三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 19… 三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 1944年8月17日)は、群馬県群馬郡片岡村(現・高崎市)出身のプロ野球選手。左投左打。1942年・1943年は、同じ阪神軍に在籍していた三輪裕章と区別するため三輪八と書かれることもある。 高崎市片岡尋常小学校(現:高崎市立片岡小学校)、群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)卒業。甲子園出場経験は無いが、1936年の高崎中3年次には北関東大会決勝まで一人で投げ抜き、群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)に敗れた。 桐生中の野球部監督・稲川東一郎の推薦により、稲川の義弟で大阪タイガースの球団職員だった早川二郎を仲介して同球団に入団。
相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明… 相原 守(あいはら まもる、1919年1月5日 - 没年不明)は、群馬県高崎市出身のプロ野球選手(外野手)。 高崎商業補習学校時代に甲子園出場はなし。中島飛行機製作所、全桐生を経て、1950年に国鉄スワローズに入団。26試合に出場するものの、目立った成績を残すことはできず、同年オフに退団。
中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1… 中曽根 康弘(旧字体: 中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位菊花章頸飾。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第32・33代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長などを歴任。
河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日… 河部 利夫(かわべ としお、1914年〈大正3年〉5月27日 - 2011年〈平成23年〉3月9日)は、日本の歴史学者。専門は東南アジア史。東京外国語大学名誉教授、東京国際大学名誉教授。文学博士。 群馬県高崎市に生まれる。旧制群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)、旧制第二高等学校を経て、1938年(昭和13年)に東北帝国大学法文学部西洋史学科を卒業。 1939年(昭和14年)に東北大助手となり、1942年(昭和17年)よりタイへ留学。帰国後の1944年(昭和19年)に文部省民族研究所員となり、1945年(昭和20年)東京外事専門学校(1949年より東京外国語大学)教授に就任。1964年(昭和39年)にはアジア・アフリカ言語文化研究所教授を兼任。
福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23… 福田 宏一(ふくだ ひろいち、1914年〈大正3年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉3月18日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)。親子2代で内閣総理大臣を務めた福田赳夫の実弟、福田康夫の叔父。小倉クラッチ監査役[要出典]。アントニオ猪木の格闘技の後援会会長を務めた[要出典]。 上州戦争下では、清和政策研究会候補として、群馬県選挙区で中曽根派の最上進や中曽根弘文らと激しい代理戦争を繰り広げた。 1914年(大正3年)群馬県群馬郡金古町足門(群馬町足門を経て現・高崎市足門町)に、金古町長を務めた福田善治の三男として生まれる。1932年(昭和7年)旧制渋川中学校(現・群馬県立渋川高等学校)を卒業。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月2… 高橋 邦雄(たかはし くにお、1910年〈明治43年〉7月25日 - 1988年〈昭和63年〉8月26日)は、昭和期の地方公務員、政治家。参議院議員(1期)、群馬県副知事。 群馬県群馬郡車郷村富岡(箕郷町を経て現高崎市)で生まれる。旧制高崎中学、旧制松本高校を経て、1936年(昭和11年)京都帝国大学法学部を卒業した。 1936年、群馬県庁に入庁し総務部地方課に配属された。1937年(昭和12年)10月、充員召集令により歩兵第15連隊に入隊し1940年(昭和15年)1月に召集解除となったが、1941年(昭和16年)8月に再度充員召集を受けて東部38部隊に入隊し、1945年(昭和20年)4月に解除された。
初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年… 初世宮下 秀冽(みやした しゅうれつ、1909年〈明治42年〉12月15日 - 1993年〈平成5年〉12月24日)は日本の作曲家・箏曲家。本名は宮下 哲郎(みやした てつろう)。三十絃箏の開発者。 群馬県高崎市(当時の群馬郡倉渕村)生まれ。旧制高崎中学を卒業後、熱病が原因で失明。箏曲家をこころざして、東京盲学校師範部音楽科に入学。古曲を初代萩岡松韻、新曲を宮城道雄、作曲を田辺尚雄から学んだ。1948年の「双調の曲」で三曲新作コンクール1位入賞。1953年の「箏主奏組曲『平家物語による幻想』」で 第8回音楽部門芸術祭奨励賞を受賞した。その後も芸術祭で受賞を繰り返した(大賞2回、入賞8回)ことから、「芸術祭男」とのあだ名で呼ばれた。
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30… 沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日 - 1988年〈昭和63年〉5月5日)は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・高崎市京目町)に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる。生家の反町家は庄屋の家柄で、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。 地元の京ヶ島小学校を経て、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業。
蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11… 蝋山 芳郎(ろうやま よしろう、1907年〈明治40年〉11月15日 - 1999年〈平成11年〉9月30日)は、日本のジャーナリスト、国際問題評論家。 筆名は高山五郎。蠟山政道、山田勝次郎、小山長四郎の弟。息子は高岡短期大学学長などを務めた蝋山昌一。 群馬県高崎市歌川町に生まれる。1925年(大正14年)に旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校理科乙類へ進学するが1929年(昭和4年)に中退。1936年(昭和11年)同盟通信社に入社し、特派員としてインド、ビルマに滞在。1946年(昭和21年)に帰国し、共同通信社東亜部長を務める。1960年(昭和35年)に同社を退職し独立。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 198… 志村 立美(しむら たつみ、1907年2月17日 - 1980年5月4日)は、日本画家、挿絵画家、美人画家。群馬県高崎市生まれ。本名 仙太郎。 群馬県高崎市新町甲百番地の有馬屋質店の長男として生まれ、その後横浜市中区へ移住する。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を中退して、1924年(大正13年)山川秀峰に入門美人画を修める。当時、山川秀峰は鏑木清方同門であった伊東深水と共に、挿絵での活動もしていた。岩田専太郎、志村立美と小林秀恒は、挿絵界の「三羽烏」。山川秀峰の推薦を受け、立美も挿絵での活動を行うようになる。また、金田信武の株式会社金田商店から、新版画と呼ばれている木版画も描いている。 肉筆画も鏑木清方主宰の郷土会、師である山川秀峰、伊東深水らの主宰する青衿会等へ出品をする。
田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19… 田口 ツギ(たぐち ツギ、1903年〈明治36年〉10月19日 - 1934年〈昭和9年〉8月19日、女性)は、昭和初期の日本の社会運動家、治安維持法の下で非合法政党であった時期の日本共産党の党員。 群馬県群馬郡滝川村(後の高崎市の一部)に生まれる。生家は、半農半商の穀屋であったが、1920年の戦後恐慌の際に破産した。 上級学校へは進学しなかったが、養蚕や農業に従事しながら、下田歌子の実践女学校における講義録を読み、独学青年の集まる「詩と歌の会」に参加するなどしていた 1925年1月、姉である田口マチ(後の梶並マチ)とともに、前橋市で開かれた講演会で、東京合同労働組合の活動家であった丹野セツの講演に触れる。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931… 佐藤 雪夫(さとう ゆきお、1901年5月7日 - 1931年12月21日)は、日本の翻訳家、雑誌記者。群馬県室田町(現高崎市)出身。 東京神田の順天中学校を卒業後、1924年に東京外国語学校イタリア語科卒業。同年5月に発行された文芸雑誌「南歐文學」の編集人を務め、イタリア文学紹介、翻訳などで活躍した。同誌の発行元は三田書房、発行人は甲斐田イヨ。南ヨーロッパの文学を紹介・研究することを目的とし、原語からの翻訳やエッセイなどが掲載された。全2冊で、1号は同年5月に発行され、巻頭にポール・クローデルの肖像と題字「水に聴く」を掲載。2号は翌6月の発行。 翌1925年にキネマ旬報社に編集部員として入社し、映画評論、脚色等で活躍した。
塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 19… 塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 1943年7月7日以降)は日英ハーフの飛行家、航空機関士。1937年に朝日新聞社主催の神風号訪欧飛行により、同僚の飯沼正明操縦士とともに一躍日本の空の英雄となったが、太平洋戦争で軍務中に消息を絶った。 賢爾は群馬県碓氷郡烏淵村(後の高崎市)出身の弁護士・検事、塚越金次郎と英国人のエミリー・セイラ・ボールドウィンの長男。1900年(明治33年)11月3日、東京市麹町区で生まれた。父は倉渕村から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した。 2人は帰国後、賢爾が産まれる直前に婚姻届を提出。
住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月1… 住谷 三郎(すみや さぶろう、1900年〈明治33年〉1月10日 - 1967年〈昭和42年〉1月21日)は歌人。 1900年(明治33年)1月10日、群馬県群馬郡大字東国分(現高崎市東国分町)生まれ。父友太は村長も務めた開明的な養蚕農業家、母なんの姪は土屋文明に嫁いだ。キリスト教牧師・漢詩人・英文学者の住谷天来を叔父に、元同志社総長・経済学者住谷悦治を兄にもつ。前橋中学校入学後、先輩萩原朔太郎や隣村棟高出身の山村暮鳥の活躍に刺激されて文芸に関心を持ち、同級生萩原恭次郎らを識って親交を結び、作歌への情熱を高め、角田蒼穂とともに文芸誌への投歌を始め、中学4年のとき「日本少年」「青年文壇」「秀才文壇」「文章世界」などに短歌を投稿、入選を重ね、同級の千輝春彦・高橋紅二との合作歌集『揺籃(ようらん)』(1917)を発行。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉… 住谷 啓三郎(すみや けいざぶろう、1897年〈明治30年〉7月12日 - 1975年〈昭和50年〉1月27日)は、日本の政治家。高崎市長(1955年 - 1971年)、高崎市議会議員、同議長。 高崎市田町の荒物問屋、住谷喜平の長男として生まれる。旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、慶応大学理財科に進むも中退し、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業。少壮実業家として高崎セロファン工場を起業する傍ら、高崎中学の同窓であった井上房一郎や蠟山政道と高崎新人会を創設。1932年(昭和7年)に高崎市議会議員に当選し、翌1933年(昭和8年)に市議会議長に選ばれる。戦後は関東ロクロ会社を設立し社長に就任した。
竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治… 竹腰 俊蔵(たけごし/たけこし しゅんぞう、1895年〈明治28年〉12月30日 - 1963年〈昭和38年〉3月28日)は、日本の教員、政治家。群馬県知事(公選第4代)を務めた。群馬県群馬郡箕輪村(のちの箕郷町、現在は高崎市)出身。参議院議員を務めた竹腰徳蔵は実兄であり、群馬県知事に立候補していた兄の急死により補充立候補して当選を果たした。 1895年(明治28年)12月30日、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)の酒造業者・竹腰徳蔵(先代)の次男として生まれる。1909年(明治42年)箕輪小学校を卒業後、1914年(大正3年)高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業。1915年(大正4年)に群馬県師範学校本科二部(現在の群馬大学教育学部)を卒業した。
住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月1… 住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月18日 - 1987年〈昭和62年〉10月4日)は、日本の経済学者。同志社大学名誉教授。同大学元総長。吉野作造門下。群馬県出身。 群馬県群馬郡国府村(現・高崎市東国分町)に、父・住谷友太、母・軟の次男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第二高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年吉野作造の推薦により同志社大学法学部助手となる。1927年(昭和2年)に同大学教授となったが、1933年(昭和8年)に治安維持法で逮捕され、職を辞す。東京文藝春秋社欧州特派員として1934年(昭和9年)に渡欧(1936年に帰国)。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1894年〈明治27年〉8月20日 - 1992年〈平成4年〉7月9日)は、日本の実業家。東京海上火災保険社長、日本損害保険協会会長などを歴任した。 群馬県西群馬郡高崎町(現高崎市)出身。1913年群馬県高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。一橋基督教青年会出身。同年三菱合資入社。1935年三菱海上火災保険大阪支店長。1944年東京海上火災保険取締役。1947年東京海上火災保険社長。1948年日本損害保険協会会長。1952年海運造船合理化審議会委員、国際電信電話設立委員。1953年三菱銀行取締役。1955年日本海外移住振興設立委員、自動車損害賠償責任保険審議会委員。
岡田 怡川(おかだ いせん、1894年7月23日 - 198… 岡田 怡川(おかだ いせん、1894年7月23日 - 1984年2月18日)は、日本の教育評論家。本名:岡田怡三雄(おかだいさお)。 明治27年(1894)7月23日群馬郡大類村中大類(高崎市中大類)の農業岡田保次郎・キン夫妻の長男として誕生。この年は日清戦争があった年で、日本の近代化がいよいよ進もうという時代であった。父は区長、学務委員を務めた人で、地域の信望も厚かった。一方我が子に対しては厳しくしつけ、これからの時代を背負って立つ人物へと、長男への期待は大きかった。父の薫陶を受けた岡田は教育者として大成し、群馬の社会教育の発展に尽くした。 高小卒後、小学校教員、中等学校教員(旧制)、高等学校教員(旧制)の各資格をいずれも検定試験で取得した努力家であり、教員としての志が高かった。
久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日… 久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1894年(明治27年)に群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で生まれた。生家は新町宿の脇本陣を勤めた家で、父・喜三郎は新町小学校の初代校長。 旧制藤岡中学校、旧制富岡中学校を経て、陸軍士官学校第28期、東京帝国大学土木工学科卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍大学校教官に就任し、1939年(昭和14年)8月に陸地測量部三角科長に転じた。1940年(昭和15年)12月に鉄道第6連隊長(第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9… 田村 栄太郎(たむら えいたろう、1893年〈明治26年〉9月25日 - 1969年〈昭和44年〉11月29日)は、日本の歴史研究家。在野の学者という立場を貫き、学会の官僚主義やエリート意識を批判した。遊廓街で育ったことから幼少時から遊女らと交渉を持った。風俗関係に関する研究で知られ、数多くの著書を出した。 1893年(明治26年) 群馬県高崎市嘉多町に生まれる。生家は人力車宿・履物屋を営んでいた。高崎尋常小学校を経て、高崎商業学校に学ぶ。病気のため同校を卒業間際に中退し、その後上京して明治薬学校(現・明治薬科大学)に入るがほどなく中退する。台湾に渡り、漢方薬の研究をするがほどなく帰国。 郷里で農民運動に参加、建設者同盟にも加わる。
篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月… 篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月9日 – 1943年(昭和18年)7月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧名は文治。 群馬県碓氷郡八幡村(現在の高崎市)出身。旧制高崎中学卒業。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。内務省に入り、長野県属、東京府属、内務属を歴任した。1919年(大正8年)に内閣軍需局事務官となり、翌年には国勢院事務官に任命された。1922年(大正11年)に退官した後は弁護士・弁理士事務所を開業した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈… 2代 竹腰 徳蔵(たけごし/たけこし とくぞう、1891年〈明治24年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉7月24日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、群馬県会議員(6期)、群馬県群馬郡箕郷町長。幼名は五四二(いよじ)。群馬県知事選挙に立候補したが投票日の3日前に急逝し、弟・俊蔵が補充立候補により当選を果たした。 1891年(明治24年)、群馬県群馬郡箕輪村西明屋(現・高崎市箕郷町西明屋)で造り酒屋「十一屋」を営む竹腰徳蔵・コウ夫婦の長男として生まれる。竹腰家は新潟から移住してきた徳蔵の先々代が酒造業を創業、銘酒「友鶴」を醸造し、広大な山林田畑を持つ資産家だった。 旧制群馬県立高崎中学校を経て市立大阪高等商業学校を卒業。
岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 … 岸 福治(きし ふくじ、1891年〈明治24年〉4月30日 - 1949年〈昭和24年〉7月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 群馬県群馬郡金古町足門(群馬町を経て現・高崎市足門町)出身。岸保五郎の三男として生れる。旧制高崎中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。「満州」分隊長などを経て、海軍大学校航海学生となる。「野島」「長良」の各航海長などを歴任し、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。 「鬼怒」航海長、軍令部第1班第1課参謀、「春日」教官、「八雲」副長、「室戸」「名取」の各艦長、海軍航海学校教頭、「扶桑」艦長などを経て、1939年11月、海軍少将に進級。
清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月2… 清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月25日 - 1977年(昭和52年)4月12日)は、群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしている。 元俳優の清水善三、関西学院大学教育学部教授の藤木大三らは、清水の孫にあたる。 群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)に進学。東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、1912年に三井物産に入社、カルカッタ(インド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)へに駐在員として在任した。テニス選手として国際大会に出場したのはこの期間である。
大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12… 大澤 雅休(おおさわ がきゅう、1890年〈明治23年〉12月17日 - 1953年〈昭和28年〉9月12日)は、昭和時代の日本の書家・歌人。平原社主宰。日本の書道界における前衛派の先駆けである。本名・雅休(まさやす)。 群馬県群馬郡大類村(現・高崎市柴崎町)の農家の長男として生まれる。高陽義塾を経て高山社に学ぶ。 1908年(明治41年)群馬郡金島村金島小学校代用教員となり、翌1909年同郡倉賀野町へ転勤。1911年高崎歩兵第15連隊に入営、除隊後大類小学校に勤務。村上鬼城や村上成之(蛃魚)に俳句の指導を受ける。 1916年(大正5年)栃木県那須開墾地に入植。このころ『ホトトギス』に小説や俳句を発表、また『アララギ』会員となり島木赤彦の指導を受ける。
滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月… 滝沢 浜吉(たきざわ はまきち、1890年〈明治23年〉9月17日 - 1960年〈昭和35年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、群馬県多野郡八幡村長。 群馬県多野郡八幡村阿久津(現・高崎市阿久津町)に生まれる。群馬県立高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に学ぶが、郷里の水害により中退。村の田畑・家屋の復旧に尽力し、1925年(大正14年)八幡村長に選ばれ、1938年(昭和13年)まで在職した。多野郡畜産業組合長、多野郡養蚕業組合長、多野郡農会長、烏川沿岸漁業会長、群馬県馬匹組合連合会副会長、群馬県町村会副会長となる。戦後も1946年(昭和21年)群馬県農業会長となり、同年から1年間八幡村長を務めた。
新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22… 新井 紀一(あらい きいち、1890年(明治23年)2月22日 - 1966年(昭和41年)3月13日)は、日本の小説家。実生活に裏打ちされた文章で知られた。日本の労働文学の代表的作家。砲兵工廠職工として働いていたことから「兵隊作家」とよばれた。別院一郎の筆名も用いる。 群馬県多野郡吉井町(現高崎市)に生まれる。四男二女の長男。7歳のとき、東京の四谷警察署で巡査となっていた父のもとに母とともに上京する。四谷第一尋常高等小学校を卒業後、東京砲兵工廠に見習職工として働く。2年の兵役をはさんで通算14年の職工生活を送る。 労働文芸誌『黒煙』に処女作「暗い顔」を投稿。1916年 「怒れる高村軍曹」「坑夫の夢」を発表、反軍作家と言われる。
中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年… 中島 吉三郎(なかじま きちさぶろう、1889年〈明治22年〉2月16日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)に群馬県群馬郡六郷村(現・高崎市)で生まれた。旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を経て、陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)1月20日に歩兵第28連隊長に就任し、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)に陸軍歩兵学校教導連隊長に転じた。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級し、第37歩兵団長(第1軍・第37師団)に就任し、日中戦争に出動。運城に駐屯し、警備・討伐戦に当たった。
小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1… 小林 弥七(こばやし やしち、1888年12月22日 - 1967年6月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県高崎市出身、早稲田実業学校卒業。高崎佐藤商組合頭取、群馬県糖業連合会会長、上州銀行、利根産業、群馬製菓、信永運輸各(株)取締役、利根木材、森永製品開発、利根産業各(株)取締役社長、高崎商業会議所議員、高崎市農会評議員、群馬県選挙管理委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において群馬2区から実業同志会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1967年死去。
5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年… 5代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、1887年〈明治20年〉11月2日 - 1966年〈昭和41年〉11月7日)は、明治時代後期から昭和時代の地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は徳太郎。 4代桜井伊兵衛の長男として群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれ、伊兵衛を襲名する。1905年(明治38年)東京府開成中学校を卒業する。1910年(明治43年)高崎銀行監査役に就任したほか、上毛貯蓄銀行相談役、高崎板紙、高崎製飴、群馬紡績各取締役などを歴任した。1917年(大正6年)には高崎政友倶楽部を組織し会長となった。 1918年(大正7年)、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任。
田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月… 田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月20日 - 1944年(昭和19年)3月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・関原。 群馬県群馬郡新波村(現:高崎市)で関原家に生まれ、田中敬造の養子となる。1899年、群馬県尋常中学校を卒業し、その後、同志社で学ぶ。同志社在学中、日露戦争時に基督教青年会軍政慰問部主事として満州に赴任し慰問事業に二年間従事した。 1907年4月、北海道に移り製材事業を経営。(株) 田中木工場社長、北海興業取締役、北海工業取締役、旭川曲木工芸取締役、北海石炭取締役、昭南電燭取締役などを務めた。 政界では、旭川区会議員、同市会議員、同副議長、同議長、北海道会議員を歴任。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1… 稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日(1871年10月20日) - 大正5年(1916年)2月17日)は、群馬県高崎市出身で稲川部屋→浦風部屋→高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は吉井→松本 貞四郎。身長167cm、体重110kg。最高位は関脇。 ずんぐりとした体からの突き押しを武器に上位陣を苦しめた。稲川門人だった角界入り当初は、弱く期待もされていなかったが、努力を積み重ねて入幕。1900年(明治33年)1月場所には8勝1敗と優勝相当の成績を残している。1901年~1906年頃には上位に定着し関脇5場所を務めている。1901年5月大関梅ノ谷と引分、1902年1月大砲に勝利、晩年の1907年5月にも横綱梅ヶ谷に勝利している。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
佐藤 藤七(さとう とうしち、文化4年(1807年) - 明… 佐藤 藤七(さとう とうしち、文化4年(1807年) - 明治5年(1872年6月27日))は、幕末期の上州権田村(現・群馬県高崎市倉渕町権田)の農民名主。通称勘兵衛、名は信有(信宥とも)。日本で初めて世界一周した農民として知られる。 佐藤藤七は文化4年(1807年)に現在の藤岡市本動堂に生まれ、のちに権田村名主・佐藤勘兵衛家の婿養子となり、家督を継いだ。勘兵衛家は代々名主を務め、家業は酒造であった。 藤七は学問、とくに漢学に秀で、権田村で寺子屋を開き、文人・塚越停春などの逸材を育てたことで知られる。 小栗忠順に才能を見込まれて江戸で忠順に仕え、万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のために遣米使節を派遣したが、藤七は農民身分としては異例の随行許可を得て、小栗忠順に随従し世界一周を経験した最初の日本農民となった。
関ノ戸 澤右エ門(せきのと さわえもん、1767年 - 18… 関ノ戸 澤右エ門(せきのと さわえもん、1767年 - 1817年12月21日)は、上野国多胡郡馬庭村(現在の群馬県高崎市吉井町)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。本名は阿藤 初五郎。江戸時代寛政年間から文化年間にかけて活躍した松江藩お抱えの人気力士。最高位は小結。
小此木 佑香(おこのぎ ゆか、11月5日 - )は、群馬テレ… 小此木 佑香(おこのぎ ゆか、11月5日 - )は、群馬テレビのアナウンサー。 群馬県高崎市出身。新島学園高等学校、立教大学卒業。 大学を卒業してからは、長野県で一時フリーアナウンサーとして活動していた。その当時は、同じく長野県で活動している司会者やリポーターのグループ「声のお仕事 mimmit」に加入していた。 2019年4月に群馬テレビに入社し、元NHK盛岡放送局キャスターの三上彩奈とともに同局のアナウンサーになる。
国友 愛佳(くにとも あいか、4月30日 - )は、日本のグ… 国友 愛佳(くにとも あいか、4月30日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。女性アイドルグループ・ヤンチャン学園、KNU oNEWの元メンバー。群馬県高崎市出身。 モーターマガジン社RIDE-ライドル。 ※太字タイトルはBD版同時発売 ヤンチャン学園として この項目は、アイドル(グラビアアイドル・ライブアイドル・ネットアイドル・レースクイーン・コスプレイヤーなどを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル:アイドル/プロジェクト:芸能人/プロジェクト:ジャニーズ/プロジェクト:女性アイドル)。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
葵(あおい、4月1日 - )は、日本の歌手・俳優・声優・モデ… 葵(あおい、4月1日 - )は、日本の歌手・俳優・声優・モデル。群馬県高崎市出身、A型、身長168cm、体重49kg。ヴィジュアル系ロックバンド 彩冷えるのボーカル。愛称はあおちゃん等。 2004年、MASKを脱退、同年5月に彩冷えるを結成。 2006年、バンド表記が「アヤビエ」→「彩冷える-ayabie-」となると同時に、名前の表記を向日葵→葵に変更。 2010年、化粧品ブランド「ライスフォース」とコラボ。6月、バンド活動と並行してソロ活動をスタート。8月 彩冷えるから葵以外全員脱退し、AYABIEを結成。9月、ソロ活動初のシングルをリリース。同月末に所属事務所を株式会社フェザンレーヴへ移籍。
竹内 海南江 は、日本のタレント・リポーター。テレビマンユニ… 竹内 海南江 は、日本のタレント・リポーター。テレビマンユニオン所属。
須藤 ゆみ(すどう ゆみ、3月31日 - )は、関東地方を拠… 須藤 ゆみ(すどう ゆみ、3月31日 - )は、関東地方を拠点に活動する日本のフリーアナウンサー、講師。 群馬県高崎市出身。城西大学女子短期大学部(現・城西短期大学)、専門学校東京アナウンス学院放送アナウンス科卒業。 学生時代からケーブルテレビの番組に出演し、1998年からはラジオパーソナリティ、声優、ナレーターとしても活動。当時の所属事務所はジョイスタッフで、後にオフィスアールへ移籍した。 2006年4月1日、同日午後に入籍したことを自身のブログで公表。それまで埼玉県に2年、東京都に10年住んで活動していたが、入籍翌年の2007年9月に故郷の高崎市へ転居した。以後は東京での仕事も受けつつ、FMぐんまの番組を中心に活動している。
矢島 敬雅(やじま よしのり)は、日本の経産官僚。中小企業庁… 矢島 敬雅(やじま よしのり)は、日本の経産官僚。中小企業庁経営支援部長、東北大学イノベーション戦略推進センター長等を経て、日本鉱業協会副会長、資源・素材学会監事。 群馬県高崎市生まれ。群馬県立高崎高等学校を経て、1986年に北海道大学工学部資源開発工学科卒業後、通商産業省に入省し、基礎産業局、環境立地局、生活産業局、JETROヒューストンセンター、原子力安全・保安院などで勤務した。資源エネルギー庁資源・燃料部鉱物資源課長兼内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付)、内閣官房大陸棚調査対策室参事官等を経て、2009年経済産業省経済産業政策局調査統計部参事官。 2010年経済産業省商務情報政策局商務流通グループ製品安全課長。