大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1… 大潮 又吉(おおしお またきち、1893年2月24日 - 1964年4月16日)は、福岡県山門郡大和町(現在の柳川市)出身で陸奥部屋に所属した大相撲力士。本名は塩塚 又吉。最高位は東関脇。現役時代の体格は182cm、90kg。得意手は右四つ、吊り、寄り、上手投げ、突っ張り。 1911年(明治44年)6月場所、序ノ口で初土俵を踏んだ。5年後の1916年(大正5年)5月場所に十両昇進、その翌年、1917年(大正6年)5月場所には入幕を果たした。この場所、初日から勝ち続けて9連勝、千秋楽こそ預りとなったものの9勝1預無敗の堂々たる成績で優勝旗手となった(この場所、優勝は同成績の大関栃木山)。新入幕力士の無敗は1914年(大正3年)5月場所の前頭14枚目両國以来の快挙で、その後も1945年(昭和20年)11月場所の前頭10枚目千代ノ山を最後に出ていない。
庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 … 庄武 憲太郎(しょうたけ けんたろう、1893年2月22日 - 1952年5月27日)は、昭和時代戦前の日本の作詞家、歌人、旧制中学校教諭。号は春鳥(しゅんちょう)。大分県出身。 1893年(明治26年)2月、大分県西国東郡朝田村(現在の杵築市大田地区)の農家に四人兄弟の長男として生まれる。小学校を卒業後、田原村の準教員養成所を経て西国東郡高田町(現在の豊後高田市)で代用教員を務め、大分師範学校へ進学する。 大分師範学校を卒業した後は日本大学へ進み国語と漢文を学んだ。帰郷後は県立臼杵高等女学校(現県立臼杵高校)や徳島師範学校、旧制宮崎中学(現在の宮崎県立宮崎大宮高等学校)で教諭を務める。旧制宮崎中学在職中の1933年(昭和8年)、宮崎市で開催された祖国日向産業博覧会のテーマ曲募集で応募作「祖国日向の四季」が一等入選となる。
中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 197… 中村 知(なかむら さとる、1893年2月21日 - 1972年3月1日)は、日本のボーイスカウトの黎明期から、第二次世界大戦前の拡大期、戦後の再建期にわたって活躍したボーイスカウト指導者。「ちーやん」の愛称で親しまれた。筆名に東野通義。 ボーイスカウト日本連盟の功労章である「はと章」「やたがらす章」の受賞者。 『ちーやん夜話集』や多くのスカウトソングの作詞作曲、スカウト運動の基礎となる書籍類の翻訳で知られる。 1893年、愛媛県松山市に生まれる。 1909年、広島高等師範学校(現・広島大学)付属中学校に在学中、当時の校長だった北条時敬より英国ボーイスカウトについての知識を得、生徒同志30名と日本最初のスカウティング集団「城東団」を結成し班長となる。
益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2… 益尾 美太郎(ますお よしたろう、1893年〈明治26年〉2月20日 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の醸造家、鳥取県多額納税者。益尾酒造店、清酒(眞壽鏡、不老)醸造、醤油(眞壽花)醸造。 鳥取県米子市道笑町出身。益尾徳次郎の長男。1929年、家督を相続する。米子中学(現米子東高校)を卒業。酒造業を営み、鳥取県多額納税者である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。 趣味は囲碁。宗教は黒住教。住所は米子市道笑町1丁目。
岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941… 岡野 馨(おかの かおる、1893年2月20日 - 1941年12月12日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 俳人岡野知十の子として東京に生まれる。1915年、東京外国語学校卒業。1921年、フランスに渡る。のち陸軍大学校教授。墓所は多磨霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 19… 本郷 義夫(ほんごう よしお、1892年3月20日 - 1962年6月28日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。
松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19… 松川 サク(まつかわ さく、1892年(明治25年)3月19日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家であり、相模ゴム工業の初代会長である。日本で初めてコンドームの開発と商品化に成功し、一代で相模ゴム工業を避妊器具のトップメーカーに育て上げた。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現:神奈川県厚木市)に生まれる。旧姓は市野。父は祖父から受け継いだ製紙工場を経営していた。6人兄弟の3番目の次女として生まれる。幼少期から負けず嫌いのわんぱく娘であった。 実業補習学校を4年間修了後に東京で行儀見習いを経験し、その後、同年の松川儀良と結婚した。夫の勧めで、神奈川県一帯で横浜の長者町にて医療用酸素の卸売業を開始した。
片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18… 片桐 茂(かたぎり しげる、1892年(明治25年)3月18日 - 1944年(昭和19年)4月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 香川県出身。旧制香川県立三豊中学校(第6回)を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。 同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、参謀本部に配属された。 1926年(大正15年)9月、朝鮮軍司令部付としてポグラニチナヤ特務機関長に就任。その後、参謀本部員、陸大専攻学生、陸大教官、陸士付、三笠宮附武官、陸軍騎兵学校教官、騎兵第27連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)8月、騎兵大佐に昇進。
林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18… 林 柳波(はやし りゅうは、1892年〈明治25年〉3月18日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の童謡作詞家、詩人、薬剤師。本名は林 照寿(はやし てるひさ、旧字体: 林 照壽)。沼田市名誉市民。兄は陸軍獣医少将の林里二。作詞は1千編を超え、レコードに吹き込まれたものは500余りあるとされる。 1892年(明治25年)、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)の農家・林菊三郎の三男として生まれた。父菊三郎は帰農はしていたものの階級は士族であったという。早くから雑誌へ童謡詩の投稿を行う文学少年だった。1905年(明治38年)沼田小学校高等科を卒業。県立前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)に学ぶが中退し、兄・里二を頼って上京。
両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 … 両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、秋田県仙北郡外小友村(旧:秋田県仙北郡南外村、現:秋田県大仙市)出身の大相撲力士。本名は伊藤 勇治郎(いとう ゆうじろう)(旧姓:西村)。最高位は東関脇。 まだ肌寒い1892年3月18日に秋田県仙北郡で生まれた。出身地である秋田県に入間川清藏一行が巡業に訪れた際に見出されてそのまま入門、両国国技館が開館した1909年6月場所で初土俵を踏んだ。小兵だが色白で均整のとれた筋肉質な体格は人気があり、さらに足腰の強さから稽古場では大錦卯一郎が相手でも勝てないほどだったという。この恵まれた体質と土俵度胸を生かして順調に出世すると、新入幕の1914年5月場所ではいきなり9勝1休の好成績を挙げ、幕内最高優勝を果たした。
宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年… 宮下 健一郎(みやした けんいちろう、1892年(明治25年)3月17日 - 1959年(昭和34年)5月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)、宮下民雄の長男として山形県米沢市福田町に生まれる。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1938年(昭和13年)、陸軍歩兵大佐に昇進。1941年(昭和16年)、陸軍少将に進級。1943年(昭和18年)6月、第32歩兵団長に就任し太平洋戦争に出征、中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木(現在の十和田市)で本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月… 高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月16日 - 平成元年(1989年)6月12日)は、日本の神道学者、神職。八坂神社名誉宮司、皇學館大学学長。 明治25年(1892年)3月16日、岡山県岡山市に喜三治・辰野の子として生まれる。明治44年(1911年)岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)卒業、大正5年(1916年)神宮皇學館本科卒業。 和歌山県立農林学校(現在の和歌山県立南部高等学校)教諭、神戸市神港商業学校(現在の神戸市立神港高等学校)教諭を経て、大正12年(1923年)より日光東照宮禰宜。翌年、白山比咩神社宮司、昭和8年(1933年)函館八幡宮宮司、昭和11年(1936年)弥彦神社宮司。
田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月1… 田中 善内(たなか ぜんない、1892年(明治25年)3月14日 - 1972年(昭和47年)5月17日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 佐賀県小城郡芦刈村大字下古賀(芦刈町を経て現小城市芦刈町下古賀)で、田中慶蔵の孫として生まれる。1912年(明治45年)東京農業大学高等科を卒業。19120年(大正元年)家督を相続し農業を営む。 政界では、芦刈村収入役、同村長、同村会議員、佐賀県会議員、同副議長を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区から日本自由党所属で出馬し当選し、衆議院議員に1期在任した。 その他、芦刈村農会長、小城郡水産会長、佐賀県水産業会長、芦刈村漁業協同組合長、佐賀県信用漁業協同組合連合会長、同県有明海漁業協同組合連合会長などを務め、水産業の振興に尽力した。
生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1… 生田 春月(いくた しゅんげつ、1892年3月12日 - 1930年5月19日)は、日本の詩人。ハインリヒ・ハイネなど、外国文学の翻訳も多い。妻生田花世は平塚らいてう主宰の「青鞜」同人作家。本名は清平。 明治25年(1892年)3月12日、鳥取県西伯郡米子町(現米子市)に生まれる。家業は酒造業。明治36年(1903年)米子角盤高等小学校中退。生家の没落により進学できず、1908年、17歳の時に上京して生田長江の書生となり、文学とドイツ語を学ぶ。 1914年、生田花世と同棲を始める(事実婚)。大正6年(1917年)に最初の詩集『霊魂の秋』を刊行。美男子でロマンティックな詩を書く春月は、1920年から1923年にかけての『文章倶楽部』のアンケートでは夏目漱石を凌ぐ人気だった。
酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986… 酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。
高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - … 高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。高柳 光壽とも。自身で「髙柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。 静岡県敷知郡浜松町(現在の浜松市)に神主高柳喜一郎の長男として生まれる。1914年、國學院大學国史科を優等の成績で卒業。1916年に東京帝国大学史料編纂所に勤務、1926年には史料編纂官となって、『大日本史料』安土桃山時代の編纂を担当。また、1921年から1944年まで國學院大學教授を、1947年から1969年まで大正大学教授を兼任。
北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月1… 北野 吉内(きたの きちない、1892年(明治25年)3月10日 - 1956年(昭和31年)3月15日)は、日本のジャーナリスト、実業家である。旧姓は佐藤。 山形県山形市七日町の生まれ。兄に尾崎紅葉門下の佐藤流葉を持つ。旧制山形中学を経て東京外国語学校(現在の東京外国語大学)に入学し、卒業後はジャパン・アドバタイザー(現在のジャパンタイムズ)に勤務する。その後は萬朝報に転勤し、1916年(大正5年)には北野量子と結婚し婿入りの形で北野姓に改姓した。同年末には東京朝日新聞に転勤し、アサヒグラフ編集部および整理部次長を歴任した。1926年(大正15年)には同社のニューヨーク特派員となり、1929年(昭和4年)の帰国まで同職にあたった。
小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 195… 小田 常胤(おだ つねたね、1892年3月10日 - 1955年2月11日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 立ち技を中心にして隆盛を極めた大正・昭和期の講道館にあって、それまでの古流柔術等を更に発展させた常胤流と呼ばれる独自の寝技技術を構築、旧制第二高校や旧制第四高校を指導して高専柔道の発展に大きく貢献し、寝技の大家と知られた。なお、名の正確な読みは「つねたね」だが、文献によっては「じょういん」とも記されており、海外でもそちらの名がよく通っている。 山梨県南都留郡船津村(のちの河口湖町、富士河口湖町)の浅川に生まれた。当時の南都留郡には中学校が無かったため、親族を頼って静岡県立沼津中学校(のちの静岡県立沼津東高等学校)に入学し、ここで柔道を始めた。
出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 -… 出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日) は、日本の哲学者。 岡山県苫田郡津山町(現津山市)で、渡部惟明(元鶴山高等小学校校長)の次男として生まれる。津山中学校在学中に叔父・出道直の養子となる。第六高等学校を経て東京帝国大学卒業、大学院に入り、副手を嘱託される。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝国大学助教授となり、1925年より二年間、英国、およびドイツに留学。 1928年(昭和3年)、立教大学文学部教授に就任し、哲学史(古代哲学)や哲学演習を担った。
塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月… 塩月 学(學、しおつき まなぶ、1892年(明治25年)3月10日 - 1966年(昭和41年)12月17日)は、大正から昭和期の雑誌編集者、政治家。衆議院議員。 大分県大野郡三重村(三重町を経て現豊後大野市)で、塩月古五郎の長男として生まれる。故郷や大分の呉服店に奉公後、19歳で上京。苦学して、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 安田保善社に入社し、その後、秘書課長に就任。政界入りを目指して安田保善社を退職し、第一出版社を経営し、日本青年社を創立し雑誌『青年日本』を発刊した。 1929年(昭和4年)東京市疑獄事件を受けて実施された東京市会議員選挙に出馬して最高点で当選。
菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - … 菅野 秀次郎(すがの ひでじろう、1892年3月10日 - 1977年4月7日)は、日本の経営者。三重県上野市(現在の伊賀市)出身。 1917年に東京帝国大学法学部独法科を卒業し、同年に住友総本店に入社。1948年に住友本社清算人となり、住友不動産で社長、常務監査役を歴任した。 1977年4月7日、心不全のために死去。85歳没。
冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日… 冨田 照(とみた てらす、1892年(明治25年)3月10日 - 1957年(昭和32年)3月13日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。富田とも表記されている。 千葉県天羽郡湊町桜井(君津郡湊町、天羽町、富津町を経て現富津市桜井)で、富田伊三郎、たく の三男として生まれる。湊小学校分教場和合小学校を経て、1907年(明治40年)天羽農学校(現千葉県立天羽高等学校)を卒業し家業に従事した。 1908年(明治41年)9月、君津郡役所の要請で湊小学校の代用教員に就任。準教員を経て1910年(明治43年)教員検定試験に合格し訓導となる。その後、木更津町真舟小学校訓導、君津郡中村小学校訓導を歴任。
上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治… 上野 十蔵(上野 十藏、うえの じゅうぞう、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1972年〈昭和47年〉11月18日)は日本の実業家。中外製薬創業者・元代表取締役社長。位階は正五位。 鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥。 1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。 その後貿易会社の大正貿易商会紐育(ニューヨーク)支店長を務めたが、会社が倒産。関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立。1942年に中外製薬に改組・改名。
池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 19… 池田 義信(いけだ よしのぶ、1892年3月10日 - 1973年9月1日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名・旧名池田 義臣(いけだ よしおみ、いけだ ぎしん)。映画製作者連合会事務局長、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)副委員長を歴任。 1892年(明治25年)3月10日、長野県上水内郡三輪村(現長野市)に生まれる。 長野郵便局(現在の長野中央郵便局)勤務を経て、1920年(大正9年)、松竹蒲田撮影所に入社、新派系の演出家賀古残夢、野村芳亭に師事する。翌1921年(大正10年)には、田中欽之が監督した『親なき娘』の脚本を書く。同年10月21日に公開された、柳川春葉原作、伊藤大輔脚本、栗島すみ子主演の映画『生さぬ仲』で監督に昇進している。
関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 … 関 威雄(せき たけお、1892年(明治19年)3月10日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、日本の政治家。新潟県高田市(現・上越市)長(2期)。 新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ。1906年(明治39年)新潟県高田師範学校卒。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する。 1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する。※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts) 同年4月10日に就任した。
高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 189… 高瀬 荘太郎(たかせ そうたろう、旧字体:髙瀨莊太郎 1892年3月9日 - 1966年9月4日)は会計学者、政治家。正三位勲一等瑞宝章。
本位田 祥男(ほんいでん よしお、1892年(明治25年)3… 本位田 祥男(ほんいでん よしお、1892年(明治25年)3月8日 - 1978年(昭和53年)11月17日)は、日本の経済学者。西洋経済史専攻。欧州経済史、殊にイギリス経済史および消費組合研究の権威者として知られ、協同組合論にも多大な貢献をもたらした。
石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1… 石原 舟月(いしはら しゅうげつ、1892年3月7日 - 1984年10月13日)は、大正・昭和期の俳人。現在の山梨県笛吹市御坂町生まれ。本名は起之郎。慶應義塾大学部理財科卒業。 1921年「雲母」入会、飯田蛇笏に師事。のち「雲母」同人。1926年、小川鴻翔・西島麦南と「雲母東京支社」を創設した。1932年、東京電柱広告社を創業し、後に東広会長。戦後は一時期東京の自宅に「雲母」発行所を移し、復刊・継続に貢献した(1946年-1951年)。1967年、第3回山廬賞受賞。1976年、勲五等瑞宝章受章。1980年、俳人協会名誉会員。1981年、『雨情』により第15回蛇笏賞を受賞。 「雲母」一筋の俳人で、実業に携わりながら自然と生活を深い詩情をもって詠んだ。
片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7… 片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7日 - 1953年(昭和28年)12月27日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・河本。 岡山県久米北条郡大井西村坪井下(久米郡大井西村、大井町、久米町を経て現津山市坪井下)で、素封家・河本芳太郎の長男として生れ、同村の親族、医師・片山恒四郎の養子となる。三宮電信局通信書記補を経て、実業家を目ざして同郷の西山和三郎の秘書となり、久米銀行千代支店長、山陽銀行千代支店長、同落合支店長、津山土地支配人、東京小松川土地建物常務取締役などを務めて成功をおさめ、岡山土地倉庫常務取締役、東京平井三業社長、宇部燃料工業社長、津山土地取締役、中国住宅取締役などを務めた。
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年1… 李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は、朝鮮の文学者、思想家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。本貫は全州李氏。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は「香山光郎」(かやま みつろう)。 平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院普通学部在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。在学中に『無情』を発表。1919年、三・一運動に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに「二・八独立宣言」の起草に加わった後、上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。
坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月… 坂本 直道(さかもと なおみち、1892年(明治25年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の実業家。南満州鉄道参与を務めた。坂本龍馬の甥の一人である坂本直寛の長男(第三子)。 高知県生まれ。1897年、父・直寛(郷士坂本家5代当主)ら一族で北海道訓子府に移住する。1906年釧路で北米・中国に鉄道枕木を輸出する目的で坂本商会を設立本拠地は釧路市となる。1911年に父が亡くなり、いったん郷士坂本家を相続する(郷士坂本家6代当主となる)が、1913年に直道が隠居する形で、郷士坂本家は義兄の彌太郎(郷士坂本家7代当主)が家督を継ぐこととなる。 1920年(大正9年)に東京帝国大学法学部を卒業して南満州鉄道に就職。
藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962… 妹尾 韶夫(せのお あきお、1892年3月4日 ‐ 1962年4月19日)は、日本の翻訳家・探偵小説作家。創作では妹尾アキ夫名義での活動が多い。 岡山県津山市生まれ。早稲田大学英文科卒業後、1922年(大正11年)頃から雑誌『新青年』等で英米中心の探偵小説の翻訳を手がける。ステイシー・オーモニア(英語版)、L.J.ビーストン、R.A.フリーマン、ハリス・バーランド、ブリットン・オースティン、アガサ・クリスティーの短編が特に多かった。1925年(大正14年)以降はアキ夫名義で創作も手がけ、30作から40作ほどの短編を発表している。 また、『新青年』で月評を担当していた胡鉄梅、『宝石』で月評を担当していた小原俊一は、共に妹尾の変名だといわれている。
郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 19… 郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、日本画家、日本芸術院会員。 富山県小杉町出身。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。 壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員。
長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1… 長谷川 義起(はせがわ よしおき、1892年3月3日 - 1974年2月20日)は、日本の彫刻家。特に相撲をテーマにした作品を得意とした。本名・勝之。 富山県射水郡大島村(現在の射水市)に生まれた。1910年(明治43年)に富山県立工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)、1915年(大正4年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科本科塑造部を卒業した。1920年(大正9年)の第2回帝展に「露光」が初入選してから連続入選を重ねた。1930年(昭和5年)の第12回帝展において「円盤」が推薦となり、以後無鑑査出品となった。 日展審員、日本彫塑家クラブ理事、日本陶彫会委員長、北陽美術会理事などを歴任した。
杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978… 杉野 芳子(すぎの よしこ、1892年3月2日 - 1978年7月24日)は、20世紀の大正時代から昭和時代にかけて活動した日本のファッションデザイナーで、学校経営者。「ドレメ式洋裁」の創案者で、杉野女子大学学長、杉野学園ドレスメーカー学院創立者。 1926年(大正15年)、ドレスメーカー女学院(現在のドレスメーカー学院)を設立。洋服に仕立て服(オーダーメイド)しかなかった時代に、標準的な型紙を使った、セミオーダーメイドや既製服(レディメイド)といった効率的な製作方法を教育。安価で良質な洋服の普及を目指した。 戦後はいくどとなく渡仏。オートクチュールの世界で巨匠とまでいわれていた、ジャック・ファット、クリスチャン・ディオール、ピエール・バルマンなどと親交があった。
吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日… 吉田 萬次(よしだ まんじ、1892年(明治25年)3月2日 - 1958年(昭和33年)12月21日)は、日本の政治家、医師。参議院議員(1期)、愛知県会議員(3期)、一宮市長(2期)、一宮市会議員(4期)。 愛知県中島郡一宮町(現一宮市)に生まれる。1911年(明治44年)3月、明倫中学校(現愛知県立明和高等学校)卒業。1917年(大正6年)、愛知県立医学専門学校卒業。1918年(大正7年)、吉田医院を開業。 1921年(大正10年)、一宮市の市制施行に際し、一宮市会議員に初当選。1927年(昭和2年)、京都帝国大学で医学博士を修了。 1931年(昭和6年)9月、愛知県会議員選挙に立憲民政党公認で初当選。
西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 195… 西原 雅一(にしはら がいち、1892年3月2日 - 1954年11月11日)は、沖縄県の医師で、宮古支庁、宮古群島政府及び琉球政府の政治家。終戦直後に宮古支庁長や宮古群島知事を務めた。沖縄県宮古郡伊良部町(現在の宮古島市)出身。 明治25年(1892年)3月2日生まれ。大正5年(1916年)に熊本医学専門学校(現在の熊本大学医学部)を卒業する。 その後宮古島に帰島し医院を開業する。昭和10年(1935年)に伊良部村長となり、昭和12年(1937年)に沖縄県会議員に選出される。 沖縄戦後は、進駐したアメリカ軍によって宮古支庁長に任命され、1950年には宮古群島知事に選出された。 その後1952年の第1回立法院議員総選挙に出馬し当選する。
高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1… 高杉 晋一(たかすぎしんいち、1892年(明治25年)3月1日 - 1978年(昭和53年)6月6日)は、日本の実業家。 1892年3月1日、茨城県鉾田町の高杉健作の子として生まれる。1910年(明治43年)、土浦中学校卒業(岡野保次郎と同期)。第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法学部を卒業。 同年三菱合資銀行部に入社。名古屋支店長を経験し、監査、取締常務を歴任する。1947年(昭和22年)1月、三菱電機社長となる。1956年(昭和31年)11月、三菱電機会長となる。1962年(昭和37年)、同会長を退任。 1964年(昭和39年)12月14日、日韓会談における日本側首席代表の杉道助が死去。
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25… 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼(がき)。東京府東京市京橋区(現:東京都中央区)出身。 1892年(明治25年)、東京市京橋区入船町8丁目(現:東京都中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。出生時刻については資料がないため不明である。 戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家である芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。芥川自身は「龍之助」の表記を嫌った。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。
西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日… 西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期。第二次世界大戦中、エニウェトクの戦いにて戦死した。最終階級は陸軍少将、死後中将に特進。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。 高知県土佐郡一宮村薊野(現・高知市薊野)に又吉・令の次男として生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後、歩兵第41連隊附となり、中国東北部に駐屯する。 内地帰還後、陸軍士官学校生徒隊附、歩兵第41連隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長を経て、1933年(昭和8年)歩兵第13旅団副官となり、再び中国東北部に出征する。
西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - … 西村 敬太郎(にしむら けいたろう、1892年3月1日 - 1971年11月7日)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として真光教会や浦和や福島で司牧したほか、立教大学でチャプレン、学生部長および講師を務めた。 1892年(明治25年)、東京府東京市日本橋区瀬戸物町出身。1916年(大正5年)、立教大学文学部卒業。同級生に中国の政治家の陳樹人(広東省長、国民党外務大臣、嶺南画派の創始者の一人)がいる。 1923年(大正12年)に日本聖公会の執事となり、1926年(大正15年/昭和元年)に司祭に按手。 聖職者として浦和や福島で司牧したほか、1935年(昭和10年)に当時本所区(現・墨田区)にあった真光教会の第2代牧師として着任。
岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 19… 岸本 水府(きしもと すいふ、1892年2月29日 - 1965年8月6日)は、大正・昭和初期の川柳作家、コピーライター。番傘川柳社会長。日本文藝家協会会員。本名・龍郎(たつお)。三重県に生まれ、大阪府で育った。 1909年大阪成器商業学校(現・大阪学芸高等学校)卒業。同年西田当百に師事、1913年に西田当百等とともに番傘川柳社を組織し『番傘』を創刊、のちに編集主幹として主宰。そのかたわら、コピーライターとして1909年大阪貯金局にはいり、大阪新報社勤務をへて、1918年桃谷順天館に転じ、1920年福助足袋(現:福助)、1931年壽屋(現:サントリー)、グリコ(現:江崎グリコ)の広告を担当。グリコでは広告部長を務めた。
磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月2… 磯田 三郎(いそだ さぶろう、1892年〈明治25年〉2月28日 - 1979年〈昭和54年〉10月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県多野郡万場町生利(現・神流町)出身。農業・磯田芳十郎の息子として生まれる。日本中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第17連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業し、野砲兵第17連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員を経て、1925年(大正14年)5月、アメリカ大使館付武官補佐官に発令。
福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 -… 福田 平八郎(ふくだ へいはちろう、1892年2月28日 - 1974年3月22日)は、大分県出身の日本画家。
中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2… 中村 文夫(なかむら ふみお、1892年 <明治25年> 2月28日 - 1982年 <昭和57年> 9月20日)は、日本の経営者。日本板硝子社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1916年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友総本店に入社。1921年に日本板硝子に転じ、1933年に取締役に就任し、1942年に常務を経て、1943年12月に社長に就任。1968年11月に相談役に退いた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1982年9月20日老衰のために死去。90歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。
牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2… 牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2月27日 - 1986年 <昭和61年> 11月12日)は、日本の経営者。熊谷組社長、会長を務めた。鳥取県倉吉市出身。位階は従四位。 1912年に岩倉鉄道学校建築科を卒業し、1915年に飛島組に入社。1938年に熊谷組の設立に携わり、専務に就任し、1959年3月に副社長に就任し、1967年12月には社長に昇格。1978年12月に会長に就任。 1955年7月に藍綬褒章を受章し、1974年に勲三等旭日中綬章を受章。 1986年11月12日急性心不全のために死去。94歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 198… 佐伯 達夫(さえき たつお、1892年2月27日 - 1980年3月22日)は、大阪府出身の野球選手。元・大鋼運輸社長。1967年から1980年まで日本高等学校野球連盟の会長を務めた。
辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 … 辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 - 1969年(昭和44年)8月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。祖父は佐賀の干拓の父とも言われる辻演年。弟は後に参議院議員となる福岡日出麿。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位勲二等。 1892年、東与賀村長辻武一郎の長男として東与賀村住吉に生まれる。佐賀中学校を卒業後軍人を志し熊本陸軍幼年学校に進学。さらに陸軍士官学校に進んだ(陸士25期)。砲兵畑を進み、久留米野砲24連隊、朝鮮龍山砲兵隊などに所属。1938年(昭和13年)には野砲兵23連隊長として上海に入り江南の治安確保に当たった。さらに南京政府軍事顧問、第20砲兵団長、中部軍兵器部長などを経て1945年(昭和20年)陸軍兵器学校長となり中将に昇進した。
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月… 加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年(明治25年)2月25日 - 1978年(昭和53年)9月27日)は、昭和期の政治家、労働運動家。衆議院議員(7期、日本社会党)、労働大臣(第2代)。碧水、率とも称した。 戦前の労働運動で活躍し、「火の玉勘十」の異名を取った闘士型の運動家。立憲民政党、国民同盟の衆議院議員を務めた加藤鯛一は実兄。婦人運動家、政治家の加藤シヅエは、夫人で「おしどり議員」として知られた。息子は加藤宣幸、娘は加藤タキ(多喜子)。 1892年(明治25年)2月25日に、愛知県丹羽郡岩倉村(現在の岩倉市)で生まれる。 日本中学などを経て、日本大学法学部中退。 当初は国家主義者として出発し、1918年(大正7年)シベリア出兵に参加するが、戦争の悲惨さを体験して、反戦・労働運動に転向した。