安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月… 安原 喜弘(やすはら よしひろ、1908年(明治41年)5月19日 - 1992年(平成4年)11月4日)は、日本の詩人、歌人。中原中也との親交が深く、多くの書簡を交わした人物として知られる。 1908年(明治41年)東京市芝区生まれ、その後目黒で育った。旧制成城第二中学校(1926年に旧制成城高等学校となる)に進み、そこで加藤英倫、富永次郎、古谷綱武などと知り合う。また、高校在学中の1928年(昭和3年)秋に、同じく学友である大岡昇平の紹介で中原中也と知り合った。後に大岡、中原らとともに同人誌『白痴群』を共同で企画し、1929年(昭和4年)4月に創刊した。また、同時期に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、京都市左京区百万遍にある京都アパートメントに転居する。
湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13… 湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日 - 1994年(平成6年)10月19日)は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)、岡山県岡山市出身。位階は正五位。 1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する。 同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。
田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41… 田中 重弥(田中 重彌、たなか しげや、1908年(明治41年)3月30日 - 1993年(平成5年)2月25日)は、日本の出版実業家、俳人、衆議院議員(2世議員)。雅号は茂哉(しげや)。田中弥助の長男。 長野県長野市に生まれる。1926年(大正15年)旧制長野商業学校卒業。父業を継いで第一法規出版社長となる。1950年(昭和25年)、全法令を網羅した『現行法規総覧』全100巻を出版して行政関係者必備の書との声価を得て、1953年(昭和28年)から日本の古今の全裁判例を網羅した『判例体系』全300巻を刊行した。さらに一般書籍まで出版を広げ、美術書「光悦」、歴史書「日本政治裁判史録」は毎日出版文化賞特別賞受賞。
京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1… 京極 杞陽(きょうごく きよう、1908年2月20日 - 1981年11月8日)は、東京市出身の俳人。高浜虚子に師事、「木兎」(もくと)主宰。本名は高光(たかみつ)。豊岡京極家13代当主で、少年期から壮年期までは子爵の爵位を持つ華族であった。靖国神社元宮司の京極高晴は次男である。また、五男の高幸は京極高鋭の養子となり峰山京極家を継いでいる。 1908年(明治41年)、父・京極高義、母・鉚の長男として東京府東京市本所区本所亀沢町二丁目6番地(現在の東京都墨田区亀沢一丁目)で生まれる。父・高義の家系は京極家のうち旧但馬豊岡藩主家の系統であり、父や祖父・京極高厚はともに貴族院議員を務めた子爵であった。
中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 199… 中野 藤吾(なかの とうご、1908年1月27日 - 1990年7月9日)は、日本の経済思想史学者、歌人。立川短期大学学長、明星大学経済学部教授などを歴任した。地元の立川市では、著名な文化人として知られていた。 中野藤吾は、当時の東京府砂川町の素封家・中野家の当主であった中野田郎吉の長男として生まれた。 東京商科大学に学んで教職に進み、巣鴨経済専門学校(千葉商科大学の前身)、日本経済専門学校(亜細亜大学の前身)の教員を歴任した。 1947年に、義兄・中野喜介が理事長となった学校法人立川学園によって、(旧制)立川専門学校が開校した際には、初代校長となった。同校は1950年に短期大学に昇格し、さらに1950年には都立へ移管されたが、その間、中野は学長であり続け、初代の東京都立立川短期大学学長となった 歌人としては、1950年代から1960年代にかけて多くの短歌を発表した。
藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 199… 藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。 東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。 大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務。
瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本… 瀬野 修(せの おさむ、1908年 - 1995年)は、日本の教師、兵士、歌人、作家。択捉島に出征後、敗戦後シベリアにて抑留中に和歌集『白樺日誌』を書き、日本に持ち帰ったことで知られる。基本的に名前は「修」表記であるが、国立情報学研究所では「脩」表記である。 1908年、京都府舞鶴市に生まれる。その後、旧制舞鶴中学校(現・京都府立西舞鶴高等学校)の教師として働いたのち、太平洋戦争において択捉島に兵士として出征後、終戦を迎え抑留される。ソ連コムソモリスク近郊の収容所を転々としながらシラカバの木の皮を使い、ガラスをとがらせペンに、煙突のすすをインク代わりにし全200-300首の和歌を書いた。 1947年に引き揚げされた時に白樺日誌を持ち帰り、1988年に舞鶴引揚記念館に『白樺日誌』を寄贈した。
芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1… 芦田 高子(あしだ たかこ、1907年(明治40年)10月1日 - 1979年(昭和54年)3月13日)は、日本の歌人。 芦田高子は、岡山県勝田郡勝北町(現・津山市)に生まれた。高等女学校を経て、梅花女子専門学校(現・梅花女子大学短期大学部)国文科を卒業後、婦女世界社の編集部に入社。そのころ二つ年下の医学生と知り合い、1931年(昭和6年)に結婚。門野高子となる。高子は、学資を援助したり面倒をみて医師に育てたという。その後、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校、啓明学院)、三省堂大阪支店出版課に勤務した。 そして、夫が能登の生地で開業することとなり、高子も石川県鹿島郡鳥屋町(現・中能登町)に移住。
高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 … 高原 博(たかはら ひろし、1907年〈明治40年〉10月 - 1987年〈昭和62年〉)は、日本の教育者、哲学者(カント美学・デューイ教育哲学)、歌人。勲等は勲三等。静岡女子大学名誉教授。 津市立高等女学校教諭、鹿児島県女子師範学校教諭、広島師範学校教授、静岡女子短期大学教授、静岡女子大学文学部教授、短歌個性主宰などを歴任した。 広島県出身の哲学者である。倫理学を専攻するとともに、探求学習に関する研究も手掛けていた。高等女学校や師範学校の教員を経て、静岡女子短期大学、静岡女子大学で教鞭を執り、後進の育成に努めた。歌集をいくつも上梓するなど歌人としても知られており、多くの歌人を育成した。 1907年(明治40年)10月、広島県で生まれた。
青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 19… 青山ゆき路(あおやま ゆきじ 1907年8月11日 - 1993年2月27日)は、日本の小説家、歌人。石川県鵜川村(石川県鳳至郡に所在。町制施行し鵜川町となる。現:能登町。)に生まれ、1914(大正3)年に北海道小樽市に来る。父母の生業である理美容業を継ぐ。大正末期に並木凡平を知り、以来口語短歌一筋に70年の歌歴を積む。1927(昭和2)年並木凡平が「新短歌時代」を創刊するや編集同人として参画。主著に歌集「せせらぎ」「青空に描く」「海峡」など。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年… 安住 敦(あずみ あつし、1907年7月1日 - 1988年7月8日)は、俳人、随筆家。前号・安住あつし。 東京市芝区生まれ。1917年に福島県平町(現・いわき市)に移り磐城中学に入学。1923年、父の事業の失敗のため東京に戻り、立教中学校に転入、1926年卒業。逓信官吏練習所を卒業を経て1928年に逓信省簡易保険局に入所。父の事業の失敗で上級学校に進めなかったことは、俳人として名をなして以降もつねに意識のなかにあったという。 1930年、同僚に誘われて短歌結社「覇王樹」に入会し、短歌を橋田東声に師事。同時期にやはり同僚に誘われ、上司の富安風生が主宰する「若葉」に入会し俳句を風生に師事。以後8年の間短歌と俳句をともに続ける。
森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月1… 森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月10日 - 1978年(昭和53年)3月25日)は、歌人、国文学者。 アメリカ合衆国ハワイに生まれ、生後4カ月で帰国して広島県豊田郡沼田西村(現・三原市)で育つ。1927年東京府豊島師範学校卒業後、小学校訓導となる。1932年日本大学高等師範部国語漢文科卒業、1936年東京高等師範学校研究科卒業、1939年日本大学法文学部文学科卒業。1942年東京市本所高等実践女学校教諭、1946年日本大学予科教授、1949年日本大学助教授、1956年日本大学教授。1960年「万葉の美意識」で日本大学文学博士。1977年定年。 若山牧水系の歌人で、1928年菊池知勇の『ぬはり』に参加。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 199… 中野 嘉一(なかの かいち、1907年4月21日 - 1998年7月23日)は、日本の詩人、歌人、精神科医。 愛知県碧海郡高岡町堤村(現:豊田市)出身。刈谷中学校(現:愛知県立刈谷高等学校)、慶應義塾大学医学部卒。在学中から前田夕暮に師事して歌集を刊行する。1944年から45年は軍医としてヤップ州メレヨン島に駐留し過酷な状況を日記に記し戦後は詩歌を著した。 精神科医として、東京武蔵野病院で太宰治の主治医を務めた。新短歌運動、シュールレアリスム運動に加わり、1951年に詩誌『暦象』を創刊、主宰する。1952年に詩集『春の病歴』で第1回中部日本詩人賞、1976年に『前衛詩運動史の研究』で第9回日本詩人クラブ賞を受賞する。
牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 198… 牛尾 三千夫(うしお みちお、1907年4月5日 - 1986年9月17日)は、日本の民俗学者、神職、歌人。現代に神がかりを残す大元神楽の伝承者で主に神楽と田植歌の分野で功績を残している。 1907年4月5日、島根県邑智郡市山村(現江津市桜江町市山)に生まれる。実家は神職を家職としていた。 1921年、市山村尋常高等小学校を卒業し島根県立浜田中学校に入学するも、長期の病気療養を経て1925年に退学、広島市の私立山陽中学校に編入し1927年に卒業した。医科大学進学を希望していたが、兄の死により牛尾が家業を継ぐことになり國學院大學神道部に進学する。なお母の死によって上京は1年遅れる。 在学中、鈴木棠三、三谷栄一らとともに方言研究会を創設し会誌「方言」を発刊するも3号で廃刊する。
細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 199… 細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 1997年9月6日)は、兵庫県出身の俳人。松瀬青々に師事、「倦鳥」を経て「風」同人。夫は沢木欣一。 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれる。実家は江戸時代から名主をつとめた素封家。 1919年、柏原高等女学校に入学、寮生活を送る。1923年、日本女子大学校国文科入学。1927年(昭和2年)、同大学を卒業、同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。1929年、夫を結核で失い、秋に肋膜炎を発病したため帰郷。佐治町の医師でもあった俳人・田村菁斎の勧めで俳句を始め、松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会、その年に投句し初入選する。
大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日… 大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の歌人。 静岡県静岡市生まれ。貿易商だった父延時(1883年 - 1935年)の関係で少年期までを神戸で過ごす。その後、三島に定住。曾祖父の永夢は幕臣で旗本。徳川慶喜の駿府移住に随行し、同地に住んだ、祖父直時は、三島に移り、のちに三島警察署長を務めた。1924年(大正13年)沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、父不在のもと苦学し、家族の病気や経済面から進学を断念して三島市で教職につく。のちに1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)まで県教職員組合執行委員長、初代県立児童会館長、中学校校長を務めるなど教育者として力を尽くした。
赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 198… 赤木 健介(あかぎ けんすけ、1907年3月2日 - 1989年11月7日)は、日本の詩人、歌人、編集者、歴史家。本名・赤羽 寿(あかばね ひさし)、別名・伊豆 公夫(いず きみお)。 青森市生まれ。九州帝国大学法文学部中退。姫路高等学校時代から『アララギ』に投稿、1928年の三・一五事件以来、左翼運動に挺身。1933年、検挙投獄。1935年、出獄ののち、渡辺順三らの『短歌評論』に参加。1932年、唯物論研究会に属し、日本共産党に入党するが、1938年、一斉検挙にあい、1944年に判決が下って下獄。この間、1940年に「在りし日の東洋詩人たち」で第4回透谷文学賞を受賞した。敗戦後、1945年10月に連合軍により解放される。
折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月2… 折口 春洋(おりくち はるみ、旧姓: 藤井、1907年2月28日 - 1945年3月19日)は、日本の国文学者、歌人。折口信夫の門弟、養嗣子。國學院大學教授。最終階級は陸軍中尉。 1907年(明治40年)2月28日、石川県羽咋郡一ノ宮村一ノ宮寺家千五十七番地(現・羽咋市)に藤井升義の四男として生まれる。 1913年(大正2年)4月、一ノ宮小学校に入学。1919年(大正8年)4月、金沢市少将町高等小学校に転じる。長兄・次兄と共に、同村の老婦をつけて、早くから遊学させられた。1920年(大正9年)4月、石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)入学。 1925年(大正14年)4月、國學院大學予科入学。
葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5… 葛原 妙子(くずはら たえこ、1907年(明治40年)2月5日 - 1985年(昭和60年)9月2日)は、歌人、潮音社友、日本歌人クラブ会員、女人短歌会会員。現代歌人協会発起人。南日本新聞歌壇選者。現代短歌女流賞選考委員。
長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月… 長谷川 素逝(はせがわ そせい、1907年(明治40年)2月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、日本の俳人。本名・直次郎。 父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。 俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。
河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、… 河村 みゆき(かわむら みゆき、1907年-1947年)は、自由律俳句の荻原井泉水に学んだ女流俳人。神奈川県小田原市の出身。旧姓は富田。 若くから求道者的な姿勢をもち、一燈園に身を投じ、その後岡山の金光教に移り、そこで夫河村恵雲と知り合う。結婚後は、夫の両親と、愛媛県西条市にある香園寺で暮らすが、まもなく肺結核を病んで床につく。そこに1939年10月8日に同門の俳人種田山頭火が見舞いに訪れ、13日まで滞在した。雑誌『層雲』(1936年)に句が残っている。山頭火に送った追悼文「をぢさん-山頭火翁の霊前に-」(『層雲』昭和16年4月号所収)がある。『層雲』には度々彼女の句が掲載されているが、闘病生活を詠んだものが多い。
鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日… 鈴木 真砂女(すずき まさじょ、女性、1906年11月24日 - 2003年3月14日)は、昭和期の俳人。本名はまさ。娘は女優の本山可久子。 千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)の三女として生まれる。日本女子商業学校(現・嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚して一女を出産するが、夫の失踪により実家に戻る。1935年9月から句作を始める。 28歳の時に長姉が急死し、旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚する。大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事した。30歳の時に旅館に宿泊した年下で妻帯者の海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こす。
山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉1… 山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉10月25日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日)は、日本の俳人。山口誓子の妻。本名は梅子。 浅井義晭(よしてる)・まさ夫妻の長女として、大阪市北区中之島に生まれる。大阪商船に務める父が1909年(明治42年)に韓国仁川の支店長として赴任したのに伴い、仁川に移住した。次いで1914年(大正3年)父の香港支店長として赴任に伴い、香港に移住した。 帰国すると1919年(大正8年)に大阪市東区宰相山町(現・天王寺区の三光神社の近隣)に居住した。近くの大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)に入学。1923年清水谷高女を卒業後、大手前之町の大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)の高等科に入学した。
池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日… 池内 友次郎(いけのうち ともじろう、1906年10月21日 - 1991年3月9日)は日本の作曲家・音楽教育家・俳人。
柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 -… 柴田 白葉女(しばた はくようじょ、1906年9月25日 - 1984年6月24日)は、俳人。本名は初子。 兵庫県出身、東北帝国大学文学部国文科卒。父井上白嶺の指導を受け、1932年より飯田蛇笏に師事。蛇笏の「雲母」同人となり、高橋淡路女と並んで同誌の代表的女性俳人として活躍。1954年、加藤知世子などとともに「女性俳句」創刊。1962年、「俳句女園」を創刊、主宰。1983年、第七句集『月の笛』により第17回蛇笏賞を受賞。他の句集に『冬椿』『遠い橋』など、また評論集に『女流の俳句』がある。代表的な句に「水鳥のしづかに己が身を流す」「春の星ひとつ潤めばみなうるむ」など。 1984年、千葉県市川市の自宅に一人でいた際に強盗に襲われ殺害された。
石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 19… 石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 1986年2月8日)は、日本の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。 新潟県北蒲原郡笹岡村(現阿賀野市)生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。 横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。1932年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。
細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日… 細谷 源二(ほそや げんじ、1906年(明治39年)9月2日 - 1970年(昭和45年)10月12日)は、日本の俳人。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)生まれ。本名は源太郎。旧号は碧葉。 工手学校(現・工学院大学)中退後、同じ俳人の松原地蔵尊の『句と評論』に加わった。1939年(昭和14年)、渡辺白泉、藤田初巳らと「句と評論」(後に「広場」に改題)を創刊した。後に内藤辰雄らと共に工場生活を取材し、口語表現にも挑戦した。1940年(昭和15年)、新興俳句弾圧により検挙され、約2年半収監される。 1945年(昭和20年)、戦後開拓として北海道豊頃村(現・豊頃町)の開拓地に家族とともに入植したが失敗に終わった。
坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年… 坪野哲久(つぼの てっきゅう、1906年9月1日-1988年11月9日)は、昭和期の日本の歌人。本名、坪野久作。妻の山田あきも歌人。 石川県羽咋郡志賀町出身。東洋大学文学部支那哲学科を卒業後、「アララギ」に入会し島木赤彦に師事。赤彦没後は小泉苳三主宰の「ポトナム」同人となる。後世のプロレタリア歌人としてのイメージが強いが、赤彦を最大の師として尊敬し、「アララギ」への帰属意識は終生持っていた。 1928年、新興歌人連盟に参加するが、五島茂との間に方向性の違いが生じ、1ヶ月で渡辺順三、浅野順一、伊澤信平、大塚金之助、浦野敬らとともに脱退、無産者歌人連盟を結成。1929年、東京ガスの人夫として働くも労働組合運動に参加したことから解雇される。
車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月2… 車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月28日 - 1978年(昭和53年)4月16日)は、日本の編集者、俳人、実業家。文藝春秋専務取締役を務めた。 静岡県下田市出身。唐人お吉研究で知られる郷土史家・眼科医の村松春水を伯父に持つ。1929年(昭和4年)東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒業。翌年『サンデー毎日』の懸賞小説に入選。永井龍男と下宿を共にしていたこともある。 1931年(昭和6年)より文藝春秋社に勤め、戦後、菊池寛が同社を解散した際、佐佐木茂索、鷲尾洋三らとともに文藝春秋新社を設立。『文藝春秋』、『オール讀物』の編集長、編集局長、出版局長を経て専務取締役となった。 小説を書くほか俳句をし、渡辺水巴、久保田万太郎に師事。
稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1… 稲垣 きくの(いながき きくの、1906年7月26日 - 1987年10月30日)は、日本の俳人、茶道教授であり、元女優である。女優時代の芸名は若葉 信子(わかば のぶこ)、旧芸名露原 桔梗(つゆはら ききょう)、出生名は野口 キクノ(のぐち きくの)、俳優の宮島啓夫との婚姻時には、本名を宮島 公子(みやじま きみこ)とした。 1906年(明治39年)7月26日、神奈川県愛甲郡厚木町(現在の同県厚木市)に生まれる。生年月日および生地については、『現代俳句大系 第12巻 昭和34年-昭和43年』(角川書店)、『日本人名大辞典』(講談社)、『CD - 人物レファレンス事典 日本編』(日外アソシエーツ)等、俳人「稲垣きくの」を紹介する記事においては上記あるいはそれに準じた記述があるが、女優「若葉信子」を紹介する『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)、『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、「1908年(明治41年)7月23日」に「福井県福井市」で生まれたとする記述がある。
佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12… 佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12日 - 1984年(昭和59年)10月11日)は、日本の写真家、歌人。熊本県熊本市出身、私立女子英学塾(後の津田塾大学)卒業。旧姓は梅村。 1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで桜蔭高等女学校(後の桜蔭学園)の教員を務めた後、1947年(昭和22年)、英語教室「津田英語会」創立共に、同会の講師となった。私生活では1928年(昭和3年)に結婚し、二男二女をもうけた。1942年(昭和17年)に東京都世田谷区に移住した。 1950年代頃より、世田谷の自宅を訪れる野鳥を寄せ親しみ、主婦としての家事の合間を縫って観察を続けた。1955年(昭和30年)に日本野鳥の会に入会した。
高藤 武馬(たかとう たけま、1906年2月15日 - 19… 高藤 武馬(たかとう たけま、1906年2月15日 - 1990年8月19日)は、国文学者、俳人。 広島市生まれ。東京帝国大学文学部国文科卒。法政大学教授、1977年定年、名誉教授。柳田國男に師事して民俗学を学び「柳田全集」編さんに関わった、古典作品の現代語訳も多くおこなった。若き日は蓮田善明と交流があった。種田山頭火も研究し全集を編纂した。俳号・馬山人。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
長沢 美津(長澤 美津、ながさわ みつ、女性、1905年11… 長沢 美津(長澤 美津、ながさわ みつ、女性、1905年11月14日 - 2005年4月26日)は、日本の歌人、国文学者。「女人短歌会」主宰。 石川県金沢市出身。旧姓:津田。津田全吉・フクの長女として生まれる。近祖に加賀藩の漢学者津田鳳卿がいる。県立第一高等女学校(現石川県立金沢二水高等学校)在学中に、和歌を江戸さい子に学ぶ。1922年、日本女子大学校国文科入学、短歌グループに入る。折口信夫の万葉講義を聴きに飯田橋の国学院へしばしば出かける。在学中に『目白文学』創刊に参加。恩師・久松潜一に文学史を学び、1926年卒業。久松の紹介状を持って古泉千樫を訪ね、その後帰郷し古泉に自作を送る。同年同郷の長沢雄次と結婚、上京し荻窪に住む。
福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月… 福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は、日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。 山口県萩町(現在の萩市)生まれ。父は陸軍中将の福田彦助、母は「ホトトギス」の俳人であった福田無声女。 東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。山口青邨の「夏草」にも所属し、1940年には「ホトトギス」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、川端茅舎、松本たかし、中村草田男らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。
平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月… 平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。 本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学医学部を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、阪本病院(布施市 現・東大阪市)院長、京阪病院院長(守口市)、を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。
加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月… 加藤 楸邨(かとう しゅうそん、1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)は、日本の俳人。本名は健雄(たけお)。位階は従四位。 水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。第二次世界大戦後は戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開、また主宰した『寒雷』では伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てた。 現在の東京都大田区北千束に生まれる。父・健吉、母・千佳の長男。当時、健吉は私設甲武鉄道の駅員で、東京転勤の命を受けた直後の出生であったため、出生届は前任地の山梨県大月市で出された。
佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8… 佐賀 省三(さが しょうぞう、明治38年(1905年)5月8日 - 平成2年(1990年)以降)は日本の俳人、政治家。元境港市議会議員。号榎村。佐賀家の12代目。 俳人鹿島平堂は大おじにあたる。 鳥取県西伯郡上道村(現・境港市上道町)の農家に生まれる。 鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)、正則英語学校(現・正則学園高等学校)を経て、大正14年(1925年)3月に東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)卒業。大正15年(1926年)3月、早稲田大学専門部中退。 帰郷して農業に従事する。上道村会議員、境港市会議員などをつとめた。 元農業会理事、村会議員、境港市農業委員等務め農業多角経営の指導、実践に努力、養鶏の大家として三十年の経験と共に県下に有名である。
生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月… 生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月23日 - 2000年〈平成12年〉1月18日)は、日本の歌人。沼田市名誉市民。日本歌人クラブ初代会長、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、現代歌人協会理事。戦後の女流歌人の第一人者と称される。旧姓・間宮。 三重県宇治山田町宮後(現・伊勢市)生まれ。父・間宮斎一、母・きよの四女。出生時は7ヶ月の未熟児だった。宇治山田高等女学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を経て、1926年(大正15年)に日本女子大学家政科卒業。帝国大学哲学科聴講生となる。同年10月、横山有策の媒酌により生方誠と結婚。群馬県沼田市で薬局「かどふぢ(角藤)」を経営する生方家に入る。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - … 百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - 1991年10月22日)は、俳人。本名・又三郎。静岡県浜松生。県立浜松商業学校卒業。在学中、高浜虚子に会い、その紹介で池内たけしに師事。1923年、上京し「ホトトギス」の句座に参加、同時に池内が選者を務めていた「破魔弓」(「馬酔木」の前身)に入会。1929年、24歳で「ホトトギス」巻頭。1933年、水原秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に拠り、「馬酔木」第一期同人となる。1945年、浜松の住居を戦災で失い、同県引佐郡細江町の父の生家に疎開。1946年「あやめ」創刊。1950年「あやめ」を「海坂」(うなさか)に改題、20年来の句友である相生垣瓜人と共宰する。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 19… 柴生田 稔(しぼうた みのる、1904年6月26日 - 1991年8月20日)は、日本の歌人、国文学者。
下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1… 下村 ひろし(しもむら ひろし、1904年6月16日 - 1986年4月21日)は、長崎県出身の俳人、医師。本名宏。長崎市生。長崎医科大学卒。在学中、田中田士英の指導で俳句を始める。1933年、「馬酔木」に入会し水原秋桜子に師事。1947年「棕梠(しゅろ)」を創刊・主宰。終生まで長崎で活動したと見られ、初期より異国情緒のある句を詠む。また医師として被爆者の救済に務めた経験ものちの句作に影響を及ぼした。1977年、『西陲集』により第17回俳人協会賞を受賞。句集に『石階聖母』(1963年)『西陲集』(1976年)『西陲集以後』(1988年)。
松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - … 松尾 あつゆき(まつお あつゆき、1904年6月16日 - 1983年10月10日)は、長崎県出身の俳人。本名、敦之。 1904年(明治37年)、長崎県北松浦郡生まれ。長崎高等商業学校(旧制。現・長崎大学)卒業後、英語教師となる。在学中より自由律俳句に傾倒し、24歳のとき「層雲」に入会、荻原井泉水に師事。のち「層雲」同人、1942年層雲賞受賞。。1945年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、四人の子供のうち長男、次男、次女の三人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居、公立学校教員(地方公務員)となり、旧制 佐世保第二中学校の英語教師となる。1948年に再婚、生地を離れ長野県千曲市の高等学校に赴任した。
谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年… 谷 邦夫(たに くにお、1904年5月12日 - 1991年11月23日)は、日本の政治家、歌人。 本名は谷 国夫(たに くにお)。 栃木県那須郡湯津上村(現大田原市)佐良土に生まれる。1920年(大正9年)3月、宇都宮商業学校を卒業。家業の商店を継ぐ傍ら、歌誌『創作』に入会し若山牧水に師事した。後に吉植庄亮の『橄欖』に入会する。 1942年(昭和17年)4月、湯津上村議会議員に当選した。以後5回当選し、1951年(昭和26年)4月から村議会副議長を4年間、1965年(昭和40年)4月から村議会議長を2年間務めた。途中、1957年(昭和32年)12月には合併をめぐる対立から村議会議員を辞職している(後述)。
市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989… 市村 宏(いちむら ひろし、1904年5月6日 - 1989年11月10日)は、日本の国文学者、歌人。文学博士(東洋大学・論文博士・1961年)。東洋大学名誉教授。雅号は「迯水居」。 長野県上高井郡小布施町生まれ。旧制大分高等商業学校、1941年東洋大学文学部国文学科卒業。1926年から出版社の辞書部に勤務、1948年から新村出の委嘱により岩波書店で「広辞苑」の編集主任を務めた。1953年東洋大学国文学科講師、1956年同教授、1973年退任、名誉教授。1961年「萬葉集考」で文学博士(東洋大学)の学位を取得。1973年から迯水短歌会を主宰し、機関誌を発行した。 この項目は、文学に関連した書きかけの項目です。
栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月2… 栗生 純夫 (くりう すみお、1904年(明治37年)4月20日 - 1961年(昭和36年)1月17日)は、日本の俳人、小林一茶研究家。本名は神林 新治(かんばやし しんじ)。須坂市名誉市民。 長野県上高井郡須坂町(現在の須坂市東横町)の農業・繭糸商の家に生まれる。小諸市出身の臼田亜浪に師事。実作者の立場から小林一茶を研究し、軍隊入営中に『一茶新考』を出版するなど、書物を数多く発表。1946年(昭和21年)、郷里の長野県須坂町で俳誌『科野』(しなの)を創刊し、『信濃毎日新聞』俳壇選者を長く担当するなど、信濃俳壇の中心となって活躍した。一茶研究により日本俳文学会会員に推挙される。1961年死去。
大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 198… 大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日)は、昭和期の俳人。本名は大野正(おおの まさし)。 神奈川県横浜市生まれ。旧制県立横浜第一中学校、旧制第四高等学校を経て、1927年東京帝國大学経済学部を卒業。大学卒業後は日本光機工業に入社。1930年に会社を辞めて神奈川県立商工実習学校(現・神奈川県立商工高等学校)教諭となる。当時の教え子に、後に高弟となる宮津昭彦がいる。中学時代より鈴木三重吉や佐藤春夫の抒情詩に傾倒。俳句は中学時代の1920年、親友の荻野清(のち俳文学者となる)の父から手ほどきを受け、1921年、荻野の勧めをうけて「石楠」に入会、臼田亞浪に師事する。