熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月… 熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1… 山田 昌作(やまだ しょうさく、1880年3月29日 - 1963年2月25日)は、日本の経営者。北陸電力初代社長を務めた。 富山県出身。1914年に東京帝国大学法科を卒業し、同年に富山電気に入社。常務、専務を経て、1929年には社長に就任。1942年から1946年12月までに北陸配電社長を務め、1951年5月から1959年9月までに北陸電力社長を務めた。 1955年に藍綬褒章を受章。 1963年2月25日、腸ガンのために死去。82歳没。 北陸電力社長を務めた山田圭蔵の父
高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月2… 高見 之通(たかみ ゆきみち、1880年〈明治13年〉3月27日 - 1962年〈昭和37年〉10月30日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(当選7回)。族籍は富山県士族。 富山県富山市生まれ。富山県士族・高見之貫の長男。1908年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。弁護士の業務に従事する。 富山県東岩瀬町長(1926年1月15日から同年11月27日まで)、富山県売薬同業組合長を務め、1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選した。はじめ立憲政友会に所属し、1920年の第14回衆議院議員総選挙では政友会公認で立候補し当選している。その後政友会を離党して政友本党の結党に参加し、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補し当選している。
河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26… 河野 喜蔵(こうの きぞう、1880年(明治13年)3月26日 - 1942年(昭和17年)4月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 岩手県西閉伊郡宮守村(現在の遠野市)出身。第四高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。盛岡市に弁護士事務所を開業し、盛岡弁護士会副会長を務めた。1919年(大正8年)からは岩手県会議員に選出され、さらに同参事会員にも選出された。 1922年(大正11年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 … 中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 - 1964年12月24日)は、日本の週刊点字新聞『点字毎日』の初代編集長、日本初の普通科盲人教員。 1880年に静岡県浜名郡和地村(現・浜松市中央区)で生まれた。生来の弱視で、小学校に入ることもできなかった。13歳になって、東京盲唖学校の存在を知る。反対する両親を説得して、1894年に14歳で同校に入学する。卒業と同時に東京盲唖学校の普通科教員になったが、これは、視覚障害者が同校の普通科教員になったケースとしては第1号であった。台湾慈恵院盲部の主任教諭などを務めて、1922年に『点字毎日』の編集主任になり、同紙の刊行に尽くすとともに、視覚障害者のための数々の事業をも始めた。
伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月2… 伊東 祐弘(いとう すけひろ、1880年(明治13年)3月23日 - 1931年(昭和6年)12月19日)は、日本の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府出身。子爵・伊東祐帰の長男として生まれる。父・祐帰の死去に伴い、1894年(明治27年)5月15日、家督を相続し子爵を襲爵した。1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 父は飫肥藩(宮崎県)最後の藩主であったが、祐弘は父の旧領地ではなく伊東氏発祥の地である静岡県伊東市に進出。現地に別荘を建てたり、伊東水力電気の第二代会長に収まるなどの活動を見せた。祐弘の資産形成は手堅く成功を収め、1912年(大正元年)には東京府の多額納税者となっている。
森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月… 森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年〈明治13年〉3月23日 - 1967年〈昭和42年〉9月10日)は、日本の政治家・農村指導者。 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)に、地主の森丘彦の長男として生まれる。1900年(明治33年)7月30日、20歳で大布施村の村長となり、同年12月10日まで村長を務めた(1901年〔明治34年〕1月18日に阿原平左衛門に交代。1903年(明治36年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業。1906年(明治39年)10月24日に再び大布施村長に就任し、同村が桜井町発足により消滅するまで村長を勤め上げた。 1940年(昭和15年)、町村合併によって発足した桜井町の初代町長となり、同年3月14日の就任から1946年(昭和21年)4月22日まで町長を務めた。
小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月2… 小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年〈明治13年〉3月22日 - 1950年〈昭和25年〉11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。山形県士族。山形県新庄市出身。 陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役に編入された。その後平沼内閣と米内内閣で拓務大臣、朝鮮総督(第8代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年(昭和19年)に内閣総理大臣に就任した(小磯内閣)。悪化の一途をたどる戦局を挽回できず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に総理を辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。
藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月2… 藍澤 彌八(あいざわ やはち、1880年(明治13年)3月22日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、日本の実業家。アイザワ証券グループ創業者。 新潟県生まれ。1905年(明治38年)日本法律学校(現在の日本大学)卒業。出版会社・金港堂などを経て、1908年(明治41年)に証券業の港屋商店代表者となる。 1933年(昭和8年)10月に藍澤商店(のちの藍澤證券)を設立。1940年(昭和15年)に株価対策の国策を担うため、日本証券投資を設立し社長に就任する。 1947年(昭和22年)7月に日本証券取引所の解散を受け、証券会社の出資で平和不動産を設立されると初代社長に就き、1957年から61年まで東京証券取引所理事長を務める。
石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 196… 石井 太吉(いしい たきち、1880年3月21日 - 1966年2月16日)は、日本の発明家、実業家。旧姓は内田。 神奈川県横浜市出身。内田峰吉の長男として生まれる。その後、石井長吉の養子となる。 1900年(明治33年)に東京・月島に石井鐵工所を創業した。1902年に工手学校(現・工学院大学)を卒業。1908年に石井家の家督を相続した。 1919年(大正8年)に株式会社石井鐵工所を設立した。 起重機製造株式会社取締役、高岡瓦斯株式会社社長、東洋酸素(現・日本酸素ホールディングス)取締役、箱根水田取締役、月島衛生取締役、伊東瓦斯取締役などを務めた。 1936年に紺綬褒章、1944年に緑綬褒章、1958年に紫綬褒章を受章。
朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年〈明治12年〉4月1… 朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年〈明治12年〉4月19日 - 1961年〈昭和36年〉4月30日)は、愛媛県新居郡玉津村(現西条市)出身の大相撲力士。本名は薦田 長吉(後に坪井 長吉)。最高位は大関。身長176cm、体重113kg。高砂部屋→佐ノ山→高砂部屋に所属した。 20歳の時には、体重の3倍近い荷物を持ち上げる怪力であり、初代朝汐の8代目佐ノ山に勧誘された。しかし、父が反対しすぐには入門できなかった。 父が亡くなると1901年(明治34年)に入門、同年5月に新序出世、四股名は朝嵐長太郎を名乗った。1906年(明治39年)1月場所で新十両、翌1907年(明治40年)1月場所で新入幕を果たす。
小曽根 貞松(おぞね さだまつ、1879年4月18日 - 1… 小曽根 貞松(おぞね さだまつ、1879年4月18日 - 1951年11月4日)は、日本の実業家。阪神鉄工所、神戸瓦斯、オリエンタルホテル各社長。 神戸の資産家・小曽根喜一郎の長男として生まれる。兵庫県神戸市出身。神戸高等商業学校を卒業。 神戸市会議員を経て、1918年に阪神鉄工所社長に、1927年に神戸瓦斯社長に、1940年にオリエンタルホテル社長にそれぞれ就任した。 阪神電鉄では、1932年に監査役に就任し、取締役を経て、1946年10月に社長に就任した。1950年4月に体調不良により、社長を辞任。神戸商工会議所常議員や大阪タイガースオーナーも務めた。 1932年に紺綬褒章を受章した。
斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16… 斎藤 瀏(さいとう りゅう、1879年(明治12年)4月16日 - 1953年(昭和28年)7月5日)は、日本の陸軍軍人、歌人。最終階級は陸軍少将。長女の斎藤史は同じく歌人。 長野県北安曇郡七貴村(後の安曇野市)に旧松本藩士・三宅政明の四男として生まれる。既に帰農していたため、士族籍ではなく平民籍であった。貧しかったため幼少期には丁稚奉公に出されている。旧制松本中学(後の長野県松本深志高等学校)を経て1901年に陸軍士官学校(12期)を卒業。歩兵少尉に任官した。同期に杉山元、小磯國昭、香椎浩平らがいる。旧制中学時代に医師で漢学者の斎藤順の養子となった。 1903年中尉に昇進し、1904年に勃発した日露戦争に従軍。
森 潤三郎(もり じゅんさぶろう、1879年〈明治12年〉4… 森 潤三郎(もり じゅんさぶろう、1879年〈明治12年〉4月15日 - 1944年〈昭和19年〉4月6日)は、近世学芸史研究家 、森鷗外の弟。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、東京帝國大学史料編纂掛勤務を経て、京都府立図書館等に勤務した。のち「鷗外全集」編纂に従事。近世学芸史の研究者であり、著書に「紅葉山文庫と御書物奉行」「多紀氏の事跡」「鷗外森林太郎」などがある。
橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)… 橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)4月11日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。内国通運(現:日本通運)社長、極東煉乳(現:明治)創業者及び専務。東京市会議員。 橋本忠次郎の長男で、熊本県熊本市出身。工手学校卒業。1916年(大正5年)家督相続。父が創業した土木鉱山業の橋本店を受け継ぎ、北海道倶知安の鉄山売却で手腕を発揮する。1917年(大正6年)極東煉乳創業者の1人として取締役となる。1921年(大正10年)千原伊之吉を利用して河村寛裕一派の工作によるお家騒動で内国通運を乗っとる形で社長就任。1923年(大正12年)同社長辞任。 1929年(昭和4年)3月、東京市会議員となり、関東大震災からの復興に携わる。
松木 弘(まつき ひろむ、1879年(明治12年)4月11日… 松木 弘(まつき ひろむ、1879年(明治12年)4月11日 - 1967年(昭和42年)10月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。弁護士。 新潟県新発田町(現新発田市)出身。1898年 東京法学院卒。翌年司法官試補試験に合格し、弁護士になり、鳩山和夫の事務所に勤務する。1903年 故郷の新潟県に帰り、弁護士事務所を開く。その後、新潟市会議員、新潟県会議員を4期務め、県弁護士会長も務めた。1932年の総選挙で新潟2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。政友会解散後は鳩山一郎率いる同交会に入った。1942年の翼賛選挙では非推薦(新潟県第1区)で落選。戦後の1945年に日本自由党が結成されると新潟県支部長に就任した。
井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10… 井上 桂(いのうえ かつら、1879年(明治12年)4月10日 - 没年不詳)は、東京市区長。教育者。 秋田県雄勝郡湯沢町(現在の湯沢市)出身。1900年(明治33年)、秋田県師範学校を卒業し、1904年(明治37年)に東京高等師範学校国漢科を卒業した。東京女子高等師範学校教諭、静岡県女子師範学校校長、長崎県師範学校校長、福島県師範学校校長を歴任した。1928年(昭和3年)、東京市に入り、視学・学務課長に就任した。1932年(昭和7年)、豊島区長に転じ、のち赤坂区長、本郷区長を歴任した。
三国谷 三四郎(みくにや さんしろう、1879年(明治12年… 三国谷 三四郎(みくにや さんしろう、1879年(明治12年)4月8日 - 1947年(昭和22年)12月24日)は、日本の教育者。 青森県出身。青森県師範学校を経て、東京高等師範学校本科地歴部を卒業。静岡県師範学校教諭、韓国官立漢城師範学校教授、京城高等普通学校教諭、平壌高等普通学校教諭、朝鮮総督府編修官などを務めた。帰国後、京都帝国大学文学部哲学科に入り、1923年(大正12年)に卒業した。その後、奈良県師範学校校長、地方視学官・兵庫県学務課長を歴任し、1932年(昭和7年)に京都府師範学校校長に就任した。1938年(昭和13年)に東京府青山師範学校校長に転じ、1943年(昭和18年)に退官した。
秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2… 秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。
長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日… 長塚 節(ながつか たかし、1879年(明治12年)4月3日 - 1915年(大正4年)2月8日)は、日本の歌人、小説家。 茨城県結城郡に生まれた。病弱で中学を中退、療養生活の中で短歌に親しんだ。正岡子規の『歌よみに与ふる書』に深い感銘を受け、1900年に入門。ひたすら子規の写生の風を摂取、子規短歌の最も正当な継承者と言われた。 「馬酔木」「アララギ」の創刊に参画。晩年には、透徹した清澄な調べをめざす「冴え」の説を唱えた。 1879年(明治12年)4月3日、茨城県岡田郡国生村(現在の常総市国生<こっしょう>)の豪農の家に生まれた。1893年(明治26年)4月、茨城中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)に首席で入学し、4年進級までしたが脳神経衰弱を発症して学業継続困難となる。
物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 198… 物集 高量(もずめ たかかず、1879年4月3日 - 1985年10月25日)は、国文学者・作家。「物集 梧水」名義による著作もある。 1879年、国学者の物集高見と夏子(旧姓岩田)の長男として東京市神田区駿河台(東京都千代田区神田駿河台)に生まれた。同年7月、父が出羽三山の宮司に任命されたため、1882年夏まで山形県東田川郡手向村(現在の鶴岡市)に育つ。 1882年に帰京し、東京市本郷区弓町(東京都文京区本郷)に住んだ。1883年、父の高見が東京帝国大学講師に就任。1884年、父の教育方針で4歳9ヶ月にして本郷小学校に入れられるが、第1学年で落第を経験。1885年2月3日、はしかを患う。後遺症で骨膜炎となり、終生左脚の自由を失う。
山田 少年(やまだ しょうねん / せいねん、1879年(明… 山田 少年(やまだ しょうねん / せいねん、1879年(明治12年)4月3日 - 1961年(昭和36年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山県東礪波郡福野町長。福野町豪農・山田家8代。 石川県礪波郡福野村(現:富山県南砺市)で、山田家7代・山田正景(初代福野町長、石川県会議員)の長男として生まれる。福野農学校(現富山県立南砺福野高等学校)で学んだ。 酒造業を営む。福野町会議員、富山県会議員を務めた。1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選。第13回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。立憲国民党、立憲同志会、憲政会、立憲民政党に所属して、県支部の幹部を務めた。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2… 中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2日 - 1962年(昭和37年)7月5日)は、日本の政治家、警察官、実業家、僧侶。衆議院議員。旧姓は小林。 福島県大沼郡雀林村字古屋敷(赤沢村、会津高田町を経て現会津美里町雀林字古屋敷)で、小林清三郎の三男として生まれる。苦学して、1901年(明治34年)東京専門学校法学部を卒業した。1907年(明治40年)頃、北海道の小樽日報社に入社し石川啄木の同僚となった。事務長であった中野は記者の啄木とは反りが合わず、啄木が札幌に何度も出かけることを編集長(啄木とは懇意だった)に咎めたが逆にたしなめられ、編集長の帰宅後に啄木が戻ったところを殴打、それが原因で啄木は小樽日報を退社した。
2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年… 2代 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、前名・龍蔵、1879年(明治12年)4月1日 - 1965年(昭和40年)10月25日)は、日本の商人(米穀商)、実業家、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 滋賀県・阿部市蔵の長男。1898年、大阪高等商業学校を卒業。慶應義塾大学に学ぶ。先代・彦太郎の養子となり、1904年、家督を相続し、前名・龍蔵を改め襲名する。米国に2年留学し、帰途欧州各国を巡歴して英国に至り、5年滞在して研学に費やす。 米穀商を営み、会社の重役である。角一山林土地会長、大阪阿部代表社員、内外綿、豊国火災保険、日本生命保険、大阪商船、住友信託各取締役、東洋紡績、大阪製麻、角一ゴム各監査役などをつとめる。
勝盛 達之助(かつもり たつのすけ、1879年〈明治12年〉… 勝盛 達之助(かつもり たつのすけ、1879年〈明治12年〉4月1日 - 1942年〈昭和17年〉5月27日)は、日本の商人(海産物商)、広島県多額納税者、政治家。広島市会議長(25代)。広島商工会議所会頭。前名・四方吉。広島市立工業専門学校長、広島電機大学長などを務めた勝盛豊一の養父。 広島県安芸郡呉村(現・呉市)出身。先代達之助の長男。私立光道館卒業。1882年、父に従い、広島市猫屋町に移る。先代を補佐して家事に従事。1908年に家業を継ぎ、海産物問屋兼輸出業を経営、同年5月より12年間猫屋町町総代を勤める。 1909年、家督を相続し四方吉を改め襲名する。1913年2月より連続8期広島商工会議所議員に当選、その間2回副会頭となり、1940年2月に広島商工会議所会頭に就任する。
内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日… 内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日 - 1963年(昭和38年)7月11日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、実業家。官選秋田県知事。旧姓・長田。 福島県出身。長田庄衛の二男として生まれた。福島県立安積中学校、宮城県立仙台第二中学校を経て、第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖を経て、1911年、朝鮮総督府に入り農商工部属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内田家に夫婦養子となり改姓した。 以後、青島守備軍民政部事務官、台湾総督府事務官、同殖産局長などを歴任。 秋田県出身の川村竹治台湾総督に仕えたことがきっかけで、1931年12月、犬養内閣により秋田県知事に任じられた。
西村 眞次(にしむら しんじ、1879年(明治12年)3月3… 西村 眞次(にしむら しんじ、1879年(明治12年)3月30日 - 1943年(昭和18年)5月27日)とは日本のリベラル系ジャーナリスト、歴史学者、考古学者、文化人類学者、民俗学者。号として酔夢とも。勲八等白色桐葉章(1905年)。文学博士。早稲田大学教授。戦前日本において「文化人類学」の名を冠した日本語書籍を初めて上梓したことでも知られる。 三重県度会郡宇治山田町(のち宇治山田市宮後町、現伊勢市)にて西村九三、のぶ子夫妻の次男として生まれる。尋常小学校卒業後は大阪で仕事をしながら、私立の中等教育機関にて勉学に励むこととなる。この間『少年文集』や『中学世界』をはじめ、少年雑誌、青年雑誌を中心に採用された投稿は多い。
栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年… 栗原 彦三郎(くりはら ひこさぶろう、1879年(明治12年)3月25日 - 1954年(昭和29年)5月5日)は、明治から昭和前期の雑誌編集者、政治家、刀匠。衆議院議員。号・昭秀、晃南。 栃木県安蘇郡閑馬村(新合村、田沼町を経て現佐野市 閑馬町)で、大百姓・栗原喜蔵の二男として生まれる。田中正造から薫陶を受けた。1891年(明治24年)正造に伴われて上京。青山学院中学部で学び、在学中の1896年(明治29年)12月、津田仙を足尾銅山に案内したり、東京で演説会を開催するなど足尾鉱毒事件の解決に尽力した。その後、早稲田大学、日本大学で学んだ。 1917年(大正6年)中外新論社の経営に参画して社長に就任し、『中外新論』を刊行。
阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946… 阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946年3月15日)は、日本の歴史家。 1879年(明治12年)3月23日、阿部拓弥の長男として松嶺町(現・酒田市)に生まれる。1900年(明治33年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業。哲学館(現・東洋大学)卒業。 北海道庁に入庁し、北海道史編纂係となって作業に没頭。1918年(大正7年)同職辞任、酒田に戻り酒田町史編纂主務。光丘文庫(図書館)勤務。1931年(昭和6年)城輪柵址発掘調査を指導し、石原重俊らと共に本楯国府跡を調査。 のちに酒田市当局と意見が合わず市史出版作業が中絶し、資料は市史稿として残された。 1946年(昭和21年)3月15日、死去。
日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月2… 日高 只一(ひだか ただいち、1879年〈明治12年〉3月23日 - 1955年〈昭和30年〉1月12日)は、日本の英文学者。 広島県出身。号は未徹。早稲田大学文学部英文科卒。坪内逍遥に師事する。1908年早大講師。1921-23年英国、米国に学び、帰国後、早大文学部教授。文学部長を務め、1949年定年退任、名誉教授、立正大学教授、武蔵野女子学院短期大学教授。1944-45年日本英文学会会長。アメリカ文学を早い時期から研究した。墓所は多磨霊園
猪飼 清六(いかい せいろく、1878年4月15日 - 19… 猪飼 清六(いかい せいろく、1878年4月15日 - 1961年5月31日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)。 滋賀県出身。1901年東京専門学校法律科卒。滋賀県議、滋賀郡伊香立村(のち堅田町、現・大津市)長、江若鉄道(株)取締役、(株)滋賀県農工銀行監査役、産業組合中央金庫評議員、滋賀県組合金庫統制団理事長、同県農業会副会長、全国農業会、農林中央金庫各監事などを務める。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において滋賀県地方区から無所属で立候補して当選。当選後は無所属倶楽部に入り、無所属懇談会を経て、緑風会に入った。しかし、間もなく公職追放となり、7月2日に辞職した。 追放解除後は滋賀県経済連、全国販売農業協同組合の各会長を歴任した。
原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4… 原口 亮平(はらぐち りょうへい、1878年(明治11年)4月14日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の会計学者。神戸大学名誉教授。元兵庫県立神戸高等商業学校校長、元神戸商業大学学長事務代理。 兵庫県三原郡榎列村(現南あわじ市)で原口家八代目として生まれる。旧制姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)を経て、1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。神戸商業大学(現神戸大学)教授となり、同大学学長事務代理も務めた。1938年に名誉教授の称号を受け、普通試験委員長も退任し、従三位に叙された。同年兵庫県立神戸高等商業学校校長に就任。1941年依願退官。また、勲二等瑞宝章も受章した。
斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう… 斎藤 野の人(さいとう ののひと、本名:斎藤 信策(さいとう しんさく)、1878年〈明治11年〉4月14日 - 1909年〈明治42年〉8月6日)は、日本の評論家。 高山樗牛(林太郎)は兄にあたり、その死後に兄の著作をまとめて全集として発表したが、病弱だったこともあり、その兄と同じ数え32歳で生涯を閉じた。
長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(… 長與 又郎(新字体:長与 又郎、ながよ またお、1878年(明治11年)4月6日 - 1941年(昭和16年)8月16日)は、日本の病理学者、男爵。癌研究の世界的権威。号は雷山。 1878年、医学界の重鎮・長與專齋の三男として東京神田で生まれた。慶應義塾幼稚舎、正則学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に進学。1904年12月に卒業。その後、医学修行のためドイツのフライブルク大学に留学した。 1910年に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。翌年に教授に小学し、病理学講座を担当した。夏目漱石の主治医でもあり、1916年に漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。
岡本 櫻(おかもと さくら、1878年〈明治11年〉4月3日… 岡本 櫻(おかもと さくら、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1935年〈昭和10年〉2月22日)は、日本の実業家。東邦瓦斯初代社長。「ガス王」とも称された。 兵庫県大書記官であった父、岡本貞の次男として兵庫県神戸町(現:神戸市)に生を受けた。同志社普通部・第一高等学校に進む。帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)応用化学科卒業。このときの卒業論文である「セルロイドについて」は『工業化学雑誌』に連載されたという。1903年(明治36年)に東京瓦斯に入社するも、翌1904年(明治37年)には大阪瓦斯に移り、ここで外国人技師長であったミラーより最新技術を学んだ。1906年(明治39年)名古屋瓦斯設立に際して、同社に技師長として入社。
平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日… 平出 修(ひらいで しゅう、1878年〈明治11年〉4月3日 - 1914年〈大正3年〉3月17日)は、日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。 新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。幼少期は虚弱だったが、小学校では記憶力に優れ、1892年に亀田町高等小学校を卒業する。1894年、旧制中学校進学を前提に新潟市の質店の養子となったが、進学の約束が果たされなかったことで1895年10月に縁組みを解消して、亀田町高等小学校の代用教員となる。翌年小学校準教員検定試験に合格した。 文芸に興味を抱いた平出は、1897年ごろから活動を始め、短歌・俳句を制作した。
春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962… 春日 政治(かすが まさじ、1878年4月1日 – 1962年6月30日)は、日本の国語学者。平安時代初期の古経典から仮名や古訓点の研究に業績を残し、訓点語学の基礎を築いた。
亥角 仲蔵(いすみ ちゅうぞう、1878年(明治11年)3月… 亥角 仲蔵(いすみ ちゅうぞう、1878年(明治11年)3月31日 - 1953年〈昭和28年〉7月19日)は、日本の判事、内務官僚、朝鮮総督府官僚。 京都府舞鶴市の亥角常吉の長男として生まれる。1902年(明治35年)、早稲田大学邦語行政科を卒業し、翌年には法政大学を卒業した。福島県事務官、宮崎県事務官、統監府警視、朝鮮総督府警務官・警視、鳥取県内務部長などを歴任。その後、全羅南道知事、全羅北道知事に就任した。 退官後は清津水利組合長、有信鉱業株式会社社長を務めた。
細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30… 細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、日本の彫刻家。本名・三郎。 1878年(明治11年)、群馬県一毛村(現・前橋市城東町1丁目)に生まれる。細谷家は前橋藩士の家柄だった。祖父・登代平の時に廃藩となり、父・桟平は製糸業や質屋を営んでいた。而楽は桟平・まきの三男として生まれた。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶが、中退して上京。1897年(明治30年)9月、東京美術学校予科(現・東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期の高村光太郎(光雲の子息)と親しく交流し、1902年(明治35年)7月に同校を卒業。
植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)… 植木 直一郎(うえき なおいちろう、明治11年(1878年)3月29日 - 昭和34年(1959年)7月8日)は、日本の歴史学者、法学者。國學院大學名誉教授。新潟県出身。
佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月… 佐々木 惣一(ささき そういち、1878年〈明治11年〉3月28日 - 1965年〈昭和40年〉8月4日)は、日本の法学者。専門は憲法学・行政法。学位は法学博士。貴族院勅選議員。京都大学名誉教授。立命館大学学長。京都市名誉市民。文化功労者、文化勲章受章者。贈正三位、贈勲一等瑞宝章(没時追贈)。 佐々木惣三郎の長男として現在の鳥取県鳥取市西町に生まれる。 1895年(明治28年)、旧制鳥取県尋常中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。現存している一年級と三年級の成績は、前者が次席、後者が首席である。 同年9月、旧制第四高等学校入学。一般家庭出身で学資に困っていた佐々木は、旧鳥取藩主池田家の奨学金や鳥取時代の友人からの援助を受けて高校に通った。
池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月2… 池尾 芳蔵(いけお よしぞう、1878年(明治11年)3月27日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本電力社長、日本発送電総裁を務め、戦前日本の電力界の大物として知られた。黒部鉄道社長、日本マグネシウム社長、飛騨索道運輸社長、日本電気協会会長、関西電力顧問なども務めた。 1878年、滋賀県草津町(現・草津市)の豪家の子に生まれ、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、常々吉野作造と首席を争い、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格し、大学卒業時には銀時計を受領した。卒業後逓信省通信局に入り、東京・大阪の郵便課長を経て、業務課長を最後に1907年(明治40年)に退官し、実業界に転じた。
長谷場 敦(はせば あつし、1878年3月23日 - 195… 長谷場 敦(はせば あつし、1878年3月23日 - 1959年1月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、鹿児島県串木野町長。 鹿児島県出身。鹿児島県川辺郡鹿籠村西鹿籠(後に西鹿籠村、東南方村、枕崎町、枕崎市)の今給黎久清(児玉久清、初代東南方村長)の次男として生まれる。後に第三代東南方村長・初代枕崎町長や衆議院議員を務める今給黎誠吾は実兄。 郷校や三州義塾で学んだ後、上京して早稲田大学、東京外国語学校(現東京外国語大学)、善隣書院に入り清国語を学ぶ。長谷場純孝邸に寄食して東京外国語学校に通った。1902年、東京外国語学校別科清国語科卒。1905年12月、長谷場純孝の長女と結婚し、長谷場家の養嗣子となる。
岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月… 岸本 康通(きしもと やすみち、1878年〈明治11年〉3月23日 - 1930年〈昭和5年〉9月19日)は、衆議院議員(立憲政友会)、宇治山田市(現在の伊勢市)市長。 岡山県和気郡山田村(現在の和気町)出身。1902年(明治35年)に日本大学を、1904年(明治37年)に法政大学を卒業した。法政大学卒業の前年に判検事登用試験に合格し、司法官試補、東京地方裁判所検事、陸軍法官部理事、関東都督府理事、第11師団法官部長、大阪府警視、群馬県警察部長、佐賀県内務部長、三重県内務部長を歴任した。1921年(大正10年)、宇治山田市長に就任し、1924年(大正13年)まで在任した。退任後は、弁護士業務に従事した。
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月2… 岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月21日 - 1958年〈昭和33年〉10月30日)は、日本の内務官僚、政治家。埼玉県(官選第17代)、長野県(官選第14代)、熊本県知事(官選第16代)、内務省警保局長、衆議院議員(8期)、厚生大臣(第11代)、衆議院議長(第35代)。 岡山県、のちの岡山市小橋町(現中区小橋町)出身。岡田吟平、多嘉恵の長男として生まれた。岡山中学校、第一高等学校を経て、1903年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 官界に入り逓信省鉄道書記となる。1903年(明治36年)11月、第10回文官高等試験行政科合格。 内務省に移り1906年静岡県事務官、1915年東京府内務部長、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月… 松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。
辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月1… 小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月14日 - 1949年〈昭和24年〉9月27日)は、日本の政治家、学校経営者。衆議院議員、第11代神戸市長。博士(Doctor of Civil Law、 コロンビア大学)。 1877年旧三田藩士・小寺泰次郎の長男として神戸市生田区(現中央区)所在の小寺邸(現相楽園)に生まれる。1894年(明治27年)兵庫県立神戸商業学校 卒業、1896年(明治29年)杉浦重剛の称好塾に学んだのち、1897年(明治30年)米国に留学し、コロンビア大学で法律を、ジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学び、更にヨーロッパのハイデルベルク大学、ウィーン大学、ジュネーブ大学で政治・法律学を修めた。