伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 … 妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日)は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身。 1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧旧制松江高等学校文科乙類に進学、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した。
小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月2… 小平 萬榮(こだいら まんえい、小平 万栄、1905年6月28日 - 1997年9月9日)は、日本の教育者、野鳥研究家。日本野鳥の会理事を務めた。雅号は倉塩(そうえん)。 長野県茅野市出身。名古屋逓信講習所卒業。1926年小学校教員となり、1948年に諏訪探鳥会を設立する。日本野鳥の会諏訪支部を発足させた1954年には、塩嶺地区で野鳥を楽しむ「小鳥バス」を地元の岡谷市に提案して実現し、バスでは自ら解説をおこなった。 1975年に、「野鳥愛護の啓蒙を広めた功績」により、勲六等単光旭日章を受章した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年… 成 楽緒(ソン・ナクソ、朝鮮語: 성낙서/成樂緖、1905年6月23日 - 1988年11月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の儒学者、教育者、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、忠清南道知事を歴任した。 本貫は昌寧成氏(朝鮮語版)。号は芸庭(운정)。 忠清南道公州郡出身。漢学修学を経て公州普通学校、京城第1高等普通学校卒。京城帝国大学予科修了、1930年に同大法文学部朝鮮史学科卒。1930年に中央仏教専門学校教授、1932年に梨花女子専門学校教授、1943年に朝鮮音楽書籍編纂委員、京城以保合名会社重役、京城東英機工社代表、光復軍予備隊組織者、建国準備委員会忠南支部連絡部長、忠南教育協会会長、普門中学校設立者・初代校長、忠南労働調整委員、大韓独立促成国民会忠清南道協会副会長・大田支部長・中央執行委員、国学大学教務処長(1946年)、忠清南道労働調停委員、韓国民族代表外交使節大田後援会会長、反託闘争委員会副委員長、成均館大学学監、制憲国会議員(1948年)、忠清南道知事(1952年)、忠南大学校総長署理、忠清南道郷校財団理事長(1955年)、大韓赤十字社忠清南道支社長(1966年)、成均館理事長(1968年)、成均館長(1970年)、韓国儒林代表、韓国孔子学会長(1980年)を務めた。
中島 国男 (なかじま くにお、1905年(明治38年)6月… 中島 国男 (なかじま くにお、1905年(明治38年)6月13日 - 1985年(昭和60年)9月24日)は、日本の教育者、地方政治家。幕別町名誉町民。栄典は正六位・勲五等双光旭日章。北海道中川郡幕別町町長を7期28年間歴任した。 1905年(明治38年)6月13日に、北海道上川郡当麻村字宇園別一、父:中島岩蔵(岐阜県本巣郡土貴野村出身)、母:中島かん(岐阜県本巣郡土貴野村出身)の長男として生まれた。 父:岩蔵は農業を経営しながら当麻村議会議員、当麻村消防団長を務め、さらに中央乗合自動車株式会社取締役を兼ね、昭和2年には、十勝止若支社(道東バスの前身)を設立(帯広-止若-池田間運行)、また1930年(昭和5年)に名寄支社を設立した。
星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月2… 星 克(ほし かつ、1905年4月9日 - 1977年5月25日)は、戦前の沖縄県の教育者で、沖縄群島政府、琉球政府及び沖縄県の政治家。沖縄県石垣市出身。 戦前の教職時代に沖縄民謡「安里屋ユンタ」を基に「新安里屋ユンタ」を作詞したことでも知られる。 1905年(明治38年)4月9日生まれ。1922年(大正11年)に石垣島の白保尋常高等小学校代用教員となる。戦前は教育界に身を置いた。 沖縄戦後は大浜町に就職し、収入役・助役・町長の三役を務めた後、八重山群島議会議員に就任。そして琉球政府発足後の第2回立法院議員総選挙で初当選した。 琉球政府立法院では、当時の保守政党であった沖縄自由民主党の重鎮として活躍する。
氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月… 氏原 大作(うじはら だいさく、1905年〈明治38年〉3月20日 - 1956年〈昭和31年〉12月31日)は、日本の小説家、詩人、教育者。山口県阿武郡篠生村(のちの阿東町、現在の山口市)篠目出身。氏原大作は筆名で、本名は原 阜()。 尋常小学校高等科を卒業後、故郷の小学校の代用教員などを務めながら、同人誌を発行するとともに、短歌などを発表。1936(昭和11)年に雑誌『少年倶楽部』に投稿した『見たか青空』が同誌に掲載されたのを契機に、同誌の常連作家となる。1938(昭和13)年に、主婦の友社の懸賞小説で『幼き者の旗』が一等に当選、のちに同作が映画化するなど、注目を集めた。 1905(明治38)年3月20日、山口県阿武郡篠生村篠目の農家に生まれる。
泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 195… 泉 芳朗(いずみ ほうろう、1905年3月18日 - 1959年4月9日 )は、日本の政治家、詩人、教育者。名瀬市長(1期)。 鹿児島県大島郡伊仙村生まれ。1924年3月、鹿児島県立第二師範学校(現・鹿児島大学教育学部)卒業。卒業後は、小学校の教員として鹿児島と東京の学校を転々とした。1931年、日本大学専門部国文科中退。 1950年8月、奄美大島社会民主党を結成し、書記長、中央執行委員長を歴任した。同年、群島議会議員選挙に同党公認で立候補したが、次点で落選した。1951年2月、奄美大島復帰協議会を結成して、議長となった。同年8月1日から5日まで日本復帰の断食祈願を行った。その後、奄美各地で決起集会が開かれ、参加者が24時間の断食を行うなどの広がりを見せた。
黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、190… 黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、1905年2月15日 - 1984年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、牧師、政治家。順天邑副邑長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌原黄氏。同じく1948年の初代総選挙に出馬した牧師・過渡立法議員の黄保翼は兄で、元国会議員・全羅南道知事の黄聖秀は甥である。キリスト教徒。日本名は黄原斗淵。 順天郡出身。全羅南道麗水郡南面金鰲島(朝鮮語版)出身の昌原黄氏の5兄弟の1人である。全州新興中学校を経て、日本大学専門部法科3年中退または卒業、日本聖経学校卒。中央神学校での研究を経て、高興永泉学校教員・校長、順天美信会病院・安力山病院庶務課長を務めた。
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1… 中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。佐賀県佐賀市出身。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目の長寿者であった。 1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる。12歳で佐賀高等女学校に入学。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた。 小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた。
大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29… 大橋 喜美(おおはし きみ、1905年(明治38年)1月29日 – 1999年(平成11年)6月1日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員(1期)。 栃木県鹿沼市出身。1925年、東京女子高等師範学校文科卒。島根県立浜田高等女学校、滋賀県大津市高等女学校の教員を経て、結婚により宮崎県延岡市に移る。夫の死後、故郷の鹿沼へ戻り、栃木県立鹿沼高等女学校講師になる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙では宮崎県から日向民主党公認で立候補して初当選した。当選後は国民協同党に入るが、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙では宮崎1区から民主党公認で立候補したが落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙では選挙区を栃木1区に移して立候補したが落選した。
金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月1… 金 鳳祚(キム・ボンジョ、朝鮮語: 김봉조、1905年1月19日または1907年 - 1983年5月5日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、公務員、政治家。制憲・第2代韓国国会議員。 本貫は義城金氏(朝鮮語版)、朝鮮時代の文臣の金漢卿の子孫である。字は致勲、号は松崗。 慶尚北道青松郡出身。和睦公立普通学校(現・和睦初等学校(朝鮮語版))、大邱啓聖中学校(朝鮮語版)、平壌崇実専門学校(現・崇実大学校)農科、中央大学法学科卒。 啓聖中学校教員を経て、光復後は金泉中学校(朝鮮語版)校長、金泉女子中学校(朝鮮語版)校長、慶北女子中学校(現・慶尚中学校(朝鮮語版)に統合)校長、釜山東新中学校(朝鮮語版)校長、嶺南商業高等学校(現・釜山情報高等学校(朝鮮語版))校長、慶尚北道学務課長を歴任した。
高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月1… 高田 なほ子(たかだ なほこ、1905年(明治38年)1月18日 - 1991年(平成3年)5月19日)は、日本の教育者、政治家、平和運動家。参議院議員(2期)。旧姓は渡辺。 福島県信夫郡福島町(現福島市)で、裁判官・渡辺晶、トヨ夫妻の三女として生まれる。福島県立福島高等女学校を経て、1922年、福島県女子師範学校を卒業。福島県伊達郡掛田尋常高等小学校訓導に就任。1924年に依願退職して勉学のため上京し、東京府(東京都)下の小学校で勤務した。 1945年11月、日本社会党創立に際し党員となる。同年12月、東京都教育労働組合の結成に参加。1947年4月、東京都品川区議会議員に当選し1950年まで在任。
李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または… 李 周衡(イ・ジュヒョン、朝鮮語: 이주형、1905年または1906年1月6日 - 1951年8月)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽郡出身。徽文高等普通学校(現・徽文高等学校)、京城帝国大学予科・法文学部史学科卒。普成中学校教員、木浦高等女学校校長、馬山中学校校長、密陽中学校校長を経て、私立正進学校を経営したが、戦中に廃校された。光復後は慶尚南道米軍政顧問、独促国民会密陽郡支部長、過政立法議院議員、密陽中学校創設者・校長、国会議員を務めた。朝鮮戦争の際北朝鮮に拉致された。 1962年4月28日の東亜日報の連載によると、1951年6月の原因不明の伝染病にかかった後、同年8月下旬ごろに平壌付近で死去した。
赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治3… 赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治37年〉12月2日 - 1993年〈平成5年〉11月11日)は、日本の政治家、教育者、剣道範士。位階は正三位、勲等は勲一等。 農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第19代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任。 弟はNHK専務理事を務めた赤城正武、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦。 茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助を失い、母むめ(浜名信平長女)と祖父喜八郎に育てられる。
篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 19… 篠原 登(しのはら のぼる、1904年11月27日 - 1984年10月16日)は、日本の政府高官・科学者・教育者・工学博士。東海大学学長、科学技術庁顧問などを務めた。 本籍・出身山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市)。 代々山梨県につづく裕福な家庭に生まれる。登の父・璐太郎は篠原家の長男で、当時の日本では家業を継ぐのが習わしであったが、どうしても東京に出て学問の道に進みたいと実家の援助をすべて断り魚屋で丁稚奉公をしながら東京帝国大学を卒業、最後の勤務地は北海道で最高裁判所裁判官まで務めた。また、日本聖公会に属する敬虔なクリスチャンであり、登も父の影響を受けて少年時代に洗礼を受けている。 東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。
関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1… 関屋 正彦(せきや まさひこ、1904年11月13日 - 1994年8月27日)は、日本の教育者、聖職者、官僚。立教英国学院校長、聖ヨハネ大学教授、普連土学園校長、日本聖公会の聖職者。 1904年、関屋貞三郎(第17代静岡県知事、貴族院議員)の長男として生まれる。 一高を経て、東京帝国大学法科を卒業後、内務省と進むも長野県庁出向時に辞職。 母親・キヌの影響で日本聖公会の信徒であったことから聖職者を志し、1930年にケンブリッジ大学ウエスト・コット・ハウス神学校(英語版)に留学。 1931年に満州事変がおこり、国は満州国建設と中国制覇に傾倒していくが、関谷は何が正しいかを考える青年の養成を志し、1932年に帰国すると東京北区滝野川に学生塾「一心塾」と開拓教会を開いた。
金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月… 金子 泰藏(かねこ たいぞう、1904年(明治37年)10月23日 - 1987年(昭和62年)5月17日)は、日本の商学者、教育者、通訳者で一橋学院、東京国際大学の創立者である。1973年に勲三等旭日中綬章受章。 1904年10月23日、東京の浅草で生を受ける。旧制府立三中に進学し、卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)に入学した。在学中に後の国連大使・加瀬俊一と知り合い、同じ語学クラブとして英語を学ぶことになる。大学卒業後、東京商工会議所に就職し、外国課長として貿易業務を行いながら、新設されたばかりの上智大学にて教授として英語を教えていた。1941年太平洋戦争が開始されると、三菱、三井と共に軍需産業を行っていた日本鉱業の海外課長となり、海外調査の業務全般を行う。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992… 小堀 憲(こぼり あきら 1904年9月10日 - 1992年12月8日)は、日本の数学者、科学史家、教育者。専門分野は複素解析学。 1904年(明治37年)、福井県三方町に生まれる。1929年(昭和4年)に京都帝国大学理学部数学科を卒業後、同大理学部副手講師、新潟高等学校 (旧制)教授、第三高等学校 (旧制)教授を務めた後、1945年(昭和20年)京都大学助教授、1949年(昭和24年)同大教授に就任。 1956年(昭和31年)イタリアのフィレンツェで開催された第8回国際科学史会議に日本代表として出席。1967年(昭和42年)京都府立大学学長、1971年(昭和46年)京都産業大学教授、後に同大副総長。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 19… 高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 1980年7月1日)は、東京都出身のサッカー選手、教育者。 東京都生まれ。御影師範附属小時代にサッカーを覚え、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)時代には第1回日本フートボール優勝大会(1918年)に出場した。白洲次郎は神戸一中サッカー部の1年先輩に当たる。 1921年に神戸一中を卒業。第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らと共に神戸一中クラブのメンバーとして出場して大会優勝に貢献した。
宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月… 宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月3日 - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の実業家、教育者である。平田紡績の5代目社長を務め、また暁学園を創設した。三重郡富洲原町(現在の三重県四日市市富洲原地区)富田一色出身。 四日市本社工場(富洲原の天ヶ須賀本町(天ヵ須賀5丁目)の紡績工場・富洲原の住吉町の善太付近の漁網工場)と富洲原周辺の三重郡川越町高松天神の川越漁網工場・志摩市の浜島疎開工場・東紀州の尾鷲市の尾鷲疎開工場以外の工場を建設して東日本地域やアフリカなど海外に進出して生産拠点が拡大した。 また1951年(昭和26年)11月に昭和天皇の(三重県)伊勢行幸の際、同じ富洲原地区の東洋紡績富田工場の視察後に平田紡績を視察した。
崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月2… 崔 凡述(チェ・ボムスル、朝鮮語: 최범술、1904年5月26日 - 1979年7月10日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、仏教の僧侶、教育者、政治家、茶人。制憲韓国国会議員。 俗名は英煥。堂号は錦峯、法号は暁堂(ヒョダン、효당/曉堂)。 慶尚南道昆陽郡両浦面(後の泗川郡西浦面)出身。昆陽普通学校卒業後、1916年に地元の多率寺(朝鮮語版)で出家した。1917年に海印寺の地方学林に入学した。三・一運動の時は独立宣言文を配布したため、日本の警察に逮捕された。1922年に渡日し大正大学予科を経て、1933年に同大仏教学科卒。特に1923年以降は朴烈、朴興坤、陸洪均、韓龍雲、金法麟らと「不逞鮮人社」「黒友会」「卍党」などの運動に参加して、いわゆる「朴烈事件」の大逆事件で上海への爆弾運搬役として検挙され、8か月間投獄された。
高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日… 高木 章(たかぎ あきら、1904年(明治37年)5月12日 - 1966年(昭和41年)11月17日)は、日本の教育者、政治家。国際短期大学の創立者にして初代学長。息子は二代目学長の高木一明。衆議院議員(1期)。東京出身。 1926年、日本大学専門部法律科卒業。同専門部法律科副手に就く。 1928年より二松學舍専門学校講師。1933年中野高等無線電信学校を創立し、幹事に就任。 1941年、財団法人中野学園を設立し、同理事長に就任。中野学園中学校(旧制)を創立。 1946年、国際外国語学校(国際短期大学の前身)を創立し、同学校長に就任。 1948年、財団法人中野学園を財団法人国際学園に改称し、中野学園中学校(旧制)を国際中学校と国際高等学校に変更。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、190… 厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、1904年3月27日または1906年3月27日 - 1979年9月6日)は、大韓民国の教育者、政治家。第9代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。儒教の信者。元養正高等学校校長の厳圭白は長男。 ソウル出身。1925年養正高等普通学校卒、1931年法政大学経済学部商科卒。養正中学校・高等学校で長く勤め、教諭・教務主任・校長を歴任した。その他にソウル私立中等学校長会会長、中央教育委員会委員、大韓私立中等学校長会連合会長、国民教育憲章制定審議会委員、長期総合教育計画審議会委員、教育政策審議会委員、維新政友会所属の第9代前半期国会議員、養正義塾理事長を務めた。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、19… 浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、1904年(明治37年)3月22日 - 1991年(平成3年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。民謡歌手で秋田県出身の浅野千鶴子は同姓同名の別人。 高知県高知市出身。1927年(昭和2年)東京音楽学校研究科修了。永井郁子に師事し、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1920年代から文化学院の教壇に立つ。1929年(昭和4年)4月 京城で「山田耕筰作品発表会」に出演(ピアノ:山田耕筰、ヴァイオリン:黒柳守綱、ソプラノ:浅野千鶴子)。1930年(昭和5年)東京でリサイタル・デビュー。1935年(昭和10年)東京音楽学校第75回定期演奏会(於:日比谷公会堂)でバッハ『聖母讃歌』ソリスト(指揮:クラウス・プリングスハイム、ソプラノ:浅野千鶴子、メゾソプラノ:田中伸枝、アルト:齋藤英子、テノール:木下保、バス:伊藤武雄)。
武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20… 武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20日 - 1998年(平成10年)2月7日)は、昭和戦前期日本の裁判官および満洲国の官僚、昭和戦後期日本の実業家、名誉法学博士、教育者、日米会話学院院長、キリスト教牧師、伝道師、名誉神学博士。キリスト新聞社長・会長。教文館専務・社長・会長。明治学院院長。明治学院東村山高等学校の創設者 (P1~5) で、同高校初代校長。恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長、敬和学園理事長、キリスト教文書センター理事長、日本聾話学校理事長、東京サフランホーム理事長、雲柱社理事長なども歴任した。ペンネームに大賀 捨二。 4歳の時に生家が破産し、さらに父親が他界。
森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日… 森崎 隆(もりさき たかし、1904年〈明治37年〉2月8日 – 1961年〈昭和36年〉7月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。 香川県綾歌郡土器村(現丸亀市土器町)で生まれる。1929年(昭和4年)京都帝国大学文学部を卒業した。 同年、香川県女子師範学校教諭に就任。以後、同県立坂出高等女学校(現香川県立坂出高等学校)教諭、同県高松第一中学校(現高松第一高等学校)教諭、同校長事務取扱、高松市立高等女学校長、高松第二高等学校長、高松市教育部長を歴任した。1947年(昭和22年)香川県教職員組合中央執行委員長に就任し1年間在任した。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に香川県地方区から日本社会党公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - … 金巻 賢字(かなまき けんじ、1904年(明治37年) - 1984年(昭和59年))は、日本の経済学者・経営学者・教育者。専門は社会思想史・簿記論。元・札幌商業高等学校校長。北海道生まれ。 この他、1949年(昭和24年)北海学院兼任教授や、1949年(昭和24年)~1956年(昭和31年)まで学校法人北海学園理事。また、1948年(昭和23年)~1984年(昭和59年)まで学校法人北海学園評議員。
李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo… 李 亨雨(이형우、イ・ヒョンウ、Lee Hyeong Woo、1904年? - 没年不詳)は、大韓民国の教育者。普成専門学校(現・高麗大学校)教授、国学学校副校長、朝鮮大学既成会理事長、朝鮮法学専門学館学長、同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭。 大韓民国忠清北道鎮川郡出身。仏教徒。日本へ留学し、1927年3月、立教大学文学部英文学科卒業。立教では金尚鎔(朝鮮語版)(後の梨花女子大学校教授・英文学者、江原道知事)、花房満三郎(後の文藝春秋編集長)の同級生。 帰国した後、ソウルの同徳女子中学校(現・同徳女子大学校)教諭を経て、普成専門学校(現・高麗大学校)教授に就任。 その後、日立工務店に取締役として勤務。
町田 増夫(まちだ ますお、1903年〈明治36年〉12月2… 町田 増夫(まちだ ますお、1903年〈明治36年〉12月26日 - 1994年〈平成6年〉3月7日)は、昭和期の教育者、農業技師、政治家。長野県小諸市長。位階は従五位。 長野県更級郡八幡村(現千曲市)で、町田新治郎、しげ の長男として生まれた。更級農学校(現長野県更級農業高等学校)を経て、旧制岐阜高等農林学校農芸化学科卒業。昭和2年(1927年)埴科郡埴南農蚕学校(現長野県坂城高等学校)教諭となり、飯山高等女学校(のち長野県飯山南高等学校)教諭、旧制飯山中学校(のち長野県飯山北高等学校)教諭、旧制伊那高等女学校(現長野県伊那弥生ヶ丘高等学校)教諭を歴任。 1935年(昭和10年)以後、長野県農林技師、高知県農林技師、新潟県農林技師を務め、1944年(昭和19年)軍需省管理官に転じ、1949年(昭和24年)通商産業省長野事務所長に就任。
有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1… 有光 次郎(ありみつ じろう、1903年12月15日 - 1995年2月22日)は、日本の官僚(文部事務次官)・教育者。1974年勲一等瑞宝章受章。1989年名誉都民受賞。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問。 高知県生まれ。旧制高知県立第一中学校、旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。1927年、文部省に入省した。1932年に宗教局保存課長、1934年に専門学務局学務課長、1941年に大臣官房文書課長、1942年に大臣官房秘書課長兼大臣秘書官、1945年6月に科学局長、1945年9月に体育局長、1945年10月に教科書局長を経て1947年に文部事務次官に就任した。 教育基本法の制定、小学校6年、中学校3年の六・三制の実施などの戦後の教育改革に携わる。
冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 -… 冲永 荘兵衛(おきなが しょうべい、1903年12月8日 - 1981年2月21日)は、日本の政治家、教育者。
遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月1… 遠山 清(とおやま きよし、1903年〈明治36年〉11月15日 - 1963年〈昭和38年〉6月10日)は、日本の教育者、画家。 サンサシオン同人、広井尋常小学校教員、名古屋市立第一高等女学校教員、光風会会員、愛知県立愛知工業高等学校教員、社団法人光風美術会会員、社団法人日展会員、社団法人日展審査員などを歴任した。 愛知県名古屋市出身の洋画家である。広井尋常小学校、名古屋市立第一高等女学校、愛知県立愛知工業高等学校に教員として勤務する傍ら、光風会展、帝展、日展に出品を続け、光風賞や岡田賞を受賞している。光風会や日展の会員となり、のちに日展の審査員も務めた。 1903年(明治36年)11月15日、大日本帝国の愛知県名古屋市にて生まれた。
溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1… 溝上 泰子(みぞうえ やすこ、1903年11月11日 - 1990年10月11日)は、日本の教育者、人類生活者。 広島県御調郡市村生まれ。広島県三原女子師範学校、奈良女子高等師範学校、東京文理科大学卒業。 実践女子専門学校教授、東京家庭学園教授、京都女子大学教授を経て、1951年島根大学教育学部教授。1958年に「日本の底辺―山陰農村婦人の生活」を刊行し、「底辺」の生活に光をあてる。1967年に島根大学を退官後は、全国の小学6年生に「生きる・生活する」と題する授業をつづけた。聖カタリナ女子短期大学教授、本州大学教授、上田女子短期大学教授を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年… 本領 信治郎(ほんりょう しんじろう、1903年(明治36年)10月8日 - 1971年(昭和46年)7月24日)は、京都府出身の東京府東京市選出の政治家、教育者。衆議院議員、早稲田大学(以下、早大)教授、早大ラグビー部監督 & 選手。 京都市下京区寺町通五条上るの裂地袋物製造卸の本領順三郎の次男として生まれる。弟は正三郎(家業を継ぐ)、千吉郎(早稲田の工業出身)。叔父の善次郎は神戸市古湊通の貴金属時計商。京都市立第一商業学校(現、京都市立西京高等学校)を経て早大に進学。同校のラグビー部で活動し、ポジションはスクラムハーフ(SH)。1927年(昭和2年)のオーストラリア遠征では主将を務めた。卒業後の1928年(昭和3年)に早大監督に就任し、2シーズン同職を歴任。
中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)… 中澤 米太郎(なかざわ よねたろう、1903年(明治36年)9月26日 - 1984年(昭和59年)2月5日)は、日本の教育者、政治家。岸和田市長を3期12年(1961年 - 1973年)務めた。 青年期には陸上競技(跳躍競技)選手として活躍し、棒高跳の日本記録をたびたび更新した。1928年アムステルダムオリンピックでは棒高跳と十種競技に出場、棒高跳で6位入賞を果たしている。 大阪府で生まれる。大阪府立岸和田中学校(現在の大阪府立岸和田高等学校)卒業。関西学院に在籍したのち、日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)に進学卒業、東京高等師範学校研究科を卒業。 1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。
長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 19… 長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 1994年4月29日)は、日本の福祉事業家・教育者・政治家。 衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。 福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した[要出典]。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている[要出典]。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ[要出典]。
都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 197… 都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 1972年10月28日)は、日本の教育者、都築学園グループの創始者。妻は都築貞枝、次男は都築泰壽。 徳島県美馬郡美馬町(現・美馬市)生まれ。九州帝国大学(法文学部文科)卒業、同大学院修了、福岡学芸大学、福岡教育大学教授歴任。産業教育振興に寄与した功績により紺綬褒章を受く。 学校法人都築学園、都築育英学園を創設し、第一薬科大学・第一経済大学(現 日本経済大学)・福岡第一高等学校・福岡第一商業高等学校(現 第一薬科大学付属高等学校)・みやこ幼稚園・だいいち幼稚園・むろずみ幼稚園の学園総長。 正四位勲三等に叙せられ旭日中綬章を受章。
竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – … 竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – ?)は、日本の教育者。金蘭千里高等学校校長。 鳥取県生まれ。1925年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。 旧制福井県小浜中学校、京都府第一中学校教諭、京都府福知山女子高等学校・京都府立鴨沂高等学校・大阪府立貝塚高等学校・大阪府立三国丘高等学校校長を経て大阪府立北野高等学校校長に就任。 1964年3月31日、府立高等学校を退職。私立金蘭千里高等学校長となる。
李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年… 李 教善(イ・ギョソン、朝鮮語: 이교선/李敎善、1903年4月23日または1905年4月23日 - 1970年2月14日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第4代商工部長官、第2・5代韓国国会議員(第5代は参議員)を歴任した。 本貫は全州李氏、号は松巌(ソンアム、朝鮮語: 송암/松巖)。キリスト教徒。 京畿道安城郡(現・安城市)出身。中東中学校本科を経て、1934年立教大学経済学部商学科卒。全州の中学校教員を経て、1940年渡米しニューヨーク大学研究科で商学を専攻した。1945年に京城師範学校・京城法学専門学校講師を務め、光復を迎えた。その後は米軍政庁の軍政長官秘書長、民政長官補佐官、中央物価行政処長を経て、1948年にソウル大学校副総長となり、その後は食糧営団理事長、自由党政権下の第4代商工部長官(1952年3月27日~11月6日)、第5代国会参議院軍関係不正調査特別委員会委員長、中東高等学校校長、ソウル学院院長、中東学院理事長、忠武公記念事業会理事長を務めた。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は… 林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は、日本の建築家、建築教育者である。 1903年(明治36年)3月、東京市麹町区に生まれる。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学建築学科を卒業した。大阪府警察部建築課勤務ののち、1931年4月に横浜高等工業学校建築学科、同年10月には教授に就任した。1969年3月に定年を迎えるまで、横浜高等工業学校、横浜工業専門学校、横浜国立大学、横浜国立大学工業教員養成所で教鞭を取った。1966年からは工業教員養成所の所長を務めている。 1947年には、日本建築学会関東支部設置に向けた懇談会の出席者に、建築教育に関わる立場として名前が記録されている。
布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971… 布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971年3月8日)は、日本の漢学者、教育者。中央大学文学部教授、立教大学文学部教授。 千葉県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学文学部卒業。1929年(昭和4年)4月に、立教大学文学部教授に就任し、漢文を担当する。 戦後、1949年(昭和24年)より中央大学文学部教授を務め、1952年(昭和27年)に文学部に哲学専攻が発足すると、中国哲学を教える。 1961年(昭和36年)5月1日には中央大学学生部長に就任。1963年(昭和38年)11月、中央大学文学部長に就任。 1971年(昭和46年)3月8日、脳塞栓のため東京都杉並区荻窪の東京衛生病院で死去 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。