小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
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小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年… 小野寺 長治郎(おのでら ちょうじろう、1875年(明治8年)3月24日 - 1939年(昭和14年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍主計中将。貴族院議員。
中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 … 中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 徳島県美馬郡、のちの脇町(現美馬市)で生まれた。神戸市会議員、同参事会員となる。神戸商工会議所議員、副会頭、神戸真田同業組合長、日本麦稈真田同業組合連合会会長、神戸麻真田輸出組合、神戸帽子輸出組合、日本東洋パナマ帽輸出組合連合会各理事長を務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続3期務める。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。
有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 19… 有明 吾郎(ありあけ ごろう、1875年3月23日 - 1943年2月19日)は、現在の長崎県島原市出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は大家 八五郎(旧姓山中)。最高位は東小結。5代式秀。165cm、123kg。 1894年5月序ノ口。1899年5月十両昇進、1800年代最後の関取のひとりである。1900年5月場所、7勝2敗1休で現在でいう十両優勝にあたる成績をあげる。翌1901年1月場所は番付運なく十両筆頭にとどまるが、翌5場所月に新入幕。1904年1月場所では東8枚目で7勝2敗1休、9日目に駒ヶ嶽に敗れるまで梅ヶ谷、常陸山の両横綱と並走した。1909年小結昇進。三役は結局この一場所ですぐ平幕に落ち、その後は幕内中位をエレベーターしていたが、1913年1月場所十両落ち、翌5月場所で幕下陥落を機に引退、式秀を襲名した。
大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明… 大谷 繞石(おおたに ぎょうせき/じょうせき、1875年(明治8年)3月22日 - 1933年(昭和8年)11月17日)は、日本の英文学者・俳人。本名は正信。 島根県松江市末次本町出身。島根県尋常中学校(後の島根県立松江北高等学校)在学中に、西田千太郎らの英語教師に教えを受けるとともに、1890年(明治23年)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英語教師として同校に赴任すると、学生の中で最もハーンの信任を得た。 1892年(明治25年)、京都の第三高等学校へ入学し、1894年(明治27年)、学制改革のため仙台の第二高等学校へ転校した。第三高等学校、第二高等学校では、同級生に俳人高浜虚子と河東碧梧桐がおり、この頃俳句への傾倒が始まった。
小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22… 小倉 正恒(おぐら まさつね、1875年(明治8年)3月22日 - 1961年(昭和36年)11月20日)は、第六代住友総理事である。 第2次近衛内閣(昭和15年 - 昭和16年(1940年 - 1941年))の国務大臣、第3次近衛内閣(昭和16年(1941年))の大蔵大臣を務める。 著書に『日本国憲法』『行政法』『現代家族関係論』『私の生活信条』『小倉正恆談叢』等。 明治8年(1875年)、前田利家の家老の家系であった旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男として石川県金沢市に生まれる。 第四高等学校を経て、明治30年(1897年)東京帝国大学英法律学科を卒業後、内務省(現総務省)に入省。土木監督署事務官となる。
土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日… 土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日 – 1928年(昭和3年)8月22日)は、日本の衆議院議員(新正倶楽部)。内科医。 山梨県東八代郡祝村(現在の甲州市)で土屋順周の次男として生まれる。1901年(明治34年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、同大学の助手となった。1907年(明治40年)より1909年(明治42年)までドイツに留学し、ハレ大学、ベルリン大学で学んだ。1911年(明治44年)、医学博士号を授与。同年、侍医に任命され、皇太子(後の大正天皇)の診察にあたった。 1921年(大正10年)、侍医を辞して医院を開業し、その傍ら日本住血吸虫症の研究にあたった。その後、赤坂区医師会長を務めた。
渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉… 渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年〈明治7年〉4月16日 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の陸軍軍人。陸士8期・陸大17期首席。最終階級は陸軍大将。位階勲等は 従二位勲一等功五級。 1874年(明治7年)、愛知県小牧町(現:小牧市)に生まれる。煙草商である和田武右衛門の長男であったが、19歳の時に、同県岩倉町(現:岩倉市)の母親の実家である農業・渡辺庄兵衛の養子となった。貧窮のために小学校を中退せざるを得なかった。満20歳となった1894年(明治27年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格し、同年8月、陸軍士官学校の召募試験に合格し、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった。
大石 五郎(おおいし ごろう、1874年(明治7年)4月15… 大石 五郎(おおいし ごろう、1874年(明治7年)4月15日 - 1945年(昭和20年)12月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 山形県山形市出身。山形県立山形中学校を経て、1896年(明治29年)に東京法学院(現在の中央大学)を卒業。1900年(明治33年)、『山形新聞』記者となった。1903年(明治36年)に主筆に進み、1906年(明治39年)からはアメリカ合衆国に留学した。1910年(明治43年)に帰国し、翌年から再び『山形新聞』主筆となった。また山形市会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1920年(大正9年)、山形新聞社を興し、『日刊山形』『日刊荘内』を発行した。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月1… 堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。 福岡県御井郡、のちの三井郡大城村(北野町を経て現久留米市)出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。
永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月… 永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月13日 - 1947年(昭和22年)3月6日)は、日本の政治家。中浜村長(第6代)、中浜村会議員、郡会議員。 第3代中浜村長永見林三郎の長男。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)に永見林三郎の長男として生まれる。永見家は勘太郎の祖父清四郎が初代で、四国から藍玉を仕入れる仕事を始めるとともに、自家も紺屋を営んで一代で財を成したといわれる。 父林三郎が村長を退くと入れ替わりに村会に出、郡会議員も3期務めた。 村長在任中は不景気の最中で大篠津繭市場も倒産し、出資者の一人だった勘太郎もかなりの畑を失った。 昭和5年(1930年)にはついに農家更生村の指定を受けて、公益質屋や負債整理組合を発足させた。
2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874… 2代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1874年〈明治7年〉4月10日 - 1914年〈大正3年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・直之助。 山形県田川郡新堀村(のち東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・先代阿部孫左衛門、野江夫妻の長男として生まれる。新堀村止善学校初等学科、酒田琢成学校を経て、1889年(明治22年)、酒田尋常高等小学校を卒業。1890年(明治23年)に東京に出て二松学舎、東京数学院などで学んだ。 1904年(明治37年)、父の死去に伴い家督を相続し、孫左衛門(2代)を襲名した。吉田堰水利組合会議員、東田川郡会議員、新堀村長などを務めた。
皆川 マス(みなかわ マス、別表記:マス女、1874年(明治… 皆川 マス(みなかわ マス、別表記:マス女、1874年(明治7年)4月10日 - 1960年(昭和35年)7月8日)は、栃木県芳賀郡益子町の益子焼の絵付け師:陶画工である。 その益子焼の「山水土瓶」の陶画は、濱田庄司に「自分と益子の縁を結んだ」と言わしめ、そして土瓶の絵付けを濱田庄司や柳宗悦たち民藝運動家に称賛され、「無名の工人」の代表的人物として有名となった。 1874年(明治7年)4月10日、栃木県真岡市西田井に生まれた。 1884年(明治17年)、10歳の時に益子の「鳥羽絵師」皆川伝次郎の養女となり、養父から土瓶の絵付けの描き方を文字通り仕込まれた。 与えられた手本をただその通りに原本通りに描き写して習得していくものであり、創意や創案といったものは一切無かった。
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月… 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月7日 - 1943年(昭和18年)9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を用いて抗脚気因子を初めて抽出したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。 静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。 帝国大学農科大学(現:東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。 鈴木は、糠に含まれる抗脚気因子を物理的に抽出することに成功した。 ヨーロッパ留学から帰った鈴木は、オランダの医学者クリスティアーン・エイクマンの追試を行い、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米にはその症状を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。
木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 195… 木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。 1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年、北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年、仙台の東北学院に入学する。 1894年6月に渡米する。1895年、アメリカで救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。
岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4… 岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4月6日 - 1946年(昭和21年)1月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 大阪府河内郡、のちの中河内郡英田村(河内市を経て現東大阪市)に岩崎九郎平の四男として生まれる。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格。1900年(明治33年)よりドイツに留学して、1904年(明治37年)にライプツィヒ大学を卒業し、法学博士の称号を得た。帰国後、弁護士のほか、関西大学講師も務めた。1908年(明治41年)に横浜地方裁判所判事に任命され、東京控訴院判事を経て、1911年(明治44年)には元田肇拓殖局総裁の秘書官に就任したが、翌年に官を辞した。
佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日… 佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月1日)は、内務官僚、広島市長。 島根県松江市生まれ。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となった。その後、1900年(明治33年)に東京帝国大学大学院に入学し、同年には歩兵第21連隊に召集された。1902年(明治35年)、司法官試補を辞職して弁護士を開業した。1909年(明治42年)より検事となり、各地方の裁判所に勤務した。1913年(大正2年)、熊本県警察部長に転じ、翌年には山口県警察部長に就任した。さらに福島県内務部長を務めた。 1922年(大正11年)4月17日から1925年(大正14年)1月21日まで第14代広島市長を務めた。
渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日… 渡辺 長男(わたなべ おさお、1874年(明治7年)4月2日 - 1952年(昭和27年)3月3日)は、明治から昭和にかけて活動した彫刻家(彫塑家)。同じ彫刻家の朝倉文夫、大塚辰夫(大塚周夫の父・大塚明夫の祖父)は実弟。妻は岡崎雪聲の娘。 1874年(明治7年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の長男として生まれる。彫刻家を目指した長男は東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、仏像彫刻家の山田鬼斎に師事する。すぐに頭角を現し、イタリアへと留学していた長沼守敬に欧州の彫刻技術を学ぶなど、先駆性を発揮した。 1897年11月に高村光太郎や武石弘三郎、白井雨山、青木外吉ら同窓生と「青年彫塑会」を結成し、木彫家をもまじえて技術上の交流をはかり、新進気鋭の彫刻家として注目されるようになる。
大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 19… 大谷 登(おおたに のぼる、 1874年3月26日 - 1955年7月31日)は、日本の海事実業家。日本郵船第7代代表取締役社長、船舶運営会初代総裁。 福井県出身。東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後日本郵船に入る。カルカッタ支店長、ニューヨーク支店長、ロンドン支店長、副社長等を経て、1935年(昭和10年)から代表取締役社長。日本航空輸送会長兼務を経て、1938年(昭和13年)大日本航空初代会長兼務。この間、1937年(昭和12年)日本通運発足時には理事に就任した。1942年(昭和17年)船舶運営会初代総裁に就任。太平洋戦争中の戦時体制下で海運統制を行った。このほか南洋拓殖参与理事、海運協会理事長、如水会理事等も務めた。
前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25… 前田 政八(まえだ まさはち、1874年〈明治7年〉3月25日 - 1965年〈昭和40年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家。立憲民政党(のち立憲政友会)衆議院議員、佐賀県藤津郡塩田町(現・嬉野市)長。 佐賀県藤津郡塩田村で生まれる。代々武士の家系で、先祖には塩田津出身で治水の神様と評される前田伸右衛門がいる。1898年3月、東京の工手学校土木科を卒業し、さらに達英舎で英学を修める。 1900年5月、北海道庁技手に任じられ室蘭支庁に勤務。その後、道庁属・札幌支庁第二課長に転じ、1908年に退職。その後、札幌区外五郡産牛馬組合副組長、前田一歩園管理人を経て、前田倉庫、材木商を経営。釧路木材商組合長、北海道会議員、釧路区会議員、釧路市会議員、同議長、釧路商業会議所議員、賓江木材倉庫社長(満州国哈爾賓市)などを務めた。
両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 … 両國 梶之助(りょうごく かじのすけ、1874年3月25日 - 1949年1月11日)は、長崎県北高来郡(現:長崎県諫早市)出身の元大相撲力士。本名は古川 九八(ふるかわ きゅうはち)。 1874年(明治7年)3月25日に長崎県北高来郡(現・諫早市)で農家を営む家に生まれる。家業に従事しながら土地相撲では「若木野」という四股名で活躍したが、顔役の楠という人物に才能を見出されて不知火部屋(大坂相撲)へ連れて行かれた。しかし、ここでは入門を快諾してもらえなかったことから時津風部屋(大坂相撲)へ入門したが、入門後は順調に出世したことで不知火に懇望され、不知火部屋に転属した。四股名は本名から取った「九(いちじく)」で、後に「一軸(読みは同じ)」、「國岩」と改めて活躍した。
森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4… 加藤 敬三郎(かとう けいさぶろう、1873年(明治6年)4月19日 - 1939年(昭和14年)12月3日)は、日本の逓信官僚、銀行家、政治家。北海道拓殖銀行頭取、朝鮮銀行総裁、貴族院議員。旧姓・川村。 愛知県出身。川村浩の三男として生まれ、加藤厚寛の養子となる。1897年(明治30年)7月、私立日本法律学校(現日本大学)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1898年(明治31年)2月、逓信省に入り通信書記として電務局に配属された。 1898年11月、福島郵便電信局長に就任。以後、岡山郵便電信局長、長崎郵便電信局監理課長、通信事務官、金沢郵便電信局監理課長、大阪郵便電信局監理課長、宇都宮郵便電信局長、一等郵便局長などを歴任。
桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 19… 桝本 卯平(ますもと うへい、1873年4月18日 - 1931年4月10日)は、造船技術者、労働運動家。 宮崎県南那珂郡油津(現・日南市)出身。第一高等学校、東京帝国大学工科大学造船科卒業。小村寿太郎の愛顧を受け、米国・英国で10年間造船学を学ぶ。帰国後、三菱造船所、鳥羽造船所の技師長となる。1919年、第1回国際労働会議に労働者代表として出席したが、政府による代表の選定に対して労働団体から反対運動が起こった(国際労働会議代表反対運動)。娘は桝本セツ。
羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月1… 羽入 三郎(はにゅう さぶろう、1873年(明治6年)4月16日 - 1944年(昭和19年)2月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。政治家。最終階級は陸軍少将。功四級。 兵庫県多紀郡出身。鳳鳴義塾(現・兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)を経て、1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業。歩兵第6連隊附となり、日露戦争に出征。 戦後、名古屋陸軍幼年学校生徒監、近衛歩兵第2連隊大隊長を歴任。ついで、1917年(大正6年)8月に釧路連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第58連隊長(第13師団、歩兵第26旅団)に補されシベリア出兵に従軍。その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将に昇進と同時に待命。
安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4… 安河内 麻吉(やすこうち あさきち、1873年(明治6年)4月15日 - 1927年(昭和2年)7月15日)は、日本の内務官僚。
森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日… 森本 泉(もりもと いずみ、1873年(明治6年)4月13日 - 1956年(昭和31年)2月18日)は、日本の大蔵・内務官僚。官選山形県知事。 高知県土佐郡上街本町筋(現:高知市上町)で、旧高知藩士・森本安秀の長男として生まれる。1891年7月、高知県尋常中学校を卒業。1897年、慶應義塾大学部理財科を卒業。1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大蔵省に入省し理財局に配属された。 以後、税関監視官、函館税関監視部長、税関事務官兼税務官、函館税務署長、大阪税関監視部長などを歴任。1910年5月20日、内務省に転じ長野県事務官に就任。以後、長野県警察部長、栃木県内務部長、富山県内務部長などを歴任。
塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4… 塩川 三四郎(しおかわ さんしろう、1873年〈明治6年〉4月12日 - 1965年〈昭和40年〉5月3日)は、日本の銀行家。ノーベル化学賞を受賞した野依良治は外孫。 長野県北佐久郡三岡村(現・長野県小諸市)出身。農業・銀行家、塩川仁助の三男。塩川幸太の弟。1897年、分家する。 1885年、長野県立長野中学校上田支校(後の松本中学上田支校)に入学。翌年、第一次中学校令に伴い上田支校が松本校に統合されたため上京。中村敬宇の同仁社に学び、第一高等学校に入学。1896年、第一高等学校大学予科を卒業。 1899年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、大学院に入った後、馬越恭平に目をかけられ帝国商業銀行試補となる。
小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12… 小幡 酉吉(おばた ゆうきち、1873年(明治6年)4月12日 - 1947年(昭和22年)8月9日)は、日本の外交官。 石川県出身、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学法律学科卒業。警視総監官房に半年間勤務後、外交官及領事官試験に合格して外務省に入り、1898年(明治31年)10月に天津在勤の領事官補へ任じられる。その後、シンガポール、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリスでの勤務を経験した。1905年(明治38年)に中国へ転勤、芝罘領事、天津総領事などを務める。1908年(明治41年)柔術家の野口清と在留官民が設立した天津武術會で副会長を務める。 1916年(大正5年)に日本へ戻って外務省政務局長などを務めるが、1918年(大正7年)10月から1923年(大正12年)まで特命全権公使として再び中国へ派遣される。
5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6… 5代 伊藤 長次郎(いとう ちょうじろう、1873年(明治6年)4月11日 - 1959年(昭和34年)6月12日)は、明治から昭和期の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。初期の産業組合指導者。幼名・熊蔵。 兵庫県印南郡今市村(伊保村 を経て現高砂市伊保町)で大地主、4代伊藤長次郎の長男として生まれる。兵庫県尋常中学校(のち姫路中学校、現兵庫県立姫路西高等学校)を卒業し、京都の顕道学校、東京の国民英学会、日本法律学校で英語、法律を学んだが、父の病により学業を中断して帰郷した。1895年(明治28年)9月、父の死去に伴い家督を相続し第5代長次郎を襲名した。 1896年(明治29年)以降、加古川銀行頭取、三十八銀行頭取、神栄社長、兵庫県農工銀行取締役、兵庫県農会長、印南郡会議員、同郡参事会員、日英博覧会評議員、茶業組合中央会議特別議員、生産調査会委員などを務めた。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日… 伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日 - 1921年(大正10年)11月26日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基。 酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された。
八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月… 八十島 親徳(やそしま ちかのり、1873年(明治6年)4月9日 - 1920年(大正9年)3月18日)は、日本の実業家。渋沢栄一の秘書役を務め、渋沢家の「一番番頭」と呼ばれた。愛媛県出身。娘婿に阪谷俊作。 1873年(明治6年)4月9日、愛媛県宇和島富沢町(現・宇和島市)で生まれる。旧宇和島藩士八十島行蔵の二男。愛媛県第三中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、商業素修学校を経て、1894年(明治27年)渋沢栄一が創立に関わった高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。同郷の先輩であり渋沢栄一の娘婿であった穂積陳重の推薦により、卒業後直ちに渋沢家元方(家政、事業、資産等の管理執行部署)へ入り渋沢栄一の秘書役となる。
中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)… 中沼 信一郎(なかぬま しんいちろう、1873年(明治6年)4月8日 – 1919年(大正8年)7月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 京都府に中沼清蔵の長男として生まれ、祖父で学習院講師を務めた中沼了三の跡を継いだ。1903年(明治36年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、司法官試補、神戸地方裁判所検事代理となった。翌年、辞して京都に弁護士を開業。1907年(明治40年)、横浜市助役に就任した。翌年に辞した後は横浜で弁護士の業務に従事した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に祖父の出身地である隠岐選挙区から出馬し、当選を果たした。
石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日… 石井 雙石(いしい そうせき、1873年〈明治6年〉4月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月29日)は、昭和期の日本の篆刻家・書家である。 幼名は石松、長じて碩と改名。雙石を号とした。千葉県山辺郡四天木村(現・大網白里市四天木)の生まれ。 四天木村の石井太郎兵衛の三男として誕生。石井家は九十九里浜の大網元・斉藤巻石(四郎右衛門)とは縁戚にあたり、石松少年は度々斎藤家を訪れ、収蔵された書画・美術品に触れることができた。この頃から細かいことが大好きで小刀を持ち歩いては様々な物に彫りつけたという。四天木学校に四年間通うと儒家島田順堂に素読を習い漢学の基礎を身につけた。14歳には父の務めている役場で書記見習いとして帳簿や土地台帳の整理を行っている。
斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30… 斎藤 春子(さいとう はるこ、1873年〈明治6年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉9月14日)は、日本の華族。第30代内閣総理大臣夫人。斎藤実子爵夫人。 東京出身。1873年〈明治6年)3月30日、薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範の長女として生まれる。兄の仁礼景一は日露戦争で初瀬分隊長として戦死、弟の仁礼景雄は昆虫学者。1884年(明治17年)に明倫女学校(現在の横浜清風高等学校)を卒業。その後、東洋英和女学校に進学したが中退。 1892年(明治25年)2月5日に斎藤実と結婚。斎藤実との間には子供はなく、斎藤斉を養子に迎えている。 1932年(昭和7年)5月、斎藤実の内閣総理大臣就任により、内閣総理大臣夫人となる。
西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月2… 西 晋一郎(にし しんいちろう、1873年(明治6年)3月29日 - 1943年(昭和18年)11月13日)は、日本の倫理哲学者。学位は、文学博士。京都帝国大学の西田幾多郎博士とともに“両西”と呼ばれ、倫理哲学界の重鎮であった。 1873年、鳥取県鳥取市で西昇蔵の長男として生まれた。山口高校を経て東京帝国大学に入り、1899年(明治32年)に同大学哲学科を卒業した。 1902年、広島高等師範学校が設立されると同校教授に就任。同校が1929年に文理科大学に改組されたのちも引き続きその教授をつとめた[疑問ありーノート参照]。1937年に満州国の首都・新京に建国大学を設立することが満洲国国務院の会議で決定するが、設立にあたっては創立委員を務めた。
田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873… 田守 三郎兵衛(たもり さぶろうべえ、前名・龜三郎、1873年(明治6年)3月28日 - 没年不明)は、日本の銀行家。富田林銀行取締役。族籍は大阪府平民。 大阪府人・田守三郎平の長男。1917年、家督を相続し、前名・龜三郎を改める。河内紡績、富田林銀行各取締役をつとめる。住所は大阪府南河内郡富田林町(現富田林市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23… 秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23日 - 1938年(昭和13年)11月22日)は、日本の医師、細菌学者。医学博士(東京帝国大学医科大学)。 数百年に渡り、不治の病の筆頭として人類を苦しめて来た梅毒の、史上初の治療薬となったサルバルサン(砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(エールリヒは、秦との共同研究以前の業績で1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞していた)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 秦は、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸した。島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。
水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年… 水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年3月11日) - 1919年(大正8年)4月10日)は、日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭。大阪府出身。 1872年(明治5年)に大阪府安土町(現在の大阪市中央区、いわゆる船場にあたる)の裕福な商家に生まれる。府立大阪商業学校(のちの大阪商科大学、現在の大阪市立大学)を経て、泊園書院(現・ 関西大学)で藤沢南岳に漢学を学ぶ。その頃から俳句を始め、日本派の正岡子規に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで3番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は寒川鼠骨、中川四明ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか1年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、松瀬青々、野田別天楼、青木月斗らも続いた。
香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4… 香川 保忠(かがわ やすただ、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和15年(1940年)4月13日)は、日本の衆議院議員(憲政会)、医師。 富山県中新川郡西加積村(現在の滑川市)出身。1894年(明治27年)に第四高等学校医学部を卒業後、東京帝国大学医科大学選科で学んだ。新潟県の小出病院で副院長を務めた後、帰郷して開業した。中新川郡医師会長、同衛生会副会長、富山県医師会長を歴任。さらに西加積村会議員、富山県会議員、同参事会員、同副議長に選ばれた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、立山鉄道専務取締役、立山製紙株式会社取締役、加積水力電気株式会社取締役、大岩電気株式会社監査役、滑川銀行監査役などを務めた。
斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(187… 斯波 忠三郎(しば ちゅうざぶろう、明治5年3月8日(1872年4月15日) – 1934年(昭和9年)10月3日)は、日本の船舶工学者、東京帝国大学教授。貴族院男爵議員。 男爵斯波蕃の長男として生まれ、1907年(明治40年)3月18日に男爵を襲爵した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大学院に進み、1896年(明治29年)に同大学助教授となった。1899年(明治32年)からイギリス・フランス・ドイツに留学し、1901年(明治34年)に帰国。直ちに教授に任命され、後に3度にわたって評議員を務めた。1902年(明治35年)には工学博士号を取得。1906年(明治39年)から海軍大学校教授も兼ね、機関将校の育成に当たった。
奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4… 奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和19年(1944年)3月24日)は、日本の実業家・漁業家(オツタートロール漁業の先覚者、機船底曳網漁業の創始、角輪組設立)、政治家(衆議院議員、貴族院議員)。 第2回水産博覧会で朝鮮半島沿岸漁場とオッタートロールの知識を得、まず、オッタートロールに関し、1901年に鳥取県知事に山陰沖の漁業権許可を申請したが、反対運動が起きたため香川輝知事は拒否を決せずこれを握り潰した。他方、朝鮮半島沿岸漁場に関しては、1902年から1903年にかけて、韓国東北海岸漁業探検を実施、相当の漁獲をあげられることを確認した。1904年には寺田祐之知事の賛意を得てオツタートロール汽船海光丸を建造。
都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明… 都田 友次郎(みやこだ ゆうじろう、1872年4月14日(明治5年3月7日) - 1959年(昭和34年)4月15日)は、日本の牧師である。都田恒太郎の父である。 鳥取県境港市に生まれる。叔父の門永尚一とバークレー・バックストンの協力者竹田俊造によって信仰を持つ。1892年(明治25年)クリスマスに境港の竹の内教会でバックストンより洗礼を受ける。1887年(明治20年)に恒太郎が生まれる。1902年(明治35年)東京に行き、中田重冶らの聖書学院の修養生として学ぶ。同郷の人物に米田豊らがいる。 1904年(明治37年)アグネス・グレンの元で働き信州の岩村沢教会に着任する。1918年(大正7年)利根川沿岸潮来の開拓をする。
下田 次郎(しもだ じろう、明治5年3月6日(1872年4月… 下田 次郎(しもだ じろう、明治5年3月6日(1872年4月13日) - 昭和13年(1938年)3月24日)は、日本の女子教育家。 1872年、広島県広島市上流川(現在の同市中区幟町付近)の生まれ。元広島浅野藩士多羅尾家に生まれるが1876年、陸軍少尉となっていた父が神風連の乱により熊本城内で戦死、幼少にして下田収蔵の養子となる。下田家も広島浅野藩の家臣の家系 。 広島県立中学(現・広島国泰寺高等学校)、第三高等中学校を経て1886年、帝国大学文科大学哲学科を卒業、引き続き大学院に入学して「教育の心理的基礎」について研究した。1899年女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)教授、1899年から1902年までイギリス、アメリカ、ドイツに留学。
鶴見 孝太郎(つるみ こうたろう、1872年4月12日(明治… 鶴見 孝太郎(つるみ こうたろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1930年(昭和5年)1月22日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(1期)。 父は出羽鶴岡藩領田川郡落野目村(山形県東田川郡豊栄村、八栄島村、藤島町を経て現在の鶴岡市)の豪農日向三右衛門と伝わる。生後間もなく同郡白山林村(西田川郡大泉村を経て現在の鶴岡市)の白山神社の社掌鶴見家の養子となった。1889年(明治22年)荘内中学校に入るが中退し、鶴岡の野沢鎌治について漢籍などを学ぶ。小学校の代用教員を経て大泉村役場に奉職し1894年(明治27年)大泉村消防組初代組頭を経て、1896年(明治29年)25歳にして村長に選ばれた。
野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治… 野田 文一郎(のだ ぶんいちろう、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)3月9日)は、広島県三次郡三次町(後の三次市)出身の裁判官、政治家。関西法律学校(後の関西大学)卒業。正四位勲二等旭日重光章。 広島県三次町(後の三次市)の造り酒屋に生まれ、関西法律学校卒業後、明治法律学校を経て司法官試補となる。大津区裁を振り出しに神戸地方裁判所、大阪控訴院判事を歴任後、兵庫県神戸市で弁護事務所を開業した。1920年、後立憲民政党となる憲政会から出馬し衆議院議員初当選。しかし1924年の総選挙で落選し議員生活を離れる。このため若手弁護士グループに担ぎ出され神戸弁護士会会長に就任。
松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日(明治… 松村 松年(まつむら しょうねん、1872年4月12日(明治5年3月5日) - 1960年(昭和35年)11月7日)は、日本の昆虫学者。北海道大学名誉教授。理学博士、農学博士。日本の近代昆虫学の基礎を築いた先覚者で、「日本昆虫学の祖」と称される。日本産昆虫の和名の命名法を創案するとともに、日本産昆虫約1,200種の命名者である。教育者としても多くの昆虫学専門家を育成し、1898年(明治31年)に著した『日本昆虫学』は、日本人による近代昆虫学の最初の単行書として知られる。 兵庫県明石郡大明石町(現在の明石市)に漢学者・松村如年(如屏)の3男として生まれる。兄に画家で発明家の松村竹夫、キリスト教伝道者の松村介石、叔父の孫に橋本関雪がいる。
菊川 惣吉(きくかわ そうきち、1872年4月11日(明治5… 菊川 惣吉(きくかわ そうきち、1872年4月11日(明治5年3月4日) - 1941年(昭和16年)6月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県、現在の姫路市で生まれた。姫路市会議員、兵庫県会議員、姫路商業会副会長、山陽毛織、帝国醤油醸造、播磨電化工業、山陽金融無尽各(株)社長、姫路瓦斯、明石瓦斯各(株)取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において姫路市選挙区から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1920年の第14回衆議院議員総選挙において兵庫2区から立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1941年に死去した。
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3… 板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、茨城県出身の、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。茨城県名誉県民。下館市名誉市民(合併により筑西市への移行に伴い、現在は筑西市名誉市民)。 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。