今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月1… 今城 定政(いまき さだまさ、1878年(明治11年)7月19日 - 1958年(昭和33年)12月3日)は、明治後期から昭和前期の政治家、華族。貴族院議員。従二位勲二等、研究会所属。初名・棄彦。 旧堂上家の中山家から分家した今城家(子爵)の当主である。中山孝麿の長男で、今城定徳の婿養子。 学習院や同人社の童子科を中退し、1889年(明治22年)、慶應義塾幼稚舎へ転ずる。1892年(明治25年)12月12日に定政と改名した。1901年(明治34年)に慶應義塾大学部政治科第一回の卒業生となる。同窓には、堀内輝美、久田宗作、松村松太郎らがいる。 1902年(明治35年)、イギリス国王・エドワード7世戴冠式に明治天皇の名代として派遣された小松宮彰仁親王に父が随行した際、通弁役として渡英し、さらにヨーロッパを視察して回る。
山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1… 山崎 寿春(やまざき としはる、1878年7月18日 - 1964年11月19日)は、日本の教育者。駿台グループの創業者でもある。 1878年(明治11年)7月18日、鳥取県で生まれる。1902年(明治35年)に東京外国語学校を卒業後、高岡市立商業学校などで教鞭を執った後に米国へ留学する。リベラル・アーツ・カレッジとして有名なアマースト大学やハーバード大学などで学び、イェール大学大学院で英語学・英文学を修める。帰国後は明治大学教授となり、1918年(大正7年)に東京高等受験講習会(駿台グループ)を神田錦町に設立する。 受験勉強で心身を消耗する学生を憂え、知識や能率的な教育法による才能の開発を始めた。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日… 島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の夫人。男爵島津珍彦(旧重富領主)の娘で、母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。不敬罪に問われ検挙された。 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。翌年島津久治の遺児・長丸と結婚し、2男4女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、同29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校の前身校のひとつ)を創立した(校長・島津サエ子)。同40年(1907年)治子は同校第3代校長に就任し、経営不振に陥っていた同校の立て直しのため一大改革に着手し、薩摩古来の美風を尊重した良妻賢母の女子教育を推進し、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 … 塩谷 温(しおのや おん、1878年〈明治11年〉7月6日 - 1962年〈昭和37年〉6月3日)は、日本の漢学者。東京帝国大学名誉教授。70代で30代の元芸妓を妻にし、老いらくの恋と騒がれた。 東京市下谷区で漢学者塩谷青山の子として生まれる。号は節山。学習院、第一高等学校を経て、1902年東京帝国大学漢学科を卒業。優等賞を下賜された。一高時代は水泳部に属し、その当時、「デコンショ、デコンショ」と歌う丹波篠山の盆踊り歌をもとに、塩谷がデカルト、カント、ショーペンハウエルの頭文字をとって「デカンショ節」と名付けたとされる。 1905年学習院教授、1906年東京帝国大学助教授。同年からドイツのライプツィヒ大学、清国の北京および長沙に留学し、中国文学研究を行う。
里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月… 里見 純吉(さとみ じゅんきち、1878年(明治11年)7月5日 - 1952年(昭和27年)8月3日)は、日本の実業家、社会教育家。大丸社長、大阪ユネスコ協会会長などを務めたほか、大阪夕陽丘学園高等学校および大阪夕陽丘学園短期大学の源流となる大丸洋裁研究所を創設した。 現在の千葉県山武市松尾町に生まれる。1882年、日本基督教会で受洗する。1903年、慶應義塾大学部理財科を卒業。同大学部助手に就き、直後、助手兼舎監となる。 1908年、三越に入社。1919年、業界視察のために欧米に出張する。1921年、三越を退社し、国際労働機関の会議に商業使用人顧問として出席する。 1923年、大丸の上席専務取締役として入社。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 194… 田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。 1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学、在学中は正木直彦、高村光雲に師事。 卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える。生前は詩人室生犀星と親しかった。 北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない。 碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像(以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月に金属供出され、戦後1948年(昭和23年)10月に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行ったところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している。
佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2… 佐藤 功一(さとう こういち、1878年(明治11年)7月2日 - 1941年(昭和16年)6月22日)は、日本の建築家。 早稲田大学理工科の建築学科の創始者として知られる。早大建築学科主任に就任してからは、同大の建築教育の基礎を築いた。以後は早大において評議員なども歴任した。 作品としては関東大震災以降のものが多く、日比谷公会堂の設計、大学関連では早稲田大学のシンボルである大隈講堂や、武蔵大学、津田塾大学に作品を39年間で233件残している。また東京女子高等師範学校、日本女子大学校などで教え、女性に対する住教育の草分けでもあった。 佐藤の作品であることが確認されている物件は223件あり、2か月に1件のハイペースで設計していた計算になる。
三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2… 三島 海雲(みしま かいうん、1878年〈明治11年〉7月2日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、明治・大正・昭和時代の日本の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。
三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 … 三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 - 1975年(昭和50年)7月31日)は、日本の牧師、富士見町教会の第4代目主任牧師である。 1878年高知県長岡郡新改村に生まれる。1899年大阪南教会で鈴木寿一から洗礼を受ける。1902年に明治学院神学部に入学したが、中退する。 1904年4月に日本基督教会の教師試補試験に合格し伝道師に准允される。その後、福井、高槻、大連の教会主任を務めた。1908年渡米してイリノイ州オマハ神学校とプリンストン神学校で学ぶ。 1913年2月に大連教会主任となる。1927年南廉平の後を次いで、富士見町教会牧師に就任する。1948年に辞任し、名誉牧師になる。
小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - … 小柳 芦太郎(こやなぎ あしたろう、1878年7月1日 - 1946年4月20日)は、現在の富山県砺波市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は安ヶ川 芳太郎。164cm、110kg。最高位は西前頭2枚目。 1898年1月初土俵、1903年十両昇進。この頃は将来の力士と期待されたが、立合いが悪い力士だった。1905年1月入幕を果たし、2枚目まで進んだが病を得て十両に陥落。1911年2月限りで廃業。その後は輪島に住み、相撲指導行脚をした。
矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月3… 矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本の発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類の飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した。 福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが鳥の飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学、工学や語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる。
齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1… 齋藤 賢道(さいとう けんどう、1878年6月28日 - 1960年4月14日)は、日本における発酵微生物学の基盤を作った細菌学者。大阪帝国大学名誉教授、大阪醸造学会会長、理学博士。 戦前、国内や中国、朝鮮、満州に生息する微生物の分類同定を行ない、黴類で28種、酵母菌で37種、細菌で27種もの新種を発見し報告した。菌類による発酵過程での生理機構やその生殖現象についても研究を行なった。また微生物に関する多数の専門書や啓蒙書を著した。 金沢市に生まれる。父親は斎藤深了。1897年、第四高等学校第2部を卒業し、東京帝国大学理科大学植物学科進学。1900年、東京帝国大学大学院植物学研究科植物生理学専攻進学。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1… 木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。追贈九段。関根金次郎十三世名人門下。岡山県児島郡木見村(現・倉敷市)出身。 古鉄商の子として生まれる。明治19年、数えで9歳のころ、家族と神戸に移る。 二十歳頃までは実家にいて、家業のかたわら、賭け将棋をしていたらしい。数えの19歳の頃、後の十三世名人関根金次郎に四枚落ちで一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。プロ棋士となる。 第一次世界大戦後に古鉄の相場が再び上昇したため、大阪に戻り古鉄商を再開する。しかし将棋と力仕事の両立が難しい事から、古鉄商をやめて棋士の道を歩む。
紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治… 紺野 九右衛門(九右衞門、こんの くえもん、1878年(明治11年)6月22日 - 1932年(昭和7年)8月12日)は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・喜太郎。 福島県信夫郡井佐野村(平野村大字井佐野、飯坂町を経て現福島市飯坂町平野)で、農業、先代・紺野九右衛門の長男として生まれる。1920年(大正9年)家督を相続し九右衛門を襲名し、農業を営む。 1893年(明治26年)福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)を卒業。その後、仙台数学院(現東北高等学校)で学んだ。消防組頭、福島税務署管内郡部所得調査員、福島市共立福島病院組合会議員、平野村農会議員などに就任。若いころから政治活動に熱心で、立憲民政党支部幹事長となり、鈴木寅彦の側近として活躍。
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1… 波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日 - 1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月1… 柴田 常恵(しばた じょうえ、1877年〈明治10年〉7月18日 - 1954年〈昭和29年〉12月1日)は、日本の考古学者。慶應義塾大学講師・文化財専門審議会委員などを歴任。 1877年、愛知県春日井郡大曽根村(現・名古屋市東区)の浄土真宗・瑞忍寺の住職の三男として生まれた。1897年に上京し、苦学しながら私立真宗東京中学高等科に入り、さらに私立郁文館内の史学館で歴史学を学んだ。この頃、坪井正五郎の講演を聴き、考古学に興味を持ったという。1902年に東京帝国大学雇となり、理学部人類学教室に勤務し、1906年には理科大学助手となった。坪井を助け、『東京人類学雑誌』の編輯にあたり、各地の遺跡・遺物の調査に従事した。
福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 193… 福地 信世(ふくち のぶよ、1877年7月15日 - 1934年5月22日)は、日本の地質工学者、舞踏作家。
図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治1… 図師 兼弐(ずし けんじ、旧字:圖師兼貳 1877年(明治10年)7月15日 - 1954年(昭和29年)10月15日)は、日本の衆議院議員。福岡県八幡市長。農商務官僚。 宮崎県臼杵郡北浦村(現在の延岡市)出身。1900年(明治33年)に日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した。関東州民政署属を経て、1906年(明治39年)に農商務省山林属となった。同年、林務官となり、以後熊本大林区署経理課長、広島大林区署庶務課長、山林事務官、高知大林区署林務課長、熊本大林区署林務課長、青森大林区署林務課長、東京大林区署林務課長を歴任した。1920年(大正9年)に退官した後も農商務省嘱託を務めた。
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12… 暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、日本の、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という。 1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 1887年(明治20年)、父依念と死別。
喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12… 喜谷 六花(きたに りっか、1877年(明治10年)7月12日 - 1968年(昭和43年)12月20日)は、日本の俳人。曹洞宗華嶽山梅林寺住職、28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。東京府出身。 1877年(明治10年)に浅草区(現在の東京都台東区東部)浅草馬道で生まれる。16歳で曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林(現在の駒澤大学)や哲学館(現在の東洋大学)に学び、1897年(明治30年)に下谷区(現在の台東区西部)の梅林寺住職となる。そのころから俳句を詠み始め、日刊紙『二六新報』の中村楽天が主宰する「二六吟社」同人になったのを皮切りに『ホトトギス』や『日本俳句』などに定形俳句を投句、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、碧梧桐の門人となる。
高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月… 高松 正道(たかまつ まさみち、1877年(明治10年)7月9日 - 昭和14年(1939年)9月3日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→純正国民党)、ジャーナリスト。 堺県丹南郡野田村(現在の大阪府堺市東区)出身。文学寮高等科(現在の龍谷大学)を卒業。中央公論社、中央新聞社、大阪朝日新聞社の記者を経て、大阪新聞通信社の社長を務めた。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に立憲国民党から出馬し、当選を果たした。その後、普通選挙を主張し、党議に敗れて離党した。 その他、大阪府立憲青年会幹事長、河泉農業組合長などを務めた。
寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7… 寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 山形県出身。村会議員・寺岡儀一の五男として生れる。荘内中学校を経て、1899年(明治32年)12月、海軍兵学校(27期)を卒業し、1901年(明治34年)1月、海軍少尉任官。日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。 1905年(明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、軍令部出仕などを経て、1910年(明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。翌年3月、「鞍馬」分隊長に着任し、横須賀予備艦隊副官、海軍省人事局員、「比叡」副長などを歴任。
世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日… 世良 静一(せら せいいち、1877年(明治10年)7月6日 - 1950年(昭和25年)2月19日)は、日本の衆議院議員。検事。弁護士。 広島県比婆郡本村(現在の庄原市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補として浦和地方裁判所に勤務した。翌年3月、陸軍理事試補に転じ、7月に同理事・留守第1師団法官部員となり、9月に退官した。その後は弁護士を開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1917年(大正6年)からは検事となり、宇都宮地方裁判所検事、新潟地方裁判所検事、静岡区裁判所検事、山田区裁判所検事を歴任した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7… 佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7月1日 - 1952年(昭和27年)6月27日)は、日本の僧、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。京都本願寺文学寮本科で学ぶ。語学研究及び状況視察のため、シンガポール、オランダ領東インド、パリに留学する。帰国後、本願寺派摂護寺で布教活動に従事する。都城天竜幼稚園、日州学院を創立する。摂護寺住職、本願寺派本願寺執行所に出仕し、本願寺台湾別院輪番兼台湾開教教所賛事を経て、本願寺アメリカ合衆国開教総長となる。帰国後、内務省道府県感化院教諭となる。その後、宮崎県慎修学校(現・宮崎県立みやざき学園)校長に就任する。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月2… 北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月28日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、戯曲『実録日蓮聖人一代記』の作者として知られる日蓮宗の僧。字は啓玉。鳥取県出身。 鳥取市の芳心寺で河合日辰の元で出家し、日蓮宗大学(現在の立正大学)卒業後の1909年(明治42年)、日蓮宗大学中等部で日蓮宗の宗学教諭となる。その後1919年(大正8年)、日蓮宗大学教授を経て1931年(昭和6年)には、芳心寺住職に就任した。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)… 川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)6月23日 - 1922年(大正11年)12月10日)は、日本の歴史学者である。 京都市の旧家にて生まれる。若くして文部省(現在の文部科学省)の検定試験を受験し、悪戦苦闘の末合格する。その後中等学校の教員を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に選科として入学した。 在学中は主に江戸時代における朱印船貿易の研究に携わり、その研究論文を自身が執筆したものが書籍化された。また同時期に高等学校卒業試験に合格した事により、文学博士を取得した。1912年(大正元年)に卒業後は、京都府学務課長を務めた後に、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)にて教師として活動する。
北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1… 北沢 楽天(きたざわ らくてん、1876年7月20日 - 1955年8月25日)は明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、日本画家である。本名は保次(やすじ)。楽天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍した。 楽天は日本初の職業漫画家とみなされる事もあり、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するのに多大な影響を与えた(最初に、西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を使用したのは今泉一瓢である。楽天は、「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用した)。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた作品の一つとして特筆される。
兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1… 兒玉 秀雄[注 1](児玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年… 児玉 秀雄(旧字体: 兒玉 秀雄、こだま ひでお、1876年〈明治9年〉7月19日 - 1947年〈昭和22年〉4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。 山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。 旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。 同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。
中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1… 中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日 - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授。 1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て、1898年に卒業した。 1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された。 1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち、ドイツに留学した。1905年2月27日に帰国した。 1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された。
長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15… 長尾 景徳(ながお かげのり、1876年(明治9年)7月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。台湾総督府官僚。 山形県米沢市出身。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補を経て、1905年(明治38年)より台湾総督府法院の判官となった。高等法院勤務を経て、1918年(大正7年)に台湾総督府法務部長に就任した。1921年(大正10年)に退官した後は弁護士を開業。台北弁護士会会長や台湾瓦斯株式会社監査役を務めた。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月… 上塚 周平(うえつか しゅうへい、1876年(明治9年)7月12日 - 1935年(昭和10年)7月6日)は、日本のブラジル移民功労者。「ブラジル移民の父」と称される。 熊本県下益城郡赤見村(現・熊本市南区城南町赤見)の上塚家の本家(ほんいえ)に生まれる。済々黌高等学校、旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1907年(明治40年)3月に東京帝国大学法科を卒業する。 同年11月、皇国殖民会社の社長を務める水野龍がブラジルサンパウロ州農務局と日本移民輸送契約を調印。翌年の1908年(明治41年)、代議士の江藤哲蔵の推薦により周平はブラジル行第1回移民の輸送監督兼会社代理人として170家族・792人を率いて移民船・笠戸丸に乗船、4月28日に神戸港を出航する。
椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 19… 椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長・大本山増上寺法主などを歴任。三康文化研究所の初代所長。 1878年、名古屋円福寺住職椎尾順位の五男として生まれ、13歳で得度。東京帝国大学文学部を恩賜の銀時計組で卒業後、宗教大学(後の大正大学)・日本大学・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生(ともいき)運動を始める(英語の呼称は1923年に考案した。英: the Philosophy of Symbiosis)。1915年(大正4年)、東京帝国大学に学位論文を提出して文学博士号を取得 1926年に大正大学教授に就任、同学学長を3度経験する(第6代・第9代・第14代)。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 … 木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。 明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。
麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 -… 麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 - 1956年〈昭和31年〉7月20日)は、広島県尾道市出身の実業家・慈善家。麻生 以登とも。教育分野・社会インフラ事業・文化事業などに私財を投じた。因島の麻生旅館主。侠客「因島の女親分」として、勝新太郎主演のヒット映画『悪名シリーズ』で唯一実名で出てくることで知られる。原作の小説『悪名』(今東光)には実在した親分衆が数名登場する。 尾道十四日町、現在の十四日元町から長江のあたりで煙草屋あるいは宿屋を営んでいた麻生家の三女として生まれる。小学校を卒業後、神戸に養女に出される。これ以降しばらくイトの詳細はわかっておらず、関西で住み込み女中や工事現場の事務員、また北海道に移り住んでいたなど、転々としていた。
玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 193… 玉置 良直(たまき よしなお、1876年7月2日 - 1934年9月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県出身。十津川村会議員、同村長、吉野郡会議員、同議長、奈良県会議員、所得税調査委員、地方森林会議員、大和山林会評議員となる。 泊園書院(現・関西大学)を経て東京専門学校(現・早稲田大学)で学び、1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良5区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1934年に死去した。
中川原 貞機(なかがわら ていき、1876年(明治9年)7月… 中川原 貞機(なかがわら ていき、1876年(明治9年)7月2日 - 1948年(昭和23年)6月9日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。 青森県三戸郡扇田村(浅田村を経て現在の五戸町)に生まれる。東京法学院を卒業後、家業を継ぎ、五戸産馬組合員、青森県産馬連合会役員を歴任し、多くの優良馬を育成する。1924年(大正13年)五戸産馬組合長の時、皇太子の乗用馬「ミヨシ」号を納める。その後、馬政局から産馬功労者として表彰を受けた。1925年(大正14年)浅田信用組合を創立し、組合長として経営に当たった。ほか、五戸銀行監査役、泉山銀行、五戸電気各取締役などを歴任した。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し、当選。
力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年… 力石 雄一郎(ちからいし ゆういちろう、1876年(明治9年)6月30日 - 1933年(昭和8年)3月17日)は、日本の内務官僚。政友会系官選府県知事。族籍は愛媛県士族。 愛媛県喜多郡大洲町(現:大洲市)で、旧大洲藩士・力石八十綱の長男として生まれる。東京に移り、府立一中、第一高等学校を経て、1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、文官高等試験に合格。内務省に入省。 以後、徳島県参事官、岩手県警部長、岩手県事務官・第四部長、石川県事務官・警察部長、関東都督府大連民政署長、長野県・岐阜県の各内務部長などを歴任。 1914年4月、第2次大隈内閣が成立し長野県知事に発令された。以後、大分県・茨城県・宮城県・秋田県・新潟県の各知事を経て、1928年5月、大阪府知事に就任。
上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29… 上中啓三(うえなか けいぞう、1876年(明治9年)6月29日 - 1960年(昭和35年)1月11日)は、日本の化学者、薬剤師。ニューヨークで高峰譲吉の助手としてアドレナリンの発見に貢献し、帰国後はアドレナリンの製造開発に尽力したことにより知られる。 1876年、兵庫県塩瀬村名塩(現:西宮市名塩)に生まれる。10歳の時に大阪のミッションスクールに入学して英語や化学を学んだ後、大阪道修町の薬問屋にて丁稚として働く。1891年共立薬学校(現・大阪大学薬学部)に入学し、1894年には薬剤師国家試験に合格して薬剤師となる。その後東京帝国大学医学部薬学科に入学し、「日本近代薬学の開祖」として知られる長井長義のもとで研究生活を送る。
井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29… 井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29日 - 1929年〈昭和4年〉12月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 飾磨県飾西郡飾西村(のちの兵庫県飾磨郡余部村を経て現姫路市)出身。逓信省通信書記、姫路郵便局電信課長となり、その後は大阪商船(株)助役、(資)台湾組支配人、(名)富島組総務理事、帝国サルベージ、阪堺電鉄各(株)取締役社長、木津川運河土地、木代発動機製造各(株)監査役、大阪商業会議所議員、大阪税関貨物取扱人連合会会長、港湾協会評議員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において兵庫10区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。
箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 … 箭内 亙(やない わたり、1875年〈明治8年〉7月17日 - 1926年〈大正15年〉2月10日)は、日本の東洋史家、東京帝国大学教授。号は尚軒。モンゴル史研究に業績を残した。次男は歴史学者の箭内健次。 福島県西白河郡泉崎村出身。1889年(明治22年)福島県立安積中学校に入学、1894年(明治27年)3月卒業の後、仙台市の第二高等学校を経て、東京帝国大学文科卒。1907年に第一高等学校講師となる。1908年満州朝鮮歴史地理調査部部員となり、白鳥庫吉の指導で調査にあたる。1910年(明治43年)に教授となる。1919年(大正8年)東京帝大東洋史学科助教授、ついで1925年から教授を務めた。 1926年2月10日、胃潰瘍のため死去する。
高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)… 高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)7月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、大日本麦酒社長、高橋ユニオンズオーナー、日本サッカー協会会長(第3代)。 ビール製造技術者から経営者となり、「日本のビール王」とも称される。 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)生まれ。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年に卒業する。 高等学校卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒、現・アサヒグループホールディングスおよびサッポロホールディングス)に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月1… 青木 亮貫(あおき りょうかん、1875年(明治8年)7月15日 - 1941年(昭和16年)8月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、医師。 滋賀県甲賀郡、のちの水口村(水口町を経て現甲賀市水口町)に、士族隠岐貢の五男として生まれ、青木亮運の養子となった。大阪府立高等医学校(現在の大阪大学医学部)で内科と精神科を学び、1904年(明治37年)に卒業した。卒業後は大阪府立高等医学校病理教室助手兼大阪府立病院医員となり、日露戦争に従軍した。その後、日本赤十字社医員を経て、社団法人水口病院院長となった。 1915年(大正4年)に滋賀県会議員に当選し、1926年(大正15年)には水口町長に選ばれた。