斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)… 竹上 藤次郎(たけがみ とうじろう、1887年(明治20年)1月17日)- 1961年(昭和36年)8月13日)は、大正から昭和期の日本の実業家、政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都商工会議所会頭。 京都府 京都市上京区五辻通大宮五辻町で、生糸問屋「八文字屋」通称「八藤」当主・竹上藤造の二男として生まれる。桃薗校を経て京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)に入学。1902年(明治35年)弁護士を目指して京都法政学校(現立命館大学)に転じたが、同年末、父の意思で第一商業に復帰し、1907年(明治40年)3月に卒業。その後、日本大学法律学科に進んだが、家業の継承のため中退し帰郷した。
坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 19… 坂口 静夫(さかぐち しずお、1887年1月17日 - 1947年3月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本藩士・坂口騏十郎の三男として生まれる。中学済々黌を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、陸軍少尉に任官。 1920年8月、歩兵第48連隊中隊長に就任し、陸軍兵器本廠員、陸士予科中隊長などを経て、1925年4月、近衛歩兵第3連隊付(東京府立第二中学校配属将校)となる。歩兵第27連隊付、第1師団司令部付、第7師団副官、歩兵第24連隊付、独立守備歩兵第9大隊長などを歴任し、1937年8月、陸軍大佐に昇進。 1937年11月、第16師団司令部付(第三高等学校配属将校)となり、歩兵第109連隊長を経て、1939年9月、陸軍少将に進級。
松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1… 松田 竹太郎(まつだ たけたろう、1887年(明治20年)1月16日 - 1944年(昭和19年)5月8日)は、日本の工学者・海軍軍人。最終階級は、海軍少将。 東京府立工業奨励館・東京商工奨励館館長などを歴任。
葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月1… 葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。 青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。また、同年に弟の勇蔵が生まれている。 1889年(明治22年)、家業不振により一家で北海道に移住。1891年(明治24年)、一家で青森に戻り、青森町を経て五所川原村に移住。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、碇ヶ関小学校に転校する。
大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月1… 大麻 勇次(おおあさ ゆうじ、1887年(明治20年)1月16日 - 1974年(昭和49年)2月22日)は、日本の剣道家。段位は範士十段。熊本の新陰流(上野新陰流)の和田傳の弟子。 1887年(明治20年)、熊本県玉名市安楽寺に生まれる。弟は後に衆議院議員、国家公安委員会委員長を務める大麻唯男。 1909年(明治42年)から1910年(明治43年)まで、大日本武徳会本部講習生として剣道を修行する。 その後、熊本に帰り、大日本武徳会熊本支部、熊本陸軍幼年学校で剣道を指導する。 1915年(大正4年)、精錬証を授与される。 1921年(大正10年)12月から1945年(昭和20年)まで、大日本武徳会佐賀支部、佐賀県警察部、佐賀高校などの剣道師範を歴任。
品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 19… 品川 主計(しながわ かずえ、1887年1月15日 - 1986年2月14日)は、日本の内務官僚、実業家、読売ジャイアンツ球団社長。「球界の頑固親父」との異名も持つ[要出典]。従五位。 福井県福井中学校卒業後、1904年9月 旧制第四高等学校に入学した。同期には正力松太郎や河合良成がいた。第四高等学校卒業後は東京帝国大学に入学、同期に正力、河合の他、重光葵、芦田均、石坂泰三など。 東京帝国大学卒業後、内務省に入省して警視庁警視、京都府書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長などを務めた。1932年の満州国成立後、監察院長、監察院審計部長などを務める。黒竜江省長の韓雲階による汚職を摘発、一時彼を要職から遠ざけた。
杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 196… 杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 1968年)は、日本の弁護士。初代名古屋高等裁判所長官。 明治20年(1887年)福井県三方郡三方町に生まれる。昭和37年3月 – 旧制小浜中学校卒業、第一高等学校入学。 大正2年 6月 – 東京大学法学部卒業。大正3年3月 – 弁護士開業。大正11年 – 東京市浅草区会議員当選。昭和14年 – 弁理士。 昭和22年9月26日 – 名古屋高等裁判所長官。昭和27年1月14日 – 定年退官。昭和27年2月 – 弁護士復帰。
笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - … 笹部 新太郎(ささべ しんたろう、1887年1月15日 - 1978年12月19日)は、日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、特にサトザクラ、ヤマザクラなどの日本古来種の保護育成に尽力し、「桜博士」といわれた。 1887年1月15日、大阪市北区堂島船大工町に生まれる。西天満小学校、盈進高等小学校、堂島中学校(現北野高校)、第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。在学中より独学で桜の研究に打ち込む。卒業後は犬養毅の秘書をした後、兵庫県宝塚市切畑長尾山の麓(現在のJR西日本福知山線武田尾駅近辺)に桜の研修を行う演習林「亦楽山荘」を造園。品種保存などを研究した。没後は荒れて雑木林となったが、親族より跡地を寄贈された宝塚市が1999年に里山公園「桜の園」として再整備。
本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉… 本村 善太郎(もとむら ぜんたろう、1887年〈明治20年〉1月15日 - 1970年〈昭和45年〉6月24日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。佐賀県出身。 1915年(大正4年)に京都帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。第一東京弁護士会に所属し、弁護活動をする一方で日本発送電会社の顧問や調停委員などを務めた。 1951年(昭和26年)4月に第一東京弁護士会の司法制度調査委員会委員長、次いで同5月に日弁連人権擁護委員会委員長となり、弱者の救済に尽くした。 1952年(昭和27年)1月に最高裁判所判事に就任。就任の際には「裁判以外に何事も関心なし。裁判を通じで法治国の体面、内容を充実したい。
武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 19… 武政 太郎(たけまさ たろう、1887年1月13日 - 1965年1月7日)は、日本の心理学者。 岡山県出身。1921年東京高等師範学校卒、27年東京帝国大学文学部心理学科卒。大学院在籍、29年東京文理科大学助教授、教授。31-33年ドイツ・ロストック大学に学ぶ。1942年「学習心理の研究」で東京文理科大学より文学博士の学位を取得。神奈川大学教授、大妻女子大学教授、講談社児童相談所長。
大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月… 大島 堅造(おおしま けんぞう、1887年〈明治20年〉1月11日 - 1971年〈昭和46年〉11月24日)は、日本の実業家。住友銀行専務、住友本社取締役、経済評論家。 群馬県太田市大島町出身。東京府立一中に学ぶ。1909年(明治42年)東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。 同年住友銀行に入行。1917年(大正6年)ニューヨーク支店長代理となる。1923年(大正12年)本店外国課長。1925年(大正14年)本店支配人。1932年(昭和7年)常務取締役。1943年(昭和18年)専務取締役。1944年(昭和19年)まで同取締役、1945年(昭和20年)まで同監査役を務めた。1943年(昭和18年)から1947年(昭和22年)まで住友本社監事を務めた。
望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日… 望月 桂(もちづき かつら、1887年(明治20)1月11日 - 1975年(昭和50)12月13日)は、アナキストの画家、デザイナー、漫画家である。漫画家としては筆名を犀川 凡太郎(さいかわ ぼんたろう)とする。
佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - … 佐藤忠次郎(さとう ちゅうじろう、1887年1月11日 - 1944年)は、佐藤造機(後の三菱農機 → 三菱マヒンドラ農機)の創設者。島根県出雲郷村(現・松江市)出身。
金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10… 金野 岩治(こんの いわじ、1887年(明治20年)1月10日 - 1969年(昭和44年)5月29日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第2代市長。 1888年(明治21年)3月1日山形県西田川郡加茂村(現・鶴岡市加茂)に飛塚元次郎の次男として生れる。その後、東田川郡広瀬村(現・鶴岡市羽黒町)の酒造業経営・今野岩治の婿養子となり、「岩治」を襲名する。 1905年(明治38年)、荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し(同窓生に小林鉄太郎がいた。)、 大阪工業高等学校で学ぶ。その後は、 会社員を経て、鶴岡市会議員となる。 1927年(昭和2年)5月 鶴岡市長選挙に立候補して初当選。同年10月、 同職を辞任し山形県会議員選挙に立候補するが落選。
小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月1… 小島 智善(こじま ともよし、1887年(明治20年)1月10日 - 1950年(昭和25年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 福島県田村郡飯豊村(現在の小野町)出身。第二高等学校を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。大場茂馬の弁護士事務所に勤務した後、1917年(大正6年)に東京市麹町区に事務所を開いた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に日米信託株式会社顧問を務めた。
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 … 森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日 – 1956年(昭和31年)9月16日)は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎。 子爵関博直の四男として生まれ、1900年(明治33年)に子爵森長祥の養子となり家督を相続した。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選。
岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4… 岡田 壽吉(おかだ ひさきち / じゅきち、1887年1月4日 - 1949年3月6日以降)は、長崎市長(2期)。1945年8月9日の長崎原爆投下時の市長でもあった。名前は寿吉とも表記される。 兵庫県出身。1921年東京帝国大学法学部を卒業。三菱重工長崎造船所に入り、総務部長、副長などを務め、その一方、長崎市会議員を2期務めた。1941年10月22日長崎市長に就任した。民間出身としては初の市長となった。就任直後に太平洋戦争が勃発、戦時体制が強化されるなか困難な市政運営であった。 1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下により市内に甚大な被害が生じた。岡田は市庁舎に居て被爆したものの助かったが、爆心地から約200ⅿの位置にあった自宅の妻と長女、旧制瓊浦中学に通学していた長男の家族3名を失った。
内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日… 内海 勝二(うつみ かつじ、1887年(明治20年)1月3日 - 1967年(昭和42年)12月16日)は、大正から昭和期の実業家、華族。貴族院男爵議員、従三位。孫の貴子は朝香誠彦の妻。 男爵・内海忠勝の二男として東京都に生まれる。1912年(明治45年)に慶應義塾大学部政治科卒業後に渡米した。1905年(明治38年)2月22日、父の死去に伴い男爵を襲爵。 1919年(大正8年)内海化学研究所を設立して所長に就任。その他、発明協会評議員、国民工業学院評議員、慶應義塾評議員等を歴任し、東京民事地方裁判所調停委員となる。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し、公正会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1… 豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1月2日 - 1949年(昭和24年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。 愛媛県大内郡黒羽村(香川県大川郡相生村大字黒羽、引田町を経て現東かがわ市黒羽)で、豊島九平、清の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、長崎県理事官、地方視学官、福井県警察部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長などを歴任。 1931年12月、栃木県知事に就任。阿久津村小作争議事件の解決に尽力。
清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 … 清水 登之(しみず とし、1887年(明治20年)1月1日 - 1945年(昭和20年)12月7日)は、栃木県出身の画家。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)で、清水藤十郎・ムラ夫妻の長男として生まれる。弟は東亜同文書院教授や外交官となった清水董三。(旧制)栃木県立栃木中学校から陸軍士官学校への進学を志し成城学校に転校。1906年に同校を卒業するも陸軍士官学校への受験に失敗し、翌年には単身アメリカ合衆国へ渡航する。暫くはシアトルで肉体労働に従事するが、1912年にオランダ人画家フォッコ・タダマが同地で開いていた画塾に入門した(同時期、洋画家の田中保や石垣栄太郎もここで学んでいる)。
國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1… 國東 照太(くにとう てるた、1887年(明治20年)1月1日 - 1972年(昭和47年)6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、グローバルに展開する零細企業集団「国東財閥グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。 1887年(明治20年)1月1日、香川県香川郡中ノ村(後に栗林村大字中村、現・高松市中野町)に父長太郎、母ツネの長男として生まれる。両親は家の東側を流れる川で紙の手漉き製造を生業としていた。 栗林尋常小学校(現・高松市立栗林小学校)を卒業後、10歳で紫山高等小学校(高松市天神前、現・アイパル香川)へ進学。
國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972… 國東照太(くにとう てるた、1887年1月1日 - 1972年6月11日)は、日本の政治家、実業家。1938年に高松市市議会議員を経て、1946年から1967年までの官選1期公選5期の21年にわたり高松市長を務めた政治家であると同時に、高松市を中心とする企業集団「常磐グループ」の創始者たる実業家でもある。高松市名誉市民。
嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 19… 嶋居 哲(島居、しますえ てつ、1887年1月1日 - 1979年3月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 広島県出身。1909年、大阪高等商業学校卒。のち京都帝国大学独法科で学ぶ。その後、尾道市会議員、同議長、鉄道大臣秘書官となる。また、尾道電燈、尾道鉄道、広島農産各(株)取締役、尾道自動車(株)社長、備南銀行頭取、島居商店、島居電機(株)取締役社長、嶋居薬品、嶋居薬局各社長、中国薬品卸連合会会長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島3区(尾道市)から立憲政友会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では広島3区(中選挙区)から立候補して再選した。
園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉… 園田 湖城(そのだ こじょう、男性、1886年〈明治19年〉12月31日 - 1968年〈昭和43年〉8月25日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は耕作(後に穆に改名)、字は清卿、号は湖城の他に平盦がある。 滋賀県大津市出身。京都の藤井有鄰館の主事となる。書画の鑑定に精しく中国文物の収集を任されている。富岡鉄斎・内藤湖南らと交流し、森琴石らと平安印会を興した。門弟に加藤慈雨楼、水野恵らがいる。園田は古官印の研究をする時、官印には役人のさまざまな人生が投影されていることに思いを馳せ、香を焚きながら印譜作成に臨んだことが伝えられ記されている。
田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日… 田中 好(たなか こう、1886年〈明治19年〉12月30日 - 1956年〈昭和31年〉5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(当選4回)。日本の道路法の基礎を築いた。 京都府船井郡園部町(現・南丹市)生まれ。京都府士族・田中勝次の長男。幼くして父を失う。1910年、立命館大学専門部法律科卒業。京都府庁、兵庫県庁、内務省等に勤務した。その後、臨時震災救護事務局事務官兼鉄道省事務官をつとめた。一貫して道路・交通・治水行政に従事した。 1936年には第19回衆議院議員総選挙に立憲政友会より立候補し初当選。その後も公職追放の期間を挟んで戦前2回(京都府第2区)、戦後1回(京都2区)、計4期に渡り国政に携わるなど活躍。
蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12… 蔭山 貞吉(かげやま さだきち、1886年〈明治19年〉12月27日 - 1950年〈昭和25年〉6月13日)は、日本の政治家、陸軍軍人。衆議院議員(3期)。旧姓・橘。 大阪府川辺郡、のちの小田村(現尼崎市)の橘家に生まれ、1917年(大正6年)蔭山しな の養子となり、1918年(大正7年)家督を相続した。 1907年(明治40年)陸軍士官学校(19期)卒。卒業後、京都帝国大学に派遣され、政治、経済学を学ぶ。陸軍歩兵少佐に進み大阪歩兵第8連隊大隊長となり退官した。その後、全国土地区画整理組合顧問、三和特殊製鋼、阪神急行自動車、日ノ丸無尽各(株)重役、(株)日本造機所社長となる。 1928年の第16回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選。
渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉… 渋沢 武之助(しぶさわ たけのすけ、1886年〈明治19年〉12月26日 - 1946年〈昭和21年〉6月4日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の二男。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の二男で、渋沢正雄、渋沢秀雄の兄、渋沢篤二の弟、渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に学んだが、病を得て半途退学し実業界に入った。 石川島飛行機製作所社長、国産電機相談役、国際産業、十勝開墾、仏国通商、浅野セメント各取締役、日本醋酸製造、大島製鋼、渋沢同族、浅野セメント、東京石川島造船所各監査役、帝国飛行協会理事などをつとめた。 1914年、分家した。趣味は運動。住所は東京市滝野川区西ヶ原町。
石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 … 石井 漠(いしい ばく、本名:忠純、1886年12月25日 - 1962年1月7日)は、日本の舞踊家、ダンサーである。いずれも作曲家の石井歓、石井眞木は息子、石井五郎は弟。また現代舞踊家の石井登は孫。舞踊家の石井武は曾孫である。 1886年(明治19年)、秋田県山本郡下岩川村(のちの山本町、現三種町)に石井龍吉・ハツ夫妻の長男として生まれた。1893年(明治26年)、下岩川尋常小学校に入学、吃音の友人の口真似をしているうちに自らも吃音となる。1897年(明治30年)に森岳尋常小学校の高等科に入学したが、友人との交流を優先して学業を怠るようになった。これを問題視した父の龍吉は、石井を能代港町の渟城尋常高等小学校の高等科に転校させ、能代の親戚の家から通学させた。
青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 -… 青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 - 1938年1月17日)は、日本の華族(子爵)、教育家。青山家当主。 篠山藩藩主青山忠良の子である青山忠惇の二男として1886年(明治19年)に生まれる。はじめは「惇揚」と名乗った。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。佐賀県立鹿島中学校、私立大倉商業学校、奈良県立高田高等女学校、長野県立上田高等女学校などで教鞭を執った。1934年(昭和9年)に旧丹波篠山藩主・青山家を継ぎ、名を「忠揚」と改め、郷土の育英に尽力した。1935年(昭和10年)に襲爵し、子爵となった。
尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月… 尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月25日 - 1960年〈昭和35年〉3月24日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。初名・百平。 佐賀県藤津郡古枝村(現鹿島市)で尾崎重吉の三男として生まれる。1898年頃、父の移住先北海道常呂郡常呂村に来住。すぐに働きはじめ、農業、出前持ち、馬橇の御者、馬喰などを経て、料理屋経営を行う。 1916年頃、釧路新聞通信所記者となる。北見実業新聞記者を経て、1920年、札幌に出て休刊中の『北海道報』を継承し『北海道新聞』(現『北海道新聞』とは異なる)に改題して経営を行う。同年4月、裁判所の許可を得て「天風」と改名した。その後、常呂郡置戸村の公有林伐採事件で検挙されて『北海道新聞』が休刊となり、釈放後上京して、雑誌「建設ノ日本」社長となった。
村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月… 村井 八郎(むらい はちろう、1886年(明治19年)12月24日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。衆議院議員、福島県知事、郡山市長、川崎市長、会津若松市長を歴任した。旧姓・阿部。位階は従四位。 福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。阿部又吉の五男として生まれ、村井半之助の養子となる。会津中学、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し福島県属兼警部となる。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、新潟県東蒲原郡長、同三島郡長、同理事官、長野県警察部長、大分県警察部長、熊本県書記官・警察部長、山形県書記官・内務部長、大阪府書記官・警察部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(… 久野 久(くの ひさ、1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日 - 1925年(大正14年)4月20日)は、日本のピアニスト。文部省からの辞令で音楽留学したウィーンで投身自殺した。 琴や三味線、長唄などの邦楽が盛んだった明治時代にピアニストとして活躍し、「音楽の都」とされるオーストリア・ウィーンで演奏を果たしたことから「日本初のピアニスト」と称される[リンク切れ]。 1886年(明治19年)(1885年(明治18年))12月24日に滋賀県滋賀郡膳所町馬場(現:滋賀県大津市馬場)で質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれる[リンク切れ]。3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負う。
三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月… 三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 富山県上新川郡飯野村(のち広田村飯野、現在・富山市)出身。三辺長三郎の三男として生まれる。富山中学、第四高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り埼玉県属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務属となり警保局に配属。その後、大正3年(1914年)に愛媛県視学官、大正5年(1916年)に大阪府視学官、大正8年(1919年)に内務省地方局事務官となり、地方局市町村課長・都市課長・行政課長などを歴任。
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉1… 西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1964年〈昭和39年〉12月26日)は、日本の国史学者。本名・直二。京都大学名誉教授。 1886年、大阪府西成郡清堀村(現・大阪市天王寺区)で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、史学科国史学専攻1期生として内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らの下で学んだ。1910年に卒業。同年、同大学大学院に進み、日本文化史を専攻。 1915年、京都帝国大学講師に就いた。1919年に助教授、1924年に教授昇格。1924年に学位論文『王朝ノ庶民階級』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。 政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任。
赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12… 赤松 智城(あかまつ ちじょう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉3月12日)は、日本の宗教学者。 1886年、山口県周南市で赤松照幢の長男として、浄土真宗の徳応寺に生まれた。第五高等学校に進学し、3年の時には総代であった。 1940年、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。同大学哲学科は前年の1939年に開設されたばかりであり、宗教学科では松本文三郎に師事。1910年7月に首席で卒業。同大学大学院に進み、一方で仏教大学(現・龍谷大学)で教鞭も執った。大学院には羽渓了諦、宇野円空らが在籍しており、学生間ならびに教授陣との交流も活発であり、東京帝国大学と京都帝国大学の有志が集まって1915年に「宗教研究会」(現・日本宗教学会)を設立。
額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22… 額田 晋(ぬかだ すすむ、1886年(明治19年)12月22日 - 1964年(昭和39年)9月29日)は、日本の医師、医学者(内科学)、医学博士、理学博士。東邦大学および額田医学生物学研究所の創立者。 1886年(明治19年)、岡山県邑久郡に医師の次男として生まれた。旧制一高を経て東京帝国大学医科大学に進学した。1917年(大正6年)から翌年にかけ、アメリカのハーバード大学に自費留学し、医学博士を取得し帝国大学附属病院の講師を務めた。中国の北京協和医学校に赴任後、帰国した額田は1925年(大正14年)に兄の額田豊と共に帝国女子医学専門学校(東邦大学の前身)を創設した。1926年(大正15年)には理学博士も取得し、神田に額田内科病院、千葉県稲毛に額田医学生物学研究所を設立した。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17… 東 季彦(あずま すえひこ、1886年(明治19年)1月17日 - 1979年(昭和54年)7月18日)は、日本の法学者。旧姓乾(いぬい)。商法の権威として知られた。佐佐木信綱門下の歌人でもある。 奈良県十津川村出身。親類東武(衆議院議員、出版事業家)の養子となり、東姓を名乗る。1889年(明治22年)8月、故郷が大水害に遭ったため、同年11月、一家で北海道新十津川村に移住。村の小学校を卒業した後、上京して旧制開成中学に入学。同校を卒業後、旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業し、陸軍経理学校の教授に就任。 1922年(大正11年)、文部省留学生として渡欧し、英・独・仏で民法を研究。1924年(大正13年)に帰国し、九州帝国大学法文学部教授に就任。
信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月1… 信原 済夫(のぶはら ますお、1886年〈明治19年〉1月15日 - 不明 )は日本の実業家である。三井物産参事。岡山県高梁市出身。 1886年(明治19年)、岡山県川上郡(現在の高梁市)で生まれる。旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部甲類に進学、中学時代の同期である池田亮次と同級生だった。1908年(明治41年)、同校を卒業し、東京帝国大学工学部機械工学科へ進学した。1911年(明治44年)7月同大学を卒業後、25歳で三井物産へ就職した。 入社後、信原は、ドイツにあるベルリン支店に勤務となった。そこで十数年勤務し、帰国後は同社の総務部長に昇格した。
寺邑 政徳(てらむら せいとく、1886年1月15日 - 1… 寺邑 政徳(てらむら せいとく、1886年1月15日 - 1962年1月31日)は、日本の医師。 医師であった寺邑貫三の長男として現在の大仙市で生まれる。1913年に京都府立医学専門学校(現在の京都府立医科大学)を卒業し、順天堂病院に1年勤務した。1916年に帰郷し父の後を継ぎ医院を開業した。開業後に田中敬助に師事しツツガムシ病の研究を始めた。1925年には千葉医科大学の教授であった緒方規雄と出会い共同研究を行った。1933年に自宅に「恙虫病研究所」を設立し、ここを拠点として病原体の研究を行った。 1955年に藍綬褒章を受賞し、1959年に秋田県の文化功労章を受章した。
高 一清(コ・イルチョン、고일청、日本名:高峰一清(たかみね… 高 一清(コ・イルチョン、고일청、日本名:高峰一清(たかみね いっせい)、1886年1月14日 - ?)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、朝鮮総督府中枢院参議。 平安北道義州郡出身。京城中学を卒業して、日本に留学し、東京の法政大学で法学を学んだ。 1907年に、安昌浩を中心に結成された新民会の平安北道龍川支部で、甘益龍(朝鮮語版)、感益龍、キム・ヨンギュ(김용규)らと一緒に活動した。1912年に105人事件に連座して義州憲兵隊に逮捕され、巨文島に流刑された。1913年に朝鮮総督府の官吏として任用され、平安北道で約5年間勤務した。 1919年には、三・一運動の後、李裕弼(朝鮮語版)、チョ・ボンギル(조봉길)ら朝鮮人官吏らと同盟退職を決行し、上海に脱出した。
宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年〈明治19年… 宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年〈明治19年〉1月14日 - 1947年〈昭和22年〉9月26日)は、将棋棋士。贈八段。井上義雄八段門下。愛知県愛知郡豐明村出身。日本将棋連盟創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 三男として生まれる。4歳の時に母を亡くし、11歳の時に宮大工の父と死別、この年の秋に奉公に出る。17歳で祖母を亡くし、18歳までに2人の兄と下の弟をいずれも亡くして孤独の身となる。 将棋は8歳の頃に覚えた。苦境の中でも好きな将棋を続け、腰の駒入れ着を手放すことはなかった。 20歳の時に東京を目指すも途中で金銭が尽き、横浜の米穀問屋での奉公となる。
河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月… 河原田 稼吉(かわらだ かきち、1886年〈明治19年〉1月13日 - 1955年〈昭和30年〉1月22日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(第48代)、文部大臣(第50代)、大阪府知事(官選第29代)。貴族院議員、衆議院議員。 旧美作鶴田藩士の奥村就有の子として東京に生まれ、後の福島県南会津郡伊南村(現南会津町)、旧会津藩出身の農学者河原田盛美の養子となる。養父は日本における水産学の先駆者であるが、一時期近衛家の家人となっていたため、稼吉の生涯にも近衛文麿の存在が深く関わってくることになる。 旧制第一高等学校を経て1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学卒業後、内務省に入省。地方事務官、内務書記、熊本県及び長崎県警察部長を経て、内務大臣秘書官床次竹二郎に見出されて社会局労働局長、台湾総督府総務長官、兼台湾総督府交通局総長取扱を歴任後、犬養内閣のとき中橋徳五郎、鈴木喜三郎両内相の内務次官となる。
東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 197… 東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 1976年4月27日)は、大正から昭和初期にかけてのジャーナリスト、実業家。政治団体東方会の設立者のひとり。 京都府愛宕郡八瀬村(現・京都市左京区八瀬)に生まれる。代々天皇家に奉仕する八瀬童子の出身。早稲田大学卒業後、大東汽船へ入社、中国に渡る。後に時事新報特派員となり、宋教仁、孫文、黄興、蔣介石らと親交を結ぶ。大正5年に中野正剛らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉… 甘粕 重太郎(あまかす しげたろう、1886年〈明治19年〉1月11日 - 1958年〈昭和33年〉3月26日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 山形県米沢市門東町出身。米沢尋常中学興譲館より仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。中央幼年学校生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(第29期)を卒業した。 歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任。1930年8月、陸軍大佐に昇進し京城帝国大学の配属将校となる。留守第11師団参謀長を経て、歩兵第15連隊長となり、第一次上海事変により動員されるが満州に転用され、馬占山軍の攻撃に従事。
矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1… 矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉6月21日)は、日本の政治家。大蔵大臣。 愛媛県三豊郡桑山村(現・香川県三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。 1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警察部警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。 1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。
沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957… 沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日 - 1957年9月3日)は、ドイツを中心に、ヨーロッパで活動した日本人のサーカス芸人、曲芸師。 愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり、16歳だった1902年に(14歳だった1900年とする記述もある)、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した。1904年、日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャ、エジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった。