和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日… 和田 静夫(わだ しずお、1926年(大正15年)10月1日 - )は、日本の労働運動家、政治家。元参議院議員(3期)、元衆議院議員(1期)。 石川県金沢市生まれ。金沢一中、専修大学法学部を経て、1957年(昭和32年)同大大学院法学研究科私法学専攻を修了。東京都庁に入り新宿区役所に勤務。全日本自治団体労働組合組織部長などを経て、1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙で日本社会党から全国区に立候補し初当選(以後10回・12回と連続3選)。以降3期目の任期終了直前まで務めた。1970年(昭和45年)11月には参議院決算委員会で、自民党と産経新聞の癒着について質している。 1986年(昭和61年)7月6日執行の衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補。
宅間 英夫(たくま ひでお、1926年9月16日 - 197… 宅間 英夫(たくま ひでお、1926年9月16日 - 1979年4月26日)は京都府出身の部落解放運動家。京都こどものとも社社長。部落解放同盟京都府連南丹地協議長の国府泰造から「兄ちゃん」と呼ばれる存在だった。 京都府船井郡富本村(現・南丹市)生まれ。父は郡是製糸社員。 京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)時代から松居直や木島始と交際があった。松山高等学校 (旧制)の受験に失敗し、海軍通信学校に入隊したが1ヶ月で敗戦を迎える。 1946年、京都人文学園入学。1949年、同志社大学新聞学科に聴講生として学びつつ郷里の八木町青年団で活動。このころは朝田善之助や日本共産党の山林解放闘争のニセ情報を警察に200円で売ってなぶる計画の軍師だった。
北山 郁子(きたやま いくこ、1926年7月25日 - )は… 北山 郁子(きたやま いくこ、1926年7月25日 - )は、愛知県の渥美半島(現在の田原市)において地域医療を展開し、性教育活動や反公害運動に取り組んだ医師(産婦人科医)、社会運動家。「女医の診察室から 渥美半島に生きて」、「生と性、女はたたかう」などの著書のほか、歌人としては個人歌集「鄙の半島」がある。 富山県富山市土居原町に、農民運動家であり後に富山市会議員、社会党選出衆議院議員を歴任した矢後嘉蔵の長女として誕生。1943年に富山県立富山高等女学校を卒業し、東京女子医学専門学校に入学。父が失職し学費を工面できなかったため、1946年、父の友人である林良一・ミツ夫妻の養女となった。翌年、日本共産党に入党。
田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日… 田沼 肇(たぬま はじめ、1926年〈大正15年〉4月19日 - 2000年〈平成12年〉8月9日)は、日本の社会学者・社会運動家。 群馬県桐生市生まれ。本籍東京市(現港区)。武蔵高等学校卒、1948年東京帝国大学経済学部卒、商工省調査統計局勤務。1950年法政大学大原社会問題研究所勤務、1963年同社会学部助教授、1964年教授。1970-1971、1978-1981年社会学部長。1993年退職、名誉教授。1983年原水爆禁止日本協議会代表理事。 1987年に発病し、1995年パーキンソン症状を伴う進行性核上性麻痺と診断される。1993年東京都重度心身障害者手当を申請するが、判定医の診断により却下される。
内田 宜人(うちだ よしと、1926年4月 - 2016年)… 内田 宜人(うちだ よしと、1926年4月 - 2016年)は、昭和から平成時代の労働運動家。中学校教師。元東京都教職員組合(都教組)墨田支部長。 鳥取県で生まれ、東京で育つ。東京府東京市泰明尋常小学校、東京府立第一中学校卒。1944年第一高等学校の受験に失敗し、鳥取県の国民学校の助教となる。1945年徴兵。 1952年早稲田大学第一文学部仏文科卒業。同年より東京都墨田区の公立中学校教員。1987年定年退職。この間、東京都教職員組合(都教組)墨田支部長、都教組本部執行委員、東京地方労働組合評議会(東京地評)常任幹事、東京都同和教育研究協議会会長、全国同和教育研究協議会副委員長を務め、勤評反対闘争、主任制反対闘争、部落解放教育、平和教育などに熱心に取り組んだ。
中山 英一(なかやま えいいち、1926年3月26日 - 2… 中山 英一(なかやま えいいち、1926年3月26日 - 2010年7月8日)は長野県出身の部落解放運動家。 長野県南佐久郡栄村(現・佐久穂町)の被差別部落に生まれる。父は小作農兼ぞうり売りだった。生家は地元の部落40戸の中で立場も経済力もナンバー2だったという。 小学校に入って間もなく、被差別民としての出自を知る。郷里の小学校を出てから東京の上級校に入ったが、当時は部落出身と知られることを恐れ、当時の苗字(被差別部落に固有の三文字の稀姓)や郷里の住所をたびたび偽っていた。「私は様々な名字を使った。『近衛』と『徳川』は一回だけ使ったが、比較的多用したのは『井出』と『篠原』、これは村の医者の名字で、次いで『倉沢』と『阿部』、これは村長の名字で、三番目は『木内』、『中山』、これは地主の名字であった。
肥後 亨(ひご とおる、1926年〈大正15年〉3月25日 … 肥後 亨(ひご とおる、1926年〈大正15年〉3月25日 - 1964年〈昭和39年〉3月8日)は、日本の政治活動家。広義の行動右翼に該当するが任侠系人士ではない。東京商科大学(現・一橋大学)中退。 1950年代から1960年代にかけて、各地の選挙に出馬して奇怪なパフォーマンスを繰り広げた右翼活動家である。個人的な信念によって選挙に出馬しているように見えたが、実際は政界の大物から資金の提供を受け、革新陣営に対する選挙妨害を目的とした政治ゴロであった。保守・革新の対立する時代(55年体制)において、「権力の選挙」「金力の選挙」の象徴的人物。 最終的に、1963年4月のニセ証紙事件に関連して発覚した「はがき横流し事件」で1963年5月に逮捕された。
工藤 良平(くどう りょうへい、1926年(大正15年)3月… 工藤 良平(くどう りょうへい、1926年(大正15年)3月14日 – 1986年(昭和61年)9月10日)は、昭和期の農林技官、労働運動家、政治家。衆議院議員、参議院議員。 大分県直入郡阿蘇野村(大分郡阿蘇野村、庄内村、庄内町を経て現由布市庄内町阿蘇野)で生まれる。1943年(昭和18年)大分県立三重農学校(のちの大分県立三重農業高等学校)を卒業。阿蘇野小学校助教を務め、その後徴兵され陸軍少尉となる。 戦後、農業に従事し青年団活動を行う。1950年(昭和25年)農林省食糧庁に入庁し大分食糧事務所に配属され、その後、農林技官となる。労働運動に加わり、全食糧労働組合中央本部役員、全農林労働組合大分支部長、同中央本部執行委員、大分県労働組合評議会事務局長、同副委員長、大分県地方労働委員会委員、同農政審議会委員などを務めた。
本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 20… 本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 2014年1月30日)は、日本出身の測量技師、慈善家及びギニア国地図作成事業に尽力した人物である。彼のギニアに対しての慈善活動は、ギニアの発展に大きく貢献し、彼の死後にはギニアの最高位の勲章・コラティエ勲章がギニア政府により授与された。彼は1977年から1982年のギニアの基本地図作成事業以外にも、ギニアの難民への慈善活動や、寄付活動を生涯かけて行い、NGOギニア会の初代会長に任命された人物である。 長野県飯田市(旧名・鼎村)の農家の家系で生まれる。8人兄弟の3男で、兄弟全員男という珍しい兄弟構成だった。幼い頃は体を動かすことが大好きで、木登りや水泳などをしていたという。
丸山 康雄(まるやま やすお、1926年 <大正15年> 2… 丸山 康雄(まるやま やすお、1926年 <大正15年> 2月26日 - 1994年 <平成6年> 6月25日)は、昭和時代の労働運動家。位階は従四位。 札幌市出身。1943年(昭和18年)、北海道庁立札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)卒業。1948年(昭和23年)に北海道庁に入庁し、労政課に勤務した。1955年(昭和30年)全道庁労組書記長、1975年(昭和50年)全日本自治団体労働組合(自治労)委員長、1976年(昭和51年)日本労働組合総評議会(総評)副議長を歴任。1981年(昭和56年)に第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員を務める(2年間)。労働界からは総評副議長の丸山と、同盟副会長の金杉秀信の2人が委員となった。
小島 恒久(こじま つねひさ、1926年〈大正15年〉1月2… 小島 恒久(こじま つねひさ、1926年〈大正15年〉1月20日 - 2019年〈平成31年〉3月2日 )は、日本の経済学者、社会運動家、歌人。九州大学名誉教授、元社会主義協会代表・顧問、元労働者運動資料室理事長。正四位。 1926年佐賀県生まれ。1945年長崎経済専門学校在学中に原爆に被爆。1950年九州大学経済学部卒業、続いて大学院特別研究生となり向坂逸郎に師事。1955年より九州大学教養部に勤務、経済学を講じる。講師、助教授、教授を務め、1989年に定年で退官。続いて熊本学園大学教授となり、1996年まで勤務し再度の定年で退職。 九州大学在職中、三井三池炭鉱・四山鉱の労働者教育に関わるなど、研究、社会活動の両面で向坂逸郎の志を積極的に継承する。
横山 十四男(よこやま としお、1925年11月26日 - … 横山 十四男(よこやま としお、1925年11月26日 - 2019年)は、日本の郷土史家、環境運動家。ラテンアメリカ美術史家の横山和加子は娘。 長野県上田市仁古田生まれ。1943年、旧制上田中学校(長野県上田高等学校)卒業、陸軍経理学校入学。1945年、敗戦により同校は解散、東京高等師範学校文科に転入。1947年、東京文理科大学国史学科入学。1950年、同学科卒業。1950年、横浜市立港高校(定時制)教諭。1956年、東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)教諭。1980年、筑波大学助教授。1984年「義民伝承の研究」で筑波大学文学博士。1985年、筑波大学教授。1989年、定年退官、東京家政学院大学教授。
宇佐美 忠信(うさみ ただのぶ、1925年10月31日 - … 宇佐美 忠信(うさみ ただのぶ、1925年10月31日 - 2011年11月10日)は、日本の労働運動家。ゼンセン同盟会長、富士社会教育センター理事長、日本会議代表委員などを歴任した。位階は従三位。 東京都出身。高千穂経済専門学校(現高千穂大学)を卒業。 1946年、富士紡績に入社。世界民主研究所で鍋山貞親の反共主義に影響を受け、全繊同盟の結成に参加した[要出典]。 1971年、全繊同盟会長に就任。1980年、全日本労働総同盟会長に就任。1987年、全日本労働総同盟を解散し、全日本民間労働組合連合会(連合)の結成により副会長に就任した[要出典]。 国際自由労連副会長、国際労働財団理事長、富士社会教育センター理事長、日本会議代表委員などを務めた。
田中 里子(たなか さとこ、1925年10月7日-2007年… 田中 里子(たなか さとこ、1925年10月7日-2007年3月28日)は、市民運動家、元全国地域婦人団体連絡協議会事務局長。 東京都京橋生まれ。1945年実践女子専門学校卒。在学中は学徒動員で「風船爆弾」を作るも、東京大空襲の影響で世田谷に移住する。 生田花世の松花塾で詩や短歌を習い、山高しげりのもとで1952年から全地婦連事務局に勤め、1963年、事務局長(1986年まで)。国民生活審議会委員。原水爆禁止の3団体(原水禁、原水協、市民運動)の統一行動に挺身した。 1978年、第1回国連軍縮特別総会において日本代表として演説した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
土師 政雄(はじ まさお、1925年9月27日 - 1998… 土師 政雄(はじ まさお、1925年9月27日 - 1998年6月9日)は、日本の政治運動家(市民運動)、予備校講師(数学)、評論家。野見隆介名義での著作もある。東京大学工学部卒業。 小田実、吉川勇一らとともに「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)で活動していたことでも知られる。また水道方式をめぐる算数・数学教育の評論、活動家としても有名。 同時期に代々木ゼミナール、河合塾、駿台予備学校の三大予備校を併任で教壇に立った稀有な経歴をもち、通信添削Z会の数学主任としても受験指導を行った。また、長年にわたり、代ゼミで「ベーシック数学ゼミ」を担当し、旺文社の「大学受験ラジオ講座」の講師も務めた。旺文社の『基礎問題精講』『標準問題精講』シリーズや、増進会出版社の『トレーニング』シリーズ、アレフ社の『微積分演習』『代数幾何演習』『行列』『積分』『整数』などを執筆。
山口 健二(やまぐち けんじ、1925年8月15日 - 19… 山口 健二(やまぐち けんじ、1925年8月15日 - 1999年6月12日)は、日本の政治活動家、アナキスト、作家。日本社会党と日本共産党に双方に入党し、共産党では志田派として中核自衛隊にも参加したが、後に両党から除名された。 1925年横浜市に生まれる。横浜第二中学校卒業後、1942年東京美術学校油画科入学、1943年第一高等学校文科入学、1944年旅順高等学校入学。旅順高等学校での学生生活が関東軍指揮下であることに反発し、朝鮮人の友人三人とともに脱走し、満州、朝鮮半島を南下し、日本本土に戻る。戦時下には太宰治に私淑し、1942、3年頃太宰の自宅を訪問し面会。 長野県で終戦を迎え、第一次日本アナキスト連盟に参加。
金杉 秀信(かなすぎ ひでのぶ、1925年2月24日 - )… 金杉 秀信(かなすぎ ひでのぶ、1925年2月24日 - )は、日本の労働運動家。元全国造船重機械労働組合連合会(造船重機労連)中央執行委員長、全日本労働総同盟(同盟)副会長、全日本民間労働組合協議会(全民労協)副議長。勲三等旭日中綬章。 東京・向島生まれ。第一寺島高等小学校卒業後、1939年石川島造船所(現・IHI)に養成工として入社。石川島造船所青年学校卒。戦時中に右翼運動家の穂積五一、元共産党員の川﨑堅雄から影響を受けた。敗戦時に退職して家業を手伝うが、かつての仲間から共産党に対抗するため復帰を要請され、1946年に職場復帰。1948年全造船石川島支部執行委員、組織部長。占領政策を批判したかどでGHQに呼び出され、半年で組合役員を辞任。
遠藤 忠夫(えんどう ただお、1925年1月19日 - 20… 遠藤 忠夫(えんどう ただお、1925年1月19日 - 2008年11月24日)は、日本の社会運動家、書店経営者。 宮城県で生まれ、仙台高等工業学校を卒業して国鉄仙台鉄道局で勤務した。退職して日本共産党へ入党し、宮城県委員長などを経て党本部財政部で勤務したが1950年の党分裂時に除名されて離党した。1950年に東京神田でウニタ書舗(ウニタ書店とも)を創業して左翼や新左翼系の出版物を専門的に扱う書店として知られ、1970年代以降は経営が不振で1982年9月20日に閉店した。 ウニタ書舗以降、重信房子と個人的な信頼関係による日本赤軍の連絡役として知られ、北朝鮮と独自の連絡手段を有するとされた。1991年に拉致被害者家族の一部が予定した実名会見を中止するよう働きかけた、と北朝鮮による拉致被害者家族連絡会は公表した。
田畑 ヨシ(たばた ヨシ、1925年〈大正14年〉1月6日 … 田畑 ヨシ(たばた ヨシ、1925年〈大正14年〉1月6日 - 2018年〈平成30年〉2月28日)は、日本の岩手県宮古市田老地区出身の津波防災教育活動家。 昭和三陸津波体験をもとに紙芝居『つなみ』を自作し、地区内外の児童に講演で津波の恐怖を語り続け、地域の防災教育に貢献してきた。東日本大震災を機に、30年以上にわたる彼女の地道な啓発活動が脚光を浴び、「津波の語り部」として全国的に知られることになった。社団法人・全国海岸協会による「海岸功労者」の2006年度表彰者の1人。 岩手県下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)に生まれる。幼少時からかつて明治三陸地震の大津波を体験した祖父より、津波の恐ろしさを毎晩のように言い聞かされながら育った。
坂本 義和(さかもと よしかず、1925年 - 没年不詳)は… 坂本 義和(さかもと よしかず、1925年 - 没年不詳)は、日本の社会運動家。「引揚を記念する舞鶴全国友の会」理事長、関西蒲江郷友会理事および教育報道新聞神戸市局長を歴任した。大分県蒲江町出身。 1945年(昭和20年)8月の終戦時、旧満州奉天第三方面軍司令部に所属していた。シベリア抑留(パフタラル収容所(現・ウズベキスタン)、カラカンダ収容所(現・カザフスタン)を経て、1948年(昭和23年)9月、舞鶴港に復員した。 帰国後は第百生命保険に勤務し、1985年(昭和60年)に定年退職する。 2006年には劇団四季がシベリア抑留を題材として上演した『ミュージカル異国の丘』の公演に招待された。
石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 -201… 石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 -2017年2月24日)は、日本の社会主義運動家。社会党右派のイデオローグ。ソ連(ロシア)、中華人民共和国、韓国との文化交流、友好親善に努めている。出版社の自由社社長。日本対外文化協会副会長。日本出版協会理事長。STV-Japan取締役。「萠」は俗字で、人名漢字を使用して「石原萌記」と表記されることも多い。 山梨県甲府市百石町の染物店の二男として生まれる。1944年、早稲田大学在学中に陸軍に応召。1945年、中国・漢口の第6方面軍司令部参謀部で終戦を迎える。 1946年、上海から博多に復員。その後、東洋大学史学科で考古学を学ぶ。日本共産党員だった渡辺恒雄や河合武(河合栄治郎の長男)らと学生運動を行う。
金子 徳好(かねこ とくよし、1924年7月24日 - 20… 金子 徳好(かねこ とくよし、1924年7月24日 - 2007年11月26日)は、反戦活動家・平和活動家・ミニコミ研究家である。 東京都渋谷区に生まれる。東京高等農林学校(現・東京農工大学)中退。 戦後渋谷でローカル新聞を主宰。労組書記(全銀連)を経て、日本機関紙協会勤務。 1965年、「アメリカはベトナムから手をひけ」を書いたゼッケンをつけて8年間にわたり通勤。その記録として『ゼッケン8年』(朝日新聞社)を1974年に刊行している。 1981年10月には核廃絶を訴え再びゼッケン通勤を始め、1984年の広島原爆忌まで続けられた。 退職後は地域のミニコミに力を入れ、地域からの平和運動を研究・促進。
石母田 達(いしもだ たつ、1924年5月11日 - 202… 石母田 達(いしもだ たつ、1924年5月11日 - 2022年2月12日)は、日本の政治家、労働運動家。元衆議院議員(日本共産党公認、1期)。日本共産党名誉幹部会顧問。 石巻市長を務めた石母田正輔の五男。兄は国民的歴史学運動で知られる歴史学者の石母田正。 宮城県石巻市出身。東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)卒業後、池貝鉄工所に就職。第二次世界大戦中は相模補給廠(相模原市淵野辺)に属し、陸軍の技術将校として誘導爆弾や特攻兵器製作に携わる。自らも特攻乗員となり出撃の日を待ちながら終戦を迎えた。 復員後は池貝鉄工所に戻り、旋盤技師を務める傍ら日本共産党へ入党。兄の正に諭され同所の労働組合長に立候補し、1票差で対立候補を躱し組合長に当選する。
中濃 教篤(なかの きょうとく、1924年3月30日-200… 中濃 教篤(なかの きょうとく、1924年3月30日-2003年4月30日)は、日蓮宗の僧侶、政治・社会運動家。 神奈川県出身。1945年立正大学仏教学部卒。インドシナ解放闘争に共鳴、アジア仏教徒会議などに参加。1971年日蓮宗現代宗教研究所長、79年顧問。東京都台東区領玄寺住職。
木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9… 木村 万平(きむら まんぺい、1924年(大正13年)3月9日 - 2014年(平成26年)7月11日)は、日本の社会科教師、教育者、市民活動家である。大韓帝国・京城府(現在の大韓民国・ソウル特別市)出身。木村 萬平は旧字体表記。 下記の作品の監督をした記録がある。 コミンテルン( - 1943年5月)
寿岳 章子(じゅがく あきこ、1924年1月2日 - 200… 寿岳 章子(じゅがく あきこ、1924年1月2日 - 2005年7月13日)は、日本の国語学者・エッセイスト・社会活動家。 寿岳文章・寿岳しづ夫妻の長女として京都府に生まれる。弟は天文学者の寿岳潤。 旧制京都府立第一高等女学校、旧制京都府立女子専門学校を経て、1946年(昭和21年)に東北帝国大学法文学部を卒業、京都大学大学院へ進学。京都府立大学助教授、教授として同大学に36年間勤務。 墓所は南禅寺慈氏院。 寿岳の研究業績としては、室町時代の口語資料である抄物の研究が挙げられる。寿岳は抄物の語句や文章形態や文法構造について、抄物を語った人物の声として捉えようとした。あくまでも生きた人間の言葉に目を向け、抄物それ自体の言葉に深く切り込んで、その性格を解明して資料性を保証したのである。
谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)… 谷川 雁(たにがわ がん、本名:谷川 巌(たにがわ いわお)、1923年12月25日 - 1995年2月2日)は、日本の詩人、評論家、サークル活動家、教育運動家。社会主義的なリアリズムを基調とにした詩人として知られ、評論集「原点が存在する」「工作者宣言」は1960年代の新左翼陣営に思想的な影響を与えた。 熊本県水俣市に開業医の、六人兄妹の次男として生まれる。兄は民俗学者の谷川健一、弟に東洋史学者の谷川道雄、日本エディタースクール創設者の吉田公彦。旧制熊本中学、第五高等学校を経て、1945年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。従軍する。 戦後、西日本新聞社に勤務。同人誌「九州詩人」「母音」に詩を発表し、安西均、那珂太郎などと交遊。
粕谷 甲一(かすや こういち、1923年11月6日 - 20… 粕谷 甲一(かすや こういち、1923年11月6日 - 2011年2月9日)は、日本のカトリック司祭、社会運動家。 インド・カルカッタ生まれ。アフリカ、中国で幼少期を過ごす。1944年受洗。1947年東京帝国大学工学部卒。河合栄治郎の影響を受ける。日本発送電入社、1950年東京カトリック神学院入学。1951年オーストリア・インスブルック大学神学校でカール・ラーナーに師事。1957年スイス・バールにて叙階。哲学博士号取得ののち59年帰国。浅草教会、アリの町教会で司牧。真生会館学生指導司祭、1961年館長、カトリック学生連盟指導司祭。67-82年青年海外協力隊勤務。1983年国際救援センターの設立に参加。
尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-… 尾形 憲(おがた けん、1923年(大正12年)9月27日-2017年(平成29年)1月21日)は、日本の経済学者、平和運動家。法政大学名誉教授。専門は教育経済論。 1923年(大正12年)9月27日、宮城県にて生まれる。宮城県立第一中学校、陸軍予科士官学校を経て陸軍航空士官学校(56期)を卒業し、陸軍中尉で終戦をむかえる。戦後、法政大学経済学部(通信制)に入学し、卒業後、同大学大学院に進み、教育経済学を専攻する。1982年(昭和57年)の全学集会で非核大学宣言をまとめ、翌年から公開講座『法政平和大学』をひらく。また、テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟の会の世話人代表を務めた。 1995年の第17回参議院議員通常選挙に、環境政党「憲法みどり農の連帯」公認で東京都選挙区から出馬、落選。
野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9… 野々山 一三(ののやま いちぞう、1923年(大正12年)9月24日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、日本の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 愛知県碧海郡富士松村(現・刈谷市井ケ谷町)の小作農の家に生まれる。高等小学校卒業後、国有鉄道米原機関区に就職した。1942年に日本国有鉄道名古屋鉄道教習所を卒業し、20歳で一人前の機関士となった。 召集され、1944年1月、フィリピン群島に送られる。同年夏、上陸用舟艇の艇長としてルソン島に転進。マニラ郊外に上陸後捕虜となる。1945年12月8日に輸送船に乗り、呉海兵団基地に帰還した。野々山の部隊は約960名編成されていたが、生存者はわずか20数名であった。
畑田 重夫(はただ しげお、1923年〈大正12年〉9月5日… 畑田 重夫(はただ しげお、1923年〈大正12年〉9月5日 - 2022年〈令和4年〉11月22日)は、日本の国際政治学者、政治評論家、平和運動家。平和・民主・革新の日本をめざす全国の会代表世話人。1980年代から1990年代にかけて東京都知事選挙に出馬したことでも知られる。 京都府生まれ。東京帝国大学に入学し、在学中20歳で学徒出陣となるが、その際学友の乗っていた船が撃沈され全員が死亡した。1945年9月、東京大学法学部に復学し卒業。 内務省を経て1962年まで名古屋大学助教授を務め、以後は労働者教育協会会長や勤労者通信大学学長などを歴任。 1987年、1991年の各東京都知事選挙に無所属(日本共産党推薦)で出馬するも落選。
沼田 鈴子(ぬまた すずこ、1923年7月30日 - 201… 沼田 鈴子(ぬまた すずこ、1923年7月30日 - 2011年7月12日)は、日本の平和運動家。広島市への原子爆弾投下での被爆者の1人。被爆により左脚を失い絶望に陥ったところを、被爆アオギリを見て生きる希望を取りもどし、切断障害を抱えた身でありながら被爆体験証言活動と平和運動に心血を注いだ。証言活動では被爆アオギリのことを多く語ったことから「アオギリの語り部」として知られる。広島市原爆被害者の会の元副会長、広島を語る会の元会員。大阪府出身。
福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月1… 福岡 義登(ふくおか よしと、1923年(大正12年)5月18日 - 2001年(平成13年)3月25日)は、日本の政治家、労働運動家。衆議院議員(4期)、三次市長(4期)などを歴任した。
中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2… 中村 拡三(なかむら こうぞう、1923年3月21日 - 2002年9月10日)は、日本の解放運動家・教育家。 長野県塩尻市出身。1943年長野師範学校卒業。長野県、奈良県、京都府で小中学校の教諭として勤務した後、解放教育研究所事務局長をへて、近畿大学人権問題研究所助教授、教授。1993年定年退職。部落解放運動に挺身し「解放の学力」を提唱した。
川本 敏美(かわもと としみ、1923年〈大正12年〉1月1… 川本 敏美(かわもと としみ、1923年〈大正12年〉1月10日 - 1998年〈平成10年〉12月15日)は、昭和期の労働運動家、政治家。日本社会党衆議院議員(2期)。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 奈良県出身。1952年(昭和27年)旧制大阪専門学校法科(現近畿大学)卒。1959年(昭和34年)奈良県議会議員に当選し5期在任。奈良県中小労連副執行委員長、奈良総評組織部長、社団法人南和会館常任理事、奈良県地方労働委員会委員などを務めた。 1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙で奈良県全県区から日本社会党公認で立候補して初当選。1980年(昭和55年)の第36回総選挙で再選され、衆議院議員に2期在任した。
上妻 美章(こうづま よしあき、1923年 - 1989年)… 上妻 美章(こうづま よしあき、1923年 - 1989年)は、昭和時代の労働運動家。 福岡県生まれ。1950年九州大学法学部政治学科卒業。在学中は野中卓、水原輝雄とともに九州大学共産党細胞の中心メンバーであった。1953年左派社会党の稲村順三衆議院議員の秘書となる。1957年総評書記局に入局し調査部に配属。太田薫総評議長のブレーンとして「日本的組合主義」の草案を執筆。1963年総評教宣局情宣部長に就任し『月刊総評』の編集などに従事。1968年岩井章総評事務局長と対立して総評を退職。宝樹文彦全逓委員長の招請で全逓に入職し、全逓中央労働学校の常任講師、制度・政策委員として活動した。
増田 眞一(ますだ みちかず、選挙時の通名:マスダシン一、1… 増田 眞一(ますだ みちかず、選挙時の通名:マスダシン一、1923年〈大正12年〉 - 2000年〈平成12年〉6月3日)は、日本の実業家、政治活動家(政事公団太平会同人)。 京都府舞鶴市出身。同志社大学法学部在学中に学徒出陣で応召。熊谷陸軍飛行学校特操2期生を経て、知覧特攻基地神鷲隊に配属される。1945年8月10日、ウィリアム・ハルゼー率いる米海軍機動部隊に向け出撃したが、天候不良と搭乗機の不調で突入に失敗、帰投。そのまま終戦を迎えた。 戦後復学して同大学院で田村徳治教授の薫陶を受け、皇国史観を保持しつつ労農運動に目覚める。その後地元で旅館、青年の家、マリーナ等経営の傍ら反基地闘争・反公害運動を行い、政治団体『政事公団太平会』を組織。
申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月… 申 相楚(シン・サンチョ、朝鮮語: 신상초、1922年12月15日 - 1989年2月29日)は、大韓民国のジャーナリスト、教授、政治家、独立運動家。第5・9・10・11代韓国国会議員。本貫は平山申氏、号は月崗(ウォルガン、월강)。 平安北道定州出身。1935年に新義州高等普通学校を卒業。1942年に福岡高等学校の文科を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学した。1944年に学徒出陣により中国戦線に配置されたが、済南の部隊より八路軍地区に脱走し、同じく徐州の部隊より脱走した厳永植(엄영식)らと朝鮮義勇軍の一員として抗日活動に参加した。解放後の1946年に朝鮮義勇軍東満洲支隊から帰郷したが、北朝鮮共産当局によって逮捕され、17ヶ月間に監獄で過ごした。
渡辺 武三(わたなべ たけぞう、1922年10月10日 - … 渡辺 武三(わたなべ たけぞう、1922年10月10日 - 1982年4月23日)は、日本の政治家、労働運動家。民社党の衆議院議員(5期)。 愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)の三州瓦を扱う商家に生まれる。11歳のときに父親を亡くす。1937年、高等小学校を卒業。1938年、豊田自動車工業株式会社に就職。1943年、豊田工科青年学校(現・トヨタ工業学園)を卒業。 徴兵され、中国大陸各地を転戦した。1946年、復員。1948年3月に全日本自動車産業労働組合が結成されると、同組合東海文部の法規対策部長に就任。1955年から挙母市(現・豊田市)議会議員を1期務めた。 1966年9月から1969年8月までトヨタ自工労働組合委員長を務めた。
末次 一郎(すえつぐ いちろう、1922年(大正11年)10… 末次 一郎(すえつぐ いちろう、1922年(大正11年)10月1日 - 2001年(平成13年)7月11日)は、日本の政治活動家。安全保障問題研究会代表。沖縄返還の功労者として知られ、晩年は日ソ専門家会議を主催して北方領土返還運動にも取り組み、「ミスター北方領土」の異名をとった。中曽根康弘首相ら歴代政府首相・首脳のアドバイザーとしても知られる。 佐賀県出身。佐賀商業学校・豊橋第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。 戦後は、国家的に重要な課題に取り組み、終生その活動を継続した。 1999年(平成11年)9月に肺癌の告知を受ける。2000年(平成12年)11月に胃癌を、2001年(平成13年)6月に肝臓転移を告知された。
藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1… 藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1994年5月2日)は、日本の映画監督・演出家・市民運動家。群馬県富岡市出身。
門別 薫(もんべつ かおる、1922年〈大正11年〉9月4日… 門別 薫(もんべつ かおる、1922年〈大正11年〉9月4日 - 2018年〈平成30年〉10月1日)は、昭和後期から平成時代にかけて活躍した日本の社会活動家。北海道出身、アイヌ民族。 小冊子『アイヌの叫び』の著者貝澤藤蔵と川村コヨの長男。日高管内の沙流郡平取町生まれ。北海道旭川東高等学校(旧制旭川中学)卒業。 1939年(昭和14年)から朝鮮の炭鉱会社で働いた。戦後は旭川営林局にはいり、測量審査などにあたる一方、人権擁護委員も務めた。1972年(昭和47年)10月、旭川市で起こった「風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件」を機に旭川アイヌ協議会の創設に尽力し、その初代会長となった。1975年(昭和50年)、北海道アイヌ文化伝承保存会副会長となった。
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月… 鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。 米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で論壇を牽引。思想史から大衆文化まで幅広い分野を扱う。著書は『戦時期日本の精神史』(1982年)、『アメリカ哲学』(2008年)など多数。 1922年6月25日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる。
鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月… 鄭 幹鎔(チョン・ガニョン、朝鮮語: 정간용、1922年5月9日 - 2003年8月30日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教員、実業家、政治家。第7・8代韓国国会議員。本貫は慶州鄭氏(朝鮮語版)。カトリック教徒。 日本統治時代の全羅南道莞島郡出身。莞島郡薬山初等学校、平安中学校(京都)、日本大学法科卒。上海臨時政府宣撫団参加。全羅南道光州西中学校・莞島中学校教員、莞島郡水産高等学校・長興高等学校校監を務めた後に政界入り、民主共和党結党メンバー・大統領選挙対策委員長・莞島地区党事務局長・全南地区組織部長・宣伝部長、韓国水産技術協会会長、三光物産重役などを務めた。また、1968年12月11日より第11代大韓バドミントン協会会長を務めた。
岩井 章(いわい あきら、1922年4月25日 - 1997… 岩井 章(いわい あきら、1922年4月25日 - 1997年2月18日)は、日本の労働運動家、元日本労働組合総評議会(総評)事務局長。 長野県松本市出身。高等小学校卒業後、1937年に日本国有鉄道(国鉄)に入り、機関士として勤務した。1945年に日本が第二次世界大戦で敗北した後、国鉄内での労働運動高揚を受けて1946年に結成された国鉄労働組合(国労)へ加入、二・一ゼネストの時の甲府支部青年部長を振り出しに上諏訪の地区労議長、社会主義青年同盟を結成するなど頭角を現した。1947年には林虎雄に口説かれて、長野県議会選挙に立候補して落選している。1950年には中央執行委員に就任した。 1955年、総評内の路線闘争で合化労連の太田薫と連携し、事務局長に就任した。
川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政… 川井 春三(1922年4月1日 - 1989年)は、日本の政治活動家、実業家。 奈良市の魚問屋の四男に生まれた。1940年、旧制大阪城東商業学校卒業。1942年3月、大阪YMCA無線電機学校高等科卒業。同時に大日本帝国陸軍参謀本部に入り、北多摩陸軍通信所に配属されて無線情報活動に従事した。1943年1月、関東軍特殊情報部隊に入営し、幹部候補生として教育を受けた。同年末、北多摩通信所に教育要員として復帰。1945年、派遣先の長野分遣隊で終戦を迎えた。1946年4月、旧制大阪専門学校(現在の近畿大学)経済学部に入学。のち中途退学し、父の営む奈良県魚株式会社で働いた。 1957年の父の死を契機に、民族運動への挺身を決意した。
大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月2… 大木 正吾(おおき しょうご、1922年〈大正11年〉3月26日 - 2004年〈平成16年〉3月17日)は、昭和から平成初期の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(2期)。 千葉県山武郡松尾町(現・山武市)出身。 1937年(昭和12年)東京浅草寿町郵便局勤務。その後、日本大学法律科に入るが、1943年(昭和18年)に中退し軍務に就いた。 1948年(昭和23年)全逓信従業員組合中央執行委員。1950年(昭和25年)日本電信電話公社関東電気通信局に移り、1953年(昭和28年)に全電通書記長になる。1958年(昭和33年)委員長に就任。1962年(昭和37年)総評幹事。1970年(昭和45年)から6年間事務局長を務めた。
北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5… 北原 鉱治(きたはら こうじ、1922年〈大正11年〉3月5日 - 2017年〈平成29年〉8月9日)は、日本の市民運動家、社会運動家、元政治家、活動家。三里塚芝山連合空港反対同盟(北原派)事務局長であった。 1922年に、千葉県佐倉市田町で、呉服商の次男として誕生する。 保善中学校を中退後、日本光学(現・ニコン)に就職した後、1942年に大日本帝国海軍へ志願制度で入隊する。横須賀海兵団・工機学校を経て駆逐艦「松風」や第四号海防艦に乗務。なお「松風」では、後に反対同盟副委員長となる小川明治が乗務しており、上官であったが同郷人であったため知遇を得る。空襲によって第四号海防艦が三重県鳥羽港沖で沈没した後は、横須賀海兵団第四分隊配属の指令を受け、艦載機の攻撃を受けながらも汽車で神奈川県横須賀市へ移動した。
神門 至馬夫(ごうど しまお、1922年(大正11年)3月1… 神門 至馬夫(ごうど しまお、1922年(大正11年)3月1日 - 1974年(昭和49年)12月11日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 島根県邑智郡川戸村(桜江村、桜江町を経て現江津市)で生まれる。江津町小学校高等科を卒業し、1937年(昭和12年)鉄道省に入省。1941年(昭和16年)広島鉄道教習所機関士科を卒業し機関士として乗務。 戦後、日本国有鉄道浜田機関区で勤務。1950年(昭和25年)国鉄労働組合の専従となり、国労米子地方本部書記長、同委員長、島根県労働組合協議会議長、同事務局長、島根県農民協議会副会長、島根県労働委員、島根県労働基準審議会委員などを務めた。 小瀧彬の死去に伴い1958年(昭和33年)7月に実施された第4回参議院議員通常選挙・島根県地方区補欠選挙に出馬して落選。
卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日… 卜部 政巳(うらべ まさみ、1922年(大正11年)1月1日 - 1999年(平成11年)12月14日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(2期)。 島根県出身。平壌で生まれる。1942年(昭和17年)専修大学専門部商科を修了。召集され陸軍軍曹となる。 郵政省に入省し松江地方貯金局(現貯金事務センター)勤務となる。その後、全逓(のちの日本郵政公社労働組合)島根地区書記長、全逓中央本部執行委員、同執行委員長、島根県労働組合総評議会議長、島根県物価対策協議会議長などを務めた。 1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙に島根県全県区から日本社会党公認で出馬して初当選。第31回総選挙、また1968年(昭和43年)7月の第8回参議院議員通常選挙に島根県地方区から出馬したがいずれも落選。