山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963… 山田 又司(やまだ またじ、1884年9月3日 - 1963年7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 新潟県出身。1908年(明治41年)、慶応義塾大学政治科卒。鉱業に従事する。長岡市議、新潟県会議員を務め、長岡市青年会長、新潟港湾調査会顧問、長岡商業会議所特別議員、日本金鉱、会津石膏各(株)社長、大阪機械製作所、日蘭公司、北越新報、中央証券取引所各(株)取締役、長岡鉄道、北越印刷各(株)監査役となる。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙において新潟2区(小選挙区制)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において新潟3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して再選。
高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3… 高野 六郎(たかの ろくろう、1884年(明治17年)9月3日 - 1960年(昭和35年)12月15日)は、日本の医学者。慶應義塾大学医学部教授・厚生省予防衛生局長などを歴任。予防衛生の先駆者。勲一等瑞宝章受章。 茨城県八千代町生まれ。1909年(明治42年)12月、東京帝国大学医科大学を卒業。内務省伝染病研究所技師、北里研究所所長、慶應義塾大学医学部教授、厚生省予防衛生局長などを歴任し、結核予防会の設立、医療機関の整備に尽力した。コレラ菌や腸チフス菌、各種ワクチンの研究や公衆衛生の指導に取り組み医学界に貢献した。また、ラサ島住民に感チフスワクチンの予防接種を行った。勲一等瑞宝章を受章。 また、高野は文筆家としての側面も有しており、随筆集を出すほどでもあった。
堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう、1884年〈明治17年〉… 堀切 善次郎(ほりきり ぜんじろう、1884年〈明治17年〉9月2日 - 1979年〈昭和54年〉11月1日)は、日本の内務官僚、政治家。 堀切良平の次男として福島県信夫郡上飯坂村(現:福島県福島市)に生まれる。旧制早稲田中学、第一高等学校を経て東京帝国大学法学科を首席で卒業後、内務省に入省し、内務監察官、兼内務省参事官・警保局保安課長兼図書課長などを歴任した。1925年(大正14年)に神奈川県知事、翌年9月には復興局長官となる。 1929年(昭和4年)4月に東京市長、翌年12月には拓務次官を務め、1932年(昭和7年)5月に成立した斎藤内閣において法制局長官に就任、翌年3月には内閣書記官長に転じて、同年12月5日に貴族院勅選議員に勅任された。
德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年〈明治17年〉9月… 德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年〈明治17年〉9月2日 - 1922年〈大正11年〉1月22日)は、日本の政治家。位階・勲等・爵位は正三位勲三等公爵。周囲の人々からは音読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていた。 貴族院議員・第一銀行取締役・華族世襲財産審議会議長などを歴任した。 1884年(明治17年)9月2日、徳川慶喜の七男として静岡市葵区紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室・新村信。初名は久(ひさし)。宮川喜久蔵、次いで黒田幸兵衛のもとに預けられる。1896年(明治29年)8月、妹・英子とともに静岡から東京に移り、学習院に入学する。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に、父の偏諱をとり慶久と改名した。
谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日… 谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日 - 1982年(昭和57年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。 徳島県海部郡、のちの川上村(海南町を経て現海陽町)出身。1914年、明治大学法科卒業。小学校校長、川上村長、徳島県会議員等を経て、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において徳島3区(小選挙区制)から政友本党公認で立候補して初当選。以来1945年12月までの間、徳島1区(1928年の第16回衆議院議員総選挙から)から衆議院議員に4期当選。衆議院懲罰委員長を歴任した。所属は立憲民政党を経て、1945年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月3… 鈴木 元長(すずき もとなが、1884年(明治17年)8月31日 - 1941年(昭和16年)7月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。1904年(明治37年)10月24日に陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進し、1909年(明治42年)11月26日に陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業後、更に員外学生として在学した。1911年(明治44年)12月12日に工兵大尉に昇進し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。 その後、陸軍砲工学校教官等を経て、1919年(大正8年)12月1日に工兵少佐に昇進し、電信第一連隊付等を経て、1924年(大正13年)3月15日に工兵中佐に、1928年(昭和3年)3月7日に工兵大佐に昇進。
永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日… 永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日 - 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選大分県知事、別府市長。 大分県西国東郡玉津村(現豊後高田市)出身。永野俊吉の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、朝鮮総督府警部に任官。 以後、朝鮮総督府試補、同警視、鍾路警察署長、朝鮮総督府事務官・咸鏡南道第三部長、同府税関長・仁川税関在勤、江原道内務部長などを歴任し、1924年5月に休職。1927年5月、鹿児島県書記官・警察部長に就任。熊本県書記官・警察部長に転じ、1929年7月に休職。
岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月2… 岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月28日 - 1970年〈昭和45年〉5月30日)は、昭和初期の日本の政治家、外務・宮内官僚。子爵。 子爵岡部長職の嫡男として東京に生まれる。父の死去に伴い、1926年3月15日、子爵を襲爵した。 学習院初等科、学習院中等科、学習院高等科から東京帝国大学卒業。外務省に入省。米国官補。文化事業部長の後、宮内省に転じ、内大臣秘書官長。1930年貴族院議員、宮内省式部次長、陸軍政務次官、大政翼賛会総務。1939年大日本吹奏樂聯盟(現全日本吹奏楽連盟)初代会長に選出され翌1940年第1回全日本吹奏樂競演会 紀元二千六百年奉祝 集団音楽大行進並大競演会(現全日本吹奏楽コンクール)を開催。
赤沼 智善(あかぬま ちぜん、1884年(明治17年)8月2… 赤沼 智善(あかぬま ちぜん、1884年(明治17年)8月25日 - 1937年(昭和12年)11月30日)は日本の仏教学者、専攻は原始仏教。大谷大学教授。 1884年(明治17年)、新潟県長岡市上田町の願浄寺で生まれた。真宗大学に入学し、仏教学を学んだ。1909年、同郷の山辺習学と共に浩々洞同人となり、清沢満之の下で学んだ。真宗大学研究科を卒業後、山辺習学と共に仏教研鑽のためにインド、セイロンに留学し、イギリスを経て1919年に帰国。 同1919年9月、真宗大学教授に任じられた。大学では、原始仏教ならびにパーリ語を講じた。在職中は、同大学図書館長なども務めた。1921年、国際的視野をもった鈴木大拙、佐々木月樵らとともに、仏教本来の意義を欧米に伝えることを主な目的として"東方仏教徒協会"(The Eastern Buddhist Society)を設立。
谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日… 谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日 - 1952年(昭和27年)4月2日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 佐賀県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。統監府判事となった後、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道財務部長、黄海道財務部長、忠清南道財務部長、農商工部水産課長、江原道内務部長、京城府尹、平安北道知事を歴任し、1929年(昭和4年)に慶尚南道知事に就任した。 退官後は、朝鮮火災海上保険株式会社社長、朝鮮信託株式会社社長、漢江水力電気株式会社社長、朝鮮漁業組合中央会会長を務めた。 戦後、公職追放となった。
阿久津 謙二(あくつ けんじ、1883年(明治16年)9月2… 阿久津 謙二(あくつ けんじ、1883年(明治16年)9月22日 - 1965年(昭和40年)12月26日)は、日本の英語教育者。東京商科大学(現一橋大学)専門部教授を務めた。 栃木県下都賀郡稲葉村の農家の二男として生まれる。1902年栃木県立中学校(現栃木県立栃木高等学校)卒業。1910年ミネソタ大学卒業、LLB(法学士)。 栃木県立中学校教諭、栃木県立商業学校(現栃木県立宇都宮商業高等学校)教諭を経て、1914年広島県立広島商業学校(現広島県立広島商業高等学校)教諭。1918年山口高等商業学校(現山口大学)教授。同年東京高等商業学校(現一橋大学)教授。 1920年東京商科大学(現一橋大学)予科教授、中央大学予科講師。
宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年… 宮本 貞三郎(みやもと ていざぶろう、1883年(明治16年)9月21日 - 1972年(昭和47年)4月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、岩出山町長。 宮城県大崎市で素封家・宮本益輔の長男として生まれる。第二高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し秋田県試補となる。 以後、大阪府事務官補、同府理事官・内務部地方課長、警視庁理事官、東京府事務官、埼玉県警察部長、愛知県警察部長、徳島県警察部長、青森県書記官・内務部長、京都府書記官・内務部長、長崎県書記官・内務部長などを歴任。1929年7月20日、大阪府書記官・学務部長に発令されたが、わずか5日後の同月25日に依願免本官となる。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。
中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 19… 中澤 良夫(なかざわ よしお、1883年9月19日 - 1966年8月28日)は、東京都出身の野球選手、応用化学者、日本高等学校野球連盟会長。 応用化学者・中沢岩太の長男。日本に野球を伝えたと言われるホーレス・ウィルソンから指導を受けた東京開成学校の生徒だった父親の影響で野球に関わるようになり第三高等学校では三塁手としてプレー。 1906年(明治39年)に東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業後、1911年(明治44年)に九州帝国大学教授。1912年(明治45年)、工学博士(九州帝国大学)。1914年に京都帝国大学工学部の教授になり、工学部長(1934年~1935年)、工学研究所長(1941年~1943年)を経て、1944年(昭和19年)退官・名誉教授。
林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 194… 林 癸未夫(はやし きみお、1883年9月17日 - 1947年10月26日)は、経済学者であり、教育者でもある。早稲田大学大学部法学科卒業後、古河鉱業に入社し、欧米を視察。帰国後、早稲田大学政治経済学部教授、早稲田大学総長代理を勤めた。岡山県高梁市出身。 明治16年(1883年)、岡山県上房郡高梁町八幡(現・高梁市)にある藤井種次郎の二男として生れ、母の実家・林家を継ぐ。地元の旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)から大阪府立第一中学校(現・大阪府立北野高校)に転校、東京専門学校高等予科を経て、明治38年(1905年)早稲田大学大学部法学科を卒業、古河鉱業に入社、労働問題の調査研究にあたる。 入社後の大正9年(1920年)欧米を視察、翌年帰国し、母校の早稲田大学政治経済学部で、社会政策や工業経済の講義に当たる。
有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日… 有田 邦敬(ありた くによし、くにゆき、1883年9月17日 - 1941年12月21日)は、日本の官僚、経営者。大阪市助役、京阪電気鉄道社長を務めた。兵庫県出身。 旧制兵庫県立柏原中学校、第三高等学校を経て、1908年に京都帝国大学法科を卒業。内務省、逓信省に奉職の後、1915年12月から大阪市長の池上四郎の下で第二助役を務め、1923年12月から1927年12月までは関一の下で助役を務める。両市長の下で迎えた大大阪時代を助役として支えた。1928年4月に太田光凞社長の要請により、京阪電気鉄道副社長に就任し、1936年10月には社長(第5代)に昇格。厳しい経営状況にあった同社の再建を太田とともに進め、現場経験者を抜擢して役員に就任させるなど、次代を支える人材の登用と育成をも周到に行った。
熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17… 熊谷 巌(くまがい いわお、1883年〈明治16年〉9月17日 - 1933年〈昭和8年〉11月2日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。疑獄事件で収監釈放されたのち、縊死した。 岩手県下閉伊郡宮古町(現在の宮古市)出身。旧制盛岡中学校、第五高等学校から東京帝国大学法科大学に進み、1909年7月卒業。在学中に文官高等試験司法科試験に合格し、1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 内務省に入り、東京府属、南葛飾、荏原両郡長、佐賀県警察部長、警視庁保安部長などを歴任した。1922年、東京市政疑獄(瓦斯疑獄)で東京地方裁判所より懲役4ヵ月の実刑判決、1923年に東京控訴院を経た後、同年大審院で確定した。
野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 … 野間 左衛(のま さえ、1883年(明治16年)9月16日 - 1955年(昭和30年)8月1日)は、講談社第3代社長。旧姓:服部。 1883年(明治16年)9月16日、徳島県に生まれる。徳島師範学校(後の徳島大学)卒業後、地元の徳島県で小学校教員(訓導)となる。1907年(明治40年)、野間清治と結婚して上京。 1909年(明治42年)4月に長男・恒を出産する。同年11月、大日本雄弁会(現・講談社)の創立にあたり、夫の清治を助け「創業の母」と呼ばれた。 1910年(明治43年)11月に次男・康清を出産するが、翌1911年(明治44年)に亡くしている。 1938年(昭和13年)2月、恒は町尻量基の長女・登喜子と結婚するが、同年10月16日に清治が、11月7日に恒が急逝したため、講談社第3代社長に就任する。
池内 善雄(いけうち よしお、1883年〈明治16年〉9月1… 池内 善雄(いけうち よしお、1883年〈明治16年〉9月15日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。台湾総督府高等法院長。 兵庫県飾磨郡安室村字新在家(現、姫路市)出身。池内宗太郎の四男。尾上作兵衛の弟。1910年(明治43年)、分家する。 1911年(明治44年)、京都帝国大学法科大学を卒業。京都地方裁判所試補、同判事、大阪地方裁判所判事、高松地方裁判所部長、神戸地方裁判所部長、大阪地方裁判所部長、大審院判事、台湾総督府高等法院上告部判官、台北地方法院長を歴任。1941年(昭和16年)、高等法院長に就任した。
猪瀬 乙彦(いのせ おとひこ、1883年(明治16年)9月1… 猪瀬 乙彦(いのせ おとひこ、1883年(明治16年)9月14日 - 1951年(昭和26年)4月10日)は、大日本帝国海軍大佐。福島県平市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡内郷村(のち石城郡内郷町→内郷市、現・いわき市)生まれ。福島県立磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)を経て、1902年(明治35年)12月、海軍兵学校に入る。1905年(明治38年)11月、同校を卒業(33期)し、少尉に任官する。任官後は各方面に勤務する。第一次世界大戦にも参加した。在外公館で海軍駐在武官としての経験があり、1924年(大正13年)には上海で勤務、総領事の矢田七太郎、陸軍の岡村寧次と連携して業務を進めた。大佐で退役となる。
野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 -… 野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本の英文学者、能楽研究者。「臼川」(きゅうせん)と号した。法政大学総長を務め、能研究の発展にも多大な寄与をした。レジョンドヌール・オフィシェ勲章受章者。 1883年、大分県臼杵市生まれ。臼杵中学、第一高等学校を経て1908年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいて、共に夏目漱石に師事した。 東京帝大卒業後、国民新聞社の文芸記者となる。1909年に法政大学講師となり、1920年に同大学教授となる。予科長・学監・理事を歴任し、森田草平・内田百閒・井本健作など漱石門下の文学者を教授陣に招聘するが、1933年に学内紛争(法政騒動)で辞職(1941年復職)。
岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9… 岩永 裕吉(いわなが ゆうきち 、1883年(明治16年)9月13日 - 1939年(昭和14年)9月2日)は、社団法人の同盟通信社初代社長を務めた通信事業経営者。 東京市神田区駿河台に内務省衛生局局長(勅任局長)長與專齋の四男(第6子)として生まれる。7歳で母方の叔父に当たる岩永省一の養子となり、正則中学などを経て旧制第一高等学校を卒業する。1909年に京都帝国大学法科大学を卒業すると、内務省衛生局で父の部下だった後藤新平のコネで南満州鉄道株式会社に就職したが(1911年)、1917年に鉄道院へ移り後藤総裁(寺内内閣内相と兼任)の秘書官、次いで同院参事・文書課長となる。翌年、寺内内閣が総辞職すると鉄道院を退官して渡米、さらに新渡戸稲造や鶴見祐輔らとヨーロッパを訪問する。
堀田 鼎(ほった かなえ、1883年〈明治16年〉9月13日… 堀田 鼎(ほった かなえ、1883年〈明治16年〉9月13日 - 1942年〈昭和17年〉2月24日)は、日本の内務官僚。県知事、台湾総督府交通局総長。 福島県安積郡河内村(河内村大字河内、逢瀬村を経て現郡山市逢瀬町河内)で堀田喜左衛門の五男として生まれる。第二高等学校を経て1908年(明治41年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年(大正元年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年、内務省に入り土木局属となる。 1917年(大正6年)山口県内務部土木課長に就任。以後、東京府・千葉県の各理事官などを歴任。1921年(大正10年)ジュネーヴで開催された第3回国際労働総会に政府代表随員として出席。
宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月… 宮脇 梅吉(みやわき うめきち、1883年(明治16年)9月12日 - 1941年(昭和16年)1月12日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 愛媛県大内郡水主村(現在の香川県東かがわ市)出身。宮脇清吉の五男として生まれる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、統監府判事となり、晋州、大邱、京城の各裁判所で勤務。 1913年6月、内務省に転じ埼玉県理事官・内務部学務課長に就任。以後、福井県警察部長、和歌山県警察部長、広島県警察部長、京都府警察部長、宮城県内務部長、広島県書記官・内務部長、石川県書記官・内務部長などを歴任。
松原 権四郎(まつばら ごんしろう、1883年(明治16年)… 松原 権四郎(まつばら ごんしろう、1883年(明治16年)9月10日 - 1933年(昭和8年)5月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、高松市長。 後の香川県那珂郡六郷村上金倉(現丸亀市)出身。第六高等学校を卒業。1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省に入省。一年志願兵として歩兵第43連隊に入隊し、二等計手まで昇進して除隊。1910年(明治43年)内務省に転じ長崎県警部となる。 以後、長崎県属兼警部、同警察部保安課長、高知県理事官兼視学官、山口県警察部長、愛知県警察部長、岩手県内務部長、静岡県内務部長、神奈川県内務部長などを経て、1924年(大正13年)6月、京都府内務部長に就任。
大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1… 大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1930年4月25日)は、アララギ派の歌人で、実業家大原孫三郎の妻。旧姓名は石井スエ。 広島県深安郡深津村(現・福山市)において、石井英太郎の四女として生まれる。1898年(明治31年)、近所に女学校が無かったため、川路寛堂を招聘して中等教育を受ける。1901年(明治34年)、岡山孤児院を創設した石井十次の紹介で、大原孫三郎と結婚し、1909年(明治42年)に長男総一郎を生む。 1921年(大正10年)高野勇五郎より旧派和歌を学び、高野の死後は西川国臣より学ぶ。1925年(大正14年)、労働者のための託児所「若竹の園」を開設。この年より雑誌『アララギ』を読み、歌人・中村憲吉とも会って短歌作りに励む。
広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日… 広瀬 哲士(ひろせ てつし、1883年〈明治16年〉9月9日 - 1952年〈昭和27年〉7月26日)は、日本のフランス文学者。慶應義塾大学教授。岡山県津山市出身。 1883年(明治16年)岡山県勝田郡河辺村瓜生原(現:津山市瓜生原)にて出生する。生家は、曽祖父に書家で有名な広瀬台山がいる。地元の旧制岡山県津山尋常中学(現:岡山県立津山高等学校)へ1期生として入学する。1900年(明治33年)に同校を卒業し、その後、東京にある旧制第一高等学校へ進学する。1904年(明治37年)7月に同校を卒業する。 この後、同年、東京帝国大学文科大学へ進学し、東大ではフランス語を専攻、1907年(明治40年)7月に同大学を卒業した。
松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7… 松村 義一(まつむら ぎいち、1883年(明治16年)9月7日 - 1959年(昭和34年)1月6日)は、明治末から昭和前期の内務官僚、政治家。憲政会系官選県知事、貴族院勅選議員。 山口県都濃郡、現在の下松市で商業・松村冷蔵の長男として生まれる。山口中学校、山口高等学校を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1910年(明治43年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、神奈川県属として内務部地方課に配属された。 1911年(明治44年)4月、神奈川県試補となる。以後、佐賀県事務官、同県視学官、鳥取県視学官、石川県警察部長、広島県警察部長、警察講習所教授兼内務省参事官、山形県内務部長、和歌山県内務部長などを歴任。
渡辺 徹(わたなべ とおる、1883年9月7日 - 1957… 渡辺 徹(わたなべ とおる、1883年9月7日 - 1957年1月12日)は日本の心理学者で、日本におけるパーソナリティ心理学(人格心理学)の開拓者。1912年にドイツの心理学者ヴィルヘルム・シュテルンの人格学を日本に紹介した。また、没年に至るまで、「個性心理学」という名で独創的な講義をした。心理検査にも早くから関心を示し、この方面での先駆的な業績といわれる「国民知能検査」を開発した。 心理学史の研究では、江戸時代の心学者・鎌田鵬(鎌田柳泓)を「本邦最初の経験的心理学者」として発見した。 心理学の応用に熱心で、日本応用心理学会の設立に際して中心的役割を果たした。 1924年に私学では最初(東京帝国大学・京都帝国大学・東北帝国大学に次いで日本では4番目)の心理学専攻課程を日本大学に創設した(現在の日本大学文理学部心理学科)。
加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4… 加納 金助(かのう きんすけ、1883年〈明治16年〉9月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月5日)は、日本の政治家、教育者、日本大学常任理事、日本大学副会頭、日本大学第一学園初代理事長。千葉市長(第5、9、10代)、参議院議員(1期)。 1883年、千葉県下埴生郡小菅村(印旛郡遠山村を経て現成田市小菅)の農家 藤崎家の三男として誕生。1898年、成田英漢義塾(同年10月にに私立成田中学校として認可)に入学。1903年卒業。國學院大學高等師範部に入学するも、同年9月に日本大学高等師範部(現在の文理学部)へ転入学。1906年同校を卒業すると、日本大学専門部法律科入学。在学中の1908年11月30日、加納家の長女由香と結婚し、加納家の養子となる。
多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956… 多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人、工学者。最終階級は陸軍中将。工学博士。 静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。 1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。
寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 … 寺尾 博(てらお ひろし、1883年(明治16年)9月2日 - 1961年(昭和36年)7月16日)は、日本の農学者。東北帝国大学教授。貴族院勅選議員。参議院議員(緑風会)。農学博士。日本学士院賞受賞。 静岡県出身。1903年(明治36年)、静岡県立静岡中学校卒業。旧制第一高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業(恩賜の銀時計授与)、農商務省に入った。農事試験場技手、同技師、農林技師を歴任。この間、水稲の耐寒品種である陸羽132号の交配、育成を行った。1941年(昭和16年)に農事試験場長に就任。同年に東北帝国大学教授・農学研究所長を兼ねた。1944年(昭和19年)、「水稲冷害の生理学的研究」で日本学士院賞受賞。
赤間 徳寿(德壽、あかま とくじゅ、1883年9月2日 - … 赤間 徳寿(德壽、あかま とくじゅ、1883年9月2日 - 1958年8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。滑川市長(2期)。従五位勲四等瑞宝章。 富山県出身。1909年東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語科卒。富山商業学校、同中学校各教諭、中新川郡浜加積村(のち滑川町、現:滑川市)議、富山県議、富山地方森林会議員、戦時特別調停委員、富山県産業組合連合会監事、産業組合中央会富山県支副会長、地方金融協議会監事、大政翼賛会中央協力会議員、富山電気鉄道(株)取締役、日本水力工業(株)監査役となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では富山1区(当時)から翼賛政治体制協議会(翼協)の推薦を受けて立候補したが次点で落選する。
村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8… 村上 恭一(むらかみ きょういち、1883年(明治16年)8月31日 - 1953年(昭和28年))は、日本の官僚。枢密院書記官長、貴族院議員等を歴任した。
内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1… 内藤 伝禄(ないとう でんろく、1883年8月29日 - 1952年11月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1904年、愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)卒。のちに経済学を専攻する。内海町(現・南知多町)会議員、愛知県会議員、知多銀行重役、愛知県有恒会長、知多郡信用購買販売組合連合会会長、尾三農工銀行、愛知実業銀行各頭取、名古屋商業会議所議員、中央製糸、東亜キネマ各(株)取締役となる。 1918年の衆議院愛知県郡部の補欠選挙において憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1952年死去。
伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月… 伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月29日 - 1969年(昭和44年)11月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で海軍中将・伊東祐麿の二男として生まれた。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等学科を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1912年、日本製鋼所に入社し室蘭に転居。その後、イギリスに2年間留学し、帰国後、高砂商工銀行取締役に就任。電気化学工業取締役なども務めた。 水野直子爵の導きで政界を志し、東京帝大在学中に尚友会に入会。1923年(大正12年)8月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属。
阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日… 阿部 次郎(あべ じろう、1883年〈明治16年〉8月27日 - 1959年〈昭和34年〉10月20日)は、日本の哲学者・美学者・作家。東北帝国大学法文学部教授、同学部長、帝国学士院会員。仙台市名誉市民。『三太郎の日記』著者。 1883年、山形県飽海郡上郷町(後の松山町、現・酒田市)大字山寺に生まれる。教師であった父の阿部富太郎とゆき(旧姓・竹岡)夫妻の次男。富太郎は叔父の阿部七郎衛門とわかの夫妻の養子となるが、わかのはゆきの長姉で竹岡家の姉弟は全員がキリスト教徒でもあった。8人兄弟で、加藤ます(加藤儀藏夫人)、阿部一郎(農業指導者・実業家、山形県食糧営団理事長、山形糧穀加工社長、阿部襄の父)、阿部次郎(本人)、堀三也(軍人、陸軍大佐、昭和通商社長)、阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、竹岡勝也(日本史学者、九州帝国大学教授)、柏木礼子(柏木俊一夫人)、阿部六郎(ドイツ文学者・文芸評論家、旧制成城高校・東京藝術大学教授)と、兄弟のうち、次郎を含む4人が大学の教師となる。
加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8… 加藤 睦之介(かとう むつのすけ、1883年〈明治16年〉8月26日 - 1957年〈昭和32年〉10月20日)は、日本の教育家、政治家。衆議院議員(通算2期、1期目は立憲民政党・2期目は日本自由党)。埼玉県会議員。大宮市長(第3代)。大宮用達社長。大宮市(現・さいたま市)名誉市民。 埼玉県北足立郡加納村坂田(現・桶川市)の農家に生まれる。加藤晴一の三男。埼玉県師範学校卒業。小学校訓導を命ぜられ、桶川、草加、上尾各尋常高等小学校に奉職する。また青川尋常小学校訓導兼校長を命ぜられる。 教員を見切ると一時保険会社に入ったが間もなく浪人、満洲にまで放浪する。1918年、大宮町に定住する。料理並旅館業を営む。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月2… 松村 武雄(まつむら たけお、1883年(明治16年)8月23日 - 1969年(昭和44年)9月25日)は、日本の神話学者。 1883年、熊本県生まれ。旧制熊本中学校、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科に進学。英文科在学中から神話研究を志し、卒業論文も神話をテーマに選んだ。1910年、大学を卒業し、大学院へ進学。 1919年、東京帝国大学文学部の講師となり、ギリシア神話の講義を担当した。1921年、学位論文『古代希臘の文化に現れたる神々の宗教的葛藤の研究』を提出して、文学博士の学位を取得。1921年からは旧制浦和高等学校に英語教授として勤務。同年、國學院大學に招かれて神話学を講義。
武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月2… 武藤 七郎(むとう しちろう、1883年(明治16年)8月23日 – 1965年(昭和40年)3月7日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→立憲政友会)。 群馬県山田郡休泊村(現在の太田市)出身。1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、さらに大学院で学んだ。『東京日日新聞』記者、日本大学講師、呉市助役、東京市社会局総務課長、協調会情報部長・農村課長を歴任した。その間、ワシントンでの第1回国際労働会議、ジュネーヴでの第4回国際労働会議に労働代表顧問として参加した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9… 鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9月21日 - 1953年(昭和28年)1月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、延岡市長。 宮崎県臼杵郡、現在の延岡市で、衆議院議員・小林乾一郎の二男として生まれる。1901年(明治34年)、鈴木シマの入夫となり家督を相続した。 1904年(明治37年)明治法律学校(現明治大学)卒業。陸軍三等主計、岡富村議、宮崎県議、県農会長等を経て、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で宮崎県より衆議院議員に初当選(民政党)。以後3回当選した。また、第2,3,7代の延岡市長を務めた。実業界に於いては、延岡電気・神都電気興業各取締役等を務めた。
池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 19… 池田 謙三(いけだ けんぞう、1882年9月20日 - 1953年11月9日)は、日本の冶金学者で鉱山技術者。前半生は藤田組(現・DOWAホールディングス)で製錬技術改良を手がけ、学術に転じた後半生は秋田鉱山専門学校 (旧制)校長を務めた後、同校を母体とした秋田大学の事実上の初代学長となった。 現在の秋田市南通亀の町(旧中亀ノ町)に生まれる。父の孫一は県内の田子内鉱山の経営者となる。孫一は元は仙北郡の出身で、謙三が生まれた年に秋田に出て企業の経営に加わり、1886年に田子内鉱山の運営を始めた。 秋田師範附属小学校(現・秋田大学教育文化学部附属小学校)から旧制秋田県立秋田中学校(現・秋田県立秋田高等学校)に進む。
栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月… 栗原 古城(くりばら こじょう、1882年〈明治15年〉9月17日 - 1969年〈昭和44年〉6月17日)は、日本の英文学者・評論家・翻訳家。本名は、栗原 元吉(くりばら もときち)。 1882年、埼玉県北足立郡大宮町(のち大宮市)に生まれる。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)で平田禿木に学び、上田敏とも知遇を得た。第一高等学校在学中の1902年、『明星』12月号にイワン・ツルゲーネフの短編訳「世のをはり」を発表し、以後、同誌に翻訳の発表を続け、当時の日本では知られていなかったオスカー・ワイルドやウィリアム・バトラー・イェイツなどを紹介した。 1903年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学し、夏目漱石と上田敏の教えを受ける。
中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月… 中村 謙作(なかむら けんさく、1882年(明治15年)9月16日 - 1966年(昭和41年)8月31日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(1期)、西尾町長(3期)などを歴任した。 1901年(明治34年)3月、愛知県第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)卒業。 1920年(大正9年)、西尾町会議員に就任。1924年(大正13年)から1939年(昭和14年)まで西尾町長を務めた。町長時代には愛知県立西尾中学校(現・愛知県立西尾高等学校)の誘致を行っている。 1954年(昭和29年)7月5日、初代西尾市長の千葉蝶二が任期中に死去。これに伴って同年8月28日に行われた市長選挙に立候補し、無投票により初当選した。
神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 … 神嵜 重太郎(かんざき じゅうたろう、1882年9月13日 - 1942年5月22日)は、現在の兵庫県尼崎市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は寺内 重三郎。166cm、75kg。最高位は東前頭13枚目。 愛嬌があって、重太と親しまれた力士。1901年1月初土俵。その後応召され日露戦争に従軍した。復帰後1907年1月十両昇進。1908年5月入幕した。幕内在位は3場所で幕下まで陥落したが、1915年6月まで相撲を取った。廃業後は旧両国国技館内に売店を出店した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
郡 茂徳(こおり しげのり、1882年〈明治15年〉9月12… 郡 茂徳(こおり しげのり、1882年〈明治15年〉9月12日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。台湾総督府官僚。弁護士。 三重県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して三重県属となり、1913年(大正2年)高等文官試験に合格した。三重県警視、同員弁郡長、同理事官、朝鮮総督府事務官、福岡県事務官、長崎県書記官、愛媛県警察部長、高知県警察部長、宮崎県内務部長、香川県内務部長、福岡県学務部長を歴任した。1932年(昭和7年)、新竹州内務部長に転じ、台湾総督府文教局学務課長、総督官房審議室事務官を歴任した。 退官後、台中州会議員、台湾野蚕代表、大和村建築信用購買利用組合長、台中州醤油工業株式会社社長、台湾青果株式会社常務、下関中央青果株式会社取締役を務めた。
近藤 順一郎(こんどう じゅんいちろう、1882年〈明治15… 近藤 順一郎(こんどう じゅんいちろう、1882年〈明治15年〉9月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡根雨村(のち日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤千八郎の長男。商業、金融業を営む。根雨商工会頭として根雨町における商工業発展に貢献するほか根雨町学務委員、米子税務署相続税審査員並びに所得税調査委員等の公職を兼ねる。 大正醤油社長、日野郡是製糸、山陰銀行、雲陽実業銀行各取締役、松江銀行監査役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。宗教は仏教。趣味は読書、碁。住所は日野郡根雨町大字根雨。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
黒木 勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 - 19… 黒木 勘蔵(くろき かんぞう、1882年9月10日 - 1930年10月8日)は、大正から昭和初期にかけての日本近世文学研究者。とくに、浄瑠璃および元禄歌舞伎に関する研究に多くの業績がある。 長野県諏訪郡玉川村(茅野市)に生まれる。旧制諏訪実科中学(長野県諏訪清陵高等学校)、長野師範学校を経て、1908年早稲田大学文学部哲学科卒業。師である高野辰之の下で、東京音楽学校邦楽調査部で近世邦楽を研究、1923年早稲田大学文学部講師。1925年東京高等師範学校教授。浄瑠璃および元禄歌舞伎を研究。 1930年10月8日、東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院に入院して盲腸の手術を受けた後、腹膜炎を起こして死去した。