栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月… 栗原 悦蔵(くりはら えつぞう、1894年〈明治27年〉3月31日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。太平洋戦争中に大本営海軍報道部長を勤めた。 群馬県勢多郡荒砥村西大室(現・前橋市西大室町)に生まれる。 旧制群馬県立前橋中学校より海軍兵学校第44期入校。平出英夫 海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に「竹槍事件」が発生。筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべく陸軍との対応にあたった。また米内光政、井上成美、高木惣吉などの下、終戦工作に携わっている。 戦後は公職追放となり、その後は小松製作所に入社し小松フォークリフト社長に就任した。
青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月2… 青木 武三(あおき たけぞう、1894年(明治27年)3月21日 - 1982年(昭和57年)8月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山口県出身。岩国中学校(現山口県立岩国高等学校)を卒業し、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1919年(大正8年)5月、操縦術を修了し、同年12月、航空第2大隊付となる。航空第3大隊付を経て航空第3大隊中隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転じ航空兵大尉となる。以後、明野陸軍飛行学校教官、陸軍航空本部員、第2飛行集団司令部員、同参謀、飛行第33戦隊長を歴任し、1939年(昭和14年)3月、航空兵大佐に昇進した。
松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1… 松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人・軍医。最終階級は陸軍軍醫少将。 東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校、陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。 父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、源 道秀)。親戚に日本画家の松林桂月がいる。 明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。
伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 … 伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 - 1995年(平成7年)11月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍運輸部内で上陸作戦の専門家として認められた人物。 宮城県仙台市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し、参謀本部外国戦史課などで勤務した。 1937年(昭和12年)8月、近衛師団参謀に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進級し、同年7月、第17師団参謀長に転じ日中戦争に出征。宜昌作戦などに参戦した。1940年(昭和15年)8月、第14師団司令部付となり満州に赴任。
棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 19… 棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 1946年2月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。終戦時に自決。 1894年(明治27年)3月7日、現在の岐阜県大垣市に生まれる。旧制中学を卒業後、陸軍士官学校28期で入学した。卒業後には歩兵第35連隊に配属され、シベリア出兵を経験する。後に歩兵第36連隊付き配属将校として旧制三国中学校へ赴任する。歩兵第7連隊第三大隊長も歴任する。第7連隊時代には、上海付近及び南京付近の戦闘に参加し、武功抜群により上海派遣軍司令官である松井石根大将より個人感状を授与され、金鵄勲章を叙勲される。 1940年(昭和15年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和16年)3月には歩兵第112連隊(丸亀連隊)連隊長を拝命する。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1… 阿蘇 太郎吉(あそ たろきち、1894年(明治27年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 京都市に生まれる。京都府二中、陸軍幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第68連隊付となる。青島守備隊、陸地測量部勤務等の後、1932年(昭和7年)近衛歩兵第1連隊。1934年(昭和9年)同連隊大隊長。1936年(昭和11年)から翌年に掛けて配属将校として拓殖大学、東京府第三中、第四中に勤務。1937年(昭和12年)独立歩兵第13連隊附として支那事変に参加し山西省、内蒙古周辺を転戦・守備。
黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16… 黒木剛一(くろき ごういち、1894年〈明治27年〉2月16日 - 1972年〈昭和47年〉5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。 1938年12月15日、京城在勤海軍駐在武官兼朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。 1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日、海南警備府附。7月20日、第16警備隊司令。1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。
諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月1… 諫山 春樹(いさやま はるき、1894年(明治27年)2月11日 - 1990年(平成2年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将。 福岡県出身。第17代台湾軍参謀長、その後第10方面軍参謀長。1945年10月25日、国民政府代表との降服式典に台湾総督安藤利吉とともに台湾総督府(日本)代表として出席し、任を終える。 官吏・諫山虎鹿の二男として生れる。中学明善校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業。1915年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。 1925年8月、歩兵第38連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス大使館付武官補佐官などを経て、1930年8月、歩兵少佐に昇進。
榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 … 榎本 隆一郎(えのもと りゅういちろう、1894年2月8日 - 1987年2月7日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍中将。 和歌山県出身。農業・榎本熊太郎の長男として生まれる。和歌山中学校を経て、1915年12月、海軍機関学校(24期)を卒業し、翌年12月、海軍機関少尉任官。1920年12月、海軍大学校選科学生となり、翌年9月、九州帝国大学工学部に入学、応用地質学を学び1924年3月に卒業した。 徳山燃料廠製油部員、機関学校教官、欧米出張、海軍省軍需局員、欧米出張、徳山燃料廠付、燃料廠研究部員、北支特務部員(北京)、商工省燃料局人造石油課長、昭南在勤武官などを経て、1942年11月、海軍少将に進級した。
信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2… 信氏 良吉(のぶうじ りょうきち、1894年(明治27年)2月5日 - 1981年(昭和56年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、火薬学者。最終階級は陸軍中将。 京都府京都市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官した。陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部工業化学科で学び、1923年(大正12年)3月に卒業した。 1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進み、1935年(昭和10年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任。1937年(昭和12年)6月、陸軍科学研究所員に転じ、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進した。
奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4… 奥田 喜久司(おくだ きくじ、1894年(明治27年)2月4日 - 1939年(昭和14年)11月4日)は、日本の海軍軍人。少年飛行兵制度を発案することで予科練に至る基礎をつくり、のちに航空隊司令として作戦指揮中に戦死した海軍少将である。 奥田は兵庫県出身で、神戸一中を経て1914年(大正3年)に海軍兵学校を卒業した海兵42期生である。席次は117名中54番であった。翌年12月海軍少尉任官。海軍砲術学校高等科学生を経て、「洲埼」分隊長。次いで「神威」艤装員としてアメリカ合衆国に出張した。同艦分隊長、「島風」砲術長兼分隊長と砲術畑を歩む。 同期生の先頭を切って近藤泰一郎と共に海軍大学校甲種学生(23期)に進み、卒業後航空に転科。
橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1… 橋本 象造(はしもと しょうぞう、1894年〈明治27年〉1月31日 - 1973年〈昭和48年〉8月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 和歌山県和歌山市出身。和歌山県立和歌山中学校より海軍兵学校第43期へ進んだ。水雷畑を歩み、海軍大学校(甲種25期)卒業後は、海軍省、軍令部の課長を務めるなど、海軍中央の要職を歴任した。軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明したため、右翼から名指しで狙われている。その後総力戦研究に没頭した。 太平洋戦争末期に、天号作戦により沖縄に突入する戦艦大和以下の第二艦隊の燃料が問題になった。この時、連合艦隊参謀小林儀作大佐の要請を受け、呉鎮守府軍需部が管理していた帳簿外の燃料を提供することを承認したのが、呉鎮守府参謀長兼補給長であった橋本である。
大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月2… 大須賀 応(おおすか ことを、1894年(明治27年)1月25日 - 1945年(昭和20年)3月26日(異説あり。本文参照))は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる。札幌中学を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]。1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任。
篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日… 篠田 鐐(しのだ りょう、1894年(明治27年)1月25日 - 1979年(昭和54年)5月8日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。工学博士。 愛知県出身。陸軍少将・工学博士、篠田金の長男として生まれる。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第1連隊付となる。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校高等科(23期)を卒業した。陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部応用科学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業した。さらに同大学院で学び、1925年(大正14年)3月に修了した。 1925年5月、陸軍科学研究所員に発令。
金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日… 金井 満(かねい みつる、1894年(明治27年)1月20日 - 1974年(昭和49年)5月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸士27期次席。最終階級は陸軍少将。功四級。 1894年(明治27年)に長野県塩尻市で生まれた。名古屋陸軍幼年学校台賜、中央幼年学校および陸軍士官学校第27期をいずれも恩賜で卒業。原隊は工兵第18大隊。陸軍砲工学校高等科卒業後、兵器局、整備局勤務を経て、1939年(昭和14年)3月9日に工兵第3連隊長(第11軍・第3師団)に就任し、8月1日に陸軍工兵大佐に進級した。日中戦争に出動し、冀東作戦、宜昌作戦、漢水作戦などを連戦した。1941年(昭和16年)3月に陸軍築城部部員に転じた。
北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月… 北村 勝三(きたむら かつぞう、1894年(明治27年)1月15日 - 1947年(昭和22年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 長野県出身。菜種商・北村長次の長男として生まれる。長野中学校(現長野県長野高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第58連隊付となる。1916年(大正5年)9月から1917年(大正6年)1月まで陸軍戸山学校学生となる。1918年(大正7年)12月、第12師団司令部付に発令され、1919年(大正8年)1月から1920年(大正9年)3月までシベリア出兵に出征。
鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月1… 鈴木 庫三(すずき くらぞう、1894年(明治27年)1月11日 - 1964年(昭和39年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大佐。 戦時中、情報局情報官として言論統制を行っていた人物として知られる。清沢洌曰く、「日本思想界の独裁者」。石川達三の小説「風にそよぐ葦」で出版社を支配する情報官佐々木陸軍少佐のモデルとされる。 茨城県真壁郡鳥羽村大字鷺島(現:筑西市明野町鷺島)の豪農、鈴木利三郎の第7子として生まれるが、生後まもなく同筑波郡田水山村大字田中(現:つくば市田中)の農家、大里菊平の養嗣子となる。高等小学校卒業後は、農業を手伝いながら帝国模範中学会で自習。 1913年(大正2年)12月、19歳で陸軍砲兵工科学校入学。
柳本 柳作(やなぎもと りゅうさく、1894年(明治27年)… 柳本 柳作(やなぎもと りゅうさく、1894年(明治27年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 長崎県平戸市出身。旧制長崎県猶興館中学校より海軍兵学校第44期入校。入校時成績順位は100名中第66位、卒業時成績順は95名中第21位。大正14年12月海軍大学(甲種25期)入学。昭和2年11月卒業。同期生のすべてが将官になった珍しいクラスであった。 幼少の頃から成績優秀だったが、実家が富裕ではなかった為に旧制中学校卒業と同時に母校の尋常小学校で代用教員を務め、貯財した上で翌年改めて海軍兵学校に入校するという苦労を強いられている。柳本家は伊勢神宮から平戸に遣わされた神官の家系だったという。
久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日… 久保 禎三(くぼ ていぞう、1894年〈明治27年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1894年(明治27年)に群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で生まれた。生家は新町宿の脇本陣を勤めた家で、父・喜三郎は新町小学校の初代校長。 旧制藤岡中学校、旧制富岡中学校を経て、陸軍士官学校第28期、東京帝国大学土木工学科卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍工兵大佐進級と同時に陸軍大学校教官に就任し、1939年(昭和14年)8月に陸地測量部三角科長に転じた。1940年(昭和15年)12月に鉄道第6連隊長(第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 … 花谷 正(はなや ただし、1894年(明治27年)1月5日 - 1957年(昭和32年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。奉天特務機関員として柳条湖事件(満洲事変)に関与したとされ、太平洋戦争では第55師団長としてビルマ戦線で作戦を指揮した。人物・指揮ぶりの評価は一様ではなく、統率の強硬さを問題視する見解と、作戦指揮を評価する見解が併存している。 岡山県勝田郡広戸村村長・花谷章の息子として生まれる。津山中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉任官。歩兵第54連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。
牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1… 牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1945年7月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1… 石川 信吾(いしかわ しんご、1894年(明治27年)1月1日 - 1964年(昭和39年)12月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。通称不規弾。
成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 19… 成瀬 正二(なるせ せいじ、1893年12月26日 - 1960年1月29日)は、日本の工学者・海軍軍人。海軍技術少将正五位勲四等。海軍航空技術廠雷撃部長。
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 -… 久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県出身。医師・久野村桃蹊の三男として生れる。海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 歩兵第44連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、歩兵第37連隊大隊長、陸軍省軍務局課員、教育総監部課員、独立歩兵第13連隊長、教育総監部第3課長などを経て、1940年12月、陸軍少将に昇進。 第36歩兵団長、陸士幹事を歴任し、太平洋戦争には1943年5月、第15軍参謀長として出征した。
秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12… 秋永 月三(あきなが つきぞう、1893年(明治26年)12月21日 - 1949年(昭和24年)4月23日)は、日本の陸軍軍人。内閣綜合計画局長官。最終階級は陸軍中将。 大分県で、村長・秋永澄蔵の三男として生まれる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第23連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し、同年12月、野砲兵第23連隊中隊長に就任。野戦重砲兵第3連隊中隊長、陸軍省整備局付勤務、整備局課員を経て、1927年(昭和2年)4月から1930年(昭和5年)3月まで陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で聴講した。
大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年… 大前 憲三郎(おおまえ けんざぶろう、1893年(明治26年)11月26日 - 1952年(昭和27年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 奈良県十津川村湯之原に大前憲保の三男として生まれる。湯之原尋常小学校を卒業し、1912年(明治45年)十津川中学文武館(現奈良県立十津川高等学校)に学び、卒業後伏見の工兵第十六大隊に士官候補生として入隊。1915年(大正4年)5月25日に陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第十六大隊付となる。1916年(大正5年)11月27日に陸軍砲工学校(24期)高等科を卒業し、更に員外学生として在学。1919年(大正8年)4月15日に工兵中尉に昇進、1922年(大正11年)3月31日には東京帝国大学理学部物理学科を卒業した。
鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月… 鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊の初代隊長に就任。 1870年(明治3年)に浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、1893年(明治26年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て、1916年(大正5年)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)… 樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月1… 渋谷 紫郎(しぶや しろう、1893年〈明治26年〉11月18日 - 1945年〈昭和20年〉1月12日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争初期に第十六駆逐隊司令として南方攻略戦に参加し、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である。 長野県出身。海軍兵学校44期で、席次は95名中32番。1917年(大正6年)少尉任官。渋谷は海軍水雷学校高等科学生を修了した水雷専攻士官で、ほぼ一貫して海上勤務に終始した海上戦闘の猛者であった。4艦の水雷長、3艦の駆逐艦長、軽巡洋艦「神通」副長を経て、第一水雷隊及び第二十七駆逐隊の司令を務めた。この間1928年(昭和3年)少佐、1934年(昭和9年)中佐へ進級。1939年(昭和14年)11月大佐へ進級し、第一掃海隊司令、第七駆逐隊司令を経て第十六駆逐隊司令に就任。
三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月… 三好 輝彦(みよし てるひこ、1893年〈明治26年〉11月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月8日)は、日本の海軍軍人。海兵43期。最終階級は海軍少将。兄は弘前第8師団長を務めた陸軍中将 三好一(陸士8期)である。 1893年(明治26年)11月15日、大分県竹田市に生まれる。旧制大分県立宇佐中学校から海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第99位、卒業時成績順位は96名中第41位。 海軍水雷学校高等科学生、海軍潜水学校甲種学生を修了した、水雷科(潜水艦)を専門とする士官である。 戦艦「陸奥」艦長に着任した3か月後の1943年(昭和18年)6月8日、柱島泊地における「陸奥」の爆沈事故により殉職し、同日付で海軍少将に進級した。
加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日… 加来 止男(かく とめお、1893年(明治26年)11月8日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。空母「飛龍」艦長としてミッドウェー海戦で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。 1893年11月8日、熊本県八代郡松高村に生まれた。外交官・加来美知雄は兄。熊本県立八代中学校2年に在学中、有明海に練習艦隊が入港したのを見て感激したのが契機となり、中学校卒業後、1911年9月に海軍兵学校42期に入学する。同期生には加賀艦長として加来と共にミッドウェー海戦で戦死する岡田次作がいた。18歳での入学はやや遅く受験では苦労したようで入学席次も入校時120名中98番である。しかし、卒業時には席次も117名中43番まで上がった。
吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27… 吉原 矩(よしはら かね、1893年(明治26年)10月27日 - 1984年(昭和59年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。吉原文平の二男として生まれる。栃木県立真岡中学校(現栃木県立真岡高等学校)、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し鉄道連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を卒業。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し鉄道第1連隊中隊長に就任。 1925年(大正14年)1月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、工兵監部員、陸大教官、陸軍省整備局課員、軍務局課員(兵務課)などを務め、1934年(昭和9年)8月、工兵中佐に昇進。
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月… 黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月2… 田村 宣武(たむら のぶたけ、1893年(明治26年)9月25日 - 1988年(昭和63年)7月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1893年(明治26年)に愛媛県で生まれた。陸軍士官学校第27期を卒業し、1922年(大正11年)3月に陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部冶金学科を卒業した。1937年(昭和12年)8月に陸軍技術本部仏国駐在官に就任し、1938年(昭和13年)3月に陸軍砲兵大佐に進級した。1939年(昭和14年)7月に大阪陸軍造兵廠研究所長に就任し、1940年(昭和15年)4月に兼技能者養成所長となった。 1941年(昭和16年)6月23日に陸軍技術本部附となり、8月25日に陸軍少将に進級して、1942年(昭和17年)に第8陸軍技術研究所長に就任した。
内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9… 内田 銀之助(うちだ ぎんのすけ、1893年(明治26年)9月24日 - 1951年(昭和26年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 東京府出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校第27期卒業。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校第34期卒業。 東京帝国大学法学部を経て、1935年(昭和10年)3月、関東軍参謀、1937年(昭和12年)9月、留守第1師団参謀を経て、同年11月、陸軍歩兵大佐に進む。ついで1938年(昭和13年)8月、第20師団参謀長、1940年(昭和15年)9月、陸軍技術本部附を経て、同年12月、陸軍少将となる。 のち大東亜戦争が勃発すると、1941年(昭和16年)7月、独立混成第5旅団長に補され、青島に駐屯した。
中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 19… 中 永太郎(なか えいたろう、1893年9月17日 - 1969年4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道旭川市出身。地主・中藤平の長男として生まれる。旭川中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第27連隊中隊長となる。 1925年(大正14年)12月、陸士教官に就任し、参謀本部員に転じ、1929年(昭和4年)8月、歩兵少佐に昇進。1931年(昭和6年)8月、陸大教官となり、兼参謀本部員を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級し陸軍省人事局課員に就任。
堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 19… 堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。位階は従三位、勲等は勲一等瑞宝章。 衆議院議員(5期)。最終階級は歩兵少佐、満洲国陸軍少将。父は堀内良平、息子は堀内光雄。孫は堀内光一郎。 山梨県出身。軍人好きであった父・良平の影響を受け、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。1925年11月、陸軍大学校(37期)卒。参謀本部ではイギリスを担当する英班に配属されるが、赴任を待てず良平に資金を出してもらい世界一周に出かけた結果、軍人に嫌気がさし帰国と同時に退官を申し出た。石原莞爾などの説得により思いとどまり、陸軍少佐まで進み第9師団参謀を務めた。
赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9… 赤藤 庄次(しゃくどう しょうじ、1893年(明治26年)9月10日 - 1969年(昭和44年)6月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。農業・赤藤多一郎の二男として生まれる。姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。 1919年(大正8年)5月、台湾歩兵第2連隊付となる。1913年(大正10年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校独逸語委託専科を修了した。同年6月、ベルリンに留学。1914年(大正11年)3月、仙台陸軍地方幼年学校教官に就任し、陸士教官、歩兵第21連隊中隊長を経て、1926年(大正15年)9月から1927年(昭和2年)6月まで、憲兵練習所に派遣された。
小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10… 小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。広島県広島市中区出身。 旧制広島県立第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第4位、卒業時成績順位は96名中第9位。 元来は武田姓だったが小川家に養子に入り姓が変る。海軍省教育局所属時に柳澤正樹に皇道論についての本を著すよう慫慂し助言や資料を与えた。戦後は宇垣纏中将の日記『戦藻録』改訂版の編纂に携わった事で知られる。
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9… 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人。 海兵43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。 旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。 健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。
矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5… 矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5日 - 1966年(昭和41年)1月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 194… 小野 行守(おの ゆきもり、1893年7月21日 - 1947年8月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 高知県幡多郡中村(現:四万十市)で生まれる。県立第三中学卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1916年(大正5年)、陸軍砲工学校卒業、翌年、同高等科卒業。その後、陸軍派遣学生として京都帝国大学工科大学機械工学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業する。 1923年(大正12年)、陸軍工兵学校の教官になる。1929年(昭和4年)、英国駐在武官、1932年(昭和7年)、陸軍技術本部付などを歴任。1936年(昭和11年)8月、砲工学校教官に就任し、1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進。
小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月1… 小柳 冨次(こやなぎ とみじ、1893年(明治26年)7月16日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 新潟県豊栄市(現・新潟市北区)出身。小柳杢次の長男として生れる。新発田中学校を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。「槇」乗組、「第7号駆逐艦」(松風)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。
三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)… 三国 直福(三國、みくに なおとみ、1893年(明治26年)7月12日 - 1990年(平成2年)6月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福井県出身。中学校教員・三国芳次郎の息子として生まれる。京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第22連隊付となる。1916年(大正5年)11月、陸軍砲工学校高等科(22期)を卒業。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)卒業した。 1922年(大正11年)8月、野砲兵第22連隊中隊長に就任し、参謀本部付勤務、第18師団参謀、陸軍兵器本廠付(陸軍省新聞班)、第6師団司令部付を務め、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進し第3師団司令部付となる。
能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9… 能勢 潤三(のせ じゅんぞう、1893年(明治26年)7月9日 - 1968年(昭和43年)4月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。青果卸商・能勢七郎の二男として生まれる。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。1918年(大正7年)9月から1919年(大正8年)2月まで、陸軍戸山学校で甲種学生として学んだ。 1925年(大正14年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第46連隊中隊長に就任。1927年(昭和2年)1月、歩兵第24旅団副官に転じ、第12師団副官を経て、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に進級し独立守備歩兵第2大隊付となる。
田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月… 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、日本軍の数々の謀略に直接関与していた。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長であったため、対米作戦について関与することはなく予備役とされ、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、検事側の証人として被告に不利な証言もした。検事の求めに応じどんなことでも証言した。ことに満州国は独立国ではないと。個人的には自分と競争的立場にあった武藤章に対しては、対英米開戦の責任について徹底的に不利益な証言をした。
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。