学講師、山東鉄道嘱託を経て1929年に九州帝国大学教授に着任、1930年に京都帝国大学より理学博士号を授与される。1935年、商工省地質調査所所長を拝命。第二次世界大戦後の1949年、島根大学初代学長に就任した。 脚注に使用、刊行順。 本文の典拠以外の資料。刊行順。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月1… 山本 孝治(やまもと こうじ、1885年(明治18年)6月18日 ‐ 1934年(昭和9年)7月27日)は日本の検察官(海軍法務官)、海軍軍属。五・一五事件を検察官として担当した。 新潟県三島郡来迎寺村(現・長岡市)に生まれる[要出典]。新潟県立長岡中学校から旧制第三高等学校に進学した。長岡中学校では山本五十六の1学年下だったという。1911年に東京帝国大学法科大学を卒業した。 1912年4月に新潟県属として出仕の後、1915年10月に高等文官試験に合格した。1917年3月に海軍省主理試補・舞鶴鎮守府軍法会議付となる。1932年2月、東京軍法会議検察官となり、五・一五事件を担当する。 五・一五事件においては、当時、政府の汚職から犯行に至った海軍将校に対する寛大な措置をもとめる世論が起こっていた。
浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月1… 浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月17日 - 1944年(昭和19年)12月18日)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 大阪府中河内郡孔舎衙村(現在の東大阪市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。大蔵省に入り、専売局勤務、理財局勤務、主税局勤務を経て、板橋税務署長を務めた。その後、宮内省に転じ、宮内事務官から同参事官、同書記官を務め、帝室林野局事務官・同庶務課長、内蔵寮財務課長・同主計課長から宮内省首席参事官に転じた 。1936年(昭和11年)、宮中顧問官となり、翌年に退官した。短歌の結社「華陽会」に加わり、#会報に投句した。 退官後は日本郵船株式会社監査役を務めた。
林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6… 林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6月16日 - 1947年(昭和22年)3月26日 )は、日本の実業家である。総合商社である兼松第4代(兼松社長としては初代)取締役統括を務め、海洋化学研究所設立に出資した。この他にも、東邦金属製線、日本絹共販の各取締役、商工省諮問委員、神戸商工会議所顧問も務めた。岡山県倉敷市出身。 1885年(明治18年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の父・林廣三郎と母よしの長男として出生する。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月1… 村井 貞固(むらい さだかた、明治18年(1885年)6月15日 - 昭和37年(1962年)12月1日)は、日本の植物学者。現在の山形県鶴岡市出身。 温海町(現・鶴岡市)が、マルバシャリンバイの北限である事と、飛島がムベの北限である事を証明した。
富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年… 富小路 隆直(とみのこうじ たかなお、1885年(明治18年)6月13日 - 1957年(昭和32年)2月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・凖一郎。 華族・富小路治直の息子として生まれる。祖父、子爵・富小路敬直の死後にその養子となり、1892年(明治25年)11月17日に子爵を襲爵。その後、隆直と改名した。 1917年(大正6年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1919年(大正8年)朝日海陸運輸に入社。その後、名教中学校教員などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。
田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月1… 田中 養達(たなか ようたつ、1885年(明治18年)6月12日 - 1956年(昭和31年)10月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党→国民同盟→東方会)、産婦人科医。 滋賀県犬上郡南青柳村(現在の彦根市)の今村家に生まれ、田中貞蔵の養子となった。1907年(明治40年)に愛知医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)を卒業し、さらに京都帝国大学産婦人科教室で研究を重ね、坂田郡米原町(現在の米原市)に産婦人科医院を開業した。坂田郡会議員、滋賀県会議員、同参事会員を歴任。 1926年(大正15年)の衆議院滋賀6区(小選挙区)の補欠選挙で初当選。第20回衆議院議員総選挙に至るまで5回当選を果たした。
古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治… 古島 義英(ふるしま よしひで / ぎえい、1885年(明治18年)6月12日 - 1962年(昭和37年)8月31日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 埼玉県南埼玉郡三箇村(菖蒲町を経て現久喜市)に生まれる。1906年(明治39年)に日本大学法律科を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格し、司法官試補を経て弁護士となる。1926年(大正15年)の東京市会議員選挙に立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党から出馬し、当選する。以来通算7回当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では翼協非推薦で立候補して落選した。その間に第1次吉田内閣の司法政務次官、裁判官弾劾裁判所長、臨時法制調査会委員長、裁判官訴追委員会長等を歴任する。
永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)… 永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)6月11日 - 1950年(昭和25年)12月6日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し衆議院議員選挙に連続5回当選し海軍参与官を務めた。 静岡県周智郡久努西村(現在の袋井市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治科を卒業。台湾日日新聞社記者、満洲日日新聞社編集長、大連汽船株式会社天津支店長、永田鉱業株式会社社長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回に至るまで5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で海軍参与官に就任した。 さらに大連の漢字紙『関東報』の社長や静岡民友新聞社の社長も務めた。
駒井 徳三(こまい とくぞう、1885年(明治18年)6月1… 駒井 徳三(こまい とくぞう、1885年(明治18年)6月10日 - 1961年(昭和36年)5月13日)は、満洲国国務院初代総務庁長官・満洲国参議府参議。 滋賀県栗太郡常盤村(現・草津市)字穴に、医師・駒井徳恒の二男として生まれる(族籍は元士族)。 日清戦争の頃、荒尾精に感化されて初めて中国を意識するようになる。京都府立二中に通う傍ら、杉浦重剛の分塾「浮雲塾」に学び、中国への憧憬を深めた。その後宮崎滔天の著作『三十三年の夢』に学んで「支那研究」の想いを募らせ、周囲の反対を押して札幌農学校(のち東北帝国大学農科大学と改称)に進学、「満洲大豆論」を卒業論文に選び、1911年に農学科(農業経済学および農政学)を卒業した。
亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日… 亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、明治・大正・昭和期にかけての銀行家。
土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日… 土岐 善麿(とき ぜんまろ、1885年(明治18年)6月8日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の歌人・国語学者。
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月… 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。
知花 朝信(ちばな ちょうしん、1885年6月5日 - 19… 知花 朝信(ちばな ちょうしん、1885年6月5日 - 1969年2月26日)は、戦前から戦後にかけての沖縄の著名な空手家。小林流の開祖である。 知花朝信は、明治18年(1885年)、首里鳥堀村(現・那覇市首里鳥堀町)に生まれた。叔父で知花本家当主の知花朝章(1847年 - 1927年)は、初代首里区長をつとめた政治家であり、また松村宗棍門下としても知られる唐手家であった。知花家は、尚質王の第五王子、東風平王子朝春を元祖とする王族の勝連御殿(かつれんうどぅん)から分かれた首里士族であり、琉球王国時代には知花殿内(どぅんち)と呼ばれた名家であった。朝信はその分家の子として生まれた。同じ尚質王の子孫である本部御殿の本部朝勇、本部朝基とは遠戚にあたる。
金子 定一(かねこ ていいち、1885年(明治18年)6月3… 金子 定一(かねこ ていいち、1885年(明治18年)6月3日 - 1960年(昭和35年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員(1期)。 岩手県盛岡市出身。1907年に陸軍士官学校(19期)を、1915年に陸軍大学校(27期)を卒業する。第八師団、支那駐屯軍などの各参謀、参謀本部員、金沢連隊区司令官、陸軍大学校教官などを歴任し、1936年に陸軍少将に累進し、予備役となる。予備役編入後は満州国中央警察学校講師、新京実務学院、同女子実務学院各校長、満州国蒙政部嘱託、同協和会中央委員となる。1942年の翼賛選挙では岩手2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。
井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - … 井口 良一 (いぐち りょういち、1885年5月29日 - 1944年10月1日)は、日本の画家、版画家。 1885年(明治18年)5月29日 岐阜県恵那郡三濃村(現在の岐阜県恵那市)に生まれる。近代日本がはじめて遭遇した巨大地震の濃尾大地震(1891年)で被災し、長野県松本市に移住。1900年(明治33年) 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)に入学するが、2学年で中退。1901年(明治34年) 東京の白馬会溜池洋画研究所に入り、旧制錦城中学(現錦城学園高等学校)に学ぶ。1906年(明治39年) 母親の死去により研究所を退所、松本の父親経営の旅館養老館にもどる。1922年(大正11年) 養老館廃業(現在の五千尺ホテルに引き継がれる)。
牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月… 牧野 良三(まきの りょうぞう、1885年(明治18年)5月26日 - 1961年(昭和36年)6月1日)は、日本の政治家。 岐阜県大野郡高山町上向町(現・高山市)に旅館主・牧野伊平の三男として生まれた。斐太中学、旧制山口高等学校(旧旧山高)を経て東京帝国大学法科大学に進学し、卒業後、官界・法曹界を経て政界に入った。総選挙に通算12回立候補し、10回当選した。 戦前は立憲政友会に所属した。政友会内にあっては自由主義の立場に立ち、1939年(昭和14年)の政友会の分裂に際しては自由主義的な正統派(総裁・久原房之助)に所属し、翌1940年(昭和15年)に反軍演説による斎藤隆夫除名問題に際しても同じ政友会正統派所属の芦田均や宮脇長吉らとともに斎藤除名に対し反対票を投じた(反対票は7票のみ)。
平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 194… 平野 万里(ひらの ばんり、1885年5月25日 - 1947年2月10日)は、歌人、詩人である。本名は平野久保(ひさやす)。 埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。1890年一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於菟を5歳まで預かった。 本郷区立駒本尋常高等小学校(現・文京区立駒本小学校)を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を1901年卒業の年、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。
岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月… 岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。栃木県塩谷郡長。同理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、平安南道財務部長、殖産局水産課長、同山林課長、総督官房会計課長、専売局製造課長、殖産局商工課長、全羅南道内務部長、慶尚北道内務部長、朝鮮総督府山林部長を歴任。1931年(昭和6年)、忠清南道知事となり、1935年(昭和10年)に慶尚北道知事に転じた。 1936年(昭和11年)に退官した後は日本赤十字社朝鮮本部常務副総長を務め、1939年(昭和14年)に退任。
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日… 中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。 1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。
豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22… 豊田 副武(とよだ そえむ、1885年(明治18年)5月22日 - 1957年(昭和32年)9月22日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第29代・第30代連合艦隊司令長官。海兵33期・海大甲種15期首席。最後となる第19代軍令部総長を務めた。 1885年(明治18年)5月22日、大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。名前の「副武」は「添え物」に由来する。旧制大分県立杵築中学校を経て、1904年(明治35年)12月17日、海軍兵学校第33期に180名中第107位の成績で入校。同期には、「両豊田」の片割れの豊田貞次郎がいるが、和歌山県出身の貞次郎とはこれが初面識であった。1905年(明治38年)11月28日、卒業成績順位171名中第26位で海軍兵学校を卒業。
大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - … 大島 正満 (おおしま まさみつ、1884年6月21日 - 1965年6月26日) は 日本の生物学者 (動物学)。理学博士、農学博士。 シロアリの研究を行ったが、台湾勤務時代にスタンフォード大学に留学し、D.S.ジョーダンのもとで魚類研究を行った。特にサケ科の淡水魚類を中心に動物学の研究を行い、「サラマオマス」(サクラマスの亜種、現在はタイワンマスと呼ぶ) を命名した。2001年より台湾の2000元札にタイワンマスが印刷されている。台湾では、20数種類の淡水魚の新種を命名し、台湾淡水魚の父と呼ばれている。 妻・今子との間に8男2女に恵まれ、長男の大島正隆(1909年3月5日-1944年1月12日)は歴史学者として将来を嘱望されたが、1944年に34歳の若さで病死している。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月… 伊地知 純正(いじち すみまさ、1884年〈明治17年〉6月17日 - 1964年〈昭和39年〉8月11日)は、日本の英語学者、早稲田大学商学部教授・理事・名誉教授、日本商業英語学会理事。ペンネーム(略号)はE.D.T.。 1884年(明治17年)6月17日、宮崎県西諸県郡加久藤村(現在の宮崎県えびの市)にて、伊地知章平・たつ夫妻の間に生まれる。宮崎県立宮崎中学校3年の時、英文によって自分の意見を発表することを決意する。 1902年(明治35年)7月にあった旧制高等学校の入学試験を病気のために諦め、1903年(明治36年)9月の早稲田大学の編入試験を受けて早稲田大学商科高等予科に入学する。1904年(明治37年)、早稲田大学大学部商科に第一回生として入る。
荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年… 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年(明治17年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月20日)は、日本の自由律俳句の俳人、俳論家。位階は従四位。 「層雲」を主宰、尾崎放哉や種田山頭火らを育てた。本名・幾太郎のち藤吉。日本芸術院会員。 東大言語学科卒。河東碧梧桐の新傾向運動に親しみ、機関誌「層雲」を発刊、季題無用論を説き、自由律を主張した。また俳句は宗教的芸術であるとして「道」の句を説いた。句集に『原泉』(1960年)、作家研究に『芭蕉と一茶』(1925年)など。 東京市芝区神明町(現:東京都港区浜松町)で雑貨商・「新田屋」の次男として生まれる。荻原家は越後国高田(現:新潟県上越市)出身で祖父・藤吉が家庭の事情で若いとき家を出奔して江戸に出てきたという。
古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1… 古河 力作(ふるかわ りきさく、1884年6月14日 - 1911年1月24日)は、明治時代の無政府主義者。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。冤罪として名誉回復の運動がある。
バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17… バチェラー 八重子(バチェラー やえこ、1884年〈明治17年〉6月13日 - 1962年〈昭和37年〉4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される。 1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった。母は、フッチセであった。なお、弟に向井山雄がいる。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズ・スクール」に通う。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)… 田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士。 岩手県二戸市出身。出生名は下斗米秀三。東京帝大を卒業した後に、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の父稲蔵の弟である下斗米与八郎の三男)の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った。 第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された。
水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10… 中瀬 拙夫(なかせ せつお、1884年(明治17年)6月10日 – 1969年(昭和44年)3月19日)は、衆議院議員。台湾総督府官僚。 長崎県出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。台湾総督府属、同事務官、林務課長心得、庶務課長、糖務課長、商工課長、特産課長を歴任し、台中陳列館館長、茶検査所所長、台湾茶共同販売所理事長を兼ねた。その後、専売局長、台北州知事、殖産局長を務めた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後、公職追放となり、1951年(昭和26年)追放解除となった。 アルコール輸送株式会社取締役、日本糖業連合会常務理事、全国産業団体連合会理事、食用糖蜜需給調整協議会会長、東亜経済懇談会参与を務め、さらに日研化工株式会社会長、第一醸造株式会社会長、知床鉱業株式会社社長となった。
寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17… 寺田 利吉(てらだ りきち、前名・信三、1884年〈明治17年〉6月8日 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。岸和田名誉職市長。寺田銀行頭取。大阪紡績、寺田紡績工廠各社長。 大阪府・先代利吉の長男。1901年、大阪府立第二中学校を卒業する。1903年、岸和田紡績に入社する。1918年、家督を相続し信三を改め襲名する。 公共慈善に対しては深甚な理解を持ち、常に私財を投じる。趣味は書画、茶道。住所は大阪府岸和田市岸城町、同市堺町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日… 渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会、昭和会)。呉市長。弁護士。 広島県呉市出身。渡辺秀四郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し、弁護士を開業した。呉市会議員、同参事会員、広島県会議員、同参事会員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で再選され、また呉市長にも選出された。 その後、上海居留民団助役を務めた。
厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17… 厚東 常吉(ことう/こうとう つねきち、1884年(明治17年)6月4日 - 1968年(昭和43年)9月12日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。山口県会議長。旧姓は竹中。号は沐雨、暴雷。 竹中乕吉の三男として、山口県熊毛郡八代村(熊毛町を経て現周南市)に生まれる。幼くして阿武郡椿東村船津(現萩市椿東船津)の叔父厚東武勝の養子となる。萩中学校中退。 椿東村会議員、萩町会議員、阿武郡会議員、1939年(昭和14年)9月、山口県会議員、同参事会員、1941年(昭和16年)11月、同議長を歴任した。 ほか、財界では萩実業会会長、萩商工会、山口県商工経済会、同国民健康保険組合連合会各顧問、同司法保護委員会参与、萩竹材、萩土地建物、長門峡自動車、萩グランド、萩興業建物各取締役社長、常茂恵ホテル社長を務めた。
羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 … 羽志 主水(はし もんど、1884年〈明治17年〉6月3日 - 1957年〈昭和32年〉2月26日)は、日本の小説家、外科医。 本名は松橋 紋三(まつはし もんぞう)で、「羽志主水」の名は本名から「松」を除いた「橋紋三」をもじった筆名である。 小説家としての活動期間は短いが、雑誌「新青年」に掲載した、戦前の北海道の過酷な労働環境を題材とした作品『監獄部屋』で、高い評価を得た。 長野県長野町(後の長野市)出身。旧制第四高等学校(後の金沢大学)を経て、東京帝国大学(後の東京大学)医学部へ進学し、1908年(明治45年)に卒業した。医師として山形の済生病院を経て、妻の父が東京の日本橋に土地を持っていた縁で、1916年(大正4年)か1917年(大正6年)頃に、日本橋本石町で開業した。
米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)… 米村 嘉一郎(よねむら かいちろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1976年(昭和51年)10月26日)は、日本で最初の無線通信士。関東大震災の際、被害状況を速やかに無線通信により海外に発信し、国際的な救援活動が行われるきっかけを作った。 石川県金沢市野町で生まれた。父 又二郎(旧姓佐々木)は富山県東砺波郡野原の出身で、祖父の越中屋又次郎は金沢で米穀商を営んでいたが、養子である又二郎の時、金沢市野町1丁目6番地に移り筆墨商をわずかに営んでいた。店は今の犀川大橋のたもとにあり、近くに住んでいた室生犀星とも一緒に遊んでいたという。子供の頃から優秀で字も上手だったので金沢野田山にあった米村家墓石の字は子供の嘉一郎が書き上げたという事で残っていた。
瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月… 瀬田 吉之助(せた きちのすけ、1884年〈明治17年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家、資産家、地主。瀬田不動産合資会社代表社員。鍋屋合資会社代表社員。板橋町大山出身。 東京市板橋区板橋町九丁目、瀬田吉兵衛の息子。東大林学科卒業。農業を営む。1915年に板橋町会議員に当選、以来1919年に至る1期間板橋町政に参画し、町利民福の為に大いに尽瘁したが、1919年に至って考える所があり政界を断念し、土地管理等の家業に努力する。 傍ら事業界に進出し、東洋計器会社、斎藤レンズ製作所、浦和商業銀行等に投資する。1926年、成子内親王に神代雛(上田直次作木彫)一対を献上する。
加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)… 加藤 久米四郎(かとう くめしろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1939年(昭和14年)1月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。 三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身。加藤久米治の四男。1907年(明治40年)、日本大学を卒業。卒業後、日本大学の幹事として経営に参加した。 水野錬太郎の知遇を得、寺内内閣で水野が内務大臣に就いたとき、大臣秘書官を務めた。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙に政友会から出馬し、当選。議員就任後も加藤友三郎内閣と清浦内閣で内務大臣になった水野の秘書官を務めた。 その後、田中義一内閣で内務参与官、犬養内閣で拓務政務次官、第1次近衛内閣で陸軍政務次官を歴任した。
坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 197… 坪上 貞二(つぼかみ ていじ、1884年6月1日 - 1979年5月28日)は、日本の外交官。拓務次官、満洲拓殖公社総裁を経て、太平洋戦争中に初代駐タイ特命全権大使として日泰攻守同盟条約に調印した。戦後公職追放され、追放解除後に日本海外協会連合会(現 国際協力機構)会長を務めた。 佐賀県出身。1909年東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。外務省入省。1912年ウラジオストク外交官補。外務省アジア局第2課長や、外務大臣官房会計課長、文化事業部長、拓務次官を経て、1935年に満洲国、南満洲鉄道、三井合名会社、三菱合資会社の出資で設立された満洲拓殖株式会社総裁に就任。1937年満洲拓殖公社総裁、1940年満洲国参議府参議。
宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)… 宮坂 健次郎(みやさか けんじろう、1884年(明治17年)6月1日 - 1966年(昭和41年)11月6日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。長野県岡谷市長。幼名・健吉。号・本郷子。 長野県諏訪郡小井川村(平野村を経て現岡谷市)で生まれた。後に健次郎を襲名。諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を2年で中退し、家業の宮坂製糸所を承継。1933年(昭和8年)味噌醸造業に転換し、1948年(昭和23年)宮坂味噌 (有) を設立して社長となる。岡谷商工会会頭、岡谷商工会議所会頭、諏訪信用金庫理事長、新松沢工業社長、岡谷冷蔵製氷会長、岡谷ライオンズクラブ会長などを務めた。 1925年(大正14年)4月から1936年(昭和11年)3月まで平野村会議員に在任し、同年4月、市制施行後は岡谷市会議員に選出され、1947年(昭和22年)4月まで務め、同議長にも在任した。
三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961… 三木 寛治(みき かんじ、1884年5月30日 - 1961年11月19日)は、日本の経営者。阿波商業銀行(現在の阿波銀行)頭取を務めた。 徳島県出身。1909年に東京帝国大学政治学科を卒業。藤本ビルブローカー証券での勤務を経て、1934年に阿波商業銀行常務、1940年に専務、1948年に副頭取を経て、1949年10月には頭取に就任。 1961年11月19日、急性心不全のために在任時に死去。77歳没。
和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27… 和田 一次(わだ かずつぐ、1884年(明治17年)5月27日 - 1949年(昭和24年)3月19日)は、宮崎市長。判事。 宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。1913年(大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した。 1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した。1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長・監獄課長、法務部長、総督官房文書課長・調査課長、台湾総督秘書官を務めた。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日… 跡見 泰(あとみ ゆたか、1884年〈明治17年〉5月23日 - 1953年〈昭和28年〉10月22日)は、東京府(現・東京都)出身の洋画家。浦和画家のひとり。 日本画家で跡見女学校(現・跡見学園女子大学)創設者の跡見花蹊の甥にあたる。東京美術学校卒業後は黒田清輝の指導を受ける。文展、帝展、日展と官展に出品し、無鑑査から委嘱へと次第に重きをなしていった。関東大震災後、浦和町(1934年に浦和市、現さいたま市浦和区)に移住し、浦和画家の一人として名を連ねる。高田誠を指導した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。