安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日… 安倍 邦衛(あべ くにえ、1882年〈明治15年〉3月10日 - 1950年〈昭和25年〉10月19日)は、日本の鉄道官僚、鉄道技術者、土木技術者。位階は正五位。学位は工学博士。 元鉄道省東京鉄道局工務課技師、東京地下鉄道初代技師長、元帝都復興院勅任技師、東京市電気局第4代技術長、元東京高速鉄道顧問技師。日本で最初の地下鉄の設計者。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)出身。1900年(明治33年)3月に新潟県中学校を卒業、1903年(明治36年)7月に第四高等学校を卒業、1906年(明治39年)7月に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1906年(明治39年)7月に鉄道作業局に技手として入局、1909年(明治42年)12月28日に鉄道院技師に任官、中部鉄道管理局工務課に配属、東海道線の東京 - 横浜間の鉄道の改良工事に従事、以後、東京の国有鉄道の工事を担当。
佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月1… 佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月10日) - 1945年(昭和20年)5月17日、俗名:佐々木栄多)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京美術学校彫刻選科(後の東京芸術大学)を卒業。米国仏教協会(後の米国第一禅堂)を1930年にニューヨークに創設した。アメリカ合衆国での禅宗発展に影響を与えた指月は、米国で生活し指導を行った最初の日本人師家たちの一人である。1944年、米国人ルース・フラー・エヴェレットと結婚した。1945年5月、法嗣を残さずに死去。著名な彼の生徒の一人アラン・ワッツは、1930年代後半に短い間彼の許で学んだ。号は曹溪庵。 1882年、三重県に生まれた。
嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 194… 嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。 三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。 1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。
高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日… 高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日 - 1972年〈昭和47年〉12月9日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。 郷里長野県の電力会社長野電灯・東信電気で技師長を務めたのち、東信電気が起業した肥料会社昭和肥料の常務取締役に転身。姉妹会社としてレーヨンメーカー昭和人絹(クレハの母体)を起業して初代社長となり、1939年(昭和14年)には昭和肥料の後身にあたる昭和電工の初代副社長に就任した。衆議院議員を務めた時期もある(当選1回)。 高橋保は、1882年(明治15年)3月8日、長野県人・高橋澄弥の長男として生まれた。出身地は長野県東筑摩郡上川手村(現・安曇野市)。
公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6… 公森 太郎(きみもり たろう、明治15年(1882年)3月6日 - 昭和28年(1953年)2月25日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。元朝鮮銀行副総裁。元中国銀行頭取。 岡山県都宇郡大内田村(のち都窪郡吉備町、現岡山市北区)に公森仲次の長男として生まれた。 その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)へ進学、1901年に卒業し、旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)に同校を卒業し、東京帝国大学法学部へ進学する。明治41年(1908年)7月、東京帝国大学政治科卒業する。大蔵省奉職。昭和5年(1930年)8月退官、日本興業銀行理事に就任。昭和12年(1937年)4月朝鮮銀行副総裁。
小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3… 小山 寛蔵(おやま かんぞう、1882年〈明治15年〉3月3日 - 1929年〈昭和4年〉12月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県三上郡、のちの庄原村(比婆郡庄原村、庄原町を経て現庄原市)出身。 東京法学院(のち東京法学院大学を経て、現在の中央大学)で学ぶ。広島県議、庄原町長、同農会長、比婆郡自治教育会長、同郡有財産林組合長、広島県土地収用審査委員、広島地方森林会議員、山陽製鉄(株)高野山工場長、東城製鉄(株)取締役兼工場長、京都西陣織物同業組合調査部長となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において広島3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めたが、1929年12月、在職中に死去した。
伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日… 伊藤 晴雨(いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日)は、日本の画家。本名は伊藤一。責め絵、幽霊画を得意とする。 出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。 父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公する。23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 -… 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。
伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日… 伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉6月22日)は、日本陸軍の軍人。階級は陸軍少将。武道の称号は大日本武徳会銃剣術範士、剣道教士。流派は直心影流。 陸軍戸山学校教官、富山連隊区司令官、歩兵第45連隊長、陸軍憲兵学校教授、拓殖大学専門部武徳科長を歴任した。 新潟県生まれ。1897年(明治30年)新潟中学校に入学後、直心影流を学ぶ。1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月、歩兵少尉に任官。その後、陸軍きっての名剣士となる。 1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。予選リーグで大麻勇次、小関教政、早坂広道と戦い、小関に敗れ2勝1敗。
小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 -… 小倉 清三郎(おぐら せいざぶろう、1882年2月28日 - 1941年1月14日)は、大正時代に活躍した日本の性科学者、社会運動家。性の研究のため「相対会」を設立し、雑誌『相対』を出版した。山本宣治と共に「自慰」という言葉を作り、オナニーの有害説を否定した[要出典]。 1882年、福島県須賀川生まれ。国民英学会で英語を学ぶ。同級生に辻潤がいた。キリスト教に傾倒し、熱心なクリスチャンになったが、肉欲との葛藤に悩み、性の研究を始める。26歳で東京帝国大学文学部哲学科に入学し、イギリスの性科学者ハヴロック・エリスの著作を読み、性科学の研究を本格的に始める。 29歳のとき「相対会」を設立し、1913年,『相対会第一組合小倉清三郎研究報告』を発行。
山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月… 山崎 馨一(やまざき けいいち、1882年(明治15年)2月28日 - 1948年(昭和23年)9月12日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 神奈川県出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)専攻部を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。領事官補となり漢口、ニューヨークに勤務した。さらにシカゴ領事、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、ロンドン総領事、上海総領事、ホノルル総領事、駐ペルー公使を歴任した。 退官後は後藤風雲堂株式会社取締役会長、後藤風雲堂製作所株式会社社長を務めた。 1948年(昭和23年)9月12日、病気療養中に東京都世田谷区の自宅で死去、63歳。
原口 竹次郎(はらぐち たけじろう、1882年(明治15年)… 原口 竹次郎(はらぐち たけじろう、1882年(明治15年)2月28日 - 1951年(昭和26年)2月16日)は、日本の東南アジア研究者。 佐賀県小城郡(現在の小城市)生まれ。1902年(明治35年)早稲田大学大学部文学科に入学。1905年の卒業時には総代として答辞を読んだ。1907年にアメリカに留学、同地で心理学者の新井鶴子と結婚した(1915年に死別)。帰国後は母校早大の教授となるも1917年(大正6年)に起きた早稲田騒動で天野為之学長派として活動したことが原因で早大から放逐された。その後は台湾やオランダ領東インドで活動、戦後はオランダ大使館顧問となった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月2… 田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月23日 - 1943年〈昭和18年〉1月15日)は、明治・大正・昭和期の政治家。衆議院議員を通算5期務めた。 和歌山県日高郡薗浦(現:御坊市)の大地主であり、造り酒屋伊勢屋を営む田渕善兵衛・かめの四男として生まれる。戦前の田渕家は、大地主であると共に、日高銀行(現紀陽銀行に一部営業・店舗を譲渡)、由良臨海鉄道、日高物産、南海信託、御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)などの事業も営む、和歌山屈指の名門であった。善兵衛死後は次男の田渕榮次郎が家督を継いだ。 1905年(明治38年)早稲田大学政治経済科入学。1908年(明治41年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。
蓮沼 門三(はすぬま もんぞう、1882年2月22日 - 1… 蓮沼 門三(はすぬま もんぞう、1882年2月22日 - 1980年6月6日)は、社会教育団体「修養団」を設立した日本の社会教育家。 1882年(明治15年)2月22日、福島県耶麻郡相川村(現・福島県喜多方市山都町)出身。父の行商人・高橋岩四郎が行方不明になったため、母が岩月村(現・喜多方市)の蓮沼市太郎と再婚し、3歳のときに蓮沼姓となる。 小学校尋常科準教員を経た後の1903年(明治36年)、東京府師範学校(現・東京学芸大学)に入学し、寄宿舎に入る。在学中の1906年2月11日、仲間と共に、学校教育への問題提起を目的とする修養団を創立、主幹を務めた。 1907年に卒業、赤坂尋常高等小学校の訓導となる。
久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 … 久野 節(くの みさお、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1962年〈昭和37年〉8月7日)は、日本の建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任。旧制堺中学校、東京帝国大学建築学科卒。従四位。
山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月… 山口 蘭渓(やまぐち らんけい、1882年〈明治15年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉7月2日)は、日本の書道家。本名は南寿、字は穆卿。 秋田県北秋田郡大葛村(現在の大館市)出身。1905年に秋田県師範学校を卒業し、土崎尋常高等小学校に勤務した。土崎尋常高等小学校在職中に書道を学び、1912年に上京し日下部鳴鶴に入門した。1918年に文部省習字科試験に合格した。日本美術協会第1回展覧会に出品して入賞してから各展覧会で賞を受けた。日本書道作振会第二回展覧会には、久邇宮殿下が台臨のときに御前揮毫を行った。 1936年には秋田書道展主査となり、1962年まで務めた。1939年には興亜書道連盟理事となった。
児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月2… 児玉 一造(こだま いちぞう、明治14年(1881年)3月20日 - 昭和5年(1930年)1月30日)は、明治から大正期の実業家。東洋綿花株式会社(トーメンを経て豊田通商と合併)を創設。また、輸出綿糸組合を結成するなど綿業界の再建に尽力し、豊田紡織や三井物産の取締役・大阪市教化委員・資源審議会委員などを歴任した。 豊田利三郎トヨタ自動車工業初代社長や児玉桂三東京大学名誉教授は実弟。妻の米は園田孝吉男爵の娘。 児玉一造は、明治14年(1881年)3月20日に滋賀県犬上郡彦根町大字芹橋(現彦根市芹橋)で児玉貞次郎と美衛の子として誕生した。父貞治郎は美濃国養老郡の高木利右衛門の子で、長浜(後の神照村)の児玉助三郎の養子となり、江波伴三の娘美衛と結婚した後、彦根藩足軽の株を買い、明治維新後は家屋の壊し屋を家業としていた。
森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月1… 森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:森田 米松。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 岐阜県方県郡鷺山村(現・岐阜市)生まれ。1895年に高等小学校卒業後、日清戦争の影響を受け海軍軍人となるべく単身上京し、海軍予備校だった攻玉社に入学。しかし校風が合わず退学し、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学。同校を1899年に卒業。さらに金沢の第四高等学校に入学するが、恋人の森田つね(のちの妻)との同棲が見つかり、つねの親が学校に訴えたため退学処分を受ける。
今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月1… 今村 次吉(いまむら じきち、1881年(明治14年)3月15日 - 1943年(昭和18年)4月17日)は、日本の大蔵官僚、実業家。東京帝国大学卒業。大日本蹴球協會(日本サッカー協会の前身)初代会長。大日本レスリング協会(日本レスリング協会の前身)会長。大日本陸上競技連盟(日本陸上競技連盟の前身)顧問。 今村有隣(1841年-1924年)の次男として生まれる。有隣は明治・大正期の著名なフランス語学者。また兄の今村新吉(1874年-1946年)は京都帝國大學教授を務め、日本の精神病理学者の先駆者と呼ばれた人物である。 1891年に東京高等師範学校附屬小學校(現・筑波大学附属小学校)、1897年に東京高師附屬中學校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1… 上田 三平 (うえだ さんぺい、1881年3月15日 - 1950年12月19日 )は、日本の考古学者。 次男、上田明(愛媛、千葉、埼玉県警察本部長等を経て、中国管区警察局長)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966… 田中 芳雄(たなか よしお、1881年3月9日 - 1966年5月8日)は、日本の応用化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県生まれ。東京帝国大学工科大学応用化学科卒。 石油、油脂、ゴムの権威として、化学工業界の発展に尽力した。1918年東京帝国大学教授、後に東京工業大学教授兼任。1927年(昭和2年)「本邦産石油の成分並びに応用に関する研究」で帝国学士院賞受賞。1938年(昭和13年)帝国学士院会員。1961年(昭和36年)文化功労者。主著に『化学工業総論』、『有機工業化学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 196… 三辺 金蔵(さんべ きんぞう、1881年3月7日 - 1962年4月25日)は、明治時代から昭和時代の経済学者。専門は会計学。立教大学元総長、慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾大学元経済学部長、理財科教授として慶應義塾大学部で初めて会計学を講義。生涯にわたってクリスチャンであった。 1881年3月7日、神奈川県足柄下郡にて三辺惣吉の長男として生まれる。生家はかつて裕福であったが凋落したことから、勉学に対しての父の理解は薄い状況であった。一人家を出た金蔵は、肉体労働により学費を稼いだ。 旧制・立教中学校(現・立教池袋中学校・高等学校)を卒業後、1908年に慶應義塾大学部理財科を卒業。その時、28歳という晩学であった。
伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日… 伊達 亮治(だて りょうじ、1881年〈明治14年〉3月7日 - ?)は、日本の公証人、判事。正五位、勲五等。親族は下記参照。 伊達家一門・伊達宗亮の四男として、宮城県亘理郡坂元村に生まれる。旧制第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法学部を卒業後直ちに高等文官試験に合格し、判事に任ぜられ、横浜・新潟・盛岡・平・土浦・水戸各地方裁判所を歴任。1923年(大正12年)に宮城控訴院判事となり、1930年(昭和5年)に退職。 趣味は、書画と旅行。宗教は曹洞宗。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月… 中島 照寛(なかしま てるひろ、1881年(明治14年)3月6日 – 1948年(昭和23年)4月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。熊本県荒尾市長。 熊本県葦北郡日奈久町(現在の八代市)出身。中央大学に学んだ。平井村(現・荒尾市)長、荒尾町(現・荒尾市)長、玉名郡会議員、熊本県会議員を務めた。その他、玉名郡畜産組合長、玉名郡家畜保険組合長を務めた。 1922年(大正11年)、熊本5区(当時)から衆議院議員に補欠当選を果たした。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で落選した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙では熊本1区から立候補したが落選した。 1942年(昭和17年)より荒尾市会議員を2期務め、議長を務めた。
上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 -… 上ヶ汐 福治郎(あげしお ふくじろう、1881年3月5日 - 1935年6月12日)は、現在の茨城県筑西市下館地区出身で若藤部屋、伊勢ノ海部屋、友綱部屋に所属した力士。本名は渡辺 福次郎(わたなべ ふくじろう)。8代若藤。身長171cm、体重は79kg。最高位は西前頭3枚目。得意技は右四つ、上手投げ、掬い投げ。 1899年5月場所序ノ口。その後応召されて、日露戦争に従軍。復帰後、1907年5月場所に十両昇進。1909年1月場所に入幕を果たす。二枚鑑札となっていたが、1913年5月場所限り引退。年寄・若藤として巡業の先乗りに手腕を発揮し、理事も務めたが、弟子の沖ツ海福雄の急死に気落ちし、部屋を復活させようとした矢先の1935年6月12日、胃癌で死去。
吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 … 吉木 陽(よしき きよし、1881年〈明治14年〉3月3日 - 1944年〈昭和19年〉10月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 山口県熊毛郡、のちの大野村(現平生町)出身。1905年、京都帝国大学電気科卒。栃木県立宇都宮中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)教諭、宇都宮電燈、奥羽電燈各(株)技師長、シーメンス・シュケルト(株)電気技師、周防電燈、中外電気各(株)専務取締役、全州電気、周東自動車、旭金属工業、満州工機各(株)社長、中島電気、全北電気各(株)取締役、周東中学校(現・柳井学園高等学校)主、東京工材、旭電気各(株)会長となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において山口9区から立憲政友会公認で立候補して初当選。
小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)… 小林 吉之助(こばやし きちのすけ、1881年(明治14年)3月3日 - 1968年(昭和43年)4月2日)は、政治家。第11 - 14代八王子市長を務めた。勲四等瑞宝章、藍綬褒章受章。 1881年(明治14年)3月神奈川県高座郡上溝村(溝村、上溝町を経て現相模原市)に資産家根岸家の次男として生まれる。高等小学校時代から成績は良く法曹界を目指し東京法学院に進学し1901年(明治34年)卒業するが脚気衝心に罹り療養生活に入る。1907年には小林家に婿入り。1916年(大正5年)八王子町議会議員に当選(1期)。1918年(大正7年)には八王子織物同業組合評議員に選出。副組合長を経て1924年(大正13年)に組合長に就任した他、武相甲織物同業組合連合会会長・東京府織物工業組合理事長など織物関係の組合の要職に就任。
高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと… 高 元勲(コ・ウォンフン、고원훈、日本名:高元 勲(たかもと いさお)、1881年2月29日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮の官僚、企業家である。 慶尚北道聞慶郡山陽面(朝鮮語版)薪田里(신전리)で生まれた。日本の明治大学に留学し、1910年7月に同大学法科を卒業し、1911年8月に朝鮮総督府の警部として採用され、1913年に普成法律商業学校(보성법률상업학교:後の高麗大学校の前身)に移って教授として在職し、1920年からはこの学校の校長も務めた。普成法律商業学校は1921年に専門学校認定を受けて普成専門学校に昇格し、高元勲は朝鮮人が建てた最初の専門学校の校長となった。一方、1920年7月には朝鮮体育会(조선체육회:大韓体育会の前身)の初代理事長に選出され、1921年には会長となった。
左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)… 左右田 喜一郎(そうだ きいちろう、明治14年(1881年)2月28日 - 昭和2年(1927年)8月11日)は日本の経済学者、経済哲学者。新カント主義者。弟子の杉村広蔵とともに経済哲学の創始者とされる。東京高等商業学校(現一橋大学)や京都帝国大学文学部で教鞭をとると同時に、貴族院議員を務めた。帝国学士院賞受賞。チュービンゲン大学博士。 1881年、神奈川県横浜市生まれ。横浜の金融界で活躍した左右田金作の長男である。幼少より秀才で鳴らし、1887年に横浜小学校では第1学年を飛ばし、2年生として入学。尋常科、高等科を7年で修了し、横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)では予科1年の1学期の修了後に2年生に進級。
村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年… 村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年)2月28日 - 1945年(昭和20年)11月9日)は、大正・昭和期の農林技官、華族(男爵)。加賀八家村井家第12代当主。 加賀藩重臣村井長在の嫡男村井又六の子として金沢に生まれる。1900年、父の隠居により家督を継ぎ、同年5月9日に祖父長在の明治維新における功績により男爵に叙爵された。 金沢第一中学校、盛岡高等農林学校を卒業。1909年、農商務省に入り福島・長野・水戸各営林署長等を歴任した。1935年、退官し前田侯爵家嘱託に就いた。
藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 19… 藤懸 静也(ふじかけ しずや、1881年2月25日 - 1958年8月5日)は、日本美術史学者、東京帝国大学教授。 茨城県古河市に生まれる。号は獅埼庵、獅子庵。父方祖父の五郎左衛門は旧古河藩国家老。江戸家老鷹見泉石は母方の曾祖父である。 第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学文科大学史学科国史科を卒業し、直ちに大学院に入つて日本絵画史を専攻した。1914年以降は同大学文学部副手となり、そのかたわら、岡倉天心らが創刊し瀧精一を主幹とする、日本および東洋古美術研究誌『國華』の編集部員を1911年から勤め、広く美術工芸品への知識を得ていった。また女子美術学校、日本大学の講師、1917年國學院大學教授となる。
濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せ… 濱田 耕作(はまだ こうさく、もしくは濱田 青陵(はまだ せいりょう)、1881年2月22日 - 1938年7月25日)は、日本の考古学者。京都帝国大学総長・名誉教授。「青陵」は号。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。 1881年、岸和田藩の上級藩士である濱田家の長男として大阪府南郡岸和田村(現:岸和田市岸城町)に生まれた。府立大阪尋常中学校(現:大阪府立北野高等学校)に入学するが、放校処分となり、その後東京府に渡り早稲田中学校(現:早稲田中学校・高等学校)に転校。卒業後は関西に戻り、第三高等学校(現:京都大学総合人間学部)をに進学、卒業した。 1902年、東京帝国大学文科大学史学科に入学し、美術史を専攻。
中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-195… 中村 古峡(なかむら こきょう、1881年2月20日-1952年9月12日)は日本の文学者、心理学者。本名は蓊(しげる)。奈良県出身 一高を経て、東京帝国大学文学部に入学。心理学を専修する一方で、夏目漱石の門下生となった。1922年、41歳にして、東京医専に入学する。卒業後は、千葉医科大学の研究所に勤務する一方、弟が精神病であったことから心理学研究に関心を持ち、1917年5月日本精神医学会を設立して会長となり、雑誌『変態心理』を創刊した。同誌は1926年10月まで刊行された。1929年には自ら診療所を開業した。この診療所が現在の中村古峡記念病院である。心理学者としても、二重人格の研究などの業績がある。
正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月… 正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の詩人、歌人。 岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)生まれ。哲学館大学(現:東洋大学)教育部卒業。 尾上柴舟・若山牧水ら共に「車前草社」を結成している。清水橘村との共著の『夏ひさし』、『小鼓』がある。大正7年『新進詩人』を創刊している。戦後、日夏耿之介・西條八十と共に日本詩人クラブを結成。 妻は与謝野鉄幹の元妻の林滝野。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月… 横山 一格(よこやま いちかく、1880年(明治13年)3月19日 - 1933年(昭和8年)1月23日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、医師。 三重県三重郡菰野村(現在の菰野町)出身。京都帝国大学医科大学を卒業後、同大学付属医院に勤務し、さらに大阪胃腸病院副院長となった。1908年(明治41年)、名古屋市に医院を開業し、愛知県医師会長にも選出された。 1921年(大正10年)に名古屋市会議員に選ばれ、さらに1924年(大正13年)には第15回衆議院議員総選挙に郷里の三重5区から出馬して当選した。その後も引き続き名古屋市会議員に当選し、1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙では愛知1区から出馬し、再選を果たした。
桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - … 桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - 1950年12月1日)は、実業家、種苗業者。現在日本で栽培されるイチジク(無花果)の主品種「桝井ドーフィン」創始者。広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身。 1887年、宮内村から初めてハワイへの海外移民が始まり、幼少のころから海外雄飛への夢をふくらませた光次郎は尋常小学校卒業後、家業の農業に従事していたが1902年、好きだったバラの苗木の育て方を習うため単身アメリカに渡る。カリフォルニアの農場で6年の間、果樹、花木類の繁殖、育成の最新技術を学ぶ。しかし肺病と誤診され1908年帰国し、桝井農場を設立。渡米の当初の目的だったバラ作りは日本では早過ぎて成功せず。
矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)… 矢鍋 永三郎(やなべ えいざぶろう、1880年(明治13年)3月15日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 岡山県出身。第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。統監府書記官となり、日韓併合後、財務部長、税関長として各地に勤務した。1917年(大正6年)より朝鮮総督府事務官、財務局関税局長、同理財課長、参事官、黄海道知事を歴任した。 1925年(大正14年)に退官した後は、朝鮮殖産銀行理事、漢城銀行取締役、朝鮮金融組合聯合会長、朝鮮土地改良株式会社監査役、中川鉱業株式会社社長、国民総力朝鮮聯盟理事、不二興業株式会社社長などを務めた。 戦後、公職追放となった。
川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)… 川島 信太郎(かわしま のぶたろう、1880年(明治13年)3月14日 - 1957年(昭和32年)8月7日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 京都府出身。1907年(明治40年)に東京高等商業学校専攻部(現在の一橋大学)を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。諸井六郎領事や、阿部守太郎参事官の下で、日米通商航海条約(小村条約)の改正に向けた調査にあたったのち、1912年(大正元年)からアメリカ合衆国在勤。 領事官補、外交官補、大使館三等書記官、同二等書記官、外務事務官・書記官、同参事官を歴任。1924年(大正13年)、ハンブルク総領事に就任した。1927年(昭和2年)、駐ギリシャ公使に任命され、駐アルバニア公使も兼ねた。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日… 白勢 友彌(しろせ ともや、1880年〈明治13年〉3月9日 - 1916年〈大正5年〉)は、日本の農民、大地主、新潟県多額納税者。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡金塚村(現・新発田市金塚)出身。白勢長衛の弟。1911年(明治44年)、家督を相続した。1914年(大正3年)、早稲田大学推薦校友となる。農業を営み、大地主であった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉… 橋本 定五郎(はしもと さだごろう、1880年〈明治13年〉3月7日 - 1947年〈昭和22年〉12月13日)は、日本の医師(外科医)、政治家・第6代埼玉県川越市長、実業家。川越同仁社長。 青森県八戸市十三日町生まれ。長助の五男。東京帝国大学医科大学卒業。医師開業。1923年、川越市医師会長就任。1926年、川越産婆看護婦学校長就任。川越産院長就任。 1930年、埼玉県医学会頭就任。1933年、川越脳病院管理者就任。1935年、川越市長就任。1936年、武州瓦斯監査役就任。 宗教は浄土宗。趣味は書画、盆栽。住所は川越市大字小仙波。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)… 山岡 光太郎(やまおか みつたろう、1880年(明治13年)3月7日 - 1959年(昭和34年)9月23日)は、日本のイスラーム・ユダヤ研究家。日本人としては記録上初めてメッカ巡礼を果たし、昭和期の日本においてイスラームを紹介する著作を多く発表した。ムスリム名はオマル。 1904年、東京外国語学校ロシア語科を一期生として卒業。日露戦争には陸軍通訳官として従軍。戦後は大原武慶中佐隷下の昌図軍政署に勤務。 1909年、参謀本部の福島安正の命令でイスラーム世界の情報収集のためメッカ巡礼の旅へと出発する。離日していたアブデュルレシト・イブラヒムとボンベイで合流し、クルアーンの講義を受けた後に、同年12月にはメッカを巡礼した。
小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日… 小杉 武司(こすぎ たけし、1880年(明治13年)3月6日 - 1937年(昭和12年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。実弟である櫻井忠記陸軍大佐の親戚に山本五十六元帥や山下源太郎海軍大将がいる。 山形県米沢市代官町出身。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸士に配属された。 1922年(大正11年)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍兵器本廠付となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第25連隊長に就任。1924年(大正13年)12月、第1師団参謀長に転じた。 1928年(昭和3年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第19旅団長に就任。
佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日… 佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、明治末から昭和期の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。 岐阜県養老町出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学を経て第一高等学校に入学。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治1… 桜井 賢三(櫻井賢三、さくらい けんぞう、1880年(明治13年)3月5日 - 1950年(昭和25年)12月29日)は、日本の教育者。 岐阜県安八郡墨俣町(現在の大垣市)出身。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した後、1910年(明治43年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業した。福島県立相馬中学校校長、山口県室積師範学校校長、静岡県師範学校校長、東京府豊島師範学校校長、京都府立女子専門学校校長を歴任。1935年(昭和10年)、東京府立第一高等女学校校長に就任し、東京府立第十四高等女学校校長も兼ねた。 東京高師時代(明治35年、1902年)、日本で初めてサッカーのチームができた際の選手の一員として、1904年には初めての外国人チーム(横浜のYCAC)との試合を現在の横浜スタジアム(当時の横浜公園)でやったことでも知られる。
石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉… 石黒 大次郎(いしぐろ だいじろう、1880年〈明治13年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉12月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県刈羽郡、のちの中通村出身。1902年(明治35年)東京専門学校邦語行政科卒。農業を営み、刈羽郡会議員、新潟県議、同参事会員、刈羽郡農会長、新潟県農会長、百三十九銀行支配人、同取締役頭取、柏崎米穀取引所理事となる。 1924年(大正13年)第15回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1973年死去。
牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3… 牛場 清次郎(うしば せいじろう、1880年(明治13年)3月5日 - 1938年(昭和13年)11月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。ジャーナリスト。 三重県度会郡、のちの浜郷村(宇治山田市を経て現伊勢市)出身。牛場林造の二男として生まれた。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。『神戸又新日報』記者、『柏崎日報』主筆を経て、雑誌『実業倶楽部』を発刊・経営した。 三重県会議員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に三重県第2区から出馬し、当選を果たした。
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月… 松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。 南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。 1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(現:光市室積)で生まれた。 洋右が11歳の時に父親が事業に失敗し破産したことや、親戚が渡米し成功していたことから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。