大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1… 大嶌 佐太郎(おおしま さたろう、1897年8月5日 - 1936年6月8日)は、大阪府堺市出身で小野川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は中辻 佐太郎。173cm、94kg。最高位は西前頭11枚目(ただし番付削除の為、番付上の最高位は東前頭12枚目) 大坂相撲の小野川部屋に入門、1913年5月場所初土俵。1917年6月新十両、1918年1月新入幕。1月場所前に入営し、2年間の軍隊生活を経て1920年1月に断髪姿で帰参。1923年5月に大関に昇進した。しかし、その時に起きた紛擾事件(龍神事件)に関与して一時脱退、その後一度十両格で復帰するも再び脱退し、そのまま東西合併を迎えた。 その後東京の出羽海部屋にうつり、1928年1月十両格付出で東京の初土俵という形で角界に復帰した。
久保田 畯(くぼた たおさ、1897年(明治30年)8月4日… 久保田 畯(くぼた たおさ、1897年(明治30年)8月4日 - 1991年(平成3年)5月27日)は、大正から昭和期の内務・警察官僚、弁護士。官選福井県知事、陸軍司政長官。 熊本県阿蘇郡山西村(現在の西原村)出身。久保田愿の二男として生まれる。第五高等学校を卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。1921年(大正10年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し地方局属となる。 以後、北海道庁理事官、愛知県警視、内務事務官兼関東庁事務官、千葉県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、岐阜県書記官・学務部長、群馬県書記官・警察部長、愛媛県経済部長、山梨県総務部長、神奈川県書記官・総務部長などを歴任。
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8… 川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。 宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社。 同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した。
中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969… 中野 義見(なかの よしみ、1897年8月2日 - 1969年4月3日)は、日本の音楽教育学者。 広島県出身。東京音楽学校卒業、佐賀師範学校教諭となる。のち東京の文京区立湯島小学校訓導、東京都指導主事などを経て、1945年中野区立江古田小学校校長。1956年国立音楽大学教授。
中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月… 中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月31日 - 1981年〈昭和56年〉7月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(社会党、当選8回)。日本社会党顧問。衆議院副議長(第41代)を務めた。弁護士として社会運動や人権活動に取り組んだ。 東京府西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。中村作兵衛の六男。東京府立第二中学校出身。1922年、弁護士試験に合格。1923年、早稲田大学法学部英法科卒業。弁護士開業。1930年、労農党中央執行委員。1936年、社会大衆党中央執行委員。早くから自由法曹団に参加し、自由法曹団事件で検挙された。 東京市会議員を経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙に東京7区から出馬し当選。
北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7… 北畠 義郎(きたばたけ よしろう、1897年(明治30年)7月31日 - 1961年(昭和36年)1月15日)は、明治から昭和期にかけての華族、神職。従四位、男爵。 男爵・新田忠純の長男(庶子)として生まれた。1923年明治大学法学部政治学科卒業。男爵・北畠克通の養子となり、1929年に男爵を叙爵。新田神社々司を経て、北畠親房などをまつる霊山神社の宮司に就任した。 山岳をはじめ、スポーツに親しみ、明大山岳会の結成に加わると共に、明大の後輩にあたる陸上競技選手の南昇竜らを後援した。
中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 19… 中河 幹子(なかがわ みきこ、1897年7月30日 - 1980年10月26日)は、日本の国文学者、歌人。中河与一の妻。旧姓は林。 香川県坂出市生まれ。実家は紙問屋林卯吉。香川県立丸亀高等女学校を経て津田英学塾卒。在学中の1920年に中河与一と結婚をする。女性文芸誌『ごぎやう』を創刊し、後に短歌誌『をだまき』と改め主宰となる。門下に高瀬一誌、蒔田さくら子らがいる。共立女子大学教授を務め、共立女子学園歌の作詞も手がけている。 妹の林寿枝子は、初代メイ牛山に師事した美容家で、雑誌で美容指南や対談などもした。
河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 19… 河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師、伝道者、教育者。 1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島・福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学、オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。
小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - … 小田切 武林(おだぎり たけしげ、1897年7月28日 - 1965年2月26日)は、日本の経営者。東京都出身。 1922年に東京帝国大学法学部英法科を卒業。日本銀行での勤務を経て、1947年には日本貯蓄銀行(のちの協和銀行)頭取に就任した。1962年には会長に就任。 1958年に藍綬褒章を受章。 1965年2月26日胃癌のために死去。67歳没。
是川 銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年(明治30年)7… 是川 銀蔵(これかわ ぎんぞう、 1897年(明治30年)7月28日 - 1992年(平成4年)9月12日)は、日本の事業家、投資家、相場師、慈善家。最後の相場師と呼ばれた。 現在の兵庫県赤穂市福浦で貧しい漁師の七人兄弟の末っ子、小山銀蔵として生まれる。小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。一家は3歳の時に神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となる。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国の大連に着いたときに第一次世界大戦が勃発した。日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけた。
山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7… 山田 積善(やまだ かつよし 通称: せきぜん、1897年7月25日 - 1976年12月1日)は、法律家、詩吟家。 本業は弁護士であったが、己の修養のため若いころから培ってきた詩吟が有識者の耳にとまり、ラジオで放送されたりレコード化されたりで著名となる。その声量と独特な高音の節まわしによる「修養のための詩吟」が知られるようになり、本業の弁護士の傍ら「包容会」を創設、会誌発行とともに後進の指導にも当たった。 積善は、詩吟は余興や芸能ではなく “祈りであり行(ぎょう)である” として「吟行(ぎんぎょう)」という言葉を用いて指導した。つまり、詩吟は心ある日本人の祈りであり、己を磨き強固な精神を養う修行として吟ぜよ、ということである。
ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月2… ユン・シムドク(尹 心悳、朝鮮語: 윤심덕、1897年7月25日 - 1926年8月4日)は、日本統治時代の朝鮮の歌手、俳優。 高身長で首の長い欧米人のような外貌であり、闊達な性格であったとされる。 1897年7月25日、李氏朝鮮で平安道の平壌府(現: 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)にて敬虔なキリスト教信者であるユン・ホビョン(父)と金氏(母)のもと、4人兄妹の2番目の娘として生まれた。その後すぐに鎮南浦(現: 南浦特別市)へ移住し、崇義女学校(現: 崇義女子高等学校)を卒業した。同校を卒業後、はじめは医者と教師になるため平壌女子高等普通学校と京城女子高等普通学校で学び、1914年に卒業した。
加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 … 加賀 操(かが みさお、1897年(明治30年)7月25日 - 1986年(昭和61年)2月3日)は、大正末から昭和期の農業技術者、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。北海道内初の本格的ハッカ工場に係わり「ハッカの神様」と称された。 岡山県出身。1924年(大正13年)北海道帝国大学農学部を卒業し、同年、北海道庁技手に任官し、その後、同技師となる。 その後、北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、現・ホクレン農業協同組合連合会)北見薄荷工場長に就任。北聯理事、北海道農業会理事、全農政協会理事、北海道薬農工業会社社長、上川生果物出荷組合長、日本除虫菊協会理事長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で北海道地方区に無所属で出馬して当選し、緑風会に所属し参議院議員に1期在任した。
大西 雅雄(おおにし まさお、1897年(明治30年)7月2… 大西 雅雄(おおにし まさお、1897年(明治30年)7月24日 - 1994年(平成6年)3月9日)は、大正から平成時代の言語学者、音声学者。別名に大星 雅光。 兵庫県多紀郡城南村野中(現・兵庫県丹波篠山市野中)出身。 1912年(明治45年)篠山高等小学校卒業後、三菱造船所に入社。勤務の傍ら夜学に通い英語を習得し、英文印刷職工に転じ、ついでキリスト教青年会給仕書記を務める。その間、小学校教員検定試験を受け、1917年(大正6年)上京し、中学4年に編入する。 1922年(大正11年)東京外国語学校(現・東京外国語大学)を、さらに駒澤大学人文学部を卒業し、上智大学教授となる。ついで日本女子高等学院(現・昭和女子大学)教授、法政大学教授、駒沢大学教授、日本音声学会会長、日本言語科学研究所長などを歴任した。
川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月2… 川上 貞夫(かわかみ さだお、1897年(明治30年)7月23日 - 1977年(昭和52年)7月31日)は、教育者、画家、考古学者である。 元鳥取県文化財専門員、元鳥取文化財協会理事。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月2… 小出 隆(こいで たかし、1896年 <明治29年> 8月21日 - 1982年 <昭和57年> 12月11日)は、日本の経営者。八十二銀行頭取を務めた。位階は従四位。 長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)出身。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1918年に早稲田大学商学部を卒業し、同年に六十三銀行(のちの八十二銀行)に入行。1937年に常務を経て、1951年2月に頭取に就任。1973年5月には会長に就任。1973年5月に会長を経て、1975年12月に相談役に就任。信越化学工業監査役も務めた 1957年に黄綬褒章を受章し、1966年に勲四等瑞宝章を受章し、1975年4月に勲三等旭日中綬章を受章。
佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21… 佐川 義勇(さがわ ぎゆう、1896年(明治29年)8月21日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 熊本県上益城郡龍野村(現・甲佐町)に生まれる。1915年(大正4年)3月、熊本県立中学済々黌を卒業し、1920年(大正9年)2月、台湾総督府に奉職する。 1940年(昭和15年)7月、地方理事官に進み、嘉義市助役に就任。ついで1942年(昭和17年)4月、高雄州岡山郡守に就任した。
西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20… 西岡 斌(にしおか さかん、1896年(明治29年)8月20日 - 1960年(昭和35年)9月26日)は、日本の政治家。北海道稚内市長(3期)。 北海道出身。1924年、中央大学法律専門部卒。卒業後はアメリカに留学し、オックス・フォード・ラスキンカレッジ経済学部で学んだ。帰国後は宗谷日日新聞を創刊、1932年に北海道会議員となり、稚内町長に就任するまで務めた。この間、調陽塾を開き、青少年の教育に力を注いだ。1947年、稚内町長に就任。2年後の1949年の市制施行に伴い、稚内市長に就任した。1951年の市長選挙で再選。1955年の市長選挙で三選。1959年に市長を退任した。同年、市の顧問となったが、翌1960年に死去した。
重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 19… 重森 三玲(しげもり みれい、1896年8月20日 - 1975年3月12日)は、昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。出生名は重森 計夫(しげもり かずお)。 岡山県上房郡吉川村(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。当地には豪渓(ごうけい)と呼ばれる水墨山水画の世界を思わせる渓谷地帯がある。日本美術学校で日本画を学び、華道と茶道を習い稽古に励む。日本美術学校卒業後には東洋大学文学部に学ぶ。 大正6年(1917年)に画家の道を志し上京するが、全国から集まる才能に意気消沈する。昭和4年(1929年)京都へ移り住むと、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。
野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979… 野村 ミス(のむら ミス、1896年8月19日 – 1979年3月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高野。 新潟県中魚沼郡倉俣村(現十日町市)出身。1919年上野家政女学校高等科卒業。卒業後は故郷の小学校の教諭(訓導)を務め、税務署職員だった野村幸次郎と結婚した。戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から無所属で立候補して当選した。当選後は国民協同党に入った。翌1947年の第1回参議院議員通常選挙で新潟県から国民協同党公認で立候補したが落選した。1979年死去。
大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治2… 大西 十寸男(おおにし としお、俊夫とも、1896年(明治29年)8月18日 - 1947年(昭和22年)7月29日)は、日本の政治家、農民運動家。参議院議員(無所属懇談会、1期)。 三重県飯南郡花岡村(現:松阪市)生まれ。早稲田大学で建設者同盟に加わり、卒業後の1922年(大正11年)に日本農民組合関東同盟を組織。翌年には日農総本部書記となり、1927年(昭和2年)に日本共産党に入党。三・一五事件、四・一六事件で検挙された後に共産党から離党し、全国農民組合総本部書記を歴任。一方で労農派の立場から農民運動や左翼運動を指導し、人民戦線事件で検挙された。 戦後、日本農民組合の再建に関わり、1947年(昭和22年)2月には同会書記長になる。
多田 鉄之助(ただ てつのすけ、1896年8月15日 - 1… 多田 鉄之助(ただ てつのすけ、1896年8月15日 - 1984年1月22日)は、日本の食味評論家。 東京市根岸出身。1922年、慶應義塾大学部理財科を卒業。「時事新報」記者、牧場観光会社長などを経て、1933年に多田食味研究所を設立、月刊誌『食味評論』を主宰した。テレビの料理教室の草分けで、多くの料理学校の運営にも参加した。百歳までは現役と「百現会」を旗揚げした。1984年1月22日死去。87歳。
海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925… 海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。 静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。 彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。
猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月… 猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年(明治29年)8月11日 - 1944年(昭和19年)10月24日)は、日本の海軍軍人。鳥取県出身。戦艦「武蔵」艦長として戦死し、一階級特進で最終階級は海軍中将。 鳥取県気高郡賀露村(現・鳥取市)において大工棟梁・猪口鉄蔵の長男として生まれる。弟に猪口力平(海軍兵学校第52期)がいる。海軍内では兄は「猪口敏(チョコビン)」、弟は「猪口力(チョコリキ)」と区別する呼称もあった。旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校第30期を受験し双方に合格。海兵第46期へ入学。1918年(大正7年)11月、10番/124名(1番は山階宮武彦王、実質は9番)の成績で卒業。
安田 喜代門(やすだ きよもん、1896年(明治29年)8月… 安田 喜代門(やすだ きよもん、1896年(明治29年)8月10日 - 1980年(昭和55年)4月7日)は、日本の国語学者。 主著『国文法概論』で新たに「感動助詞」という分類を作った。 1896年(明治29年)8月10日に兵庫県津名郡五色町鮎原西(現、洲本市鮎原西)に父金吉、母すみの長男として生まれる。鮎原村立小学校、洲本中学校を卒業後、1916年(大正5年)9月に國學院大學に入学。1919年(大正8年)7月に同大学師範部国語漢文科を卒業した。 教員として静岡県立浜松中学校、兵庫県立洲本中学校、山梨県立日川中学校、岐阜県立武義中学校に勤務。1925年(大正14年)に福岡高等学校助教授。1930年(昭和5年)福岡高等学校(現在の九州大学)教授。
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8… 福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長。位階は正四位。 農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務する。 1923年11月、帝都復興院属に転じ、以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任した。
溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月… 溝口 三郎(みぞぐち さぶろう、1896年(明治29年)8月10日 - 1973年(昭和48年)1月1日)は、日本の美術史家、漆工研究家、漆芸家。東京国立博物館工芸課長。 東京府で伯爵・溝口直正の八男として生まれ、叔父・溝口武五郎の養子となる。1916年(大正5年)東京美術学校漆工科本科を卒業し、同研究科に進み漆芸史の研究を行い1921年(大正10年)に修了した。 舞台美術家として築地小劇場に参加した。その後、漆工品の修理・模造を担い、国宝の扇散蒔絵手箱、籬菊蒔絵硯箱、舟橋蒔絵硯箱の模造で知られた。 1928年(昭和3年)東京帝室博物館(現東京国立博物館)嘱託となり、戦後も引き続いて勤務し漆工史の研究を行った。
伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - … 伊知地 寧次郎(いちぢ やすじろう、1896年8月8日 - 1967年11月6日)は、日本の実業家。 福岡県出身。1915年福岡県立中学修猷館を経て、1922年慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)卒業。 大同電力に入社。天竜川電力、矢作水力、矢作工業、昭和曹達の各理事を歴任。1943年7月鶴見曹達専務、1948年日東味の精社長、1952年2月東亞合成化学工業常務、1954年東北化学工業社長を経て、1958年鶴見曹達および東亞合成化学工業の社長に就任する。 1959年矢作製作所取締役、1960年寺岡製作所会長、1963年日本アクリル化学社長、東海興業監査役も務めた。 1964年藍綬褒章受章、1966年勲三等に叙せられる。
赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974… 赤松 要(あかまつ かなめ、1896年8月7日 - 1974年12月20日)は、日本の経済学者。一橋大学名誉教授。日本における経済政策学の第一人者で、雁行形態論(のち小島清や山澤逸平らにより発展)等を提唱したことで知られる。 福岡県に旧久留米藩藩士の長男として生まれる。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1921年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。1944年経済学博士(東京商科大学)。福田徳三門下。 1921年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)講師、1922年、同教授。1923年から留学し、ドイツでハインリヒ・リッケルトとヘルマン・グロックナーに師事したのちアメリカ合衆国でに移りハーヴァード大学でケースメソッドを学んだ。
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8… 横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の法学者、裁判官。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・1949年)(学位論文「国際裁判の本質」)。東京大学名誉教授。第3代最高裁判所長官。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。 かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満洲事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。
荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日… 荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日 - 1972年(昭和47年)6月12日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡駒形村長。 福島県耶麻郡駒形村(塩川町を経て現喜多方市)で、荒木與三郎の息子として生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を中退し、その後は独学した。 18歳で福島民報記者となり、福島民友などを経て、1920年(大正9年)1月に上京し東京日日新聞の地方部記者となる。その後、やまと新聞、時事新報を経て、1925年(大正14年)4月、中外商業新報の編輯局長付となり、同論説委員を務めた。1929年(昭和4年)9月、夕刊会津タイムス社を設立し社長に就任。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。
澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5… 澄川 道男(すみかわ みちお、1896年〈明治29年〉8月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月18日)は日本の海軍軍人。海兵45期。最終階級は少将。勲三等旭日章、勲二等瑞宝章、金鵄勲章功四級、仏国金鵄勲章レジオンドヌール勲章三級。 1896年(明治29年)8月5日、山口県吉敷郡山口町(現:山口県山口市)で出生、旧制山口中学(現在の山口県立山口高等学校)では後に総理大臣となった岸信介と首席の座を競った。1914年(大正3年)海軍兵学校入学、卒業後は主として航空畑、参謀畑を歩んだ。1937年(昭和12年)フランス国大使館附武官(駐在武官)。海軍大佐時代には水上機母艦「瑞穂」艦長(1940年10月15日 - 1941年9月5日)、航空母艦「飛鷹」艦長(1942年11月21日 - 1943年8月15日)を務めている。
嘉治 隆一(かじ りゅういち、1896年8月3日 - 197… 嘉治 隆一(かじ りゅういち、1896年8月3日 - 1978年5月19日)は、日本の政治評論家。上田敏の娘婿。 兵庫県生まれ。東京帝国大学法学部卒、南満州鉄道東亜経済調査局勤務ののち、東京朝日新聞社に入社、1945年論説主幹、1947年出版局長。その後、獨協大学講師、文部省大学設置審議会委員、東京市政調査会評議員などを歴任。1945年9月より1946年4月まで朝日新聞のコラム、天声人語を担当。 『心』同人(生成会)委員も務め、柳田國男など文化人との交遊も広かった。中江兆民・田口卯吉・陸奥宗光などの研究・著作解説も行っている。作家三島由紀夫も、父平岡梓が嘉治の旧友という縁から親しい間柄で、1951年(昭和26年)出帆の初の世界一周旅行(詳細は『アポロの杯』を参照)に関しても世話になっている。
武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年… 武隈 徳三郎(たけくま とくさぶろう、1896年〈明治29年〉8月3日 - 1951年〈昭和26年〉11月28日)はアイヌ出身の教員、鉄道員。後に縁戚の養子縁組を繰り返し、中村 徳三郎、宮島 徳三郎となる。『アイヌ物語』の著者として知られる。 1896年8月3日、武隈熊次郎・カツの子供として十勝国河西郡伏古村(現・帯広市)に生まれる。1910年に北海道庁立第二伏古尋常小学校を卒業後、校長の三野経太郎に嘱望されたことにより教員を志し、帯広准教員講習所で準教員、尋常小学校本科正教員養成常設講習会で尋常小学校本科正教員の資格を得る。 1913年に高島尋常小学校の准訓導、1914年に音更尋常小学校の訓導兼校長、1916年に井目戸旧土人学校(後の井目戸尋常小学校)の訓導兼校長となる。
蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 198… 蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 1988年7月6日)は、日本の社会学者。 岡山県後月郡西江原村(現井原市西江原町)出身。興譲館中学校、第六高等学校を経て、1920年東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修卒。文部省嘱託を経て、1935年九州帝国大学教授、1947年「分科社会学」で東京大学文学博士。1948年大阪大学教授、1960年定年退官、名誉教授、関西学院大学教授、1967年追手門学院大学教授。教育社会学から出発して、後に社会学理論の研究に進み、日本思想や東洋思想をふまえた独自の理論体系を構築した。
木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1… 木舎 幾三郎(きや いくさぶろう、1896年8月1日 - 1977年2月8日)は、日本のジャーナリスト、政治評論家。号(別名):湘南隠士。 現在の広島県府中市出身。真言宗京都大学(現・種智院大学)を卒業後、時事新報記者を経て、1930年『政界往来』を創刊。戦後、公職追放となるが、追放解除後の1952年に「政界往来」を株式会社化し社長に就任する。近衛文麿の私設秘書でもあった。1977年に死去した。 1928年と1930年の総選挙で郷里の広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補したがいずれも落選した。
久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日… 久野 朔郎(くの さくろう、1896年(明治29年)8月1日 - 1968年(昭和43年)9月6日)は、日本の英語学者。 愛知県出身。1918年第八高等学校卒。東京帝国大学文学部英吉利文学科にて市川三喜に師事し1921年卒業。1922年4月–1946年3月学習院大学教授、1950年3月愛知女子短期大学教授、1957年4月–1965年3月愛知県立女子大学教授、1958年4月–1964年7月同学長、1965年4月–1968年立正大学大学院英文学専攻教授。久野昭、小笠原暁、久野暲は息子。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
菊地 吉治郎(きくち よしじろう、1896年7月31日 - … 菊地 吉治郎(きくち よしじろう、1896年7月31日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。札幌テレビ放送社長を務めた。栃木県出身。 1914年に真岡中学校を卒業。1920年2月に北海タイムス記者に就任し、1950年1月には社長に就任。1957年4月から1961年5月までに札幌テレビ放送社長を務めた。 1967年9月19日腺癌のために死去。71歳没。
松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月… 松平 里子(まつだいら さとこ、1896年(明治29年)7月31日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は大正~昭和期のソプラノ歌手。本名は松平 佐登子(旧姓:岩田)。夫は海軍技師の松平博(大給松平家当主松平乗承の三男)。 1896年、東京市浅草区浅草花川戸町(現在の東京都台東区花川戸)生まれ。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校・附属中学校)を経て東京音楽学校に入学。東京音楽学校ではハンカ・シェルデルップ・ペツォルトに師事し、1919年(大正8年)3月に同校本科声楽部を卒業。引き続き同校聴講科で独唱を1年学んだ。1921年(大正10年)に帝国劇場のオペラチックコンサートに出演。
本間 隆(ほんま たかし、1896年7月31日 - 1992… 本間 隆(ほんま たかし、1896年7月31日 - 1992年6月6日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。 長野県南佐久郡前山村(現佐久市)出身。1911年に地元の高等小学校を卒業すると、1912年に国民新聞社に入社。静岡民友新聞社を経て、1936年に北海タイムズ社(のちの北海道新聞社)に転じ、1951年に北海道放送取締役に就任し、1957年に代表取締役を経て、1972年には社長に就任。1973年に会長に就任し、1974年に相談役を経て、1987年から名誉顧問に就任した。 1973年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月6日心不全のために死去。95歳没。
渡辺 広(わたなべ ひろし、1896年7月30日 - 196… 渡辺 広(わたなべ ひろし、1896年7月30日 - 1967年11月24日)は、日本の内務官僚。最後の官選神奈川県知事。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。台湾総督府に入り総督官房参事官室属となる。1932年、拓務省事務官に転じ、以後、奈良県、高知県、埼玉県の地方官を歴任。 1939年4月、神奈川県経済部長に就任。太平洋戦争を迎え、1942年7月、ジャワ方面陸軍司政官として赴任。バンテン州長官、スラカルタ侯地事務局長官を歴任し、終戦を迎えた。 1946年に帰国し、内務省に復帰。1947年3月、前神奈川県知事・内山岩太郎が公選知事選に出馬のため辞任したのを受け、最後の官選知事に就任。
鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月2… 鈴木 傳六(すずき でんろく、1896年〈明治29年〉7月29日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、山形市にある菓子製造メーカーでん六の創業者。山形市議会議員や山形県議会議員を務めた。 1896年(明治29年)7月29日に山形県山形市上町に誕生。山形市立第二小学校卒業、山形県立山形中学校を中退。兄が始めた焼き麩づくりを手伝った。 1915年(大正4年)に近衛歩兵第2連隊入隊、師団の銃剣術大会で優勝した。陸軍上等兵となる。 1922年頃の26歳の時に妊娠していた妻を実家に預け単身上京し、神田の菓子種屋で働いた。関東大震災に遭遇し帰郷。 1924年(大正13年)11月山形市香澄町吹張に分家、菓子種「おこし」の製造販売で独立した。
犬養 健(いぬかい たける / いぬがい たけし、1896年… 犬養 健(いぬかい たける / いぬがい たけし、1896年(明治29年)7月28日 - 1960年(昭和35年)8月28日)は、日本の政治家、小説家。法務大臣(第2代・第3代)、衆議院議員(12期)。位階は正三位、勲等は勲一等。内閣総理大臣犬養毅の三男。 学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学哲学科中退後、白樺派の作家として活動した後に政界入りした。1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で東京2区より立候補し初当選。 1941年にはゾルゲ事件への関与容疑で拘引、警察当局の取り調べを受け起訴されるが無罪となる。 第二次世界大戦中の1942年に翼賛選挙で当選し、1952年に吉田茂首相の引き立てにより法務大臣に就任するが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対し、吉田首相の意向を受けて、重要法案(防衛庁設置法、自衛隊法)の審議中であることを理由に1954年4月21日、指揮権を発動して逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替えさせた。
増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 198… 増谷 くら(ますたに くら、1896年7月28日 - 1982年3月5日)は、日本の教育者。 兵庫県三木市出身。1917年増谷女学校補習科卒業。 増谷かめの養女となり、義母が経営する増谷女学校で学ぶ。卒業してすぐに増谷女学校の教諭となる。1922年に義母が没してから学校の理事に就任。 1965年に自身が理事の学校法人夙川学院が設立した夙川学院短期大学の講師に就任して後に教授になる。1969年に名誉教授になる。 増谷くらの提案で校内で下級生は上級生とすれ違う場合には礼をしようということになった。このように道徳的なものを日常生活で身に付けられるようにしていた。 1980年に定められた夙川学院の教育理念は「愛と誠実」「清新な学識」「清楚にして優雅」であるが、これは増谷くらの提案のもとに検討されていた。
栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26… 栗木 幹(くりき かん、1896年 <明治29年> 7月26日 - 1981年 <昭和56年> 12月28日)は、日本の経営者。三井鉱山社長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1921年に東京帝国大学工学部採掘学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1954年5月に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格し、1964年5月までに務めた。1968年1月に三井アルミニウム社長に就任し、1971年5月に会長を経て、1976年には相談役に退いた。 1971年に勲二等旭日重光章を受章。 1981年12月28日心不全のために死去。85歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
新貝 肇(しんがい はじめ、1896年(明治29年)7月25… 新貝 肇(しんがい はじめ、1896年(明治29年)7月25日 - 1980年(昭和55年)1月9日)は、朝鮮総督府官僚。大分県副知事。 大分県宇佐郡天津村(現在の宇佐市)出身。宇佐中学校(現大分県立宇佐高等学校)、第四高等学校を卒業。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格し、翌年に東京帝国大学法学部政治科を卒業した。逓信省に入省したが、1922年(大正11年)朝鮮総督府に転じた。朝鮮総督府逓信局書記、同逓信副事務官、同事務官、逓信吏員養成所長、逓信局庶務課長、同経理課長、黄海道警察部長、江原道内務部長、警務局警務課長、総督官房人事課長を歴任。1937年(昭和12年)、全羅南道知事に就任し、咸鏡南道知事を経て、逓信局長・高等海員審判所長に転じた。
村松 久義(むらまつ ひさよし、1896年7月25日 - 1… 村松 久義(むらまつ ひさよし、1896年7月25日 - 1972年5月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。1923年東京帝国大学独法科、1925年同大学経済科卒。司法官試補、検事代理、名古屋地方裁判所判事を経て、弁護士となる。1932年の第18回衆議院議員総選挙で宮城2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選する。民政党解党後は大政翼賛会国民生活動員本部長に就任、翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選。当選後は翼政会政調厚生委員となった。 戦後、公職追放となり、1951年に追放解除。翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党公認で立候補して当選し、政界に復帰した。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
佐々木 耕郎(ささき こうろう、1895年(明治28年)8月… 佐々木 耕郎(ささき こうろう、1895年(明治28年)8月21日 - 1978年(昭和53年)10月1日)は、日本の政治家。栃木県(旧)日光市長を務めた。 岩手県盛岡市に生まれる。盛岡中学を経て、1917年(大正6年)、高千穂高等商業学校を卒業。同年、古河電気工業株式会社に就職。その後の人生の大半を日光で過ごす。1945年(昭和20年)、同社を退職。同年11月に株式会社別倉製作所他2社を立ち上げ社長に就任した。佐々木は終戦時に古河電気工業が多数の従業員を解雇したことの責を負って同社を退職しており自ら会社を起こしたのは古河電気工業を解雇された従業員たちを雇用するためであった。 その後、1951年(昭和26年)4月の栃木県議会議員選挙で当選し1953年(昭和28年)7月まで県議会議員を務めた。