平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946… 平井 肇(ひらい はじめ、1896年5月17日 - 1946年7月7日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1896年、岐阜県生まれ。旧制早稲田大学文学部露文科第一期生として、片上伸・昇曙夢らの指導を受けるが、入学から3年で中退。その後は、かねてから親交のあった貴司山治の紹介でロシア文学作品の翻訳を始めた。 1938年に『死せる魂』の邦訳版を上梓した後、満州国に居を移し、南満州鉄道に嘱託社員として勤務する傍ら、『東方評論』の編集に携わった。太平洋戦争終結直後の1946年、滞在先のハルビンで病没した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月1… 山本 岩多(やまもと いわた、1896年(明治29年)5月15日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月1… 安藤 恭子(あんどう ゆきこ、1896年〈明治29年〉5月13日 - 1992年〈平成4年〉12月28日)は、日本の子爵安藤信昭の夫人。元皇族で、旧名は恭子女王(ゆきこじょおう)。閑院宮載仁親王の第1女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1896年(明治29年)5月13日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子(第2子)として誕生。 1915年(大正4年)、従五位子爵安藤信昭との結婚が決まると、同年8月24日に宮中三殿を参拝し、9月2日には、皇太子裕仁親王から御悦として紅白縮緬が贈られた。翌9月3日に降嫁した。 1992年(平成4年)12月28日、96歳で逝去した。
北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月… 北代 誠弥(きただい しげひろ、1896年(明治29年)5月13日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は、日本の実業家、銀行家である。 和歌山県和歌山市に生まれ、東京帝国大学経済学部(現在の東京大学大学院経済学研究科・経済学部)に入学する。1920年(大正9年)に卒業後は日本銀行に勤務し、秘書役や外事局長、理事、札幌支店長等を歴任した。第二次世界大戦直後の1946年(昭和21年)には当時総裁を務めていた一万田尚登の補佐として副総裁に就任し、総裁と共に戦後のインフレーション抑制にあたる。 翌1947年(昭和22年)には金融面における産業の復興のために復興金融金庫(現在の日本政策投資銀行)の理事長を1949年(昭和24年)の退任まで兼任し、1966年(昭和41年)には日本ソフトウエアの社長を務めた。
実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - … 実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。
木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - … 木村 健二郎(きむら けんじろう、1896年5月12日 - 1988年10月12日)は、日本の分析化学者。学位は、理学博士(東京大学)。日本学士院賞受賞。 青森県出身。父は神奈川県第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)校長の木村繁四郎(1864-1945)。祖父は弘前藩家老の木村藹吉(1840-1879)。伯父(伯母の夫)に伊東重、義兄に矢代幸雄(姉の夫)がいる。 旧制神奈川県立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科に在学中、柴田雄次に師事する。卒業後も大学に残り、1922年に同大学理学部助教授となる。1925年からデンマークに留学し、ニールス・ボーアのもとで研究した。
小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12… 小畑 哲夫(こばた てつお、1896年(明治29年)5月12日 - 1971年(昭和46年)1月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 兵庫県宍粟郡神戸村(一宮町を経て現宍粟市一宮町)で、小畑彦太郎の二男として生まれる。1916年(大正5年)姫路師範学校を卒業した。 1916年、兵庫県内の小学校訓導に就任。その後、鉄鋼線材製造業を営む。阪神被覆電気溶接棒製造工業組合主事、同組合常務理事、西日本電極棒工業組合専務理事、日本電気溶接棒工業組合専務理事、日本溶接工業代表取締役、兵庫県宍粟郡神戸村薪炭組合長、同郡薪炭組合連合会副会長、兵庫県民主政治会宍粟郡支部長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に兵庫県地方区から民主党公認で出馬して当選(補欠、任期3年)し、その後、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年… 福吉 勲二(ふくよし くんじ、1896年5月11日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。桑名市長。 三重県出身。1921年京都帝国大学法学部卒。1924年高等文官試験に合格し、内務省に入る。復興局から岐阜、北海道、秋田、鳥取、岡山、富山、愛媛の各県に勤務し、1941年沖縄県内務部長となる。その後、香川県副知事となり、1945年7月に桑名市長に就任した。 市長就任直後に終戦を迎え、戦災復興に力を入れた。しかし、同年10月に市内の川の氾濫による水害が起き、大きな被害を受けた。福吉は戦災と水害によるダブルパンチを受けた市民を大いに励まし、復興に奔走した。翌1946年に城南干拓事業に着手、1947年には学校給食を実施した。
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)… 芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は、日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた。日本芸術院会員。 フランス留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受けた。特に1950年代に『巴里に死す』がフランスでも高く評価され、ノーベル文学賞候補者となったという噂も流れた。
市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日… 市原 硬(いちはら かたし、1896年〈明治29年〉5月2日 - 1979年〈昭和54年〉1月10日)は、日本の医化学者。医学博士。大阪大学名誉教授。日本生化学会会長。位階は従三位。 島根県那賀郡江津村(のち江津町、現・江津市)出身。市原朋作の長男。1914年、浜田中学卒業。1923年、大阪医大卒業。同医化学教室に勤務する。1928年に大阪帝国大学医学部助教授、1940年に教授、1960年に定年退官。1961年、和歌山医大学長に就任。1979年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 古武弥四郎大阪帝国大学医学部教授に師事、その後継者として1961年に有核アミノ酸代謝の研究で須田正巳と共に日本学士院賞を受賞した。
松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 -… 松浦 周太郎(まつうら しゅうたろう、1896年5月2日 - 1980年6月8日)は、日本の昭和期の政治家。位階は従三位。 労働大臣・運輸大臣。北海道美深町名誉町民(1964年)。妻は同町の児童養護施設・社会福祉法人美深育成園の創立者である松浦カツ。 北海道渡島支庁茅部郡落部村(現・二海郡八雲町)野田生の開拓農家の長男として生まれる。父・増太郎は愛知県の人で、濃尾地震(1891年)で耕地を失い、翌1892年、八雲徳川農場で小作人として働くために渡道してきていた。 1909年4月、現在の美深町紋穂内に移住、恩根内第一尋常小学校を卒業後は家業の農作業に従事し、また中学講義録を取り寄せ独学していた。一時期、胃を痛めて東京の長与胃腸病院に入院し、夏目漱石と病室を共にしたことがある。
門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月3… 門屋 盛一(かどや もりいち、1896年(明治29年)4月30日 - 1961年(昭和36年)5月10日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 愛媛県風早郡河野村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市)で、門屋フミの息子として生まれる。幼くして両親と大分県、のちの佐伯市に移った。貧しい家庭のため12歳から小学校給仕となる。村役場給仕、大分県南海部郡戊申溜池普通水利組合書記、薬局生などを務め、独学を続けた。長崎県の崎戸炭坑に移り採炭夫として働く。三菱長崎造船所工業補修学校に入学し木型職工となる。21歳で鉄道工業合資会社に転じ土木事業に係わる。24歳で同社桂事務所現場主任に就任し丹那トンネル工事に従事した。
井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治… 井谷 正吉(いたに まさきち / まさよし、1896年(明治29年)4月29日 - 1976年(昭和51年)2月10日)は、大正から昭和期の農民運動家、農業技術者、政治家。衆議院議員(4期)。 愛媛県北宇和郡日吉村下鍵山(現鬼北町下鍵山)で、井谷正命の長男として生まれる。1914年(大正3年)郡立宇和農蚕学校(現愛媛県立宇和高等学校)を卒業した。 兵役後の1918年(大正7年)に家出して大阪、奈良、三重などを巡り、帰郷して北宇和郡役所土木科に勤務した。1919年(大正8年)から1922年(大正11年)まで三重県度会郡七保村(現大紀町)の農業補習学校教師を務めた。この間、地元青年と土民協会を設け農村問題の研究を行う。
林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 194… 林 重義(はやし しげよし、1896年4月29日 - 1944年3月16日)は戦前日本の洋画家、版画家。 1896年に兵庫県神戸市に生まれた。始めは京都市立絵画専門学校において日本画を学ぶが、中退している。関西美術院において鹿子木孟郎に師事し油絵を学んでいる。1922年に小林和作とともに東京へ上京し、1923年に二科展に出品、初入選を果たす。1926年に「庭の一隅」で二科賞を受賞した。1928年から渡欧して、渡欧先から二科展に作品を出品している。1930年までヨーロッパに滞在、帰国後、二科会を退会する。1930年代に主に石版画を制作、発表した。1931年には独立美術協会の創立に参加するが、1937年には同会からも退会、同年、文展に出品している。
四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月2… 四方 諒二(しかた りょうじ、1896年〈明治29年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兼松商店[要出典]の役員であった四方素の二男として神戸市で生れる。第一神戸中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第19連隊付となる。1924年(大正13年)3月、陸軍委託学生として学んだ東京外国語学校(独語)を修了。1927年(昭和2年)6月、兵科を憲兵科に移し憲兵大尉となり、咸興憲兵分隊長となった。 小倉憲兵分隊長を経て、1930年(昭和5年)4月から3年間、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部で学ぶ。
羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、189… 羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月28日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。現在の京畿道水原市八達区出身。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で近代朝鮮文学における最初の女性作家とも評される。女性解放論者であり、女性解放のための運動や朝鮮独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。 1896年4月、父・羅基貞と母・崔是議の間に五人兄姉の二女として京畿道水原に生まれた。父の家系は代々官僚をつとめ、資産家で子弟教育に関心が高かった。幼名は兒只(アジ=子供を意味する)、幼児期は明順(ミョンスン)と呼ばれ、日本留学時から蕙錫、号は晶月(チョンウォル)と名乗った。
藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治2… 藤田 淳教(藤田 淳敎、ふじた あつのり、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1963年〈昭和38年〉10月23日)は、昭和時代の台湾総督府官僚。公吏。台中市尹、台東庁長。旧姓は平良、幼名は亀吉。 鹿児島県姶良郡国分町(現・霧島市国府)出身。平良淳夫の四男として生まれ、藤田半次郎の養子となる。日本大学商学部予科を経て、1925年(大正14年)同大文学部法律学科を卒業し、高等文官試験行政科試験に合格する。 合格後、直ちに台湾総督府に理事官として出仕し、1928年(昭和3年)10月に高雄州岡山郡郡守、1929年(昭和4年)12月に台北州勧業課長、1930年(昭和5年)5月に新竹州教育課長、1931年(昭和6年)4月に台北州教育課長を経て、1935年(昭和10年)9月20日に台中市尹に就任する。
川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月… 川上 小夜子(かわかみ さよこ、1896年〈明治29年〉4月27日 - 1951年〈昭和26年〉4月24日)は日本の女性歌人。本名、小西 慶子(旧姓、久城)。覇王樹同人の小西憲三は夫。 1898年(明治31年)、福岡県八女郡三河村(現在の八女市)に生まれ、大牟田市で育つ。熊本尚絅女学校卒業後、1916年(大正5年)に白日社の『詩歌』に参加。詩歌の廃刊後は1918年(大正7年)『覇王樹』の創刊と共に参加、同人として出詠。1925年(大正14年)に水町京子、北見志保子らと共に『草の実』を創刊、覇王樹を退いた。1935年(昭和10年)、北原白秋が『多磨』を創刊するとともに同誌に参加する。なお、草の実は戦時中に解散の命で解散している。
李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4… 李 勲求(イ・フング、朝鮮語: 이훈구/李勳求、1896年4月26日または1906年6月6日 - 1961年6月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の農業経済学者、農学者、教育者、政治家、実業家、ジャーナリスト。制憲・第5代(参議院)韓国国会議員、檀国大学学長、成均館大学校総長を務めた。 本貫は韓山李氏(朝鮮語版)。号は心堂。キリスト教徒。 忠清南道舒川郡麒山面出身。漢学教育を経て、1920年に水原農林専門学校卒、1924年に東京帝国大学(現・東京大学)農学部農科卒。日本留学中にキリスト教に入信した。公州永明学校教員を2年間務めた後、1927年にカンザス州立大学大学院修了、1929年にウィスコンシン州立大学大学院農業経済学専攻修了(博士)。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 -… 高井 亮太郎(たかい りょうたろう、1896年4月26日 - 1969年3月12日)は、第2代東京電力(現:東京電力ホールディングス)社長。関東配電社長。 新潟県加茂市出身。1920年(大正9年)、東京帝国大学電気工学科を出て猪苗代水力電気入社。東京電燈、関東配電と技術畑で育ち、1946年に関東配電社長。1952年に東京電力社長。 1958年、社員が収賄罪で起訴され引責辞任。1969年3月、腸腫瘍のため東京電力病院で死去。72歳。 初代 安蔵弥輔 / 2代 高井亮太郎 / 3代 青木均一 / 4代 木川田一隆 / 5代 水野久男 / 6代 平岩外四 / 7代 那須翔 / 8代 荒木浩 / 9代 南直哉 / 10代 勝俣恒久 / 11代 清水正孝 / 12代 西沢俊夫 / 13代 廣瀬直己 / 14代 小早川智明 初代 新木栄吉 / 2代 新井章治 / 3代 安蔵弥輔 / 4代 菅礼之助 / 5代 青木均一 / 6代 木川田一隆 / 7代 平岩外四 / 8代 那須翔 / 9代 荒木浩 / 10代 田村滋美 / 11代 勝俣恒久 / 12代 下河邉和彦 / 13代 数土文夫 / 14代 川村隆 この項目は、エネルギーに関連した書きかけの項目です。
等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4… 等松 農夫蔵(とうまつ のぶぞう、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1980年〈昭和55年〉12月28日)は、日本の海軍軍人(主計科士官)。海軍経理学校6期。最終階級は海軍主計少将。戦後は公認会計士となり、有限責任監査法人トーマツを創設した。日本公認会計士会長。 群馬県前橋市に生まれるが、幼年期に判事であった父を亡くし、北甘楽郡岩平村(多野郡吉井町を経て現・高崎市)に引っ越す。群馬県立富岡中学校(現・群馬県立富岡高等学校)を経て、海軍経理学校を1917年に卒業(6期)、海軍主計少尉候補生を命じられる。遠洋航海を経て、1918年、戦艦「扶桑」乗組。1919年、海軍主計少尉に任官。1920年、海軍主計中尉に進級。
正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 192… 正邦 宏(まさくに ひろし、1896年4月25日 - 1928年6月1日)は、日本の俳優である[4][5][6][7]。本名金子 政國(かねこ まさくに)[8]。伊庭孝門下の新劇の舞台俳優から、時代劇も含めた映画俳優に転向、「和製ロイド」(ハロルド・ロイド)として人気を博したが、早世した[8]。
綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月… 綿貫 佐民(わたぬき すけたみ、1896年〈明治29年〉4月25日 - 1950年〈昭和25年〉9月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員の綿貫民輔は長男。 兵庫県三原郡賀集村(現・南あわじ市)の南家に生まれる。父は兵庫県議、自由民権家の南嘉五郎。慶應義塾大学部理財科卒。卒論は交通経済学。卒業後は日本電力に入社し、日本電力社員として小牧ダム建設のため富山県井波町(現・南砺市)に入る。ダム建設反対運動のさなか、運動家たちとの接触を通じてダム反対派の中心メンバーの一人だった綿貫栄と知り合う。綿貫栄らが条件闘争派として反対運動からの分派行動をとる過程で親しくなり、綿貫栄の長女と結婚する。綿貫栄の長男が交通事故で亡くなったため婿として綿貫家に迎えられる。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 193… 濱尾 四郎(はまお しろう、1896年4月24日 - 1935年10月29日)は、日本の検事、弁護士、探偵小説家。子爵。貴族院議員。戦後の版では「浜尾四郎」表記が一般的である。作家活動は実働足かけ6年に過ぎず、作品量は長短20篇に及ぶだけだが、戦前派作家として逸することのできない足跡を残している。
横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)… 横山 エンタツ(よこやま エンタツ、1896年(明治29年)4月22日 - 1971年(昭和46年)3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優である。本名:石田 正見(いしだ まさみ)。花菱アチャコとのコンビ(エンタツ・アチャコ)で、「万才」に代わり、「しゃべくり漫才」を発明。今につながる漫才ブームを作った。現在の(全国的に流布した)漫才スタイルの元祖である。漫才作家秋田實の良き相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。吉本新喜劇初期の出演者でもある。
山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4… 山田 作之助(やまだ さくのすけ、1896年(明治29年)4月22日 - 1995年(平成7年)5月20日)は、日本の会社役員、弁護士、裁判官。昭和セメント、肥後製糸各監査役。神戸弁護士会長[3]。最高裁判事[3]。衆議院議員山田喜之助の三男。
武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月… 武藤 鉄城(むとう てつじょう、1896年(明治29年)4月20日 - 1956年(昭和31年)8月30日)は、秋田県出身の日本の考古学者、民俗学者、スポーツ指導者。 秋田県河辺郡豊岩村(現・秋田市豊岩)に武藤喜市郎、シケの四男として生まれた。本名のテツジョウにはテツシロという四番目の意味が込められている。 秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に入学し、中学5年生の時に新潟県高田市(現・上越市)で開催された第1回全国スキー大会において急斜面競技と長距離競技で4位と6位に入賞している。中学校を卒業した後、慶應義塾大学部に進み、理財科(経済学部)に籍を置いたが、在籍5年で退学し、1920年(大正9年)に帰郷して兄の一郎の四ツ小屋付近の発掘の助手をした。
小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年)… 小松 平五郎(こまつ へいごろう、1896年 (明治29年) 4月20日 - 1953年 (昭和28年) 3月6日)は大正 - 昭和期の日本の作曲家。秋田県由利郡玉米村(現在の由利本荘市)生まれ。兄は作曲家の小松耕輔、弟は音楽評論家の小松清。筆名は平平平平 (ひらだいらひらへい) 。 8人兄弟の6男として生まれる。東京京華中学から慶應義塾大学商学部に進み、在学中にワグネル・ソサエティーを指揮するが、2年で中退し作曲に専念する。作曲はシュレーカーの門弟である亡命ポーランド人のステファン・ルビエンスキーに師事した。 1927年から1941年まで国民交響楽団を主宰、指揮したが、この楽団の目的は作曲家に発表の機会を、聴衆に鑑賞の機会を共に廉価で提供することにあった。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 … 堀 経夫(ほり つねお、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1981年〈昭和56年〉9月18日)は、日本の経済学者。専門は、経済思想史、社会思想史。日本学士院会員。関西学院大学学長、四国学院大学学長を歴任した。 1896年4月20日、函館市生まれ。1920年、京都帝国大学卒業。河上肇に師事。1925年東北大学教授、1932年大阪商科大学 (現在の大阪市立大学) 教授を経て、1948年関西学院大学教授に就任。1955年に、関西学院大学学長(第5代学長)に就任し、同学長を1966年に退任。同年、四国学院大学学長に就任。理論経済学会、経済学史学会、大洋州経済学会など多くの学会の創設以来の会員、幹事、顧問をつとめる。
中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 198… 中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 1981年7月27日)は、東京都出身の日本の宗教家・実業家。浄土真宗東本願寺派法善寺住職。東京大学文学部哲学科卒業。 国際派の仏教人として知られ、世界平和の推進に尽力。日本仏教鑚仰会理事長、世界宗教者平和会議日本委員会常務理事、ガンジー平和連盟理事長、東京博善社社長、仏教タイムス社長、真宗大谷派宗議会議員などの要職を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年… 金刺 不二太郎(かなさし ふじたろう、1895年(明治28年)5月18日 - 1980年(昭和55年)1月4日)は、日本の政治家。川崎市長(7期)。全国市長会会長(4期)。位階は正四位。勲二等旭日重光章。 静岡県賀茂郡(現在の西伊豆町)で、金刺長蔵の長男として生まれる。1912年に東京高等工芸学校を卒業、1914年に東京工科学校を卒業した。川崎田島町の建設会社飯草組(社長は飯草吉之輔で、東京自動車製作所支配人)に入り、1922年に堀之内の請負業万代商会・上田盛次郎(金沢市出身)の一大事業に協力した。1923年金刺組を興し、公共事業に携わる。川崎市議、同議長、参事会員、神奈川県議を経て、第17回衆議院議員総選挙に静岡県第2区より立候補するが落選に終わる。
井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉… 井上 源治郎(いのうえ げんじろう、1895年〈明治28年〉5月18日 - 没年不明)は、日本の実業家。クレパス本舗桜商会取締役技術最高顧問。 大阪府大阪市西区出身。1917年、大阪高等工業学校応用化学科卒業。摂津製油、関西紙工、川上塗料各勤務の後1927年に桜商会入社。 1946年にクレパス本舗桜商会常務に推され、1950年に専務に就任。1967年に技術顧問。 宗教は浄土宗。趣味はカメラ、写真、園芸。住所は大阪市阿倍野区文の里4丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 -… 西岡 虎之助(にしおか とらのすけ、1895年5月17日 - 1970年2月26日)は、日本の歴史学者。早稲田大学名誉教授。 和歌山県伊都郡見好村(現在のかつらぎ町)教良寺の生まれであり、三谷尋常高等小学校を卒業している。1916年和歌山県師範学校卒業。尋常小学校訓導を勤めたのち、1918年東京帝国大学文科大学選科史学科に入学し、1921年卒業。同年、東京帝大史料編纂掛補助嘱託、1924年史料編纂官補、1933年史料編纂官。1946年から1954年まで東京大学史料編纂所事務官を務めたのち、同年早稲田大学教授。1966年に定年退任し、名誉教授。 荘園制を研究、農民など民衆生活の研究をおこなった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日… 野口 明(のぐち あきら、1895年(明治28年)5月17日 - 1979年(昭和54年)9月3日)は、日本の官僚・教育者。お茶の水女子大学初代学長などを歴任した。 1895年、東京府東京市麹町区下六番町で陸軍に奉職する獣医・野口次郎三の子として生まれる。 番町学校、旧制暁星中学校、旧制第二高等学校(宮城県仙台市)文科独法(1916年卒)を経て、1919年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 同年、文部省に入省し、高等文官試験に合格。長崎県警務課長(1922年)、神奈川県警務課長(1923年)を経て、文部省普通学務局第三課長(1924年)、同庶務課長。 1925年に一木喜徳郎大臣の秘書官として宮内省入省。
前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月1… 前川 喜作(まえかわ きさく、1895年(明治28年)5月15日 - 1986年(昭和61年)7月19日)は、日本の実業家。前川製作所創業者。和敬塾創立者。 1895年、奈良県南葛城郡秋津村(現・御所市室)に林業を営む素封家の家に生まれた。前川福松の三男である。旧制奈良県立畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)卒業。1920年、早稲田大学大学部理工科(機械工学科)卒業。 独立し、1924年、前川商店(現・前川製作所)創業。冷蔵庫製造業を創めた。1955年、東京都文京区目白台に地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮(和敬塾)を創設。 1986年7月19日朝、病により死去。 趣味は読書。
伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1… 伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1969年9月15日)は、日本の会計学者。ドイツ会計学専攻。成城大学学長代行等を務めた。 高知県高知市生まれ。1913年高知商業学校(現高知市立高知商業高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1920年同専攻部卒業。三菱合資会社入社後、三井物産入社。オランダ領東インドやハワイでの勤務や、青山学院教諭を経て、1926年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授に就任。1927年から2年間文部省在外研究員としてドイツ、フランスに留学し会計学を修めた。 1931年横浜専門学校(現神奈川大学)教授。1938年日本通運に入社し、同社の会計組織の確立に尽力した。
稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5… 稲荷山 資生(いなりやま すけお、1895年(明治28年)5月15日 - 1976年(昭和51年)5月22日)は、日本の植物学者である。旧姓は土岐。 大分県に生まれ、京都帝国大学(現在の京都大学)入学し理学部植物学科に所属する。1927年(昭和2年)に卒業後は、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)に勤務し同校で教鞭を執った。その後は東京文理科大学の教授を経て、1949年(昭和24年)に両校は統合され東京教育大学の教授として活動をする。 1955年(昭和30年)より奈良教育大学の学長に就任し、1971年(昭和46年)に退任するまで細胞生物学の研究に携わった。特にヒガンバナ属の模型を用いた種分化の解明に貢献したことにより、理学博士を取得した。
小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月1… 小村 捷治(こむら しょうじ、1895年〈明治28年〉5月15日 - 1972年〈昭和47年〉2月9日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院侯爵議員。 外交官・小村壽太郎、マチ夫妻の二男として生まれる。兄小村欣一が死去して3年後の1934年(昭和9年)1月15日、侯爵を襲爵して貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 東京帝国大学文学部を修了。財団法人国士舘講師、東京朝日新聞記者、大阪朝日新聞記者などを務めた。1938年(昭和13年)以降、司法制度調査委員会委員、内閣委員、経済関係罰則調査会委員などを歴任。 戦後は外務省研修所講師、明治大学講師を務めた。
杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1… 杉浦 義勝(すぎうら よしかつ、1895年5月15日 - 1960年12月7日)は、大正から昭和期の物理学者。立教大学元教授、学術研究会議会員、日本学術振興会委員。欧州で黎明期の量子力学を応用した功績を上げ、日本に理論を広めるなど現代物理学の発展に貢献した。物理学者の仁科芳雄と並び、「日本の現代物理学の父」といわれる。 1895年(明治28年)、愛媛県松山市に生まれる。1920年(大正9年)、東京帝国大学(現・東京大学)理学部物理学科卒業。 日本光学(現・ニコン)に入社した後、1922年(大正11年)、理化学研究所長岡半太郎研究室へ移籍。1925年(大正14年)、東京帝国大学(現・東京大学)にて理学博士学位取得。
中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月… 中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。
芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭… 芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。
戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月1… 戸上 信文(とがみ のぶふみ、1895年(明治28年)5月13日 - 1967年(昭和42年)8月9日)は、日本の技術者、実業家、経営者、戸上電機製作所創業者、日本タングステン創業者。 1895年(明治28年)熊本県に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、佐賀市の日本電機鉄工(製麺機の発明で知られる真崎照郷が設立した真崎鉄工場から製麺機以外の電気機械や高圧タービンポンプ部門を引き継いだ企業。社長は藤山雷太。真崎照郷も相談役に就任していた。)の技師時代に自動開閉器配電装置を開発したことで1919年(大正8年)に自動開閉器部を社内に設える事となり、これが戸上電機の源流となった。 1923年(大正12年)に交流電磁石実用化を契機に、1本の回線から昼間線と夜間線を自動的に切り替える「戸上式自動配線装置」と呼ばれる配電装置を考案した。
大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日… 大木 雄二(おおき ゆうじ、1895年〈明治28年〉5月7日 - 1963年〈昭和38年〉7月21日)は、日本の歌人、児童文学者。本名・大木 雄三。 群馬県佐波郡赤堀村(現・伊勢崎市)に生まれる。郷里で小学校の教員を勤めたのち、20歳の時に上京。 1932年から雄二を名乗る。1919年「こども雑誌」の編集者となる。「少年雑誌」「金の星」などに童話を発表した。1927年(昭和2年)童話作家協会に入会し、幹事を務める。1928年(昭和3年)プロレタリア系の新興童話作家連盟の結成に参加。反戦童話「可愛い敵め」を発表する。1932年(昭和7年)右翼的な日本文化連盟を結成、戦時中はファシズム作家であった。
菅 健次郎(かん けんじろう、明治28年(1895年)5月6… 菅 健次郎(かん けんじろう、明治28年(1895年)5月6日 - 昭和21年(1946年)4月1日)は、日本の鉄道官僚、柔道家。国鉄バス創始者とも言われる。 滋賀県甲賀郡水口町(現在の甲賀市)出身。水口小学校卒業、旧制膳所中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。講道館柔道七段を授けられている。 鉄道省に入省。在外研究員となり、1928年(昭和3年)にアメリカに渡り、自動車運輸の重要性に着眼し、2年半、欧米にて調査研究を行った。省営自動車(旧国鉄バスの前進)の創設に尽力した。当時は外国産のバスに押され、国産バスについても外国製部品の組み立てが多く、完全な国産はできていなかったところ、運輸局長久保田敬一の指示により、国産バスの開発を推進した。
勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1… 勝本 正晃(かつもと まさあきら、1895年5月5日 - 1993年4月17日)は、大正時代から平成時代の法学者。学位は、法学博士(東京帝国大学・論文博士・1928年)。 東京出身。1912年京都府立第一中学校卒業。1915年第三高等学校卒業。1918年東京帝国大学法科大学独逸法律学科卒業。 1918年東京帝国大学法科大学助手(指導教員:鳩山秀夫)。1921年独・仏・米に研究留学(1923年まで)。1923年東北帝国大学法文学部助教授。1924年東北帝国大学法文学部教授となり、1928年3月3日に東京帝国大学から法学博士を受ける。1949年から京都大学法学部教授。 1951年京都大学を退官して弁護士・弁理士を開業。
多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日… 多 忠亮(おおの ただすけ、1895年(明治28年)5月3日 - 1929年(昭和4年)12月3日)は、大正期のヴァイオリン奏者・作曲家。