下堂薗 豊(しもどうぞの ゆたか、1948年〈昭和23年〉9… 下堂薗 豊(しもどうぞの ゆたか、1948年〈昭和23年〉9月6日 - 2026年〈令和8年〉1月1日)は、日本の実業家、茶業家。下堂園社長、会長を歴任し、鹿児島茶の販路拡大や有機栽培茶など新商品開発に尽力。 鹿児島県鹿児島市出身。父は下堂園(下堂薗茶舗)創業者の下堂薗實。1967年3月、鹿児島県立甲南高等学校卒業。1971年3月、中央大学経済学部卒業。鹿児島県茶業試験場を経て、1972年2月に有限会社下堂薗茶舗入社。1975年2月、有限会社下堂薗茶舗専務取締役に就任。初代代表取締役である實の急死により、1980年11月、有限会社下堂薗茶舗代表取締役社長(第2代)に32歳で就任。主に関西以西で流通していた鹿児島茶の、関東以北への販路拡大に尽力。
射場本 忠彦(いばもと ただひこ、1947年12月15日 -… 射場本 忠彦(いばもと ただひこ、1947年12月15日 - ) は、日本の工学者。専門は、建築環境工学・建築設備。第10代東京電機大学学長。第82期空気調和・衛生工学会会長。元国際エネルギー機関蓄熱実施協定執行委員会日本代表。 鹿児島県鹿児島市生まれ。父は射場本勘市郎北海道大学名誉教授。1972年北海道大学工学部衛生工学科卒業。1977年東京大学大学院工学系研究科建築学専門課程博士課程修了、工学博士。専門は建築環境工学、建築設備。研究生を経て指導教官の勧めで、1979年東京電力入社。1980年東京電力技術開発研究所入所。 1984年東京電機大学工学部建築学科講師。1986年東京電機大学工学部建築学科助教授。
原口 泉(はらぐち いずみ、1947年2月4日 - )は、日… 原口 泉(はらぐち いずみ、1947年2月4日 - )は、日本の歴史学者(日本近世史・近代史)。鹿児島大学名誉教授、志學館大学教授、第24代鹿児島県立図書館館長。 専門は日本近世史・近代史であるが、戦国時代以降の薩摩藩、薩摩における中国大陸からの帰化人や奄美群島、沖縄(琉球)の史実にも詳細な知識を持つ。 鹿児島県鹿児島市生まれ。 専任講師時代より各種テレビ番組の時代考証・解説や多数の公職を務めている。
壽福 眞美(じゅふく まさみ、1947年1月20日 - )は… 壽福 眞美(じゅふく まさみ、1947年1月20日 - )は、日本の社会学者。法政大学社会学部名誉教授。専門はドイツ社会思想、環境倫理、エコロジー、フェミニズム、社会哲学。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鶴丸高等学校卒、1971年一橋大学法学部卒、1976年一橋大学大学院社会学研究科ドイツ社会思想史博士後期課程単位取得満期退学、法政大学社会学部助手、1977年専任講師、1979年助教授、86年教授、2015年法政大学サスティナブル研究所副所長。2017年名誉教授。 1980-1981年西ドイツ・エアランゲン大学、1983年ベルリン大学、ハンガリー歴史研究所留学。
池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月… 池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月21日 - )は日本の医師、医学者。専門は周産期医学。宮崎大学名誉教授で、2015年10月から同大学学長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1964年長崎県立長崎東高等学校卒業。1970年鹿児島大学医学部を卒業。1972年鹿児島市立病院に産婦人科医員として勤務。その後南カリフォルニア大学産婦人科とカリフォルニア大学アーバイン校産婦人科に留学する。1982年に医学博士号を取得(日本大学)。1990年に鹿児島市立病院産婦人科部長となる。1991年宮崎医科大学産婦人科教授。2003年宮崎医科大学の宮崎大学への統合に伴い宮崎大学医学部附属病院副病院長。
村野 健太郎(むらの けんたろう、1946年 - )は、日本… 村野 健太郎(むらの けんたろう、1946年 - )は、日本の環境学者、理学博士。法政大学生命科学部環境応用化学科元教授。酸性雨や大気汚染などを専門とする。鹿児島県鹿児島市出身。
前川 燿男(まえかわ あきお、1945年(昭和20年)11月… 前川 燿男(まえかわ あきお、1945年(昭和20年)11月12日 - )は、日本の政治家。東京都練馬区長(3期)を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。 1964年、鹿児島県立甲南高等学校卒業。1970年、東京大学法学部卒業。 1971年、東京都庁入庁。民生局配属。東京都総合計画総括課長、臨海副都心開発部長を経て、2000年に石原慎太郎知事の下で東京都福祉局長に就任。2002年より知事本局長を務め、2005年に退職。同年より東京ガス執行役員・エネルギーソリューション本部コーディネーター。2009年より政策研究大学院大学客員教授。 2014年、志村豊志郎の死去に伴う練馬区長選挙に自由民主党、公明党推薦で出馬し、元区議ら3人の対立候補を破り初当選した。
有村 正意(ありむら まさおき、1944年9月17日 - )… 有村 正意(ありむら まさおき、1944年9月17日 - )は、日本の官僚、実業家。 鹿児島県鹿児島市出身。1963年鹿児島県立甲南高等学校卒業。1968年に東京大学法学部を卒業し、郵政省に入省。電気通信局電気通信事業部長、近畿郵政局長、通信政策局長を歴任し、2000年6月に退職。 アンダーコンサルティング顧問を経て、2002年7月にNTTドコモ関西の顧問に就任し、2003年からNTTドコモに併合される2008年までに社長を務めた。 東京海上日動火災保険顧問、大阪商工会議所情報・通信部会長、関西経済連合会情報通信委員会副委員長なども歴任した。 2015年春に瑞宝中綬章を受章した。
志摩 れい子(しま れいこ、1943年〈昭和18年〉6月23… 志摩 れい子(しま れいこ、1943年〈昭和18年〉6月23日-)は、日本の政治家、フリーアナウンサー。鹿児島市議会議員(5期)。元鹿児島県議会議員。元MBC南日本放送アナウンサー。 鹿児島市出身。東京の共立女子短期大学を卒業。 1964年(昭和39年)に帰郷し、有島裕子として同年4月1日付けでMBC南日本放送へアナウンサーとして入社。 鹿児島市の丸屋デパートにおいて1963年(昭和38年)に完成した九州初のサテライトスタジオ「MBCサテライトスタジオ」では、ラジオ公開放送の度スタジオ前に人だかりができる状態であったが、その丸屋デパートにおいて1965年(昭和40年)、2周年記念イベントの公開ラジオ番組「ミュージック☆オンパレード」を行い『ユアヒットパレード』で人気を博していたアナウンサーの横山欣司と共に司会を務め、集まった多くの来場者からリクエスト曲の受け付けを行った。
中山 律子(なかやま りつこ、1942年〈昭和17年〉10月… 中山 律子(なかやま りつこ、1942年〈昭和17年〉10月12日 - )は、日本のプロボウラー。群馬県吾妻郡草津町生まれ、鹿児島県育ち。ライセンスNo.2の女子プロ1期生。通算タイトル33勝の永久シードプロで公認パーフェクト2回。社団法人日本プロボウリング協会(JPBA)会長職を4期8年務めた後、2012年3月より名誉会長。ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)名誉会長。鹿児島市立鹿児島女子高等学校卒業、愛称は「和製ジャンヌ・ダルク」。弟の中山徹は、プロゴルファーでPGAシニアツアー賞金王になったこともある。 中学2年生で鹿児島県の健康優良児コンテストで第1位に選出される。中学時代からバレーボールを始めて、高校時代にはバレーの選手として東京・熊本と2年連続で国民体育大会に出場。
井上 博允(いのうえ ひろちか、1942年(昭和17年)7月… 井上 博允(いのうえ ひろちか、1942年(昭和17年)7月5日 - )は、日本のロボット工学者。勲等は瑞宝中綬章。東京大学名誉教授、工学博士。鹿児島県鹿児島市出身。 1969年に計算機で制御される双動性を備えたマニピュレータの開発に世界で初めて成功、クランクの回転・ピンを穴に抜き差し・直接教示など、触覚と力覚を使う重要な動作機能を実現した。1970年電子技術総合研究所の知能ロボットプロジェクトに加わり、ハンドアイシステムで視覚フィードバックによる組み合わせ作業を実現、客員研究員で訪れたMITにおいてロボットによる千分の一インチのはめあい作業を実現する。 1978年東京大学助教授に着任し情報システム工学(JSK)研究室を開設、1984年教授。
有馬 利男(ありま としお、1942年5月31日 - )は、… 有馬 利男(ありま としお、1942年5月31日 - )は、日本の実業家。富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)代表取締役社長や、ジャパン・プラットフォーム共同代表理事、りそなホールディングス取締役指名委員会委員長、キリンホールディングス取締役、富士重工業(現:SUBARU)取締役などを歴任した。 鹿児島県鹿児島市出身。ラ・サール高等学校卒業後、1年間の大学受験浪人生活を経て、京都大学にも合格したが国際基督教大学に進学する。1967年に大学を卒業し、富士ゼロックス入社。2002年から富士ゼロックス代表取締役社長を務めた。2006年富士フイルムホールディングス取締役。2007年富士ゼロックス取締役相談役。
有川 節夫(ありかわ せつお、1941年4月 - )は、日本… 有川 節夫(ありかわ せつお、1941年4月 - )は、日本の情報科学者、第22代九州大学総長。第8代放送大学学園理事長。 鹿児島市出身。1960年鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校卒、1964年九州大学理学部数学科卒、1966年九州大学大学院理学研究科修士課程修了、九州大学理学部助手。1969年九州大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は 「Elementary formal systems and formal languages-simple formal systems(基本形式的体系と形式的言語-単純形式的体系)」。 京都大学数理解析研究所助手を経て、1970年九州大学理学部附属基礎情報学研究施設講師、1973年助教授、1985年教授、1996年九州大学システム情報科学研究院教授、九州大学評議員、1998年附属図書館長、2002年副学長、2005年定年となり特任教授、附属図書館長、2006年国立情報学研究所客員教授、2008年4月から2014年3月まで九州大学総長。
村松 喬(むらまつ たかし、1941年2月16日 - )は、… 村松 喬(むらまつ たかし、1941年2月16日 - )は、日本の生化学者・細胞生物学者である。 鹿児島市生まれ、名古屋市出身。糖タンパク質とミッドカイン(英語版)について研究し、顕著な成果を上げた。 若い研究者の時は、糖タンパク質の糖鎖を大きく切り出すエンドグリコシダーゼ(英語版)が存在することを発見した。このとき見出された酵素(Endo-D)は免疫グロブリンに結合する糖鎖の機能を明らかにするのに役立った。Endo-Dなどのエンドグリコシダーゼはアスパラギンに結合した糖鎖の生合成機構解明でも重要な役割を果たした。つづいて多分化能を持つEC細胞(ES細胞の原型)に、糖タンパク質結合性の巨大な糖鎖を発見した。
松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2… 松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2017年8月11日)は、鹿児島県鹿児島市出身のサッカー指導者。鹿児島実業高等学校サッカー部総監督。鹿児島県サッカー協会副理事長、九州サッカー協会常任理事、全日本ユース選手権大会実施委員。 市立甲南中学校時代にサッカーを始める。鹿児島市立鹿児島商業高等学校2年次の1958年に高校選手権に出場したが、2回戦で静岡県立藤枝東高等学校に敗れた。卒業後は一般企業に就職するが、知人の勧めもあり無線通信士を目指す様になった。上級資格試験まであと一歩の時に、鹿児島実業高校の教員に採用。当初は国家試験までの半年間の約束であったが、サッカー部の顧問も同時に引き受け、九州大会予選で優勝したことから本格的にサッカー指導者の道へ進む事になった。
平田 辰一郎(ひらた しんいちろう、1940年8月4日 - … 平田 辰一郎(ひらた しんいちろう、1940年8月4日 - )は、日本の政治家、通産官僚。元衆議院議員(1期)。薬丸自顕流顕彰会顧問 鹿児島県鹿児島市出身。東京教育大学附属駒場高等学校卒業。1965年、東京大学工学部卒業。通商産業省に入省。 1981年4月18日、敦賀原子力発電所1号機内の一般排水路から放射性物質漏えい事故が発生。日本原子力発電株式会社による「事故隠し」が社会問題になるが、このとき平田は原子力発電運転管理課長として事故に対処した。資源エネルギー庁技術課長、新産業技術研究所長などを歴任。日本の原発推進におけるキーマンであったと言われる。 1986年7月の第38回衆議院議員総選挙の旧鹿児島1区に無所属で立候補し落選。
永山 在紀(ながやま ありのり、1940年5月3日 - )は… 永山 在紀(ながやま ありのり、1940年5月3日 - )は、日本の実業家。南国殖産代表取締役社長を経て、同社代表取締役会長・グループCEO。元鹿児島県経営者協会会長。長崎自動車取締役、宮崎ガス取締役、日本ガス取締役、南日本銀行監査役。 鹿児島県鹿児島市出身。1959年鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校卒業。1965年一橋大学経済学部卒業。一橋大学ア式蹴球部出身。同年積水化学工業入社。1993年積水化学工業東京支店長。 1996年南国殖産取締役企画部長。1997年南国殖産常務取締役。1998年南九州サンクス代表取締役社長。2000年鹿児島県労働委員会委員。2004年から南国殖産代表取締役社長を務め、鹿児島市の景観まちづくり賞を受賞した南国センタービルの開発などを進めた。
寺園 喜基(てらぞの よしき、1939年12月1日 - )は… 寺園 喜基(てらぞの よしき、1939年12月1日 - )は、日本の神学者、九州大学名誉教授、日本バプテスト福岡城西キリスト教会協力牧師。 鹿児島県鹿児島市生まれ。ラ・サール高等学校在学中に受洗。西南学院大学神学部卒、九州大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボン大学大学院博士課程修了。1972年九州大学助手、75年教養部助教授、85年教授、94年大学院比較社会文化研究科教授、98年定年退官、名誉教授、西南学院大学神学部教授。西南学院院長、2010年退職。2012年西南学院理事長を退職。
長野 祐也(ながの すけなり、1939年6月27日 - 20… 長野 祐也(ながの すけなり、1939年6月27日 - 2018年6月25日)は、日本の政治家・政治評論家。鹿児島県議会議員、衆議院議員(3期)。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島玉龍高等学校第9回卒、同級生には元厚生労働大臣の尾辻秀久がいる。高校時代は弁論部で活動し、1957年10月に広島大学主催の全国高校弁論大会に出場、演題「高校生の使命に思う」で優勝。1963年、中央大学法学部政治学科卒業。 田中茂穂参議院議員秘書や鹿児島県議会議員、新自由クラブ鹿児島県連代表を経て、1980年第36回衆議院議員総選挙では鹿児島1区において自由民主党公認・中曽根派所属の新人候補として初当選、以降3期連続で務める。
加治屋 義人(かじや よしと、1938年4月22日 - 20… 加治屋 義人(かじや よしと、1938年4月22日 - 2018年11月12日)は、日本の政治家。 自由民主党所属の参議院議員(2期)、宏池会副会長、農林水産副大臣(第2次安倍内閣)、農林水産大臣政務官(第2次小泉改造内閣)鹿児島県議会議員(3期)、鹿児島市議会議員(4期)などを歴任。 鹿児島県鹿児島市吉野町出身。1957年鹿児島県玉龍高等学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校)卒業。高校では野球部に所属し、春の甲子園大会に出場。 1963年、参議院議員・谷口慶吉の秘書となる。1976年、鹿児島市議会議員選挙に立候補し初当選、以降4期務めた。1991年、鹿児島県議会議員選挙に自民党公認で鹿児島市選挙区より出馬し初当選。
下福 力(しもふく ちから、1938年1月16日 - 202… 下福 力(しもふく ちから、1938年1月16日 - 2026年2月1日)は、日本の音楽家、ピアニスト。鹿児島大学名誉教授。 旧満洲国生まれ、鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立甲南高等学校に1954年4月入学、1957年3月卒業。高校在学中は音楽部に所属し、西部合唱コンクールに3年連続で県代表として出場。東京学芸大学音楽科を卒業し、同大学専攻科を1962年に修了。小島喜久寿、西勇恕が恩師。 東京学芸大学附属竹早中学校教諭、東京学芸大学講師、鹿児島大学講師、鹿児島大学助教授を経て、1980年に鹿児島大学教育学部音楽科教授就任。1983年、鹿児島県芸術文化奨励賞を受賞。2018年春、瑞宝中綬章を受章。
三ツ井 康(みつい やすし、1937年(昭和12年)1月7日… 三ツ井 康(みつい やすし、1937年(昭和12年)1月7日 - 2021年(令和3年)5月3日)は、日本の実業家。フジテレビ副社長、共同テレビジョン社長、扶桑社社長などを歴任した。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島市長を1期務めた三ッ井卯三男の長男として生まれる。 鹿児島県玉龍高等学校、一橋大学社会学部を卒業。森園幸男(人事院事務総長)、森元順司(光文社常務)は、高校の同級生。 1960年4月、フジテレビに入社。1988年4月、取締役に選任され、のち常務。1980年代、編成局の主要ポストを歴任し、フジの全盛期を支え、1981年初頭には、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズを案出し、開局当初の「母と子のフジテレビ」にとって替わる大ヒット作品となった。
広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - … 広田 亮一(ひろた りょういち、1935年12月27日 - 2024年1月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞経営者。南日本新聞社社長を務めた。鹿児島県鹿児島市出身。 1958年に鹿児島大学文学部国文学科を卒業し、南日本新聞社に入社。1990年2月に取締役に就任し、1991年12月に常務、1993年12月に専務を経て、1995年12月から1999年12月までに社長を務めた。 2024年1月3日、特発性間質性肺炎のために死去。88歳没。
中村 浩道(なかむら ひろみち、1935年10月27日 - … 中村 浩道(なかむら ひろみち、1935年10月27日 - 2007年4月6日)は、元プロ野球審判員、野球解説者。鹿児島県鹿児島市出身。審判員袖番号は18(1977年初採用 - 1990年引退まで、※1991年以降はその年採用の山村達也が引き継ぐ)。 川内高校、早稲田大学を卒業後、大平鉱業、大洋鑿泉工業を経て1964年にパシフィック・リーグの東京審判部に入局し1990年の引退まで審判をつとめる。一軍2121試合に出場し、オールスターは3回出場した。1990年に定年年齢到達に基づき引退したあと数年間は東京審判部の指導員をつとめた。 張本勲が3000本安打を達成した試合で球審を務めた。 英語が堪能で、米国の野球事情に精通した審判員であった。
中馬 清福(ちゅうま きよふく、1935年8月22日 - 2… 中馬 清福(ちゅうま きよふく、1935年8月22日 - 2014年11月1日)は、ジャーナリスト。 鹿児島市生まれ。1960年旧・東京都立大学卒業、朝日新聞社入社。秋田・横浜支局を経て63年政治部員、1978年同部次長、1982年調査研究所主任、1984年編集委員、1986年論説委員、1990年大阪本社論説副主幹、1991年東京本社論説副主幹、1992年論説主幹代理、1994年論説主幹、1995年取締役、1996年常務大阪本社代表、1998年専務、2000年西部本社代表兼務、代表取締役専務・編集担当など。2001年退任。1983-84年マサチューセッツ工科大学・国際問題研究所客員研究員。朝日新聞社顧問、同アジア・ネットワーク会長。
諸熊 奎治(もろくま けいじ、1934年(昭和9年)7月12… 諸熊 奎治(もろくま けいじ、1934年(昭和9年)7月12日 - )は、日本の理論化学者、日本学士院会員。鹿児島県鹿児島市出身。男性。
折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年… 折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年9月27日)は、映画監督、演出家、テレビプロデューサー、UFO研究家、発明家。アイデア開発研究所代表、発明協会会員。鹿児島県鹿児島市出身。千葉大学工学部工業化学科(写真映画専攻)卒業。 1958年に東映に入社し、助監督として配属された東映京都撮影所を経て、1965年より東映東京制作所に所属する。『丸出だめ夫』・『悪魔くん』・仮面ライダーシリーズなど、特撮テレビドラマの監督として活躍した後、1978年には東映テレビ事業部プロデューサーに昇進し、スーパー戦隊シリーズの『バトルフィーバーJ』からはプロデューサーとして東映キャラクター路線を支える。
山口 定(やまぐち やすし、1934年1月2日 - 2013… 山口 定(やまぐち やすし、1934年1月2日 - 2013年11月17日)は、日本の政治学者。専門は、政治学、とくに戦間期ドイツを中心としたヨーロッパ政治史。大阪市立大学名誉教授、立命館大学名誉教授。
児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家… 児浦 純大(こうら すみなが、1934年-)は、日本の洋画家。鹿児島県を中心に活動。 鹿児島県鹿児島市出身。1950年に鹿児島県立甲南高等学校へ入学し、美術部に所属。同年秋に鹿児島県甲南高校美術部と鹿児島玉龍高等学校美術部で鹿児島県高校美術展を旗揚げし、2年後の第3回展で児浦は最高賞を受賞。1953年、鹿児島県甲南高校を卒業。美大進学を親に反対されて鹿児島大学農学部に進学し、農業化学を専攻。1957年に鹿児島大学を卒業し、一度は化学教師になったが、夢を捨てきれず28歳のときに決心して絵画へ転向。教壇に立ちながら武蔵野美術短期大学の公開講座(通信教育)を受けて美術教員の資格を得た。 鹿屋市立百引中学校、鹿児島県立串木野高等学校、鹿児島県立鹿児島南高等学校で美術教諭を務める。
大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7… 大嵩 禮造(おおたけ れいぞう、1934年-2003年1月7日)は、日本の洋画家。独立美術協会会員、鹿児島市立美術館館長、鹿児島大学名誉教授。同大教授のほか、鹿児島県美術協会会長、南日本美術展審査員を務め、地元の美術振興と後進の育成に貢献。 鹿児島県鹿児島市出身。1954年鹿児島県立甲南高等学校卒業。高校では鮫島梓が指導する美術部に所属。高校2年生で南日本美術展に初入選。 1958年鹿児島大学教育学部美術科卒業。1959年の第14回南日本美術展で「花の碑」が県知事賞(最高賞)を受賞。初の鹿児島県海外美術派遣留学生となり翌年渡仏しパリ留学。審査委員長海老原喜之助の紹介状を持って藤田嗣治のもとを訪ね、時代の潮流でなやむ姿を目の当たりにして、巨匠がこうなのだから自分は自分なりの絵を描くしかないと感じる。
海老原 遙(えびはら はるか、男性、1933年6月10日 -… 海老原 遙(えびはら はるか、男性、1933年6月10日 - 2018年8月9日)は、日本の教育学者、熊本大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市生まれ。東京大学教育学部卒、1966年同大学院博士課程満期退学。ロンドン大学客員研究員、鹿児島県立短期大学助教授、熊本大学教養部教授、1992年「教育と労働の結合にかんする思想史的考察-クループスカヤ「国民教育と民主主義」の読解試論」で東大教育学博士、1994年「帝制ロシアにおける教育政策の歴史的展開-ピョートル一世からアレクサンドル一世まで」で立正大学文学博士、1997年定年、名誉教授。叙正四位、瑞宝中綬章追贈。
枝元 賢造(えだもと けんぞう、1933年4月28日 - 2… 枝元 賢造(えだもと けんぞう、1933年4月28日 - 2004年6月22日)は、日本の実業家。サッポロビールの社長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、1955年に東京大学法学部を卒業し、日本麦酒に入社。ビール業界で初めての地域限定商品「クラシック」の開発に関わり、1987年3月に取締役に就任し、1990年3月に常務、1991年3月に専務、1993年3月に副社長を経て、1995年3月に社長に就任。品質シートや定温輸送車を他社よりも先駆けて導入するなど品質にこだわる同社の理念を実践していった。また、サッポロクラシックの販売促進に力を入れ、そのサッポロクラシックの一本当たり1円をコンサドーレ札幌に寄付するキャンペーンを行った。
野呂 圭介(のろ けいすけ、本名:板元 義典、1933年4月… 野呂 圭介(のろ けいすけ、本名:板元 義典、1933年4月3日 - )は、日本の俳優・タレント・ローカルタレント・陶芸家。鹿児島県鹿児島市出身。 鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校卒業。 俳優を志して上京し、1958年に『踏みはずした春』(日活)でデビュー以後、脇役として日活のスクリーンで活躍した。 邦画産業が斜陽化した1969年以降、僚友の宍戸錠と共に、テレビ番組『元祖どっきりカメラ』(NTV系)に転出。長髪にGパン、デニムベストのヒッピー風スタイルで赤ヘルを被り、ストーリーの最後に「どっきりカメラ NTV」と書かれたプラカードを掲げて現れては、だまされた相手が怒って逆襲し殴られる役(赤ヘルはこの目的)で、19年間にわたって人気を博す。
長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年〈昭和7年〉9月26… 長浜 忠夫(ながはま ただお、1932年〈昭和7年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉11月4日)は、日本のアニメ監督、舞台演出家。鹿児島県鹿児島市出身。あおいあきらのペンネームで作詞も手がけた。 中学生時代から演劇部で活動。鹿児島放送劇団に所属し、演出を担当する。日本大学芸術学部演劇学科に進学。舞台芸術学院、キリン座、青年俳優クラブ、劇団民藝(宇野重吉に師事)で演劇を学びながら、演劇雑誌『テアトロ』編集部でアルバイトをする。 1960年代前半、人形劇団ひとみ座の演出部に所属していた頃、テレビの人形劇(NHK『ひょっこりひょうたん島』、TBSテレビ『伊賀の影丸』)の演出を担当。その後、ひとみ座の同期で『伊賀の影丸』の製作者でもあった藤岡豊が設立したアニメ制作会社東京ムービーのアニメ制作を担当していたAプロダクションへ入社する。
柳田 邦夫(やなぎだ くにお、1932年3月7日 - 198… 柳田 邦夫(やなぎだ くにお、1932年3月7日 - 1988年3月1日)は、日本の編集者・ジャーナリスト。筆名に小川晴夏(春香)、小原壮八。日本ジャーナリストクラブ会員。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、ラ・サール高等学校卒業。1959年、学習院大学政経学部政治学科卒業。大学時代には囲碁部に所属し、のちに囲碁アマ四段、将棋アマ二段となる。 中央公論社に入社。「中央公論」「週刊公論」「暮しの設計」「経営問題」「小説中央公論」の雑誌編集に携わったあと、1962年「思想の科学」天皇制特集号事件で労組委員長として闘争し。1972年に退職。のちフリーのジャーナリスト、編集者として活躍した。
稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21… 稲盛 和夫(いなもり かずお、1932年〈昭和7年〉1月21日 - 2022年〈令和4年〉8月24日)は、日本の実業家、技術者。京セラや第二電電(現・KDDI)の創業者であり、京セラ社長・名誉会長を歴任した他、後年には経営破綻した日本航空の会長に就任し、同社の経営再建を担った(後に日本航空名誉会長)。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長。 妻の朝子は、禹長春の四女である。 1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。
小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 … 小倉 基(おぐら もとい、1931年(昭和6年)9月28日 - 2015年(平成27年)11月19日)は、日本の政治家。世界連邦東京都渋谷区連合会会長。 東京都選挙管理委員会委員長、東京都渋谷区長(2期)、東京都議会議員(5期)、渋谷区議会議員(2期)を務めた。 鹿児島県鹿児島市生まれ。1948年に旧制高梁中学(現在の岡山県立高梁高等学校)を卒業、國學院大學予科を経て、國學院大學へ入学する。その後、同大学政経学部卒業し、岡崎英城衆議院議員の秘書を務める。 1959年、渋谷区議会議員選挙に出馬し、初当選。区議は2期務める。1973年、東京都議会議員選挙に渋谷区選挙区から出馬し、当選。東京都議会議員を5期20年の長きにわたり務め、1988年には藍綬褒章受章。
木原 啓吉(きはら けいきち、1931年1月4日 - 201… 木原 啓吉(きはら けいきち、1931年1月4日 - 2014年)は、日本のジャーナリスト、環境学者。千葉大学名誉教授 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1950年第七高等学校文科卒業。1953年東京大学法学部卒。朝日新聞社に入り、盛岡支局勤務から始め、小繋事件を取材、のち公害キャンペーンと環境問題を担当、編集委員をへて、1981年千葉大学教養部教授となる。1996年定年退官、江戸川大学教授。環境庁の自然環境保全審議会委員、ナショナル・トラストを進める全国の会幹事長。
久永 勝一郎(ひさなが かついちろう、1931年 - )は、… 久永 勝一郎(ひさなが かついちろう、1931年 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(男子シングル)。フィギュアスケート審判員。実業家。元日本スケート連盟会長。元国際スケート連盟副会長。元日本メディセル社長。元日本レダリー社会長。 鹿児島県鹿児島市出身。選手時代は1952年の全日本ジュニア選手権で3位に入る等の成績を残した。1955年、明治大学商学部卒業。 選手引退後は、外資系製薬会社に就職するとともに日本スケート連盟に所属し、フィギュアスケートの国際審判員を務める傍ら1988年のカルガリーオリンピック日本選手団監督、1992年のアルベールビルオリンピック日本選手団本部役員などを歴任した。
瀬川 洋一郎(せがわ よういちろう、1930年〈昭和5年〉5… 瀬川 洋一郎(せがわ よういちろう、1930年〈昭和5年〉5月27日 - 2005年〈平成17年〉7月12日)は、鹿児島県を拠点に活動した日本のローカルタレント。MBCタレント第1号である。本名、村川 巖(むらかわ いわお)。鹿児島県鹿児島市出身。 1978年(昭和53年)、MBC南日本放送の放送功労賞を受賞。MBCからは他にも1961年(昭和36年)には編成局長賞を、1970年(昭和45年)には社長賞を受賞。1972年(昭和47年)には加根又から感謝状を贈られる。1995年(平成7年)、薩摩狂句の普及や鹿児島弁の伝承などに貢献したとして、瀬川洋一郎が代表のMBCタレントグループが鹿児島県芸術文化奨励賞を受賞した。
金澤 昭夫(かなざわ あきお、1930年4月19日 - 20… 金澤 昭夫(かなざわ あきお、1930年4月19日 - 2009年2月14日)は、日本の水産学者。専門は水産化学、水族栄養化学。鹿児島大学名誉教授、日本水産学会名誉会員、学位農学博士。 鹿児島県鹿児島市出身。1951年(昭和26年)3月旧制鹿児島水産専門学校(鹿児島大学水産学部の前身)水産製造科卒業。1952年(昭和27年)6月新制鹿児島大学水産学部助手に着任。論文「海藻のビタミンB群に関する研究」により、1962年(昭和37年)3月31日九州大学から農学博士の学位を授与される。1964年(昭和39年)5月、「藻類の成長を促進し品質を向上せしめる方法、海苔の養殖剤の製造法」に対して昭和39年度全国発明表彰発明協会会長賞を授与される。
上野 喜一郎(うえの きいちろう、1929年 <昭和4年> … 上野 喜一郎(うえの きいちろう、1929年 <昭和4年> 11月12日 - 2008年 <平成20年> 1月8日)は、日本の経営者。南国殖産社長を務めた。位階は従五位。 鹿児島県鹿児島市出身。1953年に慶應義塾大学経済学部を卒業。東京貿易での勤務を経て、1956年11月に南国殖産取締役に就任し、1971年6月に社長に就任。1993年には鹿児島讀賣テレビ社長に就任。 2002年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2008年1月8日に腎不全のために死去。78歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 上野喜左衛門(南国殖産代表取締役社長や参議院議員などを歴任)は父。永山在紀(元南国殖産代表取締役社長)は従弟。
フランキー堺(、1929年〈昭和4年〉2月13日 - 199… フランキー堺(、1929年〈昭和4年〉2月13日 - 1996年〈平成8年〉6月10日)は、日本のコメディアン、俳優、ジャズドラマー、司会者。 鹿児島県鹿児島市出身。本名は堺 正俊()。慶應義塾大学法学部卒業。 鹿児島市車町(現在の上本町の一部)出身。父親は鹿児島の士族の家系の出身。明治・大正時代に活躍し、映画『ノンキナトウサン』の主役としても知られる曾我廼家五九郎とは親戚に当たる。 小学校在学中はボーイソプラノの歌い手として注目され、合唱団としてNHK鹿児島放送局のラジオ番組に出演した。 一家で東京市大森区池上へ引越し、池上第二小学校、私立麻布中学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業。中学時代の同級生には小沢昭一、加藤武が、他の同級生にはなだいなだ、内藤法美、仲谷昇、大西信行らがいた。
諏訪 兼位(すわ かねのり、1928年5月15日 - 202… 諏訪 兼位(すわ かねのり、1928年5月15日 - 2020年3月15日)は、日本の地球科学者。専門は岩石学・地質学。学位は、理学博士(名古屋大学・論文博士・1962年)(学位論文「領家変成帯の岩石学的及び地質学的研究」)。名古屋大学名誉教授、日本福祉大学名誉教授。日本アフリカ学会元会長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)、第七高等学校造士館 (旧制)を経て、1951年東京大学理学部地質学科卒業。 1962年、学位論文「領家変成帯の岩石学的及び地質学的研究」で、名古屋大学より理学博士の学位を取得。 その後、名古屋大学理学部地球科学教室教授、名古屋大学理学部学部長、日本福祉大学情報社会科学部学部長、日本福祉大学学長を歴任。
大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - … 大河内 昭爾(おおこうち しょうじ、1928年3月7日 - 2013年8月15日)は、日本の文芸評論家、武蔵野大学名誉教授。専攻は日本近代文学の研究、特に日本近代文学への仏教の影響(他力思想の影響について)及び近代日本文学と風土との関わりについての研究。 鹿児島県鹿児島市生まれ(本籍宮崎県都城市)。 丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』に所属して評論を書いた。同じ雑誌の吉村昭とは親友関係。 1981年から2008年12月号まで雑誌『文學界』の同人誌評を担当し、現代文学に取り組む全国の多くの文学愛好者への指導的役割、作品誕生への励ましを続け、新たな書き手として村田喜代子ら多くの作家の誕生を手助けした。 雑誌『食食食』(みき書房)、『食の文学館』(紀伊国屋書店)など文学と食を結ぶ季刊誌を主宰して、風土と食の文学の研究を20年以上継続。
有馬 万里代(ありま まりよ、1928年2月22日-、本名・… 有馬 万里代(ありま まりよ、1928年2月22日-、本名・有馬マリ子)は、日本の音楽家、声楽家(アルト歌手)。鹿児島大学名誉教授。鹿児島オペラ協会会長を長年務める。 鹿児島市出身。幼少期から歌が好きで、ラジオにしがみついて三浦環が歌うプッチーニの蝶々夫人を聴いていた。1940年に鹿児島県立第二高等女学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)へ入学。高等女学校3年生の時に田中義人(鹿児島師範学校教員)に弟子入りして、夜道を母に守られながらレッスンに通う。東京音楽学校(後の東京藝術大学)に合格し、師範科で四家文子に師事して1948年に卒業。同年鹿児島師範学校で教職に就く(同校は翌年の学制改革で新制鹿児島大学に包括される)。
海江田 順三郎(かいえだ じゅんさぶろう、1928年 - 2… 海江田 順三郎(かいえだ じゅんさぶろう、1928年 - 2025年5月5日)は、日本の実業家。高島屋開発社長、相談役、鹿児島市教育委員長、鹿児島県日中友好協会会長、名誉会長等を歴任。 鹿児島県鹿児島市出身。旧制の鹿児島商業学校(現鹿児島商業高等学校)から転校して、鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入り1947年卒業。旧制中学生時代の1945年1月から勤労動員され、第4学年に進級した4月には長崎県佐世保市の海軍工廠へ動員される。1945年6月に陸軍航空士官学校入校の二次試験を受け(敗戦により学校解散のため入校せず)、熊本市(熊本陸軍幼年学校)が試験会場だったため、佐世保市にすぐ戻らず鹿児島市潮見町(汐見町)朝日通りの実家に帰省したところ、6月17日夜の鹿児島大空襲に遭遇する。
飯田 テル子(いいだ てるこ、1926年12月5日 - 19… 飯田 テル子(いいだ てるこ、1926年12月5日 - 1991年8月12日)は、日本の女優。鹿児島県鹿児島市出身。1950年、綜芸プロダクション所属。1956年、東京映画入社。1960年、東京俳優生活協同組合所属。本名同じ。旧芸名は飯田 てる子。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月… 新盛 辰雄(しんもり たつお、1926年〈大正15年〉11月15日 - 2025年〈令和7年〉7月24日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(5期)。 鹿児島県鹿児島市出身。1943年(昭和18年)、鹿児島実業学校(現在の鹿児島実業高等学校)土木科卒。翌年、鹿児島鉄道に入社。1948年(昭和23年)社会党に入党し、国労鹿児島地本書記長、同執行委員長を経て、鹿児島県総評議長を3期務める。1976年の総選挙で鹿児島1区から立候補して初当選。通算5期務めた。1993年の総選挙で落選し、政界から引退した。 1997年(平成9年)4月の春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する。 2025年(令和7年)7月24日14時27分、老衰のため、鹿児島市内の病院で死去した。
光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 20… 光吉 健次(みつよし けんじ、1925年3月15日 - 2000年3月8日)は、日本の建築家、都市計画学者。九州大学名誉教授。工学博士。社団法人日本都市計画学会九州支部初代支部長、財団法人福岡都市科学研究所初代理事長。 鹿児島県鹿児島市生まれ。「地方都市の計画と設計における基本的考察」により工学博士の学位を取得(東京大学、1971年2月18日)。 九州大学工学部建築学科の創設期に、九州大学での講義を兼務していた丹下健三(東京大学助教授、当時)の後を受けて助教授として赴任し、定年退官まで同学科の発展に寄与した。 丹下研究室時代には、倉吉市庁舎(1956年、鳥取県倉吉市)の設計等を担当した。九州大学では、建築学教室、九州大学五十周年記念講堂、工学部七十五周年記念庭園等を設計し、キャンパスの整備に貢献するとともに、九州各地において数多くの学校建築、商業建築、公共建築等を手がけた。