藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2… 藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2日 – 1971年(昭和46年)3月4日)は、大正末から昭和期の政治学者、法学者、政治家。参議院議員(1期)。 香川県三木郡平井村井上(木田郡平井村、平井町を経て現三木町井上)で、藤井宇平の三男として生まれる。平井村北尋常小学校、木田郡五ケ村組合立白山高等小学校高等科、香川県立大川中学校(現香川県立三本松高等学校)を経て、1917年(大正6年)7月、早稲田大学高等師範部英語科を卒業した。アメリカ合衆国に留学し、同年9月、語学習得のためカリフォルニア州サンタバーバラ郡ユバチノ公立小学校第1学年に入学し、1918年(大正7年)1月に同州サンノゼ市公立ヘスター第1小学校に転校し、同年7月、小学課程を9ヶ月で卒業した。
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魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 19… 魚木 忠一(うおき ただかず、1892年7月31日 - 1954年12月10日)は、日本のプロテスタント神学者、同志社大学神学部および大学院神学研究科教授、文学博士。 愛媛県松山市三番町生まれ。松山夜学校(現・松山学院高等学校)に5年間通った後同校教師となり、西村清雄校長から人格と学業において大きな影響を受ける。1917年同志社大学神学部に入学。卒業後1922年から米国シカゴ大学、ユニオン神学校、コロンビア大学、さらにドイツ・マールブルク大学神学部で学び、特にユニオン神学校ではA・C・マッギファート(英語版)の影響を受けた。帰国後の1927年に同志社大学文学部神学科講師、1930年に教授となる。
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金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1… 金森 誠之(かなもり しげゆき、1892年7月27日 - 1959年8月19日)は、日本の河川技術者、内務官僚。発明家、映画人でもあった。 土木の仕事を、「地球芸術」と称していた。 和歌山県有田郡出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、「煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究」(『土木学会誌』)で工学博士号を得ている。 1918年(大正7年)から1921年(大正10年)までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年(大正13年)から1929年(昭和4年)まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。
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佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 佐藤 清一郎(さとう せいいちろう、1892年〈明治25年〉7月26日 - 1973年〈昭和48年〉4月19日)は、大正から昭和期の農業指導者、政治家。参議院議員(1期)。 栃木県河内郡豊郷村(現宇都宮市)出身。1909年(明治42年)栃木県立宇都宮農学校(現栃木県立宇都宮白楊高等学校)を卒業した。 1927年(昭和2年)河内郡農会代議員に就任。その他、1929年(昭和4年)豊郷村会議員に選出され、同村消防組頭も務めた。1937年(昭和12年)満洲国に移り南満洲鉄道嘱託、軍人、官吏となる。 終戦後に帰国し、豊郷村農業会長、同農業協同組合長を務め、1947年(昭和22年)栃木県議会議員に選出され2期在任し、1951年(昭和26年)同議長となった。
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北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月2… 北村 文衛(きたむら ふみえ、1892年(明治25年)7月25日 - 1957年(昭和32年)1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 宮城県桃生郡鷹来村(現在の東松島市)出身。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学を卒業。大阪商船株式会社に入社し、上海、神戸、大阪の支店で勤務した。1923年(大正12年)、仙台市に弁護士事務所を開業し、仙台弁護士会副会長を務めた。1927年(昭和2年)からは宮城県会議員に選出された。 1939年(昭和14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。
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大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月2… 大村 義雄(おおむら よしお、明治25年(1892年)7月24日 - 没年不詳)は日本の実業家。 大正9年(1920年)東大経済学部卒。 人権擁護委員、出雲大社神社総代を歴任。 八田工業(株)取締役会長、出雲造船(株)取締役。 宗教は神道。住所は島根県簸川郡大社町(現出雲市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
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最上 政三(もがみ まさぞう、1891年8月21日 - 19… 最上 政三(もがみ まさぞう、1891年8月21日 - 1977年2月19日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員(4期)、逓信院政務官を務めた。 群馬県群馬郡室田村(現・高崎市)出身。逓信省逓信講習所から中央大学へ進み、大学卒業後万朝報に入社。政治部長を務めた後、1930年の衆議院議員選挙に立憲民政党公認で群馬県第2区に出馬して辛くも当選を果たす(定員4名)。以後、衆院議員を通算4期務め、この間1945年に逓信院政務官の任についた。 戦後、日本進歩党結成に参加するが公職追放に遭い、身代わりとして妻の最上英子が総選挙に立ち、日本最初の女性議員の一人となった。公職追放後の1955年に高崎市長選挙に出馬するが、住谷啓三郎に敗れた。
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野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 19… 野村 愛正(のむら あいせい、1891年8月21日 - 1974年7月6日)は、日本の小説家・脚本家・連句人。本名は「ちかまさ」だが小さい頃から「あいせい」と呼ばれそれを筆名とした。 1891年(明治24年)8月21日、鳥取県法美郡大茅村大字楠城村(後の岩美郡国府町大字楠城、現在の鳥取市国府町楠城)生まれ。鳥取中学(現鳥取県立鳥取西高等学校)を病気のため中退し、鳥取新報社(新日本海新聞社の前身)に入社。1913年(大正2年)上京し文学の道に入る。有島武郎に師事し『新潮』『中央公論』などに小説を執筆。 1917年(大正6年)、27歳のときに大阪朝日新聞が本社落成記念として募集した懸賞小説に応募し、『明ゆく路』で一位を獲得した。
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池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 196… 池田 徳治(いけだ とくじ、1891年8月20日 - 1965年4月1日)は日本の政治家。 1891年(明治24年)秋田市保戸野本町に生まれる。秋田県立秋田中学校(旧制)、第二高等学校 (旧制)、東京帝国大学工科大学卒。内務省東北土木出張所長、秋田県土木部長を経て、秋田県初代公選知事蓮池公咲及び自由党・民主党の推薦を得て1951年(昭和26年)の県知事選挙に出馬、小畑勇二郎を破る。以後1期4年にわたり秋田県知事を務めた。在任中の1954年(昭和29年)、秋田県出身の衆議院議員石田博英同席のもと、当時の首相吉田茂と会談し、八郎潟干拓事業の早期着工を要請している。知事退職後は、秋島建設会長、全建興業社長などを務める。
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金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891… 金栗 四三(かなくり しそう〈読みについては後述〉、1891年〈明治24年〉8月20日 - 1983年〈昭和58年〉11月13日)は、日本のマラソン選手、学校教員。位階は従五位。 青壮年期にオリンピックのマラソン競走に日本代表選手として参加した。また裏方としても各マラソン大会や東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力したり、日本に高地トレーニングを導入したりするなど、日本マラソン界の発展に大きく寄与したことから「日本マラソンの父」と称される。 名前の読みは文献により「かなぐり」「かなくり」、「しそう」「しぞう」と一致しない。これについて熊本県和水町社会教育課では「どれが正しく、どれが正しくないとは言えない。
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堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月2… 堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月20日 - 1973年(昭和48年)6月2日)は、大正から昭和期の宗教家、教育者、政治家。天理大学学長、参議院議員(1期)。旧姓は村田。 奈良県添下郡郡山町(生駒郡郡山町を経て現大和郡山市)で村田忠三郎の三男として生まれ、堀越幸の養子となる。1917年(大正6年)東京帝国大学文科大学心理学科を卒業した。 1917年、天理中学校(現天理高等学校)教頭に就任。以後、天理外国語学校教授、天理教信徒部長、同文教部長、天理教総務、天理教いちれつ会理事長、天理大学理事長、天理短期大学学長、天理大学学長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
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庭田 重行(にわた しげつら、1891年8月15日 - 19… 庭田 重行(にわた しげつら、1891年8月15日 - 1952年9月28日)は、明治時代から昭和時代の華族(伯爵)で、陸軍軍人や宮内省職員を務めた。位階および勲等は従三位・勲四等。 庭田重直伯爵と母長子(綾小路有良子爵の長女、1868年(明治元年)1月生)の長男として1891年(明治24年)に生まれる。1898年に家督を相続し、襲爵する。学習院高等科を経て慶應義塾大学を卒業。のちに陸軍に入り、陸軍歩兵少尉に進んだ。1915年から歌会始講師となり、1924年に掌典に任ぜられた。
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小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月1… 小林 次郎(こばやし じろう、1891年(明治24年)8月13日 - 1967年(昭和42年)7月2日)は、日本の内務官僚。位階は正三位。貴族院書記官長、貴族院勅選議員、参議院事務総長。 1891年長野県上水内郡高岡村(現飯綱町)に小学校教員の父小林頼利、母ときの次男として生まれる。当時小林家は家屋の一部を高岡村役場庁舎として貸していたので、次郎は「村役場に生まれた子」であった。また次郎が高岡尋常小学校(飯綱町立牟礼小学校)に通っていた9歳の時、父頼利が校長に着任したため「村の校長先生の子」ともなった。城山尋常高等小学校(長野市立城山小学校)から旧制長野中学校(長野県長野高等学校)へ進学。一年先輩には青木一男(大蔵大臣)、一年後輩には栗林忠道(陸軍大将)がいた。
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眞鍋 武雄(まなべ たけお、1891年8月12日 - 196… 眞鍋 武雄(まなべ たけお、1891年8月12日 - 1963年2月21日)は、日本の発明家。 神奈川県横浜市出身。明石嘉四郎の次男として生まれ、母方の叔父・眞鍋慎太郎の養子となる。1914年(大正3年)に東京高等工業学校機械科を卒業した。1929年(昭和4年)よりコンクリート機械の研究に従事し、1931年(昭和6年)に日本建機株式会社を創立した。 1933年に全国発明表彰進歩賞を受賞し、1938年には恩賜記念賞及び大賞を受賞した。1955年、紫綬褒章を受章。
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岡田 要(おかだ よう、1891年8月11日 - 1973年… 岡田 要(おかだ よう、1891年8月11日 - 1973年12月26日)は、日本の動物学者。理学博士(京都帝国大学・論文博士・1929年)(学位論文「La regeneration chez les Coelenteres(腔腸動物に於ける再生の研究)」)。東京帝国大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。 兵庫県相生生まれ。旧制八高を経て1918年(大正7年)東京帝国大学理科大学動物学科卒。三崎臨海実験所勤務の後、1924年(大正13年)から6年間ヨーロッパ留学。帰国後、1929年(昭和4年)京都帝国大学理学部動物学科教授、同年理学博士(京都帝国大学(学位論文「La regeneration chez les Coelenteres(腔腸動物に於ける再生の研究)」)。
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田辺 忠男(たなべ ただお、1891年8月11日 - 196… 田辺 忠男(たなべ ただお、1891年8月11日 - 1967年3月20日)は、大正から昭和時代の日本の経済学者、教育者。東京帝国大学経済学部教授、立教大学教授・経済学部長を務めたほか、高崎経済大学初代学長を始め、大分大学、東京農業大学、青山学院大学、国士舘大学で教授を歴任した。 1891年(明治24年)、田辺男外鉄(海軍軍人、神奈川県横須賀市長)の長男として生まれる。 暁星中学校 (旧制)、第一高等学校 (旧制)英法科をへて1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学経済学科卒業後、三井合名会社、横浜護謨をへて1920年(大正9年)に専修大学講師(のち教授)。その後、立教大学教授に就任。 1927年(昭和2年)東京帝国大学経済学部助教授を兼務する。
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大ノ高 純市(おおのたか じゅんいち、1891年8月10日 … 大ノ高 純市(おおのたか じゅんいち、1891年8月10日 - 1948年4月30日)は、青森県南津軽郡藤崎町出身で高砂部屋、振分部屋に所属した力士。本名は中村 佐助。168cm、88kg。最高位は西前頭10枚目。 郷里の先輩浪ノ音健藏を頼って入門し、浪ノ音が振分部屋するとその傘下に入った。1911年6月場所に初土俵、1916年5月場所十両昇進。1917年5月場所新入幕。右四つから押して食い下がるのを得意とした。幕内に都合7場所在位したが、体力不足のため勝ち越すことが出来ず、1921年1月場所で十両に陥落し、その後も不振が続いた。1921年5月場所のみ岩木山と改名。四股名を大ノ高に戻した1922年1月場所5戦全敗となったのを最後に廃業した。
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木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8… 木下 源吾(きのした げんご、1891年〈明治24年〉8月8日 - 1965年〈昭和40年〉11月26日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。 北海道出身。明治大学専門部中退。第7師団の御用商人としてシベリアに渡り、後に新聞記者となる。1925年、政治研究会旭川支部の結成に参加。1926年、旭川市会議員。労働農民党、社会大衆党の中央委員を経て、1945年、日本社会党初代北海道委員長に就任。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙で北海道選挙区から出馬して当選(任期3年)し、1950年の参院選でも再選されたが、1956年の参院選では社会党の公認争いから社会党道本部から除名処分を受けながら再選を目指すも落選に終わった。
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横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 -… 横屋 猷(よこや ゆう、1891年(明治24年)8月5日 - 1969年(昭和44年))は、日本の水産学者である。甲殻類の分野で大きな成果あげ、有名なボタンエビを発見した人物として知られている。長崎大学水産学部教授を務めた。長兄は、日本競馬会常務理事の横屋潤。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族である横屋善次の三男として生れる。猷の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった。兄である長男横屋潤は日本競馬会(現:日本中央競馬会)の設立と常務理事を務め、次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
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藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)… 藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)8月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員、医学博士。 兵庫県姫路市出身。1913年(大正2年)岡山医学専門学校を卒業。1915年(大正4年)耳鼻咽喉科医院を開業する。その後、ベルン大学を卒業して医学博士となる。 姫路市本町に藤森病院を開業し院長に就任、藤森医療財団理事長となる。また兵庫県医師会姫路市支部長、姫路市公職適否審査委員などを務め、姫路市議会議員にも選出された。ほか日本医療法人協会理事長、日本耳鼻咽喉科学会評議員、日本気管食道科学会顧問、社会保障制度審議会委員を歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
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清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日… 清水 良雄(しみず よしお、1891年(明治24年)8月4日 - 1954年(昭和29年)1月29日)は、洋画家、童画家。 東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業、同級生で友人に日本美術研究家の丸尾彰三郎がいた。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会(現在の日展)に入選。 大正の初め頃から挿絵を描く。鈴木三重吉が1918年(大正7年)7月に創刊した童話雑誌『赤い鳥』の挿絵を創刊号から描いた。特に表紙の絵は全196冊のうち163冊を描き、同誌のイメージを視覚的に広めるという大きな役割を果たした。 この他、児童雑誌『コドモノクニ』でも多くの作品を見ることができる。
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藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 194… 藤森 静雄(ふじもり しずお、1891年8月1日 - 1943年5月28日)は、日本の版画家。 福岡県久留米市生まれ。白馬会原町洋画研究所に入り、東京美術学校予備科西洋画科志望に入学後、1914年に田中恭吉や恩地孝四郎とともに版画誌『月映』を刊行した。東京美術学校をその2年後に卒業し、福岡で中学校の教師を務めた。1922年に『詩と版画』の同人となり、1937年から日本版画協会の常任理事・事務を担当した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
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渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治… 渡辺 泰邦(渡邊 泰邦、わたなべ やすくに、1891年(明治24年)8月1日 - 1949年(昭和24年)10月5日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧名・長一郎。 北海道函館区船見町(現函館市)で渡辺長蔵の長男として生まれる。早稲田実業学校を経て、早稲田大学政治経済科専門部で学んだ。 その後、函館新聞記者となる。1914年、家督を相続し「泰邦」と改名。函館区会議員、函館市会議員を務める。政治家としての見識を広げるため、1923年から1928年まで、中国、蒙古、インドを経てヨーロッパ、アメリカ合衆国を視察した。 1930年、函館市で興民会を組織し、機関誌『興民』を発刊した。同年2月、第17回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬して当選し、立憲民政党に所属。
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大谷 五花村(おおや ごかそん、明治24年(1891年)7月… 大谷 五花村(おおや ごかそん、明治24年(1891年)7月27日 - 昭和33年(1958年)4月26日)は、政治家、作家。本名・五平(ごへい)。 1891年(明治24年)、福島県五箇村(現白河市借宿)に生まれる。幼名を五一郎といった。 五箇尋常高等小学校(現五箇小学校)、福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)に学び、久米正雄とクラスメートになり、深い親交を結んだ。この頃より短詩型文芸に興味を持ち、川柳や里謡等を作り始め新聞や雑誌に投稿するようになった。 1912年(明治45年)4月、明治大学に進学。在学中に川柳復興運動の先頭に立って活躍した井上剣花坊について川柳を学ぶ。「大正川柳」発行の際には会員になり、後に同人となり活躍した。
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千金良 宗三郎(ちぎら そうざぶろう、1891年7月27日 … 千金良 宗三郎(ちぎら そうざぶろう、1891年7月27日 - 1985年5月19日)は、昭和期の銀行家。三菱銀行頭取、東京銀行頭取、千代田銀行頭取、全国銀行協会連合会会長(2期)、日本銀行政策委員等を歴任。
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長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉… 長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉7月27日 - 1961年〈昭和36年〉1月10日)は、日本の実業家。三菱化工機社長。 鳥取県鳥取市出身。呉服太物商・長田幾蔵の長男。1915年、神戸高等商業学校を卒業。三菱合資に入社、三菱重工業に配属され長崎支店をふり出しに、本店営業第五部長、機械部長、三原車輛製作所長等を歴任して1946年12月に取締役に選任される。 1950年中日本重工業の取締役に転じて活躍中、偶々三菱化工機が潰れかかったので同社の再建に起用され、1952年1月同社に顧問で入り、翌2月社長に就任する。 1961年1月10日、突然脳出血を起こして東京都世田谷区上馬1丁目の自宅で逝去する。
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宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日… 宇野 浩二(うの こうじ、1891年〈明治24年〉7月26日 - 1961年〈昭和36年〉9月21日)は、日本の小説家。本名は格次郎。父は六三郎、母はキョウ。7歳年長の兄・崎太郎は幼時に脳膜炎にかかり知的障害があった。日本芸術院会員。 福岡県福岡市南湊町(現在の福岡市中央区荒戸一丁目)に生まれる。早稲田大学英文科中退。『蔵の中』『苦の世界』など、おかしみと哀感のある作品を独自の説語体で発表し、文壇に認められた。その後『山恋ひ』『子を貸し屋』などで作風の幅を広げた。一時精神に変調をきたすが、復活後は冷厳に現実を見つめる簡素で写実的な作風に転じ、『枯木のある風景』『器用貧乏』『思ひ川』などを発表。他に松川事件の被告を弁護した『世にも不思議な物語』などがある。
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富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月… 富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月24日 - 没年不明)は、日本の工学博士、技師。染料界の権威である。 東京府・富岡保の二男。医学博士・富岡有象の弟。1909年、東京府立第四中学校を卒業。1912年、第一高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。東京瓦斯技師に就任。 1918年、臨時産業調査局技師兼農務局技師に転じ、1922年、欧米各国に留学を命ぜられる。1925年、商工技師に任じ、東北帝国大学工学部、東京工業大学及び東京工業試験所等に勤務する。 1930年、工学博士の学位を授与される。染料製造奨励に関する事務に従事する。1933年、官を辞し三菱鉱業に入り参事となる。
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宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24… 宇敷 赳夫(うしき たけお、1891年(明治24年)7月24日 - 没年不明)は兵庫県出身の土木技術者。台湾総督府の技師として、日本統治時代の台湾で様々な公共建築物を手がけた。 明治24年に姫路市で出生、本籍地は同県神戸市上筒井通。兵庫県立第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を経て、その後の経歴は以下のとおり。 総督府の技師として以外にも当時の民間組織『台湾建築會』で井手薫などとともに常議員を務めていた。 関東大震災(1923年)や新竹台中地震(1935年)を経た耐震強化など、当時の設計思想の変化を盛り込んだ簡素な設計を多く採用している。多くの建築物が木造建築から鉄筋コンクリートで再建される課程で宇敷が担当した物件は以下の通り。
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河野 節夫(こうの せつお、1890年(明治23年)8月21… 河野 節夫(こうの せつお、1890年(明治23年)8月21日 - 1940年(昭和15年)1月3日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県沼隈郡田島村(現在の福山市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。朝鮮総督府試補、事務官、忠清北道第一部地方課長・審査課長、警察官教習所教授、江原道警察部長、全羅北道警察部長、慶尚北道警察部長、臨時国勢調査課長、黄海道内務部長、平安南道内務部長を歴任した。 退官後、朝鮮金融組合理事・事業部長、朝鮮石炭組合聯合会理事長を務めた。 1940年(昭和15年)1月3日、病気療養中に死去、49歳。
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三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19… 三浦幸平(みうら こうへい、1890年(明治23年)8月19日 – 1975年(昭和50年)6月7日)は、日本の教育者。教育功労者。従四位旭日中綬賞。妻は山田橋衛の長女愛子。 東京物理学校(現・東京理科大学)理化学科を首席で卒業。愛知県立第一中学校(現旭丘高校)の嘱託教員、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の助教授を経て、1938年に工業技術教育を実現するため名古屋第一工学校を創立。1945年に名古屋大空襲により名古屋第一工学校が全焼。1950年愛知常磐女子高等学校と合併し常磐高等学校を設立し校長兼財団法人常磐学園理事長となる。1951年に学校法人三浦学園に名称変更。1964年に中部工業大学(現中部大学)を設立し学長に就任。
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富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日… 富井 周(とみい しゅう、1890年(明治23年)8月17日 - 1959年(昭和34年)1月23日)は、日本の外交官。駐カナダ公使、駐アルゼンチン大使。男爵。
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鷹野 つぎ(たかの つぎ、女性、1890年(明治23年)8月… 鷹野 つぎ(たかの つぎ、女性、1890年(明治23年)8月15日 - 1943年(昭和18年)3月19日)は、大正・昭和時代の小説家。本名は次(読み同じ)、旧姓は岸。 1890年(明治23年)8月15日、静岡県浜名郡浜松町下垂19番地(現・浜松市中央区尾張町)にて、父・岸彌助と母・なをの間に、次女として生れる。家は燈油などを売る、中流の商家であった。長兄の信太郎、次兄の梅三郎、姉の重がおり、後に三女の留子、四女のたか、五女の艶子が生れた。祖父は有徳と号して俳句や歌を嗜み、祖母は浜松藩の殿中で姫に仕えていた人物であった。 1897年(明治30年)、浜松町立尋常高等小学校に入学。つぎは幼い時から手帳へ鉛筆で絵を描くことが好きで、小学校へ上ってからは、短い作文の下書きを幾通りも書いていたが、「そのうちに先生には見せないで、虫のことや雨ふりのことや、おつかひに行くのがいやな日のことを、書いてみたりするやうになつた」という。
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大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1… 大屋 霊城(おおや れいじょう、1890年8月15日 - 1934年6月10日)は、日本の造園家・都市計画家。都市における公園および緑地の計画に多くたずさわったほか、大阪・藤井寺の宅地開発、都市生活の研究、児童の遊び場および公園遊具の研究でも知られる。 1890年(明治23年)福岡県柳川市出身。養福寺住職の三男として生まれる。長兄は、仏教学の分野で旧仏教、新仏教の呼称を定着させた大谷大学の仏教学者大屋徳城。1909年(明治42年)に第五高等学校 (旧制)に進学、農学を志す。1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学農学科卒業、明治神宮造営局に奉職。同年、大阪府史蹟名勝天然記念物調査委員。 1917年(大正6年)、大阪府立農学校(旧大阪府立大学生命環境科学域・大学院生命環境科学研究科、現大阪公立大学農学部・大学院農学研究科)の教諭に赴任する。
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林 五一(はやし ごいち、1890年8月15日 - 1992… 林 五一(はやし ごいち、1890年8月15日 - 1992年3月7日)は、日本の篤農家、実業家。「五一わいん」で知られる林農園創業者。長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)生まれ。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
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江原 万里(江原 萬里 えばら ばんり、1890年(明治23… 江原 万里(江原 萬里 えばら ばんり、1890年(明治23年)8月14日 - 1933年(昭和8年)8月7日)は、東京帝国大学教授、新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生で無教会伝道者であった。 岡山県北部の津山に生まれる。父は津山藩士、母方の祖父は赤穂藩士であった。 第一高等学校に在学中、無教会派の伝道者でもあった内村鑑三の講義を聞き、キリスト教に入信する。東京帝国大学政治学科に在学中に、内村鑑三の弟子らによる集まりである柏会に参加する。帝大卒業後1915年(大正4年)に、住友総本店に入社する。1918年(大正7年)に、柏会での友人黒崎幸吉(聖書学者)の妹・黒崎祝と結婚する。 1921年(大正10年)に住友を退職して、東京帝国大学経済学部教授になる。
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山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)8月14日… 山田 清(やまだ きよし、1890年(明治23年)8月14日 - 1942年(昭和17年)12月28日)は、日本の政治家、医師。衆議院議員(立憲民政党)を務めた。 千葉県市原郡高滝村(現在の市原市)出身。1915年(大正4年)、東京慈恵会医院医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)を卒業し、山田病院を開業した。東京市会議員、同参事会員、東京府会議員を歴任した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、日本医師会顧問、東京タクシー運送事業組合顧問、全国自動車業連合会長を務めた。
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岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。
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加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日… 加藤 きん(かとう きん、1890年〈明治23年〉8月12日 - 1980年〈昭和55年〉1月12日)は、日本の看護師。 宮城県登米郡佐沼町(現・登米市)に生まれる。1911年(明治44年)に日本赤十字社宮城県支部救護看護婦養成所に入学。1914年(大正3年)に卒業して、日本赤十字社中央病院の看護師(当時は「看護婦」)となる。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)から1年間、遣仏救護班看護婦としてフランス赤十字社に派遣され、救護活動に従事し、その後はシベリア出兵の際にも傷病者の看護に当たった。 日中戦争中は、看護婦長として赤十字病院船に乗り込み、中国の上海・南京・九江などに合わせて10回派遣された。
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加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9… 加々美 武夫(かがみ たけお、明治23年(1890年)8月9日 - 昭和11年(1936年)9月18日)は、日本の官吏および政治家である。第8代大阪市長。従五位。
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務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974… 務台 理作(むたい りさく、1890年8月8日 - 1974年7月5日)は、日本の哲学者。東京教育大学名誉教授。位階は従三位。 台北帝国大学教授、東京文理科大学(後の東京教育大学)教授、同大学長。学長と桐朋学園理事長・校長を兼務、その後慶應義塾大学教授などを歴任。 京都帝国大学在学中に西田幾多郎に師事し、留学中にはフッサールからも哲学を学んだ。西田門下ではあるが、京都学派とも西田左派とも一線を画し、独自のヒューマニズム哲学を展開する。一方、京都大学教授・上原麻有子が代表を務めるサイト「京都学派アーカイブ」では、「西田・田辺に学びながら独自の思想を育み、時には師に影響を与えることもあった」ことから、務台は京都学派の一員として紹介されている。
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3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、… 3代 澁澤 金蔵(さんだい しぶさわ きんぞう、前名・直一、1890年〈明治23年〉8月8日 - 1949年〈昭和24年〉9月11日)は、日本の実業家、政治家、群馬県多額納税者。貴族院議員。群馬県新田郡太田町会議員。従五位勲二等。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。 1926年、家督を相続し前名・直一から名を改め、三代目澁澤金蔵を襲名した。太田町会議員となる。 1937年、鉄道大臣秘書官に任ぜられた。金融業を営み、金山図書館長、太田織布、新田銀行、上毛実業銀行、群馬中央銀行、太田建物、同電気館、同合同運送等諸会社重役であった。また富士産業取締役を務めた。
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清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年… 清沢 俊英(清澤、きよさわ としえい、1890年(明治23年)8月7日 - 1980年(昭和55年)10月16日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 新潟県古志郡長岡町渡里町(現長岡市)で浄土真宗大谷派妙宗寺に生まれた。1908年(明治41年)長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)を卒業した。 1928年(昭和3年)長岡労働向上会を組織し日本労農党新潟県連合会常任執行委員に就任。日本労農党、日本大衆党、社会大衆党、全国農民組合、日本農民組合などの中央委員を務めた。1936年(昭和11年)三宅正一に次いで無産政党員として長岡市会議員に当選。その他、全国労働組合新潟県委員長、日本漁民組合中央委員も務めた。
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川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
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立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治… 立田 清辰(たつた きよとき / きよたつ、1890年(明治23年)8月7日 - 1942年(昭和17年)7月28日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岐阜県吉城郡出身。第七高等学校造士館を卒業。1916年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、逓信省に入省。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に転じ鳥取県属となる。 1919年、香川県警察部刑務課長に就任。以後、神奈川県警視、内務事務官、徳島県書記官・警察部長、茨城県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長などを歴任。1929年、朝鮮総督府に転じ同事務官・警務局図書課長、同保安課長を務める。1933年、山梨県内務部長に転じ、1935年1月、宮城県書記官・総務部長に就任。
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松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治… 松平 外与麿(外與麿、まつだいら とよまろ、1890年(明治23年)8月7日 - 1959年(昭和34年)12月17日)は、大正から昭和期の内務官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・松平正存の長男として生まれる。祖父松平正直の死去に伴い、1915年(大正4年)5月21日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、1915年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。同年、内務省に入省し岐阜県属となる。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格した。埼玉県警視、栃木県理事官、京都府理事官、同府地方事務官、滋賀県書記官、宮崎県書記官、鳥取県書記官、埼玉県書記官・学務部長などを務め、1932年(昭和7年)に退官した。
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佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日… 佐近 益栄(さこん ますえ、明治23年(1890年)8月7日 - 昭和5年(1930年)12月14日)は日本の小説家。ペンネームは江外(こうがい)。旧姓は江村、大田。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の茶屋・江村家に生まれ、幼くして母を亡くし福定村の大田家に引き取られて成長する。1912年、佐近たみよと結婚して「佐近」姓となる。1913年に鳥取師範学校(現・鳥取大学)を卒業し境小学校、中浜小学校の教師となる。1919年、「大阪朝日新聞」の懸賞小説に応募、選外佳作となる。1920年には報知新聞社学芸部に入社し、名記者として知られ文化部長に昇進する。1930年10月、『文学時代』の「新鋭作家総出勤号」に川端康成、平林たい子、井伏鱒二、高見順ら四十六人の一人として名を連ね第一線作家としての地位を得たが、急性肺炎のため40歳で死去した。
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髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年… 髙島 野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年(明治23年)8月6日 - 1975年(昭和50年)9月17日)は、大正 - 昭和時代の画家。本名は彌壽(やじゅ)、字は光雄。 東京帝国大学水産学科を首席卒業した後に独学で絵の道に入り、画壇との付き合いを避け、独身を貫いた。透徹した精神性でひたすら写実を追求し、隠者のような孤高の人生を送った。生前はほぼ無名だったが、1986年に福岡県立美術館で初の回顧展が開かれ、再評価が進んだ。 福岡県御井郡合川村足穂(現・久留米市合川町)の醸造家である髙島善蔵・カツの六男二女の五男として生まれた。足穂尋常小学校、御井高等小学校を経て県立明善中学(27期生)に進む。
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和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 … 和田 小六(わだ ころく、1890年(明治23年)8月5日 - 1952年(昭和27年)6月11日)は、日本の工学者。長距離飛行の世界記録を打ち立てた航研機の開発など、東京帝国大学航空研究所長として日本の航空工学の発展に貢献した。東京工業大学学長、東京帝国大学教授、千葉工業大学3代目顧問などを務めた。 父は木戸孝正で、木戸孝允は義理の祖父に当たる。妻は吉川重吉の娘で、獅子文六の妻の妹。長女・正子の夫は都留重人、次女・綾子の夫は新日本電気会長肥後一郎。長男・和田昭允は東京大学名誉教授で東京大学理学部長、日本学術会議第4部長、理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長を務めた。 1890年(明治23年)8月5日、木戸孝正・壽栄子夫妻の次男として東京府で生まれた。
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松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 194… 松尾 孝之(まつお たかゆき、1890年8月5日 - 1946年5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。室蘭市長。 北海道出身。1917年日本大学法律科卒。内務省警保局に勤め、夕張警察署長を最後に1928年退官。同年夕張町長に就任した。1932年の第18回衆議院議員総選挙で無所属で立候補して当選。当選後は立憲政友会に入った。その後2回立候補して落選、1937年の第20回衆議院議員総選挙後に繰り上げ当選した。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して落選した。 戦後の1945年11月24日、室蘭市長に就任したが、病のため1946年5月25日に死去した。
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