野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日… 野田 三郎(のだ さぶろう、1879年〈明治12年〉2月5日 - 没年不明)は、日本の篤農家、新潟県多額納税者、地主。族籍は新潟県平民。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)出身。野田三郎の五男。1906年、家督を相続し前名・又五郎を改め襲名する。農業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 195… 藤田 元春(ふじた もとはる、1879年2月4日 - 1958年4月13日(79歳没))は、地理学者。 京都府美山町の神官の家に生まれる。1900年京都府師範学校を卒業、教員となる。1916年京都帝国大学文学部史学科に選科生として入学、京都帝国大学卒。小川琢治、内藤湖南に学ぶ。1925年第三高等学校教授兼大阪高等学校教授。1944年定年退官、戦後は山梨大学教授、立命館大学教授。1947年「日支交通の研究」で京都帝大文学博士。
臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日… 臼田 亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は、日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれる。小諸義塾に学び、1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ。電報通信社記者、横浜貿易新聞編集長を経てやまと新聞に入社。 大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。
玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1… 玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1日 - 1956年(昭和31年)10月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。通称・時次郎。 高知県安芸郡佐喜浜村(佐喜浜町を経て現室戸市佐喜浜町)で、漁業・玉屋能作の長男として生まれる。15歳頃から帆船(阪神へ薪炭を輸送)乗組となり、1900年(明治33年)大阪市の海士学館を卒業した。 海運業を始め、高知で紙問屋、大阪で事業を行うが失敗した。その後、関東に移ってから成功し、1923年(大正12年)総武銀行(現千葉銀行)頭取に就任。その他、台湾産業社長、大興紡績社長、共同生命保険社長、蓬莱閣ホテル社長、宮城電気鉄道取締役、成田急行電鉄常任監査役、玉屋産業海運商会社長、松田汽船社長、千葉合同無尽社長、千葉銀行取締役、千葉県商工連合会長、同県経営者協会会長などを務め、1946年(昭和21年)千葉商工会議所会頭に就任した。
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27… 赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27日 - 1945年〈昭和20年〉9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。赤池七右衛門の長男として生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入り、京都府属となり内務部第一課に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年5月、内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となり、以後、福島県参事官、同県事務官、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、兵庫県事務官・警察部長などを歴任。 1913年6月、内務省本省に戻り内務書記官に就任。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月… 川口 義久(かわぐち よしひさ、1879年〈明治12年〉1月26日 - 1945年〈昭和20年〉8月28日)は、日本の衆議院議員(無所属→政友本党→立憲政友会)、日本大学学長(1933年就任)。 神奈川県鎌倉郡瀬谷村(現在の横浜市瀬谷区)出身。日本大学を卒業後、オハイオ州立大学で学び、修士号を取得。さらにイェール大学大学院で学んで、法学博士の称号を得た。帰国後、日本大学の幹事、講師、学監、理事、教授、学長を歴任した。 また清浦内閣で小松謙次郎鉄道大臣の秘書官を務めた。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回の当選回数を数えた。その他、川口製糸株式会社社長、瀬谷銀行取締役、日華学会評議員なども務めた。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)… 宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人。日清紡績社長・会長、日本工業倶楽部理事長、東京市会議員。 栃木県安蘇郡飯田町(現・佐野市)に、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)時代は舎監いじめなど問題行動が多く、灸を据えるためか、10ヶ月ほど休学して東京の商店に丁稚奉公させられたことがある。この時の経験が、後に働く者の立場を重視する姿勢を涵養したものと思われる。 第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1906年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現・住友金属鉱山)に入社する。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月… 浮谷 権兵衛(うきや ごんべえ、1878年(明治11年)2月18日 - 1950年(昭和25年)12月31日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、治水家、実業家。千葉県多額納税者。市川町名誉町長、葛飾瓦斯専務取締役、耕地整理組合長、東葛飾郡農会長、市川市農会長などを務めた。 先代・浮谷権兵衛(本楽)とヨシの長男善次郎として千葉県葛飾郡市川新田(現・市川市)に生まれ、17代権兵衛を襲名する。浮谷家は農業を営み、当主は権兵衛を名乗り、父は市川町長を務めたことがあった。錦城中学校、明治法律学校を卒業後、東葛飾郡市川町会議員、同郡会議員を歴任。1905年(明治38年)千葉県真間川周辺の水害を防ぐため土地改良事業を提唱する。
佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治1… 佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治11年〉2月18日 - 1951年〈昭和26年〉8月18日)は、新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。哲学館(現在の東洋大学)を卒業。筆名に橘香、妖堂、浩堂など。 1878年(明治11年)に秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)に佐藤為吉、とく夫妻の四男として生まれる。両親は荒物屋を営み、彼の幼名は儀助であった。父親の為吉は商人には珍しく読書好きな人物で、熱心な仏教徒だった。義亮は1883年(明治16年)小学校に入学、優等生で二段進級を許された年もあった。14歳で角館高等小学校を卒業すると奉公に出されることになっていたが、向学心に燃える義亮は進学の許しを父に幾度と無く請い、為吉は仕方なく官費の師範学校ならばと進学を許可した。
男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - … 男嶌 舟藏(おとこじま せんぞう、1878年2月18日 - 1943年12月1日)は、秋田県由利郡鳥海町(現在の由利本荘市)出身で出羽海部屋(入門時は秀ノ山部屋)に所属した大相撲力士。本名は三船 専造(みふね せんぞう)。得意手は左四つ、吊り、寄り。現役時代の体格は176cm、98kg。最高位は前頭12枚目(1908年1月場所・5月場所)。 元天津風雲右エ門の秀ノ山部屋に入門し、1900年5月場所初土俵。1905年5月場所新十両。十両昇進まで負け越しは1場所だけで「太刀山の再来」と評された。1908年1月場所新入幕。幕内は4場所だけと目立った活躍はなかった。その後は十両と幕下を前後しながら次第に陥落していった。
岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月1… 岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月16日 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は 、日本の作曲家 、教育者 、オルガニスト。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した。
喜多 孝治(きた こうじ、1878年(明治11年)2月15日… 喜多 孝治(きた こうじ、1878年(明治11年)2月15日 - 1934年(昭和9年)3月11日)は、日本の逓信官僚、樺太庁長官、衆議院議員(立憲政友会)。 大阪府北河内郡門真村(現在の門真市)出身。1902年(明治35年)7月、東京法学院(現在の中央大学)英語法学科を卒業後、同院高等法学科で国際法を専攻し、1904年(明治37年)4月に卒業した。 1903年(明治36年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1904年7月、逓信省に入省し経理局検査課下検査係事務取扱に就任。通信事務官、逓信書記官、経理局検査課長、兼経理局調度課長、兼電信灯台用品製造所長、通信副事務官、新潟郵便局長、東京中央電話局長、東部逓信局経理部長などを歴任。
佐々木 久二(ささき ひさじ、1878年(明治11年)2月1… 佐々木 久二(ささき ひさじ、1878年(明治11年)2月14日 - 1952年(昭和27年)5月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福井県丹生郡大森村(現福井市)で、佐々木又左衛門の二男として生まれる。1905年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 実業界では、東海紙料常務取締役、京浜電力常務取締役、福井興業社長、東北電力取締役、中央電力取締役などを務めた。 1924年5月、第15回衆議院議員総選挙に福井県第四区から出馬したが、憲政会の土生彰に敗れた。1928年2月、第16回総選挙では福井県全県区から立憲政友会所属で出馬し当選。請願委員、予算委員、資源調査法案委員を務め、衆議院議員に一期在任した
坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 … 坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日)は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。 旧会津藩士の父・中村富造、母ミエの二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角市十和田大湯)で生まれる。母方の祖父は白虎隊士中二番隊長の日向内記。両親は斗南藩領(現・青森県むつ市)に移ったものの困難な生活を余儀なくされ、廃藩後に大湯村に永住することとなった。一家の生活は苦しく、1892年(明治25年)毛馬内小学校高等科(現・鹿角市立十和田小学校)第3年で中退し、大湯村の不老倉銅山で働いた。しかし、勉学の志止みがたく、1896年(明治29年)故郷を出て東京に向かい、東京、横浜、浦賀などを転々としたが、最後は足尾銅山で1898年(明治31年)まで働いた。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治11年〉2月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。 外交官・吉田二郎の長女として東京麻布で生まれる。妹は次子、弟は精一と東作。東洋英和女学校卒。佐佐木信綱に師事して歌人として活動。 短歌の作風は、「近代短歌史上類例の静謐にして孤独、高貴にして率直誠実な霊魂の響き」(藤田福夫)と評されているが、生前の明治・大正期の画壇では正当に評価されなかった。 また、松村みね子の筆名で、ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツ等のアイルランド文学を中心に翻訳も行う。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治11年)2月10日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。
石原 正太郎(いしはら しょうたろう、1878年〈明治11年… 石原 正太郎(いしはら しょうたろう、1878年〈明治11年〉2月9日 - 1943年〈昭和18年〉12月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 富山県婦負郡百塚村(八幡村、和合町を経て現富山市)出身。1903年、東京高等商業学校(現・一橋大学)卒。北陸送電、北陸汽船、日本電力、黒部鉄道各(株)重役を務める。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において富山県郡部から立候補したが2票差で落選した。選挙後、異議申し立てが認められ、更正により議員となった。1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補せず、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補して再選した。その後は立憲政友会に入り、1928年の第16回衆議院議員総選挙において富山2区から立候補したが次点で落選した。
今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - … 今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日)は、日本の医学者。医学博士。専門は病理学・細菌学。 青森県弘前出身。津軽藩侍医・今幹斎の五男。1896年(明治29年)青森県第一尋常中学校卒。1900年(明治33年)第二高等学校医学部卒。京都帝國大学医学部助手、台湾総督府医学校助教授、1909年(明治42年)東京慈恵会医学専門学校教授。東京歯科医学専門学校教授兼任。1918年(大正7年)北海道帝國大学農学部教授。1919年(大正8年)同医学部教授。1925年(大正14年)同医学部長。1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長。1941年(昭和16年)北海道帝國大学停年退官。
富士 高茂(ふじ たかしげ、1878年(明治11年)2月7日… 富士 高茂(ふじ たかしげ、1878年(明治11年)2月7日 - 没年不詳)は、明治・大正時代の実業家、資産家。麹町区富士見町(現在の千代田区)に住した。 旧讃岐多度津藩主・京極高典の六男として生まれる。 後に富士家当主である富士重本の養子となったため富士姓を名乗り、明治31年(1898年)には富士家の家督を相続している。明治41年(1908年)に早稲田大学を卒業。その後、法政大学でも学んだという。 富士家を相続する立場であったため富士家伝来の古文書も高茂が継承しており、この古文書を東京大学史料編纂所が明治19年(1886年)と昭和5年(1930年)に採録している。身分は東京府士族。 豊麿 - 池守 - 國雄 - 淵魚 - 良清 - 清名 - 清嗣 - 清身 - 公清 - 利生 - 道時 - 信清 - 信時 - 時棟 - 直世 - 直信 - 信親 - 信直 - 直則 - 則時 - 直時 - 資時 - 成時 - 氏時 - 直氏 - 政時 - 忠時 - 親時 - 信盛 - 信忠 - 信通 - 信家 - 信公 - 信元 - 信時 - 信安 - 信章 - 信治 - 信栄 - 茂済 - 民済 - 茂矩 - 茂珍 - 重本 - 高茂 - ?
中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4… 中根 貞彦(なかね さだひこ、1878年(明治11年)2月4日 - 1964年(昭和39年)1月24日)は、日本の実業家、政治家、歌人。三和銀行頭取、貴族院勅選議員。旧姓・片切、号・九峯。 大分県海部郡二王座村(のち北海部郡臼杵町を経て現臼杵市)に生まれた。大分士族・片切八三郎の三男。幼くして両親と死別し、佐伯の中根祚胤(百九銀行頭取)の養子となる。1901年(明治34年)第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業した。1905年(明治38年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 日本銀行に入行する。以後、同行ロンドン代理店監督役、同国庫局長、同大阪支店長、同理事などを歴任。1933年(昭和8年)に三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行が合併して三和銀行が創立され初代頭取に就任し、1945年(昭和20年)まで在任した。
小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939… 小松 慶也(こまつ けいや、1878年2月3日 - 1939年6月16日)は、明治の陸軍騎兵大尉。1910年にアルゼンチンへ移民し、牧場主となった。
国分 謙吉(こくぶん けんきち、1878年(明治11年)2月… 国分 謙吉(こくぶん けんきち、1878年(明治11年)2月3日 - 1958年(昭和33年)11月24日)は、農政指導者、政治家。岩手県知事2期(1947年 - 1955年)。 岩手県二戸郡福岡村下川又(現:二戸市)出身。旧盛岡藩士の父・国分喜惣治、母・ミセとの間に三男として生まれた。幼名は小八郎。 学問好きな父の方針により、学齢に達する前の数え年6歳で福岡尋常小学校に入学したが、教室を抜け出して遊び疲れることもままあり、1年落第した。 1888年(明治21年)、福岡尋常小学校に、4年間(落第した1年を加えると5年間)通学した後は、数え年13歳から、父の方針により、泉山銀行へ丁稚奉公に出た。昼は銀行の給仕として雑役いっさいを受け持ち、夜は呉服店の仕事を行い、他の人が寝静まると蝋燭の灯りをたよりに、農業書などを読んだ。
田中 一元(たなか かずもと、1878年(明治11年)2月2… 田中 一元(たなか かずもと、1878年(明治11年)2月2日 - 1942年(昭和17年)2月12日)は、日本の教育者。 福岡県遠賀郡折尾町(現在の北九州市八幡西区)出身。池田作右衛門の二男として生まれ、田中寥誉の養子となった。1899年(明治32年)、浄土宗高等学院(現在の大正大学)を卒業。1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに研究科を修了した。芝中学校教頭、奈良県立郡山高等学校教頭、奈良女子高等師範学校教授・庶務主幹、島根県立松江中学校校長などを歴任した。1927年(昭和2年)、東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校校長となり、1938年(昭和13年)に退官した。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1… 沼野 安太郎(ぬまの やすたろう、1878年2月1日 - 1919年4月26日)は、日本の外交官。初代在ポートランド領事、在天津総領事などを務めた。 東京府平民・沼野安五郎の長男として生まれる。東京府立第一中学校を経て、1903年(明治36年)に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、1904年(明治37年)に第13回外交官及び領事官試験に合格。同年外交官補に任官し、叙高等官七等、韓国在勤となった。 1905年(明治38年)ダーハム・W・スティーブンス韓国外交顧問補佐官。1906年(明治39年)在ロンドン領事官補、在ロンドン総領事事務代理。1908年(明治41年)初代在ポートランド領事。1910年(明治43年)在ハンブルク総領事代理。
岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 194… 岡田 實麿(おかだ じつまろ、1878年2月1日 - 1943年8月18日)は、明治・大正期の英語教師。戦前の受験英語指導で小野圭次郎・山崎貞と並んで知られている。 父は備後銀行頭取などを務めた岡田胖十郎。妹には、田山花袋の小説『蒲団』に登場する横山芳子のモデルで小説家の岡田美知代や、北海道帝国大学教授や広島県庄原市長を務めた八谷正義の妻・八谷萬寿代がいる。 広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町)の豪商の家に生まれる。同志社普通学校、慶應義塾を卒業後、渡米しオベリン大学に留学。帰国後神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授を経て、1907年に新渡戸稲造に請われて第一高等学校(現・東京大学)教授となる。
22代目田部 長右衛門(22だいめ たなべ ちょうえもん 1… 22代目田部 長右衛門(22だいめ たなべ ちょうえもん 1878年(明治11年)1月31日 - 1956年(昭和31年)6月11日)は日本の実業家・政治家。奥出雲の山林大地主田部家の第22代当主。貴族院議員。農業。島根県多額納税者。勲四等。旧姓は宇山、名は茂秋。田部長右衛門 (23代)は二男。田部長右衛門 (21代)は養父。 島根県能義郡伯太町母里(現在の安来市)の宇山清左衛門の三男に生まれ、飯石郡吉田村、田部長秋の養子となる。1926年(大正15年)家督を相続し前名種之助を改む。 1903年(明治36年)早稲田大学政治科を卒業。家業を継ぎ農業に従事する。 島根県農会副会長、日本勧業銀行島根地方顧問、島根地方森林会議員、大日本山林会・帝国森林会各評議員、山陰合同銀行取締役等その他種々の名誉職を歴任した。
吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月2… 吉野 作造(よしの さくぞう、1878年〈明治11年〉1月29日 - 1933年〈昭和8年〉3月18日)は、大正時代を中心に活躍した日本の政治学者、思想家。「民本主義」という訳語の提唱者。袁世凱の長男である袁克定の家庭教師。「黎明会」の設立発起人。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。初名は「作蔵」で、大正6年(1917年)5月「作造」と改名した。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家の吉野信次。 明治11年(1878年)、宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵、母・こうの長男として生まれた。当時の吉野屋には、祖母、両親、5歳と3歳になる二人の姉、そして父の姉夫婦が同居していた。
杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)… 杉山 直治郎(すぎやま なおじろう、1878年(明治11年)1月29日 - 1966年(昭和41年)2月15日)は、日本の法学者。専門は比較法学、フランス法。東京帝国大学法学部教授、日本学士院会員などを歴任した。 1878年(明治11年)、東京府平民杉山勘蔵・かねの長男として、東京市下谷区にて生まれる。私立小学校、中学校を経て、1899年(明治32年)に第一高等学校を卒業。同年、東京帝国大学法科大学仏法科に入学し、1903年(明治36年)に卒業、法学士の称号を得る。同年、同大学院に進み、翌年には学習院教授として民法、ローマ法を講じる傍ら、法政大学、早稲田大学、明治大学、日本大学で講師として教壇に立つ。
大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28… 大石 大(おおいし まさる、1878年(明治11年)1月28日 - 1966年(昭和41年)2月10日)は、日本の政治家。 高知県長岡郡長岡村(現南国市)に出生。小学校を3年で退学。1895年(明治28年)以降、長岡村役場書記、代用教員、裁判所書記などを経て、1903年(明治36年)に明治法律学校を卒業。1904年(明治37年)、関西法律学校に学んだ。大阪府警部などを務めた後、1912年(明治45年)から実業界に転じ、愛媛鉄道、大分国東鉄道等の重役、社長を務めた。1918年(大正7年)、政界に転じ、1920年(大正9年)5月の第14回総選挙で政友会から立候補し、衆議院議員に当選(以降、5回当選)。
秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 196… 秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 1963年5月)は、日本基督教会の牧師。1918年から25年間、日本統治時代の朝鮮京城で牧師を務めた。植村正久門下。 1878年(明治11年)、徳川慶喜の御典医、柏原孝章の三男として静岡市に生まれる。致(いたす)は徳川慶喜が命名。静岡師範学校附属小学校、静岡県尋常中学校卒業。尋常中学では、兄の柏原知格が結成した城内倶楽部(静岡中学野球部の前身)に所属した。第四高等学校在学中にクリスチャンとなり、1908年(明治41年)東京帝国大学法科卒業後、直ちに牧師となった。 「父が福沢諭吉と同門の親友で維新前後のハイカラであったため、科学的精神を尊重し、無宗教、伝説打破、個人の自由を標榜し、運動を奨励、健康で体格の良いことを誇りとしたが、このような家庭に成長した私がどのようなものに成ったかと言えば、放縦我侭、傲慢軽率、胸中燃える野心を抱蔵する一個の始末に負えぬ人物と成った。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
石川 弘(いしかわ ひろむ、1878年1月25日 - 192… 石川 弘(いしかわ ひろむ、1878年1月25日 - 1929年1月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府、のちの大阪市出身。1895年、大阪府立農学校(現・大阪府立大学)修了。農業を営む。東成郡小路村長、同村会議員、東成郡会議員、同議長、所得税調査委員、東成郡農会長、大阪府農会長となる。 1919年6月10日の大阪府会議員補欠選挙に東成郡から立候補したが、落選した。同年9月25日の選挙で初当選を果たした。同年10月21日から第27代同副議長となった。1923年9月25日の選挙で再選を果たした。同月、第28代副議長に再任された。1925年7月に東成区選出議員となった。同年、大阪市会議員となった。
野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25… 野間 真綱(のま まさつな、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月3日)は、日本の英語教師。陸軍士官学校英語教官、明治学院講師。夏目漱石の弟子として知られ、漱石の日記や随筆等に度々登場する。 1897年(明治30年)鹿児島県尋常中学造士館卒業後、第五高等学校文科一に進学した。1900年(明治33年)、東京帝国大学英文学科に入学した。小泉八雲や夏目漱石の教えを受ける。同級生に皆川正禧がいて親友となる。卒業後、1904年(明治37年)2月から東京日比谷中学校講師、陸軍士官学校英語教官、明治学院講師を経た後、漱石の斡旋で、1908年(明治41年)6月、郷里鹿児島の第七高等学校造士館教授に就任した。
若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月… 若林 快三(わかばやし かいぞう、明治11年(1878)1月24日 ~ 大正10年(1921)7月6日)は、満蒙独立運動に関わった活動家である。 明治29年(1896)9月22日に原田村(現・島根県隠岐郡 隠岐の島町 原田)の秋庭源太の養嗣子となるが、明治30年(1897)5月24日離縁、父親・彰信の戸籍に戻る。 明治31年(1898)1月31日に彰信の戸籍より分家届出。 明治34年(1901)1月に設立された黒龍会(国家主義団体)に所属。第一次満蒙独立運動(大正元年・1912年)、第二次満蒙独立運動(大正5年・1916年)に関り、殉難した。 現在のモンゴル国にはいった最初の島根県人とされている。
小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月2… 小池 九一(こいけ きゅういち、明治11年(1878年1月24日) - 昭和30年(1955年)12月5日)は、明治から昭和時代の社会事業家。大正7年(1918年11月30日)私立感化教育機関札幌報恩学園創立。少年教護と障害児救済につくした。 長野県筑摩郡松本(現松本市)の商家の長男として生まれる。小学に入学後すぐに、父が米相場に手を出し家が破産。その後間もなく母と父も亡くなり10歳の時より紙問屋に年期丁稚奉公に入る。この時より慈善貯金を始め公共慈善の為に70回以上も支出した。23歳の時13年奉公した奉公先を辞め、1900年(明治33年)に小池家再興のため新天地、北海道函館区の地を踏む。同年空知支庁長・山田有斌が身元引受人となり空知支庁に採用される。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1… 吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1月21日 – 1933年(昭和8年)4月23日)は、日本の外交官。駐トルコ大使。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 19… 田中 寒楼(たなか かんろう、1877年2月16日 - 1970年3月12日)は、日本の俳人・歌人。 明治10年(1877年)、因幡国(鳥取県東部)の河原町小畑に生まれる。中学在学中より俳句に親しみ、新聞『日本』の投稿などで正岡子規より「因幡に寒楼あり」と注目された。小学校代用教員から校長になるも、その奇行と放浪癖から退職となる。京都で同郷の画家中島菜刀との共同生活を始めてから全国を転々と漂浪して奔放な哲学的人生を生き、晩年は鳥取市で過ごし昭和45年(1970年)、93歳で歿した。特異な宇宙観から時空を語り、俳句をはじめ短歌・書画など多岐に渡る作品を数多く残す。 年譜は村尾草樹『生きている寒楼』掲載の年譜を抄録、一部加筆した。
守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2… 守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2月16日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県岡山市長、小田郡矢掛町長。旧姓・石井。大原財閥の四天王と称された。号・覚堂(かくどう)。 広島県深津郡深津村(深安郡深津村を経て現福山市東深津町)で、石井治郎右衛門の二男として生まれる。11歳で父を亡くし、苦学して深津小学校、尋常中学誠之館(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。三菱合資会社三菱造船所(現三菱重工業長崎造船所)に勤務。日清戦争、日露戦争に従軍。1901年(明治34年)小田郡矢掛町の守屋忠作長女(火+禾)の入夫となり家督を相続。
渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928… 渥美 勝(あつみ まさる、1877年2月13日 - 1928年11月4日)は、日本の国粋主義・民族派の思想家。滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)出身。 彦根藩士であった渥美平八郎の子として生まれる。渥美家は藩の武術師範を務めた家で、母は藩主・井伊家の分家である木俣家の出身。幼くして父を失い、母の手で育てられる。 彦根中学を経て、1897年、第一高等学校に入学。1900年には京都帝国大学法科に入学した。大学在学中、哲学・宗教への関心を深めた。また、母の死に相当の衝撃を受け、その遺骨の喉骨を飲み込んだともいわれる。人生に煩悶を抱えたまま、1904年、京都帝大を中退。郷里に帰って中学校教師をしていた時、児童の歌う「桃太郎」の唱歌を聞く中で思想的に目覚め、教職を辞めて大阪に出て鉄工所の作業員となる。
小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明… 津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明治10年)2月11日 - 1951年(昭和26年)11月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 高知県香美郡赤岡村(現・香南市赤岡町)に生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1918年(大正7年)7月に水戸連隊区司令官、1920年(大正9年)8月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)2月に歩兵第19連隊長に任官。その後、1924年(大正13年)12月15日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月20日に予備役に編入した。 退役後は、在郷軍人会長、帝国在郷軍人会高知支部顧問、高知市議会議員などを務めた。
奈良原 三次(ならはら さんじ、1877年(明治10年)2月… 奈良原 三次(ならはら さんじ、1877年(明治10年)2月11日 - 1944年(昭和19年)7月14日)は、日本の航空のパイオニアである。鹿児島生まれ、元日本海軍軍属技士で、1911年(明治44年)5月に自作の複葉機で飛行に成功し、翌年日本で初めての民間飛行場を開設し、生涯にわたり航空の発展に寄与した。男爵。
菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10… 菊池 義郎(きくち ぎろう、1877年〈明治10年〉2月10日 - 1944年〈昭和19年〉9月22日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。菊池侃二の子。 大阪府に衆議院議員・大阪府知事、菊池侃二の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。 同年在福州領事官補、叙従七位。1904年(明治37年)在ドイツ外交官補。1907年(明治40年)叙正七位。1907年(明治40年)在オーストリア大使館三等書記官。1908年(明治41年)在ロシア大使館三等書記官。 1910年(明治43年)に在厦門領事。1912年(大正元年)聖スタニスラフ勲章(英語版、ロシア語版)第三等受章。