江崎 実生(えざき みお、本名:江崎 雅一、1932年1月3… 江崎 実生(えざき みお、本名:江崎 雅一、1932年1月3日 - )は、日本の映画監督。熊本県熊本市出身。
職業が映画監督:1,573人
江崎 実生(えざき みお、本名:江崎 雅一、1932年1月3… 江崎 実生(えざき みお、本名:江崎 雅一、1932年1月3日 - )は、日本の映画監督。熊本県熊本市出身。
勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 - 1… 勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 - 1997年6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。本名・奥村 利夫(おくむら としお)。市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された。
森谷 司郎(もりたに しろう、1931年(昭和6年)9月28… 森谷 司郎(もりたに しろう、1931年(昭和6年)9月28日 - 1984年(昭和59年)12月2日)は、日本の映画監督。 東京市四谷区番衆町(現・東京都新宿区新宿)出身。1937年に台湾に転居し、中学2年生の時に終戦とともに岡山県へ引き上げる。岡山県第一岡山中学校から岡山県立岡山朝日高等学校を経て、1955年に早稲田大学第一文学部仏文科卒業。卒業後はジャーナリストを志望していたが[要出典]、東宝の助監督試験に合格し入社する。同期には恩地日出夫、木下亮。成瀬巳喜男・黒澤明の作品で助監督を務める。監督昇進まで10年以上、助監督を経験し1966年に加山雄三主演『ゼロ・ファイター 大空戦』で、監督デビューを飾る。
貞永 方久(さだなが まさひさ、1931年9月22日 - 2… 貞永 方久(さだなが まさひさ、1931年9月22日 - 2011年7月14日)は、日本の映画監督。 満洲国新京の生まれ。敗戦と同時に無一文のまま日本に引き上げ、戦後の動乱を身いっぱいに受けて育つ。大分県立別府鶴見丘高等学校から九州大学法学部を1956年に卒業。 大学時代は演劇活動に熱中し、木下惠介、黒澤明らを通じて日本映画に強い関心を抱いており、卒業後、松竹京都撮影所演出部に入社。大曾根辰保、五所平之助、篠田正浩、野村芳太郎の作品の助監督を務めた。1961年からはテレビのドキュメンタリー番組の演出も手がけ始めた。1965年、京都撮影所の閉鎖に伴い大船に移籍。1968年、助監督職のまま山根成之との共同監督で、原田芳雄主演のハードボイルド作品『復讐の歌が聞える』で監督デビュー。
山田 洋次(やまだ ようじ、1931年〈昭和6年〉9月13日… 山田 洋次(やまだ ようじ、1931年〈昭和6年〉9月13日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。 大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。紫綬褒章(1996年)、文化功労者(2004年)、日本芸術院会員(2008年)。文化勲章(2012年)受章。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部の客員教授、文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。 妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。
鍛冶 昇(かじ のぼる、1931年8月16日 - 2021年… 鍛冶 昇(かじ のぼる、1931年8月16日 - 2021年10月21日)は、日本のテレビ演出家、映画監督、プロデューサー。三重県桑名市生まれ。日本映画監督協会会員。日本映画テレビプロデューサー協会会員。 1945年、慶応義塾大学仏文科卒業。日活撮影所助監督部入社後、主に滝沢英輔、市川崑、斎藤武市の助監督をつとめる。1965年、テレビ映画「山のかなたに」で監督デビュー。1969年に日活を退社後フリーを経て国際放映のプロデューサーとして活動。 1988年〜1994年、日活芸術学院にて映像創作科の専任講師として、映画演出、映画企画製作などの科目を担当。 2021年10月21日死去、90歳。 (特記以外は製作日活)
松川 八洲雄(まつかわ やすお、1931年8月12日 - 2… 松川 八洲雄(まつかわ やすお、1931年8月12日 - 2006年10月11日)は、日本の映画監督、脚本家、著作家である。
松川 八洲雄(まつかわ やすお、1931年8月12日 - 2… 松川 八洲雄(まつかわ やすお、1931年8月12日 - 2006年10月11日)は、日本の映画監督、脚本家、著作家である。 東京都に生まれる。東京都立日比谷高等学校を経て、1956年に東京大学文学部美学美術史学科を卒業する。 新理研映画、日映科学映画製作所を経て、独立する。 1966年、『鳥獣戯画』がベルガモ映画祭芸術部門大賞を受賞する。1983年には、著書『ドキュメンタリーを創る』が刊行される。『出雲神楽』は2002年度キネマ旬報ベスト・テン「文化映画」部門で1位に選ばれた。 2006年10月11日、転移性肺・肝腫瘍のため死去。75歳没。
水野 晴郎(みずの はるお、1931年〈昭和6年〉7月19日… 水野 晴郎(みずの はるお、1931年〈昭和6年〉7月19日 - 2008年〈平成20年〉6月10日)は、日本の映画評論家、映画監督、タレント。倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。 映画監督としてはMIKE MIZNO(マイク・ミズノ)の名義を使っていた。出生時の本名は水野 和夫(みずの かずお)であったが、山下奉文陸軍大将への尊敬の念と、自ら製作・監督し山下を演じた『シベリア超特急』シリーズへの愛着から、戸籍上の本名を山下奉文と一文字違いの山下奉大(やました ともひろ)に改名した。日本アカデミー賞の発案者。 1931年(昭和6年)7月誕生。戸籍では19日の生まれだが、両親が「17日だったよ」と言っていたような気がするとも述べている。
芹川 有吾(せりかわ ゆうご、1931年6月26日 - 20… 芹川 有吾(せりかわ ゆうご、1931年6月26日 - 2000年10月4日)は、日本のアニメーション演出家、脚本家、映画監督である。東京都小石川区水道町出身。ペンネームに、浜田 稔、山中 肇、金子 健がある。父は、東京シネマ商会会長の芹川政一。 映画人の家庭に育ち、新東宝では、助監督として並木鏡太郎、中川信夫に師事した。渡辺邦男の早撮りの技術も勉強になったという。ウォルト・ディズニーの『バンビ』でアニメーションに魅了され、『白蛇伝』を見て制作した東映動画(現・東映アニメーション)へ入社。初監督作品『わんぱく王子の大蛇退治』は、内容的な評価も高く、それまでの東映動画になかった本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立した歴史的作品である。
糸 文弘(いと ふみひろ、1931年5月9日 - )は、日本… 糸 文弘(いと ふみひろ、1931年5月9日 - )は、日本の映画監督、脚本家、劇作家、演出家である。本名は糸 弘毅(いと ひろき)。1950年代に松竹演劇部に所属して「石井均一座」等の軽演劇・喜劇の作家として活動し、1965年(昭和40年)には映画製作会社LL企画プロダクションの設立に参加して、成人映画の脚本・監督を手がける。その後、劇団三文館を設立、戯曲・演出を手がけてアングラ演劇に転向した。 1931年(昭和6年)5月9日、鹿児島県大島郡名瀬町(のちの同県名瀬市、現在の奄美市)に生まれる。 第二次世界大戦後、5年制の旧制・神奈川県立商工実習学校に進学、同校は1948年(昭和23年)4月1日に新制高等学校に切り替わり、神奈川県立商工高等学校と改称している。
引田 英雄(ひきた ひでお、1931年4月30日 - 200… 引田 英雄(ひきた ひでお、1931年4月30日 - 2002年8月19日)は、日本の映画監督である。日本映画監督協会会員(物故会員)。 1931年(昭和6年)4月30日、東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区)に生まれる。父は宝塚少女歌劇団理事長、宝塚音楽学校校長を歴任した引田一郎である。出身は兵庫県とされることもある。 第二次世界大戦後、大阪府立北野高等学校を卒業、日本大学藝術学部演劇学科に進学する。同学在学中の1953年(昭和28年)、宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)が製作した斎藤寅次郎監督の『かっぱ六銃士』に出演、同作は東宝の配給で同年8月26日に公開された。 1955年(昭和30年)、宝塚映画製作所助監督部に入社する。
高林 陽一(たかばやし よういち、1931年4月29日 - … 高林 陽一(たかばやし よういち、1931年4月29日 - 2012年7月15日)は、日本の映画監督・映画プロデューサー。京都府京都市生まれ。父親は着物のデザイナー。 1955年、立命館大学法学部政治学科中退。1960年、銀座ヤマハホールで8m/mの自主映画の個人映写会を開き、若手実力派映画監督として注目される。同年の『石っころ』が評価された。1963年、16m/m第1作の「砂」がベルギー実験映画祭で特別賞を受賞。 1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、大林宣彦、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。1964年に発表した「ひなのかげ」はニューヨーク近代美術館所蔵作となり脚光を浴びる。
坂野 義光(ばんの よしみつ、1931年3月30日 - )は… 坂野 義光(ばんの よしみつ、1931年3月30日 - )は、日本の映画監督、先端映像研究所代表取締役社長。愛媛県越智郡桜井町(現・今治市)出身。
渡辺 護(わたなべ まもる、1931年3月19日 - 201… 渡辺 護(わたなべ まもる、1931年3月19日 - 2013年12月24日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。新劇の俳優から演出家に転向し、いわゆるピンク映画の黎明期からその隆盛を支え、美保純、可愛かずみのデビュー作を手がけたことで知られる。生涯を通じて多作であり、監督作だけでも210作を超えるといわれる。門前 忍(もんぜん しのぶ)という筆名を山本晋也と共有した。 1931年(昭和6年)3月19日、東京府北豊島郡滝野川町(現在の東京都北区滝野川)に生まれる。父は恭三郎、母はナカ、姉・兄・弟・妹をもつ5人兄弟の次男(第3子)、生家は映画館であったため、映画はふんだんにみられる環境にあった。
篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - 202… 篠田 正浩(しのだ まさひろ、1931年3月9日 - 2025年3月25日)は、日本の映画監督。株式会社表現社代表取締役、早稲田大学特命教授、日本中国文化交流協会代表理事、城西国際大学メディア学部客員教授。 岐阜県岐阜市生まれ。梅林小学校、岐阜県立加納高等学校、早稲田大学第一文学部卒業後、松竹に入社。1960年代にかけて大島渚、吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルバーグの旗手と呼ばれた。 早々に会社と衝突して独立した二人と異なり、松竹にしばらく残った後、1966年にフリーになる。翌年に独立プロダクションの株式会社表現社を設立。前衛的作品も辞さない大島や吉田に比べ、篠田は平易なサービス精神も持ち合わせており、独立後の1960年代後半から1970年代前半は『心中天網島』(1969年)や『無頼漢』(1970年)などの先鋭的な作品を独立プロから連発したが、1970年代後半からは『はなれ瞽女おりん』(1977年)や『鑓の権三』(1986年)などの大手映画会社配給の大作が多く、『鑓の権三』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞 (芸術貢献賞)を受賞した。
斉藤 実(さいとう みのる、1931年3月7日 - 1999… 斉藤 実(さいとう みのる、1931年3月7日 - 1999年11月22日)は日本の記録映画監督・探検家。1975年(昭和50年)に実施されたヘノカッパⅡ世号での漂流実験が有名。 1931年千葉県に生まれ、中央大学経済部卒業。記録映画の監督となり、自らマグロ漁船に乗り込み、撮影を続けた。 1965年(昭和40年)9月、TV局の依頼を受け、近海マグロ船の取材中に台風26号に遭遇し、乗船は無事だったが、同日に別の漁船が遭難、十数時間後に救助されていたにもかかわらず二人が死亡したこと、また翌10月にマリアナ群島沖で、静岡のカツオ船団が台風に巻き込まれ多くの遭難者を出したこと(マリアナ海域漁船集団遭難事件)に衝撃を受ける。
青野 暉(あおの・あきら、1931年2月21日 - 2020… 青野 暉(あおの・あきら、1931年2月21日 - 2020年7月2日)は、日本の映画監督、演出家、脚本家。 愛媛県宇和島市出身。早稲田大学文学部仏文科卒業。就職に際しては大学の同級生だった今崎暁巳(ドキュメンタリー作家)と共にラジオ東京(後の東京放送)を受験するも、青野と今崎のふたりとも不合格であったという逸話が残る。 1954年に新東宝に入社。当初は企画部配属だったが、演出部へ異動となり石井輝男の下で宇津井健主演の『スーパージャイアンツ』シリーズの助監督を務める。 1961年に新東宝が倒産した後、国際放映へ移籍し、1964年放映のテレビドラマ『いまに見ておれ』(東京放送)で監督デビュー。 これ以後、青島幸男主演版の『意地悪ばあさん』第1作(1968年、よみうりテレビ)と第3作(1981年、フジテレビジョン)で演出と脚本を担当する。
高橋 繁男(たかはし しげお、1931年〈昭和6年〉1月30… 高橋 繁男(たかはし しげお、1931年〈昭和6年〉1月30日 - 1995年〈平成7年〉5月10日)は、日本のテレビドラマ監督・舞台演出家。「渥美清の泣いてたまるか」「遠山の金さん」などでお茶の間に親しまれた。群馬県沼田市出身。
田口 勝彦(たぐち かつひこ、1931年1月24日 - 20… 田口 勝彦(たぐち かつひこ、1931年1月24日 - 2020年4月27日)は、日本の映画監督、テレビドラマの演出家、アニメーション監督、脚本家。脚本家としてのペンネームは山崎久、田口章一。岡山県津山市出身。シナリオ協会作家会員。日本映画監督協会会員。 日本大学芸術学部卒業後、東映へ入社。編集業務を経て、1年後に演出部へ異動。東映東京撮影所で1961年の『ファンキーハットの快男児シリーズ』である『ファンキーハットの快男児』、『ファンキーハットの快男児 二千万円の腕』の助監督を経て、東映東京制作所でテレビドラマの監督として活動。1966年に『悪魔くん』で監督としてデビューし、初期の「仮面ライダーシリーズ」や「スーパー戦隊シリーズ」のローテーション監督として同シリーズを支えた。
千野 皓司(ちの こうじ、1930年12月17日 - 202… 千野 皓司(ちの こうじ、1930年12月17日 - 2022年12月)は、日本の映画監督、脚本家。 1967年に「喜劇 東京の田舎っぺ」で監督デビュー。70年代初頭から80年代半ばはテレビドラマを手がけた。社会の底辺でしぶとく生き抜こうとする人々や、戦争によって人生を翻弄された人々の悲哀を描くことが多い。 妻は舞踏家の谷口登美子。長女は画家の千野渓子。次女はボリショイ劇場付属バレエ学校を卒業した国立ロシアバレエの初の日本人プリマであるバレリーナ、千野真沙美。 東京都新橋烏森の花柳界を得意先とする半襟呉服商の長男として生まれるが、実母が4歳の時死去、数人の継母によって育てられる。 通称「天ぷら屋河内屋のミツちゃん」-本名小村井光三郎-のち講談師神田伯龍が大森海岸に住む町内の子供達を集め、レストランの主人が書いた脚本で料亭「松浅本店」の大広間の舞台で芝居を上演、その時主役をつとめたことから演劇に興味を抱きはじめた。
浦山 桐郎(うらやま きりお、1930年12月14日 - 1… 浦山 桐郎(うらやま きりお、1930年12月14日 - 1985年10月20日)は、昭和期の日本の映画監督である。 父の浦山貢は歌人として知られ、1930年1月に播磨造船(現・IHI)に入社した。同年12月14日、兵庫県相生町(現・相生市)で桐郎が生まれる。しかし12月27日、母の豊子は産褥熱に急性腹膜炎を併発して死去。1931年、父の貢は豊子の妹の敏子と再婚した。父は相生市歌を作詞した。 高校3年生のときに父が謎の自殺をしたので、母の郷里の名古屋に移る。旧制姫路中学校(現 兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制姫路高等学校から名古屋大学文学部仏文学科を卒業。 松竹の助監督応募に募集し、筆記試験では高得点をとるが、身体検査でおとされる。
木俣 和夫(きまた かずお、1930年11月23日 - )は… 木俣 和夫(きまた かずお、1930年11月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。青年期に手がけた連続テレビ映画『海底人8823』(1960年)、『快獣ブースカ』(1967年)、『炎の青春』(1969年)、『チビラくん』(1970年)等の監督として知られる。 1930年(昭和5年)11月23日、静岡県浜松市に生まれる。 学歴等は不明であるが、第二次世界大戦後に大映東京撮影所に入社、助監督を経て、1959年(昭和34年)3月7日、満28歳のときに同社が製作して放映を開始した連続テレビ映画『海の非常線』で監督に昇進する。同社のテレビ映画製作セクションは「テレビ製作室」といい、前1958年(昭和33年)10月に発足している。
黒木 和雄(くろき かずお、1930年11月10日 - 20… 黒木 和雄(くろき かずお、1930年11月10日 - 2006年4月12日 )は、日本の映画監督。代表作に『竜馬暗殺』『祭りの準備』『TOMORROW 明日』などがある。 母親の実家・三重県松阪市生まれ。兵庫県神戸市、宮崎県飯野町(現えびの市)を経て、5歳のときに父の仕事先満州に家族と渡り、少年時代は満州で育つ。1942年日本に戻り、中学から祖父母の住む宮崎県えびの市で育った。宮崎県立小林中学校(旧制)、宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校卒業。高校時代の恩師の勧めで同志社大学法学部に進学。卒業後、岩波映画製作所へ入社。1958年の『東芝の電気車輛』で監督デビュー。その後も主にPR映画を監督するが、火力発電所の宣伝映画でありながら前衛的な表現に訴えた『海壁』(1959年)や『ルポルタージュ 炎』(1960年)、アラン・レネ監督の影響を受けた北海道のPR映画『わが愛 北海道』が異色のドキュメンタリーとして注目される。
荒井 岱志(あらい たいし、1930年11月2日 - 200… 荒井 岱志(あらい たいし、1930年11月2日 - 2009年12月14日)は日本の映画監督。テレビの時代劇を主に活動した。 大阪府大阪市此花区出身。子供の頃は映画よりもスポーツが好きな少年だった。甲子園球場に阪神・巨人戦を観に行った時に甲子園で映画の撮影が行われており、現場にいた映画プロデューサーの杉山茂樹に付いて行って鶴田浩二、笠智衆らにサインをもらって、後日その御礼状を杉山の元に送ったら、当時京都市左京区下加茂にあった松竹京都撮影所に招待され、これが映画界との縁となった。 1949年に立命館大学文学部日本文学科を卒業、1953年に京都映画に入社。最初は録音部に配属。しかし録音の仕事は向いてないと杉山に言ったところ、助監督の仕事を勧められて助監督に転身。
深町 幸男(ふかまち ゆきお、1930年10月26日 - 2… 深町 幸男(ふかまち ゆきお、1930年10月26日 - 2014年6月21日)は、日本のテレビドラマ演出家、舞台監督、映画監督。
須川 栄三(すがわ えいぞう、1930年〈昭和5年〉9月8日… 須川 栄三(すがわ えいぞう、1930年〈昭和5年〉9月8日 - 1998年〈平成10年〉10月2日)は、日本の映画監督、脚本家。代表作に『野獣死すべし』『君も出世ができる』『蛍川』など。 大阪府大阪市西区新町で石綿(アスベスト)製造販売業の家に生まれ、旧制大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)、旧制姫路高等学校(現・神戸大学)を経て、1953年(昭和28年)東京大学経済学部を卒業し、東宝に入社。映画界入りのきっかけは、終戦直後の日本に大量に輸入された外国映画の洗礼を受けたことだった。 助監督時代に執筆したシナリオ『危険な英雄たち』が、1957年に鈴木英夫監督、石原慎太郎主演によるピカレスク(悪漢小説)・ドラマ『危険な英雄』として製作・公開され、シナリオも書ける助監督の有望株として評価を受ける。
内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 19… 内田 栄一(うちだ えいいち、1930年7月31日 - 1994年3月27日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家、脚本家、演出家、映画監督。 岡山県出身。実家は岡山市内の古書店。鎌倉アカデミア中退。 若い頃には安部公房に師事。新日本文学会に入会して小説家としてデビューする。1974年には金子正次らとともに、劇団東京ザットマンを旗揚げするなど、アングラ演劇の活動も盛んに行っていた。 1930年(昭和5年)、岡山市に生まれる。生家は老舗の古書店。1945年、中学三年生のとき、高射砲の弾を作る工場に動員される。岡山大空襲で家を失い、愛媛県などに疎開。15歳の夏に終戦。戦後は、高校に通いながら、詩作と小説執筆に熱中。
深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 200… 深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 2003年1月12日)は、日本の映画監督・脚本家。愛称はサクさん。茨城県緑岡村出身。 6人兄弟姉妹の次男(第5子)として生まれる。茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校、日本大学芸術学部卒業。1953年(昭和28年)に東映へ入社。 1961年(昭和36年)、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち23作品でコンビを組み、ヒットを連発していく。千葉を主演に据え置き演出した『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』、1966年(昭和41年)の『カミカゼ野郎 真昼の決斗』は、『キイハンター』(1968年 - 1973年)の土台となった作品で、『キイハンター』の企画にも関わり、第1,2,157,158,178話を演出した。
梅津 明治郎(うめつ めいじろう、1930年6月5日 - 没… 梅津 明治郎(うめつ めいじろう、1930年6月5日 - 没年不明)は日本の映画監督。 1930年に佐賀県で生まれる。1955年に九州大学大学院を中退後、松竹京都撮影所に入社。 影響を受けた人物に宮島義勇と渡辺邦男がいたが、同僚と師匠を持たないことを申し合わせた。松竹の労働組合京都分会委員長を務めたこともある。 1964年に『忍法破り 必殺』で監督としてデビュー。1965年に松竹大船撮影所へ移り作品を撮り続けていたが、1976年の『狭山事件造花の判決』撮影のために松竹を退社し、フリーとなった。 以後はテレビドキュメンタリー作品の監督がメインとなり、特に滋賀県を舞台にした作品が多く、びわ湖放送の番組であった 「〜近江〜 その歴史と現代」では県内各地の撮影に奔走した。
和田 勉(わだ べん、1930年〈昭和5年〉6月3日 - 2… 和田 勉(わだ べん、1930年〈昭和5年〉6月3日 - 2011年〈平成23年〉1月14日)は、日本の演出家・映画監督で、NHKディレクター、プロデューサー。退局後はタレントとしても活動した。本名は名の読みが「つとむ」。 ワダベンカンパニー代表取締役で、生島企画室(現在のFIRST AGENT)と業務提携していた。 妻は衣装デザイナーのワダ・エミ(2021年没)。 三重県松阪市生まれ、鹿児島県鹿屋市出身。鐘紡勤務だった父・和田義太郎(後に鹿屋市議、鹿屋商工会議所会頭)は転勤が多く、生後半年で松阪から京都府福知山市に移り、小学校就学前に愛知県東春日井郡鷹来村(現・春日井市)(春日井市立鷹来小学校の前身にあたる鷹来尋常高等小学校)、小学校3年生時に福島県信夫郡庭坂村(現・福島市)へ引っ越し、1年半を過ごした。
熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5… 熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、日本の映画監督。妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子。多くの監督作が『キネマ旬報ベスト・テン』に選出され、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)生まれ。田町小学校、県立松本中学校(現長野県松本深志高等学校)、松本高等学校 (旧制)から学制改革により信州大学文理学部卒業。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
堺 勝朗(さかい かつろう、1930年3月27日 - 201… 堺 勝朗(さかい かつろう、1930年3月27日 - 2012年12月10日)は、日本の元俳優、元映画監督である。初期には本名の坂井 勝利(さかい かつとし)で活動した時代もある。坂井 勝朗、堺 克郎といった表記も初期にはあった。軽演劇と独立系成人映画における喜劇俳優として知られる。 1930年(昭和5年)3月27日、埼玉県北足立郡川口町(現在の同県川口市)に生まれる。堺が3歳を迎えた1933年(昭和8年)4月1日に同地域は川口市になった。幼少時に両親と死別し、『ザ・ロケーション』の津田一郎によれば、堺は「強い姉に育てられた」と述懐したという。 第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月、旧制・川口市立川口中学校(1951年県に移管されて埼玉県立川口高等学校)に進学したが、中途退学した。
窪川 健造(くぼかわ けんぞう、1930年2月10日 - 2… 窪川 健造(くぼかわ けんぞう、1930年2月10日 - 2015年8月6日)は、日本の映画監督。主にテレビドラマの演出として活躍した。 1930年に文芸評論家の窪川鶴次郎と作家の佐多稲子の長男として生まれる。1953年、東京大学仏文学科卒。近代映画協会にて吉村公三郎、新藤兼人両氏に師事。『原爆の子』(1952年)に助監督として参加する。映画監督デビューは松川事件の被告の家族を描いた『手をつないで』(1960年)。専らフリーの立場でテレビ映画の監督として従事。テレビドラマ『チャコとケンちゃん』『木枯し紋次郎』『鉄平と順子』『放浪記』『剣客商売』などの演出を手掛けた。1978年放送の東海テレビ製作フジテレビ系ドラマ『雪山讃歌・ある青春〜立てた!滑れた!』で第1回赤十字映画祭テレビ映画部門最優秀賞。
西村 昭五郎(にしむら しょうごろう、1930年1月18日 … 西村 昭五郎(にしむら しょうごろう、1930年1月18日 - 2017年8月1日)は、日本の映画監督。 滋賀県出身。1954年、京都大学文学部仏文科を卒業後、従兄の吉村公三郎監督の紹介で、映画製作を再開した日活に入社。中平康を始めとする監督の下で助監督を務めたのち、1963年の『競輪上人行状記』で監督デビュー。末期の日活アクションや青春映画の演出に携わるが、ヒット作に恵まれず、1960年代終盤からは『大江戸捜査網』などのテレビ路線の演出に回された。それでもロマンポルノ開始以前に14本の映画を監督しており、これは同路線に参加した監督としては長谷部安春の17本に次ぐ数字である。ただし、長谷部は1本だけ撮った後は4年もブランクが空くなどロマンポルノには熱心ではなく、やがて他社の一般映画へと転じていった。
山下 耕作(やました こうさく、1930年〈昭和5年〉1月1… 山下 耕作(やました こうさく、1930年〈昭和5年〉1月10日 - 1998年〈平成10年〉12月6日)は、日本の映画監督。時代劇・任侠映画を中心に、テレビ時代劇も演出してきた。愛称は同姓の軍人・山下奉文にちなんで「将軍」。両者に縁戚関係はない。長男は映画監督の山下耕一郎、次男はテレビドラマの監督でテレビ映画制作会社「京都組」代表取締役の山下智彦。 鹿児島県阿久根市出身。鹿児島県出水高等学校・京都大学法学部卒業。京都大学卒業後、東映の入社試験を受け成績トップ。しかし当時の東映に入社する社員は何らかの縁故がなければ入れず、しかも山下は全学連くずれであることから東映の重役連中は不採用にしようとした。
小西 通雄(こにし みちお、1930年1月1日 - )は、日… 小西 通雄(こにし みちお、1930年1月1日 - )は、日本の映画監督・演出家。岡山県備前市出身。東映製作の作品を中心に、数多くの映像作品に携わった。 旧制岡山二中に在学中陸軍航空士官学校に合格、軍事教練では「秀」の好成績を収めていた。その後岡山空襲での被災を経て終戦を迎える。 1954年3月、1年間の留年(しかも大手広告代理店に一度就職する)を経て、同志社大学文学部社会学科新聞学専攻を卒業。大学の同級生には、後に自身が演出する 『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』『Gメン'75』にレギュラー出演していた藤木悠がいた。 当初は新聞記者を志したが、映画好きもあって(きっかけは黒澤明監督作品『酔いどれ天使』だという)東映を受験し、1954年4月に東映に入社。
藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023… 藤浦 敦(ふじうら あつし、1930年1月1日 - 2023年5月28日)は、日本の映画監督・プロデューサー、脚本家、落語作家。 東京都港区赤坂出身で、実家は青果問屋の家系。先々代藤浦周吉(三周)が初代三遊亭圓朝一門を経済的に支援した縁から「圓朝」の名跡を預かることになり、「三遊派宗家」を名乗る。 祖父は藤浦周吉(三周)、父は東京市会議員も務め東京中央青果株式会社(現在の東京シティ青果株式会社)の初代社長で三遊亭圓朝関連の著書も多数出版した藤浦富太郎。 1952年早稲田大学政治経済学部卒業後、同大学大学院国文科を中退し、読売新聞記者を経て、1954年、日活入社。助監督となり、伊藤大輔監督を師と仰ぐ。
稲垣 俊(いながき しゅん、1929年12月10日 - )は… 稲垣 俊(いながき しゅん、1929年12月10日 - )は日本の映画監督、脚本家。本名は稲垣公一。東京都出身。 1954年に東京大学文学部社会学科を卒業と同時に松竹大船撮影所演出部に入社し助監督として小林正樹監督につく。1966年に松竹と契約し1967年からフリーとなり稲垣俊のペンネームで活躍。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
池広 一夫(いけひろ かずお、1929年10月25日 - 2… 池広 一夫(いけひろ かずお、1929年10月25日 - 2025年10月15日)は、日本の映画監督。脚本家の石松愛弘は義弟。 東京府(現東京都)出身。父親は大映の重役で 製作部長・大阪支社長・東京撮影所所長などを歴任した池広利夫。東京都立千歳中学校(のちの東京都立千歳高等学校)卒業。幼少時から撮影所の近くで育ったこともあり、小学生時代には子役としての活動もしていた。立教大学経済学部在学中は「映画研究会」に属する。映画監督を志し、父親の反対を押し切り、レッドパージで加藤泰らを解雇した影響から臨時の助監督を募集していた大映京都撮影所の入社試験を受験。1950年10月付で同社に入社。同期には土井茂、黒田義之、井上昭らがいる。
村野 鐵太郎(むらの てつたろう、1929年8月18日 - … 村野 鐵太郎(むらの てつたろう、1929年8月18日 - 2020年7月)は、日本の映画監督。 鹿児島県鹿児島市大黒町出身。東京商船大学を受験する予定だったが、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』を観た影響で、早稲田大学に入学。同期には篠田正浩、和田勉がいた。 大学を卒業後大映に入社、最初は東京撮影所企画部に所属、助監督部に移籍すると溝口健二、増村保造などの作品を担当、1960年には『青い嵐』で監督デビュー。『闇を裂く一発』を監督したのを最後に大映を離れた。その後は石原裕次郎主演の『富士山頂』を監督した。 1979年には『月山』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、アカデミー外国語映画賞日本代表になった。
工藤 栄一(くどう えいいち、1929年7月17日 - 20… 工藤 栄一(くどう えいいち、1929年7月17日 - 2000年9月23日)は、日本の映画監督である。本名は同じ。北海道苫小牧市出身。 沼ノ端の商家に生まれ、8人兄弟の長男。弟にはニッセイバックステージ賞を受賞した舞台大道具背景制作者の工藤和夫、フィールドホッケーメキシコシティ五輪日本代表の工藤明朗、家業を継ぎ苫小牧で画家としても活動する工藤裕司がいる。 北海道庁立苫小牧中学校から慶應義塾大学予科を経て1952年、同大学法学部を卒業。同年4月、東映に入社。最初は本社の企画部を経て、1954年、京都撮影所に転属、同撮影所製作部助監督となる。 1959年9月、『富嶽秘帖』で監督に昇進。以後、時代劇黄金時代の東映で、数多くのチャンバラ活劇を手がけた。
榛葉 豊明(しば とよあき、1929年7月15日 - 200… 榛葉 豊明(しば とよあき、1929年7月15日 - 2009年7月19日)は日本の映画監督で、記録映画、教育映画、科学映画などを手掛けた。岩波映画製作所(現在は解散)に所属し、科学的、論理的な視点に基づく緻密なシナリオと演出で、ドキュメンタリーのジャンルで数々の賞を受賞した。 1952年、大阪大学理学部卒。大学時代は、理論物理学研究者で後年日本学術会議の会長になる伏見康治教授の門下生だった。大学卒業後、まだ創立間もなかった東京の岩波映画製作所に入社。この年、同社は社員募集をしていなかったが、応対した役員の前で「私を採用しなかったら、後悔しますよ」と啖呵を切ったのが認められ、採用が決まった。その後助監督を経て記録映画の監督に。
高橋 治(たかはし おさむ、1929年5月23日 - 201… 高橋 治(たかはし おさむ、1929年5月23日 - 2015年6月13日)は、千葉県千葉市出身の小説家、劇作家、映画監督。 刑事ものである「神崎省吾シリーズ」は2時間ドラマの原作として度々映像化されている。 「さすらい波太郎」シリーズなどの釣りに関する小説も多く、また環境や釣り人のマナーについての辛口のコメントも発表し続けている。 また、好角家としても知られ、1990年から2012年まで本場所中には中日スポーツ・東京中日スポーツに観戦記「私は見た!」を連載していた。その中で高橋は近年の力士の大型化を憂い、技能に優れた力士の登場を願うような記述が多い。また、朝青龍の素行にも批判的な立場を取っている。
太田昭和(おおたしょうわ、1929年5月12日 - )は、日… 太田昭和(おおたしょうわ、1929年5月12日 - )は、日本の映画監督・演出家・脚本家。 1929年福岡県に生まれる。京都大学に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった土井茂と松尾昭典がいた。1954年京都大学を卒業後、大映京都撮影所に入社。監督のみならず演出・企画・脚本など多方面の仕事をこなした。時代劇の撮影現場に幅広く精通しているからこそ、通り一遍で撮影されがちな作品群に苦言を呈している。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
井川 徳道(いかわ のりみち、1929年3月20日 - 20… 井川 徳道(いかわ のりみち、1929年3月20日 - 2024年5月16日)は、日本の映画美術監督。京都府京都市出身。 京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)デザイン科を卒業後、52年に綜芸プロ、近代映画協会美術の美術助手を経て、54年に東映京都撮影所と契約。58年に沢島忠監督の『江戸の名物男 一心太助』で初めて美術監督となる。以来、東映を中心に約135本の劇場用映画に携わった。後に東映美術センターに所属。さらに 大阪芸術大学映像学科非常勤講師、客員教授など後進の指導に従事してきた。 2003年に旭日小綬章受賞、2011年に京都府文化功労章受賞。 2024年5月16日、老衰のため死去。
森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7… 森川 時久(もりかわ ときひさ、1929年(昭和4年)3月7日 - 2022年(令和4年)8月28日)は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家。立教大学卒業。 立教大学卒業後、文化放送に就職。1959年にフジテレビのディレクターになり、社会派ドラマを多く手がける。1967年、人気ドラマ『若者たち』の劇場版で映画監督デビュー。その後はフリーランスとして活動した。 2022年8月28日、消化管出血のため死去。93歳没。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
佐藤 肇(さとう はじめ、男性、1929年〈昭和4年〉3月3… 佐藤 肇(さとう はじめ、男性、1929年〈昭和4年〉3月3日 - 1995年〈平成7年〉5月10日)は、日本の映画監督。埼玉県出身。 1945年に福岡中学から満州医科大学予科に進むも、敗戦により帰国し、1947年に慶應義塾大学経済学部に進み、1952年(昭和27年)に卒業と同時に東映に入社。1960年(昭和35年)に『十七歳の逆襲 俺は昨日の俺じゃない』で監督デビュー。1960年代 - 1970年代に、怪奇・SF・アクション作品を多数手がける。 1966年(昭和41年)のSF映画『海底大戦争』や1968年(昭和43年)に発表したSFホラー『吸血鬼ゴケミドロ』は、海外でもクエンティン・タランティーノなどファンが多く、人気を博している。
西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 20… 西原 儀一(にしはら ぎいち、1929年2月28日 - 2009年8月16日)は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサー、俳優。別名義に関谷四郎、千葉隆志などがある。 1960年代から1970年代にかけて制作された、葵映画での低予算、扇情主義のピンク映画で知られる。「日本で最も低俗な映画作家」、「ヤクザ映画ファンの間でカルト的人気者」と呼ばれた。 1929年2月28日大阪府大阪市に生まれ、愛媛県新居浜市で育つ。1945年に野口拳闘クラブに入門。プロボクサーとして活躍し、1946年には日本フェザー級西日本チャンピオンになる。1947年の佐伯幸三監督の大映映画『鉄拳の街』でボクサー役を演じたこのことがきっかけで1949年大映東京撮影所の助監督試験を受けて合格。
五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年(昭和4年)2月26日… 五社 英雄(ごしゃ ひでお、1929年(昭和4年)2月26日 - 1992年(平成4年)8月30日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家。本名の読みは「ごしゃ えいゆう」。明治大学商学部卒業。ニッポン放送プロデューサー、フジテレビ映画部長、五社プロダクション社長を務めた。テレビ業界出身の映画監督第1号である。 時代劇の殺陣において、竹光でなくジュラルミンの刀身を採用して俳優の迫真の演技を引き出し、刀と刀がぶつかる際の金属音や、人が斬られる時の効果音を音響スタッフと共に独自に開発したことで知られる。アウトローを主人公にした作品を一貫して手がけ、滅びに向かって走る人間の情念のきしみや美学を描くことを信条としていたその代表作には、『三匹の侍』、『御用金』、『人斬り』、『雲霧仁左衛門』、『鬼龍院花子の生涯』、『極道の妻たち』などがあり、丹波哲郎、仲代達矢、平幹二朗、安藤昇、夏八木勲、夏目雅子、岩下志麻、かたせ梨乃、名取裕子らの新たな魅力を引き出した。