三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2… 三宅 喜二郎(みやけ きじろう、1908年1月27日 - 2001年8月27日)は、日本の外交官。駐チェコスロヴァキア特命全権大使や、外務省研修所長、駐スウェーデン特命全権大使などを務めた。 京都市出身。1930年高等試験行政科合格。1931年に東京商科大学(現一橋大学)本科卒業後、研究科で経済学及び法学を研究した。1934年高等試験外交科合格。同年外務省入省、在英国外務書記生。1935年在英国外交官補。1937年在シドニー領事館補。1939年外務省欧亜局第三課外務事務官。1940年外務省南洋局第一課外務事務官。 1946年外務省調査局第一課長。1949年外務大臣官房文書課長、国立国会図書館支部外務省図書館長、司法試験考査委員。
澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1… 澤村 義夫(さわむら よしお、1907年10月12日 - 1970年8月10日)は、日本の実業家。関西テレビ放送元社長。 京都府京都市出身。1929年に慶應義塾大学文学部を卒業。大阪新聞社と大阪時事新報社で編集局長を務め、1959年2月に産業経済新聞社副社長を経て、1958年2月に設立された関西テレビ放送の専務に就任し、社長の小林米三と共に経営の陣頭指揮を執った。1969年2月に小林米三の急逝により、社長に就任した。日本民間放送連盟副会長も務めた。日本万国博覧会の開催に尽力を尽すために、数多くの万博関連番組、関連事業を推進したが、1970年8月10日亜急性黄色肝萎縮のために堺市内の病院で死去。62歳没。
江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 19… 江崎 一治(えさき かずはる、1907年10月1日 - 1972年7月11日)は日本の会社経営者、政治家。 衆議院議員(日本共産党公認)を1期務めた。株式会社丹羽鉄鋼相談役。 京都府京都市出身。早稲田大学理工学部電気工学科を1933年に卒業後、1938年日本電気玉川向工場に入社。大津工場第2検査課長などを歴任したが、1946年に日本共産党へ入党したのを機に同党滋賀県委員や日本電気労働組合大津分会執行委員を務めた。しかしレッドパージに伴い同社を解雇されると、大阪府内で会社を経営。1949年の第24回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から出馬し初当選、滋賀県初の共産党国会議員となった。当選1回。 1972年7月11日、肝硬変のため神奈川県川崎市中原区の日本医科大学付属第二病院にて死去。
山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治4… 山嵜 義三郎 (やまさき よしさぶろう、1907年 <明治40年> 9月3日 - 2007年 <平成19年> 6月28日)は、日本の社会政策学者。神戸大学名誉教授。 京都市生まれ。1925年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。1915年神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。八木助市に師事し、ヘンリー・ジョージなどの土地制度論の研究を行った。 1932年神戸商業大学(現神戸大学)卒業。1936年同大学研究科修了。1937年大連高等商業学校教授。1948年神戸経済大学附属経営学専門部教授。1951年神戸大学経済学部助教授。1953年神戸大学経済学部教授。1962年経済学博士。1965年神戸大学経済学部長。
西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001… 西 貞一(にし ていいち、1907年8月31日 - 2001年2月3日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、実業家。同志社大学在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに200m走と4×400mリレーで出場。日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝3回。第二次世界大戦後に、陸上競技用具等のメーカーであるニシ・スポーツを創業した。 京都市生まれ。京都市立第二商業学校卒業後、同志社大学に進学。 同志社大学在学中、1929年(昭和4年)に日本陸上競技選手権大会の400m走で優勝(51秒4)。1931年(昭和6年)には日本陸上競技選手権大会400m走で2度目の優勝(50秒2)。 1932年ロサンゼルスオリンピックの日本代表に選ばれ、男子200メートル走と男子4×400mリレーに出場した。
織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006… 織田 武雄(おだ たけお、1907年6月29日 - 2006年10月18日)は、日本の地理学者(人文地理学)。京都大学名誉教授。 1907年、京都府京都市生まれ。京都府立一中、七高を経て、1929年に京都帝国大学文学部に進学。地理学を専攻し、1932年に同大学文学部を卒業。 卒業後は、龍谷大学予科、関西学院高等商業学校、立命館大学講師を務めた。1940年、関西学院高等商業学校教授に就任。 1946年4月、立命館大学文学部教授に就任。しかし、翌1947年3月に母校である京都大学文学部助教授に転じた。これは、戦中京都大学地理学教室は地政学研究に走ったため、戦後全ての教官が辞任することとなったためであった。
島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 199… 島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 1996年6月16日)は日本の小説家、脚本家。 京都府京都市出身。明治大学中退。1931年に「満洲日報」に入社し新聞記者となり、敗戦までの約15年間をほぼ従軍記者として過ごす。終戦後は同社の社員たちと「大陸情報通信社」を設立、在満邦人の引揚げ運動に尽力する傍ら執筆活動を続けた。 1946年に短編「殺人演出」が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞に入選し、翌年掲載される。 デビュー当初は『古墳殺人事件』や『錦絵殺人事件』のような衒学的な本格推理を得意としていたが、1949年からは自身の経験を生かした新聞記者ものの推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)「遊軍記者」、「新聞記者」、「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞を受賞する。
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23… 湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年〈明治40年〉1月23日 - 1981年〈昭和56年〉9月8日)は、日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。学位は理学博士(大阪帝国大学・1938年)。位階は従二位。勲等は勲一等旭日大綬章。 京都府京都市出身。京都帝国大学理学部物理学科卒。大阪帝国大学にて学位取得。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 -… 工藤 信一良(くどう しんいちろう、1906年4月17日 - 1981年7月23日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。京都府京都市出身。 1939年に京都帝国大学英文学科を卒業し、毎日新聞社に入社した。取締役、東京本社編集局長、副社長を歴任した後に、1968年1月には、相談役を務めた。1949年の大リーグのサンフランシスコ・シールズの招聘と毎日オリオンズの創設に尽力した。 1974年から1978年までにNHK経営委員会委員長を務め、1978年10月1日からパシフィック・リーグ会長に就任し、エキサイティング・リーグ「パ」のキャンペーンを繰り広げるなど、パ・リーグの観客動員の増加に力を入れた。
小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 199… 小谷 正雄(こたに まさお、1906年1月14日 - 1993年6月6日)は、日本の分子物理学者、生物物理学者。理学博士。東京大学・東京理科大学名誉教授、東京理科大学元学長。京都府京都市生まれ。明仁上皇の教育係を務めた。 田艇吉の二男哲と、柏原銀行頭取や柏原町長を務めた小谷保太郎の長女ふきの子として生まれる。父が小谷家に婿養子に入ったため、小谷姓を名乗った。 1929年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。卒業後は、東京帝国大学工学部講師、理学部助教授、後に教授昇進。東京大学理学部長、大阪大学基礎工学部教授をつとめた。また京都大学でも教鞭をとり、京都大学兼任教授も務めた。 1960年に日本生物物理学会を創設。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)… 川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)5月22日 - 1978年(昭和53年)12月23日)は、日本の歴史学者・考古学者・美術史家。学位は、文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究。京都市生まれ。 京都府京都市生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業後、建築史家の天沼俊一に師事し、石造遺品への関心を深めた。1926年に自宅で書店をひらき、屋号をスズカケと称し、1928年にはスズカケ出版部を設け、『古美術史蹟 京都行脚』を刊行し、1929年、京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった。1930年、史迹美術同攷会(しせきびじゅつどうこうかい)を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。
中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - … 藪田 嘉一郎(やぶた かいちろう、1905年3月28日 - 1976年1月13日)は、日本の編集者・歴史家。出雲国風土記偽書説など大胆な新説を唱え、松本清張が師事した在野の古代史家として知られる。 京都市生まれ。1924年京都市立第一商業学校専修科卒業。1925年京都帝国大学文学部史学科選科入学、1928年中退。 1928年至誠堂に入社し、1932年飛鳥園、1933年日出芸林社と転籍し、書籍の編集者として活躍する。1934年株式会社便利堂に入社し、1950年同社取締役に就任。1951年に退社。同年、自ら綜芸舎(綜芸種智院に因む)を創立する。この間、文献、美術、石造文化財などの史資料を使った古代史研究や能楽研究、易学研究の著作・論文を公刊した。
鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日… 鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日 - 1971年(昭和46年)9月11日)は日本の政治家。福岡県知事(公選)を2期8年務めた。 1905年(明治38年)、学校法人鎮西学院院長などを務めた宗教家鵜崎庚五郎の四男として京都府京都市で生まれる。鎮西中学校、第二高等学校理科甲類を経て1928年(昭和3年)に東京大学農学部農経科卒業。卒業後、農林省に入省し、福島県農地部長や福岡地方経済安定局調整部長、福岡県知事室長などを歴任した。 1959年(昭和34年)4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1… 浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1987年7月23日)は、日本の陶芸家。日展参事。中国宋代の青白磁を基調に現代的感覚を加えた作風で知られた。第9回日展出品作「暢」により日本芸術院賞を受賞した。 京都市東山に、三代浅見五良助の次男として生まれる。本名は柳三。1923年に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主として祖父の二代五良助に学び、1929年の第10回帝展で「三葉紋花瓶」が初入選した。 戦後は1945年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、1947年の第2回日展「象嵌 干柿の図皿」で特選、1951年の第7回日展「鶏頭ノ図花瓶」で再び特選を受け、翌年無鑑査となった。
嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高… 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5… 朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月29日)は、日本の部落解放運動家、会社経営者。元「解同」(部落解放同盟)中央執行委員長。 京都府愛宕郡田中村字西田中(現在の京都市左京区田中馬場町)で生まれた。朝田が生まれた西田中は被差別部落で、古くは川崎村といった。 父は滋賀県大津市出身の幾之助、母はみゑ、長兄は幾松、次兄は伊助といった。父は和鞋の製造、販売の早瀬円蔵商店勤務を経て肥屋、汲み取りをやって1907年頃から共同浴場の経営をしていた。 1908年、養正小学校へはいった。1914年、小学校を卒業して寺町五条下ルの篠本靴店へでっち奉公へ出た。
平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年… 平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年> 12月15日 - 1978年 <昭和53年> 1月23日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 1930年に京都帝国大学工学部電気学科を卒業し、同年に大同電力に入社。日本発送電を経て、1952年11月に関西電力取締役に就任し、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長を経て、1962年12月に東北電力社長に就任。1969年11月に会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年1月23日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 197… 神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 1975年6月1日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1925年に東京帝国大学法学部独法学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。安田保善社、帝国ピストンリングでの勤務を経て、1945年に沖電気工業常務に就任し、1947年に専務を経て、1949年に社長に就任。1966年から1972年までに会長を務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1972年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年6月1日心不全のために死去。73歳没。
天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 -… 天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 - 1992年8月6日)は、日本の書誌学者。 京都府京都市出身。京都帝國大学図書館司書、関西大学図書館図書課長などを歴任。1967年から1972年3月まで東洋大学社会学部教授を務めた。 代表的な編著書に『日本書誌の書誌』。1987年に第1回物集索引賞特別賞を受賞。 大正時代に京都帝國大学図書館に職員として採用されて以来、天野は書誌情報の収集に心血を注ぎ、「書誌の書誌」などの参考図書の作成に生涯を費やした。作成する書誌の原稿ができあがると、それが最もわかりやすい簡明な形式で印刷されるよう、掲載が予定されている刊行物の性格に即して、原稿には割付を加えておくのが常であり、赤インキで細かく清潔に活字の組み方を指示していた。
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月… 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。 高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、初めて虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 19… 上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 1984年10月2日)は、日本の英文学者・英語学者。同志社大学名誉教授。専門は中世英文学・米文学。 京都府京都市生まれ。1927年、同志社大学文学部英文学科卒。1934年から1936年まで、シカゴ大学に留学。1936年、同志社大学文学部講師、のち1938年に助教授、1941年に教授。1949年から1950年まで文学部長。1952年、チョーサーに関する論文で同志社大学より文学博士の学位を取得。1954年から1956年まで再び文学部長。1960年から1965年まで学長。1968年から1970年までアメリカ学会会長。1970年、定年退職、名誉教授となる。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10… 斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10月22日 - 1992年〈平成4年〉11月30日)は、日本の銀行家。元東京銀行監査役。 次女は国際基督教大学名誉教授の斎藤美津子、長男は元毎日新聞社会長の斎藤明。 京都市出身。斎藤駒三郎の二男。 1922年(大正11年)に旧制第三高等学校文科丙類を卒業、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年正金銀行に入り頭取席東京、上海、巴里、横浜、西貢各支店に勤務したが、同行閉鎖に依り東京銀行に引継がれ1947年(昭和22年)浅草支店長。1953年(昭和28年)5月監査役に選ばれる。墓所は多磨霊園。 趣味は散歩、水泳。宗教はキリスト教。
井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 19… 井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 1982年6月8日)は、日本の茶道家。京都市に、13代千宗室の3男として生まれた。名は三郎、号は宗含。裏千家宗家の父に茶道を学ぶ。茶道教授をしながら、機関誌「茶道月報」を主宰。戦後は淡交社社長として茶道書の出版、執筆に活躍した。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。
黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年… 黒田 覚(くろだ さとる、1900年2月1日 - 1990年12月2日)は、日本の法学者。京都大学教授、東京都立大学 教授、神奈川大学教授および学長代行を務めた。 京都府京都市出身。第三高等学校から1923年3月に京都帝国大学法学部を卒業、同年4月より大学院に進む。京都帝大では憲法学・国法学の正系とされる森口繁治に師事[要出典]。 1925年(大正14年)京都帝大法学部助教授に就任した。ドイツ法を専攻し、純粋法学のハンス・ケルゼンと彼が所属したウィーン学派の研究を手がけた。1927年から1930年まで、文部省在外研究員として渡欧し、このときにはケルゼン本人に受講、個人的な親交を結んでいる。しかし、帰国後にケルゼンの影響からは次第に遠ざかったとされる。
安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - … 安田 徳太郎(やすだ とくたろう、1898年1月28日 - 1983年4月22日)は、日本の医師・歴史家。ゾルゲ事件に連座して執行猶予付きの有罪判決を受けた。 京都市生まれ。妹は高倉輝夫人。父の死後一家が伯母(山本宣治の母)の経営する旅館(宇治・花やしき浮舟園)に引き取られる。 1920年、京都帝国大学医学部に入学。在学中から従兄の山本宣治の産児制限運動に関わる。1930年、医学博士。さらに無産運動に関係し、医師としてこれを支援。 1933年、共産党シンパとして検挙された。1941年にはリヒャルト・ゾルゲらのゾルゲ諜報団に連座し逮捕、1942年に事件裁判で有罪判決(執行猶予付き)を受けた。 医師としてドイツ語に優れ、唯物論的科学思想史の研究を行い、ジークムント・フロイトの訳・解説は今日まで重版。
高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明… 高木 吉之助(本姓:髙木、たかぎ きちのすけ、1897年(明治30年)3月24日 - 1984年(昭和59年)11月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 京都府京都市出身。1918年(大正7年)京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業した。 織物業を経営。近畿中小企業連絡協議会参与委員、西陣織物統制組合理事長、京都物産協会長、京都府商工会議所理事、西陣織物協同組合理事長、西陣織物同業会長、日本絹人絹織物同業会理事などを務めた。 また、京都市会議員に選出され、商工省物価局価格査定事務嘱託、京都府西陣地区物価監視委員長、生糸問屋審査専門委員なども務めた。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で京都府地方区から民主党公認で出馬したが次点で落選。
二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9… 二見 貴知雄(ふたみ きちお、1897年(明治30年)2月9日 - 1957年(昭和32年)3月23日)は、日本の銀行家。日本銀行副総裁、東京銀行頭取を務めた。 京都府京都市出身。京都府立一中、三高を経て、1921年に東京帝国大学法科を卒業。同年に日本銀行に入行。 計算局を振り出しに、ニューヨーク監督官付、審査部、大阪支店、営業局次長を歴任後、再び海外に出て、ロンドン代理店監督役となり、国際決済銀行理事を兼任し、ロンドンとジュネーブの間を往復した。帰国後の1941年、日銀参事となり、資金調整局調査役を経て、故郷の京都支店長、神戸、名古屋の各支店長を歴任した。その後、本店に戻り考査局長、統制局長をやっているうちに終戦を迎える。
稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いなが… 稲垣 仲静(いながき ちゅうせい、本名:稲垣 廣太郎(いながき ひろたろう)、1897年(明治30年) - 1922年(大正11年)6月25日)は、大正時代の日本画家。京都市出身、 日本画家で工芸図案家の稲垣竹埠の長男に生まれ、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として、将来を期待されながらも早逝した。 弟は型絵染の人間国宝に認定された染織家の稲垣稔次郎。 1912年(明治45年)に京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、京都派の基礎とも言える写生技術を身につけた。1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(絵専)に進学し、翌1918年(大正7年)に美工出身者の研究団体「密栗会」に参加した。
木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)… 木村 幸一郎(きむら こういちろう、1896年(明治29年)9月25日(または10月8日) - 1971年(昭和46年)9月18日)は、日本の建築学者。 京都市生まれ。早稲田大学などにおいて、環境工学の基本的研究と教育にあたった。また、積雪荷重など雪害対策の基礎的研究方向を確立したほか、日本空気清浄協会、日本建築積算事務所協会の設立と運営にも尽力した。 日本建築設計事務所協会初代会長(l971年まで)。
徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月… 徳岡 神泉(とくおか しんせん、1896年〈明治29年〉2月14日 - 1972年〈昭和47年〉6月9日)は、京都市生まれの日本画家。本名、時次郎。 京都写生派の流れに立った写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章受章。 1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。 1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年… 中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年)1月24日-1986年(昭和61年)8月29日)は、日本都市計画学会は発起人としても関与し、日本都市学会や近畿都市学会は会長を歴任した都市計画家、建築行政官、都市研究者。大阪市立大学名誉教授。日本建築学会名誉会員で、大阪市政研究所にも所属した。京都市生まれ。 旧制第三高等学校を経て1920年(大正9年)7月東京帝国大学工学部建築学科を卒業。ただちに内務省大臣官房都市計画課勤務。1921年大阪府警察部技師。中の島大阪市庁舎新築工事などを担当。 1924年愛知県警察部建築課長。1931年愛知県土木部建築課長。1932~39年:大阪府警察部建築課長と、都市計画並びに建築行政の分野で業務を歴任。
竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9… 竹内 愛二(たけうち あいじ、1895年(明治28年)7月9日 - 1980年(昭和55年)2月18日)は、日本の社会学者・社会福祉学者。日本における社会福祉学の構築に寄与した研究者で、ソーシャル・ケースワーク研究の黎明期を支えた第一人者。日本ソーシャルワーカー協会の初代会長。 京都府京都市生まれ。父は同志社神学科にて学び、愛二が生まれてのち長崎県を中心に九州伝道を行った牧師であり、母も伝道の道にいた人物であるとされる。幼少期の愛二も両親の伝道の旅に付き添ったため、書類によってはその道程の地域を出身地としたものも散見される。 1913年に旧制同志社中学校を卒業し、神戸三菱造船所に就職。1924年に学問への志、断ち難く三菱造船を辞して米国への私費留学へと赴く。
竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉… 竹内 勝太郎(たけうち かつたろう、1894年〈明治27年〉10月20日 - 1935年〈昭和10年〉6月25日)は日本の詩人。日本の象徴詩を確立したと評される。 京都府京都市生まれ。私立清和中学校(立命館中学の前身)を中退。東京へ出て、三木露風に師事。独学で自然科学、哲学などを学び、文学を一生の業と考える。フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメに影響を受け象徴詩の世界へ。 1915年から京都基督教青年会の夜学でフランス語を学ぶ。その後、日出新聞社の市政記者、大正日日新聞社の市政・美術担当記者、大阪時事新報の記者となる。 1928年には知友の支援を受けフランスに渡る。ポール・ヴァレリーに傾倒し、その詩技法は「美を破壊する美」へと変化していく。
井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 197… 井藤 半彌(いとう はんや、1894年9月14日 - 1974年2月6日)は、日本の経済学者。専門は財政学。経済学博士。正三位勲一等瑞宝章。 海軍経理学校教授、一橋大学学長、日本学士院会員、自治庁参与、大蔵省税制特別調査会会長、日本ホッケー協会理事、大学基準協会常任理事などを歴任した。 京都市出身。京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)を経て、1918年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業、1920年同校専攻部貿易科卒業。福田徳三教授に師事。1920年東京商科大学(現一橋大学)助手、1910年東京商科大学附属商学専門部講師。1922年から財政学の内池廉吉教授に師事。1935年東京商科大学より経済学博士の学位を取得。
阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1… 阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 京都市に生まれる。京都府二中、陸軍幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第68連隊付となる。青島守備隊、陸地測量部勤務等の後、1932年(昭和7年)近衛歩兵第1連隊。1934年(昭和9年)同連隊大隊長。1936年(昭和11年)から翌年に掛けて配属将校として拓殖大学、東京府第三中、第四中に勤務。1937年(昭和12年)独立歩兵第13連隊附として支那事変に参加し山西省、内蒙古周辺を転戦・守備。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉… 八代目 淺尾奥山(あさお おくやま、明治27年〈1894年〉1月4日 - 昭和49年〈1974年〉11月29日)とは、上方の歌舞伎役者。屋号は錢屋。定紋は木槌、替え紋は裏牡丹。本名は尾田木駒造。 京都生まれ。三代目淺尾大吉(浅尾関十郎)の門人となり、浅尾関三郎を名乗って初舞台を踏む。昭和5年(1930年)1月、淺尾奧山の名跡を襲名。以後関西歌舞伎で世話物の老け役、脇役として活躍する。昭和30年(1955年)から長谷川一夫の誘いで映画に転じ大映京都に所属し、映画や東宝歌舞伎に約10年間出演した。その後歌舞伎に復帰し東宝系で活躍。 堅実で老巧な芸で「名優奧山」と賞され、『治郎吉懺悔』の伝吉、『仮名手本忠臣蔵』の「六段目」のおかやなどが印象に残る舞台だったが、特に最晩年の昭和48年(1973年)7月、歌舞伎座で十七代目中村勘三郎と舞台を共にした『夏祭浪花鑑』の義平次は絶賛された。
吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)… 吉川 末次郎(よしかわ すえじろう、1892年(明治25年)12月1日 - 1976年(昭和51年)11月20日)は、大正末から昭和期のジャーナリスト、社会運動家、政治家、法学者。参議院議員(1期)。次男は元東映プロデューサー吉川進。 京都府京都市出身。吉川利兵衛の養子となる。京都薬学校(現京都薬科大学)卒を経て、1918年(大正7年)同志社大学政治科を卒業した。1920年(大正9年)から1922年(大正11年)にかけて欧米に留学し、コロンビア大学政経部大学院などで学んだ。ロイター通信記者、日米時報主筆、帝都復興院嘱託、東京市政調査会研究員などを務め、社会運動に従事した。 1926年(大正15年)社会民衆党創立に加わり、1927年(昭和2年)京都支部創立に伴い支部長に就任。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。