恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1… 恩田 経介(おんだ きょうすけ、1888年4月10日 - 1972年4月18日)は、日本の植物学者。旧姓は小山。 長野県北佐久郡大井村(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に通い、島崎藤村から国語を学ぶ。1906年(明治39年)、恩田重信の養子となる。第一高等学校を経て1916年東京帝国大学理学部植物学科卒業、同大学院中途退学。在学中は三好学の指導を受けた。水産講習所(現・東京海洋大学)非常勤講師を経て、1923年(大正12年)明治薬学専門学校教授となり、第一高等学校講師を経て明治薬科大学の初代学長となる。牧野富太郎に師事し、木本植物を研究した。
堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日… 堺 武志(さかい たけし、1888年(明治21年)4月10日 - 1955年(昭和30年)3月1日)は、日本の医師。政治家。宮城県石巻市長。旧姓白坂。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)の白坂家に生まれる。仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入り、在学中に堺家の養子となる。卒業後は牡鹿病院の内科長に就任し、その後石巻市で医院を開業した。戦時中は警防団副団長、防空委員を務めた。 終戦後の1946年(昭和21年)3月石巻市長の岩崎孫八が公職追放の対象となるため市長を辞職。後継の市長をこれまで通り市会で推薦することも検討されたが、新しい時代を迎えて一部の市民が首長の公選制を検討していたことから「公選によって市長を選ぼう」という機運が高まり、市内で市民大会が開催された。
藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日… 藤ノ川 雷五郎(ふじのかわ らいごろう、1888年4月10日 - 1966年2月22日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は飯田 繁治。14代春日山。174cm、94kg。最高位は西関脇。 1908年1月初土俵、1913年5月十両昇進。1917年5月入幕し、前頭2枚目で迎えた1919年春場所において横綱栃木山に勝利、生涯唯一の金星を獲得した。この場所は5勝5敗の成績だったが、同年5月に関脇昇進。しかし10戦全敗に終わってこの関脇が現役唯一の三役経験となり、以降は三役に戻る事無く前頭の上位と下位を往来している。 1925年1月に引退し14代春日山を襲名。しかしこの頃辺りから伊勢ノ海一門の勢いに翳りが見られ、1946年に伊勢ノ海一門が消滅すると14代春日山は同年11月に部屋を閉じて弟子を全て立浪部屋に譲渡移籍。
亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 19… 道面 豊信(どうめん とよのぶ、1888年4月9日 - 1981年3月8日)は、日本の実業家。元味の素社長。広島県広島市仁保島本浦(現南区本浦)出身。 広島商業卒業後渡米。オハイオ北部大学、コロンビア両大学で学ぶ。サンミット神崎商店支配人を経て、1918年、味の素の前身・鈴木商店に入社。1935年、同店の外国課長で帰国するまで米国に在勤し、製品の米国市場売り込み、及び原料買い付けなどに手腕を発揮した。1940年取締役、その後1945年、終戦直後の常務時代には、GHQの要請でDDTの製造に協力、これが同社戦後再建の原動力となった。1947年専務を経て1950年、戦後初めて同族以外から同社4代目社長に就任。
早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> … 早川 三郎(はやかわ さぶろう、1888年 <明治21年> 4月8日 - 1973年 <昭和48年> 4月19日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、警視総監。位階は正四位。 神奈川県出身。地主・早川耕造の三男として生まれる。東京府立三中、第六高等学校を経て、1915年5月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年8月、内務省に入り宮崎県属となる。 1916年9月、宮崎県警視を兼務。以後、宮崎県東諸県郡長、同県理事官、埼玉県理事官、同県地方課長、同県視学官、香川県書記官・警察部長、岡山県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長などを歴任。
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月… 高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日 - 1951年(昭和26年)9月24日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。 秋田県出身。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した。 1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる。
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8… 若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県薩摩郡、のちの下東郷村(川内市を経て現薩摩川内市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、福知山連隊区司令官に就任し、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ、日中戦争に出動、汾陽に駐屯し、治安警備に当たった。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された。
安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)… 安達 東三郎(あだち とうさぶろう、1888年(明治21年)4月7日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。 試験飛行中に搭乗機が墜落し他の乗員二人とともに殉職したが、安達らの殉職は海軍搭乗員の日本国内における殉職としては最初の事例となった。最終階級は海軍大尉。 医師安達玄杏の五男として現在の愛媛県内子町に生まれる。松山中学を経て海軍兵学校36期に進んだ。36期の入校試験は2649名の志願者に対し正規合格者は192名(他に補欠合格者8名)で、安達の席次は200名中39番、卒業時は191名中67番であった。1910年(明治43年)1月、少尉任官。 前年の8月には臨時軍用気球研究会が発足し、空の軍事利用について研究が始まった。
市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月… 市川 厚一(いちかわ こういち、1888年(明治21年)4月6日 - 1948年(昭和23年)9月4日)は、日本の獣医学者で獣医病理学専攻。北海道帝国大学教授。茨城県桜川市東飯田出身。山極勝三郎と共に世界初の人工癌発生に成功する。 雨引村立雨引尋常小学校、東京府立一中を経て、1913年、東北帝国大学農科大学(のちの北海道帝国大学)卒業。卒業後、東北帝国大学の大学院に進み、東京帝国大学医学部教授・山極勝三郎の研究室の特別研究生となり、山極と共に世界初の人工癌発生に挑戦。1915年、人工癌(皮膚癌)発生に成功(兎の耳にコールタールを塗擦(塗布ではない)した実験)。当時の癌発生原因の「刺激説」「素因説」の二説のうち、前者の「刺激説」の有力な根拠となった。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 197… 秋山 光夫(あきやま てるお、1888年4月3日 - 1977年1月16日)は、日本の美術史学者。金沢美術工芸大学名誉教授。専門は日本近世絵画史。 1888年、静岡県田方郡で三島大社宮司・秋山光條の子として生まれた。京都府立第一中学校、第六高等学校を経て、京都帝国大学法科大学に入学。しかし芸術への関心を断つことができず、同文科大学哲学科に転じ、美学美術史学を専攻した。1913年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院在学中より京都絵画専門学校などで美術史を講じた。1918年、図書頭兼帝室博物館総長・森鴎外の推挙により宮内省図書寮に奉職。1924年に宮内省御物管理委員、1926年に帝室博物館監査官となった。
草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968… 草間 良男(くさま よしお、1888年4月3日 - 1968年2月18日)は、日本の医学者。 長野県松本市に生まれる。1905年に渡米、1916年スタンフォード大学理学部、1920年同医学部を卒業し帰国。その間シカゴ大学で生理学、病理学を研究する。1921年慶應義塾大学衛生学教室に入り、1927年に助教授に就任。再渡米し、ロックフェラー財団奨学生としてジョンズ・ホプキンズ大学公衆衛生学課程修了。1929年に帰国し、1930年慶應義塾大学教授に就任。第二次世界大戦後GHQに協力して、インターン制度の導入等、医療制度・医学教育の改革に尽力した。1940年慶應義塾大学医学部予防歯科学研究所所長、1955年から1959年まで同大医学部長に就任。
山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 19… 山下 寿郎(やました としろう、1888年4月2日 - 1983年2月2日)は、日本の建築家。昭和時代にかけて活躍。山形県米沢市出身。昭和の初めに事務所を設立して以米、幾多の建物設計のなかで霞ヶ関ビルやNHK放送センター等が代表的な作品である。その一方で建築施工に関する研究も続け、28年にわたり東京大学の講師として後進の指導にあたった。 幼少期は教育者であった父、新力から、米沢士族の子弟として、誇高く厳格な家庭教育を受けて成人した。叔父に当る山下源太郎海軍大将に深く私淑し、一生人生の師範として敬った[要出典]。上京の後、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に学び、1912年に卒業。
立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - … 立汐 祐治郎(たてしお すけじろう、1888年4月2日 - 1972年11月7日)は、青森県西津軽郡木造町(現つがる市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は長谷川 祐治郎。身長170cm、体重86kg。最高位は西前頭13枚目。立汐唯五郎は実弟。 浪ノ音健藏に見出され入門。1906年5月に初土俵を踏み、1910年6月十両昇進した。1911年10月、岐阜県内での巡業中に八甲山純司が締めていた化粧廻しを見て「そんな化粧廻しはみっともないぜ」と言ったのに対し、八甲山は「お前に言われる筋合いはない」と反論されたのに腹を立て、取組で土俵に上がった八甲山に剃刀を手にした立汐は土俵に乱入してその場で八甲山のマゲをつかんで切り落とし、さらに右腕に長さ10cmの切り傷を負わせるトラブルを起こした。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1… 小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・合屋。 大分県速見郡日出村(現日出町)で、合屋家次の二男として生まれ、弁護士・小河源一の養子となる。1911年(明治44年)明治大学法律科卒。司法官試補となり、弁護士の業務に従事する。山口地方裁判所所属弁護士会会長、山口県議となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1934年(昭和9年)の山口2区の補欠選挙で民政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1936年(昭和11年)第19回総選挙で落選した。
江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日… 江口 章子(えぐち あやこ、1888年(明治21年)4月1日 - 1946年(昭和21年)12月29日)は、歌人、詩人。北原白秋の2番目の妻。 大分県西国東郡香々地町(現豊後高田市)に旧家江口家の三女として生まれる。1901年(明治34年)、大分県大分郡大分町(現大分市)の大分県立大分高等女学校で学ぶ。 1906年(明治39年)に弁護士と結婚して大分町に在住する。しかし、1915年(大正4年)に離婚すると平塚雷鳥を頼って上京。1916年(大正5年)に千葉県南葛飾郡小岩村の借家で白秋と同棲を始める。1918年(大正7年)には白秋と入籍するも、1920年(大正9年)に離婚。 離婚後は大分に戻り、別府市の伊藤家別荘に逗留していた柳原白蓮を訪ねて身を寄せた後、西国巡礼に向かい、その帰途に大分市松岡の浄雲寺や木上の少林寺を訪れた。
半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31… 半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31日 - 1982年(昭和57年)9月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選府県知事、北海道庁長官、横浜市長。岡山県真庭市出身。位階は従三位。 岡山県真庭郡落合町(現:真庭市)出身。1888年(明治21年)衆議院議員・福井三郎の長男として生まれるが半井家を継いだ。第一高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、大阪府属となり内務部地方課に配属。その後、大阪府理事官、大阪府視学官、石川県理事官などを歴任。 1919年10月、朝鮮総督府に転じ学務局宗教課長に就任。
乾 利一(いぬい りいち、1888年〈明治21年〉3月30日… 乾 利一(いぬい りいち、1888年〈明治21年〉3月30日 - 没年不明)は、日本の官吏、会社役員。 大阪府中河内郡南高安村(現・八尾市)の人・乾亀松の長男。1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入る。岡山県属兼警視。岡山県和気郡長となる。北海道庁、奈良、鹿児島各県理事官、沖縄県書記官、復興局事務官を経て1936年、退官する。 中国合同電気に入り、取締役総務部長として経営の第一線に立つ。山陽中央水電、山陽商事各取締役、新見電気、久米水力電気、羽東川電気、鳥取電燈、作陽水力電気、姫路電球各監査役などをつとめる。 1925年、家督を相続する。趣味は東洋倫理、東洋古典、俳句。宗教は仏教、融通念仏宗。
岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月… 岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡兵庫村(現佐賀市)出身。最終階級は陸軍中将。 1888年生まれ。佐賀中学校から陸軍士官学校(陸士23期)に進み卒業後歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第6守備隊長(大佐)から少将に昇進し歩兵第29旅団長、第29歩兵団長、独立混成第17旅団長を歴任。1945年(昭和20年)3月中将に昇進し第63師団長として終戦を迎えた。 その後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。所謂中国抑留者で4人いた師団長の一人(ほかは第39師団長・佐々真之助中将、第59師団長・藤田茂中将、第117師団長・鈴木啓久中将)で、抑留中の1954年収容所にて病死。
伊藤 一郎(いとう いちろう、1888年(明治21年)3月2… 伊藤 一郎(いとう いちろう、1888年(明治21年)3月26日 - 1973年(昭和48年)2月28日)は、大正から昭和期の鉱山技師、政治家、華族。貴族院男爵議員。 伊藤恭四郎の二男として生まれる。祖父・伊藤圭介の養子となり、祖父の死去に伴い、1901年(明治34年)1月23日、家督を継承し、同年4月19日、男爵を襲爵した。 1913年(大正2年)7月、東京帝国大学工科大学冶金学科を卒業。同年、三菱合資会社に入社し生野鉱山技師に就任。以後、同社大阪製煉所技師、三菱鉱業(現三菱マテリアル)鉱業研究所長、堺化学工業専務取締役などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月… 冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月23日 - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍大将。 東京都出身。冨永政利陸軍中佐の息子として生まれる。早稲田中学、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業。 日中戦争勃発後には、第21師団の第21歩兵団長として徐州に駐屯し治安維持に当たる傍ら蘇北作戦などにも参戦。次いで1940年(昭和15年)12月から第27師団長として天津に駐屯。 1942年(昭和17年)12月に第19軍司令官に補されインドネシアのアンボンに赴任するが現地で発病、1943年(昭和18年)11月9日に亡くなる。死去に際しては祭資が、葬送に際しては勅使が派遣されて幣帛が下賜された。
山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月… 山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年(明治21年)3月22日 - 1962年(昭和37年)3月8日)は、日本の実業家で、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス)創業者。 産業用エンジンメーカー大手のヤンマー創業者。1888年(明治21年)滋賀県出身。尋常高等科卒業後、1903年(明治36年)3円60銭を手に持ち奉公に出、1905年(明治38年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。1906年(明治39年)独立し、1912年(明治45年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、1921年(大正10年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。
小井川 潤次郎(こいかわ じゅんじろう、1888年〈明治21… 小井川 潤次郎(こいかわ じゅんじろう、1888年〈明治21年〉3月21日 - 1974年〈昭和49年〉2月28日)は、日本の民俗学者、郷土史家。青森県八戸・十六日町生まれ。1928年、八戸郷土研究会を結成。翌年より地方紙『奥南新報』などで会員とともに次々と民俗レポートや論考を発表し、それらに注目した柳田國男や折口信夫、佐々木喜善らと交流した。1935年、「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)の創立に参加。1952年、日本民俗学会名誉会員。 「北奥民俗学の巨星」、「八戸史学の父」などと評されるが、その活動範囲は民間信仰「おしらさま」や郷土芸能「えんぶり」の研究から、伝統工芸「南部菱刺し」の復興活動および柳宗悦の協力を得ての全国への紹介、糠部郡三十三観音巡礼に関する古文書の発見と翻刻・出版、地元の種差海岸、根城、是川遺跡の研究による名勝・史跡指定への貢献など多岐にわたる。
小林 兵庫(こばやし ひょうご、1888年〈明治21年〉3月… 小林 兵庫(こばやし ひょうご、1888年〈明治21年〉3月21日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。東洋キネマ社長。同和火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)顧問。千代田区会議長。 東京都出身。中央大学法学部を卒業。1928年、東洋キネマ社長に就任。千代田区会議員に当選する。1951年、千代田区会議長に選ばれ、同和火災海上保険神田支部長を経て同社顧問。北神保町郵便局長、神田警察懇話会長、人権擁護委員などを兼務する。 宗教は神道。趣味は囲碁、剣道。本籍は静岡県。住所は東京都千代田区神田駿河台1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年… 北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。 1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。 1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。
中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(… 中野 栄三郎(なかの えいざぶろう、旧姓・茂木、1887年(明治20年)4月18日 - 1988年(昭和63年)7月9日)は、日本の実業家。野田醤油(現・キッコーマン)社長。小網商店無限責任社員。 千葉県東葛飾郡野田町(現・千葉県野田市)出身。茂木七郎右衛門の二男。茂木順三郎の弟。叔父・中野長兵衛の養子となった。1912年、慶應義塾大学部法律科卒業。1936年、養父退隠により家督を相続した。 野田醤油社長、同社常務取締役、柏屋商事、銚子醤油(現・ヒゲタ醤油)、満州野田醤油、野田運輸、総武鉄道各取締役、野田商誘銀行各監査役等をつとめた。 趣味は柔道。宗教は真言宗。住所は千葉県東葛飾郡野田町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日… 林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 千葉県海上郡椎柴村字塚本(現・銚子市塚本町)に生まれる。1907年(明治40年)6月、正則英語学校を卒業後に渡台し、嘉義庁庶務課勤務を振り出しに、台南州文書課秘書係長、台南州文書課長、台北州文書課長を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任した。ついで1939年(昭和14年)1月、台南州北港郡守に転じた。 この間、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)に掛けて樺太庁に出向し、長官官房秘書課および文書課にて勤務した。
庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日… 庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日 - 1960年(昭和35年)8月10日)は、日本の豪農、実業家、政治家。世人をして“庄司の殿様”といわしめた。女優の司葉子は姪にあたる。 鳥取県西伯郡渡村(現在の境港市渡町)に生まれる。父・昇造の死により8歳で豪農「本庄司家」を継ぎ、杉山永真(のちの郡会議長)を養育係として成長した。 山陰日日新聞社、米子銀行、米子博愛病院等の取締役、渡村村長(第5代)、同村会議員・学務委員。鳥取県多額納税者。大地主にも名を連ね、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門(元島根県知事)はいとこにあたる。 木下二介や門脇春翠に絵の修行をさせたり、私財を投じて山陰地方初の繭市場を開設する等、非凡にして識見高く、先見の明があって、事に臨んでは果断と実行の人だった。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年〈明治20年〉4月16日 - 1975年〈昭和50年〉4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。叔父に九州帝国大学(現・九州大学)元教授である君島武男がいる。 1887年4月16日、栃木県生まれ。栃木県塩谷郡塩原町(現・那須塩原市)の君島五郎の長男。君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営んでいる。 1905年3月、栃木中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)卒業。旧制第一高等学校へと進学する。第一高等学校では野球部に所属し、2年先輩であった中野武二の後継者として、1907年から1908年までの2年間二塁手を務めた。
君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月… 君島 一郎(きみじま いちろう、1887年(明治20年)4月16日 - 1975年(昭和50年)4月25日)は、日本の銀行家、野球研究者。元朝鮮銀行副総裁。
浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1… 浅田 長平(あさだ ちょうへい、1887年4月15日 - 1970年10月21日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長を務め、「神鋼中興の祖」と呼ばれた。 大阪府堺市出身。1911年に京都帝国大学理工科大学採鉱冶金科を卒業し、神戸製鋼所に入社した。取締役、製鉄部長、常務、専務を経て、1945年9月に社長に就任した。しかし、1946年12月に公職追放により辞任。1952年11月に社長として復帰し、1958年1月から1965年3月までに会長を務めた。 神戸商工会議所会頭、関西経済連合会副会長なども歴任した。1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1970年10月21日急性心不全のために神戸市の自宅で死去。
勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 -… 勝田 重太朗(かつた じゅうたろう、1887年4月15日 - 1967年11月16日)は、日本の経営者。産業経済新聞社社長、信越放送社長を務めた。 長野県長野市出身。1913年に日本大学法学部を卒業。 京城日報社、新愛知新聞社、中部日本新聞社などを経て、1950年1月に信濃毎日新聞社副社長に就任し、1951年に信越放送社長に就任。1955年2月に産業経済新聞東京本社社長に就任。 1961年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1967年11月16日、心不全のために死去。80歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月1… 森本 一雄(もりもと かずお、1887年〈明治20年〉4月15日 - 1938年〈昭和13年〉11月7日)は、日本の衆議院議員(国民同志会)。初代敦賀市長。 兵庫県で森本高太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)、早稲田大学政治経済科を卒業。翌年より衆議院議員尾崎行雄の秘書となった。1923年(大正12年)、鐘淵紡績社長武藤山治が実業同志会を結成すると、理事兼会長秘書役を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に実業同志会の後身の国民同志会から出馬し、当選を果たした。 その後、福井県敦賀郡敦賀町の町長を務め、1937年(昭和12年)に敦賀町が市制を施行すると、初代敦賀市長に就任した。
灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1… 灰野 庄平(はいの しょうへい、1887年4月14日 - 1931年4月26日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 新潟県刈羽郡中通村生まれ。1908年第二高等学校卒業、1912年東京帝国大学文学部哲学科卒業。在学中から演劇・詩・翻訳を発表。小山内薫の自由劇場に参加、卒業後丸見屋商店に入社、演劇研究を行う。1914年三木露風・増野三良・柳沢健と雑誌『未來』を創刊。1931年、急性肺炎のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 -… 伴 東(ばん あずま、1887年(明治20年)4月14日 - 没年不明)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 島根県海士郡海士村(現在の隠岐郡海士町)出身。大阪府立農学校獣医学科を経て、1910年(明治43年)に盛岡高等農林学校獣医学科を卒業した。のち法科に転じ法政大学に学んで1916年(大正5年)に高等文官試験に合格した。警視庁警視、愛知県額田郡長、同知多郡長、長崎県商工課長、同水産課長、同農林課長、福井県学務部長、岩手県警察部長、滋賀県警察部長、愛知県警察部長、大分県内務部長、関東局旅順民政署長を歴任した。 退官後、興中公司嘱託、天津電業公司総務科長、大連機械製作株式会社支配人・総務部長を経て、東亜生果株式会社社長を務めた。
石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1… 石川 義一(いしかわ よしかず、1887年4月13日 - 1962年1月17日)は、日本の作曲家。日本にレオ・オーンスタインのピアノ曲を紹介した。 福島県相馬郡長塚村(現在の双葉町)出身。1906年、19歳のとき相馬中学を卒業後、半年ほど代用教員を勤めた。その年の9月にアメリカに渡った。カリフォルニア州サクラメントで女性音楽家のベリングスにピアノと英語を学び、サンノゼ市のパシフィック大学音楽部に入学、ピアノと作曲を学んで1918年卒業。 1920年帰国後、朝鮮総督府社会課長として平安南道に赴任。この時李王家から依頼されて朝鮮雅楽の研究も行い、15年をかけて五線譜に書き写し、計283曲、五千ページに及ぶ業績を遺す。
伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 19… 伊藤 孝一(いとう こういち、1887年4月12日 - 1954年4月17日)は、日本の実業家、登山家、映画監督もしくはドキュメンタリー映像作家。 人生の前半は、豊富な私財を背景に多彩な趣味を昇華させた一方、実績は素封家の道楽として見做されることが多く、生前に業績に見合った評価を受けることは少なかった。 長野県大町市に拠点を構えていた百瀬慎太郎(歌人、大町山案内人組合設立者)、赤沼千尋(燕山荘経営者)らと親交を深め、1923年(大正12年)から翌年にかけて積雪期の北アルプス行を次々と成功させた。しかしながら、その登山は、後述する映画を撮影しつつ行われたこと。単一峰を目指す登山スタイルが主流であった当時、複数の峰を縦走するスタイルを採ったこと、さらには事前準備の段階で3軒の山小屋を多額の費用で建設し、多くの有名案内人を雇用して登山隊を編成していたことなど当時の登山の常識を覆すものばかりであり、多くの人達から反感を買う余地は多分にあった。
板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11… 板野 新夫(いたの あらお、1887年(明治20年)4月11日 - 1972年(昭和47年)4月12日)は、日本の農業研究者・教育者であり、日本の農業研究の第一人者である。岡山県総社市出身。 1887年(明治20年)に岡山県下道郡秦村(現・総社市)の農家の家庭に生まれる。その後、1900年(明治33年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。 高梁中在学中に米国に留学した新島襄に憧れ、また、新渡戸稲造の農業経営の理念に感化され、卒業後、1905年(明治38年)すぐに単身で渡米し農学の専攻を志した。 渡米後の板野は、最初に飲食店やホテルで働いて、学費を稼ぎながらドイツ語とラテン語を勉強した。
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月1… 岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月11日 - 1977年(昭和52年)1月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。 山口県で岡村米吉の六男として生まれる。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり、1929年(昭和4年)に分家した。 1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた。 1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月… 橋元 正輝(はしもと まさてる、1887年(明治20年)4月11日 - 1939年(昭和14年)4月17日)は、大正から昭和期の政治家・華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・橋元正明の二男として生まれる。父の死去に伴い、1929年(昭和4年)5月2日、男爵を襲爵した。 1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業し、さらに、1920年(大正9年)早稲田大学政治経済科を卒業した。1911年、三菱合資会社に入社し、さらに同信託社員となる。 1932年(昭和7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出された。公正会に所属して活動し1期在任した。 1939年4月17日、千葉で魚釣り中に心臓麻痺のため、議員在職中のまま死去した。
白波瀬 米吉(しらはせ よねきち、1887年(明治20年)4… 白波瀬 米吉(しらはせ よねきち、1887年(明治20年)4月11日 - 1986年(昭和61年)11月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 京都府出身。京都法政大学(現立命館大学)を修了した。 1914年(大正3年)京都府農業技手となる。以後、郡是製糸(現グンゼ)取締役、日本蚕糸統制常務理事、日本中央蚕糸会議員、日本蚕糸製造取締役、蚕糸調査会臨時委員、農林省生糸問屋審査会委員、日本セルローズ工業取締役、日本殖産興業取締役、岐阜紡績社長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区に自由党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10… 土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年(明治20年)4月10日 - 1958年(昭和33年)11月5日)は、日本の漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。 1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学・文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。
趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 195… 趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 1958年9月10日)は、朝鮮の独立運動家、政治家、法学者、政治思想家。第2代韓国国会議員。京畿道坡州出身。本貫は咸安趙氏。本名は趙 鏞殷(チョ・ヨンウン)。字は敬仲、素昻は号である。 生六臣(朝鮮語版)の趙旅の17世孫で、共に独立運動家である趙鏞夏は兄、趙鏞周、趙鏞漢、趙時元(元国会議員、本名・趙鏞元)は弟、趙鏞済は妹。独立運動家の趙時済と趙仁済は息子。 両班の家系に生まれる。1902年に成均館に入学し、同年に申采浩などと声討文を作って李夏栄などに抗議した。1904年に成均館を修了後、大韓帝国皇室派遣留学生として来日し、東京府立第一中学校に入学した。
小船井 敬吉(おぶない けいきち、1887年〈明治20年〉4… 小船井 敬吉(おぶない けいきち、1887年〈明治20年〉4月8日 - 1971年〈昭和46年〉9月17日)は、日本の逓信官僚、通信技術者、通信工学者。電気通信工学校初代校長、東海大学短期大学部初代学長。 新潟県北魚沼郡小千谷町(現 小千谷市)の測量師・小船井理吉の次男として出生。 1905年(明治38年)3月に新潟中学校を卒業、1908年(明治41年)7月に第一高等学校を卒業、1911年(明治44年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。 1911年(明治44年)7月に逓信省に技手として入省、通信局工務課に勤務、逓信官吏練習所教官を兼任、1913年(大正2年)7月に技師に任官、引き続いて通信局工務課に勤務、逓信官吏練習所教官を兼任、1914年(大正3年)9月から西部逓信局に勤務、名古屋郵便局電話課長に就任、1918年(大正7年)1月に北部逓信局工務部線路課長および電力課長に就任、1919年(大正8年)5月に仙台逓信局電気課長に就任、1920年(大正9年)5月から大阪逓信局に勤務、大阪中央電話局交換課長に就任、10月に大阪中央電話局監査課長に就任、1921年(大正10年)9月から臨時電信電話建設局大阪出張所に勤務、1922年(大正11年)8月に臨時電信電話建設局大阪出張所機械課長に就任、1923年(大正12年)7月に京都帝国大学工学部講師に就任、1924年(大正13年)11月に熊本逓信局工務課長および臨時電信電話建設局熊本出張所技術長に就任、1926年(大正15年)5月からアメリカおよびイギリスに出張、1927年(昭和2年)3月に名古屋逓信局工務課長に就任、1930年(昭和5年)5月に大阪逓信局工務課長に就任、1933年(昭和8年)9月に逓信省工務局電話課長に就任、1934年(昭和9年)6月に逓信省工務局線路課長に就任、1936年(昭和11年)2月に逓信省を依願退官。
小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8… 小原 國芳(おばら くによし、1887年〈明治20年〉4月8日 - 1977年〈昭和52年〉12月13日)は、日本の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った。 1887年、鹿児島県川辺郡南方郷久志村(現:南さつま市坊津町久志)に生まれる。早くに母を亡くす。祖父は寺子屋の師匠だったが、家が没落したため進学ならず、13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所(現在の鹿児島県肝属郡南大隅町に所在)の技手となった。
高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7… 高田 六郎(たかた ろくろう、1887年(明治20年)4月7日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医中将。 1887年(明治20年)、茨城県に生まれる。旧制水戸中学を経て、1912年(大正元年)9月、千葉医学専門学校に入る。在学中海軍軍医学生になる。1916年(大正5年)5月、卒業。海軍少軍医となり、海軍軍医学校で乙種学生として学ぶ。 横須賀工廠医務部員、大井、球磨の各軍医長となり、呉病院、呉工廠勤務、1937年(昭和12年)海軍軍医大佐に進み、海軍兵学校軍医長兼教官となる。翌年支那方面艦隊兼第三艦隊軍医長に就任。広工廠医務部長、1940年(昭和15年)には呉病院第二部長兼消毒部長兼教官となり、1942年(昭和17年)10月には第一部長も兼務した。
夏堀 源三郎(なつぼり げんざぶろう、1887年4月6日 ‐… 夏堀 源三郎(なつぼり げんざぶろう、1887年4月6日 ‐ 1962年7月20日) は、日本の政治家。位階は従四位。自由民主党衆議院議員(6期)。自由民主党副総裁、自由民主党幹事長、衆議院議長などを務めた大島理森は甥に当たる。 1887年、青森県三戸郡地引村(現南部町)出身。生家は豪農であったが13歳のとき破産し、一家は八戸に移住した。八戸中(現・青森県立八戸高等学校)に学ぶ。卒業後、漁師となり、水産加工業を始める。1929年、八戸で湊川魚市場組合長に就任。1932年に株式会社化し、社長に就任した。その後、東北振興水産(1937年)、大洋冷凍母船、日南興産、東北冷蔵の各社長となり、八戸商工会議所会頭、青森県水産業会長、東北漁業出漁組合連合会長なども務めた。