林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 19… 林 恵海(はやし めぐみ、男性、1895年5月3日 - 1985年1月22日)は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。 1985年生まれ。第五高等学校卒業し、東京帝国大学文学部社会学科に進んだ。1921年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 卒業後は母校である東京帝国大学文学部助手となる。1939年8月、東京帝国大学文学部助教授に就任し、社会学を講じた。戦後の1948年、東京大学文学部教授に昇進。戸田貞三退官後の東京大学文学部社会学科主任教授を務めた。1956年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は日本女子大学教授として教鞭をとった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
赤星 四郎(あかぼし しろう、1895年5月2日 - 197… 赤星 四郎(あかぼし しろう、1895年5月2日 - 1971年5月5日)は、日本のゴルファー・ゴルフ場設計者。 1895年(明治28年)、実業家・赤星弥之助の四男として東京神楽坂で生まれ、鳥居坂で育った。実業家の赤星鉄馬は実兄、同じくゴルファーでゴルフ場設計者の赤星六郎は実弟。 麻布小学校・中学校を卒業後、1913年(大正2年)に渡米。ローレンスビル・スクールを経てペンシルベニア大学に入学。在学中はアメリカンフットボールの選手として活躍。1921年(大正10年)に帰国して志願して1年間の兵役(陸軍騎兵少尉)を勤めたのち、1923年(大正12年)にスタンダード・オイルに入社。一方でゴルフにも打ち込みコース設計理論も学んだ。
徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日… 徳永 豊(とくなが ゆたか、1895年(明治28年)5月1日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、画家。第7代福山市長(4期)。位階は従四位。 広島県深安郡福山町(現・福山市霞町)に生まれる。1914年(大正3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1915年(大正4年)4月、第一高等学校入学。1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部を卒業し、三菱造船(現・三菱重工業)に入社。本社総務部に配属される。翌1922年(大正11年)、病のため三菱造船を退職、療養生活に入る。 1926年(大正15年)、広島県福山師範学校の教師となる。1930年(昭和5年)、退職。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日… 林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日 - 平成2年(1990年)10月4日)は、日本の化学者、理学博士、東京工業大学名誉教授、鶴岡工業高等専門学校初代校長。
荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1… 荻生 規矩夫(おぎゅう きくお、1895年4月29日 - 1981年11月27日)は、日本の医学者、京都大学名誉教授、関西医科大学学長・名誉教授、杏林学園理事。 荻生家は儒学者である荻生徂徠で有名な家系である。 規矩夫の父、荻生録造は、旧姓を福永といった。1859年、幕臣福永清右衛門の三男として江戸麻布新網町で生まれ、荻生家に養子に入りその家督を継いだ。明治維新に伴う徳川家の駿河転封にあたり現在の静岡県沼津市八幡町に移り住んだ。そののち、東大医科に入学し、千葉医学専門学校(現千葉大学医学部)眼科学第2代教授となり、近代眼科学の礎を築いた。 規矩夫は録造の三男として1895年に千葉県千葉市猪花町79番地で生まれる。
夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)… 夏堀 悌二郎(なつぼり ていじろう、1895年(明治28年)4月29日 - 1967年(昭和42年)12月2日)は、日本の政治家。青森県八戸市の6代目~7代目市長。 青森県三戸郡地引村(現在の南部町)生まれ。東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。1920年(大正9年)、判事として前橋、東京、釧路の裁判所に勤務した。小樽地方裁判所判事となり、退官。小樽市で弁護士を開業し、1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)まで2期北海道会議員を務めた。 夏堀源三郎の要請で帰郷し、1943年(昭和18年)八戸で弁護士を開業、1946年(昭和21年)には、自由党から出馬し、八戸市初の公選市長となった。 山内亮の市長辞任により、当時の市議会議長であった鈴木惣吉より「今日の社会情勢から市会で決定することについては無理があるため、世論を尊重する公選としたい」との提案があり、議員全員がこれに賛成し、市長公選が実現した。
井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月… 井之口 政雄(いのぐち まさお、明治28年(1895年)4月28日 - 昭和42年(1967年)6月30日)は、日本の政治運動家、革命家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員(1期)。 沖縄県那覇市出身。1912年(大正元年)鹿児島一中を卒業、1916年(大正5年)慶應義塾大学部予科に入学し、卒業。1918年(大正7年)同大学部理財科に進む(後に中退)。在学中に、「日本社会主義同盟」、山川均らが主宰していた水曜会で活躍。1921年(大正10年)12月より翌年11月まで一年志願兵として鹿児島歩兵連隊に入隊。24年春から秋頃まで大阪の『関西日報』の記者となる。 1923年(大正12年)に日本共産党に入党。
前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月2… 前田 幸作(まえだ こうさく、1895年(明治28年)4月28日 - 1987年(昭和62年)9月19日)は、昭和期の実業家、映画興行主、政治家。衆議院議員。旧名・幸三郎。 京都府紀伊郡深草村(深草町を経て現京都市伏見区深草)出身。神戸高等商業学校(のち神戸商業大学)で学んだ。 京都市寺田キネマ (株)に入社し、第二京極支配人を務めた。その後、東亜キネマに移り、その経営となった福岡市の映画館東亜倶楽部(前名・抜天〔バッテン〕館)支配人として1927年(昭和2年)3月に赴任した。昼・夜入替制を連続興行に変更し、低料金制の導入、ポスターの全廃、無料入場券の配布、割引券の飛行機による散布などの奇抜な宣伝を行い話題となった。
奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 19… 奥津 彦重(おくつ ひこしげ、1895年4月28日 - 1988年3月13日)は、日本のドイツ文学者。東北大学名誉教授。 滋賀県出身。1920年東京帝国大学文学部独文科卒。東北帝国大学法文学部助教授、東北大学教養部教授、1959年定年退官、名誉教授となった。主としてゲーテを研究した。
鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 19… 鈴木 九萬(すずき ただかつ、1895年4月27日 - 1987年4月4日)は、日本の外交官。 茨城県出身。第一高等学校及び東京帝国大学卒業後、外務省に入省した。 国立国会図書館に終戦連絡横浜事務局長時代の史資料436点が所蔵されている。
池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月2… 池本 信巳(いけもと のぶみ、1895年(明治28年)4月26日 - 1982年(昭和57年)3月21日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 1895年(明治28年)に鳥取県で生まれた。陸軍経理学校第7期主計候補生として1917年(大正6年)5月18日に優等卒業し、1926年(大正15年)に陸軍経理学校高等科を優等卒業した。同年4月から1929年(昭和4年)5月まで派遣員外学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。1939年(昭和14年)3月9日に陸軍主計大佐に進級し、8月1日に陸軍省経理局建築課長に就任した。1941年(昭和16年)11月に第23軍経理部長に転じて日中戦争に出動した。
中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月… 中山 忠直(なかやま ただなお、1895年〈明治28年〉4月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月2日)は、日本の詩人、著作家。宇宙のイメージを盛り込んだ詩作品などによってサイエンス・フィクション (SF) に連なる先駆的なものと評価されている。マルクス主義を経て、勤皇社会主義と称する極右思想に拠り、さらに日本人=ユダヤ人同祖説に立って天皇はユダヤ人の血を引くと論じて著書の発禁処分を受けた。「皇漢医学」の名称の下に漢方医としても活動し、製薬事業を興すとともに、関連する著作も書いた。筆名として、中山 啓を用いた時期がある。 石川県金沢市に生まれ、幼い頃から宇宙に興味を寄せ、自然科学者を夢みた。
竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月… 竹中 七郎(たけなか しちろう、1895年(明治28年)4月25日 - 1959年(昭和34年)7月23日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、愛知県碧海郡刈谷町長、刈谷市長。刈谷市名誉市民。 愛知県碧海郡刈谷町肴町(現刈谷市)で、紺屋業・竹中石松の長男として生まれる。1913年(大正2年)、愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。1918年(大正7年)愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)を卒業した。同年、愛知県立愛知病院(現名古屋大学医学部附属病院)に勤務し、1921年(大正10年)耳鼻咽喉科病院を開業した。 1932年(昭和7年)刈谷町会議員に選出され、以後、刈谷町長、愛知県町村長会長、愛知県会議員などを務めた。
大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25… 大久保 信(おおくぼ しん、1895年(明治28年)4月25日 - 1944年(昭和19年)4月1日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医少将。海軍乙事件により遭難、殉職。 1895年(明治28年)、神奈川県に生まれる。1917年(大正6年)に千葉医学専門学校に在学中のまま海軍軍医学生になる。翌1918年(大正7年)5月、卒業。海軍少軍医となり海軍軍医学校で乙種学生として学び、霧島乗組になる。その後、駒橋、迅鯨、磐手、高雄の軍医長などを歴任する。 1942年(昭和17年)に海軍省医務局第一課長に就任、同年12月に南東方面艦隊軍医長に就任した。 翌1943年(昭和18年)4月連合艦隊司令長官山本五十六らが乗った一式陸攻が敵戦闘機P-38に撃墜される事件があり(海軍甲事件)、大久保は山本らの検死に立ち会った。
田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月2… 田村 秀吉(たむら ひできち、1895年(明治28年)4月25日 - 1955年(昭和30年)10月9日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、大蔵参与官。弁護士。 徳島県那賀郡新野村(現在の阿南市)出身。1923年(大正12年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験行政科・司法科に合格した。内務省に入り、青森県や復興局に勤務した。その後、東京帝国大学大学院で学び、政策研究会(のち大東亜研究所)を創設。1933年(昭和8年)から弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回、第21回でも再選された。その間、小磯内閣で大蔵参与官を務めた。戦後の1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。
船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 … 船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月12日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議員(当選15回)。第51代・56代衆議院議長、自由民主党副総裁等を歴任。 政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。 なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。
児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月2… 児島 高信(こじま たかのぶ、1895年(明治28年)4月22日 - 1947年(昭和22年)8月12日)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市(渋谷区)出身。1919年(大正8年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、翌年に朝鮮総督府事務官となった。同参事官、殖産局商工課長、財務局理財課長、全羅南道内務部長、総督官房会計課長、鉄道局理事を歴任。1936年(昭和11年)、咸鏡北道知事に就任し、1940年(昭和15年)に李王職次官に転じた。1945年(昭和20年)、李王職長官事務取扱。1946年(昭和21年)1月、同職官制廃止後は宮内省御用掛を務めた。1947年(昭和22年)8月12日死去。天皇、皇后、皇太后より祭粢料を賜った。
三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 196… 三浦 一雄(みうら くにお、1895年4月22日 - 1963年1月30日)は、日本の官僚、政治家。青森県三戸郡五戸町出身。位階は正三位。勲一等瑞宝章。父は五戸町長や青森県議会議員を務めた三浦道太郎。また、祖父の三浦泉八は十和田湖畔・宇樽部の開拓者として知られる。 1895年(明治28年)、青森県三戸郡五戸町に生まれる。仙台の第二高等学校から東京帝国大学へ進学し、在学中に上杉慎吉を中心に東大に組織された全日本興国同志会に入会。同大学を卒業後、農商務省入省。同期に岸信介ら。 1925年(大正14年)に農商務省が商工省・農林省(現 農林水産省)へと分割されると農林省へ転籍し、農山漁村経済更生運動に深く関わり一時期企画院に出向した後に農林次官を最後に農林省を退官。
池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月2… 池田 禎政(いけだ ただまさ、1895年〈明治28年〉4月22日 - 1920年〈大正9年〉1月18日)は、日本の華族(侯爵)。旧岡山藩池田家第14代当主。 父は池田詮政。母は久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王。26歳で早世し、未婚により子供がいなかったため、弟の政鈞(後に宣政と改名)が家督を相続した。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 198… 三輪 休和(みわ きゅうわ、1895年4月20日 - 1981年10月24日)は、日本の陶芸家。第十代三輪休雪。1970年に人間国宝に認定。本名は邦広。 1895年(明治28年)山口県萩市の旧萩藩御用窯三輪家の9代雪堂の次男として生まれる。1908年(明治41年)、明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、作陶を父の九代雪堂に学び、家業に従事する。また、祖父の勧めから江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んだ。1937年(昭和2年)三輪窯を継承して10代休雪を襲名した。
吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 19… 吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとりであり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる。 1894年(明治27年)、富山県東礪波郡福野町(現・南砺市)に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれた。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)を卒業後、美術学校への進学を志望したが兄の反対に遭って断念した。旧制第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学建築学科を卒業した。
荒木 光太郎(あらき みつたろう、1894年5月18日 - … 荒木 光太郎(あらき みつたろう、1894年5月18日 - 1951年9月29日)は、日本の経済学者である。東京出身。荒木十畝の息子。
益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 19… 益田 道三(ますだ みちぞう、1894年5月17日 - 1965年10月12日)は、英文学者・比較文学者。 大阪市北区生まれ。1916年東京高等師範学校英語科卒、地方公務員の教師となり、鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)教諭、1917年佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)教諭、1925年京都帝国大学文学部英文科卒、1926年兵庫県立第一神戸高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)教授、1929年大阪商科大学教授、1940年勲六等瑞宝章受勲。1949年校名変更で大阪市立大学法文学部教授、57年定年退官、神戸山手女子短期大学教授。
堀川 恭平(ほりかわ きょうへい、1894年(明治27年)5… 堀川 恭平(ほりかわ きょうへい、1894年(明治27年)5月17日 - 1970年(昭和45年)9月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(8期)。旧姓・佐藤。 岡山県岡山市川崎町(現北区京橋町)で佐藤権次郎の三男として生まれ、堀川宇一郎の養子となった。1917年、早稲田大学政治経済科を卒業。飾磨郡城南村会議員、同村長、姫路市会議員、兵庫県会議員を歴任。また、姫路市警防団長、播州交通 (株) 社長、兵庫県飼料統制 (株) 社長、鹿島建設 (株) 顧問、全国戦災都市連盟常任幹事などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第二区から日本進歩党公認で立候補し当選。
今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月… 今川 一策(いまがわ いっさく、1894年(明治27年)5月15日 - 1977年(昭和52年)12月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 新潟県出身。新潟中学校(現新潟県立新潟高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第21連隊付となる。1920年(大正9年)4月、騎兵中尉に昇進した。 1922年(大正11年)2月から10月まで陸軍航空学校操縦学生となる。同年11月、飛行第1大隊付に発令され、1924年(大正13年)11月、下志津陸軍飛行学校教官に異動し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵中尉となる。
吉薗 周蔵(よしぞの しゅうぞう、1894年〈明治27年〉5… 吉薗 周蔵(よしぞの しゅうぞう、1894年〈明治27年〉5月12日 - 1964年〈昭和39年〉10月)は、日本の諜報員。元帥陸軍大臣上原勇作個人付き陸軍特務を務めた人物。 「吉薗周蔵手記」という、陸軍特務時期の活動内容を記した手記を残している。これを元にした落合莞爾の研究に対し、偽史研究者の原田実は手記そのものが公開されていないという問題点を指摘した。 1894年(明治27年)5月12日、宮崎県西諸縣郡小林村(現在の宮崎県小林市)生まれ。父は吉薗林次郎、母はキクノ。吉薗家は山林を持ち、米作やたばこ等の商品作物栽培の他に薩摩節生産なども行なっている富農であった。 周蔵は算数、数学、物理の能力に長けており、数学は独学で知識を深めていた。
山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉… 山元 亀次郎(やまもと かめじろう、1894年〈明治27年〉5月12日 - 1962年〈昭和37年〉3月27日)は、大正から昭和期の政治家・実業家。衆議院議員。通称「山亀」と称された革新の闘士。 鹿児島県大島郡西古見村(焼内村、西方村を経て現瀬戸内町西古見)で、鰹漁業網元・山元十太郎の息子として生まれた。1909年(明治42年)大島郡古仁屋高等小学校を修了。熊本、長崎で船員として務め学費を貯めて、1915年(大正4年)大阪市の桃山中学校(現桃山学院中学校・高等学校)を卒業した。2年間の兵役を経て日本大学専門部法科に入学したが1918年(大正9年)に中退した。 1919年(大正10年)4月、全国学生同盟会、同年12月、日本労働党、1921年12月、対外青年革新協会などをそれぞれ結成して、学生運動、普選運動に尽力した。
小牧 近江(こまき おうみ、1894年(明治27年)5月11… 小牧 近江(こまき おうみ、1894年(明治27年)5月11日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、社会科学者・社会運動家。法政大学教授。本名、近江谷 駧(おうみや こまき)。 秋田県の土崎港(つちざきみなと、現在の秋田市土崎港)生まれ。 東京の暁星中学中退後、1910年、第1回万国議員会議に出席する父近江谷栄次に連れられてフランスに渡り、家産が傾きアンリ4世校を放校になったもののパリ大学法学部入学。苦学の末、1918年(大正7年)卒業。この間、ロマン・ロランに傾倒。同地で小説家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、反戦運動に参加。また、日本大使館に勤務した。
射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日… 射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日 - 1956年2月3日)は、富山県高岡市出身で稲川部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松崎 健次(まつざき けんじ、旧姓:麻井)。最高位は小結。元幕内鯱ノ里の養父。現役時代の体格は身長173cm、体重90kg。得意手は上突っ張り、右四つ。 1911年6月初土俵。小兵だが、動きの速さと回転の速い上突っ張りに加え、足取りの奇襲や引き技を見せた。1920年1月新入幕。しばらく下位に低迷したが、1924年5月場所6日目には当時最強の呼び声高い横綱栃木山を突っ張りから足取りを繰り出したのち突き出しで破り金星を獲得、喜びの余りに我を忘れて二字口へ躍り出た。
2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治2… 2代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、1894年〈明治27年〉5月9日 - 1967年〈昭和42年〉9月28日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。群馬県前橋市長。初名・亮次。 のちに前橋市長を務める先代・江原桂三郎の次男として前橋市新町(現在の朝日町2丁目)に生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、三菱合資会社銀行部(三菱銀行)に勤務する。東京電燈前橋支店勤務、群馬中央銀行調査部長、同行常務取締役、群馬県農工銀行取締役などを歴任。さらに群馬大同銀行(現・群馬銀行)常務取締役となった。1929年(昭和4年)に桂三郎の名を襲名。 1933年(昭和8年)12月24日、前橋市長に就任。
谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年… 谷 三三五(たに ささご、1894年5月9日 - 1956年7月24日、旧姓:真殿)は、日本の陸上競技選手(短距離)・指導者。日本人では初めて100m走で10秒台の記録を出した人物である。1924年のパリオリンピックに出場。 岡山県和気郡伊里村(現在の備前市伊里)出身。 伊里尋常高等小学校(現在の備前市立伊里小学校)を卒業、後に明治大学に進学し、大学卒業後は鉄道省に入省した。 1917年の第5回日本陸上競技選手権大会男子100mで真殿三三五名義で出場し、12秒0で初優勝。その後、日本選手権では第10回大会から第12回大会まで男子100m三連覇を果たしている。 1924年にはパリオリンピックの日本代表に選ばれ、岡山県出身者で初の五輪代表となる。
竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 19… 竹内 新平(たけうち しんぺい、1894年5月7日 - 1945年4月1日)は、大正・昭和期の大蔵官僚。 静岡県相良町(現牧之原市)出身。東京帝国大学法学部独法科卒業後、大蔵省に入省し、主税局勤務を振り出しに長野税務署長、高崎税務署長、大阪北税務署長などを歴任。阿波丸事件で遭難死した。
大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日… 大見 為次(おおみ ためじ、1894年(明治27年)5月6日 - 1962年(昭和37年)5月)は、日本の政治家。安城町会議員(1920年-1947年)、安城町長(1947年-1952年、2期)、初代安城市長(1952年-1959年、2期)、愛知県会議員(1931年-1955年)、愛知県議会議長(1947年-1950年)。 元衆議院議員の大見正は孫。 1894年(明治27年)5月6日、愛知県碧海郡安城村字出郷(現・安城市新田町)に生まれた。1907年(明治40年)に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)に入学し、1911年(明治44年)3月に卒業した。農林学校卒業後には青年団の学習会である双葉会に入会し、機関誌『双葉集』の1914年(大正3年)3月号には「農業組織改革に於ける組合中心主義」という論考を発表している。
青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5… 青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5月5日 - 昭和61年(1986年)8月13日)は、日本の実業家。元米子商工会議所顧問名誉副会頭。元米子信用金庫会長。 元山陰放送社長青砥昇、元米子信用金庫会長青砥順の父。 吉太郎の長男。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 昭和11年(1936年)米子信用組合主事、専務理事を経て第四代組合長に就任。昭和26年(1951年)から28年間にわたって改組後の米子信用金庫理事長を務め、山陰第一位、中国地方第三位の信用金庫の実績を築いた。 この間、鳥取県信用金庫協会会長、中国地区信用協会会長、全国信用金庫協会理事、米子商工会議所副会頭、米子ロータリークラブ会長、美保大空友の会会長、陸上自衛隊米子駐屯部隊協力会長などを務め、業界や地方経済社会の発展に尽くした。
林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月2… 林要(はやし かなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は、日本のマルクス経済学者。 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。
池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5… 池田 宇右衛門(いけだ うえもん、1894年〈明治27年〉5月3日 - 1960年〈昭和35年〉1月5日)は、日本の政治家。参議院議員。 長野県上水内郡三輪村(現長野市)生まれ。同郡上松農業会評議員を経て、長野市農会総代、副会長から会長となった。1928年(昭和3年)長野市会議員、1939年(昭和14年)長野県会議員となる。農村青年教育に力を入れ、中年青年代表者の指導員設置を提唱し、女子専門学校や市道展望道路の開通に尽力した。その他、養蚕組合長、長野県農会常任理事、全国都市農会常任理事、同副会長、長野市、長野県各参事会員、都市計画地方委員、長野県蚕糸会、同園芸協会各副会長、長野県花卉組合連合会、長野市農業協同養蚕組合連合会各会長などを歴任した。
高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3… 高山 喜六(たかやま きろく、1894年(明治27年)5月3日 - 1938年(昭和13年)4月13日は、日本の杖術家。号は武勝。玄洋社の一員でもあった。 福岡県宗像郡勝浦村(現在の福津市)出身 。白石範次郎(重明)より神道夢想流杖術を学んだ。 1928年(昭和3年)大日本武徳会杖術錬士之部 (精)錬士 1929年(昭和4年)福岡市大学通3丁目5の自宅に「福岡道場」を開き、兄弟弟子の清水隆次(克泰)、乙藤市蔵(勝法)らと神道夢想流杖術を指導した。同年5月 「第三十三回武徳祭大演武会」において制剛心照流居合術を演武、同年7月 大日本武徳会捕縄術錬士之部 (精)錬士 1930年(昭和5年)11月 「明治神宮鎮座十周年祭奉納武道形大会」において、神道夢想流杖術五月雨、一達流捕縄術、中和流短剣術、大和流軍用抱火筒術を演武 1933年(昭和8年)5月 「第三十七回武徳祭大演武会」において神道流剣術を演武7月 武道総合雑誌『信義』創刊号に福岡道場師範高山喜六武勝として「一達流捕縄術及び一心流鎖鎌術」の解説を寄稿 1935年(昭和10年)5月 大日本武徳会杖術教士之部 教士 1936年(昭和11年)3月20日 福岡農士学校の卒業式に際し、研究科第三期生、本科第四期生に対し高山師範より武道証をそれぞれ授与される。
猪原 良右衛門(いはら りょうえもん、1894年〈明治27年… 猪原 良右衛門(いはら りょうえもん、1894年〈明治27年〉5月2日 - 没年不明)は、日本の醸造家。 広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。先代良右衛門の息子。1915年7月、大阪高等工業学校醸造科卒業。1920年、東京薬学専門学校卒業。1年志願兵として入営、除隊後家業を継ぐ。 加計町商工会長、広島県火薬商組合長、広島県薬種商組合長、広島県地方森林会議員、広島県山林会長、所得税調査委員、山県郡連合軍人分会長、加計町軍人分会長、大日本消防協会代議員、加計郵便局長などをつとめる。戦後、公職追放となる。 農業及び林業の発展に多大の力を尽くす。宗教は真宗。趣味は読書。住所は広島県山県郡加計町古市。
沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 198… 沼田 亮義(ぬまた りょうぎ、1894年5月1日 - 1981年1月15日)は、日本の政治家、僧侶。長野県常盤村村長、長野県仏教会副会長、總持寺顧問などを歴任。号は大安。 長野県下水内郡常盤村 (現飯山市照里)生まれ。旧制世田谷中学卒業。1819年(大正8年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。 長崎県の三菱鉱業高嶋炭坑布教師、地方改良布教師、宗務所長、宗会議員、特選議員を経て、長野県遺族会理事、長野市老人クラブ連合会長、長野県保護司会理事、常盤村会議員を歴任。1951年に常盤村村長に就任。總持寺顧問、長野市如法寺33世を務める。
土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997… 土井 正治(どい まさはる、1894年5月1日 - 1997年5月3日)は、日本の実業家。住友化学工業社長・会長。住友化学の中興の祖でもある。 兵庫県武庫郡大庄村浜田(尼崎市浜田町に)父・武内舛量、母・菊恵の長男として生まれる。生家は浄専寺と言い、境内に大きな樅や楠のある広い寺である。武内家は武内宿禰(神功皇后、応神天皇らに仕えた大臣。蘇我氏の祖と伝えられる)の子孫といわれる。土井は武内宿禰から数えて、ちょうど七十代目の末裔にあたる。父武内舛量は、西本願寺に勤め、法王の大谷光尊(明如上人)(大谷光瑞の父)に目をかけられ、日清戦争のころ軍隊布教使となった。ところが軍隊布教でマラリアにかかり、1897年9月、土井が3歳のとき、32歳で死去した。
安倍 寛(あべ かん、旧字体: 安倍 寬、1894年〈明治2… 安倍 寛(あべ かん、旧字体: 安倍 寬、1894年〈明治27年〉4月29日 - 1946年〈昭和21年〉1月30日)は、日本の政治家、木材商。衆議院議員(通算2期。第20、21期)。戦後は日本進歩党に所属した。 政治家の安倍晋太郎(外務大臣を務めた)は長男。安倍寛信(経営者)、安倍晋三(衆議院議員、第90・96・97・98代内閣総理大臣)、岸信夫(衆議院議員、防衛大臣)は孫。妻・静子は陸軍軍医監本堂恒次郎の娘(後に離婚)。 1894年、山口県大津郡日置村蔵小田(現・長門市油谷蔵小田渡場)に安倍彪助・タメの長男として生まれる。4歳までに両親が相次いで死亡したため、伯母のヨシに育てられる。父・彪助は郡内で名門として知られる椋木(むくのき)家からの婿養子であり、母・タメは安倍家の“中興の祖”となった安倍慎太郎の妹である。
柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27… 柳田 泉(やなぎだ いずみ、1894年(明治27年)4月27日 - 1969年(昭和44年)6月7日)は、日本の明治文学研究者・翻訳家。明治文学に関する資料収集・編纂、実証研究で多大な成果がある。 1894年、青森県中津軽郡豊田村(現・弘前市)生まれ。1918年に早稲田大学英文科を卒業。トルストイの小説や、『カーライル全集』、『ホイットマン全集』、『アミエルの日記』など英訳版からの重訳を含め、多くの思想哲学書を翻訳出版した。当初は英文学史研究を志したが、関東大震災で多くの書籍を火災で失ったことをきっかけに明治文学研究へと転向した。1924年には、吉野作造を中心に結成された「明治文化研究会」に参加。
山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1… 山口 左仲(やまぐち さちゅう、1894年4月21日 - 1976年3月11日)は、日本の寄生虫学者。学位は、医学博士・理学博士。寄生蠕虫類(吸虫・条虫・線虫・鉤頭虫など)の形態・分類学に関する多くの業績を残した。 長野県南佐久郡小海村(現・小海町)で代々造り酒屋を営んでいた黒澤家の五男として生まれる。 小海村小学校を卒業後、東京の旧制早稲田中学校に進学。医学に進んだ動機は不明だが、1918年(大正7年)に岡山医学専門学校を首席で卒業し、銀時計を授与される。しかし、自分は医者には不向きと考え、同年、同郷の山極勝三郎教授を東京帝国大学医学部に訪ねて病理学教室に入室し、7年間を過ごす。1925年(大正14年)に論文「口腔唾液腺の研究」(原題はドイツ語)で医学博士を取得。
李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月2… 李 鍾栄(イ・ジョンヨン、朝鮮語: 이종영、1894年4月20日 - 1954年2月1日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、親日派、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 別名には李 鍾滎(イ・ジョンヒョン、이종형)、権 守貞、権 秀貞(クォン・スジョン、權守貞•權秀貞/권수정)などがある。 江原道旌善郡出身。元山普光中学校、早稲田大学政経科卒。三・一運動の後は曺相伯、李光世、金道源などと雲泥洞事件に参加したが、後は関東軍の密偵となり、日本統治時代の後期には朝鮮総督府警務局の嘱託を務めた。戦後は極右性向の大東新聞社の社長を務めた。1950年の第2代総選挙では旌善郡選挙区より大韓独立促成国民会から本名で出馬して当選し、国会議員を1期務めた。
山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。