斎藤 耕一(さいとう こういち、1929年2月3日 - 20… 斎藤 耕一(さいとう こういち、1929年2月3日 - 2009年11月28日)は、日本の映画監督、写真家、スチルカメラマン。 東京府八王子市に生まれる。立教大学中退後、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)に入学する。卒業後、1949年、太泉映画(現・東映東京撮影所)にスチルカメラマンとして入社し、今井正の『ひめゆりの塔』で「キネマ旬報スチールコンテスト」で1位入賞する。 1954年、日活に引き抜かれ、中平康、今村昌平、市川崑など多くの作品のスチルを担当した。その他には中平康の『月曜日のユカ』などの脚本も手がけている。 しかし次第に自身のイメージと作品とのあまりのずれに失望し、1967年、私財を投じて「斎藤プロダクション」を設立する。
唐 順棋(とう じゅんき、1929年1月16日 - )は、日… 唐 順棋(とう じゅんき、1929年1月16日 - )は、日本の映画監督である。神奈川県横浜市生まれ、国籍は中華人民共和国である。日本名唐沢 二郎(からさわ じろう)、別名早坂 紘(はやさか こう)あるいは早坂 絋清(はやさか こうせい)の名でも活動した。「早坂絋」「早坂絃」「早坂宏」と記されることもある。おもにテレビ映画において「唐順棋」、劇場用映画において「唐沢二郎」「早坂紘」を使い分けた。連続テレビ映画『水滸伝』、『西遊記』では時代考証を手がけた。 1929年(昭和4年)1月16日、神奈川県横浜市中区元町に生まれる。『日本映画監督全集』によれば、本籍は中華人民共和国上海市延安東路(中国語版)にあるといい、同国は1949年(昭和24年)10月1日に建国されており、同書の記述が正しければ同国建国以降のものであり、唐の誕生の時点では同地は中華民国に属していた。
井上 章(いのうえ あきら、1929年〈昭和4年〉 - 20… 井上 章(いのうえ あきら、1929年〈昭和4年〉 - 2017年9月30日)は、日本の映画美術監督、造形家。 東京都出身。子供の時に、米国RKOの特撮映画『キング・コング』を観て、夢に見るほど強烈な印象を受ける。しばらくして雑誌で『キング・コング』の紹介があり、スクリーン・プロセスの技法の特集を見て、映画の道を選ぶ。 1945年(昭和20年)、山口県萩中学校(現:山口県立萩高等学校)3年の折に日本の敗戦を経て、旧制山口高校で演劇の舞台装置を志す。1953年(昭和28年)、映画会社大映に入社。大映東京撮影所で、主に下河原友雄の美術助手を務める。1959年(昭和34年)、『氷壁』(増村保造監督)で美術助手。
井上 昭(いのうえ あきら、1928年12月10日 - 20… 井上 昭(いのうえ あきら、1928年12月10日 - 2022年1月9日)は、日本の映画監督。京都府出身。京都商業学校を経て、同志社大学文学部英文科卒業。 1950年、大映京都撮影所に入社、助監督となる。同期には土井茂、黒田義之、池広一夫らがいる。 助監督として溝口健二、森一生、吉村公三郎らについた。井上は森から映画を撮るテクニックを、溝口から「形而上学的な情念の世界」を学んだと述べている。1960年に『幽霊小判』で監督としてデビュー。井上によるとこの作品は『悪魔のような女』を時代劇にアレンジしたものだという。監督デビュー以降も『大菩薩峠』、『釈迦』では助監督を務めた。大映在籍中に21本の作品で監督を務めた。
せんぼん よしこ(本名:千本 福子、1928年11月6日 -… せんぼん よしこ(本名:千本 福子、1928年11月6日 - )は、日本のTVディレクター、映画監督。 中国大連生まれ。1953年、早稲田大学文学部芸術科を卒業、日本テレビ入社。 1959年~1962年の「愛の劇場」シリーズで注目される。10年近くのブランクの後、「ああ!この愛なくば」でドラマの演出に復帰。この作品で1980年度芸術祭大賞受賞。1988年、原爆を扱った「明日 ー1945年8月8日・長崎」を最後に退社、フリーに。 代表作に「縁」「てんつくてん」「はいから鯉さん」「母たることは地獄のごとく」「山を走る女」「好き?」など。 2006年、3年の歳月を費やして初監督映画「赤い鯨と白い蛇」を完成させ、モントリオール国際映画祭新人監督部門に出品。
松尾 昭典(まつお あきのり、1928年11月5日 - 20… 松尾 昭典(まつお あきのり、1928年11月5日 - 2010年7月12日)は、日本の映画監督。 大阪府大阪市東区(現・中央区)伏見町出身。3歳年下の弟は、宝塚歌劇団の演出家である柴田侑宏。 京都大学文学部に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった土井茂と太田昭和がいた。大学を卒業後、松竹京都撮影所に入社、松田定次らに師事した。その後、映画製作を再開した日活に移籍。同期の蔵原惟繕、神代辰巳も松尾と同じく日活へ後に移籍している。 川島雄三、中平康、蔵原惟繕の助監督を務め、1958年に二谷英明主演の『未練の波止場』で監督デビューした。 日本映画の黄金時代に活躍し、石原裕次郎主演の『清水の暴れん坊』『男が命を賭ける時』、吉永小百合主演の『風と樹と空と』などや高橋英樹主演の『霧の夜の男』『男の紋章シリーズ』に代表される任侠映画も監督、また石原裕次郎主演の『紅の翼』をはじめ、脚本作品も何本か執筆していた。
羽仁 進(はに すすむ、1928年〈昭和3年〉10月10日 … 羽仁 進(はに すすむ、1928年〈昭和3年〉10月10日 - )は、日本の映画監督。父は歴史家で参議院議員を務めた羽仁五郎、母は婦人運動家の羽仁説子。母方の祖父母は自由学園創立者の羽仁吉一と羽仁もと子、父方の祖父は第四十銀行創立者の森宗作。妹に音楽教育家の羽仁協子。 祖母の羽仁もと子が創立した自由学園を1947年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年、岩波映画製作所の設立に加わる。最初は岩波写真文庫の編集などに携わり、1952年に厚生省(現・厚生労働省)がスポンサーとなった『生活と水』で監督デビューする。 1955年に公開された記録映画『教室の子供たち』は、授業中の子どもたちの姿をいきいきと活写し、教育映画祭最高賞を受賞するなど絶賛された。
姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 20… 姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 2013年7月29日)は、日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者。株式会社民族文化映像研究所(民映研)名誉所長。特定非営利活動法人「地球ことば村・世界言語博物館」顧問。 中央大学経済学部名誉教授で中国近現代史研究者の姫田光義は弟。長男はフルート演奏家の姫田大。次男の姫田蘭はミュージシャン、プロデューサー、民族文化映像研究所ブログ「民映研ジャーナル」担当。 兵庫県神戸市和田岬(現在は兵庫区内)に生まれる。父はガス会社の工員であった。兄や姉は高等小学校どまりであったが、国鉄(当時は鉄道省)で働いていた9歳年上の兄の援助で、1941年に兵庫県立第四神戸中学校(兵庫県立星陵高等学校の前身校の一つ)に進学。
太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988… 太田 浩兒(おおた こうじ、1928年8月8日 - 1988年10月13日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家である。 1928年(昭和3年)8月8日、神奈川県横浜市に生まれる。 東京市大森区調布嶺町(現在の東京都大田区鵜の木)の旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して旧制・東京高等師範学校に進学、同校は1949年(昭和24年)5月に設立された新制・東京教育大学(現在の筑波大学の母体)に包括されたため、同学哲学科に在籍、1953年(昭和28年)3月に同学を卒業した。「好きな映画で生活していこう」と考え、同年4月2日、定期採用第2期生として東映に入社した。企画本部に配属され、東京撮影所演出部に配転された。
矢島 信男(やじま のぶお、1928年〈昭和3年〉7月24日… 矢島 信男(やじま のぶお、1928年〈昭和3年〉7月24日 - 2019年〈令和元年〉11月28日)は、日本の特撮監督。埼玉県大宮市(現:さいたま市)出身。特撮研究所創業者。 幼少期から映画を愛好し、ジョン・フォード監督の『ハリケーン』(1937年)を観たことから特殊技術にも興味を持ち始め、中学生のころには映画を作ることを志していた。 1949年(昭和24年)に東京物理学校(現:東京理科大学)理化学科を中退し、松竹へと入社。大船撮影所に配属される。新入当時は編集から現像、直営館(浅草松竹)の窓口で切符のモギリに到るまで興行の流れを一通り体験したことが、後々のコスト感覚に優れた演出への貴重な礎となっていく。
白鳥 信一(しらとり しんいち、1928年6月28日 - 2… 白鳥 信一(しらとり しんいち、1928年6月28日 - 2001年8月22日)は日本の映画監督である。妻はスクリプターの白鳥あかね。 1928年6月28日、東京市本郷区に生まれる。仙台第一中学校、第二高等学校を経て1952年、東京大学文学部国文科を卒業。1954年、制作を再開した日活撮影所助監督部に入り、再開第一作『国定忠治』にサード助監督としてつく。以後、川島雄三、井上梅次、堀池清、西河克己の下で働く。とくに西河克己監督作品には『伊豆の踊子』『赤い蕾と白い花』など多数つき『何処へ』では挿入歌「こいちや節」の作詞まで手掛けた。1966年からは日活製作のテレビドラマを多数演出。この間、日活がロマンポルノに路線を転向したため、劇場映画の監督デビューは1973年の『団地妻 女の匂い』となった。
大洲 斉(おおず ひとし、1928年5月15日 - 1991… 大洲 斉(おおず ひとし、1928年5月15日 - 1991年4月11日)は山口県大島郡久賀町出身の映像監督である。大洲齊名義の作品も多数ある。 龍谷大学文学部卒業後、大映京都撮影所で助監督として働き始める。1971年の大映倒産後、映像京都に属してテレビ時代劇を主に監督した。監督した初監督作品にして唯一の映画作品、松田優作主演の『ひとごろし』で京都映画祭新人監督賞を受賞した。 主なテレビ時代劇監督作品は『木枯し紋次郎』シリーズ、『江戸の旋風 』シリーズ、また『破れ傘刀舟悪人狩り』以降、『長崎犯科帳』、『子連れ狼』、『赤穂浪士』などの萬屋錦之介主演時代劇を多く監督した。
坪島 孝(つぼしま たかし、1928年4月13日 - 200… 坪島 孝(つぼしま たかし、1928年4月13日 - 2007年8月12日 )は、日本の映画監督。広島県東広島市出身。 1952年に早稲田大学第一商学部を卒業。大学在学中には邦画・洋画問わず、あらゆる映画を鑑賞し、映画監督を志して、大学卒業と同時に東宝に入社。しかし、この頃の東宝は東宝争議の影響で助監督の正式採用を中止していたため、演技事務(俳優への手当ての配当などを行う係)へと配属された。 3年間の演技事務を経て、1955年に助監督となり、山本嘉次郎、千葉泰樹、福田純らに師事。1963年、夏木陽介・星由里子主演の『写真記者物語 瞬間に命を賭けろ』で監督に昇進する。監督第2作目で、いきなり当時東宝のドル箱番組だったクレージー・キャッツ主演の『クレージー作戦 くたばれ!無責任』を任され、以降、東宝のクレージー映画において古澤憲吾と共にメイン監督として活躍する。
松森 健(まつもり たけし、1928年4月12日 - 201… 松森 健(まつもり たけし、1928年4月12日 - 2016年12月)は、日本の映画監督。神奈川県出身。 1945年に旧制神奈川県立横須賀中学校から海軍経理学校に進学するも終戦。1951年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、東宝に入社。監督部に配属され、谷口千吉、松林宗恵、岡本喜八、本多猪四郎、松山善三らの助監督を務める。 1965年、テレビドラマ『青春とはなんだ』で監督に昇進。本作ではメイン監督を務め、翌1966年には、東宝製作の青春映画『これが青春だ!』で劇場用映画デビューを果たす。以降、映画と並行して、青春もの、刑事もの、時代劇など、テレビドラマを多数演出した。
黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年〈昭和3年〉3月4日… 黒田 義之(くろだ よしゆき、1928年〈昭和3年〉3月4日 - 2015年〈平成27年〉1月22日)は、日本の映画監督、特撮監督。 1928年(昭和3年)、愛媛県松山市生まれ。京都市立太秦小学校の同級生には、森田富士郎がいた。子供の頃、映画の子役を務めていた関係で、京都太秦にあった新興キネマ撮影所や、片岡千恵蔵が主宰した千恵プロの映画作品に多数出演した。 立命館大学理工学部数学科卒業。この時は子役時代の経験もあって「撮影所には入らないで、教員になろう」と思っていたことから、しばらく京都府立嵯峨野高等学校(当時は女学校だった)で数学教師を務めた。 1950年(昭和25年)、レッドパージの影響で大映京都撮影所の助監督が7人も退社して急遽助監督を募集していたこともあり、また叔父が伊藤大輔と稲垣浩で、また父親が映画会社大映で製作主任を務め、母親の弟がカメラマンの牧浦地志であるということもあって、大映の入社試験を受け合格。
土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5… 土井 茂(どい しげる、1928年2月5日 - 2013年5月29日 )は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家である。広島県府中市府中町出身。 第六高等学校を経て1951年、京都大学経済学部卒業。京都大学に入学後、映画部に所属する。同部員の同僚に映画監督となった松尾昭典と太田昭和がいた。映画好きが高じ、大映京都撮影所の助監督募集に合格し入社。助監督として溝口健二監督の『新・平家物語』(1955年)や木村恵吾監督の『初春狸御殿』(1959年)などの作品に参加。さらに監督として2本の映画に参加するが、映画の衰退でテレビ映画の演出家に転じる。以降、『東京警備指令 ザ・ガードマン』(1965年 - 1971年)、『赤い疑惑』(1975年 - 1976年)、『赤い衝撃』(1976年)、『夜明けの刑事』(1976年)、『噂の刑事トミーとマツ』(1979年 - 1981年)、『少女に何が起ったか』(1985年)など、大映テレビの名作のほとんどを手がけた。
長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 19… 長野 卓 (ながの たかし、1927年12月22日 - 1998年4月4日)は日本の映画監督、脚本家。 静岡県浜松市生まれ。1947年に日本大学を卒業。1950年、東宝で助監督を務め、映画監督に就任した。1960年代と1970年代に多くのテレビシリーズを監督した。 1998年4月4日、東京都で肺梗塞のため死去。 ※のみ監督、他は助監督
佐伯 孚治(さえき たかはる、1927年12月15日 - 2… 佐伯 孚治(さえき たかはる、1927年12月15日 - 2018年1月13日)は、日本の映画監督、演出家。 東京府東京市本郷区西片町(現在の文京区西片)出身。旧制・開成中学校から旧制第四高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒業。1954年に東映入社。東映東京撮影所の助監督として田坂具隆に師事し、1964年に『どろ犬』で監督デビューする。しかし1965年、労働争議に参加していた佐伯は社長大川博の逆鱗に触れ、テレビ映画製作専門の別会社・東映東京制作所に異動した。その後、数人のスタッフとともに「目黒PR分室」に配属となり、実質的に現場で仕事が出来ない状態になっていた。 1966年、佐伯の置かれた状況を心配した同期の脚本家・鈴木尚之の計らいもあって、『渥美清の泣いてたまるか』(製作国際放映)を監督。
森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2… 森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2014年6月11日)は、日本の撮影技師、撮影監督、特撮監督。 1927年(昭和2年)、京都府葛野郡太秦村(現在の京都市右京区太秦)の出身。映画監督の黒田義之とは京都市立太秦小学校の同級生だった。1945年(昭和20年)、京都市立第一工業学校卒業。 1947年(昭和22年)、大映京都撮影所撮影部に戦後第一号入所。撮影助手として相坂操一キャメラマンに師事。当時、敗戦後の復員によって、京都撮影所は撮影助手だけで総勢40人の大所帯だった。相坂の他、杉山公平、宮川一夫の撮影助手も多数務めた。 1949年(昭和24年)、『幽霊列車』(野淵昶監督)、『透明人間現わる』(安達伸生監督)で円谷英二の特撮助手を務め、これが円谷との出会いとなる。
長谷 和夫(はせ かずお、1927年11月21日 - 没年不… 長谷 和夫(はせ かずお、1927年11月21日 - 没年不明)は、日本の映画監督。 東京市出身。1951年法政大学文学部卒業、52年松竹京都撮影所監督部入所、助監督として酒井辰雄、大曾根辰夫につき、溝口健二の教えを受ける。『海猫が飛んで』などのシナリオを執筆。64年松竹大船に移り、65年監督昇進。『その口紅が憎い』でデビュー。倍賞千恵子、三田佳子ら主演の映画を監督したあと、『戦いすんで日が暮れて』など松竹製作のテレビ映画中心に移行、『必殺仕掛人』『科学捜査官』『甘ったれるな』などを演出。76年フリーとなり、テレビのシリーズもの、2時間ドラマを手がけ、『無人霊柩車殺人事件』(1980、テレビ朝日)『女弁護士 朝吹里矢子 レイプされた恋人』『どたん場で第三の男』などを演出。
森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 20… 森﨑 東(もりさき あずま、1927年11月19日 - 2020年7月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1927年11月19日、長崎県島原市に生まれる。京都大学法学部を卒業。 1956年、松竹京都撮影所に入社する。 1965年、大船撮影所に移籍し、野村芳太郎監督や山田洋次監督の助監督、脚本を手がける。 1969年、『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。以降、『男はつらいよ フーテンの寅』をはじめとする喜劇を撮り続ける。 1971年、一連の作品により、芸術選奨新人賞を受賞する。 1974年、フリーとなる。 1977年、居酒屋で口論となった学生の伊藤裕一を『黒木太郎の愛と冒険』の脚本製作に誘い、映画監督を目指す青年「伊藤銃一」役としても起用し、制作。
舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日… 舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日 - )は、日本の映画監督、脚本家である。兵庫県神戸市出身。 1944年に兵庫県立第一神戸中学校(現:県立神戸高校)から、新居浜工業専門学校(現:愛媛大学工学部)に進学するも、1945年7月に同学校が行う軍事教練に反発し[要出典]退学処分になる。その1ヶ月後に終戦を終え、大阪外国語大学ロシア語学科(現:大阪大学外国語学部)。へ入り直す。当時の舛田は、大の軍人嫌いの少年だったという。 大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。大学卒業後は教師になるつもりであったが、名作フランス映画の再上映を観て感動し映画に関心を持つ。映画監督を目指し、大学卒業後に上京。
大槻 義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - 2… 大槻 義一(おおつき よしかず、1927年7月26日 - 2011年12月)は、日本の映画監督。 東京都中野区出身。1951年に松竹大船撮影所に助監督として入社。同期は今村昌平ら8人。同期生で同期会の二十五時グループを結成した。1952年の『カルメン純情す』から木下惠介の木下組の助監督として献身的に働き、1960年の『笛吹川』まで全ての木下作品で助監督を務めた。1962年に『流し雛』で監督デビュー。この初監督作品の脚本は木下が書いている。1963年1月27日に公開されたテレビドラマ『七人の刑事』の映画版の監督を担当した。 1966年に松竹を離れてフリーとなり、以後は1980年代までテレビドラマを監督した。
渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1… 渡辺 祐介(わたなべ ゆうすけ、1927年7月17日 - 1985年10月15日)は、日本の映画監督である。 1927年(昭和2年)7月17日、東京都蒲田に生まれる。東京都立第八中学校(現:東京都立小山台高等学校)を経て、静岡高等学校に入学。一級下の吉行淳之介らと同人雑誌『くたかけ』を発刊し、最初のシナリオを発表する。東京大学文学部美術科に進み、1951年卒業。在学中の1950年、新東宝助監督部に入社。助監督として中川信夫、佐伯幸三、斎藤寅次郎、市川崑、松林宗恵らにつく。1960年、『少女妻・恐るべき十六才』で監督デビュー。翌1961年、東映東京撮影所に移籍。『二匹の牝犬』『悪女』『牝』といった緑魔子主演の"悪女"シリーズを手掛ける。
蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日 - 2… 蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日 - 2002年12月28日)は、日本の映画監督。文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる。 父親は鈴木商店の傍系会社・日沙商会の農業技師で、ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)のゴム園で働いているとき、当地で出生。小学時に日本に戻り東京の田園調布小学校に入学。小学4年のとき、兵庫県神戸市に移り、御影第三小学校に転校。関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生となる。入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃。 戦後復員し、家族の疎開先、徳島県海部郡川上村で農作業をした後、日本大学三島予科に入学、のち日本大学芸術学部映画科に進んだ。
神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 19… 神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)は日本の映画監督。佐賀県出身。
野村 孝(のむら たかし、1927年2月18日 - 2015… 野村 孝(のむら たかし、1927年2月18日 - 2015年5月5日)は、日本の映画監督。大阪府出身。東京大学経済学部卒業。 1955年に日活入社し、1960年の『特捜班5号』で監督デビュー。石原裕次郎主演の『夜霧のブルース』、宍戸錠主演の『拳銃(コルト)は俺のパスポート』など多くのアクション映画を手掛けた。1972年の日活退社後は、テレビのサスペンスドラマを中心に活躍した。 2015年5月5日、肺炎のため死去。88歳没。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
富本 壮吉(とみもと そうきち、1927年1月2日 - 19… 富本 壮吉(とみもと そうきち、1927年1月2日 - 1989年5月27日)は、日本の映画監督、テレビドラマ演出家。 東京市生まれ。陶芸家の富本憲吉と「青鞜」同人の尾竹紅吉(富本一枝)の間に生まれる。都立第十中学校、旧制成城高校を経て、1952年、東京大学文学部仏文学科を卒業後、大映東京撮影所に入社。当初は企画部に所属していたが、翌年には助監督部に転属。溝口健二、伊藤大輔、豊田四郎、成瀬巳喜男、島耕二らの作品の助監督につく。1960年、『暁の翼』で監督に昇格。しかし、折からの邦画の斜陽化のあおりを受け、1968年、大映を退職しフリーに。以降はテレビ映画の演出に専念した。特に1983年、テレビ朝日の『土曜ワイド劇場』の一篇『松本清張の熱い空気』(サブタイトル「家政婦は見た!夫婦の秘密 “焦げた”」)は高い反響を得たため、翌年から『家政婦は見た!』に改題してオリジナルのシリーズとなった。
土居 通芳(どい みちよし、1926年12月9日 - 197… 土居 通芳(どい みちよし、1926年12月9日 - 1975年3月16日)は、日本の映画監督、脚本家である。脚本執筆時のペンネームは北 一郎(きた いちろう)。シャンソン歌手の石井好子は義姉(土居の兄の妻)。仲間内からはツーホーさんの愛称で親しまれた。 1926年(大正15年)12月9日、東京に生まれる。 1948年(昭和23年)、上智大学経済学部を卒業後、新東宝に入社、助監督となる。おもに阿部豊、渡辺邦男に師事し、1954年(昭和29年)チーフ助監督となるかたわら、脚本も執筆する。 1958年(昭和33年)、監督に昇進、高倉みゆき主演の『不如帰』で映画監督としてデビューする。土居は大蔵貢社長の大のお気に入り監督で、デビュー作でいきなりカラー・シネスコ大作の担当となった。
児玉 進(こだま すすむ、1926年(大正15年)10月23… 児玉 進(こだま すすむ、1926年(大正15年)10月23日 - 1987年(昭和62年)1月12日)は、日本の映画監督。 東京府東京市(現・東京都)出身。児玉氏の末裔で、曽祖父は台湾総督や陸軍参謀総長などを務めた児玉源太郎陸軍大将、祖父は貴族院議員、内閣書記官長を務めた兒玉秀雄である。父は秀雄の婿養子児玉忠康、母は秀雄の長女貞子。 1939年(昭和14年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1944年(昭和19年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同期には、星新一(小説家)、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、今村昌平(映画監督)、大野公男(元北海道情報大学学長)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいる。
今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9… 今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。 カンヌ国際映画祭で2度の最高賞を受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めていた。映画監督の長谷川和彦は正社員として所属した。 性格的には家父長志向が強く、そのことは一面では教育者としての顔も持ち合わせ、長谷川和彦を育て、映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。
沢島 忠(さわしま ただし、旧字体:澤島、1926年〈大正1… 沢島 忠(さわしま ただし、旧字体:澤島、1926年〈大正15年〉5月19日 - 2018年〈平成30年〉1月27日)は、日本の映画監督、舞台演出家である。時代劇、ひばり映画、および東映任侠映画の先駆者・巨匠として知られ、舞台演出家としても活躍していた。沢島 正継(読みは同じ)とも。 滋賀県愛知郡(現在の東近江市)に生まれる。八日市中学校(現・滋賀県立八日市高等学校)卒業。1948年(昭和23年)、同志社大学文学部の聴講生となり、同大で教えていた野淵昶監督に師事、野淵の主宰する劇団「エランヴィタール」に参加し、演出助手となる。翌年大学を中退する。1950年(昭和25年)3月、同劇団が解散、俳優の月形龍之介の紹介で東横映画助監督部に入社する。
羽田 澄子(はねだ すみこ、1926年1月3日 - )は、日… 羽田 澄子(はねだ すみこ、1926年1月3日 - )は、日本の映画監督。「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている。 旧満州大連市生まれ。1942年旅順高等女学校卒業。満州から引き揚げ、自由学園女子部高等科卒業後、1950年に恩師羽仁説子の紹介で、岩波書店と資本関係のない関連会社岩波映画製作所に入社し、岩波写真文庫を編集に携わる。 映画シナリオを任され、映画『歯』のシナリオを描いた際に、助監督も試験的に担当。羽仁進監督の下で助監督を務めた後、1957年に『村の婦人学級』(岩波映画)で監督デビューを果たす。 1977年『薄墨の桜』を初めて4年間かけ自主製作する。岩波ホールで他3本と上映の際、総支配人高野悦子がドキュメンタリー映画商業上映での史上初の入場料を取り、無料の慣例を変える。
中平 康(なかひら こう、1926年1月3日 - 1978年… 中平 康(なかひら こう、1926年1月3日 - 1978年9月11日)は、日本の映画監督。香港名は楊樹希(ヤン・スーシー)。父は洋画家の高橋虎之助。娘は作家の中平まみ。 増村保造、岡本喜八、市川崑、鈴木清順らと共にモダン派と称された。代表作に『変奏曲』『混血児リカ』『月曜日のユカ』『狂った果実』などがある。 1926年(大正15年)1月3日、東京府滝野川町に生まれる。父は洋画家の高橋虎之助。一人娘だったバイオリニストの母・俊の中平姓を継ぐ。音楽学校を出た祖母もヴァイオリンを教えていたなどして芸術家になることを奨励されるような家庭で育つ。中学時代より映画に熱中し、好きだったルネ・クレール監督作品など同じ作品を10回くらいずつ繰り返し観るなどして研究を重ねる。
今井 雄五郎(いまい ゆうごろう、1925年11月25日 -… 今井 雄五郎(いまい ゆうごろう、1925年11月25日 - 1996年5月28日)は、日本のテレビドラマ監督。群馬県高崎市(旧・吉井町)出身。日本大学芸術学部卒業。 妻は女優久我美子の妹・ます江/ます江子。
成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年… 成島 東一郎(なるしま とういちろう、1925年〈大正14年〉11月19日 - 1993年〈平成5年〉10月8日)は、日本の撮影監督、映画監督・脚本家。 東京都出身。東京物理学校卒(現在の東京理科大学)。 1947年松竹大船撮影所撮影部に入社、木下惠介、楠田浩之に師事し、日本初のカラー映画1951年『カルメン故郷に帰る』、1958年「楢山節考(共に監督 木下惠介、撮影 楠田浩之)」に撮影助手として参加。1960年に『ろくでなし』(監督 吉田喜重)で撮影技師として独り立ち、吉田喜重・篠田正浩・大島渚ら"松竹ヌーヴェルヴァーグ派"の監督たちの代表作を多く手掛けた。 代表作は『秋津温泉』(監督:吉田喜重)、『古都』『紀ノ川』(監督:中村登)、『心中天網島』(監督:篠田正浩)、『儀式』『戦場のメリークリスマス』(監督:大島渚)など。
鷹森 立一(たかもり りゅういち、1925年(大正14年)1… 鷹森 立一(たかもり りゅういち、1925年(大正14年)10月31日 - 2011年(平成23年)12月21日)は、日本の映画監督。静岡県引佐郡三ケ日町(現在の浜松市浜名区三ヶ日)出身。 旧制静岡県立浜松第二中学校(現在の静岡県立浜松西高等学校)を経て、旧制静岡県立静岡中学校(現在の静岡県立静岡高等学校)卒業後、早稲田大学に進学。文学部芸術専攻科を卒業し、東映に入社。 東映東京撮影所にて助監督 (映画スタッフ)を務める。途中で肺結核に罹患して1年半休職を余儀なくされた時期もあったが、1964年の映画『君たちがいて僕がいた』で映画監督として初演出。以後は千葉真一主演の『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『やくざ刑事シリーズ』、『狼やくざ 殺しは俺がやる』、『ボディガード牙シリーズ』、『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』や、『夜の歌謡シリーズ』(梅宮辰夫主演)などのメガホンを執る。
瀬川 昌治(せがわ まさはる、1925年10月26日 - 2… 瀬川 昌治(せがわ まさはる、1925年10月26日 - 2016年6月20日)は、日本の映画監督、脚本家、舞台演出家。喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督した。 1925年10月26日、東京市神田区神保町(現在の東京都千代田区神田神保町)の官吏の家に生まれる。学習院初等科、中等科に学び、一学年上の三島由紀夫などと交流する。学習院高等科 (旧制)在学中に陸軍船舶兵として応召。終戦後、東京帝国大学(現・東京大学)文学部英文科に入学するが、在学中は野球部のレギュラー外野手として活躍し、東京六大学野球リーグ戦にも出場した(東京大学野球部出身の映画監督としては、他に井坂聡や秋原正俊らがいる)。
岡本愛彦(おかもと よしひこ、1925年10月11日 - 2… 岡本愛彦(おかもと よしひこ、1925年10月11日 - 2004年10月24日)は、日本の映画監督、テレビドラマの演出家、ジャーナリスト。 1925年10月11日に、日本統治時代の朝鮮または鳥取県で生まれる。陸軍士官学校在学中に敗戦を迎え、1946年には日本社会党へ入党。1950年に慶應義塾大学を卒業し、NHK東京放送局に放送記者・社会報道番組ディレクターとして入局。その後、鳥取・東京・大阪と放送局を転々とし、後にテレビドラマを手掛ける様になる。1957年にNHKを退社して、ラジオ東京(KRT、現・東京放送ホールディングス / TBSテレビ)へ入社する。 黎明期のテレビドラマにおいて、社会性のある作品を中心に活躍した演出家である。
市村 泰一(いちむら ひろかず、1925年8月19日 - 1… 市村 泰一(いちむら ひろかず、1925年8月19日 - 1989年3月18日)は、日本の映画監督。 長野県須坂市出身。父は「信濃毎日新聞」の記者。小学校四年まで上田市で過ごしたのち東京府・世田谷に移住、独協中学校をへて1947年上智大学文学部新聞報道科卒業。中学の同級生に藤間紫の弟・藤間勝胤がおり、その関係で15歳の時から大学卒業まで藤間宗家の書生であった。六代目尾上菊五郎に魅せられ歌舞伎研究に没頭、1949年松竹京都撮影所演出部に入る。斎藤寅次郎、大曾根辰保、渡辺邦男、内出好吉などの作品に助監督でついたあと、1961年、川内康範原作、伴淳三郎主演のアクション・コメディ「快人黄色い手袋」で監督デビュー。
岩内 克己(いわうち かつき、1925年8月15日 - )は… 岩内 克己(いわうち かつき、1925年8月15日 - )は、日本の映画監督。若大将シリーズを多く監督した。
小野田 嘉幹(おのだ よしき、1925年7月12日 - )は… 小野田 嘉幹(おのだ よしき、1925年7月12日 - )は、日本の映画監督、脚本家。弟は平田昭彦、妹は音羽美子。妻は三ツ矢歌子(2004年死別)。 1925年(大正14年)7月12日、東京府東京市(現在の東京都)に「小野田正彦」として生まれる。誕生後に朝鮮(現在の大韓民国)に渡り、2年後の1927年(昭和2年)12月16日には京城府(現在のソウル特別市)で弟の昭彦が生まれている。さらに5年後の1932年(昭和7年)7月6日には妹の和子(のちの音羽美子)が生まれている。 東海科学専門学校(現東海大学)卒業後、1947年(昭和22年)に新東宝助監督部に入社した。本名の「小野田正彦」で、黒澤明、稲垣浩、並木鏡太郎、冬島泰三らの作品で助監督を務め、1958年(昭和33年)、富士映画製作、若山富三郎主演の中篇映画『楠公二代誠忠録』で監督としてデビュー、同年、現在の「小野田嘉幹」に改名し、『人喰海女』を監督した。
松野 宏軌(まつの こうき、まつの ひろき 1925年7月9… 松野 宏軌(まつの こうき、まつの ひろき 1925年7月9日 - 没年月日不明)は、日本の映画監督・テレビディレクターである。岡山県都窪郡清音村(現・総社市)の生まれ。本名は松野 博(まつの ひろし)。 1944年、浪速工業高等専門学校を卒業。学生時代から映画好きで、1950年、松竹京都撮影所に入社。演出部に配属され、助監督として伊藤大輔、成瀬巳喜男、野村芳太郎、大曽根辰保に師事。1964年、菊池靖と共同で『続道場破り・問答無用』で監督に昇格。その後『いも侍』シリーズを手がけたが、邦画の斜陽化もあり1973年にフリーに。それと前後してテレビ映画の演出も手がけ始め、『鞍馬天狗』(MBS)、『必殺シリーズ』(ABC)など、主に時代劇を手がけた。
松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 20… 松山 善三(まつやま ぜんぞう、1925年4月3日 - 2016年8月27日)は、映画監督、脚本家。 神戸に生まれ、横浜で育つ。 1944年、横浜第三中学校(現:神奈川県立横浜緑ケ丘高等学校)卒業。中学校の同期生に佐野浅夫(俳優)がいる。その後、岩手医学専門学校(現・岩手医科大学)薬学部に入学するが、1946年中退。雑誌社でアルバイトをしているときに、斎藤良輔門下の脚本家と知り合い、映画に興味を持つ。 1948年、助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社する。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表する。
石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月2… 石川 義寛(いしかわ ぎかん、1925年〈大正14年〉3月23日 - 2024年〈令和6年〉)は、日本の映画監督、脚本家。 静岡県富士宮市出身。日本大学法文学部政治経済学科卒業後、映画界に入る。1957年『怪談かさねが渕』、1958年『毒婦高橋お伝』、『憲兵と幽霊』、『女吸血鬼』、(『亡霊怪猫屋敷』脚本)、1959年『東海道四谷怪談』助監督を経て1960年『怪猫お玉ヶ池』で監督を務める。 2024年死去、99歳。 『酒をたしなみ糖尿病とも闘う 人生は“心”楽しく』健友館 2001年 ISBN 978-4773705782
成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月… 成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月29日 - 2021年(令和3年)2月13日)は、日本の脚本家、映画監督。 長野県上田市原町出身。上田市長をつとめた成沢伍一郎の二男。旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、1941年に松竹京都に入社、溝口健二に師事する。1944年、日本大学芸術学部卒業。 学徒出陣し捕虜生活を経て1945年に復員。1946年、松竹を退社。1952年に溝口にならって大映と契約、溝口の『噂の女』『新・平家物語』『赤線地帯』など、次々と巨匠と組んで名脚本を書き続けた。1962年、『裸体』で監督に転身、5作品を残す。1970年以降は映画から離れ、1975年から1977年にかけてNHK連続人形劇『真田十勇士』(柴田錬三郎原作)を担当。
齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 20… 齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 2011年1月)は日本の映画監督。埼玉県秩父市出身。
齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 20… 齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 2011年)は、日本の映画監督。 埼玉県秩父市出身。1948年早稲田大学文学部卒業後、松竹大船撮影所の脚本養成所に所属した後、助監督として主に小津安二郎に師事する。『晩春』『麦秋』『お茶漬の味』『東京物語』で助監督を務めた。 1954年、先輩の西河克己の勧誘を受け、同期の鈴木清順、中平康と共に日活に移籍。『姉さんのお嫁入り』で監督に昇進した。小津の弟子らしい格調高い文芸映画を撮り続けたが、興行的にはいまいちだった。1959年、小林旭主演の『南国土佐を後にして』が大ヒット。そのヒットをうけて作られた『ギターを持った渡り鳥』も大ヒット。『渡り鳥シリーズ』としてシリーズ化され、全9作品を監督するなど娯楽映画監督としての地位を確立した。
酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4… 酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4月25日)は、日本の映画監督。 京都市北区西白梅町生まれ。酒井米子と俳優の葛木香一の子。1942年京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒、慶応義塾大学法学部に入学、44年、陸軍特別操縦見習士官を志願して合格、熊谷陸軍飛行学校に入学、陸軍航空少尉で敗戦を迎える。慶大に復学するが食料事情が悪く京都に帰り、母の劇団を補佐していたが、49年母の世話で松竹京都撮影所監督部に入る。助監督として溝口健二に師事。58年に監督に昇進。「大盗少盗」で監督デビュー。おもに喜劇を撮った。66年フリーとなる。
井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2… 井上 和男(いのうえ かずお、1924年12月27日 - 2011年6月26日)は、神奈川県小田原市出身の日本の映画監督。 神奈川県小田原市出身。神奈川県立小田原中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)をへて早稲田第一高等学院に入る、1944年3月学徒応召し海軍飛行少尉に任官。1945年8月復員、早稲田大学商学部に入る。在学中に小田原で劇団こゆるぎ座を創立し劇作家を目ざす。 1948年に大学を卒業し、松竹大船撮影所脚本部に入る。新藤兼人に師事し、その勧めで助監督試験を受け、12月に助監督となる(松山善三と同期)。渋谷実、川島雄三、小津安二郎『東京物語』で助監督を務める。 1955年、京都映画『父と子と母と』で監督を務め、1958年松竹大船の監督に昇進する。