山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉… 山崎 達之輔(やまざき たつのすけ、1880年〈明治13年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉3月15日)は、日本の台湾総督府・文部官僚、政治家。第9・11・20代農林大臣、初代農商大臣、第40代逓信大臣、衆議院議員7期。内務大臣の山崎巌は実弟。 福岡県大川市出身。内務大臣、自治大臣を務めた山崎巌は達之輔の弟に当たる。また、元国土庁長官の山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥に当たるが、平八郎の実父・四郎(達之輔の弟で巌の兄)が早世したため、子供のいない達之輔が平八郎を引き取って実の子のように育てた。そのため人名事典などでは山崎平八郎を達之輔の子とした記述が散見する。 後の衆議院議長・保利茂は山崎が岡田内閣の農林大臣時代に農相秘書官を務めた。
堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - … 堀内 伝重(ほりうち でんじゅう、1880年6月18日 - 1917年6月18日)は、山梨県出身の南米移民者である。「南米太郎」というあだ名でも呼ばれた。実兄は富士身延鉄道、富士山麓電気鉄道(現:富士急行グループ)の創業者で、衆議院議員も務めた堀内良平である。南アメリカでの生活について書き留めたものをまとめた遺稿集『聖母河畔の十六年』は、童話作家の坪田譲治の作品『ペルーの話』『ベニー河のほとり』の着想のもとになった。 1880年(明治13年)6月18日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の四男(末弟)として生まれる。幼くして、母が亡くなり、母方の祖母の手で養育される。1892年(明治25年)、高等小学校卒業後に兄達と共に上京して、日本中学校(現:日本学園中学校・高等学校)へ進学した。
河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)… 河内山 楽三(こうちやま らくぞう、1880年(明治13年)6月16日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、朝鮮総督府官僚。 山口県出身。山口高等学校を経て、1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、大蔵省に入省して主税局属となる。その後、統監府財政監査官、朝鮮総督府事務官、度支部司計課長、財務局長、専売局長を歴任。退官後は朝鮮火災海上保険株式会社社長を務めた。
穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 19… 穴水 熊雄(あなみず くまお、1880年6月15日 - 1958年2月18日)は、日本の明治・大正・昭和期に活躍した実業家・財閥家。甲州財閥の主要人物の一人で、大日本電力(現・北海道電力の前身の一つ)の社長をつとめた他、京王電気軌道(現・京王電鉄)など、経営した企業は約20社に及ぶ。 蛇の目ミシン工業監査役をつとめた穴水勝彦は長男、東京急行電鉄取締役・相模鉄道社長・会長をつとめた穴水清彦は次男である。 山梨県生まれ。輿水家に生まれる。旧制・甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を卒業し、1906年(明治39年)穴水ゆき の入夫となり家督を相続した。 北海道電灯(大日本電力の前身)専務に就任。
永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15… 永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15日 - 1947年〈昭和22年〉1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。 海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将、従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職(連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長)を全て経験した唯一の海軍軍人であると同時に、大戦中に生前元帥府に列された唯一の海軍軍人でもある。 千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月… 鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月13日 – 1961年(昭和36年)5月28日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後、法律事務所で経験を積み、小倉市で弁護士を開業した。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選。1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した。
橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1… 橋本 増吉(はしもと ますきち、1880年6月12日 - 1956年5月19日)は、日本の東洋史学者。 1880年、長崎県諫早で生まれた。長崎中学校、第六高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科に進学。大学では白鳥庫吉、市村瓚次郎の指導を受け、羽田亨、原田淑人らと同学であった。1908年に卒業した。 1909年、早稲田大学文学科講師に就いた(1919年まで)。1910年からは慶應義塾にも出講し、1920年に慶應義塾大学教授となった。1944年に同大学を退任し、名誉教授となった。慶応大学在職中には、1935年から1年間東京文理科大学講師、1939年に東洋大学講師(翌年教授に昇格)を兼任した。1941年4月、学位論文『支那古代暦法史研究』を東京帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。
長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日… 長島 毅(ながしま はたす、1880年(明治13年)6月8日 - 1948年(昭和23年)3月18日)は、日本の裁判官。大審院長を務めた。
藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月… 神津 俶祐(こうづ しゅくすけ、1880年(明治13年)6月5日 - 1955年(昭和30年)2月11日)は、日本の岩石学者・鉱物学者・地球科学者。東北大学名誉教授。理学博士。日本学士院会員。 長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)生まれ。神津清三郎の四男。1905年、東京帝国大学地質学科を卒業。大学院に学んだ。 1907年、農商務技師に任じ、地質調査所技師などを経て1916年、東北帝国大学教授となり、岩石鉱物鉱床学教室を設立した。1917年、理学博士の学位を授与された。1932年、帝国学士院会員。1942年、退官。 1929年、兄で長野電鉄創設者の神津藤平方より分家した。住所は長野県北佐久郡志賀村、宮城県仙台市米ヶ袋下町。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月… 安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。 イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈… 桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈明治13年〉5月28日 - 1951年〈昭和26年〉9月30日)は、日本の商人(生糸繭屑物商)、愛媛県多額納税者、実業家、政治家。愛媛県会議員、大洲町会議員。桝田製糸社長。愛媛県製糸業組合長。大洲銀行取締役、同監査役。旧姓・井上。 愛媛県西宇和郡三机村大字大江(後瀬戸町、現伊方町)出身。父・井上安次郎、母・シカの三男。大江小学校卒業後大洲に来て、呉服雑貨商・河野真太郎方に入り、商いについて学んだ。1899年、桝田家に養子入籍。1901年、生糸・繭屑物売買業を開始し、後桝田商店として蚕糸業に足を踏みこんだ。 1915年、若宮に製糸工場を開設、「伊予生糸」と称する生糸を生産した。
釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月2… 釘本 衛雄(くぎもと もりお、1880年(明治13年)5月25日 - 1949年(昭和24年)6月23日)は、衆議院議員(立憲民政党)、福島市長。 福島県双葉郡幾世橋村(現在の浪江町)出身。浪江郵便局で通信事務員として働いた後、早稲田大学高等予科で学んだ。福島新聞社で記者、主筆を務めた後、福島民友新聞社副社長を経て、1936年(昭和11年)に福島新聞社社長に就任した。 また福島県会議員に4度選出され、1931年(昭和6年)からは議長を2度務めた。1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。 1945年(昭和20年)から2年間福島市長を務めた。戦後、公職追放となり、追放中の1949年(昭和24年)に死去した。
濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5… 濱野 英次郎(はまの えいじろう、1880年〈明治13年〉5月24日 - 1952年〈昭和27年〉3月2日)は、日本の海軍軍人。美保関事件後に連合艦隊参謀長を務めた海軍中将である。 岡山県出身。旧制岡山尋常中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月海軍兵学校(30期)を席次15番で卒業。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。海軍大学校乙種学生及び専修学生を修了し航海科専攻士官となり、「新高」、「利根」、「富士」の航海長を務めた。海軍大学校甲種学生(12期)を修了。 第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、南洋群島の占領作戦に従事した。
瀬川 嘉助(せかわ かすけ、1880年(明治13年)5月24… 瀬川 嘉助(せかわ かすけ、1880年(明治13年)5月24日 - 1942年(昭和17年)2月6日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岩手県東和賀郡黒沢尻村(黒沢尻町、和賀郡黒沢尻町を経て現北上市)で、瀬川理三郎の二男として生まれ、瀬川トクの養子となる。1900年(明治33年)家督を相続し帯鋸製作業を営む。 中外時計専務取締役、築地電軌監査役、名古屋証券交換所取締役、甲陽土地取締役、芝園工作所取締役、名古屋市白鳥線土地区画整理組合長、名古屋薬学専門学校(のち名古屋薬科大学)常任理事などを務め、愛知県時計同業組合長となった。 政界では、愛知県会議員、同参事会員、都市計画愛知地方委員会委員、名古屋市会議員、同市財政調査会委員などを務めた。
甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、188… 甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、1880年(明治13年)5月21日 - 1938年(昭和13年)6月25日)は、日本の発明家、実業家。高砂香料工業の創業者。 京都の士族・甲斐荘正秀の長男。京都府師範学校附属小学校、京都府立一中、第三高等学校を経て、京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業した。1906年に久原躬弦の下で助教授に任命された。しかし、応用化学、特に香料工業に関心があったことから休職し、1910年に欧州に私費留学した。欧州では、フランスのグラースに下宿し、製造職工や調合見習いを行い、スイスのジボダンで合成香料の開発と調合を研修し、1913年末に帰国した。 帰国後は、丸見屋(後のミツワ石鹸)に勤めるが、合成香料工業が苦境に陥り、1919年7月に退職した。
三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 19… 三宅 恒方(みやけ つねかた、1880年5月21日 - 1921年2月2日)は、日本の昆虫学者、理学博士。
児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12… 児玉 孝顕(こだま のりあき・こうけん、1879年(明治12年)6月21日 - 1961年(昭和36年)1月10日)は、日本の内務官僚。検事。 東京府に貴族院議員児玉淳一郎の長男として生まれた。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補、東京区裁判所検事、千葉区裁判所検事を務め、1912年(明治45年)に茨城県事務官に転じた。茨城県警察部長、徳島県警察部長、特許局審査官・事務官、埼玉県警察部長、青森県内務部長、大阪府産業部長、営林局事務官・大阪営林局長を歴任。 退官後は大阪市助役に就任し、その他に大阪府工芸会会長、大阪能率研究会会長、大阪商工会議所顧問、産業協会理事、日本能率聯合会副会長、大阪府方面委員銓衡委員などを務めた。
國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 194… 國枝 博(くにえだ ひろし、1879年6月20日 - 1943年8月6日)は、岐阜県出身の建築家。朝鮮総督府に在任中には主任技師として朝鮮総督府庁舎の設計に携わった。その後は大阪市を拠点に活躍した。 1879年(明治12年)6月20日に岐阜県に生まれ、1905年(明治38年)7月に東京帝国大学工科大学建築科を卒業した。1907年(明治40年)8月には韓国統監府技師に任ぜられ、朝鮮総督府工事の主任技師を務めた。1912年(明治45年)4月には欧米各国へ出張している。 1918年(大正7年)9月に高等官3等に昇叙すると、同月には願により退職し、10月には正五位に叙せられた。1919年(大正8年)10月、大阪市に國枝工務所を開設した。
金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20… 金成 通(かねなり とおる、1879年(明治12年)6月20日 - 1951年(昭和26年)8月10日)は、明治時代末期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・蛭田。 茨城県多賀郡、のちの南中郷村(現北茨城市中郷町)で農業・蛭田源三郎の二男として生まれる。上京して商業を学んだ。福島県石城郡錦村(錦町、勿来市を経て現いわき市錦町)の農業・金成竹太郎の養嗣子となる。再度上京して経済学などを学んだ。 1905年(明治38年)に帰郷して磐東銀行(現東邦銀行)の創立に尽力した。1911年(明治44年)福島県会議員に当選したのを皮切りに、同参事会員、錦村長を歴任する。ほか、鮫南中堅農民学校長、東部電力顧問、植田水力電気社長、磐東銀行、福島県農工銀行各取締役などを務める。
宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20… 宜保 成晴(ぎぼ せいせい、1879年(明治12年)6月20日 - 1953年(昭和28年)9月30日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、医師。 沖縄県島尻郡豊見城村(現在の豊見城市)出身。沖縄県病院医生教習所を卒業後、1902年(明治35年)に済生学舎を卒業した。翌年、医術開業試験に合格し、郷里に医院を開業した。1919年(大正8年)には沖縄県会議員に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に沖縄産業銀行監査役を務めた。
水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6… 水口 隆三(みずぐち りゅうぞう、1879年(明治12年)6月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 愛媛県温泉郡道後村(現在の松山市)出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、大蔵属となる。翌年、高等文官試験に合格。1909年(明治42年)より統監府書記官、大韓帝国度支部事務官・大邱財務監督局勤務、平壌財務監督局勤務、朝鮮総督府事務官・平安南道財務部長、同第二部長、度支部関税課長、同税務課長、財務局税務課長、同理財課長・監察官、専売局事務官、営林廠長などを歴任。1925年(大正14年)、専売局長に就任し、1928年(昭和3年)に慶尚南道知事に転じた。
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月… 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。 松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。
実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879… 実吉 純郎(旧字体: 實吉 純郞、さねよし すみお、1879年(明治12年)6月9日 - 1948年(昭和23年)11月8日)は、明治から昭和期の医学者、政治家、華族。貴族院子爵議員、医学博士。 海軍軍医・実吉安純の長男として生まれる。父の死去に伴い、1932年(昭和7年)4月15日、子爵を襲爵した。 1907年(明治40年)7月、東京帝国大学医科大学を卒業。1910年(明治43年)ドイツ帝国に留学した。 1907年(明治40年)東京帝国大学医科大学副手となる。以後、同助手、私立高輪病院長、東京慈恵会医科大学教授、同会医院次長、同内科部長、鉄道嘱託医、医薬制度調査会委員などを務めた。 1933年(昭和8年)6月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月… 片山 三郎(かたやま さぶろう、1879年(明治12年)6月9日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。大日本水産会理事。 京都府出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、同年に判事検事登用試験に合格。司法官試補、大阪区裁判所検事、大阪地方裁判所検事を務めた。1907年(明治40年)、山林事務官に転じ、高知大林区署長、水産講習所教授、農商務書記官・事務官、水産局魚政課長、台湾総督府殖産局長、台南州知事、台北州知事を歴任した。 1931年(昭和6年)に退官し、弁護士・弁理士を開業した。その他、大日本水産会理事、共立水産工業株式会社取締役、帝国水産会顧問、林兼商店(のち大洋捕鯨株式会社、現在のマルハニチロ)顧問などを務めた。
水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月… 水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月6日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科選科を卒業し、東京市主事となった。1912年(大正元年)、高等学校卒業検定試験に合格し、東京帝国大学法科大学政治家を卒業。高等文官試験に合格し、台湾総督府事務官、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、交通局理事を歴任。1929年(昭和4年)、台中州知事となり、1931年(昭和6年)に退官した。 その後は台北市会議員、台北商業会議所理事を務めた。
海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 195… 海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年6月2日 - 1955年1月25日)は、日本の社会事業理論家、優生学者。 東京・九段に、数学者・海野幸明の子として生まれる。東京若松専門学校政治経済科卒業。1903年、ドイツ系の貿易会社・横浜セールに入社。1907年、古屋寿会に移り、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1912年にアメリカ合衆国に1年間留学し、スタンフォード大学・シカゴ大学で社会学、社会事業について研究する。1917年に古屋寿会を退職。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月… 木村 尚達(きむら しょうたつ、明治12年(1879年)5月27日 - 昭和22年(1947年)11月1日)は、日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。 熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。 1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。 1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。
2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879… 2代 佐々木 嘉太郎(ささき かたろう、前名・嘉造、1879年〈明治12年〉5月27日 - 1961年〈昭和36年〉10月21日)は、日本の商人(呉服商)、青森県多額納税者、政治家(貴族院多額納税者議員)、実業家、銀行家。青森銀行頭取。津軽鉄道顧問。「布嘉」佐々木家3代目。 青森県北津軽郡五所川原村(五所川原町を経て現五所川原市)に生まれる。佐々木眞平の長男。初代・佐々木嘉太郎の孫。早逝した2代目の跡を継ぐ。呉服商を営む。1915年(大正4年)、五所川原町会議員に当選。 1918年(大正7年)には青森銀行頭取を兼ねて佐々木銀行を設立した。呉服屋稼業から金融業へと「布嘉」の看板を掛けかえた。ほか、陸奥鉄道社長、津軽鉄道取締役などを歴任した。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月… 竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月24日 - 没年不明)は、日本の医師。竈門眼科医院院長。有田郡医師会評議員、健保査定委員。族籍は和歌山県平民。 和歌山県出身。湯浅町湯浅在籍。1905年(明治38年)8月、岡山医学専門学校(のちの岡山大学医学部)を卒業後、同年香川県高松市市立病院勤務。1906年(明治39年)、神戸市山本眼科病院勤務。なお、勤務中に船医としてハワイ(布哇)移民局トラホーム検査の情態視察に赴き、同地に四か月滞在した。 1907年(明治40年)、和歌山市木下眼科医院に勤務し、同年竈門眼科医院を開業。 趣味は書画と魚釣り。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日… 藤見嶽 虎之助(ふじみだけ とらのすけ、1878年6月18日 - 1923年7月15日)は、現在の福島県二本松市出身で藤島部屋、尾車部屋に所属した元大相撲力士。本名は神田 久助。7代藤島。165cm、71kg。最高位は西前頭3枚目。 魚店に奉公するも相撲好きで年寄藤島甚助に勧誘され、1895年入門。1895年5月序ノ口、藤島部屋は稽古場がなく、出稽古として尾車部屋に通い当時幕下だったのちの大関・荒岩の指導を受け、1901年1月十両昇進。1904年1月入幕を果たす。1901年5月、1904年1月に太刀山峯右エ門と、1905年5月に大砲万右エ門と引き分けている。藤見嶽の取り口を大関朝汐は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。
田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 -… 田 昌(でん あきら、1878年〈明治11年〉6月14日 - 1943年〈昭和18年〉2月13日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、衆議院議員。田艇吉の子。 兵庫県氷上郡、のちの柏原町(現:丹波市)で、衆議院議員・田艇吉の長男として生まれる。鳳鳴義塾、開成中学、第一高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年同月、大蔵省に入り煙草専売局属として本局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 1905年(明治38年)12月、煙草専売事務官に就任。以後、煙草専売局主事、兼大蔵書記官、専売局主事、大蔵書記官・主計局司計課長、理財局国庫課長、兼大蔵省参事官、主計局予算決算課長、連合国経済会議(パリ)特派委員、海外駐箚財務官(米国駐在)、大蔵省主計局長などを歴任。
坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 19… 坪内 鋭雄(つぼうち としお、1878年6月12日 - 1904年7月24日)は、日本の作家、教育者。坪内逍遥の甥。号は孤景(こけい)。 日露戦争に従軍し、大石橋の戦いで戦死した。 愛知県名古屋市花車町に生まれる。泥江小学校、津島高等小学校から愛知中学校、早稲田大学英語専門部を経て1899年、早稲田大学文学部を首席で卒業。1年間志願兵として従軍後、詩人として身を立てようと考えたが自立しろと実家の仕送りを止められたため、友人の勧めで旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)の教員となる。しかし「田舎教師もほとほと嫌になり、何とか工夫して都の空に舞い戻りたく心矢の如くに候」と同校での教員生活を捨て、やはり詩人として身を立てようと1903年に上京。
下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 -… 下中 弥三郎(しもなか やさぶろう、1878年6月12日 - 1961年2月21日)は、平凡社の創業者、教員組合の創始者、また労働運動や農民運動の指導者。下中芳岳ともいう。 1878年6月12日、兵庫県多紀郡今田村(現・丹波篠山市)に生まれ、幼くして父を亡くし陶工となる。1898年、神戸市雲中小学校の代用教員となり、小学校準教員検定試験に合格。1902年に上京、『児童新聞』や『婦女新聞』の編輯に携わる。1910年に中等教員検定試験教育科に合格し、1911年 - 1918年、埼玉県師範学校の嘱託教師となる。1919年(大正8年)、啓明会を結成(翌1920年に日本教員組合啓明会と改称)。学習権、教育委員会制度、教員組合結成の促進を要求した「教育改造の四綱領」を発表。
井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6… 井浦 仙太郎(いうら せんたろう、明治11年(1878年)6月10日 - 昭和30年(1955年)11月2日)は、日本の経済学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。位階は正三位。 東京府士族。1897年東京府尋常中学校(現東京都立日比谷高等学校)卒業。1901年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1903年同校専攻部卒業。1904年福岡市立福岡商業学校(現福岡市立福翔高等学校)教諭。1905年市立大阪高等商業学校(現大阪公立大学)教諭。 1908年 神戸高等商業学校(現神戸大学)教授。1910年から1913年まで商業学研究のためアメリカ合衆国、ドイツ帝国、イギリスに留学。1911年小樽高等商業学校(現小樽商科大学)教授。
日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946… 日野 熊蔵(ひの くまぞう、1878年6月9日 - 1946年1月15日)は熊本県出身の陸軍軍人で最終階級は陸軍歩兵中佐。根っからの発明家でもあり、日本で初めて飛行機を操縦して空を飛んだパイロット。日本語の他、英・仏・独の計4ヶ国語が話せたとされる。 1878年(明治11年)熊本県球磨郡人吉町(後の人吉市)にて旧相良藩士・日野広一の長男として生まれる。キリスト教系の熊本英学校を出た後軍人の道に進み、1898年(明治31年)に陸軍士官学校(10期)を卒業する。 1904年(明治37年)、日野式自動拳銃を発明。知人で投資家の小室友次郎と連名で日本、イギリス、アメリカ他の各国で特許を取得し市販を開始するが、構造上の欠陥から2度の暴発事故を起こし、自身の左手の指と背中を撃ち抜かれる重傷を負う。
荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1… 荻田 悦造(おぎた えつぞう、1878年(明治11年)6月1日 - 1943年(昭和18年)6月1日)は、日本の衆議院議員(庚申倶楽部)。弁護士。 三重県多気郡相可村(現在の多気町)出身。1905年(明治38年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、農商務属となった。統監府が設置されると書記官となり、朝鮮総督府書記官を経て、1917年(大正6年)に朝鮮総督府総務局長に就任した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、第一東京弁護士会所属の弁護士となった。
西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉… 西野 忠次郎(にしの ちゅうじろう、1878年〈明治11年〉5月26日 - 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、日本の医学者、内科医。学位は医学博士(1914年・文部大臣)。日本学士院会員、慶應義塾大学名誉教授。内閣恩給局顧問医。 1878年山形県南置賜郡南原村(現・米沢市)に生まれる。山形県立米沢中学校興譲館を経て、第四高等学校から東京帝国大学医科大学に入学。1903年に卒業し、翌年同大学理学科教室助手になる。1909年から山形市立病院済生館に勤務し内科部長から館長になる。1913年山口県立病院長に就任、次いで日本赤十字山口支部病院長になる。1920年慶應義塾大学教授になる。1944年同大学医学部長兼病院長に就任、1946年同大学名誉教授になる。
徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月2… 徳田 昂平(とくだ こうへい、1878年(明治11年)5月26日 - 1951年(昭和26年)10月5日)は、日本の実業家、相場師。徳田商会(のちの内外証券、東海東京証券)社長、日本証券取引所総裁、貴族院議員、大蔵省証券取引委員会委員長等を務めた。 山梨県出身。旧制甲府中学(のちの山梨県立甲府第一高等学校)を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。 山梨銀行等を経て、1897年徳田商会入社。入社後頭角を現し、3年後に支配人就任。徳田商会創業者の徳田孝平の婿養子となり、ロンドンに3年間留学。その後ニューヨークのウォール街の仲買店で株式仲買を学ぶ。 1918年株式会社徳田商会に改組し社長に就任。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。
川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月… 川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 1878年(明治11年)5月25日、愛媛県士族の川島右一の長男として生まれる。 松山市外側尋常小学校、愛媛県尋常中学校を経て、1898年(明治31年)、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年(明治41年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。 二・二六事件後、予備役に編入。終戦直後の1945年(昭和20年)9月8日、死去。
黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25… 黒田 湖山(くろだ こざん、1878年(明治11年)5月25日 - 1926年(大正15年)2月18日)は、日本の小説家、記者。本名は直道。滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)生まれ。 1878年(明治11年)6月2日、滋賀県甲賀郡水口町に生まれる。上京した後、東京専門学校(現:早稲田大学)にて学び、同郷出身で近江国水口藩の藩医の出であった巖谷小波に師事。 小波と共に1885年(明治18年)に発足した文学同人結社の硯友社で活動し、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』に参加、執筆する。 1895年(明治28年)創刊で小波が編集していた、博文館発行の児童文学誌『少年世界』やそれに続くシリーズに参加、多くの児童文学作品を発表する。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6… 奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎。旧中津藩主の家系。 東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した。幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学、後に京都帝国大学法科大学を修了。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。