上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1… 上原 良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍特別攻撃隊第56振武隊員。 「自由主義者」を標榜する遺書の内容で有名。上原が書き残した遺書や手記などは、近代日本史上の軍人が書き残した遺稿の中で、最もよく知られているものの一つであり、『きけ わだつみのこえ』などの多くの書籍に掲載され、映画やドキュメンタリー番組で度々取り上げられている。 長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の父・上原寅太郎、母・よ志江の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。 遠縁にあたる「有明医院」を継いだ上原家は裕福で子供らに文化的な生活を送らせており、近くの乳房川で家族みんなで写真の撮影会をしたり、家の離れに近所の子供たちを集めて肝試し大会を開催したり、広い裏庭ではテニスをやったり、またスキーや登山といった遠出も頻繁に行っていた。
伊佐 二久(いさ つぐひさ、1922年(大正11年)9月20… 伊佐 二久(いさ つぐひさ、1922年(大正11年)9月20日 - )は、日本の陸軍軍人、医師、医学者、著作家。太平洋戦争に従軍した後に医師となり、国際協力事業団にも参加するなどして各国の医療事情を調査した。筆名としては伊佐 三休(いさ さんきゅう)の名も用いている。 1922年、福岡県小倉市に生まれる。幼くして朝鮮の龍山に渡り、6歳まで同地で過ごした。福岡県甘木小学校、久留米市金丸小学校を経た後、中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身の1つ)1年を修了する。1936年(昭和11年)に広島陸軍幼年学校へ入学(第40期)、1938年(昭和13年)には陸軍予科士官学校へと進み(第55期)、翌年には歩兵第26聯隊へ士官候補生隊付として配属され、満州国・チチハル駐屯並びにソ満国境のハンダガイの守備に従事した。
加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)… 加藤 曻(加藤 昇、かとう のぼる、1922年(大正11年)9月 - 2020年(令和2年)7月30日 )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。 京都府京都市出身。父は、商船の船長をして不在がちであったため、専ら母の影響を受けて育つ。1934年(昭和9年)4月、京都市立第二商業学校に入学。同校卒業後、1939年(昭和14年)4月、立命館大学法学部に入学。1942年(昭和17年)徴兵検査甲種合格。大東亜戦争の戦況拡大に伴い、1943年(昭和18年)9月、同校を繰上げ卒業。 1943年(昭和18年)海軍航空隊へ志願し、10月1日、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊で基礎教程を学ぶ。
羽藤 一志(はとう かずし、1922年(大正11年)8月18… 羽藤 一志(はとう かずし、1922年(大正11年)8月18日 - 1942年(昭和17年)9月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争のエース・パイロット。戦死による特進で最終階級は二等飛行兵曹。 1922年8月18日、愛媛県今治市(旧越智郡玉川町)に生まれる。生後、父親の仕事で今治市常盤町に転居。父親が早くに亡くなり、母親が再婚、異父兄弟の妹と弟がいたが、兄弟仲は良かった。 1938年(昭和13年)6月、海軍飛行予科練習生乙飛9期生として入隊。同期の本間猛は、羽藤は予科練時代から温和な優男であり、級友は羽藤が戦闘機に行ったというので「羽藤が戦闘機にねえ」と言ったが、ひとたび戦場に出るや、闘志満々、戦意旺盛、零戦を駆って縦横無尽の活躍をして敵機十数機を撃墜したと語っている。
朴 炫洙(パク・ヒョンス、박현수、1922年8月4日 - 2… 朴 炫洙(パク・ヒョンス、박현수、1922年8月4日 - 2009年11月14日)は、大韓民国の軍人。最終階級は陸軍少将。 全羅南道出身。上智大学在学中、学徒出陣して陸軍航空隊に配属。終戦時少尉。 帰国後、軍事英語学校を卒業し、参尉に任官(軍番105番)。1951年3月、第35連隊長。砲兵戦力の強化人員として「16人の砲兵将星」の一人に選抜され、光州砲兵学校で3か月の基礎訓練を受けたのち米国に留学、帰国後は首都師団砲兵団長を経て第2軍団砲兵団長、第2師団長。1955年6月より再度渡米し、米陸軍指揮幕僚大学に留学。帰国後は連合参謀本部第1部長、第20師団長、第6軍団(朝鮮語版)副司令官、第1軍管区司令官、第5軍管区司令官を経て1960年、朴正煕の後任で釜山の陸軍軍需基地司令官になった。
柿崎 実(かきざき みのる、1922年(大正11年)8月3日… 柿崎 実(かきざき みのる、1922年(大正11年)8月3日 - 1945年(昭和20年)5月2日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争(第二次世界大戦)の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1922年(大正11年)8月3日に山形県酒田市で生まれる。旧制酒田中学校を経て海軍兵学校に入校する。性格は温厚・無口で、あまり感情を表に出さなかったとされる。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校(72期)を卒業後、同日中に空母「瑞鶴」へ乗り組んで実習を続けるが、1944年(昭和19年)8月に海軍潜水学校学生の発令を受け、そのまま人間魚雷「回天」搭乗員に転じた。
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1… 石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。
永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28… 永野 茂門(ながの しげと、1922年〈大正11年〉6月28日 - 2010年〈平成22年〉1月4日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官、政治家。陸上幕僚長、参議院議員(2期)、法務大臣などを歴任した。法務大臣は在任11日で辞任した。 大分県出身。大分中学校(現:大分県立大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は電信第13連隊中隊長、陸軍大尉。 戦後、公職追放を経て、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となるも、1980年に宮永スパイ事件の責を取る形で時の防衛庁長官・久保田円次とともに辞任した。 1986年、第14回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から出馬し、名簿順位は25名中21位だったが、自民党の大勝により当選した(22位までが当選)。
平柳 育郎(ひらやなぎ いくろう、1922年(大正11年)5… 平柳 育郎(ひらやなぎ いくろう、1922年(大正11年)5月23日 - 1944年(昭和19年)1月4日)は、日本の海軍軍人。海兵70期首席。最終階級は海軍大尉。 歩兵第58聯隊大隊長(1920年〈大正9年〉8月10日 -1922年〈大正11年〉3月31日)から東京の陸軍兵器本廠廠員(1922年〈大正11年〉4月1日-1923年〈大正12年〉3月16日)に転属となった福井県士族・陸軍歩兵少佐の平柳竹志(陸士14期)の三男として生まれる。 父・竹志は育郎が生まれた翌年の1923年(大正12年)3月17日に陸軍歩兵中佐に昇進と同時に待命を命じられ、同年3月31日を以て陸軍軍備縮小の影響で予備役編入、退職。
廣田 和民(ひろた やすたみ、1922年(大正11年)5月5… 廣田 和民(ひろた やすたみ、1922年(大正11年)5月5日 - 2008年(平成20年)5月27日)は、元日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍主計大尉。戦後は印刷会社を経営。 北海道旭川市出身。父の転勤の関係で旭川市で出生するが、その後地元栃木県宇都宮市で育つ。士族。祖父は宇都宮藩士。父と二代ともに帝国陸軍士官。 旧制栃木県立宇都宮中学(現宇都宮高校)を経て1939年(昭和14年)12月に陸軍経理学校に進学(第5期、陸士56期相当)。ラバウル、フィリピン、インドシナ各地を転々とし、ボルネオ島にて終戦。終戦時階級は陸軍主計大尉。 終戦直後、オーストラリア軍に投降、同軍収容所にて捕虜生活を送り、翌年1946年(昭和21年)に復員後、鉄道教科書会社に就職。
邦寿王(くにながおう、1922年(大正11年)4月21日 -… 邦寿王(くにながおう、1922年(大正11年)4月21日 - 1986年(昭和61年)4月16日)は、日本の元皇族、陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。賀陽宮恒憲王の第1王子。臣籍降下(皇籍離脱)後は賀陽邦寿(かや くになが)。明仁上皇(第125代天皇)の再従兄にあたる。 1922年(大正11年)4月21日午前0時45分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第1男子として誕生。御七夜の4月27日に「邦寿」と命名された。 学習院中等科を経て、東京陸軍幼年学校(40期)卒業後、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には早淵四郎中将の下で豊橋第一陸軍予備士官学校の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。
野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉… 野村 実(野村 實、のむら みのる、1922年〈大正11年〉4月16日 - 2001年〈平成13年〉5月18日)は、日本の海軍軍人、軍事史学者。滋賀県出身。 専門は日本海軍史。防衛大学校教授、名古屋工業大学教授、軍事史学会会長を歴任した。学位は文学博士(慶應義塾大学)。最終階級は海軍大尉。 滋賀県彦根市生。旧制彦根中学校を経て海軍兵学校入校(第71期)。1942年(昭和17年)卒業(次席)。 空母「瑞鶴」、戦艦「武蔵」乗組、軍令部第1部付(作戦記録係)で太平洋戦争を経験、海軍兵学校教官で終戦を迎える。 終戦後は復員庁で極東国際軍事裁判海軍被告人弁護事務を担当。海軍大尉の経歴のため公職追放となる。
後宮 俊夫(うしろく としお、1922年4月12日 - 20… 後宮 俊夫(うしろく としお、1922年4月12日 - 2018年12月23日)は、日本の海軍軍人、牧師(日本基督教団)。最終階級は海軍大尉。海軍兵学校70期。陸軍大将の後宮淳は叔父、榎本保郎は義兄に当たる。 1922年(大正11年)、陸軍軍人(陸軍中佐)であった後宮太朗の長男として和歌山県和歌山市に生まれる。神戸第一中学校4年の時、海軍兵学校に入学し、1941年、70期としてこれを卒業。卒業後には連合艦隊勤務となり士官として戦艦「霧島」に乗務、1942年にはソロモン海戦で負傷している。その後、戦艦「山城」、駆逐艦「霜月」に続けて乗務するも、1944年9月からは結核のため療養となりそのまま終戦を迎えた。
久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日… 久住 宏 (くすみ ひろし、1922年(大正11年)4月1日 - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の海軍軍人。海兵72期。大東亜戦争の末期、人間魚雷「回天」で出撃して戦死した。死後二階級特進し、最終階級は海軍少佐。 1922年(大正11年)4月1日に埼玉県川越市の素封家に生まれる。旧制東京府立第九中学校から海軍兵学校へ進学し、72期で卒業した。卒業後は同日中に軽巡洋艦「多摩」へ乗り組んで実習を重ね、さらに海軍潜水学校11期普通科学生として採用、1944年(昭和19年)8月に卒業したが、久住は当時極秘だった人間魚雷の存在をどのように知ったのか、必死兵器への配属を強く希望し、潜水学校を卒業した海軍兵学校72期卒業生ではただ一人の「回天」搭乗員として、同年9月6日に人間魚雷「回天」を創案した黒木博司大尉・仁科関夫中尉と共に第一特別基地隊大津島基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 20… 小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - 2014年1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。和歌山県出身。 情報将校とし第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。その後は、メディアにつきまとわれた事もあり、戦後の日本への適応は困難であった。 大正11年(1922年)、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・小野田種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。小野田家は海南市小野田の宇賀部神社の宮司を代々務める家柄で、寛郎の家はその分家。
石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7… 石井 淑普(いしい よしなみ、1922年(大正11年)3月7日 - 1999年(平成11年)10月3日 )は、日本の陸軍軍人。インドネシア独立の英雄の一人。インドネシア名はサトゥリア。 佐賀県において陸軍将校の一人息子として生まれる。父は後に満州国陸軍の中将をつとめた。1943年(昭和18年)10月、学徒出陣に伴い拓殖大学商学部を繰り上げ卒業。拓殖大学在学中、大川周明のゼミに所属し、大アジア主義について学ぶ。 その年の12月、陸軍久留米工兵隊(西部第52部隊)に入隊し、間もなく、陸軍特別操縦見習士官(三期)を経て、陸軍少尉に任官し、インドネシアに進駐。 1945年(昭和20年)8月15日、インドネシアで終戦を迎えたが、日本に復員することなく、軍を離脱し、インドネシア独立義勇軍に参加し、インドネシア独立戦争に身を投じる。
古谷 眞二(ふるや しんじ、1922年2月24日 - 194… 古谷 眞二(ふるや しんじ、1922年2月24日 - 1945年5月11日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少佐。 1922年2月24日に東京都で生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。 1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して[要出典]南西諸島へ向かう。
穴澤 利夫(あなざわ としお、1922年〈大正11年〉2月1… 穴澤 利夫(あなざわ としお、1922年〈大正11年〉2月13日 - 1945年〈昭和20年〉4月12日)は、大日本帝国陸軍軍人、特別攻撃隊、振武隊隊員。婚約者は孫田智恵子。穴沢利夫とも記される。 1922年2月13日、現在の福島県喜多方市に生まれる。生家は農家であったが、穴澤の祖父が他人の債務の保証人となり財産を失ったこともあって、経済的には恵まれなかった。駒形小学校から喜多方中学校に進学したが、通学に汽車は使えず、毎朝5時に起床して片道2時間かけて徒歩で通学していた。穴澤は子供の頃から読書が好きであり、将来の夢は図書館を設立することであった。読書好きが高じて、喜多方中学校卒業後、大学進学前に1年間文部省図書館講習所に進学している。
角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日… 角替 武(つのがえ たけし、1922年(大正11年)2月9日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の元陸軍軍人および実業家。陸士55期次席。日本航空常務取締役、日本アジア航空代表取締役社長および名誉顧問。 静岡県掛川市出身。1936年(昭和11年)4月、掛川中学校(現:静岡県立掛川西高等学校)より東京陸軍幼年学校に転学。1941年(昭和16年)に陸軍士官学校卒業後、満州・東安駐屯の歩兵第22連隊に配属される。大戦末期、内地の陸軍士官学校区隊長(58期・60期担当)に発令され、陸軍大尉で終戦を迎える。 戦後は公職追放を受ける。1952年9月、東京大学法学部卒。1953年に日本航空に入社、経理課長、ロンドン支店長、運送本部管理部長、経営管理室長を経て1979年6月より常務取締役。
呉 元善(オ・ウォンソン、朝鮮語: 오원선/吳元善、1922… 呉 元善(オ・ウォンソン、朝鮮語: 오원선/吳元善、1922年2月7日または1923年 - 1978年5月31日)は、大韓民国の軍医、海軍軍人(海軍准将)、海兵隊員、政治家。原子力院院長、保健社会部長官、第7代韓国国会議員を歴任した。本貫は海州呉氏。 日本統治時代の忠清北道陰城郡出身。1943年または1944年セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒。1961年または1962年岐阜医科大学で医学博士取得。1949年にセブランス医科大学講師を務めたが、1950年の朝鮮戦争中に大韓民国軍に入隊した。1955年から仁川陸軍病院長、大韓民国海軍医務参謀、海軍本部医務次監、海軍軍医学校校長を経て、5・16軍事クーデターの後の1961年6月から現役の海軍大領として第3代原子力院(現・原子力安全委員会)院長を約2年間務めた。
平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日… 平野 晃(ひらの あきら、1922年(大正11年)1月15日 - 2009年(平成21年)12月27日)は、大日本帝国海軍軍人及び航空自衛官である。第13代航空幕僚長。鹿児島県出身。 鹿屋中学を経て海軍兵学校(第69期)卒業。戦時中は当初は艦隊勤務で真珠湾攻撃時は戦艦「霧島」に乗艦して作戦に参加。軽巡洋艦「阿武隈」ではアッツ島の戦いで陸戦隊を指揮している。空母「翔鶴」では高角砲指揮官として南太平洋海戦、第二次ソロモン海戦に参加したが、航空機の優位を痛感し、飛行学生を志望する。 艦上爆撃機の訓練を受けるが、1944年(昭和19年)末に特攻隊が編成され、その分隊長となる。特攻兵器「桜花」22型の開発実験に携わり、1945年(昭和20年)8月15日午後1時に正式採用のための最終判定の実験が行われることとなり、爆撃機「銀河」に搭載された「桜花」に搭乗する予定であった。
和田 稔(わだ みのる、1922年(大正11年)1月13日 … 和田 稔(わだ みのる、1922年(大正11年)1月13日 - 1945年(昭和20年)7月25日)は、福岡県小倉出身の日本海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 福岡県小倉市立堺町尋常小学校、静岡県立沼津中学校、第一高等学校(一高)を首席で卒業後、現役で東京帝国大学法学部に合格。沼津で開業医の温厚な父と、愛情深い母、兄思いの3人の妹と1人の弟の7人家族であった彼は、一高から東京帝大というエリートコースを順調に進み、都会に出て独り暮らしをするが、故郷が恋しくて、週末はよく沼津に帰郷していた。 帝大に入ってから、彼は学生生活と言いながら、軍事教練ばかりする生活に嫌気が差していた。日々、ラジオでは戦況の悪化が知らされている頃だ。
山本 平弥(やまもと へいや、1922年(大正11年)- 2… 山本 平弥(やまもと へいや、1922年(大正11年)- 2012年(平成24年))は、日本の学者、海上保安官、海軍軍人(予備将校)である。最終階級は海軍大尉。工学博士。 新潟県長岡市において生まれる。1943年(昭和18年)東京高等商船学校機関科(現・東京海洋大学)卒業。 大阪商船に入社するも、海軍に応召。重巡洋艦「足柄」、防空駆逐艦「秋月」に乗り組み、機関科分隊士として軍務につく。1944年に乗艦「秋月」が沈没し、九死に一生を得る。その後、横須賀海軍砲術学校教官に転任し、海軍予備生徒の教育に従事。終戦時は海軍大尉。 戦後は、大阪商船に復帰するが、間もなく海上保安庁に入庁し、巡視船機関長等を歴任し、海上保安大学校教授(現・名誉教授)、第七管区海上保安部長、海上保安学校長を歴任。
富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年… 富安 俊助(とみやす しゅんすけ、1922年 - 1945年)は、大日本帝国海軍軍人。太平洋戦争末期に神風特別攻撃隊の一員として特攻した将校(中尉)である。 映画「永遠の0」のモデルとなっており、 空母エンタープライズを一撃で戦闘不能に追い込んだ。 長崎県で生まれ、幼少期を東京府で過ごした。1942年に早稲田大学政治経済学部を卒業後、南満洲鉄道に就職するも、戦争の激化を前に志願し、1943年に飛行予備士官として大日本帝國海軍に入隊。筑波海軍航空隊にて短期間の訓練を受けた後、鹿屋基地に配属され、特攻隊・第6筑波隊の一員となった。 富安は、周囲の証言によれば「陽気で人なつっこく、音楽やスポーツを愛する」人物であったという。
張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年ま… 張 坰淳(チャン・ギョンスン、朝鮮語: 장경순、1922年または1923年3月23日 - 2022年7月18日)は、大韓民国の政治家、陸軍軍人、柔道家(2004年9月より名誉十段)、実業家。第6・7・8・9・10代韓国国会議員、第6・7・8代国会副議長、元農林部長官。 本貫は仁同張氏。号は霞原 (ハウォン、하원)。 日本統治時代の朝鮮で全羅北道の金堤に生まれた。東洋大学専門部拓殖科卒業。全北中高等学校で体育教師を務めた後、陸軍士官学校(7期特別班)、陸軍大学を卒業した。その後、陸軍情報学校校長、陸軍本部教育処長、陸軍士官学校参謀長、国家再建最高会議最高委員、農林部長官、国家再建最高会議運営分科委員長を務めた。
中原 光信(なかはら みつのぶ、1922年(大正11年) -… 中原 光信(なかはら みつのぶ、1922年(大正11年) - 2003年(平成15年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉、情報担当将校。終戦時は陸軍独立混成第34旅団所属。クァンガイ陸軍中学教官としてベトナム独立戦争に参加した。ベトナム名はグエン・ミン・ゴック(ベトナム語:Nguyễn Minh Ngọc / 阮明玉)。 愛媛県出身。法政大学に入学後、剣道部主将を務めた。1944年に法大を繰り上げ卒業で陸軍に入隊し、熊本陸軍予備士官学校を経て、日本軍が進駐していたフランス領インドシナ(仏印)のフエに着任する。1945年7月からベトミンと連絡を取り始める。日本敗戦の直後には井川省少佐の「緊急事態が生じたということで、武器庫に施錠せずに至急撤収せよという旅団司令部命令を伝えろ」との指示を受けて保安部隊を司令部に呼び戻し、フエの旧皇宮にあった武器保管所(明号作戦で仏印軍から押収した武器が収蔵されていた)を無人化することでベトミンに武器を提供した。
崔 沢元(チェ・テグォン、최택원、1921年12月23日 -… 崔 沢元(チェ・テグォン、최택원、1921年12月23日 - 1995年3月14日)は、大韓民国の軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第四共和国体制で第13代総務処次官。 新義州出身。1943年、日本中央大学卒業。 警備士官学校5期卒業。 在日米軍で研修中に朝鮮戦争開戦を迎え、龍門山の戦いに参加。同年、陸軍大学を経て渡米留学し、米陸軍歩兵学校を卒業。第38師団長、第26師団長、第3師団長等を歴任し、陸軍本部作戦参謀副長で予備役編入後、総務処次官。朴正煕暗殺事件当時、国務会議招集責任者。12.12クーデター直後、行政改革委員長を務めた。 1995年3月14日、ソウル永登浦区汝矣島洞の自宅で老衰により死去した。
厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23… 厚見 峻(あつみ たかし、1921年(大正10年)11月23日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。第2期海軍甲種飛行予科練習生。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍飛行特務少尉。 埼玉県北葛飾郡幸松村(現・春日部市)に、7男3女の末っ子として生まれた。 粕壁小学校を経て埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)に学び、1938年(昭和13年)4月1日、第2期海軍甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊した。海軍航空隊への入隊に先立ち、厚見は母に「母さん、これで僕の第一希望は達せられた。この上は戦闘機に乗りたいと思います。
伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 -… 伊藤 清(いとう きよし、1921年(大正10年)11月 - 2012年(平成24年)7月4日)は、大日本帝国海軍軍人。第二次世界大戦における零式艦上戦闘機のエース・パイロットである。 1947年(昭和22年)の結婚により改姓し、加藤 清(かとう きよし)となった。 1921年(大正10年)新潟県村上市で、6人兄弟の3男として生まれた。高等小学校を出て織物工場で働くが、海軍機関兵だった従兄の影響を受けて、1939年(昭和14年)6月1日横須賀海兵団に入隊し、教程を終えた10月に水雷艇「鴻」に乗組みとなった。1940年(昭和15年)11月、海軍飛行予科練習生丙2期生として土浦海軍航空隊に入隊した。
上原 重太郎(うえはら じゅうたろう、1921年10月14日… 上原 重太郎(うえはら じゅうたろう、1921年10月14日 - 1945年8月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。宮城事件森赳近衛師団長殺害事件の首謀者の一人。 兵庫県神戸市生まれ。父は船員であった。京都府立二中、広島陸軍地方幼年学校から陸軍士官学校卒(55期)。陸軍戸山学校生徒を経て、陸軍挺進練習部(現 新田原基地)で落下傘降下を学ぶ。1944年陸軍航空士官学校(現入間基地)へ移る。 1945年8月15日、近衛師団司令部で森師団長を刺殺。同月19日、陸軍航空士官学校(修武台)裏の航空神社前で自決。なお、入間基地内に「上原大尉自刃之碑」がある。
竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年(大正10年)10月 … 竹田 五郎(たけだ ごろう、1921年(大正10年)10月 - )は、日本の陸軍軍人、航空自衛官、軍事評論家。最終階級は陸軍では陸軍大尉、航空自衛隊では統合幕僚会議議長たる空将。第14代航空幕僚長、第12代統合幕僚会議議長。
菅野 直(かんの なおし、1921年〈大正10年〉9月23日… 菅野 直(かんの なおし、1921年〈大正10年〉9月23日- 1945年〈昭和20年〉8月1日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。大東亜戦争における撃墜王。戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 胴体に黄色のストライプが描かれた紫電改で、前方高度差1000メートル以上の高さから、背転して真っ逆さまに垂直に突っ込み、真上から敵機に攻め込む「対大型爆撃機戦法」を編み出し、米軍の大型戦闘機パイロット達の間で「イエローファイター」と呼ばれて怖れられた人物である。 1921年(大正10年)9月23日、警察署長である父・浪治の赴任先で日本統治下の朝鮮の竜口(現:北朝鮮平壌近郊)に次男として生まれる。
黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11… 黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11日 - 1944年(昭和19年)9月7日)は、日本の海軍軍人。海軍機関学校51期。太平洋戦争の末期、仁科関夫中尉とともに人間魚雷「回天」を創案し、自らも搭乗して訓練中の事故で殉職した。最終階級は海軍少佐。 1921年(大正10年)9月11日に岐阜県益田郡下呂村(現・下呂市)で生まれる。幼少より成績優秀・努力家で、黒木家は尊皇の志が篤く、黒木の父親は町医師として近隣の貧しい農民の医療に大きく貢献していた。母親も「百人の人に笑われても一人の正しい人に誉められるよう、百人の人に誉められても一人の正しい人に笑われないよう」と教えた。旧制岐阜中学校を卒業後、1938年(昭和13年)12月1日に海軍機関学校(51期)へ入学する。
関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 … 関 行男(せき ゆきお、1921年(大正10年)8月29日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。最終階級は海軍中佐。 レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」(爆装零戦5機)を指揮して、アメリカ海軍の護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、さらに護衛空母3隻を撃破した武功で知られる。 1921年8月29日に、愛媛県新居郡大町村(現:西条市)で、父・勝太郎(骨董商)と母・サカエの一人息子として生まれた。 大町尋常小学校(現:西条市立大町小学校)、愛媛県立西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1938年12月に海軍兵学校(70期)へ入校。
岩瀬 勝輔(いわせ かつすけ、1921年(大正10年)8月4… 岩瀬 勝輔(いわせ かつすけ、1921年(大正10年)8月4日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」艇長としてマダガスカル攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍大尉。 香川県綾歌郡山田村出身。税務署職員であった父が勤務していた愛媛県松山市に生まれる。四人兄弟妹の次男であった。岩瀬は父の転勤により、小中学校で三度の転校を経験した。入学した中学は滋賀県立膳所中学で、徳島県立池田中学に転入し、1938年(昭和13年)、中学4年で陸軍士官学校と海軍兵学校に合格した。海兵進学を選択し、1941年(昭和16年)3月に卒業した。岩瀬は海兵69期生で、このクラスは343名の同期生中223名が戦死している。
又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月… 又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月1日 - 2004年〈平成16年〉4月8日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍大尉(大日本帝国陸軍)、陸将補(陸上自衛隊)。初代自衛隊沖縄地方連絡部長。 初代沖縄県知事屋良朝苗の教え子であり、沖縄返還の際に政府・自衛隊・沖縄県の交渉に関わった。 沖縄県読谷村生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)では陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐と同窓。1941年8月、陸軍士官学校(55期)卒業。歩兵第130連隊(高田)、仙台、得撫島守備を経て、独立混成第101旅団司令部付。 終戦後、知念高校教諭を務める。1955年、陸上自衛隊入隊。
崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1… 崔 栄喜(チェ・ヨンヒ、1921年3月1日 - 2006年1月11日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。朝鮮戦争の指揮官であり、陸軍中将で陸軍参謀総長(第12代)を務めた。退役後は国会議員(第7代・第8代・第9代・第10代)、国防長官(第16代)、維新政友会院内総務などを歴任した。太極武功勲章授与者。本貫は隋城崔氏(朝鮮語版)、仏教徒。 1921年、日本統治下の朝鮮京城府(現ソウル特別市)生まれ。1944年に日本の専修大学法学部卒業後、日本陸軍工兵学校に入校し、日本陸軍工兵少尉に任官される。 戦後、韓国に帰国した後、1946年2月18日付で軍事英語学校を卒業し、任少尉(軍番10051番)。1947年、第1旅団人事参謀。
久納 好孚(くのう こうふ、1921年1月15日 - 194… 久納 好孚(くのう こうふ、1921年1月15日 - 1944年10月21日)は、日本の海軍軍人。戦死による特進で最終階級は海軍少佐。未帰還になった神風特攻隊大和隊の隊長であり、特攻第一号とする主張がある。 1921年1月15日愛知県で生まれる。外地の大田中学校を経て、1942年9月法政大学専門部卒業。1942年9月第11期飛行予備学生。霞ヶ浦航空隊付。1943年8月予備少尉、徳島航空隊付。1943年12月265空付。1944年7月予備中尉、第二〇一海軍航空隊付。久納は法政大学在学時から羽田海軍予備航空団に在籍しており、他の予備学生の航空士官と比較して操縦技術はベテランの域に達していた。二〇一空は零式艦上戦闘機を爆戦として運用して敵艦隊を攻撃しようと計画し、副長玉井浅一中佐を中心として零戦による急降下爆撃の訓練を行っていた。
宮田 敬助(みやた けいすけ、1921年(大正10年)1月1… 宮田 敬助(みやた けいすけ、1921年(大正10年)1月12日 - 2013年(平成25年)8月9日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。群馬県出身。 海軍大尉で終戦を迎えた後、警察予備隊・保安隊への入隊を経て海上自衛隊に転官し、少年術科学校長、第3護衛隊群司令、第11代護衛艦隊司令官、第17代横須賀地方総監などの要職を歴任した。海上自衛隊における最終階級は海将。 旧制沼田中学校を経て海軍兵学校を第69期で卒業。卒業後は重巡洋艦「那智」に乗組む。その後、重巡洋艦「三隈」乗組みを経て、戦艦「大和」乗組みとなり、太平洋戦争を迎えた。その後、駆逐艦の水雷長等で勤務し、戦争末期には人間魚雷「回天」を運用する部隊に配属され、大神基地で終戦を迎えた。
金 英煥(キム・ヨンファン、김영환、1921年1月8日 - … 金 英煥(キム・ヨンファン、김영환、1921年1月8日 - 1954年3月4日)は、大韓民国の軍人。韓国空軍創設者の1人。父に金埈元。兄に金貞烈。 1921年1月 に生まれる。1939年3月、京畿公立高等学校卒業。卒業後は津田沼飛行学校に入学。1944年、関西大学入学。航空部におり、学生航空の鳥人として有名であったという。1945年、学徒出陣して陸軍予備士官学校に入学。卒業後は砲兵少尉となり咸興地区で終戦を迎えた。 1946年1月、軍事英語学校卒業、任少尉(軍番10016番)。第6連隊の創設に参加して同連隊A中隊長。隊員の多くが共産主義で意見が合わず、ついに集団で殴打される事件が起きると中隊長を辞した。
江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - … 江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - 2010年)は、日本の工学者・農学者・元軍人。農学博士(北海道大学)。専門は、微生物工学。北海道におけるバイオ研究の大家。特定非営利活動法人北海道バイオ産業振興協会顧問。北海道大学名誉教授。静修短期大学元学長。北海道小樽市出身 1944年北海道帝国大学農学部卒。1944年赤紙で召集を受ける。1945年海軍技術中尉。終戦後は、北海道商工経済会主事、北海道農産化学工業研究主幹、武田薬品工業化成品研究所部長を経て、1972年(昭和47年)北海道大学農学部教授に就任(微生物工学を担当)。1985年北海道大学停年退官。同名誉教授。静修短期大学6代学長に就任。
藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(… 藤井 政美(ふじい まさみ、1921年ごろ - 2008年(平成20年)7月7日)は日本の軍人。陸軍士官学校第54期卒業。最終階級は大尉。終戦直前、玉音放送を阻止するために陸軍将校たちが起こした「宮城事件」に参加した。 石川県金沢市出身。金沢第一中学校(46期)より東京陸軍幼年学校を経て予科士官学校を卒業(3期)し、近衛歩兵第1連隊隊附勤務。1940年(昭和15年)、陸士本科卒業と同時に南支に小隊長として派遣され、南寧にて右膊部貫通の銃創を負う。1941年(昭和16年)6月、内地に凱旋。以降初年兵教官、連隊旗手、大隊副官、中隊長を歴任。 1943年(昭和18年)12月に陸軍士官学校区隊長となり、58期生の教育を担当。
宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4… 宅嶋 徳光(たくしま のりみつ、1921年 - 1945年4月9日)は、大日本帝国海軍の軍人、作詞家。海軍中尉。松島航空隊機長。 福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校を経て旧制福岡高等学校に進み、慶應義塾大学法学部政治科を卒業後、鉄道省に奉職。 1943年9月に海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊に入隊。1944年5月に海軍少尉に任官。 筆が立つことで知られ、やがて鹿児島出水海軍航空隊に移動し、飛行訓練の合間に記された手記(「くちなしの花」)は、戦後に多くのメディアで取り上げられ、出版もされている。手記の一部を引用し、美空ひばりが補作詞した「白い勲章」は、船村徹の作曲によって美空ひばりのシングルレコードとして発表されている。
小林 照彦(こばやし てるひこ、1920年〈大正9年〉11月… 小林 照彦(こばやし てるひこ、1920年〈大正9年〉11月17日 - 1957年〈昭和32年〉6月4日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。陸士53期。最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、空自では2等空佐。 1920年(大正9年)11月17日、東京府に生まれる。国士舘中学校を経て、1940年(昭和15年)2月に陸軍士官学校53期を卒業し、同年5月に陸軍砲兵少尉に任官したが、直後に砲兵科から航空兵科に転科し(昭和15年5月 陸軍航空兵少尉)、空中勤務者(分科は「軽爆撃機」)となる。飛行第45戦隊、飛行第66戦隊を経て、1943年(昭和18年)11月に飛行分科を「戦闘機」に転じ、明野陸軍飛行学校亀山分校で戦闘機学生教育を受ける。
舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年〈大正9年〉10月30… 舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年〈大正9年〉10月30日 - 2006年〈平成18年〉2月11日)は、日本の陸軍軍人、剣道家、実業家。最終階級は陸軍軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。戦後は大盛堂書店を開き、代表取締役会長を務めた。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、大盛堂道場館主。 特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段、居合道錬士、銃剣道錬士など、武道・射撃の技能に習熟していた。 栃木県上都賀郡西方村で農家の三男として生まれて育つ。幼少期からきかん坊で近所のガキ大将であった。小学校と尋常高等小学校を終えて公民学校を卒業すると、さらに早稲田中学講義録で独学し、専門学校入学者検定試験に合格する。
張 盛煥(チャン・ソンファン、장성환、1920年10月27日… 張 盛煥(チャン・ソンファン、장성환、1920年10月27日 - 2015年1月4日)は大日本帝国陸軍の軍人及び大韓民国の軍人、政治家、企業家。本貫は仁同張氏。 1920年、京城府に生まれる。1941年、早稲田大学商学部卒業。1942年、岐阜陸軍飛行学校、浜松陸軍飛行学校卒業。 1948年4月、韓国軍入隊。同年6月15日、航空基地司令部勤務。同年9月、航空基地司令部飛行部隊小隊長。1949年9月31日、飛行団飛行隊第2中隊長。 1950年6月、朝鮮戦争が勃発するとF-51D操縦要員として板付に派遣された。同年11月、空中輸送班長。韓国空軍初の空輸任務を遂行した。1952年7月、駐アメリカ大使館付武官。
伊東 孝一(いとう こういち、1920年(大正9年)9月28… 伊東 孝一(いとう こういち、1920年(大正9年)9月28日 - 2020年(令和2年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。 最終階級は陸軍大尉。 宮城県大崎市で出生、生後間もなく一家が神奈川県横須賀市へ転居し当地で育った。横須賀中学校を経て陸軍予科士官学校に進み、1938年(昭和13年)末、同校を卒業。歩兵第32連隊付となる。1939年(昭和14年)、陸軍士官学校に進み、1940年(昭和15年)9月、同校(第54期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官。 1941年(昭和16年)10月、陸軍中尉に昇進。歩兵団司令部、第5軍司令部における勤務を経て、原隊である歩兵第32連隊へ復帰し、第2大隊第8中隊長に就任。
崔 慶禄(チェ・ギョンノク、최경록、1920年9月21日 -… 崔 慶禄(チェ・ギョンノク、최경록、1920年9月21日 - 2002年9月2日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。本貫は慶州崔氏。創氏改名時の日本名は新田慶吉。 5・16軍事クーデター当時は朴正煕の直属の上官であり、第四共和国期に22代交通部長官、第五共和国期には国会議員を経て7代駐日大使を務めた。 1920年9月、日本統治時代の忠清北道陰城郡に生まれる。陰城三成普通学校を卒業した後、内地に留学し豊橋中学校で学んだ。 1938年、日本陸軍に志願(志願兵1期)。1939年12月、陸軍兵志願者訓練所を修了して歩兵第79連隊に配属。同世代の中で最も優秀な成績であり、下士官候補生に選ばれた。そこで中隊長の松田靖彦大尉に目をかけられ、彼の推薦で陸軍士官学校の試験にも合格したほか、1942年秋、汝威島での演習中に引き合わされた小野武雄中佐に薫陶を受ける。
林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7… 林 喜重(はやしよししげ、よししげ、1920年(大正9年)7月17日 - 1945年(昭和20年)4月21日)は、日本の海軍軍人。海兵69期。大東亜戦争末期、戦闘機「紫電改」搭乗員として本土防空戦に参加。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1920年(大正9年)7月17日、神奈川県鎌倉町浄明寺に生まれた。鎌倉町立第二尋常高等小学校、神奈川県立湘南中学校を卒業。1938年(昭和13年)4月、海軍兵学校69期に入校。母親は林が軍に入ってからは毎日裏山のお宮に参拝して無事を祈っていた。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業、少尉候補生として練習艦隊の重巡「那智」乗組、練習航海に出発。4月、重巡「摩耶」乗組。
伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉… 伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉6月12日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。沖縄戦の陸軍特攻第一号。最終階級は陸軍中佐。石垣島出身。 沖縄県石垣島登野城出身。父・伊舎堂用和は公務員で教育熱心であった。日清戦争、日露戦争に従軍、石垣島出身で初の金鵄勲章を受けている。父の宮古島への赴任 (裁判所勤務) に伴い旧制沖縄県立宮古中学校に入学、翌年再び父の転勤で那覇に戻り沖縄県立第二中学校に転校、同窓に、後に初代自衛隊沖縄地方連絡部長となる又吉康助がいる。その後陸軍予科士官学校入学。1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校卒業。伊舍堂は歩兵を希望していたが、陸軍の航空隊の増設方針で転科を余儀なくされたという。