中埜 半左衛門(なかの はんざえもん、1888年(明治21年… 中埜 半左衛門(なかの はんざえもん、1888年(明治21年)2月28日 - 1957年(昭和32年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。初代半田市長。「中埜半左衛門」は代々の当主が襲名しており、本記事の対象となる半左衛門は10代で出生名は俊三である。 愛知県出身。生家は半田地方で代々庄屋を営む家系であった。ミツカンの創業家である中埜又左衛門家は半左衛門家の分家筋に当たる。 1912年早稲田大学政治経済学科卒。半田町議、同町長を経て、1937年半田市の市制施行により、初代市長に就任する。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
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藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27… 藤波 収(ふじなみ おさむ、1888年〈明治21年〉2月27日 - 1972年〈昭和47年〉10月18日)は、大正から昭和にかけて活動した実業家。主として電気事業に関係した。 元は電気技術者。戦前期の大手電力会社大同電力で常務取締役まで昇進し、日本発送電理事、関東配電副社長を経て戦後は北海道電力社長・会長、電源開発総裁を務めた。大分県出身。 藤波収は1888年(明治21年)2月27日、藤波久文の六男として大分県速見郡杵築村(現・杵築市)に生まれた。生家は杵築城の旧城下町の一角である北台にあり、藤波家は父久文の代まで杵築藩士であった。収は男子6人・女子4人の兄弟姉妹の末子で、23歳年上の長兄に司法官となり大審院判事などを歴任した藤波元雄、一つ上の兄に陸軍の軍医となり軍医総監を務めた藤波正がいる。
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寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日… 寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日 - 1948年4月5日)は、富山県礪波郡(現小矢部市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は土谷 爲治郎(つちや ためじろう)。最高位は西前頭9枚目(1916年5月場所)。現役時代の体格は166cm、90kg。得意手は突っ張り、押し。 四股名の由来は師匠の友綱が「体は小さいが、寒の玉子のようにじっと辛抱すれば必ず出世する」という願いを込めて名付けたものだという。その願い通り、初土俵からちょうど9年後に当たる1912年1月場所に見事入幕を果たした。幕内での活躍は少なく、幕内で勝ち越した場所はなく、十両との往復が続いたが、愛嬌のある人気力士だった。
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西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 19… 西岡 瑞穂(にしおか みずほ、1888年2月25日 - 1973年12月8日)は、日本の洋画家。 高知県安芸郡安田村(現・安田町)出身。高知県立第三中学校(現・高知県立安芸中学校・高等学校)、一年間の小学校代用教員を経て、1912年東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科卒業。鹿児島県内の中学校教諭を経て、1913年長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)教諭。教え子に彫刻家清水多嘉示、洋画家高橋貞一郎がいる。長野県立諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)教諭。1919年長野県立野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)教諭。1920年旅順高等女学校教諭。1925年フランスへ留学。
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岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月2… 岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月23日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、富山県生まれの東洋史学者。字は煥卿、号は桜洲。東北大学文学部教授。 江戸時代から続く鵜坂村(現・富山市西本郷)の豪農で、代々富山藩の十村役を務めた名家・岡崎家の十六代として1888年に生まれた。1905年、旧制富山中学校(現:富山県立富山高等学校)を卒業し、第四高等学校に進んだ。京都帝国大学文科大学史学科に入学し、内藤湖南に師事。1912年に卒業した。同大学大学院に進学し、在学中の1919年から1921年まで上野育英会の資金補助を受けて中国に留学した。 帰国後、東北帝国大学における東洋史学専攻講座の開設にあたった。
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山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月2… 山本 三男(やまもと みつお、1888年(明治21年)2月22日 - 1969年(昭和44年)3月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・浜田(濱田)。1925年(大正14年)2月25日、山本に改姓した。 熊本県下益城郡豊野村(現・宇城市)出身。1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1920年(大正9年)4月、歩兵大尉に昇進し歩兵第23連隊付となる。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し第2師団兵器部長に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵第84連隊長に発令され日中戦争に出征。1939年(昭和14年)6月、陸軍少将に進級し歩兵第1旅団長に就任。
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小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月2… 小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年(明治21年)2月20日 - 1973年(昭和48年)3月28日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(7期)。 1888年(明治21年)2月20日、兵庫県加東郡河合村三和(現・小野市三和町)の農家の次男として生まれた。河合小学校を卒業し、関西大学法学部卒業。代用教員をしつつ正教員を目指したが一念発起してアメリカに渡り、1916年(大正5年)にカリフォルニア大学・同大学院法科を修了する。 帰国後は立憲政友会系の中央新聞主筆、同編集局長を経て、1921年(大正10年)には南満洲鉄道に入社。秘書、参与、ニューヨーク支店長、東京支店庶務課長を歴任した。1929年(昭和4年)に退社して立憲政友会に身を置く。
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永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 19… 永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。
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福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月1… 福井 資明(ふくい すけあき、1888年〈明治21年〉2月19日 - 1972年〈昭和47年〉4月14日)は、日本の将棋棋士。青森県弘前市出身。関根金次郎十三世名人門下。 北海道将棋連盟を結成するなど、北海道での将棋の普及活動や後進育成に尽力し、福井と師弟関係にあった棋士はいないが、のちに福井の弟弟子となる五十嵐豊一や、同じく福井の兄弟弟子である渡辺東一門下となる勝浦修の発掘に貢献している。 昭和40年代の将棋名鑑では「地方棋士」として掲載されている。死没後の2006年に九段位を追贈された。 1888年(明治21年)、津軽藩御用菓子司の弘前市の老舗「大阪屋」に生まれる。 幼少の頃、青森の杉野六段に将棋道の手解きを受け、その後旭川市に移り家業を手伝いながら将棋に打ち込んだ。
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秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日… 秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。本名、輝男。名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。 明治20年3月20日広島市に生まれる。幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。 明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。
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奥山 貞吉(おくやま ていきち、1887年〈明治20年〉3月… 奥山 貞吉(おくやま ていきち、1887年〈明治20年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉6月2日)は日本のピアニスト、作曲家、編曲家、トロンボーン奏者。歌手の奥山彩子は実娘。 1887年(明治20年)東京茅場町に生まれる。東洋音楽学校卒業後、大正年間は船内のバンドでの活動を行った。昭和に入ると帝国ホテル主演のハタノ・オーケストラに所属する傍ら東京放送局で楽曲の編曲を担当し、浅草オペラ全盛期には金竜館の音楽部に所属し楽長を務めた。その頃に知り合った佐々紅華のすすめで後年はコロムビア専属となり、多くの作編曲を手掛けた。日本初のスライド・トロンボーンの奏者であったことでも知られる。1956年(昭和31年)に病死した。
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青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月… 青木 春好(あおき しゅんこう、1887年(明治20年)3月19日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の官吏。東京市江戸川区長。 青木丑松の四男として長野県東筑摩郡、のちの錦部村(四賀村を経て現松本市)に生まれる。小学校を経て、松本中学校に学ぶ。日本大学法律科に入学するが、中途退学する。1909年(明治42年)裁判所書記試験に合格し、東京府属となり、1923年(大正12年)南葛飾郡長を拝命する。ついで北豊島郡南千住町助役、1932年(昭和7年)東京市荒川区主事税務課長、1933年(昭和8年)庶務課長を経て、1938年(昭和13年)5月、江戸川区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
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竹下 しづの女(たけした しづのじょ、1887年3月19日 … 竹下 しづの女(たけした しづのじょ、1887年3月19日 - 1951年8月3日)は、日本の俳人。本名はシズノ。 福岡県京都郡稗田村(現:行橋市)出身。末松謙澄の兄の房泰に漢詩を学び、福岡女子師範学校(後の福岡教育大学)卒業後、6年間の教員生活を経て結婚退職し、2男3女を儲ける。夫の代作をきっかけに俳句に親しみ、育児の傍ら本格的に句作を始め、吉岡禅寺洞・高浜虚子に師事。虚子が主催する『ホトトギス』の巻頭を飾るなど、中央の俳壇でも認められるようになり、杉田久女・長谷川かな女とともに、大正期の女流黄金時代をつくった。1928年『ホトトギス』同人。 理知的な手法で、女性の自我や自立を詠った作品が多い。
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斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - … 斎藤 昌三(さいとう しょうぞう、1887年3月19日 - 1961年11月26日)は、日本の古書学、蒐集家、発禁本研究などで「書痴(英語版)」と呼ばれた人物。猥褻本の研究、編訳でも知られる。 少雨叟など多くの号をもつ。 神奈川県高座郡座間村(現・座間市)に商人の子として生まれ、政三と名づけられるが、関東大震災後「昌三」と改名。 神奈川県立第三中学校(現・神奈川県立厚木高等学校)を1905年に中退、横浜の生糸商・原合名会社に勤務。銀行訪問が主な業務で、当時銀行に勤めていた小島烏水や礒萍水と知りあうきっかけとなった。1910年頃勤務をやめ職を転々とした。 1915年同人誌『樹海』を創刊、この雑誌は何度かの改題を経て続いた。
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安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1… 安念 精一(あんねん せいいち、1887年3月18日 - 1972年2月5日)は、日本の経営者、銀行家。安田銀行社長。安田財閥再建期の最高責任者。 富山県東礪波郡太田村(現・砺波市)出身。安念次左衛門の長男。1909年(明治42年)早稲田大学卒業。同年、安田銀行に入る。大正から昭和期にかけての安田系グループ企業の経営者。大垣共立銀行役員、安田信託銀行社長、などを経て、昭和20年(1945年)9月安田銀行(現・みずほ銀行)社長に就任。しかし、翌年、公職追放となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
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坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18… 坂崎 坦(さかざき しずか、1887年(明治20年)3月18日 - 1978年(昭和53年)1月4日)は日本の美術史家。美術評論家・坂崎乙郎の父。西洋音楽史家・坂崎紀の祖父。 兵庫県生まれ。早稲田大学英文科卒業。1914年 朝日新聞社に入社。1921年から2年間フランス留学。美術記者から学芸・調査両部長、編集局顧問などを歴任。1936年 文学博士号(早稲田大学)を取得。1942年 朝日新聞社を定年退社。早稲田大学教授、女子美術大学教授、同短大学部長、実践女子大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章。
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秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3… 秋田 喜三郎(あきた きさぶろう、1887年(明治20年)3月17日 - 1946年(昭和21年)4月12日)は、国語教育学者で戦時中文部省で初等教育国語教科書の編纂に携わった。 秋田喜三郎は、1887年(明治20年)3月17日滋賀県栗太郡上田上村桐生(現大津市上田上桐生町)に生まれた。同郷の上田上村には2歳年下で後に京都帝国大学理学部(天文学)教授で多くのアマチュア天文学者を育てた山本一清がいる。一清の祖父は漢学者山本栗斎で、父は滋賀県内尋常小学校等で実際の教育の場に立った山本清美である。喜三郎はその青年期まで、すぐ近くに当時県内でも有数の教育者がいる中で育った。 1910年(明治43年)滋賀県師範学校(現滋賀大学教育学部)を卒業、同附属小学校訓導となり、1920年(大正9年)には奈良女子高等師範学校附属小学校(現奈良女子大学附属小学校)に転じ、この間、国語教育実践の理論確立につとめ1914年(大正3年)『読方教授の新研』を発表し、以降多くの国語教育に関する著書を記した。
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石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日… 石井 保(いしい たもつ、1887年(明治20年)3月15日 - 1976年(昭和51年)2月1日)は、日本の内務官僚。憲政会系官選鳥取県知事、台湾総督府警務局長。 埼玉県北足立郡浦和町(現さいたま市)出身。高砂小学校長・石井弓一の二男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年(大正2年)1月27日、内務省に入省し東京府試補となる。 以後、警視庁特別高等課長、福井県警察部長、福岡県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁書記官・衛生部長、同警務部長などを歴任。 1926年(大正15年)9月、鳥取県知事に就任。
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植村 家治(うえむら いえさだ、1887年〈明治20年〉3月… 植村 家治(うえむら いえさだ、1887年〈明治20年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月22日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。元高取町長。旧大和高取藩第15代当主。 子爵・植村家壺の三男として生まれる。父の死去に伴い、1920年(大正9年)8月10日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京外国語学校仏語専修科を卒業。1908年(明治41年)宮内省内匠寮京都派出所勤務となる。以後、鉄道院書記、鉄道省嘱託などを務めた。実業界では、日東化学研究所社長、満州パルプ工業監査役、昭和理化学研究所所長、東京大宮電気鉄道取締役などを務めた。 1930年(昭和5年)8月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した。
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清 寛(きよし かん / せい ゆたか、1887年〈明治20… 清 寛(きよし かん / せい ゆたか、1887年〈明治20年〉3月13日 - 1966年〈昭和41年〉9月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 静岡県富士郡青木村(富丘村青木を経て現富士宮市)で、清重太郎、ゆう夫妻の息子として生まれた。名古屋市会議員、大蔵省委員、名古屋製紙、中央紙業、紙業新聞、中外商事、太陽製紙、帝国製紙各(株)取締役社長や重役、岐阜新聞、岐阜製紙、平湯温泉土地、濃飛印刷各(株)社長となる。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。以来連続4回当選する。1942年の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選する。
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雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月1… 雪下 勝美(ゆきした かつみ、1887年〈明治20年〉3月12日 - 1967年〈昭和42年〉5月27日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争時にアルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官を務めた海軍少将である。 福島県出身。会津中学四年修了で海軍兵学校に進む。1908年(明治41年)11月21日卒業(36期)。ハンモックナンバー4番。同期に沢本頼雄、南雲忠一、塚原二四三、佐藤市郎らがいる。海大甲種学生(17期)の同期生は豊田貞次郎、沢本頼雄、高橋伊望らである。 雪下は航海科専攻の士官で海軍大学校(以下「海大」)乙種学生を経て海大専修学生(航海術)を首席で卒業した。少佐に昇進後、皇太子裕仁親王の欧州訪問のお召艦となった「香取」航海長として渡欧した。
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奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治… 奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治20年)3月10日-1967年(昭和42年)10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会(日弁連)会長、第二東京弁護士会(二弁)会長を歴任。在野法曹界の元老格だった。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民(旧・名瀬市名誉市民)。 鹿児島県にある徳之島の亀津(現・大島郡徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校卒業(現・徳之島町立亀津小学校)。沖縄県にわたって学資をかせぎ、遭難のすえ宮崎県に漂着して鹿児島県本土経由で上京。東京で弁護士事務所の書生をしながら正則英語学校の夜学に通い、後にドイツ語教授の住み込み書生に転じて京華中学校 (旧制)卒業。1906年(明治39年)の旧制高等学校試験に合格。
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金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 -… 金井 為一郎(かない ためいちろう、1887年3月10日 - 1963年5月22日)は、日本の牧師。 1887年、長野県南安曇郡上野村(現・松本市)に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、第一高等学校に入学、一高時代に、新渡戸稲造校長の感化を受けて、求道して、山室軍平の説教に感動して、松本教会で洗礼を受けた。一高在学中に山で遭難する。それをきっかけに伝道者になる決意をして、東京神学社に入学。 東京神学社卒業後、一時、朝鮮仁川に開拓伝道に赴く、帰国して日本基督教会の伝道師として、高知教会、牧師になってからは山梨教会、市ヶ谷教会(現、日本基督教団池袋西教会)の牧師として活動する。 1917年(大正6年)の2月11日から15日日本基督教会主宰の山梨修養会では、中田重治と一緒に説教した。
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吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - … 吉田 卯三郎(よしだ うさぶろう、1887年3月10日 - 1948年4月12日)は、日本の物理学者。愛媛県出身。主な著書に「物理学」、「物理学実験」がある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月… 吉村 哲三(よしむら てつぞう、1887年(明治20年)3月10日 - 1967年(昭和42年)3月1日)は、日本の内務官僚、実業家。政友会系官選県知事、鳥取市長、鳥取銀行頭取。 現在の鳥取市立川町出身。第一高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。日本銀行に入るが三カ月で退職。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、鳥取県八頭郡長、宮城県理事官、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務、同都市計課長兼鉄道書記官、兼土木局河川課長などを歴任し、1924年、大阪府書記官・内務部長に就任。 1927年11月、青森県知事に就任。
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金子 堅次郎(かねこ けんじろう、1887年3月9日 - 1… 金子 堅次郎(かねこ けんじろう、1887年3月9日 - 1974年9月5日)は、日本の実業家である。元三井物産取締役。日本トレーディング(現・三井物産プラスチック)元社長。 旧制東筑中学(現在の福岡県立東筑高等学校)、山口高等商業学校(現在の山口大学)を卒業後、三井銀行に入社。本店営業部長などを経て、1936年(昭和11年)三井合名常務理事となる。のち三井物産取締役、東京芝浦電気(現東芝)副社長・副会長などを歴任。1947年(昭和22年)日本トレーディング社長に就任。
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河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3… 河岡 潮風(かわおか ちょうふう、1887年(明治20年)3月8日 - 1912年(明治45年)7月13日)は日本の作家。押川春浪の弟子筋として雑誌『冒険世界』などで小説、エッセイなどを発表したが、若くして病死した。本名は英男。 横浜野毛町(現・横浜市中区)出身。神戸、京都などを転々とした後、1905年(明治38年)早稲田大学文学部に入学。 早稲田大学卒業後、中央新聞を経て博文館に入社。押川春浪が主筆を務めていた『冒険世界』の編集助手となり、同誌に小説、エッセイなどを発表する。押川が体調を崩していた時には口述筆記を行うこともあった。また、押川が中心人物であった社交団体「天狗倶楽部」にも入り、メンバーと交友を深めた。
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戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955… 戸田 貞三(とだ ていぞう、1887年3月6日 - 1955年7月31日)は、日本の社会学者、東京帝国大学名誉教授。家族社会学専門。 1887年、兵庫県朝来市(兵庫県朝来郡中川村立脇)で生まれた。1909年、東京帝国大学文科大学哲学科社会学専攻に入学。建部遯吾に師事しながらも外山正一に影響を受けて、卒業論文の題目は「日本に於ける家の制度発達の研究」であった。1912年に卒業。 1920年、母校である東京帝国大学文学部講師に着任し、同年より欧米に留学し、シカゴ大学などで在外研究に従事。シカゴ大学ではロバート・E・パークの講義を受けて、その影響を受けた。1922年10月に帰国。東京帝国大学文学部助教授に昇進。
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梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 195… 梶原 貫五(かじわら かんご、1887年3月6日 - 1958年12月14日)は、日本の洋画家である。 福岡市出身。福岡県立中学修猷館を中退。1910年上京して東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝や藤島武二に師事する。在学中の1914年には東京大正博覧会に「化粧の後」を出品し受賞。同年の第3回光風会展に「女」を出品、1916年第4回光風会展では初入選を果たす。1916年3月東京美術学校を卒業。 1917年光風会第5回展に「裸体」で今村奨励賞を受賞、1928年光風会々友、1931年第18回展で光風会会員となる。 官展には、1916年第10回文部省美術展覧会(文展)に「縁陰」「窓際」が初入選となり、第11回文展「想韻」、文展の後身である帝国美術院展覧会(帝展)は、1922年第4回展「九月の日」を出品以来毎年出品し、第5回帝展「芽立ち頃」、第7回展「赤い日傘」などが主な作品である。
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田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5… 田村 幸策(たむら こうさく、1887年(明治20年)3月5日 - 1985年(昭和60年)2月21日)は、大正・昭和前期の日本の外交官。 山口県大島郡に生まれる。1906年、山口高等商業学校(現・山口大学経済学部の前身)を卒業。1907年、高等文官試験に合格し「書記生」で外務省に入省する。 1914年に外交官領事官試験に合格して、キャリア組に昇格する。安東総領事館、奉天総領事館、在英国日本国大使館に勤務した。チェコスロバキア代理公使/広東領事館・総領事を最後に1925年に退官し、日本生命保険東京支店長を務めた。 1941年に東京帝国大学法学博士の学位を取得。戦後は、1949年から中央大学法学部教授(国際法担当)、1963年から国士館大学教授をそれぞれ務めた。
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伊藤 武夫(いとう たけお、1887年〈明治20年〉3月4日… 伊藤 武夫(いとう たけお、1887年〈明治20年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉3月4日)は、日本の砂防工学者、農林技師。林学博士。東京帝国大学農学部林学科林学第四講座 第3代教授、新潟県立農林専門学校 第2代校長。新潟大学名誉教授。位階は正三位。 1887年(明治20年)3月4日に新潟県古志郡長岡東神田町2丁目(現 長岡市東神田2丁目)の旧越後長岡藩藩士・伊藤亀之助の次男として出生。 1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1907年(明治40年)9月に第一高等学校に入学、1910年(明治43年)7月に卒業、1913年(大正2年)7月に東京帝国大学農科大学林学科を卒業、9月に東京帝国大学農科大学大学院に入学。
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宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。
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大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 197… 大塚 節治(おおつか せつじ、1887年3月3日 - 1977年11月18日)は、大正・昭和期のキリスト教神学者。文学博士(1949年)。旧姓は沖田。同志社第13代総長。 1887年(明治20年)広島県高宮郡飯室村(現在の広島市安佐北区安佐町)で沖田惣左衛門の六男に生まれる。1912年(明治45年)に愛媛県伊予郡中山村(現在の伊予市中山町)の大塚家の養子となる。 広島県師範学校講習部から1903年同志社普通学校に入学。1905年日野真澄から受洗。1909年同志社普通学校を卒業して同志社神学校に入学。1912年に渡米し、ユニオン神学校、コロンビア大学で学び、マスター・オブ・アーツの学位を受ける。帰国後の1919年に専門学校令による同志社大学神学部教授、翌年大学令による同志社大学文学部神学科教授となり、多くの著書、論文を発表、キリスト教倫理学および組織神学を講じた。
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長田 幹彦(ながた みきひこ、1887年3月1日 - 196… 長田 幹彦(ながた みきひこ、1887年3月1日 - 1964年5月6日)は、日本の小説家、作詞家。
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曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月… 曾禰 武(曽祢 武、そね たけ、1887年(明治20年)3月1日 - 1988年(昭和63年)9月23日)は、日本の物理学者。東京生まれ。最初の弟子として本多光太郎に師事し、日本の黎明期における近代的な実験物理学に功績を残す。曾禰は胸の疾患により研究が困難になったため後世で忘れ去られていたが、第17代東京大学総長茅誠司が幾度も言及したことにより彼の業績が注目されるに至った。立教大学で教授を務め、理学部の礎を築き、開成中学校・高等学校では校長を務めた。父は建築家・曽禰達蔵、弟は政治家・曾禰益。母は高橋是清の義理の妹。 開成中学を経て、1904年に一高へ入学。1907年4月21日、一高の最終学年3学期にキリスト教へ入信。
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鳴海 周次郎(なるみ しゅうじろう、旧姓・平山、1887年(… 鳴海 周次郎(なるみ しゅうじろう、旧姓・平山、1887年(明治20年)3月1日 - 1969年(昭和44年)7月25日)は、日本の政治家、実業家、青森県多額納税者。青森県西津軽郡会議員。貴族院議員。鳴海銀行頭取。陸奥銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。青森貯蓄銀行、第五十九銀行、金木銀行各監査役。立誠銀行、金兵衛銀行各頭取・鳴海廉之助の養孫。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)出身。平山雄太郎の二男、或いは三男。平山為之助の弟。古川和三郎の養子となり1920年、祖父・鳴海廉之助の後を承け家督を相続した。農業を営み、会社重役を務めた。 また、西津軽郡会議員、車力村会議員、青森県山林会評議員、同県産馬畜産組合連合会評議員、西北産馬組合副組長などを歴任し、1925年9月29日、貴族院多額納税者議員に選出され、交友倶楽部に所属、1932年9月28日まで一期務めた。
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三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2… 三神 八四郎(みかみ はちしろう、1887年〈明治20年〉2月28日 - 1919年〈大正8年〉12月7日)は、山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身の男子テニス選手。日本における硬式テニスの導入を最も早く提言した人物であり、早稲田大学の「三神記念コート」にその名を残している。 豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に生まれる。上に姉4人、兄3人がいたため、8番目の子どもで四男、という意味で「八四郎」と名付けられた。アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした三神吾朗は、彼の弟である。 早稲田中学(現・早稲田高等学校)を経て早稲田大学に入学。
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正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 -… 正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる。 長野県上水内郡長野村(現長野市)に旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれる。父は長野県師範学校、埼玉県師範学校 香川県師範学校の各校長を歴任。母は旧岩村田藩士の娘。小学校時代に派遣教員の島木赤彦より俳句の影響を受け、その後文筆にも親しむ。 埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒、恩賜の銀時計を賜る。福島市の福島共立病院副院長を経て、1920年パリのパスツール研究所に学ぶ。
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山田 順策(やまだ じゅんさく、1887年(明治20年)2月… 山田 順策(やまだ じゅんさく、1887年(明治20年)2月23日 - 1961年(昭和36年)6月19日)は、日本の政治家、実業家、歯科医師。衆議院議員(2期)、旧静岡市長(1期)。 歯科医、自動車業、金融関係など、多種の業績に貢献した。 1887年(明治20年)、静岡県庵原郡瀬名村(現・静岡市葵区)で生まれる。1906年(明治39年)、静岡県立静岡中学校を卒業し東京歯科医学専門学校(現・東京歯科大学)に進学する。1911年(明治44年)、東京歯科医学専門学校を卒業し歯科医となる。1912年(大正元年)、静岡市に歯科医院を開業。 1921年(大正10年)、静岡市会議員となり政治家として活動を開始する。
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松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939… 松本 泰(まつもと たい、1887年2月22日 - 1939年4月19日)は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。本名は松本 泰三(まつもと たいぞう)。 妻の松本恵子も作家で、北海道庁初代水産課課長伊藤一隆の二女。 東京府芝区に生まれる。慶應義塾大学部文学科卒業。学生時代の1911年に、少年を主人公にした自伝的小説「樹陰」を『三田文学』に発表し、『スバル』や『雄弁』などにも同傾向の作品を執筆した。これらはのちに最初の作品集『天鵞絨』(籾山書店、1913年3月)にまとめられた。同書刊行の1913年にイギリスへ遊学、1919年に帰国した。帰国後は、髙島屋に勤務しながら、『三田文学』などを舞台に、英国での経験を材料にした創作を発表した。
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北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 -… 北沢 新次郎(きたざわ しんじろう、1887年2月21日 - 1980年1月3日)は、日本の経済学者、社会運動家、早稲田大学名誉教授。労働問題、社会政策を専門とし、東京経済大学学長なども務めた。 東京出身。府立三中(現東京都立両国高等学校)を経て早稲田大学に学び、アメリカ合衆国へ5年間留学して、1911年に「Industrial Revolution of England and Japan」でノースカロライナ大学からM.A.を、1914年には「Japanese Finance during Russo-Japanese War」でジョンズ・ホプキンス大学からPh.D.を取得した。1915年に商学部講師として教職に就き、1916年には教授となって、「工業経済」、「社会政策」といった科目を担当しながら、実質的に労働問題についての研究教育を行なうとともに、1919年には早稲田大学の学生を中心とした学生運動団体であった建設者同盟の顧問となった。
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阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月2… 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争(太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初めてであった。 侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され、陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。
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高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月… 高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月21日 - 没年不明)は、日本の政治家。千葉県市川市長。医学博士、内科医。 山梨県出身。1911年(明治44年)岡山医学専門学校(のち岡山医科大学、現在の岡山大学医学部)卒業。卒業後は佐々木杏雲堂病院医長、岡山医学専門学校、岡山医科大学各講師となる。1923年(大正12年)千葉県東葛飾郡市川町で開業する。翌年学位を受ける。 その後、市川市医師会長を経て、1944年(昭和19年)3月市川市長に就任。市長に就任してから戦況は悪化の一途をたどり、終戦を迎えた。終戦後は市長として戦後の処理に当たっていたが、1946年(昭和21年)に市長を辞職した。
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土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月2… 土田 誠一(つちだ せいいち、1887年〈明治20年〉2月21日 - 1945年〈昭和20年〉10月2日)は、日本の論理学者、古神道学者、郷土史家。東京帝国大学助教授、神宮皇学館教授、旧制成蹊高等学校校長。 1887年(明治20年)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)に生まれる。秋田師範学校では田村徳治・菊地寅七とともにクラスの三羽烏に数えられた。1907年(明治40年)、同校を卒業し、東京高等師範学校英語科を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した。井上哲次郎の門下生であった。東京帝国大学大学院へと進み、1919年(大正8年)、東京帝国大学文科大学助教授となる。
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鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月2… 鈴木 良治(すずき りょうじ、1886年〈明治19年〉3月20日 - 1931年〈昭和6年〉8月9日)は、日本の洋画家。 新潟県中蒲原郡亀田町大字稲葉(現 新潟市江南区稲葉)出身。1906年(明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(明治45年)に東京美術学校の同期の大野隆徳、小寺健吉、富田温一郎、山口亮一、横井礼一らと12人で赤甕会を結成、時事新報社に勤務する傍ら油彩画の制作を続け、1914年(大正3年)の第8回文展で『靜物』が初入選、以後、文展、帝展、光風会展、新光洋画会展などに作品を発表し続け、1918年(大正7年)の第6回光風会展で『手袋の女』および『靜物』により最高賞である今村奨励賞を受賞。
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大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月2… 大森 玉木(おおもり たまき、1886年(明治19年)3月20日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の政治家、興行師。衆議院議員(6期)、石川県議会議員。 石川県鹿島郡七尾町(現在の七尾市)生まれ。西湊村尋常小学校卒業。 当初は大相撲に入り、雷部屋に入門したが、間もなく廃業。その後は帰郷し、草相撲で活動。四股名は最初は「玉椿」と名乗り、その後「唐戸山」と改め、大関まで上がった。のちに興行師として活躍。1930年(昭和5年)、浅草公園六区で安来節を上演していた御園座を改築し、玉木座を開業。チェロ奏者だった佐々木千里を支配人として経営を任せる一方、劇団プペ・ダンサントを発足させて榎本健一などが活躍した。
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原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951… 原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県出身の俳人。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は原 鼎(はら かなえ)。初号・鉄鼎。別号・ひぐらし。 簸川郡塩冶村(現出雲市)の医師の家に三男として生まれ、県立簸川中学校(現在の島根県立大社高等学校)に入学。教員として大町桂月がいた。2年のときに『山陰新報』課題句に投句し入選。5年生の時、新任教員であった俳人の竹村秋竹の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中。『国文学』に俳句、短歌、文を投稿ししばしば入選した(俳句は河東碧梧桐、歌・文は金子薫園選)。
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遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
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金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。
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平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治1… 平田 紀一(ひらた きいち / のりかず、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の官僚。山梨県知事、群馬県知事、富山市長を歴任した。 現在の福島県会津美里町出身。三高を経て1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。法科大学法律学科(独法)の同期生に石坂泰三、重光葵、正力松太郎などがいる。同年に高等文官試験に合格し、内務省に入省した。 平田の官歴は茨城県属に始まり、警視として富山県で警務課長、衛生課長を務める。富山はおよそ20年後に市長に迎えられる地であった。大阪府理事官、同工場課長を経て、米国出張。鎌田栄吉、河原田稼吉らと国際労働会議に参加した。
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